差別と友情あるいは恋愛はどう違うのか、あるいは違うのか

 差別が、関係を恣意的に分割することにあるのだとしたら、友情や恋愛  このふたつの包含関係はいまは問わない  あるいは家族愛といったもの、ようするに大概の愛は差別であるということになる。しかしそうなのか。友情や恋愛や家族愛といったものを差別から差別することはできないのだろうか  なぜそのようなことをしようと思うことができるのかについてもいまは問わない。

 おそらくそれは差別される悲しみと、失恋や友情の裏切りによる悲しみの場面を比較することによって可能になる。差別を差別しない立場からすれば、これらは暴力的に悲しみを与えるという点で等しく悪である。だが、ここで起きていることには微妙だが差別しうるものがあるように思う。

 裏切りや失恋の悲しさは、それをもたらすものがほかならぬあなたであることから来ている。それは代替不可能な関係であり、その終わりを宣告されることは耐え難い悲しみである。しかし耐え難いのはそれがほかならないあなたとの関係の喪失だからであり、現実的にはどうあれ、潜在的にはそこに和解への道がある。耐え難いことは耐えうることの証である。

 しかし差別による悲しみの場面を考えてみると、ことは微妙に違う気がする。あなたはほかならないわたしを差別するのではなく、わたしに偶然あるいは必然的にまとわりついてしまったひとつの、あるいは複数の属性を通じて暴力を加えるのであり、またこの暴力もほかならぬあなたが加える必然性をもたないものである。

 差別という力は一般的な、正規的(normal)な力、あるいは典型的(typical)な、類型(type)を刻印する力であり、それが振るわれる場面では、ひとはほかならないもの、個別的で分割不可能(in-dividual)なものであることを失う。しかしもちろんそれは普遍的な、宇宙的(universal)なものになるのではない。宇宙的なものから加えられる暴力は恩寵である。差別のあらわれる場はあくまで多数的、量的な、一時しのぎの、統計的な、堕落した、偽物の普遍性であるところの一般性である。

 差別はわたしを「ほかならないものではないもの」にすると同時に、あなたをも「ほかならないものではないもの」にする。一見この関係はわたしとあなたである必然性から解放されているという意味で、失恋や裏切りほど耐え難いものではないように思えるかもしれない。しかしこれは耐え難いものではないというより耐え難さが欠如しているという事態であり、そこには潜在的にも和解の可能性が閉ざされているという意味でより耐え難い。和解はほかならぬものどうしによってしか結びえない。耐え難くないことは耐え難いことの証である。

 差別の悲しみは、ただわたしが不合理な暴力にさらされることからのみくるのではない。常に具体的で個別的な存在が差別するのであり、わたしがあなたに差別されるまさにそのとき、わたしはあなたによってあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うと同時に、あなたによってあなたがあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うことになる。分割不可能であるはずのあなたが分割不可能な存在でありながら同時に一般的な存在に分裂するとき、分割不可能性は定義上喪失する。裏切りや失恋によって失われるのは、ほかならぬあなたとわたしが築き上げてきた具体的な関係だが、差別によってうしなわれるのは、その関係の可能性それ自体である。

 こう書きながら、なにかごまかしというか、無駄なあがきをしているような気もする。友情や恋愛は本当にほかならぬもの、分割不可能なものの場、あるいは宇宙的なものの場に属しているのか。やはりそれらもまた一般的な場に属しているのではないのか。

 それはそれとして具現化した一般性こそが社会である。したがって社会の言葉はすべて差別する。社会の言葉はわたしに自らを一般性として聞くように要請するからである。

 希望があるとするなら、言葉そのものが一般性に属しているのか普遍性に属しているのかをわたしたちが知りえないということである。受肉という出来事は、宇宙的な言葉が分割不可能な、ほかならぬあなたの言葉につながっていることを教える出来事だったのではないか。そして、宇宙的な言葉がほかならぬあなたとしてのあなたのもとへ降りてくるという事態を可能にした暴力=恩寵こそが、ほかならぬ愛だったのではないか、と思ったりする。

「すべて」を書こうとすること、つまりは「すべて『へ』」を書くこと 高橋源一郎『ゴーストバスターズ 冒険小説』

 この小説を書き始めた時、

 ぼくが決めていたこと   

 ①世界全部を入れる ②歴史全部を入れる

 ③愛と友情と哀しみを入れる ④読んでひたすら面白い(裏へ)

 ⑤なおかつ、今世紀末の日本文学を代表する(!)

 ⑥同時に、今世紀末の世界文学を代表する(!)

 ⑦そればかりか、21世紀の文学を予言する(!)

 ぼくの能力は出し尽くした気がする。

 いま、これ以上のものは書けない。(著者)

 

  高橋源一郎ゴーストバスターズ 冒険小説』1997年、講談社より発売された単行本の帯文より

 

 

「すべて」がやってきた

 

 高橋源一郎の『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み終わった時、それまで自分がほそぼそと建ててきた(つもりでいた)すべてがぶっ壊れた。文学に限ったことではない。

 それまで俺は様々なことについて「どこかにもうある程度のものは建てられていて、自分はそこになにほどかのものを付け加えられるだろうか」という風に考えていたのだ。そしてそれは極めて恣意的な考え方だった。俺が勝手にそう信じ込んでいただけで、その姿勢でいいのかどうか、ちゃんと考えたことがなかったのだ。

 俺は俺の中に権威主義者を発見したのだった。

 権威とはなにかというと「説明をしないで済ませる力」のことだ。権威が発揮される場面というと、なにか「上」の人間や組織が「下」の存在に対して「説明しません」というパターンが目立つけれども、「自分」が「自分」に対して「説明しません」というのもあって、それは「誰か詳しい偉い人〜説明してください!」とか「説明しなくてもいいですよこうなんですよねそうすりゃいいんですよね」という形で「下」から「上」へ権威を与えるという動きを生み出す。なりたくもなかっただろうに「権威」になっちゃった人から漂ってくる悲哀というのはこのあたりに原因があると思う。権威は力であって人間ではない。力には経済があって、権威の経済は「上」と「下」という方向の概念を基盤として、権威という力を人々の営みのなかで循環させる。

 権威主義者でなくなるということは、「上下」の世界から脱出すること、説明、とくに理由を説明できる精神であり続けることだ。

 並大抵のことではない。一生かかっても俺にはできないかもしれない。

 しかし少なくとも俺は自分のなかに権威主義者を発見できたのだった。なにも進んでいないわけではないと思った。

 こうも思った。そもそもどこかで誰かが俺にとっての「すべて」を用意してくれているなんて、そんな話はないのだ。俺にとっての「すべて」は俺が自分自身で、素手で、ゼロからやっていかなければ触れることができないのだ。これはよく考えたら当たり前のことだった。恋について考えよう。すごい好きな人ができたとする。その人への「好き」が、「『好き』とは何かについて本や漫画やドラマや映画やアニメである程度知っているし先生や友人や同僚たちからも結構聞いたりしてきたから、今までに学んできた『好き』に加えてなにか独自の『好き』をプラスできたらいいなあ」みたいなものである、なんてことがありうるだろうか? だいたいこれじゃ「好き」の中に当の相手がいないじゃん。ガッときてバーン!でしょ。俺はこういうことに関して馬鹿で恥知らずなので正直にガッときてバーン!とか書いちゃうが、ともかく俺は自分で知っていたことすら知らなかったのだ。忘れていたといったほうが正しいかもしれない。人間は自分が知っていることしか知ることができない。でも自分にとっての「すべて」はみんな知っているのだ。まだ気づいていなかったり、忘れているだけなのだ。

 

すべての人はまったく同等と見なされます。しかしそうではありません。すべての人が同等に才能があるのではありません。才能は確かに至るところに流布しています。才能のない人はいません。才能がないなどということはありえないことです。かれらはみな才能をもっています。問題はどうすればあなた方のかけがえのなさが開花できるかということです。なぜなら自分自身のものでないものを学ぶことはできないからです。そんなことは不可能なことです。*1

 

 こうも思った。いったん「すべて」があるとしよう。「すべて」はすべてなのだから、「いつ」や「どこ」に限定されることはない。しかし「すべて」は「ある」、「存在する」ともいえない。「すべて」は「ない」、「存在しない」をも含んでいなければすべてではないからだ。

 そして「わたし」がある。

 このことから何が言えるか。「わたし」はいつでもどこでもほんとうは「すべて」に触れられるはずなのだ。生まれる前でさえ、死んだ後でさえ! そのことはずっとむかしから変わらなかった(なぜなら「すべて」は「すべて」だから)。そして「すべて」へ向かい続けてきた生命たちがいて(どうして人間だけが「すべて」に触れられると言い切れるだろうか。ヤモリによる「すべて」が、ハエトリグモによる「すべて」が、ヒマワリによる「すべて」がどうしてないと言い切れるだろう)、人間は表現をすることができるので、「すべて」に触れることのできた人間はおのおのの仕方で「すべて」を表現した。

「すべて」はもののような真理、対象にとれるような真理ではない。もしかしたらそういう真理もあるのかもしれない。だがそういう物質的な真理は、質量を、重力を持ち、必然的に重い。そしてそれはおそらく「すべて」につながっていけるような真理ではないのだ。

「すべて」はたしかに真理と繋がっている(もちろん「すべて」だから)。しかしそこでいう真理は、その「すべて」であることのうちにあるのだ。だから「すべて」を表現しているものたちの見た目がお互いに全然違ったとしてもそれは大したことじゃない。みんなそれぞれのうちに「すべて」を持っているのだから。継ぎ目のないネットワーク、全体である部分しかもたない全体、そういう真理のありようが「すべて」と繋がっている。

 そういう風に考えるようになってから『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み返してみると、この小説は「すべて」ではないような気がしたけれども、「『すべて』について書こうとしている小説」であり、また「『すべて』へと向かっていく小説」であるように思った。だから俺は最初にこの小説を読んだとき、「すべて」ということに気づけたのだ。単行本の帯の言葉を知ったのは、はじめて文庫版で小説を読んでから随分たったあとのことだった。

 

 とてもじゃないが高橋源一郎ゴーストバスターズ 冒険小説』のすべてについて書くことはできない。それは講談社文芸文庫版『ゴーストバスターズ 冒険小説』の「著者から読者へ」コーナーに「『ゴースト』の尻尾」というタイトルで収録された高橋源一郎の言葉を読んでみればわかる。高橋源一郎にとって小説を書くときに最も大事なことは「塊」=「小説の『魂』」の芽生えを捉えること、そしてその「塊」の秘密は「タイトル」の中に眠っているということを書いている。 

 

 というわけで、『ゴーストバスターズ』である。

 ぼくは、この子に『ゴーストバスターズ』と名前をつけた。その名の通り、「ゴースト」をやっつける物語である。それ以外には、なにも決まっていなかった。ぼくは、登場人物たちに、「ゴースト」を退治に出かける旅に出るよう命じた。

「ぼくが、きみたちの旅を記録してあげるから」

 そして、「ゴースト」退治の旅を記録するぼくの旅が始まった。だが、その旅が始まった時、ぼくは、その旅が、どれほど過酷なものになるのか知らなかったのだ。

ゴーストバスターズ』は、最初の着想から完成まで、七年以上かかっている。いや、正直にいおう、ぼくが(登場人物たちが)退治しようとした「ゴースト」は、ぼくが(登場人物たちが)想像していたより遥かに巨大な怪物だった。ぼくは、その怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかったのだ。

 あれから十数年。ぼくは、いまも、ひそかに「ゴースト」を追っている。なんとか、「ゴースト」の背中を捕まえつつあるような気がしている。

 もしかしたら、この『ゴーストバスターズ』以降の小説もすべて、タイトルは『ゴーストバスターズ』でよかったのかもしれませんね。*2

 

 当の作者自身においてすら、『ゴーストバスターズ』は書ききれていないのだ。じっさい『「悪」と戦う』(2010年)を読んだ時、俺は高橋源一郎が10年以上の時を経てなおまだ『ゴーストバスターズ』でありつづけていることをまざまざと見せつけられ、その根性と体力と誠実さに感動した。『ゴーストバスターズ 冒険小説』はそれほどにデカいものなのだ。*3

 なので、ここでは、タイトルと、扉に引用された詩、冒頭について書く。「すべて」への扉はどこにでもある。大事なのは最初、ゼロ、冒頭に出会うことだ。

 

タイトルのふたつの由来

 

 『ゴーストバスターズ 冒険小説』。

 この小説のタイトルを見た時、いくらかの読者は「ああ、あの映画の」と思い、多くの読者は「妙な副題だな」と思うだろう。なんでわざわざ「冒険小説」って入れるの? 読んだらそう分かるんじゃないの? ここにはふたつの元ネタがあり、ひとつは言うまでもない、1984年に公開された映画『ゴーストバスターズ』だ。もちろん単にタイトルを拝借したというのではない。重要なところをピックアップしていこう。

 ①映画『ゴーストバスターズ』において最初にゴーストが登場する場所はニューヨーク市立図書館、世界最大級の公共図書館だ。そしてゴーストバスターズのひとり、イゴン・スペングラーは、電話番や受付を担うゴーストバスターズ事務員のジャニーンに「読書はお好き?」と聞かれ、「活字は死んだ(Print is dead.)」と答える。ジャニーンは読書が好きで、インテリの趣味にぴったりだと思っている。「ゴーストバスターズ」の面々は大学を追放されたインテリたちだが、最後まで(少なくとも趣味としての)読書をしているような形跡はない。この映画はすでに最初から、1980年代における書物の凋落をバックグラウンドに抱えていた。すでにニューヨーク市立図書館は「遺跡」だった。これは同時に、ニューヨーク市立図書館が「遺跡」である1980年代アメリカの世界と、ゴーストの世界をつなげる役割を果たす人間は、読書が好きな事務員である、ということも意味している。

 ②最後のゴーストもまた「遺跡」に現れる。最後の戦いの舞台となった奇怪なマンションは、イヴォ・シャンドアというヤバい医者の手によって設計されたのだが、そのきっかけは第一次世界大戦だった。戦争による世界への絶望が彼を破滅の神への信仰に走らせたのだ。

 ③大学を追放されたあと「ゴーストバスターズ」を起業した面々が発信するテレビCM。ここには「We're ready to believe you(あなたを信じる用意はできています)」、字幕では「いかなる話も信じます」という台詞が出てくる。小説、近代の小説においていまだ巨大なメルクマールであり続けているセルバンデス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語を信じ込んでしまった男ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと、騎士道物語を信じ込んでいないお供のサンチョ・パンサを主人公とした、騎士道物語のパロディとして世に現れた。小説は聖典ではない。つまりそれは信じられるものではない。小説家は伝えるに値すると信じる何か、自分自身でもはっきり掴めているかどうかすら分からない何かを、不信を通じて  それは単に通り過ぎる、通り抜けることができるというようなものではなくて、格闘、それも自らの影との格闘を強いられ、通り抜けられるかもわからないようなものなのだが  人々に届けようとする。それはゴーストバスターズたちの「We're ready to believe you」とは対照的な姿勢だ。どうしてゴーストバスターズたちはそうあることができるのか。

 ④それはラスボスのことを考えるとはっきりしてくる。ラスボスたるゴーザ神は、最初こそ人の形をしているが、途中で姿を消す。そして空と扉が光り輝く中、ゴーザ神の声だけが聞こえる。ゴーザ神はゴーストバスターズたちに「この世に破壊を持たらす者の形」を選択させる。何も考えなければ、イメージを思い浮かべなければ大丈夫だとにらんだピーターの声掛けも虚しく、レイが「マシュマロ・マン」をイメージしてしまったため、ゴーザ神は破滅をもたらす「マシュマロ・マン」を降臨させたのだった。ここに映画『ゴーストバスターズ』と高橋源一郎の小説『ゴーストバスターズ』の最大の違いがある。映画において、ゴーストは基本的に「映る」のだ。難しい言い方をすると、映画の力はゴーストを表象可能にしてしまう。表象できてしまえば対象にとれるようになる。目の前に見えているのに見えるも見えないもない。ゴーストバスターズの面々は、ニューヨーク市立図書館における「ゴースト」との初遭遇のときこそなすすべがなかったものの、すぐに「原子力エネルギー」を用いるなどして対ゴースト装備を次から次へ準備し、実際ゴースト退治に成功してしまう。納得できるような原理の説明はない。そういうものだからそうなるのだ。最初の最初から「ゴースト」とは何か、と考えようとしたときに、表象可能であることを前提にしていいのだろうか?

ゴーストバスターズ」というタイトルが高橋源一郎の元に降りてきた。このタイトルの中に「塊」=「小説の魂」の秘密が眠っている。この映画『ゴーストバスターズ』には戦争を、小説を、文学を考え続けてきた高橋源一郎にとって無視し得ないものがたくさん含まれていた。この映画は明らかに「活字は死んだ」→「小説は死んだ」という認識の上で撮影されており、なおかつ戦争というものがまだ終わっていないことを認識している。しかし映画『ゴーストバスターズ』は本当に「ゴーストバスターズ」の秘密に触れることができたといえるのだろうか?

