わたしを否定する世界に対し否定でもって戦うときわたしはどこにいるのか?

 ※未読の方は、先に青松輝氏の以下のブログを読んでほしい。

 

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A. 長い前置き(プロファイル)

 

 近年の俺が目指していたことをカッコつけていうなら「『ファインダー越しの私の世界』(死語?)ではなく世界に到達する」ということになると思う。「文学」とか「芸術」とかだんだんどうでもよくなっていって、ただ「それが何がしかの意味で世界を直で掴んでいる感触があるか?」ということが大事だろうという方向になっていった。もちろん「文学」や「芸術」で見るということそれ自体がよくないという話ではない。そういう風にして自分の持っていた感受性がいい方向に伸びていくということはありうる。だが「文学」や「芸術」を信じはじめてしまったら、それは本末が転倒しちゃってるだろ、と思う。荒川修作という人が(たしか詩人の宮沢賢治を批判するなかで)「物語を信じてしまったら科学はできない」というようなことをいっていて、それは自分の指針になり続けている。

 

「文学」のために死ぬとか「芸術」のために死ぬって、嫌だなあと思う。「国家」とか「理想」とか「会社」のために死ぬとかと何が違うのかわからない。*1まあ似たようなことで「〜〜のために生きる」も全然ピンとこないし好きじゃないんだけど、死ぬよかマシではある。もちろん「生活が、暮らしがある」ということと「生活が、暮らしがあるだけ」ということは全く違っており、後者は偽です。「生きていくなかで」という言い方が今のところ一番しっくりくるかな、と思う。生きていくなかで、世界の何かを発見したり気づいていく、ってありようが理想的だった。

 

 ただ冷静に考えると「世界に到達する」っていうのは変っちゃあ変な日本語で、なぜかといえば言うまでもなくわたしはこの世界にいるし、わたしも含めてこの世界ということは当たり前の話だからだ。*2そもそもなんで「世界に到達する」って目標が出てきたのかといえば、自分が世界に到達できていない、世界に居られていない感触があるからということになる。

 

 谷川俊太郎という詩人の詩、というか姿勢が好きでたまに詩やインタビューを読む。

 

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 谷川は幼少期に言葉につまづいて、それで詩人になった。自分が感受したことをごまかさないひとだったんだなあと思う。谷川からは、詩に思い詰めたひとという感じがしてこない(「自分の詩」についてはわからん、スランプとか感じてた時期もあるかもしれんけど)。実際真空管ラジオに夢中になったり、あとたしかクラシック音楽も好きだったんじゃなかっただろうか。「これしかない!」という切迫感があんまりなくて、それがだんだん俺も心地良く感じていった、という記憶がある。

 

 俺は過去に詩を書いていた時期があって、詩集も作ったりしていたのだけれど、最初の最初に詩を書き終えたときの感想は「あ〜あ、これは詩だな、詩が書けちゃったよ、どうしようかなあ」というもので、まあ字面としては傲岸不遜すぎるわけだがそのときの正直な気持ちではあって、何がいいたいかというと谷川は最初に詩を書いたときたぶんこういう感想にはならなかったと思う。それ以前から、俺のような神経質でバランス感覚を欠いたタイプの人間が詩を書くようなときっていうのはだいたい自分の状態がヤバくなっているんだろうな、という自己理解はしていた。詩の手前で事故が起きていて、崩れた自分のバランスを何とか取ろうとしてそういうことになった、という理解をしつつも、まあ詩をやめれば良くなるというもんでもなかろう、機会ってことだろうし1冊ぶんになるまではやってみっか、と思い、それから1、2年は詩を書いていた。その2年目くらいに、たぶん精神科医神田橋條治の本経由だったと思うけど「詩を作るより田を作れ」っていう言葉を読んで、*3あまりにもしっくりきてしまったのでそれから書かなくなったし詩もほとんど読まなくなった。*4現状、田は作れておりません。何を?

 

 思い詰めがちな俺の場合、世界にどうやったらなじんでいけるか、世界とどう折り合いをつけていくか、というのが、あらゆる枠組みを超えて、一個の、もしかしたら一生の課題として現れてくるだろうなと思う。

 

B. 青松輝「ふたたび戦うための7章」について

 B-1. 戦うこと

 

 本題に入る。青松輝の「ふたたび戦うための7章」を読んだ。最初に「否定」の文字が目に入り、「戦う」や「不可能性」、最後には「戦え」といった文字が続いてやってくる。ぐったりしてしまう。

 

 長々と前置きを書いたのには理由がある。青松の記事がもし「現代詩」あるいは「詩」のみについての文章であるとしたなら俺が「世界」とか言い出すのは明らかに広げ過ぎなので、俺がただただ明後日の方向に行っているということになってしまう。だが冒頭を読む限り、青松もただ「現代詩」につまづいているだけには見えなかった。

 

 部屋のなかで、ずっと動画を見ている。テレビでAmazon Fire TVを使えるようになったから、便利で仕方がない。ずっと動画を見ている。(中略)

 

