蝶ちょって、軽いわ、顔にとまってちっとも重くないんですもの。そうよ、いつも飛んでくるわ、きのうは紋白蝶と黒い揚羽がいっぱい飛んできたわ。ちょっと怖いくらい、凄かった……きのうのことはよく憶えているの。主人と一緒に昆虫採集にいったのよ、ええ、ほんとうよ、あなたお会いしなかったわね、信州のあそこ、広い原っぱには蝶ちょがいっぱい、わたしのまわりにいっぱい、風みたいに、だから主人がわたしごと網をかぶせちゃったの。
りつさんはまた笑った。そのくぐもった声は、鳩の鳴き声のように寂しかった。
りつさんは夢のなかにいるのだった。夜中にりつさんの正気が怖いといってしがみついてきた千秋がわたしにはよく理解できた。
千秋は夢に遊んでいるときの幸福なりつさんともつきあっている。そして彼女は幸福なりつさんだけを愛していたのだ。それだけに時として正気にもどるりつさんに、彼女は怯えずにはいられなかった。
そうよ、あなた、紋黄蝶だわ。どうしてこんなに黄色いのばっかり集まってくるの、あなた、空にもいっぱいだわ。りつさんは痩せた手を、顔のあたりで力なく動かした。
昨夜はなにがあったのだろう。すっかり落ち着いて平静そのもののりつさんはいま降りそそぐ光のなかにいるのだ。そして彼女に視えるものは幻想を超えたもっと澄明な世界だろう。
「今日おいとまします。おだいじに」
わたしはりつさんの手をとって声をかけた。彼女はびっくりしたようにわたしを見た。そしてこういったのだ。
「なんだ、おまえか」
頸を捩ってこっちを見たりつさんの顔を、わたしは終生忘れないだろう。それはなんともいいようのない陰惨な顔であった。ひとことでいうなら般若の面のような。それも真っ白の紙で折りあげた血の通わない般若面であった。りつさんの顔にその怨霊の女面を見たのは、わたし自身面というものに幼児期から親しんで育った環境のせいだったかもしれない。*1
澄夫はテーブルにのりだして声をあげた。
「どっちにしても、ひとつ終ったんだ、だからまたなにかを始めなきゃ」
りつさんがいなくなった家を処分して、澄夫は彼独自の棲家を手にいれるつもりでいる。山小屋、ビルの上層のオフィス風、それとも茶室のある郊外の古めかしい家、下町の黴臭い裏長屋、新開地に建てるペイスメントのあるこぢんまりした洋館か。
わたしと千秋は彼の計画に反対した。反対どころか千秋は嘲笑した。舞台作りに魅力は感じないと彼女はいった。ひとが死んだ家っていうのは得難いものだわ。千秋はりつさんの死をはやくも彼女自身の生きる縁にしようとしている。ファミリーロマンス漬けにされていた彼女の育ちを考えれば、生者より死者に傾倒したくなる気持はわたしにもわからなくはない。澄夫の家にはりつさんが視た幻影が浮遊している。彼女の夥しい蝶の群れは、たしかにいまでも薄いみどりいろの風になってわたしの瞼を掠めていく。*2
山本道子という小説家がいる。いた、なのかもしれない。もうしばらく(30年近く!)新作は出ておらず、ご存命かどうかもわからない。書店で新本を手に取ることは多分できないと思う。芥川賞も女流文学賞も泉鏡花文学賞もとった作家だというのに、今ではほとんど読まれていない。どうして読まれなくなったのだろう。おそらくそれは山本道子の小説に、多くの人があまり見たくない、触れたくないものがあるからだと思う。
山本道子の小説の一貫性には驚異的なものがある。性愛。彼女は小説を通じて、性関係における可能な構造を全部書き下そうとしているのではないかと思える。書き下そう、というのがポイントで、彼女の小説はひたすらに情念的なものを描いているのにその文章は全く情念的ではない。むしろそのトーンは供述調書や法廷での証言、精神鑑定書というようなものを思わせる。描写や説明というより記述といったほうが近い。
『愛の遠景』では、「わたし」と元夫の澄夫、澄夫の現妻(のちに離婚する)である千秋が同居している(三人は演劇仲間でもあった)。澄夫は母親のりつと同居しており、りつは介護を必要としている。そしてりつの死後、澄夫の「実父」である桜葉さんが三人の生活に割り込んでくるのだが、彼らの人間関係はほとんど建築物のように緊密に組み合わされ、各人の存在が他の性関係に影響を与える形になっている。目眩がするような関係、たいていの小説がほのめかす形で描写するであろう関係を、山本はそれとして平静に記述できてしまう。性という関係はまるで風景のように眺められる。
