「戸締まり」について

 

一九三六年にSSの幹部たちを前に行った演説で、ヒムラーは「我々は皆かつてどこかで既に出会ったことがあり、同様にして来世においても再会するであろう」と述べている。

 

横山茂雄『増補 聖別された肉体: オカルト人種論とナチズム』p207、創元社、2020年)

 

 どうして映画のタイトルに「戸締まり」とつけたのだろうか。

 

 常世と現世の間をつなぐ「後ろ戸」というものがあり、閉じ師は開いた後ろ戸を閉める「代々の家業」らしいのだが、閉じ師は鍵を持っているため、必然的に締める側が外側ということになる。家の戸締まりとは聞くが、会社の戸締まりとか、教室の戸締まりとかはあまり聞かない(おそらくここでより自然に使われるのは「施錠」である。逆に家には「施錠」とはあまり聞かない)。とすると常世  死者の場所、すべての時間がある場所  は家の中であり、現世  生者の場所  が家の外だということになる。かくしてわたしたちは死の家を追われたものとして生き、死ぬことで帰っていくということになった。

 

  生まれて初めて2日連続で同じ映画を見に行ったため、いまわたしの手元には『新海誠本』なる本が2冊もある。表紙をめくると下に「⚠本書は、作品の結末に触れています。ご鑑賞後にお読み下さい。」とあり、表紙には何のエクスキューズもないことから全くお粗末なデザインだと思いつつ律儀に読むのを止め、観てから再び中を覗いたのが1回目の鑑賞ということになり、2回目はもう『新海誠本』を読んだ状態で観たということになった。例えばインタビューが掲載されており、新海誠はこう言っている。

 

 どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。桜が人間社会の混乱とは無関係に咲き続けることと同じように、観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ないんです。それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う回路があるはずと、願い続けるしかありませんね。

 

 ではどうしてこの『新海誠本』なる冊子は、映画館の入り口で、それも鑑賞後ではなく鑑賞前にばら撒かれているのか。作品に放置し得ないほどの致命的な欠陥があり、註釈を付け足さなければならないとか、言い訳とかではないのだろうから、他に理由があると考えるべきだろうが、ここで私は新海誠が「観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ない」と言っており、「コントロールしようとは思わない」とは言っていないということについてどうしても考えてしまう。新海誠は不可能に対して祈り、願い、欲望でもって立ち向かうことを描き続けてきた、すなわち「出来ない」ことに「それでも」と言うことを続けてきたのだから、コントロール出来ないからといってコントロールを諦めることにはならない。1回目の鑑賞の後に、「ジェダイかシスかといえば圧倒的にシス」という感想を抱いた。私は新海誠が、『ハウルの動く城』や『千と千尋の神隠し』を作った宮崎駿よりも、『エヴァンゲリオン』を作った庵野秀明よりも(そしておそらく細田守よりも)、圧倒的に反ヒューマニズム的な場所で揺れていると思う。『すずめの戸締まり』で最も美しく描かれるものは、血、大地、そして死である。

 

 新海誠は言葉を恐れている。おそらく好き勝手気ままに増殖していく言葉であるという理由を含み込んで、観客の感想を恐れてもいる。そして恐れるということはそこに恐れるだけの力があると知っているということになる。今作でモノローグを排した結果どうなったかといえば、一つには台詞が破綻したということであり、さえずるように間投詞を吐き出し続ける鈴芽の台詞は聞くに堪えないし、草太との会話となると彼らが本当に会話をしているのか疑わしく思えてくる。キャラクターが声を発するごとに物語にブレーキが掛かるため、劇伴が壮大になり派手なアクションシーンを観せられても気持ちが画面についていかない。1回目の鑑賞だと序〜中盤で席を立とうかと思ったのだが友達と来ていたので止めた。モノローグは物語世界よりレイヤーが高次になる語りであり、このモノローグによって今まで新海誠は、作品全体を(かろうじて)統御するだけの抒情的な力を得てきたのだが、『すずめの戸締まり』ではその力は使えない。ではどうするのか。