画面のなかで、世界が平らになる。どこまでもスワイプできる世界、倍速再生の世界、9:16の世界。

 

〈一個のもの〉に、世界が回収されていく。世界がつまらなく見える。それらを否定しなくてはならない。しかし、すべてを否定しきることはできない。自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない。

 

画面をすべて割りたい。世界をすべて割りたい。だが勿論、そんなことはできず、すべてがくだらないと思いながらベッドに潜りこむ。眠りにつくのは、夜だったり朝だったりする。

 

 スマートフォンと世界が重ね合わされて、コンテンツ業界と世界が一致するように書かれているとする。そうなればやはりこれは(商業的状況を含めた)コンテンツ業界における詩の話だということになるが、やはりそうは思えない。

 

 これから、詩の歴史を題材にふたつの戦略について書く。詩は、もはや商業的には終わったジャンルと考えられても仕方がないが、われわれは焼け跡から多くの武器を拾うことが可能だ。   

 

 焼け跡とはどこか、ここだ。もし、なにかと戦う身ぶりが過剰にヒロイックに見えるのなら、読者のあなた自身も戦いの場にいるにも関わらず、それに気づいていないだけのことだ。

 

詩の歴史を題材に」するのであるから話の本筋は詩だけの世界にとどまらないし、「焼け跡とはどこか、ここだ」と言われたら、それは詩の世界だけではなくてすべての「ここ」ということになると思う。なので、現代詩だけではなくて、世界の話をすべきだろうなと思った。

 

 俺は結構いろんなものにつまづいている。コミュニケーションもそうだし日本の社会にしてもそうだし自分自身にすらつまづいちゃっている。そんななかで、俺は自分と世界をなんとかすりあわせられないか、なじませていけないか、というのが一生の「課題」なんだろうなと思っている。実際ぜんぜん生活できてねえし。でもこれは「課題」であって「戦い」ではない。

 前出の「もし、なにかと戦う身ぶりが過剰にヒロイックに見えるのなら、読者のあなた自身も戦いの場にいるにも関わらず、それに気づいていないだけのことだ」というところもそうだし、「負けても戦え、理由はない、戦うために戦え。」もそうなのだが、この世界ぜんたいが戦場と化したかのような表現が見られる。ドイツの文学者エルンスト・ユンガーがワイマールの極右時代にアジテートした、永続総力戦としての全世界というヴィジョンを思い起こすが、まだこの「戦い」の領域が純粋な比喩として使用されている可能性はある。日常生活の世界に「戦争」の比喩をあてがうことは点々と続けられている。

 

革命起こしたいセンシティヴなお年頃

落としたものは拾えない

キリツレイここは戦場

確立前のアイデンティティ

 

  Moe Shop, TORIENA「Notice」より

 

だが、坂口安吾の「戦略」について青松が評するとき、次のような箇所が出てくる。

 

このような言葉は、強い人間にしか吐けないのではないか。このようなことを本気で言える人間は、初めから文学も詩も必要としないだろう。坂口安吾自身の生涯を眺めれば、安吾自身がほんとうにこれを本気で言い続けられたか、ということも疑わしいのではないか。

 

坂口安吾の生涯」や坂口安吾の人間強度?が〈抒情〉や〈エモ〉と並ぶ戦略としての〈人生〉を批評する際の観点として採用されることによって、戦略を要する「戦う」はただの比喩であるとして「世界」をかわすことが難しい位置にやってくることになる。

 

 俺がまず気になるのは、この世界で「戦う」ことをひとつの至上命題につりあげていく際に、何と「戦う」のかということだ。

 

 これから、戦うための方針と技術、つまり戦略について書く。戦略は2つある。ひとつは〈抒情〉で、もうひとつは〈エモ〉だ。   

 

 戦うための方針と技術。何と戦うのか。戦うとはつまり、否定性の波のなかで、飲み込まれないで立って、肯定性を獲得するためのプロセスのことだ。それは、世界で傷つき倒れかかっている、誰かを救うためでもあり、自分自身を救うためにでもある。

 

「何と戦うのか」の答えが明示的に書かれている箇所は文中に存在しないが、「否定性としてあらわれる世界」ということができるだろうと思った。最初に戻れば、「〈一個のもの〉に、世界が回収されていく。世界がつまらなく見える。それらを否定しなくてはならない。しかし、すべてを否定しきることはできない。自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない」とある。これは「戦う」の定義をなぞっている。単なる否定は戦いではない。否定(あるいは裏返しとしての肯定)と救済を接続したプロセスが「戦う」ということになる。

 

外向きにある否定性と、そこから逆算で導かれる肯定性-〈抒情〉、それら否定性を裏返して導かれる肯定性-〈エモ〉。それらの、外的な接触を使ってなにかを創ろうとする態度からの脱皮。それが〈人生〉である。

 

 そしてプロファイルで示唆しておいたように、俺は〈内-外〉のようにして〈わたし-世界〉というようにスッパリ分けてしまうことには納得がいかない。「分けられる」から「分けなければならない」にはならない。そして俺には救済がいまだにわからない。ベーシックインカム負の所得税は分かる。孤独・孤立対策担当大臣は……わからない、あれは一体何なんだ?