千秋はあるときわたしにいった。 スミオには抱くものと抱かれるものが必要なのよ、あのひと、わたしのからだを不思議そうに見ていつもいうのよ、どうしてきみにはペニスがないんだって。千秋からきかされる澄夫のことばがわたしには不思議なことばに思えた。千秋を求めるときの彼はおそらく、彼女の欲求にぴったりの天使になるだろう。わたしは天使の顔をした千秋を見たことはない。そしておなじような顔をした澄夫のことも知らない。彼らはふだんなに食わぬ顔をして会話をしたり食事をしたり、りつさんをかまったりしていた。そう、わたしが彼らの家を出るまで。わたしはなんだか耐え難い思いと、自分でもよくわからない哀愁の思いに胸をいっぱいにして、たがいのからだを抱きあうふたりを眺めていたのだ。
そして千秋を相手にしているかぎり澄夫は、半身を削ぎ落とされた不完全な人間でいるしかないのだと思っていた。*3
千秋は、澄夫とわたしを放さない。澄夫は、千秋とわたしを放さない。そしてわたしはといえば、再び千秋と澄夫のもとに舞い戻った。
澄夫とわたしは毎朝そろって出勤する。まるで生活設計を共有する共働き夫婦のように。そして千秋はこどもを育てる女のようにわたしたちの領域に愛の幻想を養成する。
わたしたちの生活はこれからもこのようにしてつづいていくのだ。まるでドメスティックな顔をして。*4
これが完全なる三人称小説として行われるなら、それこそ性愛の解剖学のように行われるなら読者は多少安心して山本の小説を読むことができるだろう。凄まじいのはこの風景画が一人称でも描かれうるということであり、そしてその異様ささえも風景画の中に取り込まれるということである。
千秋はひそひそ話をつづけた。「ずうっと考えてたんだけど、サクラバさんがいう確たる理由っていうのは、もしかしたらスミオの部屋でいまおこなわれてることじゃないかしら」
千秋は身顫いすると頭を抱えて床に転がった。彼女のからだは澄夫にすっぽり抱きかかえられるときのように、球のように丸くなって呻いた。わたしには彼女の妄想が手にとるようにわかった。いや、妄想ではないのかもしれない。だからこそ千秋の苦しみがあるのだ。転げまわる彼女を他人ごとのように眺めていられる自分がわたしにはわからない。*5
この風景画のコアにはしばしばインセスト、近親相姦があらわれる。俺はこんなにたくさんインセストの話を書いた小説家を山本以外に知らない。まるでインセストが性愛の部分集合ではなく、性愛に直結しているのではないかと思わされるほどだ。そしてそれはある意味では間違ってはいない。恋愛で済んでいるときはまだ、インセストと性愛には一定の距離があるといえるかもしれない。しかし性関係が家族にまで進展すると事態は変わってくる。子供をもつことで(親子)、あるいは「子ども同士」を可能にすることで(兄弟姉妹)、インセストは初めて可能になる。ロマンティック・ラブ・イデオロギーの中核を構成する恋愛-結婚-生殖の直列を性愛の観点からのみ眺めたとき、恋愛はインセストを可能にする装置の一端を形成するものとしてあらわれるのであり、そのことがおそらく、山本の小説から読者がしだいに遠ざかっていった理由のひとつではないかと俺は思っている。禁断の恋愛ならともかく、恋愛自体に禁忌が潜んでいるなんて話をほがらかに受け入れられる社会ではない。
いったいどのような人物がこのような創作姿勢を一貫しえるのか。山本はまず詩人として世に現れた。彼女は60年代を代表する詩誌のひとつである『凶区』の数少ない女性同人だった。圧倒的な男性多数の世界であり、思わないところがなかったわけではないだろう。『愛の遠景』でも、登場人物のひとりが、日本では女性の小説家が独身であることはままあるが、どうして男性の小説家は妻帯するんだろうというようなことを口にする。次のような文章が登場する小説の中でである。