 こうして『ゴーストバスターズ』は、『ゴーストバスターズ』でありながら『ゴーストバスターズ』でないものを書くとなったときに、これ以外にありえないタイトルとして降りてきたのだと俺は思う。

 

 もうひとつの由来、というか副題の「冒険小説」にも由来があるのだ。それは自分の指の間から砂になった水のようにこぼれ落ちていくアメリカを見つめ続け、詩であるままに(散文詩的に書くということではなく)小説を書くという、英雄的としかいえない行為のうちに斃れたアメリカの詩人であり小説家、リチャード・ブローティガンだ。

 ブローティガンは、邦題では『愛のゆくえ』となっている『中絶:歴史的なロマンス1966年』から、異なるジャンルでアメリカを描くプロジェクトを始めた。そしてその中に『ゴーストバスターズ』にうってつけの作品があるのだ。それは『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』である。翻訳者の藤本和子による解説によれば、ブローティガンはこのどこかギクシャクしたものを覚える小説の映画化を目指し、シナリオを書いていたらしい。高橋源一郎はそのことを知っていたはずだ。それ以前に自分の小説に書いているのだから。

 

 わたしは悲しかった。

 わたしは「現代名文全集」に必ず載っている「さきにて」の哀れなはちたいのように悲しかった。

 わたしが蜂だったら、絶対に志賀直哉の前では死ななかったのに。

 蜂さんたち! どうせ死ぬならリチャード・ブローティガンの前で死ねば良かったのに。

 

〈ホークライン家の怪物・パート2〉はかんのビールを蜂の上からぶっかけた。

「いつまで死んだまねをしてやがるんだよ、ばーかめ!」

 死んでいた蜂はあわてて生き返ると、メガネを探した。

「ないぞ! ないぞ! 昨日、丸井のクレジットで買ったばかりの境い目のない遠近両用メガネ『バリラックスⅡ』が見つかんない!』*4(強調は原文ママ

 

 『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』はハワイから始まる。そこでは殺し屋のふたり、グリアとキャメロンが、地元である東オレゴンの服装、すなわち「カウボーイ」の服装をしてターゲットを暗殺しようとしていた。だが無理だった。ふたりには殺れなかった。そしてふたりはアメリカ本土に帰って来る。オレゴン州ポートランドで彼らは、彼らへの依頼を携えた「マジック・チャイルド」という謎の少女に導かれ、「死の山」を越えて、東オレゴンの辺境にあるホークライン家の屋敷にたどり着く。そこで依頼人のミス・ホークラインから「怪物退治」を依頼されるのだ。*5ここに『ゴーストバスターズ』のブッチ・キャシディサンダンス・キッドの影を見るなという方が難しい。

 

The History of Bolivia

 

"Butch didn't die in Bolivia. He came

home to Utah I saw him after he got back.

The Sundance Kid was killed in Bolivia

and it grieved Butch to leave him there."

 

ボリヴィアの歴史

 

「ブッチはボリヴィアでは死ななかったのさ。

やつは故郷のユタに帰ってきていたんだよ。

わたしは、会ったから知ってるんだ。

サンダンス・キッドがボリヴィアで殺されたからね。

やつはとても悲しんでいたっけ。

あんなところにいつまでもいたくなかったのさ」*6

 

 そして『ホークライン家の怪物』に漂うギクシャク感の要因のひとつであろう、唐突に思えるエピローグ。ここで主人公がオレゴン州であったことがわかるのだが、さりげなく重要なことが書かれている。殺し屋のひとりであったキャメロンは、第一次世界大戦の直前に「映画プロデューサー」になったというのだ!

 小説ということをおいても年齢からしてかなり厳しそうなのだが、それでも映画『ゴーストバスターズ』を高橋源一郎に向けてプロデュースしたのは、このキャメロンではないのだろうか、と言いたくなる。

 まず「ゴーストバスターズ」というタイトルが降りてきた。そしてその秘密を探っているうちに、おそらく『ホークライン家の怪物』という作品、ブローティガンの遺した小説に、意識してか知らずか行き当たったのだ。だから必然的に、この小説の書き出しの一行目は「アメリカ」という固有名詞で始まる。21世紀にもし文学があるとしたら、とくに日本文学があるとしたら、日本文学が20世紀の自らを振り返るとき、その起点は1945年の敗戦によって始まるだろう。べつに「現代」仮名遣いだけの話ではない。いや、そもそも敗戦した日本が造られたきっかけもまた、「アメリカ」の黒船だったことを思い出さなければならない。近代日本文学は、日本とアメリカとの衝突によって生まれたのだから。

 しかしそんなデカい話を、このタイトルひとつから言ってもいいのだろうか。それを確かめるために、ある系譜をたどってみたい。それには『ホークライン家の怪物』から漂ってくるギクシャクのもう一つの理由である「怪物」について考える必要がある。ブローティガンをさらに遡り、「ゴーストの系譜」を追ってみよう。

 

ゴーストの系譜 

 

Formal Portrait

 

I like to think of Frankenstein as a huge keyhole

and the laboratory as the key that turn the lock

and everything that happens afterward as just the

         lock turning.

 

公式的な肖像

 

フランケンシュタインというと

わたしが連想するのは大きな鍵穴だ

なんだかそんな気がするな

すると研究室は錠を回すための鍵だろうか

誰かが鍵穴に鍵をつっこんだ

それだけのこと*7

 

 いきなりだが、俺はゴーストの「起源」がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』にあると考えている。

 

 サンチョ・パンサの言葉ではないが、何事にも始まりがあり、その始まりはそれに先立つものと結びついていなければならない。ヒンドゥー教徒はこの世界を一頭の象に支えてもらっているが、その像だって一匹の亀の上に立っている。創作とはしたがって、無ではなく混沌こんとんから生まれると認めざるを得ないのだ。まず第一にかたちのない素材があって、それにかたちを与えていくのであって、かたちから材料が生まれてくるわけではない。発見でも発明でもすべて同じことで、仮に創造にかかわることであっても、わたしたちは常にコロンブスの卵の話を思い出す必要がある。創作は、ある主題に込められた可能性をつかみ取る能力、その主題がつむぎ出すアイデアをかたちにする能力があってはじめて成し遂げることができるのだ。*8(強調は引用者)

 

 よく言われる話だが『フランケンシュタイン』に出てくる怪物の名前は「フランケンシュタイン」ではない。怪物には名前がない。フランケンシュタインジュネーヴに生まれ、怪物はインゴルシュタットで生まれた。怪物の作り方のベースには生理学があっただろう。怪物の創造、その核心部分はフランケンシュタイン自身の考えによってこちらには明らかにされない。どうやら怪物の作成にあたり、フランケンシュタインは人間に限らず、多くの動物の死体を材料にしているようだ。心さえなければ美醜に苦しむこともなかった。これ以上ないほど醜い怪物は、創造主たるフランケンシュタインに対して、自分と同じように醜い女の怪物を作れと迫る。

 

「願いを聞いてくれれば、おまえの前にも、いや人間の前には二度と姿を見せない。南アメリカの広い荒野へ行くつもりだ。」*9

 

 北西アメリカ、すなわち東オレゴンであれば完璧だったのだが、そこまで符合を求めるのは贅沢だしやりすぎというものだろう。ヨーロッパで生まれた怪物は、ヨーロッパにいてはならない。怪物はアメリカに去らねばならないのだ。そしておそらく小説の20世紀とはアメリカの20世紀だったのだった。ジョイスプルーストらが巨大なヨーロッパの花火を打ち上げ、カフカが『アメリカ』の途上で倒れたあと、フォークナーが、ヘミングウェイが、フィッツジェラルドがやってきて、ビートニクが、ブラッドベリやらウィリアム・ギブスンやらありとあらゆるSFが、そしてピンチョン、スティーヴ・エリクソンが……というようにして、世界はアメリカが書くということになった(ところでドス・パソスのU.S.A.三部作は新訳出ないんですか?)。*10

 

 ブローティガンの娘は1960年に生まれる。アイアンシ(Ianthe)という名の娘はブローティガンが死んだ翌年、エリザベスという女の子を産んだ。

 

かれが死んで一年後に、アイアンシは女の子を産んだ。名をエリザベスとつけたが、それは彼女のミドル・ネームでもある。アイアンシという名はギリシャ語で「紫の花」を意味している。詩人のシェリーが自分の娘につけた名で、いい名だといって両親は生まれた娘にそう名づけたのだったが、「変わった名だから、こんな名はいやだ、と思うようなことになったら、きみはミドル・ネームのエリザベスを名乗ればいいんだよ」と父ブローティガンはいったという。*11(強調は引用者)

 

 ここで「詩人のシェリー」とあるのが、『フランケンシュタイン』の初版で作者に成り代わって序文を書いた男、メアリー・シェリーの夫パーシー・シェリーにほかならない。パーシーは前妻ハリエット・ウェストブルックとの間に生まれた娘にアイアンシと名付けたのだった。

 フランケンシュタインという、知への情熱と名誉に憑かれた男が怪物を作り出す。そして彼がその怪物退治を、かつての彼と同じ種類の情熱を燃やす(その対象は新しい北極方面への航路開拓や磁力の秘密の解明といったことだが)、冒頭の手紙の書き手ロバート・ウォルトンへ継承しようとする。怪物の創生と退治、その継承というテーマは、パーシーをフランケンシュタインと見立てたときさらに重層性を帯びてくる。小説中、最初に「フランケンシュタイン」という語が出てくるのは、恩師ヴァルドマン教授と会話をする場面だ。

 

教授が言葉を続けるに従い、わたしは自分の心が、触れることができるほど近くの敵と戦っているような気分になっていきます。わたしという存在をかたちづくっているさまざまな鍵盤の一つ一つに触れ、次々に和音が奏でられ、まもなく頭のなかが一つの考え、概念、目的によって満たされる。これだけのことが成し遂げられたのだ、わたしのなかにあるフランケンシュタインの心(the soul of Frankenstein)がそう叫び声をあげました。*12(強調は引用者、英語原文はProject Gutenberg(https://www.gutenberg.org/files/84/84-h/84-h.htm)から引いた。)

 

 ここですでにしてヴィクターはその表現の仕方の通り、自分のうちにある「フランケンシュタインの心」を他者であるかのように見つめている。怪物の名前が「フランケンシュタイン」と誤認されることにもいわれがないわけではない。確かにヴィクター・フランケンシュタインはすでに怪物を作る前から怪物じみたものを持っていた。

フランケンシュタイン』初版の序文は、妙な昂揚感と浮足立った自信がある。新規性を訴え、自分の成果を誇る(「これまでにないもので、その意味で評価の対象になるだろう」や「大胆な新機軸を打ち出した」)。1831年版の「まえがき」において、メアリーは初版の序文が代筆された事実を明かしている。

 

 初めはわずか数ページ、短い話にするつもりだった。しかしシェリーが、そのアイデアを発展させて、もっと長いものにしたほうがいいと言ったのである。とはいっても、事件一つ書くのにも、あるいは一つながりの感情を描くのにも、夫の助けを借りたことはない。彼の激励がなければ、今のようなかたちでこの物語が世に出ることはなかったのも事実だが  。ただしここでも例外があることを言い添えておかなければならない。すなわち、わたしの記憶によれば、次に掲げる初版の序文は、すべて夫のシェリーが書いたのである。*13

 

 ここにおいて「ゴーストの起源」としての『フランケンシュタイン』は最大の広がりをもつことになる。パーシー・シェリーはその激励によって「メアリー・シェリー」という小説家を創造したのだが、彼は自らがその「メアリー・シェリー」に成り代わって序文を書くところまで突進した。*14まるでフランケンシュタインがことの最初から怪物たる「フランケンシュタインの心」を持っていたかのように。そしてここで造られた「怪物」は意志を持っており、後年その手によって「私はフランケンシュタインに造られたのではない」と宣言する。しかしそれですべてがすっきりするわけではない。そのことは『フランケンシュタイン』のような作品を創作すること自体に関わっている。「現代のプロメテウス」としてのフランケンシュタイン。プロメテウスは神の領域にあるはずの創造の火を人間の手に引き渡した。その罪によってプロメテウスは罰されることになるわけだが、ここでメアリーが創作を、無からではなく混沌から生まれるものだと考えていたこと、そしてその創作には創造にかかわることさえも組み入れていたことを思い出す必要がある。フランケンシュタインが怪物を作ったことと、メアリーが『フランケンシュタイン』を書いたことと、パーシーがメアリーに対してやったことは、どれほどの違いがあるのだろうか。もし創作と創造の根本に本質的な違いがないとしたら、つまり神の手にある創造の火と人間の手にあるそれとの間に本質的な違いがないのだとしたら、あのフランケンシュタインが行った「怪物」の創造が悪であることは、創造そのものが悪であること、少なくとも創作することそのものが悪である可能性を示唆してはいないだろうか。

「ゴーストの起源」には「小説を書くことそのものの悪」というテーマが潜んでいるのだ。

 

 メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に比べると、ブローティガンの『ホークライン家の怪物』には「小説を書くことそのものの悪」というテーマの影は薄いように思える。そんなことブローティガンは考えなかったのかもしれない。だがこのテーマをまっすぐ書きえなかった理由の一端は分かる。先にも書いたことだが、『フランケンシュタイン』の頃にはなかったものが、『ホークライン家の怪物』の舞台となった1901年にはすでに登場してしまっている。映画だ。もはや物語といえば文学、という図式が成立しなくなっていくだろう。東オレゴンのホークライン湖。

 

そこはオレゴン州でもかなり辺鄙な土地で、道路もひどく貧弱だったから、その湖が人の多く集まるレクリエーションの場として発展することは全然なかった。現在も訪れる人はすくない。*15

 

 ホークライン湖、ひいては東オレゴンとは小説のことでもあるのだ。現在も訪れる人はすくない、そんな土地。先述の通り、殺し屋のひとりであるキャメロンは映画プロデューサーになったのだった。『フランケンシュタイン』は何度も映画化されたが、結局今になるまで『ホークライン家の怪物』は映画化されていない。こんなに映画化されなかった理由の一つには、おそらく、ブローティガンが書いた怪物が妙に複雑でイメージしにくいということがある。フランケンシュタインの怪物は生理学を基調としていたが、ホークライン家の怪物は化学、それもミス・ホークラインの父の化学実験から生まれたらしい。しかしミス・ホークラインがいうには、それは実験の途上にあるものであり、娘としては父に託された実験を完遂したい、犬が食われたりしたのは実験の途中で起きた事故のようなものだというのだ。いっときはそのものずばり〈化学物質〉と呼ばれることもある怪物だが、しかし〈化学物質〉それ自体が怪物なのではない。〈化学物質〉だってもとはといえばミス・ホークラインの父親の最後の実験をそう呼んでしまったのがはじまりだ。〈化学物質〉に電気を通した結果犬や父がいなくなるなどの変なことが起こって……ああややこしい!

 だいたい怪物の見た目がよくわからない。少なくとも『フランケンシュタイン』の怪物のように掴めそうには思えない。怪物たる〈化学物質〉は光を発し、そして影を生む。〈化学物質〉には古今東西のありとあらゆる物質が混ぜ合わされている。エジプトのピラミッドからとってきたもの、古代中国、ローマ、ギリシャからのものもある(アトランティスのものさえも?)。混ぜ合わされた〈化学物質〉に電気を通すと(この点『フランケンシュタイン』を生み出したガルヴァーニ電流の発見を思い起こさせる)、おかしなことが起こった。まだわからない。怪物が怪力を持ち、吠えたてることは分かる。だがどんな見た目をしているのか、わからない。そもそも怪物は作中で姿形を自由自在に変えている。その正体らしきものが書かれている部分を引いてみよう。

 

しかし、怪物が〈化学物質〉中で変質した光によってつくりだされるイリュージョンであるとは、ふたりは気がつかなかった。光はその意志を作用させて人間の心と物体を左右させる力を持っていて、そのいたずら好きの心に合うように、現実の性格そのものを変えてしまうのだった。

 光は胎児が臍の緒をとおしてしか夕食をとることができないのとおなじように、〈化学物質〉から滋養をとらなければならなかった。

 短い時間なら、光は〈化学物質〉を離れていることができるが、生気を回復するためにも眠るためにも〈化学物質〉へ戻らなければならない。光にとって、〈化学物質〉はレストランでありホテルである。

 光はいくつもの小さな可変性の形たちに変身することができて、仲間に影を連れていた。影は滑稽な変種で、全面的に光に屈従していた。じぶんの役割にはかなり不満で、〈化学物質〉の中を調和が支配していた昔のことを思い出すのが好きだった。*16

 

フランケンシュタイン』は創造された過程こそヴェールに包まれているが、その見た目自体ははっきりとしており、カメラに映しやすい。いっぽうで『ホークライン家の怪物』はカメラに映ることに抵抗しているように思える。というか、この怪物、すなわち光によってつくりだされるイリュージョンというのは、映画そのものではないか。映画それ自体を怪物として映画が撮ることはできない。その点ではデニス・ホッパーすら失敗してるんだぞ。『ラストムービー』大好きだけど。古今東西あらゆる物質を混ぜて造られた〈化学物質〉。それは歴史のことだ。エジソンを見ると、電気を流すと映画ができたことがわかる。1895年、アメリカの海の向こう側でやはり映画を作っていた兄弟のファミリー・ネームが「リュミエールLumière, 光)」であることにはいつまでも感動させられるが、光によってつくりだされるイリュージョンは、ここでは怪物と呼ばれるのだ。いったいブローティガンは、マジにこんな小説を映画界に売り込めると思っていたのだろうか? でも映画化するのか……マジで? 2020年にヨルゴス・ランティモスが映画化するってニュースがあったけどそれから続報聞いてないが……*17

 

『ホークライン家の怪物』が『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ 冒険小説』を橋渡ししていると強く感じられるのは、殺し屋ふたりがミス・ホークラインから怪物のことを聞こうとするシーンだ。ミス・ホークラインは怪物の話をしようとしているのに、なぜか別の話になってしまう。いつの間にかハワイの話になったりするし、怪物の潜んでいる場所をめぐる「地下室の下にある氷の洞窟」と「地下室」との混同に躓いたりする。重要なのはその後のシーンだ。また話がおかしくなりそうになるところで、その台詞は発される。

 

「また話が脱線してるわ」ともうひとりのミス・ホークラインがいった。「どうなっちゃってるんでしょ。説明するのは簡単なはずなのに、なんだか急に、とてもこんがらがっちゃった。話がどんどんおかしなほうへ行っちゃって、まるで変だわ」