 

 ちょっと前に俺はこんなことを書いていた。

 

・「自己肯定」が「自己否定」とともにナンセンスな概念であることはわかる。肯定しようが否定しようが自己はゆるぎなくあり続けるし、そもそも自己が「肯定」や「否定」と関係するようなものではないのだ。「私とは存在だ」といってしまいたくなる(これは「私が存在している」や「私だけが存在している」とは全く違うことだ。そして「私の性質」は「私」ではない)。たぶんこれは頭の一部だけを先走りさせすぎている。    

 

・しかし意識というのはすごいことだ。意識の基盤はモノだろうと思うが、意識自体はモノではない。それは色も形も重さもない。人間は飛べないのに意識は飛ぶことができる。意識には場所がない。「〇〇を意識して」というとき、意識は「どこ」と関わりを持っていないように思う。というか「意識する」という動詞そのものが凄すぎる。動詞だぞ! 世界はスピリチュアルな時代に入ったとひしひしと感じる昨今だが、一番身近なものからして相当スピリチュアルだ。*5

 

 わたしを否定する世界に対して、否定でもって戦うとき、わたしはどこにいるのだろうか?「自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない」ことと「戦う」ことのプロセスの間には困難があり、人間はいろいろな意味で「デカルト空間」に存在しているのではない。肯定されるべきわたし(そうしたものがありうるとしたらだが)はつねに「いま・ここ」の「世界」とセットになっていて、〈内-外〉の切り離しを前提とした戦いはこの間隙を埋めることができない。俺としては「意識が飛ぶ」ことができるということ、つまり「いま・ここ」から自由になりうる可能性が人間には与えられているということになかなかのワクワクを感じるのだが、どうなんだろうな。

 

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 B-2. 〈抒情〉、〈エモ〉、ループ

 

 青松は〈抒情〉について次のように書く。

 

古くから受け継がれてきた、ひとつめの戦略を〈抒情〉という。〈抒情〉とは、すべての否定性をそのまま引き受け、それでもなお僅かに残った書けるものを書く、その戦略のことをさす。抒情詩とは何かをひとことで説明するのは難しいが、辞書的な定義をするなら、叙景、叙事に対立させて「感情を述べあらわす」もの、となる。  

 

〈抒情〉は、否定性をきっかけとして起動する。現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。   

 

すぐれた抒情詩は、世界を書き換え、すべての否定性を梃子に、一個だけの肯定をかたちにする。作品は、それらの否定性を内蔵しながら、同時に、作品として存在させられたことの、ただそこに詩としてあることの、強い肯定性を主張する。

 

 〈抒情〉は世界からの否定性によって駆動する。「現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。」と、先に書いた「戦い」における〈内-外〉の構造から、〈抒情〉は否定性として現れる外的な触発(世界)に対し、それを受け入れたうえで、内的なもの(わたし)が「それでもなお」を出力する。「新しさ」がこの運動を無限に繰り返すことを要求する。青松は日本近代詩の代表的な詩人、萩原朔太郎の詩を読んでいきながら、そのことを「こうして、〈抒情〉は無限のループに入った。」という言葉で表現する。

 

 〈エモ〉はどうか。

 

 いつから使われているのかはわからないが、もはや定番になりつつある、ふたつめの戦略を〈エモ〉という。この戦略は、〈抒情〉における否定性の連鎖と正面から向かい合って、それらを克服するために使われている。   

 

エモーショナルなもの - 近代的な抒情を通過しおわって、すべてが汲みつくされた世界で、日本語は「エモーショナル」を「エモ」と略すようになった。ここに〈エモ〉の核心がある。   

 

エモーションは二文字で「エモ」と略せる。「略せる」ということが鍵を握っている。すでに通った道を捨てるのではなく、裏技として利用すること。その態度が〈エモ〉の本質だといってみよう。〈エモ〉が志向するのは、いちど否定されたはずのものの再-肯定だ。〈抒情〉において採用された、否定の果ての「書くべきこと」は、他者との同一化に対する欲望から生まれてきていた。〈エモ〉の戦略ではそのような、全体性に対する欲望は、すでに捨てられている。   

 

エモ〉の戦略が、すでに情緒的だと知られている過程をなぞることにためらいがないのは、単なる無知ではなく、ある種の開き直り、あるいはブレイクスルーである。そして〈抒情〉を通過して書かれる以上、〈エモ〉は必然的にアイロニカルな戦略でもある。

 

「〈抒情〉を通過して書かれる以上、〈エモ〉は必然的にアイロニカルな戦略でもある。」や「〈抒情〉における否定性の連鎖と正面から向かい合って」というところから、〈エモ〉が〈抒情〉の延長線上にあることが分かる。〈抒情〉を外に置き(でなければ正面から向かい合うことはできない)、その否定性を受け入れたうえで、内であるわたしは「それでもなお」を出力する。もちろん二重否定ではないので最初に戻るわけではないことが引用部分からもわかる。