 

 本作の『後ろ戸』は「常世  いわゆる霊界のような場所と繋がってしまったドアとして描いているが、その意味では『君の名は。』『天気の子』と同様に、民俗学的なアイディアを物語の仕掛けとしている。

 

 と書いてあるが実際のところ物語の仕掛け、舞台装置なのはキャラクターの方であり、「主人公」は民俗学的なアイディアの方になる。序盤から詰め込まれる、草太の不親切な説明的台詞によりしろしめされるこの世界の仕組みは映画の最後まで片時も揺らぐことはない。閉じ師は「宗像家」の家業であり、正確な台詞を失念してしまったが、草太の祖父が言うことには「普通の人」の関わるべきことではない。確かに彼は最終的に鈴芽を彼女の意志の向かう方へ送り出したように見えたが、彼女を「普通の人」とするには問題がある。「みみず」は宗像家の面々には見えるが、「普通の人」には見えない。そして当然のことだが鈴芽には「みみず」が見えている。伊予で地震を止めることに成功した鈴芽は束の間、「すごいことをやっている」と高揚する。泊めてくれた同い年の女の子(名前は忘れた。新海誠のキャラクターは名前を覚えておくのが難しいし、多分名前を覚える意味がない)に、自分(たち)が何をしているのかは明かさない。というか、基本的に鈴芽は「普通の人」に何も説明しない。説明を試み始めるのは、おそらくこの映画で唯一「大いなる力」ではなく、友情という人間的な理由で動いているキャラクターである眼鏡の兄さん(信じられないことに今この文章を書いているときにこのキャラクターの名前も忘れている)と出会って以降になる。ここには「選ばれし者」と「普通の人」がおり、その境界線が揺らぐことはない。

 

 そして「選ばれし者」はハウルのように美しい。「イケメン」という程度にしても。出会って幾ばくも経っていないイケメンのためにおそらく本気で死ぬことを「怖くない!」と言い切れる鈴芽がそう言い切れる理由を、後半で鈴芽の口から説明されるように「今まで生きるも死ぬも運だと思ってきた」からだとするには映画を通してみても説得力を持っていない。それは「怖くない!」の本気と釣り合っていない。鈴芽は序盤からそういう人間の顔をしていないし、声もしていないからだ。4歳をして家と母親を失った鈴芽にはいま2つの家があり、母親代わりの叔母がいる家は少なくとも後半までは居心地がすっきり良いというわけではない。もう1つの家、それは草太と戸締まりをしてきた「死の家」である。そこはすべての時間が集まる場所であり、美しく、懐かしい。観覧車の中で常世に魅入られる鈴芽。

 

 閉じ師は鍵を締める際にかつてその土地に生きていた者たちの声を聞くという仕組みになっており、場合によっては当時のビジョンを観ることになる。扉の外で。そのルールが破れるのが最後の常世である。西の要石が扉の外側にあり、東の要石は扉の内側にあった。「被災地」の昔のヴィジョンが見えるのは常世の側である。もちろん最後の扉の内側で、「これが常世……!?」と鈴芽が言っているのだから、常世でない可能性もあるのだが、その後のシーンを見るとどうもちゃんと常世であるように思える。具体的な地名や施設の名前を挙げられないのはもちろん覚えていないからだが、それ以上に最後のこの場所のヴィジョンが他の場所で見たヴィジョンより遥かに土地固有の具体性を欠いているからだ。常世は死者の場所、すべての時間が集まる場所である。つまり我々は扉の外側  死の地点から「被災地」のヴィジョンが広がるのをみており、現世  生の世界は家の内側にあることになる。今までの場所が生の場所から広がっていく死の時空だったのに対し、「被災地」はそもそも死の場所から死の時空が広がっていく。溢れ出る声とヴィジョンを封じ、東の要石の法則(そんなものがあれば)にならえば、最後の「行ってきます」の台詞、そして要石ともども、「被災地」は死の場所に閉じられる。ここには死の複雑な運動があるが、少なくとも言えることは、湧き出した「被災地」の声やヴィジョンは「普通の人」にはまったく届くことのない、縁のない場所に封じられたということであり、要石が解き放たれなければ  すなわち大震災がおこらなければ、これからの死者にとってすらなお縁のないものになったということである。