「キビ悪いな」といったのはグリアだ。「いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか

「なに話してたんだっけ」と、ミス・ホークライン。もうひとりのミス・ホークラインのほうを向いた。「なにを話してたか思い出せて?」

「忘れちゃった」ともうひとりのミス・ホークラインが答えた。「ハワイのことだったかしら?」

「ついさっきは、ハワイのことを話してたさ」とグリア。「でも、そのあとは、なにかべつのことを話し合っていたのだ。なんだっけか?」

「ハワイのことだったかもしれない」とキャメロンがいった。「そう、ハワイのことを話してたんだ。あのさ、ちょっと、寒いみたいじゃないか?」*18(強調は引用者)

 

いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか」。ここで怪物をめぐって、言葉という問題は直接的に小説の表舞台へせり上がってくる。ふたりの殺し屋が冒頭で暗殺に失敗したハワイ。ハワイの話がここでループしている。このループは『ゴーストバスターズ 冒険小説』にも受け継がれる、あるいは受け継がれてしまうことになる。だが『ホークライン家の怪物』ではグリアとキャメロンの殺し屋ふたりは怪物を倒すことに成功する。〈化学物質〉の瓶を見つけたキャメロンは、それが怪物の正体、というより、根源をなすものだと気づく。

 

 ホークライン家の女たちが語ったことから推して、これが〈ホークライン家の怪物〉の根源をなすものだとわかった。……そうだ、〈化学物質〉なのだ。かれは瓶からおよそ三メートルのところに立っている。そして、問題の怪物はその瓶から一・五メートルのところに"かくれて"いる。

 とつぜん、キャメロンががなり立てた。「おい、そこだ! それだっ!」

 グリアは、怒鳴り声をあげ指さしているキャメロンの方を向いた。なにがなんだかさっぱりわからない。なぜキャメロンは怒鳴っているんだ。全然キャメロンらしくない。だが、とりあえずかれは指さされている方角を見た。

〈ホークライン家の怪物〉も、なんだろうかと興味をそそられた。なんだっていうんだ? ここ、、だというのに、あっち、、、だというのはどういうことだ?*19(強調は引用者)

 

 そして怪物は意外な方法で倒され、怪物は屋敷ごと焼け落ちてしまう。スクリーンそのものでもあった屋敷はもうない。映画は焼け落ちた映画館では上映できないのだ。闇が、影がなければ光のいたずらはできない。そのきっかけは言ってしまえば見ての通り「あっち向いてホイ」のレベルの話だが、このわずかなことばのズレによって怪物の命運は尽きたことになる。

 なぜ『ホークライン家の怪物』は倒せたのか。それは、ややこしいとはいえ怪物が表象可能なものとして取り扱われていたからだ。怪物の根っこには物質があり、物質は表象可能なものである。ゴーストの系譜において、『ホークライン家の怪物』は『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ』のちょうど中間に位置している。表象可能であり、なんどもスクリーンに、ブラウン管に、ディスプレイに映されてきた『フランケンシュタイン』と、表象可能な根源=物質と、表象不可能な(なぜなら光は表象可能性/不可能性を可能にするものそのものであるから)本質の両方を併せ持つ『ホークライン家の怪物』。*2019世紀から20世紀へ、抽象化・複雑化と表象不可能性への道をじりじり進んでいく歴史。本編では叶わなかったであろう希望は叶えられ、「怪物」はヨーロッパから海を渡ってアメリカへやってきた。その「怪物」をブローティガンが蒸留し、キャメロンはそれを「ゴースト」として、映画としてプロデュースする。そうしてアメリカからやってきた『ゴーストバスターズ』にぶつかり日本で高橋源一郎が書いた『ゴーストバスターズ』においては、もはやゴーストは捉えきれない。そうやって「怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかった」戦いが、20世紀の終わりに戦われたのだった。

 

詩という「すべて」との対峙

 

ゴーストバスターズ 冒険小説』の冒頭にはエピグラフがある。こうある。

 

一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る  S・T 

 

 最初にこのエピグラフが印刷されたページが目に入ったとき、俺は「S・T」のことを「T・S・エリオット」が省略されたものに空目した(中途半端にものを知っていたっていいことはないね)。そんなわけないとすぐ思い直し、イニシャルが「S・T」になる詩人のリストを頭の中で探していった。そして一個も出なかった。なんにも知らんのじゃないか俺は。インターネットにすぐ逃げる。サミュエル・テイラー・コールリッジ……なわけないな。ディラン・トマスはD・Tだし(雲行きが怪しい)……となり、すぐに観念して本文で検索すると出た。すぐに納得した。これはShuntaro Tanikawa、谷川俊太郎の詩だったのだ。その後もインターネットをゴチャゴチャした結果、どうやら当該作が『世間知ラズ』という古書価のすっごい詩集に収録されていることが分かり、祈るように図書館を調べると、ありました。とても助かりながら『世間知ラズ』を借りると、それはとても素晴らしい詩だった。全文を引用するほかない。

 

一篇

 

一篇の詩を書いてしまうと世界はそこで終わる

それはいまガタンと閉まった戸の音が

もう二度と繰り返されないのと同じくらいどうでもいいことだが

 

詩を書いていると信じる者たちはそこに独特な現実を見い出す

日常と紙一重の慎重に選ばれた現実

言葉だけかと言えばそうも言えない

ある人には美しくある人には訳のわからない魂の

言い難い混乱と秩序

 

一篇の詩は他の一篇とつながり

その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり

詩もひとつの世界をかたちづくっているが

それはたとえば観客で溢れた野球場とどう違うのだろうか

 

法や契約や物語の散文を一方に載せ

詩を他方に載せた天秤があるとすると

それがどちらにも傾かず時にかすかに時に激しく揺れながら

どうにか平衡を保っていることが望ましいとぼくは思うが

もっと過激な考えの者もいるかもしれない

 

一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る

その味わいはぼくらをここから追放するのかそれとも

ぼくらをここに囲いこんでしまうのか

絶滅しかけた珍しい動物みたいに*21

 

 引用されたエピグラフがいつでも引用してきた文章に奉仕するわけではない。もちろん引用された文章と引用してきた文章が互いを全体として解釈しあうということもある。だがここで言いたいことはそういうことではない。

 思うに、対峙するエピグラフというのがあるのだ。『世間知ラズ』に収録された別の詩篇を見てみるとそのことはよりはっきりする。「北軽井沢日録」から何日分か引いてみよう。

 

小鳥たちは何故近づいてこないんだ

双眼鏡を片手に

もうずいぶん長い間ぼくは待ってる

 

やはり仲間はずれか

うたう歌が違うのか

 

そうなのさ

ぼくはいつの間にか

同じ歌を繰り返す退屈に我慢出来なくなった

ヒトという生きもの

 

結局ひとつ歌をうたっているに過ぎないのに

君たちの空から見れば

七月三十一日

太陽は光の網を張りめぐらす巨大な蜘蛛

捕えられてぼくはもがく

 

その快さが詩だとしたら

ヒトの手では救えぬものにぼくは執着している

八月十一日

 

我慢するしかないと思う

気にいらないすべてを

だってそれはそこにあるのだから

大昔から

どんなに言葉でごまかそうとしても

 

だからと言って唐突な喜びが消え失せてしまうわけでもないさ

ヒトはいつだってはみ出して生きてきたんだ

観念からも思想からも

たぶん神からも

八月十五日

 

蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない

だが世界を変えるのがそんなに大事か

 

どんなに頑張ったって詩は新しくはならない

詩は歴史よりも古いんだ

もし新しく見えるときがあるとすれば

それは詩が世界は変わらないということを

繰り返しぼくらに納得させてくれるとき

そのつつましくも傲慢な語り口で

八月十五日

 

ぼくらの土地に育った言葉は

おしゃべりを忌む

 

さらりと言ってのけて知らんぷりして

言葉に言葉を重ねたりせず

 

ほんとはいつでも無言を目指して

歴史なんてなかったかのように

いつでも白紙で今を始めて

 

言葉で捕まえようとすると

するりと逃げてしまうものがある

その逃げてしまうものこそ最高の獲物と信じて

 

この土地に育つ言葉は

この土地に

生まれたぼくらを困らせる

九月四日*22

 

ゴーストバスターズ 冒険小説』と『世間知ラズ』の両方の読者なら、たとえばここで出てくる「蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない」という一節から、小説内で躍動していたBA-SHOやSO-RAのことを思い出すだろう。いったんそれはいい。俺が言いたいのは、ここで引いてみた詩を読んでいると、谷川俊太郎がすでにこの詩集において「ゴーストとは何か?」という問いには答えていないものの、「『ゴーストを追う』とは何か?」あるいは「『ゴーストを退治する』とは何か?」ということについて、詩人としての立場からすでに答えを出してしまっているように思えるということだ。

 さて「一篇」へ、扉の一節へ戻ろう。

 なぜ高橋源一郎はここで「谷川俊太郎」と書かずに「S・T」と書いたか?

 答えのひとつは先にも述べた小説の冒頭にある。この小説は「アメリカ」からはじめなければならないということはすでに確認した。おそらく1997年当時だと、まだ日本人の姓名も英語表記では名、姓の順番に表記するのが一般的なはずだ。日本語と同じ順番で姓名を表記するハンガリー出身の有名な作曲家、ベーラ・バルトークの日本語ウィキペディアが、いつの間にか名前の表記を「バルトーク・ベーラ」に変更していたのが懐かしい。あれはいつのことだっただろうか。

 ともあれ俺はもうひとつの答えのほうが重要じゃないかと思っている。

 俺はこの「S・T」が、「E・T」に重ね合わされているのだと確信している。

 もちろんタイトルが『ゴーストバスターズ』という、映画からの直球の引用だからというのもあるが、それだけではない。*23なんせ谷川俊太郎は、火星人のようにデビューした詩人である。

 

火星人は小さな球の上で

何をしてるか 僕は知らない  

(或いはネリリし キルルし ハララしているか)  

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする  

それはまったくたしかなことだ*24

 

 詩人とは火星人であり、重力を逃れ自由にある。小説家は地球の地表で這いずり回る。「正義の味方」超人マンであるタカハシさんですらやはり地球の重力に縛られているのである。火星の蝶である詩人は光の網のうちに捉えられるのだが、それは光のうちにあるということであり、そこに影はない。つまりそこは闇や影、いいかえれば、ゴーストの領分ではないのだ。太陽の影というものはない。影を作り出すものがあるとしたらそれは詩人の身体だけだ。それが投影されうるのは光の網のはるか下に横たわる大地、地球の大地であり、散文の大地である。

 高橋源一郎谷川俊太郎は、これらの言葉がいつもある面では書かれただけ、言われただけであるということに敏感であり、「本心」やら「真実」やら「ほんとうのこと」と言葉の間に安定的な関係が結ばれうると心底からは信じていないという点において共通している。だがその共通点はそのまますぐに詩人と小説家との、あるいは詩と小説との和解が可能であることを意味するわけではない。「一篇」において詩と小説=散文は、天秤の両の皿にそれぞれ載せられるものとして書かれている。つまり詩と小説は天秤ということ、つまり平衡(とその破綻)という、「法」を超えた「法」によって隔てられている。

 詩のなかに出てくる「野球場」の言葉でこの断絶と和解をとりまく緊張はさらに高まる。高橋源一郎は『優雅で感傷的な日本野球』という小説を書いている。どうやら詩にも小説にも野球場があるのだ。「一篇の詩は他の一篇とつながり/その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり/詩もひとつの世界をかたちづくっている」としよう。このつながりが詩を超えてひとつの小説にも繋がりうるのだとしたら、E・Tとタカハシさんとの間には繋がりができ、それは谷川俊太郎高橋源一郎との間の繋がりへと降りてくるだろう。そしてそこには「日本文学」という野球場ができることになるだろう。だが谷川の詩を読む限りそんなことはできない。この詩篇には地名がない。それは「ここ」という言葉をぎりぎり許容するような世界において書かれる言葉である。谷川俊太郎の「野球場」は現実の地球上にはおそらく建設されたためしのない野球場なのだ。現実の野球場はどこかの土地に建てられる。それはどこかの国、領土をもった国家の土地に建てられるということだ。谷川の野球場は「『日本』文学」ではありえない。

 それでも高橋源一郎はS・Tを小説が始まる前の扉に引くことを選んだ。『E.T.』の差し伸べる人差し指が地球人の人差し指と触れ合う。E・Tの人差し指は光から指差されるのだが、タカハシさんの人差し指は光を指差そうとしている。この人差し指の先という一点に賭けられたものは、「すべてを書くこと」と「すべてを書こうとすること」の間にある計り知れないほどの距離を高橋源一郎が痛いほど認識していながら、そうするより他になかったこと、つまり、小説を書くということではなかっただろうか。

 ゴーストを見極めるために必要なものとはなにか。ゴーストを照らせるものがあるとしたら、それが光以外のなにであるだろうか?

 

「へ」を書くひと、高橋源一郎

 

 ここではタイトルと、扉と、冒頭それも「アメリカ」の一語の話しかしなかった。「タカハシさん」の飛行に関する素晴らしい部分について書かなかった。読んでて泣きそうになる「ペンギン村に陽は落ちて」の章について書かなかった(「死」は「ゴースト」ではない!)。映画のフィルムの両端を微妙にずらしてくっつけた、破綻するループについて書かなかった。それが20世紀の末に書かれ、ループしたフィルムの切れ端は21世紀に到達しようがないことについて書かなかった(端がないのだから、そして21世紀の予言は21世紀にあることはできないのだから)。「すべて」を書こうとするためには「すべて」を書くことに失敗することすら書くことのうちに含まれていなければならなくて、だから『ゴーストバスターズ 冒険小説』は「すべて」を書くことに失敗することによって「すべて」を書こうとすることに成功したということについて書かなかった。それは今から書くことだ。

 高橋源一郎は「なにか『を』』書く小説家ではない。「なにか『へ』」を書き続けてきた小説家だ。思えばデビュー作『さようなら、ギャングたち』からしてそうだった。「言葉のない世界」あるいは「言葉を失ってしまった世界」を生きる者たちが、その先「へ」と向かおうとしていた。読んでいて苦しくなる、しかし俺の大好きな『虹の彼方にオーヴァー・ザ・レインボウ』は、あの写真の部屋の外「へ」出ようともがいていた(この小説もループしていた)。小説の中に姿勢を書き込むということは、不動の、死んだ、物質である活字という条件を受け入れながら、しかしなお動くこと、動こうとすること、生きることを書こうとすることだ。いや、俺はこういうふうに言いたいのか。丸田洋渡の歌集『これからの友情』に多賀盛剛が寄せた文章はすべてが素晴らしくて、部分を引用することが難しい、というかできない文章で(でもほんとうはすべての文章がそうなんじゃなかったか。高橋源一郎もまた「本当なら全文引用したい」ということを折に触れて詩や小説に言ってきた人で、ひとつの小説を理解するためにはもう一冊分小説を書く必要があるとまで言っていたんじゃなかったか。違う作家だったっけ?)、これは嘘にしかならないのだけれども一部を引用するしかない。全文はみんなでよんでください。*25

 

note.com

 

にんげんはその日をぜんぶ記憶することはできひんけど、五百日かけてみえてくる人生がある、ひとつの短歌がにんげんからちょっとずつこぼれおちても、五百読んではじめてにんげんが手にふれられるものがあって、この世の歌集はだいたいこれくらいっていう短歌の数があるから、にんげんの手もその範囲におさまるんやけど、でもこれからの友情はそれをつきぬけてて、せやからはじめてとどくところがあって、できれば人生のなかの何時間かを確保して、この歌集をゆっくりいちどで読んでみるのをおすすめします、映画をいちどでみるように。それぞれの短歌を、じぶんのなかで、わかった、としないままで、手におえないままで。ざんねんながら、短歌はにんげんの手にはおえない、でも短歌っていう体験はあって歌集っていう体験はあって、その最良のものがもしかしたらこの歌集にあるのかもしれない。*26(強調は引用者)

 

 俺はこれは短歌に限った話じゃないと思う。俺は、人間は自分の手に負えないものを書くことができるということに驚き、自分にもできるかもしれないと思ってワクワクしてくる。たしかにフランケンシュタインは自分の手に負えないものを作った。でもそれ自体が悪いことだったんだろうか。あの、怪物を作っているときのフランケンシュタインが、どう読んでも喜びに満ち満ちている感じじゃなかったことが良くなかったんじゃないか。

 

建築家の仕事  私はこの話で終わらねばなりません  は、つぎのような空間、つぎのような研究課題を見いだすことだと思います。つまりアヴェイラビリティ  それはいまだここにはないものも、すでにあるものも含みます  が、あなたに語りかける空間へと成熟するためのよりよき環境を保持することができ、そしてあなたのつくる空間がやがて来る人への捧げものの所在地であることを真にあきらかにすることができる、そのような空間を見いだすことです。(中略)たんなる専門家ではなく、真の建築家であるべきです。専門家であることは、あなたを覆い隠してしまいます。あなたは居ごこちがよくなり、みんなと同じように大いに称えられるので、いつのまにか自分を忘れてしまいます。仕事の評判はよく、そして終日ゴルフへでかけても、建物はどっちみち建てられるでしょう。しかしそれが何になるのでしょうか。ジョイが覆われているところに、どんなジョイがあるというのでしょうか。ジョイこそがわれわれの仕事におけるキー・ワードだと思います。ジョイを感覚すべきです。もしあなたが行っているもののなかにジョイがなければ、真に働いているとはいえないのです。生き抜かねばならない貧しい時代はあるものです。しかしながら、きっとジョイはうち勝つでしょう。*27(強調は原文ママ

 

 ジョイ。読んでいて、あるいは書いていて胃潰瘍になるような小説ではなく、胃の調子が良くなるような小説が書けたら、と思う。現れる「すべて」が、よろこびから生まれてくるような「すべて」であってほしいと、俺は思う。

 

補足:もうひとりの「ゴーストバスターズ

 

 高橋源一郎が『ゴーストバスターズ 冒険小説』で追究したものを、全く別の分野で追究した人間がいる。精神科医神田橋條治だ。次の部分を読めばそのことが分かり、と同時に、ふたりの追ったものの微妙な違いも分かって来る気がする。

 

 文字の世界がファントム界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。*28

 

 医学を文学に濫用するなよ、という人もいるかもしれない。だが、初っ端からこうはじまる医学書というものは俺はほかに読んだことがない。

 

 医療の対象はヒトのいのちです。医療を根本から考える手始めに、対象となるいのちについて空想をめぐらしてみることにします。*29

 

 タイトルがもうすでに『「現場からの治療論」という物語』だ。俺はこのタイトルを見てすぐに、この本は医療の話であると同時に文学の話でもあると思った。空想は、メアリー・シェリーが小説を書くことよりも好きだったことだ。

 

 優れた文学的名声をもつ両親から生まれた娘だったから、わたしが幼い頃から文筆に手を染めようと考えたことに不思議はあるまい。子供のときから手すさびに文章を書き、与えられた遊び時間に熱中したのが「物語を書く」ことだった。だが当時は、もっと好きなこともあった。それは空中に城を築くこと  つまり白昼夢にふけることだ。いろいろなことを次々に考えては、それを主題に、頭のなかで一連の事件を組み立てるのである。そうした夢は、実際に書くよりも、幻想的でずっと心地よかった。*30

 

 ここで神田橋が空想し、物語るファントム(幻)と、小説家たちによって連綿と語られ続けてきたゴースト(亡霊)の違いははっきりしている。ファントムは取り憑かない。それはわたしたちの影のようなものだ。光とわたしたちがある限りファントムもありつづけるだろう。それは取り憑くということではない。ゴーストはそうじゃない。取り憑く。ファントムがいつ、どうやって、なぜゴーストになるのか、あるいは人間がファントムをゴーストにしてしまうのか、それはまだ俺にははっきりいうことはできない。だが次のようなことは言える。ファントムはたぶんバスターできない。だが、ゴーストはバスターできる。できそうな気がしたからこそ「ゴーストバスターズ」という言葉が生まれたんだろう。言葉というゴーストに取り憑かれてしまい、そのことに気づき、取り憑いてくる言葉を祓おうとする人々。言葉の力に自覚的であり、なおかつその力と対峙することを決めた人々。たとえばそういう小説家のことを「ゴーストバスターズ」と呼ぶんじゃないだろうか。

 

 

 ありがとう高橋源一郎

 

 

 空想の好きだったメアリー・シェリー。メアリー、あなたは本当に小説家になりたかった?