 

しかし〈エモ〉戦略の重要なところは、〈抒情〉に対抗するための最短経路を、意味内容ではなくてモチーフのテクスチャーを通して可能にしたことだ。 

 

 表にしろ裏にしろテクスチャーは曲面であり、詩であるところの文字は紙にしろ液晶画面にしろ平らな場所に印刷されている。そしてこの運動は青松の記事の最初に戻ってくることになる。

 

画面のなかで、世界が平らになる。

 

懺悔は極光を求め、極光はあらたな懺悔を要求する。」という、萩原の詩から抽出された命題、この文字の上では確かに〈抒情〉はループしているが、〈歴史〉は時間の線形性に基づいて編まれるため、〈抒情〉とは正確にはループではなく、〈歴史〉に対する「否定性(外)-肯定性(内)」というプロセスの再帰的な適用だったといえる。だが、ここでたどり着いたのは本物のループだ。〈抒情〉と〈エモ〉は戦略という観点からみて並存しているのではない。〈エモ〉が戦略として可能になるのは、〈抒情〉という戦略が否定性として捉えられたからである。こうして「画面の中の平らな世界」-〈抒情〉-〈エモ〉のループが完成する。*6

 どうしてこういうことになるのか。青松の記事ぜんたいを動かしているのは(俺が今まで読んだ中でも最短最速の優れた)〈抒情〉を軸とした日本近現代詩史であり、それはすなわち否定性(そして閉塞的な男性性)を軸として起動する日本近現代詩史にほかならない。それがテレビやスマートフォンといった平面、象徴的な〈一個のもの〉としてのスクリーンのある現実世界に接続されていることがこのループを導くことになる。〈エモ〉がまさしく〈一個のもの〉としてのスクリーンに収束するであろうことはここまで、そして青松の記事においても確認されている。厄介なのはじゃあ〈一個のもの〉、スクリーンから始めずに日本近現代〈抒情〉詩史を世界から切断すればこのループから脱出できるかといえばそうではなく、(坂口安吾を抜きにしても)この〈歴史〉は、名前は出ていないが戦後の焼け野原から出発した「荒地」派や、その後の1968年の闘争を駆けた「凶区」や「ドラムカン」などのグループなど、現実世界とリンクすることなしにありえなかったような〈抒情〉の系譜を暗黙の内に含み込んでしまっている。

 

 それで、どうすればよいのだろう。目の前には、ただ白い画面がある。色々なことを考えて、われわれは振り出しに戻った。

 

 どうすればこのループから脱出できるのだろう。

 〈抒情〉詩の運動に内在していなかったことがあって、それは〈エモ〉の持つ(つぎはぎでありつつも)プレーンなテクスチャーだ。これは詩の外の世界からやってきたもので、〈歴史〉の流れのままに構成するならば〈抒情〉→〈エモ〉→「画面のなかで、世界が平らになる。どこまでもスワイプできる世界、倍速再生の世界、9:16の世界。 」となる。そう思って前の引用を読み返すと、そこにヒントがあるように思えた。

 青松は「確かなことは、われわれが晒されているこの戦いにおいて、安全な勝ちパターンなど何ひとつないということだ」と書くが、青松自身がすでに別の答え(それが「安全な勝ちパターン」であるかは俺にはわからないが)を書いているような気がする。冒頭に戻る。

 

部屋のなかで、ずっと動画を見ている。テレビでAmazon Fire TVを使えるようになったから、便利で仕方がない。ずっと動画を見ている。できるだけ多くの面白いものに触れたいから、僕は入れるかぎりのサブスクに加入していて、YouTubeも、 Netflixも、DAZNも、U-NEXTも、TVerも、家のテレビで見放題だ。それだけで毎月1万円かかるが、仕方がない。

 

ずっと動画を見ている」のであれば、その画面は「ただ白い画面」ではない。あらんかぎりの文字列や画像、動画で埋め尽くされているのならそれは「ただ白い画面」ではない。「振り出しに戻った」のならループは継続していることになるだろうが、「ただ白い画面」はうっかりループからはみ出してしまっている。「ただ白い画面」へ到達することを目指す。「ただ白い画面」という〈抒情〉を構築するとはどういうことなのか、俺には分からないが、まったく不可能というようにも見えない。

 

 谷川雁という詩人がいて、読まれなくなるんだろうなという気は少ししている。ただその著作が読まれなくなったとしても、彼が残したタイトル「原点が存在する」はまだ輝いてるんじゃないかと感じる。「まるでワグナァの歌劇の装置を思わせた。」で始まる文を今読むのはなかなかしんどかろう。俺は「原点が存在する」の内容よりもタイトルが好きだ。

 

第一に古くなってしまった力は根源的ではありえない。第二に根源的でないものは創造的ではない。

 

  谷川雁「原点が存在する」より*7

 