 

 ソフィーが扉の向こうの世界で、ハウルへ「未来で待ってる」と言った時、それは約束である。約束は今しかすることができない。その台詞が、今としての未来から、あるいは今としての過去から放たれる限りで、それは未来や過去であっても約束である。

 扉の内側で鈴芽が過去の鈴芽  常世はすべての時間が集まる場所なのだから、本当は過去とか未来とかいう言葉を使うのはおそらく適切ではないのだが  に母の椅子を手渡す一連のシークエンス。ここに込められた思いはたしかに美しいのだが、最後の最後で、鈴芽は「必ずそうなる、そうなることに決まっている」という風に言ってしまう。これは約束ではなく、予言である。ここには過去・今・未来という切断的かつ連続的な時間の秩序が乱れることに対する恐れが働いており、過去への予言はこの3つの時間に渡る秩序を確定しようとする営みである。私は新海誠が「コントロール」という言葉を使ったことを思い出している。

 

 そして過去の鈴芽はまた、何度も現世と常世を行き帰りし、椅子を継承し、予言をするだろう。生から死、死から生へと繰り返される運動は、一般には輪廻の名で呼ばれている。

 

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 わたしは先に新海誠が反ヒューマニズム的な場所で「揺れている」と書いた。新海誠が「反ヒューマニストである」とは書いていない。

 

 廃遊園地での戸締まりに成功した後、新海は鈴芽に「怖かった〜〜〜〜」と自然に言わせることが出来た(その直後の椅子=草太の笑い声は相変わらず会話として不自然すぎてゾッとさせられたが)。疎外感を抱えた「選ばれし者」は、旅の中で出会う「普通の人」たちの優しさに触れることが出来た(この点では『天気の子』のほうがよほど深刻だったような記憶がある)。おばとの関係を「大いなる力」の発させる言葉ではなく、人間の言葉で織ることが出来た(全ての過程がそうだったわけではないが)。

 

(前略)この感覚や体力や欲望がまだあるうちに、自分たちの全てを絞りきるような作品を作らなければならない。果たして間に合うのかという焦りや、見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安は、今もあります。でもだからといって、今立ち止まって周囲の顔を見渡すわけにはいきません。

 

 

 新海誠には不安がある。見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安もあるだろうが、それ以上に、わたしは新海誠が自分自身を不安に思っているのではないかという気がしている。1日目に観終わった後、私は観客の何人かは、背中が重くなったのではないかと思った。要するに「憑かれる」んじゃないかということだが、私見では新海誠は霊界やオカルト的なものに対して興味があるだけで感度がある人間ではないように思われる。だが、感度のない人間が作るものが霊的な力を持たないとは限らないのであり、実際わたしは人生で初めて、2日連続で映画館に同じ映画を観に行ったのだから、なにかおかしなことにはなっている。全く予想もしていなかったことだが、わたしが『すずめの戸締まり』に見出した新海誠の位置について、自分もかなり近いところにいるような気がしているからなのだと思う。

 

 廃墟を美しいと思うことや、自然の非人間的な冷徹さを美しいと思うことへ恐れをいだくことはあるだろう。宮崎駿が恐ろしいのは、(もちろん、美の領域に取り掛かる前の段階では悩むかもしれないし、美以外のことも考えるだろうが)彼が美へ向かう際には迷っていないこと、そしてその結果、美の中に美を超えた「なにか」を見せることができるという点にある。美が恐ろしいものであることは自明であり、「なにか」とは微妙に異なる「力」は、善悪の両方を望み引き裂かれる迷いの隙間から浸潤してくる。実際のところ、新海誠は「周囲の顔を見渡す」ことはできるだろうと思うが、本当は「あなたの顔を見つめる」ことができるか、ではないのだろうか。顔を見渡している最中の人間の耳に彼らの言葉は届かないから。迷いが、本当に芯を捉えた迷いなのか、そこから逃げるために誂えたはりぼての迷いなのか、それを見極めなければならないように思う。これはわたしの話。