 

 

 魂をもって復刊してくれ。

*1:ルイス・カーン著、前田忠直編訳『ルイス・カーン建築論集』p13, 鹿島出版会, 2008

*2:高橋源一郎著『ゴーストバスターズ 冒険小説』pp373-374, 講談社文芸文庫, 2010

*3:よく考えると『ゴーストバスターズ 冒険小説』を書き終えた高橋源一郎がその後、タイトルモロの『あ・だ・る・と』(1999年)、田山花袋がアダルトビデオを撮り出す『日本文学盛衰史』(2001年)、「ニッポンのポルノ」と題された章のある『ゴヂラ』(2001年)、やっぱりタイトルモロの『官能小説家』(2002年)というように(文学史と)エロ方向へゴリッゴリに突っ込んでいったのは、「幽霊にはエロが効く」という、『今昔物語集』にすでに書かれているほどには伝統的な除霊の技術に則ったものといえるかもしれない。巻二十七第二十四話「人の妻、死にて後、もとの形となりて旧夫に会うこと」を読んでほしい(武石彰夫訳『全現代語訳 今昔物語集 本朝世俗篇下』pp85-90, 講談社学術文庫, 2016)。これは除霊しようと思ってセックスした話ではなく、セックスしたらうっかり除霊してしまったという話だが、除霊は除霊だ。ともかくゴーストとの戦いは長く、正体を掴む前に退却戦をしなければならない場面だってあるのだ。

*4:高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』p138, 新潮文庫, 1988

*5:『ホークライン家の怪物』は、村上春樹のモチーフにもつながりを感じる。とくに見分けがつかない二人の女(ミス・ホークラインとマジック・チャイルド)のヴィジョンはそのまま『1973年のピンボール』に出てくる名前のない双子を想起させる。『ホークライン家の怪物』の原作が1974年、藤本和子による邦訳が1975年、『1973年のピンボール』が1980年、そして『ゴーストバスターズ 冒険小説』1997年。よく言われることではあるが、ブローティガンが(おそらく藤本和子の翻訳を通じて)日本文学に与えた影響は巨大なものがある。それは少なくとも高橋源一郎と、高橋源一郎が最初にそのページ開いたとき「これ以上読んだらダメだ!」と思ってそれ以上読むのをやめた『風の歌を聴け』の作者である村上春樹、このふたりに共通する源流だった。

*6:高橋源一郎訳『ロンメル進軍 リチャード・ブローティガン詩集』pp62-63, 思潮社, 1991

*7:同上, pp38-39

*8:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp13-14, 光文社, 2010

*9:同上, p261

*10:フランケンシュタインは15歳の時期の回想として、家にたまたま来ていた優れた科学者からガルヴァーニ電流の話を聞いた話をしている。ガルヴァーニ電流の発見時期を考えれば、小説内の時代は1780年代から1790年代に限定される。ここでジュネーヴ生まれの同時代人としてジャン=ジャック・ルソーを思い出さないのは難しい。フランケンシュタインをルソーと重ね合わせてみたとき、(おそらく)多くの死体を材料に作り出された怪物は、それ自体怪物であると同時に平等からなる(材料である死体には男も女も人間も人間以外もない)民主主義そのものの具現化でもある。その怪物と「契約」を取り交わしたあとで、フランケンシュタインは「女の怪物」を作ることについての躊躇いを振り払うことができない。

 

すでにこの世に生まれた伴侶は人間のそばから姿を消すと誓い、荒野に潜んでいますが、今度の女とはまだそんな約束もしていません。思考力のある生き物として生まれて、自分の誕生以前に交わされた約束など聞き入れない可能性だって大いにあります。(メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p294, 光文社, 2010)

 

 ここにはメアリー・シェリーの母メアリ・ウルストンクラフトをその起源のひとつとするフェミニズムだけではなく、契約に関する重要な思考がある。自分の生前に結ばれた契約などというものは「思考力のある生き物」が聞き入れない可能性があるということだ。後代にヴェーバーが提起する「アンシュタルト」論のような、契約以前の所与であるかのように強制されるものとして国家や社会といった共同体を捉える見方とは逆に(所与とは時間を超えた過去のことでもある)、社会契約は現在を要求する。作者が王であるのか神であるのか最高存在であるのかは定かではない。だが「フランケンシュタイン」という特異な存在が自身の創造主に契約を迫るということは、単に父殺しの変形を意味するにとどまるわけではないだろう。人間が主権を持った人間として生まれるということは、単に人間がこの世界に生まれ落ちてくることを意味しない。小説がすぐれて近代的な文学の形式であるとことさら言うことに何か意味があるのだとしたら、そこにはすでにフランス革命以前から、ルソー以前から、ルソー的ななにものかが小説という形式のうちに告知されていたということになるのだろう。死者の一般意志が恐ろしいものであるということなのか、それとも一般意志自体が死体であるのかについてはいまだ謎に包まれている。

*11:藤本和子著『リチャード・ブローティガン』p93, 筑摩書房, 2025

*12:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p89, 光文社, 2010

*13:同上, p17

*14:これによく似た関係が、高橋源一郎の『官能小説家』にある樋口夏子(一葉)と半井桃水との間にも見出される。

*15:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』p233, 晶文社, 1975

*16:同上, p142

*17:『「女王陛下のお気に入り」監督&脚本家コンビ、ゴシック西部劇「ホークライン家の怪物」を映画化』

https://eiga.com/news/20200621/9/,2025年10月31日閲覧。

*18:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』pp103-104, 晶文社, 1975

*19:同上, p217

*20:ここでアメリカの建築家、ルイス・カーンが言った「自然のなかのいっさいの物質、つまり山、川、空気、そしてわれわれ人間も燃え尽きた光からできているということです。そしてすべての物質は使い尽くされた光です」(ルイス・カーン著、前田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』p18, 鹿島出版会, 2008)というフレーズが思い出されるが、ブローティガンは物質=光源→光の幻という形を取るのに対して、ルイス・カーンのそれは「光→物質=燃え尽きた光に投げかけられる→影=光に属するもの、光とともに現れるもの=存在」という形を取っており、対照的な違いがある。それは幻と存在の対比である。世界は光のうちに現れるが、映画は闇のうちに現れる。

*21:谷川俊太郎『世間知ラズ』pp58-59, 思潮社, 1993

*22:同上, pp62-74より一部抜粋

*23:BA-SHOやSO-RAはどうしてそうなるか、ここまで読まれた方はおわかりだろう。それはC-3POであり、R2-D2なのだ。『俳句鉄道888』は1977年に連載が開始された松本零士の漫画『銀河鉄道999』であると同時に、1977年に第一作目が公開された映画『スター・ウォーズ』でもあるのだ。

 

 光速で落下する「ヘーゲルの大論理学」の顔は宇宙戦艦ヤマト波動砲で撃ちぬかれたダース・ヴェーダのように官能的だった。(高橋源一郎著『ジョン・レノン対火星人』p67, 新潮文庫, 1988)


*24:谷川俊太郎『二十億光年の孤独』p72, 集英社, 2008

*25:俺は、歌集『これからの友情』のことを多賀さんが書くとき、ふつう作品名の表記に使われる二重鍵括弧を一度も使わないことが、これからの友情を単にひとつの作品としてしまう、いったん終わらせてしまうあり方のなかに閉じ込めようとしていないことに、その徹底ぶりにびっくりしちゃう。感動しちゃう。多賀さんって書いちゃった。アハハ!

*26:多賀盛剛さんが読む『これからの友情』  https://note.com/nanarokusha/n/n1d33d07de31c, 2025年10月22日閲覧。

*27:ルイス・カーン著、山田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』pp26-27, 鹿島出版会, 2008

*28:神田橋條治著『「現場からの治療論」という物語』p39, 岩崎学術出版社, 2006

*29:同上, p7

*30:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp7-8, 光文社, 2010

ハイデガーとSF

 マルティン・ハイデガーという哲学者がいて、どこかで「哲学は終わった」みたいなことを言って、相手に「哲学のあと何が来ますか?」って訊かれて「サイバネティクス」って答えたという話が印象に残っていて、今でもたまに思い出すことがある。

 ハイデガーが哲学だと思っていたものは「根源」について考えるような営みで、それは「ゆるぎないはじまり」を前提にしないと成り立たないことだった。ここで「サイバネティクス」というのは、あるシステムの出力が、それを出力したシステムに対して再び入力として返ってくる回路「のような」構造をとっているということで、大事なことはこのフィードバックによって回路全体の構造さえ変わってしまう可能性を持つということだ。確かにこれがやってくるとハイデガーが哲学だと思っていることはやれなくなる。なぜってもはやどんな前提も変わってしまう可能性があるからで、そうなるとどこから入っても「根源」とは言えなくなってしまう。*1

 俺は、ハイデガーという人は、最初の頃はあまりにも他人に向かって何か言いたいという気持ちが強くて、色々あって最終的に「聞くのが大事」ってことになった人だと思っていて、ハイデガーが「聞くのが大事」ってことに気づいてよかったなぁと思う。実際『存在と時間』はうるさすぎてあんまり好きじゃない。それに比べると最晩年の「物」や「建てること、住まうこと、考えること」は静かで、話を聞くようになった感じがする(「人の」話かはちょっと怪しいのだが)。ただ聞く、というのは出力ではないので、「サイバネティクス」の後にも思考がやれることとして残る、とは言えるかもしれない。しっかり受け止めることによってフィードバックの外側の声、フィードバックを超えてある永遠の声が聞こえてくるのかは定かではないけれども。

サイバネティクス」がもたらす世界観は地球に似ている。地表で今日も誰かが何かをやり、それが地表にフィードバックされて、地球はどんどん変わっていく。*2環境問題はもはや人間の視点でのみ重要な問題ではなくて、脱-人間中心主義的に捉えられるようになる。ただ「脱-人間中心主義的思考」というのは異様な字面で、人間はいまだに人間以外の知性体に出会っていない(とされている)のだから、なにをもって人間にそんなことが言えるのかと言いたくなるが、それでもやっぱりそれは可能だとされるようになったとは言えるわけで、それをもたらしたのは「技術」ということになる。

 ハイデガーにとって「技術」それ自体は(本人の好みは措いておくとして)善でも悪でもない。だが中立的なものではない。「存在」にとって「技術」は決定的な位置を占めるようになる。これは技術決定論ではない。それは「存在の真理」が明らかになっていく過程に「技術」が必然的に介在してくるということで、言い換えれば「技術」は「もたらされる何か」ではなく「もたらされる」という受動態のなかに浸透していく。

 このようにハイデガーの、「ナチズム」の技術観を理解したとき、SFについてのある定式が得られる。現代において、すべてのフィクションはSFである。厳密に言えば、言葉のいかなる意味においてもSFでないようなフィクションは存在しえない。

 しかしこんなSFの定義は、実際にSFの話をしたい人々にとってなんの役にも立たないだろう。あんまりにも広すぎる。実際20世紀のSFはアメリカ(そしてイギリス)で隆盛する。日本のSFも「ナチズム」的な技術観に立つわけではない。SFに登場する科学技術、そしてそれが存在する世界は未来的だ。しかしそれに対してそこで展開される思想に未来的なものはないといっていい。こうなるのは当然ではあって、SFは技術を仮説として利用し、それを書くのは現代の人間であり、その思想は現代(とそれまでの歴史的思想的遺産)に制約される。

 ハイデガーの「技術」は「存在の真理」と本質的な関わりを持つのであって、「未来」と本質的な関わりを持つものではない。そしてなにより「仮説」は中立的である。仮説は採用することもしないこともできるからだ。ハイデガーにとって技術は「仮説」ではありえない。ではハイデガー的SFはどこにあるのか、というと、これは定義通り、どこにでもある。というより見出されるのであって、現代を精密に描けば描くほどに、フィクションは「SF」に近づいていく。

 中立的な技術というリベラルな技術観自体が誤っているとも思わない(むしろそれは目指すべきひとつの理念であるとすらいえるかもしれない)。だが人間-技術-未来という単線的かつ静的な思考が隆盛するとき、これは図らずも媒介として人間と未来を短絡させる準-技術決定論をとることになり、*3人間観は昔ながらの主体に逆戻りする。このような図式の成立にこそ「技術」は関わるのであり、ハイデガーの「ナチズム」的SFは決して書かれることのないまま、「人間」や「世界」が静かに変動していく痕跡を描き続けている。

 

 

 

 

*1:初期の『存在と時間』でハイデガーが現存在の存在了解の話を念頭に「循環の中に正しく入っていくことが大事」的なことを言っているときの「循環」は、まだ「サイバネティクス」のように哲学に破壊的に作用するわけではない。ここでいう「循環構造」自体は静的で固定的な構造なので、それ自体を一個の安定した前提として取り扱うことができる。「サイバネティクス」は全体が動的で可変的なので、そういうわけにはいかなくなる。

*2:バタイユ「太陽」を反例に思い出す人もあるかもしれないが、太陽からの贈与という構造は(少なくとも数万年程度は)一定であろうと予想することができる。このようにして、地球は、地表で起きている物事のすべては、やっぱり「太陽からの贈与」など太陽系的制約を所与とした、大気圏下のサイバネティクスとして捉えることができる。

*3:決定論的図式」に「仮説性」が先立つためそれは純粋な技術決定論ではないのだが、「仮説性」は技術的なものの産物であるため図式全体は技術決定論の様相を呈する。このような意味で準-技術決定論と呼ぶ。美学者、批評家でありSF評論家の難波勇輝氏によれば、「SFプロトタイピング」とは「いずれ訪れるかもしれない近い未来、あるいは遠い未来からやってきた、“手触り”があって心に訴えかけるようなプロトタイプを作る実践的な手法」であり、「未来を考えてフィクションの形にし、現実をどこまで近づけたいのかバックキャストしていく。そして、今はこれができるかなと考えていく」ことを基本としている(『「SFプロトタイピング」で描く、“手触り”のある未来の価値と事業』https://dentsu-ho.com/articles/8567, 2025年7月13日閲覧)。これは一種のアブダクションを梃子として現実に接触するところまで磨き上げられた「中立的」技術観によって可能になるものであり、「SFプロトタイピング」は「準-技術決定論」の現在地を示すひとつの標識である。

平成という教室

 この世からもし「いじめ」というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います。

 

  五味太郎『大人問題』*1

 

 参政党ってなんなんだろうなと最初に思ったのはたしか2年前くらいで、梅田の大混雑する大阪富国生命ビル前交差点の真ん中で、「ひとり街宣」をやっている40代前半くらいの男性を見たときだった。「ひとり街宣」といってもとくにその人は演説してるわけでもなくて(スピーカーは足元に置いていたような気もする。止めたか休んでいたのかもしれない)、声掛けもしないまま(あるいは声がクソ小さかったのかもしれない)チラシをおずおずと前に差し出しては誰にも受け取られていなかった。完全に素人といった感じがあり、浮いてはいたが異様という風ではなかった。オレンジ色の政党シャツを着て青信号になっても歩かないことを除けば、そこを通る周りの人々にやすやす溶け込むだろうな、という人だったというのがあるだろう。いろいろと「すげーな」とは思った。一般的な政治組織なら素人に「ひとり街宣」なんてさせるか? 日中に経験者つけてやるだろ。しかしその男性はひとり黙々と立ってチラシを持った手を前後させていた。

 

 参政党の「憲法案」がひどいという話が目に入って、見るまでもなくそりゃそうだろう、現代日本にひどくない憲法を書けるだけの知性とハートのある人間なんかおらんでしょ……しかしひどくない「憲法」がありますか? 国って誰?何様? とか思いつつぼーっと「参政党 憲法」といったあたりで検索したんだろうが、「創憲チーム責任者(この字面からしてすでに凄い)」である安達悠司氏が東大寺学園を卒業して京大法学部を出た「エリート弁護士」であることが分かったり*2、やっぱり憲法草案*3がひどいなということが分かったりした。なぜひどいなと思ったのかは後に回すとして、俺が「んんー……」という気持ちになったのはその安達氏が書いた「参政党の憲法草案」という記事を見てからだった。

 

go2senkyo.com

 

 「参政党創憲チーム」は新憲法草案を作るに際し、「今までのいくつかの常識を取り払わなければ」ならなかったという。そうして出てきたのが、

 

憲法は国民の思いやアイデアを形にしたもの

②法律の専門家の難しい議論から出発するものではない

③一人一人が憲法に入れたい条文を全国の党員から集めたい

 

という3つの発想だ。俺は①に「そうかなあ」と思い、②に「その通りだ!」と思い、③に「マジで!?」と思う。そして俺は次の部分に衝撃を受ける。

 

このような発想に立って、まず10人余りのメンバーで条文アイデアを出し合い、憲法案の試作をしました(一昨年5月)。  

 

次に、全国で憲法のグループワークを開き、約1時間で憲法案をつくって模造紙で発表してもらいました(昨年1-2月)。  

 

最後に、全国の各地域(11ブロック)から半年ほどかけて憲法案をつくり発表してもらいました(昨年12月)。    

 

こうして全国から集めた多くの案から、できるだけ重なっている部分を中心に抜き出し、構成を組み立て、33か条にまとめました。*4

 

 正直、感動してしまったところがある。何に感動したといえば、人々が3年という時間をかけて一生懸命にやってきたことがわかるからであり、俺は人が一生懸命にやっていることに素朴に感動するのでやっぱり感動する。一番感動したのは「模造紙」です。すごくないですか? この記事を読むまで「模造紙」という発想は俺にはなかった。やっぱり憲法をゼロから作るならデッケエ模造紙を広げたいだろ。お高く止まった巻物やら石碑やらじゃなくてさあ!