 原点、ゼロであること(0)は、ゼロになる、ゼロにする(±)ではない。実のところ「焼け跡」は原点ではなかった。それはゼロになる(−)運動の腐刻画であり、瓦礫に溢れ、燃え残る過去があり、それを整理し掃除することが必要だった。たとえば詩人の田村隆一にとってそれは先達の詩人高村光太郎らだったかもしれない。原点は、いつも発見されるのを待っているのであって、実在しない。しかし、原点は存在する。

 

 B-3. 愛と平和

 

 俺が絶対に首を縦に振れないところは次の部分だ。

 

 もちろん、こと〈詩〉の問題に限っていえば、〈抒情詩〉あるいは〈現代詩〉などという観念がカルトなのであって、それ自体を捨てろ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。だが、そんなことを言っては、〈愛〉も〈平和〉もカルトではないか。

 

 極めてキリスト教中心主義的な話からする。近代が宗教を振り払ったとき、救済と不死が死んだ。代わりに生まれたのは企業をはじめとする「法人」というアンデッド(undead = 死んでいない)技術と、アカデミズムという、命の不死を名前の不滅へスライドさせる教会の後継システムだ(もちろん「文学」や「芸術」もここに含まれる)。救済は死んだままだがそれはいまどうでもいい。カルトはある言葉の集合を信じる共同体だ。カルトの定義を最大限に広くしてそのようにとろう。問題は「信じる」にある。

 宗教をあまりにも粗雑に投げ捨ててしまってからそのままなので、実のところ人間は「信じる」ということがどういうことかいまだにほとんどわかっていない。企業やアカデミズムは「信じる」ことを根底から問い直した上に発明されたものではないと思う。少なくともアカデミズムの原型は宗教の時代からあったんだから。

 だが舞城王太郎が『好き好き大好き超愛してる。』で世界へ踏み出したとき、その冒頭が「愛は祈りだ。僕は祈る。」ではじまることを青松も知っているはずだ。愛祈りなのであって、愛祈るのではない。「愛」という言葉を信じることがカルトであることを俺は認めることができる。だがそこから「愛すること」がカルトであるということは帰結しない。俺の直感では「愛」や「平和」は「信じる」という言葉で人間と結びついているものではない。「愛」や「平和」という言葉を意識しない行為のなかからでさえそれは現れ、時には自覚さえされずに現れかき消える。「愛」と「愛する」、「平和」と「平和する」、俺たちはまだ名詞や動詞である(でない)ということがどういうことかすらはっきりとはわかっていない。俺たちはまだ、ほとんどなにもはじめてすらいない。

 

「われわれが晒されているこの戦い」、「普通の意味で、どこまでいってもこの世界は一つしかなく、逃げる先など、どこにもない」、「勝ち」、「勝ちパターン」、「負け」、「必敗」「負けても戦え、理由はない、戦うために戦え。」と言われる。

 

 俺は玉砕したくない。

 

A'. 「国民詩人」がいなくなったあとで(プロファイル')

 

 戦後最大の(そしてもしかしたら最後の)「国民詩人」である谷川俊太郎は、抒情詩も生活詩も書けたが、彼自身は抒情詩人でも生活詩人でもなく単に詩人だった。稲川方人との対談「ディスコミュニケーションをめぐって」にある谷川の次のような発言は、この詩人が何につまづかなかったかを明瞭に示している。

 

(引用者注:谷川)「普通の読者」という言い方は平出さん(引用者注:平出隆)なんかが問題にしてくれたんだけれど、僕は割とある具体的なイメージがあって、「普通の読者」といってしまう。でも平出さんや稲川さんは「普通の読者」という言い方に実体が感じられないんじゃないですか?

稲川 はい、それは間違いないですね。

谷川 でもね、なんて言えば良いのかな、勿論これは世代的な事もあるし受けてきた教育の問題なんかもあるんだけれど、ぼくの場合にはひとつは現実にある程度の数の読者がいて、その読者の人達が例えば自作朗読をすると集まってきて、自分が詩を読むときに色々な反応を示してくれる。それから数というのは留保をつけたいんだけれど、ある程度本が売れるということは、僕の中には僕の言葉で言う「普通の読者」と自分とがどこかで通じ合っている、そんな楽天性がどうしても出てきてしまうんですよね。そういう僕の置かれている位置と、稲川さんたち、僕なんかより先端的な言葉を扱っている人達は、相当かけ離れているところがあるんじゃないかっていう気がするのね。じゃあかけ離れているから、お前はお前で勝手にやれで済む問題かというと、全然そうじゃなくって、僕なんかでも共通の悩みとか疑問って持ってる筈なんですよね。だから僕はディスコミュニケーションっていうのは、一方では非常に強く感じるんだけど、それをもとにして発想する事は出来ない、とでも言うのかな。やはりディスコミュニケーションが問題であれば、何故通じ合えないのかな、という事を話し合えれば、というのが前提としてあるんです。*8

 