そんなことを考えずにいられなかったのも、わたしが澄夫に落胆したからだった。感想を結論からいえば、彼は母親という人間を生涯かかっても理解することのできない凡庸な息子だということにつきる。息子とは澄夫のようなおとこのことだ。そして母親とは、彼のような息子を作る女のことだ。*6
初期の彼女の詩はものものしい漢字が多い。おそらく他の同人や時代の影響もあろう。最初の詩集『壺の中』の「白の檻穽」(もうものものしい!)の最初を見てもこうだ。
蕁麻が見えますかあなたのまわりの。
跣で歩いたことがありますか
疼みをどうよりわけましたか
そうですか感じなかった……*7
小説において構造を平明に記述することに長けているだけあって、彼女にはアカデミックな語彙、かたい語彙をそれとして使いこなす理知があることは読者にもわかる。
「ねえ、ヨシコ、わたしたちスミオのことを誤解してるんじゃないかしら、なんだかとっても変な気持なのよ……。スミオの発言をとなりに坐っていた大学教授がいちいち引き継いで、うまいぐあいに膨らまして、もっともらしく解説してたじゃないの。あのひともしかしたらホモロジーの研究者じゃないかしら」
「ホモロジー……」
わたしはぽかんとした。「だってチアキ、シンポは都市計画と人間主義でしょ」
「きっとそうだ、シンポジウムをあいつはホモロジーでやっつけたんだ、そうにきまってる、ああ、どうしよう、スミオはあの教授に狙われてるんだ。あいつはホモセクシャルのホモロジーだわ」
「そんな、突拍子もないこといって、びっくりさせないでよ」
わたしは笑った。しかし千秋は大真面目だった。
「ヨシコにはあれがわからなかったの。……どうもおかしいと思った、なにかひっかかるのよ、スミオの発言は都市美学をふまえてるのよ、なのにあの教授は人間主義を変に韜晦させて……、ねぇ、こんなこと教授がいったでしょう、都市というのはギリシア的宇宙生成論からまったく進歩していないともいえるし、逆にそこに留まらざるをえないのが、我われ人類の宿命とも考えられる、つまり人類は宇宙空間に混沌の世界を発見した。そのカオスこそが現代の都市計画に命題をあたえつづけてきたのだ、とかなんとか。あいつが喋った都市論はホモロジーのメタファーよ、スミオにはわかっていたと思うわ、あとのふたりにはなにもわからなかったと思う、聴衆だって。あたりまえよ、理解できることばじゃないもの」
千秋は薄い闇にじっと眼を据えた。
「でも、わたしにはわかったんだ、……スミオは狙われてる、ねぇ、どうしよう」
わたしには千秋がなにをいっているのかわからなかった。しかしそれまで閉ざされていた彼女の思考経路に、画期的ともいえる流れの兆しを見たような気がした。とにかく千秋は澄夫というもっとも身近なおとこを、突然のように思いだしたのだ。そしてわたしはわたしでそんな彼女にひどく興奮させられた。*8
だが明らかにそれだけの理知ではないものが山本のなかでは働いているように思える。彼女は「骨と異物」という自伝的なエッセイを書いている。生後七ヶ月のころに彼女が開きっぱなしの安全ピンを飲み込んでしまった話なのだが、ここにうかがえる彼女の人物像は、ちょっと他の作家にはなかなか類例をみつけられないものだ。
この暗黒の宇宙に支えられて生きているのは、まぎれもない私自身だ。生後七ヶ月の私は、体内のピンの旅が終りをとげるまで、まるで母の軀の一部のように母に痛みをあたえながら生きていた。ちょうど家族の腫れものかなにかのように、のさばっていたことだろう。触るのも怕かった、と母は述懐した。
触るのも怕かった、抱えあげるのも怖ろしかった、その赤ん坊の体内からあれは何事もなく脱出してしまった。すっかり錆びついて変色して、あれは見るかげもなく身を窶していた。その旅が何日つづいたものか私は知らない。ともかくあれにとっても、母にとっても長い旅だったろう。
その後、二十数年の歳月をかけて、母は私を怕がってばかりいた。うちの子なのにどうしてこんなに怕いのだろう、と母はいった 。
わたしの親しみ深い暗闇の宇宙に、あのときあの異物を追い駆けてもうひとつの異物が投げこまれた。霊験あらたかな棘抜き地蔵のお守りである。*9