 そして、俺がこの記事で一番「んんー……」となったのもこの引用部分ということになる。

 

 この記事は参政党についての記事ではないのでここで参政党の憲法草案のどこがひどいと思ったかを説明する。参政党は「改憲チーム」ではなく「創憲チーム」で憲法草案を作っているので、これはゼロから新しい憲法を作るということになり、すなわち新しい国を作るということになる。

 大日本帝國憲法から日本国憲法へ移り変わったとき、憲法は文体を変えた。文語体から口語体へ。新しい国は新しい言葉によって作られる(ついでにいえば、大日本帝國憲法ができたときは、近代的な「憲法」自体が新しい言葉だったんだと思う)。小説と一緒で、冒頭がダメなものは話にならない。俺はこの憲法草案を読めない。憲法としては新しい文体だという人がいるかもしれない。この草案の前文を、口語体になった日本国憲法の前文よりはるかに読みやすいと感じる人がいるかもしれない。だが俺はこれを「新しい文体」として認めることができない。秩序の「序」が変換できないのはまだいいとしよう(んあ?)。同じ前文の中に「国」と「國」の表記が並列するのは、「体」と「體」が並列するようなもので、そんなからだは分裂している。そうなってしまえば当然ひとつの「文体」にはならない。そしてこの憲法草案の中で、「國」という表記が使われるのは「國體」だけだ。

 

 なぜこんなことになるのかは想像がつくというか、草案三十三条憲法改正発議の要件が現在の日本国憲法の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」から「半数」に緩められていることからもわかるのだが、参政党は憲法を変えることを柔軟、というより簡単にしようとしている。「模造紙」が使われたグループワークで憲法草案の作成に要したのが「約1時間」であることからもそれはわかる。大事なのはこの「創憲」プロジェクトは記事にもある通り「帰納的に」なされているという点だ。

 

コンセプトが先にあったのではありません。  

 

日本人が共有したいアイデアを参政党内で出していった結果、帰納的に得られたのが、このコンセプトなのです。*5

 

 そりゃゴチャゴチャもしよう。前の引用部分も思い出してほしい。「こうして全国から集めた多くの案から、できるだけ重なっている部分を中心に抜き出し」たのがこの憲法草案である。帰納的であること自体が悪いとはいわない。もっとも民主的であるとすらいえるかもしれない。できるだけ重なっている部分を中心に抜き出すという姿勢は多数決の原理を(そしてその原理だけを)尊重しているといってもいい。*6

 

 俺は「参政党」という党名に惹かれる人間の気持ちはわかる気がする。今まで参加できなかったけれども、初めて参加できる、という感覚には浪漫(ロマン)を覚える人もいよう。本当に「参加」できなかったのか、どのような意味で「参加」できなかったのか、とかあるかも知れないが、そういうことよりも俺はこの党名を、英語名「The Party of Do it Yourself」たる党名を掲げられたとき、最初に参加するのが「政治」であればよかったのに、ということが一番哀しくなる。

 彼らはゼロから始まらなかった。「国」や「政治」や「憲法」に参加する前に、やすやすと「日本」を受け入れてしまっている。「憲法は国民の思いやアイデアを形にしたもの」という発想は、憲法の中身をどう作るかというhowという意味でいわれるのであって、whatの意味ではない。まさしくDIY的ではある。「なにを作るか」をDIYは教えてくれない。*7

 彼らは日本において極めて国家主義的であることと、その中に「DIY」のような横文字が入り込んでくることに違和感を持っていない。同様にして、同じ憲法の前文の中で「国」と「國」の表記が並列することにも違和感を持っていない。当然違和感なく「創憲チーム」と書くことができる。なぜならそれらが全部併存している日本国憲法下の日本、ことに平成の日本で彼らが育ったからで、彼らはその日本が好きだからだ。「参政党の憲法草案」の記事中に登場する「國體(こくたい)」という表記は、ウェブが登場しなければまずお目にかかることがなかっただろう。紙の本ならルビにするだろうし、こう表記するにしても全角カッコを使うだろう。

 俺が感動と同時に「んんー……」となった憲法草案の形成プロセスを読んでその光景を想像したとき、最初に思い浮かんだのは平成がもたらしたであろう教室の風景だった。ディベート、ポスターセッション、アクティブ・ラーニング……ファシリテーター(これは何?)やらグループワークといった横文字も平成の大学で徐々に現れてきていた記憶があるが、どうだろうか。参政党の主要支持層は、これら平成の「教育学的」遺産をリアルタイムで経験した世代ではなくて、もうちょっとだけ上の世代だと思うが、大事なことは彼らの「学校」経験が必ずしも楽しいものではなかった可能性が高いということで、そのことは参政党の「3つの重点政策」のド頭に「学力(テストの点数)より 学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の 高い日本人の育成」*8が置かれていることからも示唆される。「つぶれろ、駿台、」からはじまる茂木健一郎氏の名ツイートは2014年、平成26年になされている。

 

 

 テストやら詰め込みやら偏差値やらといったものが押し寄せてくる「実際の教室」での経験があまり幸福なものではなかったとして、しかし現在に至るまでの「教育学的成果」を取り入れつつ再び教室のような光景へ回帰していくというのはどういう理屈なのか。

 現在の生産年齢人口(15-64歳)は、「昭和」より「平成」を長く生きた人々によって占められている。「昭和」の人間はもはや定年退職しており、いまの日本を動かしているのは「平成」の人間たちだ。令和というのはあまり幸福な始まり方をしなかった。いきなりコロナでその次は戦争である。平成が終わったのはたかだか7年前の話だからまだ記憶が比較的鮮明であり、昔というのは幸せに見えがちなものだ。こうして平成は良き時代となる。

 オリコンチャートが無意味化していったこと、紅白歌合戦の視聴率がひたすらに低下していったこと、SMAPが解散したこと、などなど……平成を通じて日本人が共有するイメージは次々に衰弱へ向かっていった。こうやって共有イメージを剥ぎ取っていった場合、現代の日本で最後に残りうる具体的な共有イメージというのは、義務教育期間の学校、その記憶しかなくなる。実際の学校の思い出は大していいものではないが、学校という制度  多くの子供が最初に意識的に出くわすことになる、国家による構造的暴力  自体は嫌いにはなれない。「教室」に戻れば、みんながいる気がする。教育が「3つの重点政策」の冒頭に置かれる理由は過去の点数的な劣等感だけではないと思う。

 

 俺はいまだに平成という時代に思い入れを持てない。リアルタイムでも同時代の文化にはほとんど関心を持てなかった。でも平成について一番「あーあ」と思ったのは平成が終わったあと、令和になってからのことで、旧弊を「昭和の価値観」と平然と書く人間が大量に発生するのを見たときだ。あれ、平成ってありませんでしたっけ? まるで昭和と令和が直結してるみたいな言いようですけど、30年くらい間にありませんでしたっけ? なんで平成のうちになんとかしなかったんですか? と思った。平成は昭和という過去に対してまったく無力であり、責任能力を欠いているかのようだった。

 実際には平成という時代にはとんでもないことがたくさん起こったし、何も試みられなかったわけではない。だが平成が振り返られるとき、その卑小な、幼稚な側面は今に至るまで見て見ぬふりがなされ続けている。「昭和の価値観」といって過去の「ひどさ」を一足先に退場した「昭和」へ押し付けるかと思えば、「平成レトロ」とかいって過去の「美しさ」においては「昭和」に追随しようという、圧倒的な節操のなさを発揮する「平成」。この「平成」の精神は歴史修正主義という点で参政党と同一のものを持っているし、参政党の(歴史)教育に対する愛憎のありようと、平成の昭和に対するそれは「真正面から戦っても勝てないので、相手とまともに向き合うことを避ける」という卑小さにおいて共通している。まあ同じことから「とらわれなさ」とか「身軽さ」とか「細かいことは気にしない」とか「どんな手を使っても勝つ」とか「一発逆転」とか「下剋上」とか出てくるのかもしれないので人によっちゃ好きなんだろうけど。

 参政党とは令和になってから「昭和の価値観」とのたまうような「平成」によって生み出されたものだ。「平成の価値観」(そんなものがあったとしてだが)を振り返る素振りもなしに日夜大騒ぎがなされているのを見ると、この日本はまさに今「平成」によって作られているんだなあと俺は思うんだが、どうなんでしょう。*9

 

補足1日本国憲法は奇妙な憲法ではある。日本国憲法は日本人だけで作った、というのは正しくないが、GHQだけで作ったというのも正しくない。参政党の憲法草案は3年かかっているのに対し日本国憲法終戦から1年で公布までいっておりそれであのクオリティなのでイカれているのでは? と思ったが、憲法を作るってことは時間や人数の問題じゃないのかもしれない。ベアテ・シロタ・ゴードンという人がいて、人権、とくに女性の権利について憲法草案に入れようとして、ある程度条文に残ったけど(24条や14条)、ほとんどは通らなかった。彼女は法律の専門家ではなくて、それでもいろんな国の憲法の条文を集めたりして、いい憲法を作ろうとした。凄まじい短期間で。

 

ベアテ 聞きたい? 私が土井先生と一緒にイベントに出演した時のことです。私は「土井先生、あなたと同じイベントに出るのは私はとっても恥ずかしいです。だって、あなたは憲法の研究者で、Professorです。私は本当に法律の素人です。本当に素人なんです」って言いました。  

伊藤 確かにそうですけど、そこまで恥ずかしがらなくても(笑)。  

ベアテ 「私は弁護士じゃないですから」とも言ったんです。そうしたら土井先生が言ったのは「あなたが弁護士じゃなかったから、こういう“女性の権利”について書くことができたんだと思います。もし弁護士だったら、たった9日間でこういうものは書けない。“この意味はこうで”とか、“この権利はどうでしょうかね”とか言って、とても大騒ぎになって書けなかったと思う。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった」と言ってくれました。土井先生の指摘は、本当にそうだと思ってます。*10

 

 日本国憲法は日本人が作ったともGHQが作ったとも言い切れないけど、人間が作った憲法であることは間違いなくて、それはたぶん良いことだった。それもあって俺は憲法を改正したり新しく創ったりするときには外国人にも参加してもらったほうがいいんじゃあねえかとか考えたことがあるんだけど、多分これはそういう制度的に上手くやれるようなことじゃなくて、日本国憲法に再現性はないのかもしれない。

 

補足2:青春を国家へ直結させようとするありようは「ロマン主義」とか「浪漫主義」とか呼ばれていて、基本的にロクでもない。「令和ロマン」という名前のお笑いコンビがM-1で勝ち上がったと聞いたとき、令和ってロクでもない時代になるんだろうな、と思った。

 

 

*1:五味太郎『大人問題』p62, 講談社文庫, 2001

*2:https://go2senkyo.com/seijika/184681, 2025年7月9日閲覧。

*3:https://sanseito.jp/new_japanese_constitution/, 2025年7月9日

*4:https://go2senkyo.com/seijika/184681/posts/1109193, 2025年7月9日閲覧。

*5:同上, 2025年7月9日閲覧。

*6:マチュア性を最大限に活かそうとするシステムによって提出された参政党の憲法草案が人権を軽視しているという事実は、思いがけず国家と人権の関係の核心を照らすことになる。居住・移転の自由は、封建制を解体し近代化を達成するうえで必須となった極めて重要な権利であるはずだが、「国境」はこの権利をあからさまに侵害する。すなわち、国家はその存在そのものが重要な基本的人権を構造的に侵害するようにできている。国家と人権の関係は容易に融和しえないものであって、「日本」ひいては「国家」を好むであろう参政党の構成員たちが「みんなで」つくった憲法草案において、このように人権が無下にされるということはさほど不思議なことではない。

*7:同じようなことを俺は「チームみらい」にも感じている。ホームページを見れば一番最初に「チームみらいは、 未来のために手を動かす "実践型"の新党です」(https://team-mir.ai/#about, 2025年7月9日閲覧。)とあって、やっぱり手を動かすのだった。彼らは「日本」のかわりに「技術」を受け入れたのであって、オープンであり、帰納的である。チームみらいの党員や支持者がSF好きなのかは知らないが、SFは「テクノロジーが未来を変える」ことではなく「テクノロジーによって変わった未来」や「テクノロジーが未来を変えてしまう」ことを書いてきたのではなかったのか。「テクノロジーによって変わった未来」ではテクノロジーは背景であり、「テクノロジーが未来を変えてしまう」ではテクノロジーに相対する人間が書かれるということになるはずで、いずれにせよ技術は主体ではありえない。SFを読んでここにテクノロジーがある! ってなりますか? そこにあるのはフィクションであり、抒情であり、思想であったと思うのだが。「テクノロジー未来を変える」ではなく「テクノロジー未来を変える」と書かれた段階で、政治そして政治以上のものが放棄されるであろうということが示唆されるわけだが、実際俺には、howだけがある空虚なシステムへ「過去」を流し込むのが参政党であり、「未来」を流し込むのがチームみらいであるとしか思えない。本文より先に書いてしまうが、俺はどちらも平成の産物だと思う。平成から令和にかけて、自動車メーカーの不正、ジェネリック薬品の品質不正、ロボット産業の衰退(ASIMOなんてあったのにね)、カリフォルニアの連中による新興基幹産業の世界覇権の樹立といったことがあり、日本の「技術立国」という自画像は誰の目にも疑わしくなっていった。こうして「技術」の衰退が決定的となった頃合いになって「技術」を全面に押し出す「だけ」の「政治思想」を掲げるテクノクラート予備軍たちがあらわれるという哀しさは、政府が備蓄米を放出するところまできたこの時節に、憲法草案の前文冒頭を「日本は、稲穂の実る豊かな風土に、」などという噴飯もののファンタジーから始められてしまう参政党の哀しさと通じ合う。彼らは密閉された平成という教室の中で夢を見続けている少年のようなものだ。平成は素人の思いつきを愛する。

*8:https://sanseito.jp/political_measures/, 2025年7月10日閲覧。

*9:どうして「昭和の価値観」などという言い方が可能な精神になったのかという理由を因果的に特定することはもちろんできないが、平成という元号が被った事態は振り返ってみてもいいかもしれない。1989年に昭和天皇崩御し平成元年となるが、この日本史的事件の2年後、1991年にソ連崩壊という世界史的事件が起こる。21世紀も始まるし、このまま西暦=世界史的な時間が優勢になって元号とかどんどん影薄くなっていくんだろうな〜と思ったら、史上最初の、即位してからずっと象徴天皇制天皇だった平成天皇という人が上手い人で、最後の最後、いわゆる「『お気持ち』表明」によって急に元号(そして天皇)の存在感が回復した。ソ連崩壊クラスの世界史的事件はそうそう起こらないので、2019年、平成から令和に変わるという日本史的事件はそのまま区切りとしてはっきりした。(後からわかることだが)同じ年からコロナが中国で流行り始めたというのも、「日本史」と「世界史」が2年ズレた平成の頭と対照的だ。平成は「頭がぼんやりしていてケツがはっきりしている」ところがある。まあこれは振り返って30年ちょいもあったらどんな元号にしてもそうなるのかもしれないが。

*10:http://www.shinyawatanabe.net/atomicsunshine/BeateSirotaGordon/interview#part2, 2025年7月11日閲覧

山本道子 インセストの風景画家にして霊視者

   蝶ちょって、軽いわ、顔にとまってちっとも重くないんですもの。そうよ、いつも飛んでくるわ、きのうは紋白蝶と黒い揚羽がいっぱい飛んできたわ。ちょっと怖いくらい、凄かった……きのうのことはよく憶えているの。主人と一緒に昆虫採集にいったのよ、ええ、ほんとうよ、あなたお会いしなかったわね、信州のあそこ、広い原っぱには蝶ちょがいっぱい、わたしのまわりにいっぱい、風みたいに、だから主人がわたしごと網をかぶせちゃったの。