 谷川はコミュニケーションにつまづくことはあるが、コミュニケーションに限らず、何かにつまづいたとして、それを言葉にして話し合うことができるだろうということに関してはつまづいていない。ディスコミュニケーションをもとにして発想することは出来ない、という谷川の姿勢は、「普通の読者」すなわち普通の生活をしている普通の人々、谷川の言い方で言えば「『現代詩手帖』なんか全然読まない人々」と自分がどこかで通じ合っているという楽天的な信頼によって支えられている。

 彼が「国民詩人」であるのは、もちろん日本語で書いていて、日本語使用者がほとんど日本にいたということはあるが、それだけではない。(高村光太郎のような戦前の国民詩人のように)彼が愛国詩を書き、彼の詩が愛唱されたからではなく、「普通」に書くことを意識的に貫徹したからこそだ。とても簡単なことではない。それは「普通の日本語」で書くこととは似ているようで全く違うことだからだ。

 普通。普遍的に通じる。ディスコミュニケーションをもとにする発想から普遍的な詩を書くことはできるかもしれないが、たぶん普遍的に通じる詩を書くことはできない。「ディスコミュニケーションについてのコミュニケーション」、「ディスコミュニケーションについてのディスコミュニケーションについてのコミュニケーション」、……という風に、コミュニケーションを末尾につけることによってコミュニケーションの可能性はわずかずつかもしれないが回復する。末尾という概念は、最後に声をかけられた人間がさらに応答するかということに対応している。ディスコミュニケーション自体が「普通性」をもつとしたら、それは絶対的なディスコミュニケーション、コミュニケーションが末尾につく可能性をまったくもたないディスコミュニケーションが、全体を支配したときでしかない。

 

 ところで俺は〈抒情〉とは垂直性であり、〈エモ〉とは水平性であると思う。

 

 

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって

真昼の球体を 正午の詩を

おれは垂直的人間

おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 

  田村隆一「言葉のない世界」より*9

 

Seid ihr das Essen?  諸君は狩られる者であるか?

Nein, wir sind der Jäger! 否、我らは狩る者なり!

 

  Linked Horizon「紅蓮の弓矢」より(強調、翻訳は引用者)

 

 垂直性と水平性を担保するのはデカルト座標における原点のような空虚ではなく、上下左右という方向性を持った基準軸だ。肉体といってもいい。それは重力下的、地球的世界のひとつの典型的なありようではある。

 

空は透き通り

空でないものがその青さをあらわにする

歌はとだえがちに帰ってゆくばかりなので

私は沈黙を歌のように歌い

沈黙もとどかないところを

幼いもののように無邪気に指さす

その時私はどんなものをも持つことが出来る

私は城を画いては消しして遊び

海を私の涙の中へかえしてやる

 

  谷川俊太郎「秋」より*10

 

 谷川の詩には重力も方向もない。それは質量を持たないネットワークのように広がる。無重力的、宇宙的世界のありようと、「国民詩人」としてのありようの奇妙な結びつきは、谷川俊太郎という人間と「国民=読者」の間に常に薄皮一枚の透明な膜があり、谷川の存在がその膜の奥にいるような感覚によって担保されていた。谷川が亡くなった後に「国民詩人」というものが成立しうるのか、俺にはわからない。過渡期にいるということは分かる。そもそも「国民詩人」のような存在はいたほうがいいのかということもある。*11

 

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 ただ、コミュニケーション、通路があるということは大事だと思う。というのは、肯定-否定はその通路を前提として可能になるからだ。

 肯定-否定という作用は肯定-否定可能な対象に対してのみ有意味であり、自身がもつデジタルな性格(0/1)から、それはその対象に対してデジタルであること、もしくはデジタル化されることの正当性を要求する。ところがコミュニケーションの回路、通信路の場合、送受信されるデータがアナログかデジタルかにかかわらず、ノイズは「聞き取りづらい」や「ん?ちょっとここ分かんない」のように常にグラデーションである。肯定-否定のデジタルな性質がコミュニケーションの全体に適用されうるのは、通信路全体を投げ捨ててしまうかどうかという場合だけだ。ああ、谷川は真空管ラジオが好きなのだった。それは肯定-否定のデジタルな世界ではなく、ノイズのアナログな世界なのだ。

 

 いまだに驚異的な小説でありつづけているセルバンデスの『ドン・キホーテ』の凄さは枚挙にいとまがないが、ここでひとつ挙げるとするなら、小説全体をドン・キホーテの視点で書くという選択をしなかったことだ。彼には戦う相手がいないのだが彼は戦いたい。彼は騎士であり同時に普通に生活する普通の老人である。彼、とくに前篇の彼の戦いは〈抒情〉に似ている。