ここからは俺の感覚と勘の話であって証明するのは不可能なので話半分に聞いてほしい。古今東西、霊的なものに関心を持った作家はたくさんいる。だが、本当に霊的なものに接触する能力のあった作家、霊感のあった作家というのは、とくに日本の小説家にはほとんどいないと思われる。山本は「わたし」を通じて彼女たちの性関係をしばしば神話的に描写するが、神話的に描くことは実のところ霊的なこととはあまり関係がない。それは事態をすでに存在している物語構造に落とし込むということで、むしろ近代的な発想といえる。
それを踏まえても(詩人でもあったため純粋に小説家とは言えないが)、おそらく山本は「本物」だった。彼女自身が霊能力者なのかといわれるとそうではない気もするのだが、少なくとも何らかの形で霊的なものを感知していたというのが俺の仮説である。
『愛の遠景』で彼女は「見る」と「視る」を区別して使用している。「見る」が通常の視覚にたいして使われているのに対し、「視る」はそうではない。「視る」対象は「幻想」ではない。「幻想を超えたもっと澄明な世界」にたいして「視る」が使われているのだから。そこで他の部分も見てみる。
「死の亡霊っていうのは、シュールレアリスムの墓場のことだよ、千秋が知りあったその夫婦は、たぶん現世で生きるのはよそうと決めた連中だ」
わたしはぐったりしていた。まるで皿の上の腐りかけた魚のように。そして瞼の裏に赤紫の草原を視ながら澄夫の声を聴いていた。
「連中のまわりにはきっとあらゆる性的なものを表す記号が、ところ狭しと並んでいるはずだ、ぼくの考察によればの話だけどね」
彼のことばを一篇の詩のように聴きながら、眼のまえでしだいに深くなっていく夜をわたしは視ていた。(強調は引用者)*10
「赤紫の草原」のヴィジョンは澄夫が語ったところにはない。後半の「眼のまえでしだいに深くなっていく夜」は、その直前に「瞼の裏に赤紫の草原を視ている」ことからも「わたし」の通常の視覚ではありえない。先に引用した部分では「澄夫の家にはりつさんが視た幻影が浮遊している。彼女の夥しい蝶の群れは、たしかにいまでも薄いみどりいろの風になってわたしの瞼を掠めていく」とある。「幻影」は「幻想」ではない。「わたし」はりつさんが視たモンシロチョウやクロアゲハ、モンキチョウ、すなわち白、黒、黄の幻影を引き継ぎつつ、「薄いみどりいろの風」という通常の視覚ではありえないヴィジョンを「たしかにいまでも」視ているのだ。そして俺の「本物」という判断は、この風の色として「薄いみどりいろ」をあてられるということにある。意味連関から想像するだけで出せる色味ではない。
この、比喩に解消することがなんともギクシャクする山本の視的感覚は、彼女が残した二篇の詩を読むことで、なおはっきりするように思う。最初のものは彼女の第一詩集『壺の中』に収録された「二本脚の白い椅子」、もう一方は『山本道子詩集』に収録され、おそらく(現時点で)彼女の最後の詩である「どこへ行ってしまうの」である。長くなるがどちらも全文引用する。まず「二本脚の白い椅子」である。
二本脚の白い椅子
何かにつながりがあった。
とても薬品臭い身なりで
螢光色に蒼味を注がれ
在る場所に在った。
それは
まことしやかに居坐って眼鏡に手をやり
一点を凝視していた白髪の老婆に
とても似ていた。
何かにつながっているはずだった。
馥郁とした香木の脚を突きだし
夕映えに朱を注がれ
在る場所に在った。
それは
両の瞼を若さに鎖され
手探りで宝石函をまさぐる裸の娘に
とても似ていた。
何かに必ずつながっていた。
まさしく棒のような突ぱった脚を
木洩れ日に自由に注がれ
植込みの影で唇を尖がらし踊りまわる
蕎麦滓だらけの少女に
とても似ていた。
その時どきの光に染まり
不安定に
在る場所に在るだけで
それは
何かとつながっていた。 *11