 りつさんはまた笑った。そのくぐもった声は、鳩の鳴き声のように寂しかった。

 りつさんは夢のなかにいるのだった。夜中にりつさんの正気が怖いといってしがみついてきた千秋がわたしにはよく理解できた。

 千秋は夢に遊んでいるときの幸福なりつさんともつきあっている。そして彼女は幸福なりつさんだけを愛していたのだ。それだけに時として正気にもどるりつさんに、彼女は怯えずにはいられなかった。

   そうよ、あなた、紋黄蝶だわ。どうしてこんなに黄色いのばっかり集まってくるの、あなた、空にもいっぱいだわ。りつさんは痩せた手を、顔のあたりで力なく動かした。

 昨夜はなにがあったのだろう。すっかり落ち着いて平静そのもののりつさんはいま降りそそぐ光のなかにいるのだ。そして彼女に視えるものは幻想を超えたもっと澄明な世界だろう。

「今日おいとまします。おだいじに」

 わたしはりつさんの手をとって声をかけた。彼女はびっくりしたようにわたしを見た。そしてこういったのだ。

「なんだ、おまえか」

 頸をよじってこっちを見たりつさんの顔を、わたしは終生忘れないだろう。それはなんともいいようのない陰惨な顔であった。ひとことでいうなら般若の面のような。それも真っ白の紙で折りあげた血の通わない般若面であった。りつさんの顔にその怨霊の女面を見たのは、わたし自身面というものに幼児期から親しんで育った環境のせいだったかもしれない。*1

 

 澄夫はテーブルにのりだして声をあげた。

「どっちにしても、ひとつ終ったんだ、だからまたなにかを始めなきゃ」

 りつさんがいなくなった家を処分して、澄夫は彼独自の棲家を手にいれるつもりでいる。山小屋、ビルの上層のオフィス風、それとも茶室のある郊外の古めかしい家、下町の黴臭い裏長屋、新開地に建てるペイスメントのあるこぢんまりした洋館か。

 わたしと千秋は彼の計画に反対した。反対どころか千秋は嘲笑した。舞台作りに魅力は感じないと彼女はいった。ひとが死んだ家っていうのは得難いものだわ。千秋はりつさんの死をはやくも彼女自身の生きるよすがにしようとしている。ファミリーロマンス漬けにされていた彼女の育ちを考えれば、生者より死者に傾倒したくなる気持はわたしにもわからなくはない。澄夫の家にはりつさんが視た幻影が浮遊している。彼女の夥しい蝶の群れは、たしかにいまでも薄いみどりいろの風になってわたしの瞼を掠めていく。*2

 

 山本道子という小説家がいる。いた、なのかもしれない。もうしばらく(30年近く!)新作は出ておらず、ご存命かどうかもわからない。書店で新本を手に取ることは多分できないと思う。芥川賞も女流文学賞泉鏡花文学賞もとった作家だというのに、今ではほとんど読まれていない。どうして読まれなくなったのだろう。おそらくそれは山本道子の小説に、多くの人があまり見たくない、触れたくないものがあるからだと思う。

 山本道子の小説の一貫性には驚異的なものがある。性愛。彼女は小説を通じて、性関係における可能な構造を全部書き下そうとしているのではないかと思える。書き下そう、というのがポイントで、彼女の小説はひたすらに情念的なものを描いているのにその文章は全く情念的ではない。むしろそのトーンは供述調書や法廷での証言、精神鑑定書というようなものを思わせる。描写や説明というより記述といったほうが近い。

 『愛の遠景』では、「わたし」と元夫の澄夫、澄夫の現妻(のちに離婚する)である千秋が同居している(三人は演劇仲間でもあった)。澄夫は母親のりつと同居しており、りつは介護を必要としている。そしてりつの死後、澄夫の「実父」である桜葉さんが三人の生活に割り込んでくるのだが、彼らの人間関係はほとんど建築物のように緊密に組み合わされ、各人の存在が他の性関係に影響を与える形になっている。目眩がするような関係、たいていの小説がほのめかす形で描写するであろう関係を、山本はそれとして平静に記述できてしまう。性という関係はまるで風景のように眺められる。

 

 千秋はあるときわたしにいった。  スミオには抱くものと抱かれるものが必要なのよ、あのひと、わたしのからだを不思議そうに見ていつもいうのよ、どうしてきみにはペニスがないんだって。千秋からきかされる澄夫のことばがわたしには不思議なことばに思えた。千秋を求めるときの彼はおそらく、彼女の欲求にぴったりの天使になるだろう。わたしは天使の顔をした千秋を見たことはない。そしておなじような顔をした澄夫のことも知らない。彼らはふだんなに食わぬ顔をして会話をしたり食事をしたり、りつさんをかまったりしていた。そう、わたしが彼らの家を出るまで。わたしはなんだか耐え難い思いと、自分でもよくわからない哀愁の思いに胸をいっぱいにして、たがいのからだを抱きあうふたりを眺めていたのだ。

 そして千秋を相手にしているかぎり澄夫は、半身を削ぎ落とされた不完全な人間でいるしかないのだと思っていた。*3

 

 千秋は、澄夫とわたしを放さない。澄夫は、千秋とわたしを放さない。そしてわたしはといえば、再び千秋と澄夫のもとに舞い戻った。

 澄夫とわたしは毎朝そろって出勤する。まるで生活設計を共有する共働き夫婦のように。そして千秋はこどもを育てる女のようにわたしたちの領域に愛の幻想を養成する。

 わたしたちの生活はこれからもこのようにしてつづいていくのだ。まるでドメスティックな顔をして。*4

 

 これが完全なる三人称小説として行われるなら、それこそ性愛の解剖学のように行われるなら読者は多少安心して山本の小説を読むことができるだろう。凄まじいのはこの風景画が一人称でも描かれうるということであり、そしてその異様ささえも風景画の中に取り込まれるということである。

 

 千秋はひそひそ話をつづけた。「ずうっと考えてたんだけど、サクラバさんがいう確たる理由っていうのは、もしかしたらスミオの部屋でいまおこなわれてることじゃないかしら」

 千秋は身顫いすると頭を抱えて床に転がった。彼女のからだは澄夫にすっぽり抱きかかえられるときのように、球のように丸くなって呻いた。わたしには彼女の妄想が手にとるようにわかった。いや、妄想ではないのかもしれない。だからこそ千秋の苦しみがあるのだ。転げまわる彼女を他人ごとのように眺めていられる自分がわたしにはわからない。*5

 

 この風景画のコアにはしばしばインセスト、近親相姦があらわれる。俺はこんなにたくさんインセストの話を書いた小説家を山本以外に知らない。まるでインセストが性愛の部分集合ではなく、性愛に直結しているのではないかと思わされるほどだ。そしてそれはある意味では間違ってはいない。恋愛で済んでいるときはまだ、インセストと性愛には一定の距離があるといえるかもしれない。しかし性関係が家族にまで進展すると事態は変わってくる。子供をもつことで(親子)、あるいは「子ども同士」を可能にすることで(兄弟姉妹)、インセストは初めて可能になる。ロマンティック・ラブ・イデオロギーの中核を構成する恋愛-結婚-生殖の直列を性愛の観点からのみ眺めたとき、恋愛はインセストを可能にする装置の一端を形成するものとしてあらわれるのであり、そのことがおそらく、山本の小説から読者がしだいに遠ざかっていった理由のひとつではないかと俺は思っている。禁断の恋愛ならともかく、恋愛自体に禁忌が潜んでいるなんて話をほがらかに受け入れられる社会ではない。

 

 いったいどのような人物がこのような創作姿勢を一貫しえるのか。山本はまず詩人として世に現れた。彼女は60年代を代表する詩誌のひとつである『凶区』の数少ない女性同人だった。圧倒的な男性多数の世界であり、思わないところがなかったわけではないだろう。『愛の遠景』でも、登場人物のひとりが、日本では女性の小説家が独身であることはままあるが、どうして男性の小説家は妻帯するんだろうというようなことを口にする。次のような文章が登場する小説の中でである。

 

 そんなことを考えずにいられなかったのも、わたしが澄夫に落胆したからだった。感想を結論からいえば、彼は母親という人間を生涯かかっても理解することのできない凡庸な息子だということにつきる。息子とは澄夫のようなおとこのことだ。そして母親とは、彼のような息子を作る女のことだ。*6

 

 初期の彼女の詩はものものしい漢字が多い。おそらく他の同人や時代の影響もあろう。最初の詩集『壺の中』の「白の檻穽」(もうものものしい!)の最初を見てもこうだ。

 

蕁麻が見えますかあなたのまわりの。

跣で歩いたことがありますか

疼みをどうよりわけましたか

  そうですか感じなかった……*7

 

 小説において構造を平明に記述することに長けているだけあって、彼女にはアカデミックな語彙、かたい語彙をそれとして使いこなす理知があることは読者にもわかる。

 

「ねえ、ヨシコ、わたしたちスミオのことを誤解してるんじゃないかしら、なんだかとっても変な気持なのよ……。スミオの発言をとなりに坐っていた大学教授がいちいち引き継いで、うまいぐあいに膨らまして、もっともらしく解説してたじゃないの。あのひともしかしたらホモロジーの研究者じゃないかしら」

ホモロジー……」

 わたしはぽかんとした。「だってチアキ、シンポは都市計画と人間主義でしょ」

「きっとそうだ、シンポジウムをあいつはホモロジーでやっつけたんだ、そうにきまってる、ああ、どうしよう、スミオはあの教授に狙われてるんだ。あいつはホモセクシャルホモロジーだわ」

「そんな、突拍子もないこといって、びっくりさせないでよ」

 わたしは笑った。しかし千秋は大真面目だった。

「ヨシコにはあれがわからなかったの。……どうもおかしいと思った、なにかひっかかるのよ、スミオの発言は都市美学をふまえてるのよ、なのにあの教授は人間主義を変に韜晦させて……、ねぇ、こんなこと教授がいったでしょう、都市というのはギリシア的宇宙生成論からまったく進歩していないともいえるし、逆にそこに留まらざるをえないのが、我われ人類の宿命とも考えられる、つまり人類は宇宙空間に混沌の世界を発見した。そのカオスこそが現代の都市計画に命題をあたえつづけてきたのだ、とかなんとか。あいつが喋った都市論はホモロジーのメタファーよ、スミオにはわかっていたと思うわ、あとのふたりにはなにもわからなかったと思う、聴衆だって。あたりまえよ、理解できることばじゃないもの」

 千秋は薄い闇にじっと眼を据えた。

「でも、わたしにはわかったんだ、……スミオは狙われてる、ねぇ、どうしよう」

 わたしには千秋がなにをいっているのかわからなかった。しかしそれまで閉ざされていた彼女の思考経路に、画期的ともいえる流れの兆しを見たような気がした。とにかく千秋は澄夫というもっとも身近なおとこを、突然のように思いだしたのだ。そしてわたしはわたしでそんな彼女にひどく興奮させられた。*8

 

 だが明らかにそれだけの理知ではないものが山本のなかでは働いているように思える。彼女は「骨と異物」という自伝的なエッセイを書いている。生後七ヶ月のころに彼女が開きっぱなしの安全ピンを飲み込んでしまった話なのだが、ここにうかがえる彼女の人物像は、ちょっと他の作家にはなかなか類例をみつけられないものだ。

 

 この暗黒の宇宙に支えられて生きているのは、まぎれもない私自身だ。生後七ヶ月の私は、体内のピンの旅が終りをとげるまで、まるで母の軀の一部のように母に痛みをあたえながら生きていた。ちょうど家族の腫れものかなにかのように、のさばっていたことだろう。触るのも怕かった、と母は述懐した。

 触るのも怕かった、抱えあげるのも怖ろしかった、その赤ん坊の体内からあれ、、は何事もなく脱出してしまった。すっかり錆びついて変色して、あれは見るかげもなく身を窶していた。その旅が何日つづいたものか私は知らない。ともかくあれ、、にとっても、母にとっても長い旅だったろう。

 その後、二十数年の歳月をかけて、母は私を怕がってばかりいた。うちの子なのにどうしてこんなに怕いのだろう、と母はいった  

 わたしの親しみ深い暗闇の宇宙に、あのときあの異物を追い駆けてもうひとつの異物が投げこまれた。霊験あらたかな棘抜き地蔵のお守りである。*9

 

 ここからは俺の感覚と勘の話であって証明するのは不可能なので話半分に聞いてほしい。古今東西、霊的なものに関心を持った作家はたくさんいる。だが、本当に霊的なものに接触する能力のあった作家、霊感のあった作家というのは、とくに日本の小説家にはほとんどいないと思われる。山本は「わたし」を通じて彼女たちの性関係をしばしば神話的に描写するが、神話的に描くことは実のところ霊的なこととはあまり関係がない。それは事態をすでに存在している物語構造に落とし込むということで、むしろ近代的な発想といえる。

 それを踏まえても(詩人でもあったため純粋に小説家とは言えないが)、おそらく山本は「本物」だった。彼女自身が霊能力者なのかといわれるとそうではない気もするのだが、少なくとも何らかの形で霊的なものを感知していたというのが俺の仮説である。

『愛の遠景』で彼女は「見る」と「視る」を区別して使用している。「見る」が通常の視覚にたいして使われているのに対し、「視る」はそうではない。「視る」対象は「幻想」ではない。「幻想を超えたもっと澄明な世界」にたいして「視る」が使われているのだから。そこで他の部分も見てみる。

 

「死の亡霊っていうのは、シュールレアリスムの墓場のことだよ、千秋が知りあったその夫婦は、たぶん現世で生きるのはよそうと決めた連中だ」

 わたしはぐったりしていた。まるで皿の上の腐りかけた魚のように。そして瞼の裏に赤紫の草原を視ながら澄夫の声を聴いていた。

「連中のまわりにはきっとあらゆる性的なものを表す記号が、ところ狭しと並んでいるはずだ、ぼくの考察によればの話だけどね」

 彼のことばを一篇の詩のように聴きながら、眼のまえでしだいに深くなっていく夜をわたしは視ていた。(強調は引用者)*10 

 

 「赤紫の草原」のヴィジョンは澄夫が語ったところにはない。後半の「眼のまえでしだいに深くなっていく夜」は、その直前に「瞼の裏に赤紫の草原を視ている」ことからも「わたし」の通常の視覚ではありえない。先に引用した部分では「澄夫の家にはりつさんが視た幻影が浮遊している。彼女の夥しい蝶の群れは、たしかにいまでも薄いみどりいろの風になってわたしの瞼を掠めていく」とある。「幻影」は「幻想」ではない。「わたし」はりつさんが視たモンシロチョウやクロアゲハ、モンキチョウ、すなわち白、黒、黄の幻影を引き継ぎつつ、「薄いみどりいろの風」という通常の視覚ではありえないヴィジョンを「たしかにいまでも」視ているのだ。そして俺の「本物」という判断は、この風の色として「薄いみどりいろ」をあてられるということにある。意味連関から想像するだけで出せる色味ではない。

 この、比喩に解消することがなんともギクシャクする山本の視的感覚は、彼女が残した二篇の詩を読むことで、なおはっきりするように思う。最初のものは彼女の第一詩集『壺の中』に収録された「二本脚の白い椅子」、もう一方は『山本道子詩集』に収録され、おそらく(現時点で)彼女の最後の詩である「どこへ行ってしまうの」である。長くなるがどちらも全文引用する。まず「二本脚の白い椅子」である。

 

二本脚の白い椅子

 

何かにつながりがあった。

とても薬品臭い身なりで

螢光色に蒼味を注がれ

在る場所に在った。

それは

まことしやかに居坐って眼鏡に手をやり

一点を凝視していた白髪の老婆に

とても似ていた。

 

何かにつながっているはずだった。

馥郁とした香木の脚を突きだし

夕映えに朱を注がれ

在る場所に在った。

 

それは

両の瞼を若さに鎖され

手探りで宝石函をまさぐる裸の娘に

とても似ていた。

 

何かに必ずつながっていた。

まさしく棒のような突ぱった脚を

木洩れ日に自由に注がれ

植込みの影で唇を尖がらし踊りまわる

蕎麦滓だらけの少女に

とても似ていた。

 

その時どきの光に染まり

不安定に

在る場所に在るだけで

それは

何かとつながっていた。 *11

 

 反復を意識した、構造がわりあいはっきり見える詩で、描かれる「それ」(「二本脚の白い椅子」であろう)に似るものは老女から娘へ、娘から少女へと若返り、それに対応するように彼女たちは「居坐」り「一点を凝視」するところから「手探りで宝石函をまさぐ」り、最後には「踊りまわる」へ向けてどんどん運動を大きくしていく。登場する色は「螢光色に蒼味を注がれ」ていたり、「朱」であったり「白」であったりする。年齢に対応する色彩のイメージであろう。投射された光をそのまま反映する色は白である。白は同時に光においてあらゆる色を重ね合わせた末に現れる色でもある。白髪は物質であり色の三原色を本来適用すべき対象であるが、ここでの「白髪」には光の三原色を適用したい。年齢を重ねあらゆる色を浴びてきたうえでの「白」ととるべきだろう。「何かにつながりがあった」から「何かにつながっていたはずだった」、「何かに必ずつながっていた」を経て「何かとつながっていた」への変形は、老いて人生から自由になり世界を眺めるようになっていく視点(「まことしやかに」にはそんな老いの境地に漂うものへの不信も反映されているが)、思春期の挫折、幼年期の確信、視点を超えた普遍的なものと対応していよう。ここからはじまる、まだなにも固定されたものがない「不安定」という原初へ遡っていくように書かれたこの詩はかなり知的に作られているという印象をうけるが、色彩への感度や、「在る場所に在った」という、逆説的に場所性を喪失させる表現、実在が浮遊する表現がすでに出ていることには注目しても良いかもしれない。椅子は人に座ることを可能にさせる安定性を持ち、一息つくことのできる安心感を供給するものだが、「二本足の椅子」では安定することが難しい。これが人間に擬されるとき、人間は安定性と不安定性の間を揺れ動くことになる。時間の中で移り変わる人間存在の浮遊感と、原初への遡行、その過程に繋がっているであろう「何か」をここで山本は探求していたと思しい。