 「騎士道物語」を読むほかは退屈のなかに埋もれている老人アロンソ・キハーノの生活。ドン・キホーテとなった彼を人々は騎士と認めない。なぜなら騎士などというものはもはや騎士道物語のなかにしか存在しないからだ。彼は人々の目に狂人として映るが、そのことは〈抒情〉の観点からいえば、ドン・キホーテから世界への否定だけでなく、世界からドン・キホーテへの否定もまた働いていることを意味する。こうして相互に相互を否定性として規定した結果、純化された一個の世界エンジンと化したドン・キホーテは、風車を巨人として突撃することを代名詞としたド迫力の「冒険」を開始するのだが、これによって生成されるものは、騎士の冒険ではない。騎士でないものだけが騎士であることを生成しうる。彼の奇行が生成するものはドン・キホーテそのもの以外のなにものでもない。そしてそのことによって、彼は彼自身だけでなく、彼の周りの人間たちの退屈な日常生活、世界をも書き換えていく。

 『ドン・キホーテ』がすごいのは、ドン・キホーテの視点だけではなく、世界のなかにドン・キホーテを位置づけるようにして世界全体が書かれていくことであり、このようにしてセルバンデスはおそらく図らずも17世紀にして「〈抒情〉の構造」を表出させることに成功している。ここには「世界」があると俺は感じる。

 

 誰もドン・キホーテを騎士と認めない。しかしかれのそばにはサンチョ・パンサがいた。

 人間は実際のところあまりにも奇跡的なので、誰もがドン・キホーテであると同時に誰かのサンチョ・パンサであることもできる。そのうえ自分ではサンチョ・パンサだと気づかないままそうなっちゃってることさえある。俺はこれからも世界となんとか馴染んでいこうとするんだろうけど、その中でこのことは多分ちょっとした救いであって、こういうときに俺は「救い」という言葉を使うことができる。

 

 たしかピアニストの高橋悠治が短歌のイベントの客席にいて、歌人である東直子とのやりとりをしていたとき、彼はこういったというのをどこかで見た記憶がある。

 

あなたが自分の思いを他人に深く届けていいと思う根拠は何ですか? 

 

 この文字列を見てから何度かポツポツと思い出したりしている。そもそも根拠がいるのかどうかも含めて。でもなおざりにしていい問いではなかったはずだ。生きていて「画面のなかで、世界が平らになる。」という感覚を覚えうるような世界になった要因のひとつにもなっていると思う。

 大阪に葉ね文庫という本屋があって、そこに通うようになって、俺は詩や短歌が好きになった。そこには他にも詩や短歌が好きなお客さんが来て、仲良くなったりして、集まって話したりすることがあった。それはとても素晴らしいことだと思う。

「あなたが自分の思いを他人に深く届けていいと思う根拠は何ですか?」という問いのラディカルさ=根底性に釣り合っているかはよくわからないが、「そうすることによって、今日みたいに、ここにみんなが集まることができるから」というのは、そんなに悪い答えではない気がする。

*1:映像で「愛するひとを守ろうとして死ぬ」シーンなどを観ると俺はベタに泣いてしまうのだが(チョロいので)、それはそいつが「愛する人」のために死ぬぞーッってなってないからだというのはあると思う。死ぬかどうかではなくて、愛する人のために生きる自分が何かに飛び込んでいく、死ぬかどうかってフィールドでやってないってことが大事だ。殉死みたいな要素が垣間見えると、まあチョロいから泣いちゃうんだけど(ダメじゃん)、泣きながら「しょうもね〜〜〜〜」と思う。漫画家の蛭子能収も言っていたような気がするけど、泣けるからって良いものってことにはならんですからね。小説読んでて泣くことはほぼない。最近ガンディー(いまの日本では助走をつけて殴ったり核ミサイルを撃ちまくることで知られている)の『獄中からの手紙』を読んでガーンとショックをうけてしまってどうしよう……となっているのだが、ガンディーもやっぱり「理想のために死んだ」人間ではない。あくまで「理想のために生きようとしていた道中に暗殺されてしまった」のであって、このふたつはぜんぜん違う。理念に殉ずるということでは古代ギリシアの哲学者ソクラテスのことも思い出すが、あれもドクニンジンYesオアNo?って以前に、いやソクラテスを殺す社会がカスすぎるだろ、ということの方が大事なことに思えてしまって、いかに死ぬべきか、自らの思想に一貫性を持たせるためには死さえ選ぶべきか、って問い自体があまり好きになれない。もちろん筋を通したからソクラテスは知られ続けたということもあるとは思う。けれどそんなところで、死に様で人様の知性を測ろうというのは、ソクラテスが偉大であるというより、人間の知性がウン千年残忍なままであることの証左でしかないんじゃないだろうか。

*2:「わたしのいない世界」というのは仮想あるいは推論を要する。これが「実存」という言葉が有しうる最大限の意味であって、実存主義というのはナンセンスな語だと思う。「実存は本質に先立つ」って「実存と本質の関係」についての本質じゃねーか!本質に先立たれちゃってるだろ!と思ってからサルトルに興味を失ってしまいました。ごめんよサルトル

*3:あとでネットで調べてみると「詩を作るより田を作れ」はことわざで、文学のような金にもならんことにうつつを抜かさないで稲作みたいに実益になることをやれ、という意味ということになっているらしいが、それはあんまりにもご無体で冷たい理解だと思う。最初にこういうことを言ったやつというのは、周りにひきこもりがちな、思い詰めている奴がいて、そんな内に籠もって頭でウンウン考えるより、外に出て体を動かして非言語的な感覚を耕したほうがいいよ〜って、そいつのことを心配し、思いやった奴じゃないかなあと思うんだけれども。