反復を意識した、構造がわりあいはっきり見える詩で、描かれる「それ」(「二本脚の白い椅子」であろう)に似るものは老女から娘へ、娘から少女へと若返り、それに対応するように彼女たちは「居坐」り「一点を凝視」するところから「手探りで宝石函をまさぐ」り、最後には「踊りまわる」へ向けてどんどん運動を大きくしていく。登場する色は「螢光色に蒼味を注がれ」ていたり、「朱」であったり「白」であったりする。年齢に対応する色彩のイメージであろう。投射された光をそのまま反映する色は白である。白は同時に光においてあらゆる色を重ね合わせた末に現れる色でもある。白髪は物質であり色の三原色を本来適用すべき対象であるが、ここでの「白髪」には光の三原色を適用したい。年齢を重ねあらゆる色を浴びてきたうえでの「白」ととるべきだろう。「何かにつながりがあった」から「何かにつながっていたはずだった」、「何かに必ずつながっていた」を経て「何かとつながっていた」への変形は、老いて人生から自由になり世界を眺めるようになっていく視点(「まことしやかに」にはそんな老いの境地に漂うものへの不信も反映されているが)、思春期の挫折、幼年期の確信、視点を超えた普遍的なものと対応していよう。ここからはじまる、まだなにも固定されたものがない「不安定」という原初へ遡っていくように書かれたこの詩はかなり知的に作られているという印象をうけるが、色彩への感度や、「在る場所に在った」という、逆説的に場所性を喪失させる表現、実在が浮遊する表現がすでに出ていることには注目しても良いかもしれない。椅子は人に座ることを可能にさせる安定性を持ち、一息つくことのできる安心感を供給するものだが、「二本足の椅子」では安定することが難しい。これが人間に擬されるとき、人間は安定性と不安定性の間を揺れ動くことになる。時間の中で移り変わる人間存在の浮遊感と、原初への遡行、その過程に繋がっているであろう「何か」をここで山本は探求していたと思しい。
それから年月が経ち彼女が最後に到達した地点を見たとき、そこにある「椅子」はかつての「椅子」ではない。この詩には知性だけでは容易に還元できない、見慣れないながらもなにか確信されたヴィジョンだというほかない、異様な迫力のある世界が広がっている。
どこへ行ってしまうの
あなた黒い机がひとつあります
あなた蒼ざめた椅子がひとつあります
どこへ行ってしまったの
まだここにいるのでしょうか
昨日突然音がしなくなったのです
山小屋の扉を誰かがここへ遺していきました
ノブがこわれててどうしても開かないのでとてもくるしい
あなた音を一緒に捜しましょう
自然が日に日に遠去かるうめきを
ノックが止絶えてもそんなに気にしないで
あなたどこへ行ってしまうの
もう行ってしまったの
泣いたりしたこと忘れてください
とても恐ろしい
あのときの立体ホリゾントが
なにも憶えていないのです
あれは森の風景だったの
街の闇だったの
風さえも死んでいた
あなた
そんなに遠くならないで
笑ったりしないで
忘れられないわるい癖をゆるしてほしいの
たとえば急にめくらになることだって
勝手に朝をさけることも
わがままかもしれないけれどいつもくるしい
とても冷たい風 ああ
これは季節じゃないみたい
一月から十二月まで数えても今の今はどこにもない
何月でもない
ずっとずっとむこう側の嘘のようなアイボリイの地面
象牙のように冷淡な扉
どうしてもこわせない白昼
歩き廻るあなた
どこへ行くの
どこへ行ったの
歩きまわるあなた
弧を描くあなた円をつくるあなた
ナイフの切っ先とまったくおんなじ鋭角を歩むあなた
とても痛い
突き殺すなんてすばらしすぎる
今夜
今夜
今夜
オハヨオ
あなたとても蒼い椅子
あなた山小屋には黒い机
水がないの
どこへ行ってしまうの
ほかの場所にあなたはいない
この場所にしかあなたはいない
行ってしまうあなたはあなたではない
この場所にしかあなたはいない
でもでもでも
そしてどこへ行ってしまうのあなた*12
山本の小説家としての歩みはここからはじまる。
補足:YouTubeには山本の友人であり女性詩誌「ゔぇが」の同人でもあった詩人の吉原幸子による「どこへ行ってしまうの」の朗読がアップされている。放送禁止用語を含む部分の前後が削除されているが、元・劇団四季の女優であっただけあって大変いい声なのでここにシェアしておく。