 それから年月が経ち彼女が最後に到達した地点を見たとき、そこにある「椅子」はかつての「椅子」ではない。この詩には知性だけでは容易に還元できない、見慣れないながらもなにか確信されたヴィジョンだというほかない、異様な迫力のある世界が広がっている。

 

どこへ行ってしまうの

 

あなた黒い机がひとつあります

あなた蒼ざめた椅子がひとつあります

どこへ行ってしまったの

まだここにいるのでしょうか

昨日突然音がしなくなったのです

山小屋の扉を誰かがここへ遺していきました

ノブがこわれててどうしても開かないのでとてもくるしい

あなた音を一緒に捜しましょう

自然が日に日に遠去かるうめきを

ノックが止絶えてもそんなに気にしないで

あなたどこへ行ってしまうの

もう行ってしまったの

泣いたりしたこと忘れてください

とても恐ろしい

あのときの立体ホリゾントが

なにも憶えていないのです

あれは森の風景だったの

街の闇だったの

風さえも死んでいた

  あなた

そんなに遠くならないで

笑ったりしないで

忘れられないわるい癖をゆるしてほしいの

たとえば急にめくらになることだって

勝手に朝をさけることも

わがままかもしれないけれどいつもくるしい

とても冷たい風 ああ

これは季節じゃないみたい

一月から十二月まで数えても今の今はどこにもない

何月でもない

ずっとずっとむこう側の嘘のようなアイボリイの地面

象牙のように冷淡な扉

どうしてもこわせない白昼

歩き廻るあなた

どこへ行くの

どこへ行ったの

歩きまわるあなた

弧を描くあなた円をつくるあなた

ナイフの切っ先とまったくおんなじ鋭角を歩むあなた

とても痛い

突き殺すなんてすばらしすぎる

今夜

今夜

今夜

オハヨオ

あなたとても蒼い椅子

あなた山小屋には黒い机

水がないの

どこへ行ってしまうの

ほかの場所にあなたはいない

この場所にしかあなたはいない

行ってしまうあなたはあなたではない

この場所にしかあなたはいない

でもでもでも

そしてどこへ行ってしまうのあなた*12

 

 山本の小説家としての歩みはここからはじまる。

 

 

 

 

 

補足:YouTubeには山本の友人であり女性詩誌「ゔぇが」の同人でもあった詩人の吉原幸子による「どこへ行ってしまうの」の朗読がアップされている。放送禁止用語を含む部分の前後が削除されているが、元・劇団四季の女優であっただけあって大変いい声なのでここにシェアしておく。

 

youtu.be

 

*1:山本道子著『愛の遠景』pp37-38, 中央公論社, 1991

*2:同上, pp64-65

*3:同上, p45

*4:同上, p66

*5:同上, p178

*6:同上, p16

*7:『山本道子詩集』p16, 思潮社, 1976

*8:山本道子著『愛の遠景』pp139-140, 中央公論社, 1991

*9:『山本道子詩集』pp127-128, 思潮社, 1976

*10:山本道子著『愛の遠景』pp89-90, 中央公論社, 1991

*11:『山本道子詩集』pp17-18, 思潮社, 1976

*12:同上, pp89-91

チャック・パラニューク わたしたちは癒やすことができるか

 だいぶ長いこと積んでいたチャック・パラニュークの現時点での最新作『インヴェンション・オブ・サウンド』を読んでいて(今更ながら?)気づいたことがあった。パラニュークはグループセラピーや自助グループのような、癒しの集団を執拗に書き入れている。

 

 サポートグループは、この集まりは、依存症治療のようなものだ。フォスターにとって、メンバーはみな死んだ子供への愛から立ち直る途上にある人々で、彼らはフォスターにも同じ回復の道をたどってほしいと望んでいるが、フォスターにはそれができない。依存を手放すつもりがない。ひょっとしたらほかのメンバーは、そうやって抵抗できるフォスターをうらやんでいるのかもしれない。どのメンバーも、息子や娘が命と切り離されるのを目撃した。遺体を確認した。葬儀を営んだ。フォスターだけが、我が子はまだこの世のどこかに存在していると思い込める。*1

 

 

 

 

 殺人、セックス、荒唐無稽なほどの大風呂敷などが、パラニュークの小説群に対する大雑把なイメージになるだろうが、それらは物語の原動力ではない。パラニュークの小説においては、傷を負うことというより、癒されることに失敗したこと、癒やされることを拒絶したことが物語を駆動させている。その際、グループセラピー的なものと主人公たちとの関係は毎回のように直球ではなく、変化球でつながっている。

 

 マーラ、出ていってもらおうか。出ていけ。出ていけ。

 泣きたければ、遠慮せずに泣きましょう。

 マーラはぼくをじっと見上げている。瞳は茶色だ。耳たぶのピアス穴はすぼめた唇みたいで、イヤリングはしていない。荒れた唇には死んだ皮膚が張りついている。

 遠慮せずに泣いて。

「そっちこそ死にかけてなんかないくせに」マーラが言う。

 ぼくらの周囲では、いくつもの二人組が互いに体を預けてすすり泣いている。

「あたしのことをばらしたら」マーラが言う。「あたしもあんたのことをばらすから」

 だったら曜日ごとに譲り合おうとぼくは提案する。マーラは骨疾患、住脳寄生虫感染症結核。ぼくは精巣ガン、住血寄生虫感染症。器質性脳障害。

 マーラが言う。「上行結腸がんは?」

 まったく、油断も隙もない。*2

 

 デビュー作である『ファイト・クラブ』では癒しの集団がかなりの文量をもって描かれている。ここでの主人公とグループセラピーとの関係の設定はとても効果的だった。「ぼく」の不眠は本物だが、医者は彼に睡眠薬を処方するものの「不眠症はより深刻な病気の症状の一つにすぎない。本当に悪いのはどこか見きわめるのが先だ。自分の体の声に耳を傾けなさい」や「バレリアンルートでも噛んで、もっと体を動かしなさい」などと言って、彼に病名を与えない。彼は不眠症の患者グループの会合に出席しない。「ぼく」の不眠をいっときは癒した患者互助グループのどのメンバーも、それぞれ自分の病名を持っている。病名を持たない「ぼく」には本来そこに入る資格がない。その後、明らかに自分と同じ行動をとっているマーラに出会ってしまい、「ぼく」はふたたび眠れなくなる。

 

 実質的な第一作である『インヴィジブル・モンスターズ』はどうか。「わたし」の顔がめちゃくちゃになる前の最後のクリスマスの日。両親から「わたし」に渡された、「お兄さん」から「わたし」へのクリスマスプレゼント。

 

 二通目の封筒を靴下から取り出すと、母が言う。「お母さんたちはね、あなたを正式に”仲間入り”させてあげたの」

「つまり、おまえのお兄さんの名前で」父が言った。「おまえにPFLAGの会員権を買った」

おしっこピークラブ?」

レズビアンとゲイの両親と友の会」母が言う。*3

 

 主人公の「わたし」の兄シェーンは家を飛び出し、エイズにかかって「死んだ」。残された主人公の両親は急速に性病に詳しくなっていき、性病にとりつかれ、息子もそうだったゲイにとりつかれ、アンチゲイのヘイトクライムに怯える日々が始まる。

 

「これは戦争なんだ」父は言う。「PFLAGの全員が戦っている戦争なんだ」

 PFLAG。レズビアンとゲイの両親と友の会。わかってる。わかってる。わかってる。ありがとう、シェーン。

 わたしは言う。「PFLAGの会員でいるほうが変よ。ゲイの息子は死んだわけでしょう。ママやパパには資格がないわ」*4

 

 父が言う。「で、ハニー、お母さんやわたしと一緒に参加してくれるだろうね」

 母が言う。「ゲイの人権を認知してもらうためにとても意味のあることなのよ」

 勇気をくれ。

 フラッシュ。

 忍耐をくれ。

 フラッシュ。

 知恵をくれ。

 フラッシュ。

【真実へ】わたしは言う。

「断わるわ」*5

 

 小説のなかでショーンはエイズで死んでいるどころではなくなる。もちろん「わたし」が「PFLAG。レズビアンとゲイの両親と友の会。」へ参加するシーンはない。

 

『サバイバー』にも目立たないがセラピーグループへの言及がある。

 

 実際のところは単に掃除が好きなだけだったが、僕は物心ついたころから人に従うように徹底して訓練されてきた。僕はケースワーカーのお粗末な診断が正しいと見せる努力をしたにすぎない。ケースワーカーは僕に症状を説明し、僕は最善を尽くしてそれを再現し、ケースワーカーにその治療をさせた。

 強迫神経症の次に、僕はPTSDになった。

 その次は広場恐怖症になった。

 パニック障害にもなった。

 歩道を行く僕の足は、ゆっくりが一つ、速いのが二つのワルツのステップを踏む。僕の頭は、ワンツースリーとカウントしている。(中略)

 初めてケースワーカーに会った直後の三ヶ月ほど、子供時代をいっさい語らない僕は、解離性障害だった。

 次に統合失調症人格障害になった。ケースワーカーが週一度開いているセラピーグループへの参加を断ったからだ。

 次に、典型的な事例になるとケースワーカーが考えたおかげで、ペニスが小さくなっていき、ついに消えると同時に自分は死ぬと思い込むコロ症候群(ファビアン、一九九一年/ジャンほか、一九九二年)になった。*6

 

 目立たないというだけあって、この小説の中で主人公の「テンダー・ブランソン」がセラピーグループへ参加しているシーンは一回も描かれない。テンダーが生まれ育ったコミュニティはクリード教というカルトで、彼は「脱出」  集団自殺のことだが  から逃れた。それまで信者同士は「外の世界」で出会った場合、いくつかの定型的な祈りの言葉を交わし合う以外のいかなる接触も許されていなかった。「脱出」後、コミュニティが崩壊した後で生き残った信者たちが出くわしても、彼らは誓いを果たせなかった自分自身に対する決まり悪さと、同じ立場である他の信徒への嫌悪によって打ち解けることがない。おまけに生き残っている信者を無理やり「脱出」させる殺人者の影までちらついている。このような状態で多数の信者からなるグループセラピーを成り立たせるのはそもそも難しいように思える。『サバイバー』においては、負わされた傷の性格そのものが集団的な癒やしへのアクセスを困難にしている。

 

『チョーク!』は癒しの集団という観点から見たときとても美しい構造をしている。

 

 ほかのみんなはパステル色の日曜学校の教室へ行く。ニコはその後ろ姿に笑みを向ける。指を一本立てて耳の横でくるくると回す。頭がどうかしていることを表す国際的なサインランゲージ。ニコは言う。「負け犬たち」それから僕を反対に引っ張っていく。”婦人”と書いた札のほうに引っ張っていく。*7

 

 微笑みを浮かべた老女が二人、ゆったりとした足取りで通り過ぎていく。一人が指さしてもう一人に言う。「ほら、この間話したのは、そこの好青年のことよ。あたしの猫の首を絞めて殺した青年」

 するともう一人の老女は、セーターのボタンをかけ違えていて、言う。「あらほんと?」老女は言う。

「あの青年なら、昔、あたしの妹を殴り殺しかけたのよ」

 二人はたゆたゆと歩み去る。

「すばらしいわ」ドクター・マーシャルが言う。「あなたがしてること。あなたはここの人たちの人生最大のトラウマに解決を与えている」*8

 

 主人公のヴィクター・マンシーニセックス依存症だが、今では依存と正面切って向き合うことを避けており、ニコのような同類たち(「水曜の夜はニコを意味する。金曜の夜はターニャだ。日曜日はリーザ。」)と外のトイレでセックスをするために集会に出かけるようになっている。最初からずっとそうだったわけではおそらくない。そのことはヴィクターが親友のデニーと「セックス中毒者」の集会で出会ったことからもわかる。そんなヴィクターの母親アイダは聖アントニー・ケアセンターに収容されていて、彼はそこへ向かうたびに、ともに収容された老女たちのトラウマを、彼女たちを傷つけた男性たちの罪をかぶることで癒やしている。*9ヴィクターは、かたや癒やされることを回避しようとする集団のひとりとして、かたや癒しを必要としていた集団への救世主として現れる。

 ここでもセックス依存症のセラピーグループが直線的に主人公を癒やすわけではないが、『チョーク!』はパラニュークの小説の中でも集団の癒しの可能性に対してもっとも明るい展望を抱かせるものだ。

 

 煙草を吸う。爪を噛む。それはかつて、すべてがセックスだった僕の特効薬だった。しかしニコが僕にのしかかって手足をばたばたさせていては、僕は何もできない。

 ニコが言う。「ねえ、どこかほかの場所を探しましょ」

 ニコは一歩下がり、僕は体を二つに折って腹の痛みをこらえ、きいきい言っているニコを従えて、ふらつく足で二三四号室に向かう。

「ちょっと」ニコはきいきい言っている。

 二三四号室では、グループリーダーが言っている。「今夜は第四ステップに取り組みましょう」

「そこはだめ」ニコは言い、僕らが開いたままの戸口に立ったところでようやく口をつぐむ。(中略)

 グループリーダーが言う。「まだ第四ステップが完了していない人はいますか」

 ニコは僕にぴたりと体を寄せ、僕の耳もとでささやく。「ここに入るなら、この負け犬たちのところに行くなら」ニコは言う。「二度とあんたとは寝ないから」

(中略)

 そして僕はテーブルをぐるりと回り、プラスチックの椅子の一つにどさりと腰を下ろす。

 全員の視線を感じながら、僕は言う。「こんばんは。僕はヴィクターです」

 ニコの目をまっすぐに見て、僕は言う。「僕の名前はヴィクター・マンシーニ。僕はセックス中毒者です」

 そして僕は話す。永遠と思われる長い間ずっと、僕は第四ステップで立ち往生しています。

 その感覚は、終点というより新たな出発点に近い。*10

 

『ララバイ』の主人公ストリーターは、二十年前に妻子を失い、それからセックスをしていない。この傷を直接癒やすためのグループセラピーなどにストリーターが参加している様子はない。新聞記者の彼は乳幼児突然死症候群についての特集記事の取材の過程で、読み聞かせ、しまいには対象を思いながら頭の中で詩句を念じるだけで人間を殺すことができる「間引きの歌」の力の虜になってしまう。

 

 そして僕は言う。証明はできないが、ミセス・ボイルは歌の使い方を知っている。僕は言う。彼女に助けてもらいたい。こいつをコントロールできるように。自制できるように。

 するとモナ・サバットはメモパッドに書くのをやめて一枚破り取る。その紙切れを僕と彼女の中間点に差し出して言う。「そのパワーをコントロールする方法を本気で知りたいと思ってるなら、魔術ウィカンの癒しの儀式に来なくちゃ」彼女は僕にメモを振ってみせて言う。「一つの部屋に一千年の経験が詰まってるの」それから彼女は警察無線をオンにする。*11

 

 しかしこの道行きはすぐにモナの雇い主でもあり、ストリーターと同時期に「間引きの歌」で家族を失ったヘレンによって防がれる。

 

 靴に足を戻して、彼女は言う。「どうやら今後の私の仕事はあなたとモナを会わせないようにすることのようね」*12

 

 結局ストリーターもヘレンもモナたちの「癒しの儀式」に参加するのだが、事態は癒しどころではなくなる。モナのパートナーであるオイスターも加わり、四人はアメリカ全土を回りながら「間引きの歌」が収録された『世界の詩と歌』、そして殺人以外の力を秘めている詩句も収録されているであろう原本『闇の書』を探す旅にでることになる。

 

 パラニュークは癒やしを目指す集団と傷を負った主人公たちとの関係をストレートに繋げないよう慎重にペンを制御している。最初から主人公が集団を裏切っていたり(『ファイト・クラブ』)、集団に到達しなかったりできなかったりする(『サバイバー』、『インヴィジブル・モンスターズ』)。ストレートではなく変化球。そうすることで、集団による癒やしの期待が裏切られたとしても、それによって集団的な癒やしは不可能であるという帰結が導かれることが避けられるようにしてある。近代以前であればキリスト教があったかもしれない。実際聖書の引用や神、救済についての言及はパラニュークの小説にしばしば現れる。だが神によって救われることはない。*13

 

 ジョゼフ・ド・メーストルという、フランス革命期においておそらくもっとも過激な反革命思想を展開したカトリック保守主義者がいて、日本語訳がなく、日本語で読める研究書も少ない上に高くて手に入りにくいから、影浦亮平の論文「ジョゼフ・ド・メーストルにおける近代の神学的解釈」を読んでいる。*14

 若い頃フリーメーソンだった彼は、ルイ16世をはじめとした「無実の」人々を処刑したフランス革命、その根底の一つにあるヴォルテールやルソーやカントといった啓蒙思想家たちの思想と対峙する。一体性が善であり、孤独は悪である。真理は共同性においてこそ存在する。それを理解していた教会の聖餐。このキリスト教的な一体性を破壊し、真理を教会から個人の下に手繰り寄せようとする啓蒙思想は悪魔的であり、近代は悪魔的な時代である。啓蒙主義の時代に先立つルネサンス、人間と科学が主役になりはじめた時代の哲学者フランシス・ベーコンを、ド・メーストルは罵倒する。ベーコンの哲学は真理を人間の理性にとって確実なものへとすり替える。その根底には不信がある。

 

 世の中には、知は力なりと信じる人々がいまだ存在する。*15

 

 とはいえ彼自身は自分が反啓蒙の思想家、暗黒の思想家であるなどとは思ってもいなかっただろう。彼からすれば「啓蒙思想家」たちこそ悪魔的な、世界に闇をもたらす思想家たちであって、自分は人々を、世界を、ふたたび最も合理的である神の知、人間の理性の光を超えた神の真理の光のもとにもたらそう(enlightment)とする人間だと自認していた可能性のほうが高い。

 「功徳の相互転換性」というカトリックの教義を「罪人が利する形での罪なき人の痛みの転換性」として理解し、無実の人々の処刑によってフランス革命という罪が贖われたとする主張や、誤りの治療薬は誤りから生まれ、悪はその極限の地点で自壊するといったド・メーストルの思想は、信仰を前提にした論理としては理解できなくもないが、それを貫き通せることには尊敬の念を抱くことはできても俺にはついていくことはむつかしい。だがこの誤りを、悪を、罪を、悪魔性を徹底することによって、そこから善へ、救済へと導かれる治療薬が生まれてくるという思想は、おそらくオルタナ右翼  今や懐かしい響きすらある  と呼ばれていた人々が『マトリックス』などと並んで『ファイト・クラブ』などのパラニューク作品を好む理由の一端にもつながっているだろう。資本主義の運動が加速しきった果てのカタストロフが救済のヴィジョンと重なるように見える、という構造は『ファイト・クラブ』に限らず多くのパラニューク作品にあらわれるものだ。悪が善を生む。冒涜は敬虔な行いである。

 

 低く落ちれば落ちるほど、高く飛べる。遠くへ逃げれば逃げるほど、神は手もとに呼び戻そうとする。*16

 

 ド・メーストルの思想はのちに政治哲学者カール・シュミットに影響を与える。友敵理論。

 

 モナによれば、人は人を殺してはならない。なぜなら、その行為は人を人間の世界から弾き出すからだ。人殺しを正当化するには、被害者を敵とする必要がある。殺人に限らず犯罪を正当化するためには、被害者を敵とする必要がある。

 そう時間がたたぬうちに、この世の全員がきみの敵になるだろう。*17

 

 そのような見方はあっているのだろうか。『サバイバー』のテンダーと兄アダムによるこんなやりとりがある。

 

「俺とおまえを除いた全員が死んだ」

でもって、僕に最後に残された仕事は自殺することだ。

「おまえはそう訓練されたってだけだ」アダムは言う。「それは奴隷に与えられた究極の行為だ」

 じゃあ、人生を変えたいとしたら、僕に何ができる?