*4:「ふたたび戦うための7章」にも名前が出ている岸田将幸という詩人は現代詩文庫から『岸田将幸詩集』が出ていて、裏をみると著者の顔写真が載っている。精悍で鋭利な、どこか思い詰めたような表情をしている。そんな岸田は現在アスパラガス農家をやっていて、そちらでも活躍している(https://www.tj-matsuyama.com/ehime_shoku/detail_202009.php, 2025年5月29日閲覧)。ここに貼ったタウン情報まつやまの記事での岸田の表情は、確かにまだ硬さはあるけれども『岸田将幸詩集』の裏表紙のそれより明るくて、俺はアスパラガスとともにある岸田の表情のほうが好きだ。ある時「現代詩手帖」でアスパラガス農家になってからの岸田の連載を見つけると、宮沢賢治の話をしていて、正直「そうか〜〜〜〜」と思ってしまった。多分これは俺が、フランスの詩人アルチュール・ランボーの詩には興味がわかないけれど、詩を20歳で辞めアフリカにわたり商人になってからのランボーが何を考え、何を感じたのかにはちょっと興味があるということにつながっていると思う。ランボーの場合、アフリカ時代に残された書簡自体からそれを知ることは難しそうだなというのが俺の勘なんだが。詩を通ってからアスパラガス農家やアフリカの商人になることは、そこを通らずにアスパラガス農家やアフリカの商人になることとは違う。詩は、なんだかんだいっても(少なくとも書き手にとっては)かなり世界である言葉になってしまうので、そう簡単に切って捨てられるものではない。でもそれは妖怪みたいに憑いて振り払えないということではなくて(自分でそうしてしまうということはあるにせよ)、それから生きていく時間に濃淡やかたちはどうあれ詩が浸透していく、そういう人生になっていくということだと思う。その道を行く感覚から開けていく世界は、場合によってはもしかしたら「詩」よりも詩が目指していたところに近い、明るく開けた世界なんじゃないか、という気がどうしてもする。

*5:https://ajisimidaikon.hatenablog.jp/entry/2025/04/19/231409, 2025年5月30日閲覧。

*6:このような見方を主張する場合、最果タヒの評価がネックになりそうに思われる。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』に関する青松の「形態レベルでは〈エモ〉的な技術を多用しながら、内容レベルで〈抒情〉的な否定を書く」という評価は、一見〈抒情〉と〈エモ〉の戦略を同時に採用しているようにも思える余地がある。だが青松の記事からも分かる通り、〈エモ〉を通過している〈抒情〉の否定性はもはや、全体的な否定性を媒介に肯定性を打ち立てるという〈抒情〉の戦略それじたいを保存することはできなくなっている。青松の書くように最果は〈エモ〉戦略を取る詩人であり、そしてそのこと自体が〈抒情〉詩の正統な後継者として彼女を〈抒情〉の先端に位置させることになる。したがってここでもまた〈抒情〉と〈エモ〉の戦略は並列していないということができる。

余談ではあるが、青松がここで同一の「否定的な物言い」を形態と内容のレベルに分割しえたのと仕組みは違うものの、現代では同一の「肯定的な物言い」にも分割された事態を見出すことができる。俺はコウペンちゃんのような「全肯定コンテンツ」が嫌いなのだが(突然の悪口)、それはまだこちらが肯定-否定可能ななにものも提出していないうちから肯定的言辞が飛んでくることによって「あっコイツ全然俺とコミュニケーションしてねえじゃん」という気持ちになるからである。先行するなにものもない肯定性、応答の機能を全く欠落させた肯定性は、肯定的な形態はそのままにして否定性-肯定性そのものを担保するコミュニケーションの回路を否定する。

*7:谷川雁詩集』p41, 思潮社, 1968

*8:谷川俊太郎稲川方人ディスコミュニケーションをめぐって」『現代詩手帖』p11, 1997年7月号所収, 新潮社

*9:田村隆一『腐敗性物質』p99, 講談社文芸文庫, 1997

*10:谷川俊太郎『愛について』,1955

*11:問いが残されており、それは〈抒情〉は本質的に地球的なものなのか、それとも宇宙的抒情というものがありうるのかということだが、読んでの通り俺は〈抒情〉や〈エモ〉を戦略として採用するということそれじたいに頷けないので、ここでは問いを投げ出したままにしておく(なんてことを)。ただ宇宙的であることにはなかなかのロマンがある。イーロン・マスク?聞いているか?お前の火星は、宇宙は、垂直方向に持ち上げて伸ばしたありし日のアメリカ西部、フロンティアの延長に過ぎない。そこは宇宙ではなくて「アメリカ」なんだよ。横倒しになったシリコンバレーからエンジニアがバラバラ落ちていってるぞ、AIで代替するのか?