 

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 49歳の今の僕にはもう『君の名は。』のような映画は作れない。運命の赤い糸のような物語は、今の自分には当時ほどの強度では作ることが出来ません。同時に、『すずめの戸締まり』のような物語は、今でなければ作ることが出来なかった。『君の名は。』の頃の自分には届かない深度(しんど)に、『すずめの戸締まり』はあると思います。『すずめの戸締まり』は、震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。きっと珍しくも特別でもない。でもそれをオリジナルのアニメーション映画として、メジャーな規模で公開されるエンタメの枠組みで作ったということに、今回の僕たちの仕事の意味があるはずだと考えています。

 

 「深度」という言葉を使っているが、今回の新海誠は、「選ばれし者」と「普通の人」を分割し、「地上の世界」と「地下の世界」を交わらないものとして分割した。これは皇居を映したとか「宗像」の問題より遥かに恐ろしい力をもっているので(なぜなら後者は物語世界内の個別的意味にすぎないからであり、新海誠が観客にふるった力は、物語世界全体を統制する意味であるからだ)、「主人公」が(ゆらぎがあるとはいえ)個々のキャラクターではなく設定である理由になる。タブーとは公然の秘密であるからこそ力を持つのだが、「皇居の地下」に対抗的な力を求めるのは、「公然の秘密」に対して「公然」を廃した「秘密」をぶつけて戦うことになるわけであって、それはどちらにしても「力」の領域である。

 

 「震災文学」などという言葉を自分から使うことも気にかかる。震災の前年に生まれ、もうすぐ中学生になる娘にとっては震災は「教科書の中の出来事」だろうと言えていながら、どうして「震災文学」などという全く教科書にお似合いの字面を選択するのだろう。教科書とはもちろん制度の言葉であり、教科書に書かれた歴史から私達が読み取るのは、私達が過去の物事をどのように覚えようとしているかであり、すなわち過去の物事をどのように忘れようとしているかに他ならないというのに。

 

 たしかに震災文学は数多くある。しかし当然のことだが、それは「震災文学」にとどまるものではない。もしも震災が本当に「大したこと」なのだとしたら、震災以降作られた全ての文学は震災文学であるはずであり、どのような作品にも震災の痕跡があるはずである。わざわざ「震災文学」などという名前を作り出した時点で、私達は忘れるための方法に手を付け始めたのだ。それは震災、という名前をつけることさえまだ早い「なにか」を封じるための呪言であり、もちろんその反応自体が一概に否定されるべきものではないにしても(『新海誠本』にはちゃんとフロイトの話が出ている)、「震災文学」、その言葉が何のひっかかりもなく自然に口の端から溢れるのだとしたら、わたしはもうその先から「大したこと」という響きを聞き取ることはないだろう。

 

 わたしたちが精神だけではなく肉体を伴って生まれてくる意味の一つは、わたしたちが生まれながらにして地震計であるということである。全く正当な理念によって整備されたであろう緊急地震速報のシステムがうんだ副作用の一つは、わたしたちが自分自身のことを忘れやすくなったことだ。情報として伝えられるために生み出された「震度」によってわたしたちが揺れを考えるようになったなら、わたしたちはどんどんわたしたちを忘れていくだろう。考えるとは、今まさに揺れがわたしのどこにどのようにあるのかということであり、その今は今としての過去でもあり、今としての未来でもある。その揺れを精密に捉えようとする限りで、わたしは「深度」ではなく「震度」を採用する。わたしたちは地上の活断層であり、今もきしみ続けている。毎日のように昨日のわたしたちが死者として生者のわたしたちに堆積する。ウェゲナーの大陸移動説が、離れた大陸同士に連続性を見出したことに比せば、わたしたちは地下に潜らずとも、すでに地上において、活断層として、引き裂かれた連続性、通じ合うはずの回路をもっていたのではなかっただろうか。