「自分のアイデンティティを取り戻すたった一つの方法は、クリード教会の長老から絶対にしてはならないと教えこまれた行為をすることだ」アダムは言う。「最大の罪を犯すことだ。究極の罪を。教会の教義に背を向けることだ」*18

 

 だがふたりがクリード教の旧所有地、いまは「テンダー・ブランソン全国要注意廃棄物衛生埋立場」、ポルノ雑誌やアダルトグッズなどありとあらゆる性的にいかがわしい物品を処分するゴミ捨て場と化した故郷にたどり着いた後、アダムは弟のテンダーに(結果として?)自分を殺させることになる。

 アダムはもしかしたらテンダー以上にクリード教の世界観から脱出したかった。ひどいのは脱出という言葉がすでにクリード教によって先取りされていたことで、アダムは厳密には自殺していないというだけでその死はほとんど自殺といっていい。アダムが死に至る構造はド・メーストルの思想をまるでなぞるようだが、アダムの物語には治療薬が、救済が見当たらない。これが救済であるとしたならそれはクリード教における救済をド・メーストルのように解釈した結果ということになるだろうがアダムにとってそれだけは嫌な終末であるはずだった。

 

 あるいは、心の傷はもしかしたら回復しないのかもしれない。だがそれは傷が癒えないということを意味しているわけではない。それに、傷が回復することが、元の状態に戻ることを意味するのだとしたら、ある種の傷を負いやすいようにできていた心に戻っても、また傷ついてしまう可能性が高い(これは精神科医神田橋條治が「職場復帰」と「仕事復帰」の違いという言い方で表現しているものに近いような気がする)。アダムは「アイデンティティを取り戻す」べきだったのだろうか。先の会話のすぐあとに、アダムはこんな話をしていた。

 

「人生を修復しようとなんかするな。目の前の大問題と向き合え」アダムは言う。

「弟よ」アダムは言う。「まずは童貞を捨てることからだ」*19

 

 修復は必ずしも取り戻すことではない。

 職場のような外的環境が心を傷つけるものとしてあらわれていたのだとすれば、環境を変えることで傷が回復する可能性はある。だが記憶につけられた傷、その痛みは、記憶と世界が地続きであることによって、自分自身が自分自身を傷つける環境であるかのように作動してしまう。そのような連関のなかで「環境を変えよう」とすることは、つまり「自分から自由になること」だ。パラニュークの小説の登場人物の多くがこの出口を目指してきた。*20

 

 ドアマンが近づいてきて、ぼくの肩越しに言う。「自分が本当に欲しいものがわからない若者は多い」

 お願いだ、タイラー。ぼくを助けてくれ。

 呼び出し音が続く。

「若者は、全世界を手に入れたいと考える」

 北欧家具からぼくを救い出してくれ。

 気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。

 呼び出し音が続き、そしてタイラーが電話に出た。

「欲しいものがわからないと」ドアマンが続けた。「本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」

 完全になどしないでくれ。

 満足などさせないでくれ。

 完璧になどしないでくれ。

 助けてくれ、タイラー。完璧で完全な人生からぼくを救ってくれ。*21

 

 ファーティリティによれば、理解しさえすれば僕は脱出できる。この高度から逃れられる。墜落を回避できる。テンダー・ブランソンであることから解放される。警察の追及を振り切れる。過去から逃れられれば、ねじれ、燃え、みじめで、もつれまくった僕のここまでの物語から自由になれる。*22

 

 最低だ。わたしはわたしでいることにいい加減うんざりしている。美しいわたし。醜いわたし。ブロンドのわたし。ブルネットのわたし。結局はわたしをわたしでいることから逃れられなくしただけの、百万回のくそったれなファッション的イメージチェンジ。

 事故の前のわたしは、いまとなっては物語に過ぎない。いまこの瞬間よりも前、いまこの瞬間よりも前、いまこの瞬間よりも前のすべては、わたしについて回る物語だ。それは世界中の誰にも当てはまる。わたしに必要なのは、わたしが誰であるかを語る新しい物語だ。

 わたしがすべきなのは、私自身を救うこともできないほどの大間違いをすることだ。*23

 

 思い出せるより長い年月のなかで初めて、僕は安らぎに包まれる。幸せではない。悲しくはない。不安ではない。欲情していない。僕の脳味噌の高度な部分が、活動を停止しようとしている。大脳皮質。小脳。僕の問題がある場所はそこだ。

 僕は自分の複雑さを解消しようとしている。*24

 

 僕に残されているのは、自由を探し当てるためのおそらく唯一の方法は、僕がしたくないことをすることだ。ナッシュを止めることだ。警察に自白することだ。

 僕自身に対する謀反を起こさなくてはならない。

 至福を追求するのとは正反対の道。僕は、僕自身がもっとも怖れていることをしなくてはならない。*25

 

 この出口へ向かって疾走していくパラニュークの小説の構造は、オルタナ右翼たちに見られる解釈の問題とはまた別の問題を抱え込むことになる。荒唐無稽なほどの大風呂敷を広げることに通じているのだが、パラニュークの作品においては「カタストロフ」そのものが救済を示すのではない。事態の大規模化(「カタストロフ」はその一部にすぎない)によって傷がどうだというどころの話ではなくなってくることが「救済」として機能している。この意味での「カタストロフ」への傾斜が『ファイト・クラブ』以降のパラニュークの作品には目立っているように思われる。*26

 パラニュークの小説の世界で、癒やし、救済といったものへ接近しうるバディはきまって「癒す人 - 癒やされる人」や「救う人 - 救われる人」という固定された関係を構成しない。たとえば『サバイバー』で、政府の支援プログラムによって派遣されたケースワーカーとテンダーの関係は、十年という時間を積み重ねたもののケースワーカーの死という形で破綻してしまう。バディはそれぞれに傷を抱えており、互いを癒そうとしないことによってバディたりえている。

 ここには「わたしたち」の萌芽がありそうなものだが、パラニュークはここでもグループセラピー同様に、主人公たちが「わたしたち」に到達することを拒む。「わたしたち」は、ふたり以上の人間が集まっているその感じが、単なる個々人の総和以上の感じになっているときに現れる。『ファイト・クラブ』の「ぼく」とタイラー・ダーデンの関係はどうだったか。『ララバイ』において「間引きの歌」を燃やす旅を続ける、連続殺人者のバディ、ヘレンとストリーター、それに魔術を信じるモナとオイスターカップル、計四人の一行は、まさにその「間引きの歌」を巡って分裂してしまう。『闇の書』に辿り着き、「間引きの歌」だけではない数々の呪文に触れてからはさらにひどい。*27インヴィジブル・モンスターズ』でバディ=二者関係がことごとく裏切られ続ける「わたし」。ブランディの「わたし」への求婚はこれ以上ないほどに叶わない。

 

 わたしを救える人々の名簿には、もうわたし一人しか残っていない。親友はだめ。元恋人もだめ。医者や修道女にも頼れない。警察は相手にしてくれるかもしれないが、まだその時期ではない。この騒ぎを法律でこぎれいに包装して、わたしの人生未満の人生の再スタートを切るには早すぎる。醜悪で、永遠に人の目に見えず、過去の断片を拾い直す人生をやり直すには早すぎる。

 事態は混乱のきわみで宙ぶらりんになっている。でも、まだ解決しようという気にはなれない。わたしの快適帯は一分ごとに広がっている。わたしのドラマの限界値は跳ね上がっている。いまは新しい可能性を開くべきときだ。何だってできそうな気がしている。わたしはいまようやく始めの一歩を踏み出そうとしている。

 わたしのライフルは装弾され、わたしは一人目の人質を手にしている。*28

 

 ここまでの道のりを経て、孤立した個人でもなく「わたしたち」でもない個々人の希望を描こうとするとき、とれる選択肢は限られている。自分の内に救いはない。自分こそが自分を救えないものにしている原因だからだ。しかし「わたしたち」もない。それは成立しないか、裏切られるか、気づかないままに崩れ落ちる。誰にもわたしを救えない。神は押し黙ったままだ。

 結果として、救いは第三者、神でも人間でもない第三者によってもたらされるしかない。それは「カタストロフ」という形をとる。パラニュークは実際にそれでOKとは思っていないだろう。早川書房から出た文庫版である『ファイト・クラブ〔新版〕』の解説のなかにパラニュークの発言が引かれており、そこでこう書かれているとしてもである。

 

ラニュークは本書でどうして暴力や混乱を描いたのか。彼は言う。「無秩序で破滅的なものを前にしても、我々は恐れず、むしろ受け入れなければなりません。こうしたものを通じてしか我々は救われないし、変われないのです」*29

 

 パラニュークの描く大惨事に「カタストロフ」を見出すのは受け手側の問題だ。パラニュークの小説においてはっきりと「これが救済である」といえるようなものはひとつもないし、「カタストロフ」が実際に起きたのかさえもしばしばぼかされる。*30

 

 母親はいつも、残念に思っていると言っていた。人々は長年、世界を安全で秩序ある場所にするために働いてきた。世界がどれだけ退屈なものになろうとしているのか、誰も気づかずにいた。全世界に境界線が引かれ、速度が制限され、地域区分がなされ、税金がかけられて、規制されて、すべての人々は検査され、登録されて、住所が割り振られ、記録されている。冒険の余地らしい余地は残されていない。お金を出せば手に入れられるものを除いては。たとえばローラーコースター。映画。冒険は、そういった作り物の興奮でしかありえない。恐竜が子どもたちを本当に食ったりしないことは誰でも知っている。試写会のアンケートは、大きな作り物の災害の起きる余地さえ否決した。本物の災害、本物の危険の可能性がゼロであるがゆえに、本物の救済を得られる可能性もゼロになった。*31

 

 パラニュークのインタビュー記事を昔読んで、とても印象的だった部分がある。

 

都甲 すごく納得できますね。アメリカの文化では、個人が自分自身の力によって自由を獲得していくことがとても重要視されますから。といっても、文化が異なる日本でもパラニュークさんの作品が愛されているというのは、みんな普遍的にそういう問題に行き当たるのかもしれませんが。 パラニュークさんはそうしたテーマの小説を書くことで、読者だけでなく、ご自身も自由になっているのでしょうか?  

ラニューク 自由になっているのは私だけですよ。  *32

 

 パラニュークは、自分の小説が何をもたらさないかについてとても正確に知っている。パラニュークが小説を書くことで自由になれているのだとしたら、俺は嬉しいと思う。

 

 俺は『インヴェンション・オブ・サウンド』があんまり好きではない。一番大きいのはジミーのことだ。他の登場人物への態度に比して、ジミーへのそれは不当に敬意を欠いている。フォスターもミッツィも丁寧に破滅させられる。ジミーは使い捨てられるだけだ。

 あるいはフォスターとミッツィのインヴェンション(二声の鍵盤楽曲)と対になる、ブラッシュとジミーの反-インヴェンションを意図しているのかもしれない。確かに目論見がトントン拍子にうまくいき、女優としてカムバックとはいかずとも宝石商への道を掴んだブラッシュと、何もなしとげていない、何をやろうとしているのかもわからないまま商品の材料として殺害され、この世に残されたただひとつの自分のものであろう絶叫が音響兵器になり(この作品でのカタストロフは映画版の『ファイト・クラブ』に匹敵するところまできている)、最後には他のテープもろとも焼け落ちるジミーとは、それだけ書けば対比になっているようにも見える。だがブラッシュは自分の夫になった人間が怪物になってしまったであろうことを知らない。成功と失敗の対比は綺麗に成立していない。

 あるいは「俺たち」を「去勢」した世界に対して、去勢による苦痛の叫びが復讐として「カタストロフ」となって世界に反転してくると考えればいいのか。うーん……カタストロフを個人の存在に背負わせるのはどうなんすかね。『チョーク!』のヴィクターは自分の出生にまつわるとんでもない事実を背負わされそうになるけど、そのこと自体はヴィクターを救済する意味でのカタストロフとしては機能していないし、それがよかったように思うのだけど。

 あるいはギャグとして(特に劇場の崩落あたりから)この小説を受け止めればいいのかも知れない。だがジミーというギャグは、他の人物たちによって織りなされるギャグと調和していない。ジミーはつまはじきにされている。精子だってシェローの精子に先を越されたかもだし。あーそれならギリ有機的なギャグのつながりの中にジミーもいるのか。いるのか……?

 

『インヴェンション・オブ・サウンド』における主人公と癒しの集団との関係は、それまでのものよりも暗鬱なポイントに近づいている。確かにフォスターは子供を失った遺族たちの集まりによっては癒やされなかった。それどころかこの遺族グループはフォスターひとりをはめるための仕掛けであり、フォスター以外の人間はおそらく誰一人子供を失ってなどいなかった。癒しの集団による主人公への裏切り。それだけ読めば、これも主人公と癒しの集団の関係を変化球でつなぐことで、集団の癒しの可能性の否定に帰着するのを押し留めているようにも思える。だが、この集団が偽の遺族たちであると気づくまではフォスターはそれが本物の遺族グループだと思っていたし、ある時点までは「依存」から抜け出したくないと思いつつもそこへ通っていた(それは『ファイト・クラブ』の「ぼく」のような不実ではない)。なにより、そこで出会ったロブはフォスターのたったふたりの友人のうちのひとりだったのだ。ロブとフォスターの関係は、『チョーク!』のヴィクターとデニーのそれとちょうど対称になっているといえる。『チョーク!』から『インヴェンション・オブ・サウンド』へ、主人公と癒しの集団を乗せたシーソーの重心がずれ、癒しの集団は闇の底に滑り落ちつつある。

 

 傷ついている数多の「わたし」が存在しており、また「わたしたち」も傷ついている。わたしたちは癒やすことができるのだろうか。ド・メーストルの末裔が国家の背後でアップを始めているのがわかる。

ファイト・クラブ』で俺が最も美しいと思う交差。

 

 放火は月曜。

 強襲は火曜。

 悪ふざけは水曜。

 情報操作は木曜。

 組織的カオス。無政府統治。わけがわからない。

 互助グループだ。一種の互助グループ。*33

 

「待って」マーラが屋上を横切って近づいてくる。

 マーラはぼくのほうへ、ぼく一人がいるところに近づいてくる。(中略)

「尾けてきたの」マーラが大声を張り上げる。「互助グループのみんなで。そんなもの必要ない。銃を下ろして」

 マーラに続き、結腸ガン、住脳寄生虫、黒色腫、結核の患者が歩き、足を引きずり、あるいは車椅子を操って近づいてくる。

 口々に言っている。「待ちなさい」

 彼らの声が冷たい風に乗って届く。「やめなさい」

「私たちが力になる」

「力にならせて」*34

 

「わたしたち」であること以外のすべてを無に還そうとするシステムに取り込まれてしまった「ぼく」を、「わたしたち」の一員であることを偽った人間が、それぞれの「わたしたち」の枠をこえて集まった「わたしたち」を率いて助けにやってくる。愛ではないと思うけれども、好きだっていうんだもんな。そりゃあしょうがない。すげえことだよ。

 

 パラニュークは「わたしたち」が成立するのを拒む、と俺が書いたとき、意図的に落とした『チョーク!』。

 

「問題はだ、僕はおまえに僕の助けを必要としてもらいたかった」僕は言う。「僕はおまえにどうか手伝ってくれと言われたかった」

 ベスとデニーは初めてまともに僕の顔を見る。そして僕は窓に映る僕ら三人を見る。

「ああ、もちろんだよ」デニーは言う。「おまえの力が必要だ」ベスに向かって、デニーは言う。「俺たちがテレビに出てたって?」

 するとベスは肩をすくめて言う。「確か火曜日よ」彼女は言う。「ううん、ちょっと待って。今日は何曜日?」

 そこで僕は言う。「つまり、僕が必要ってことかな」 

 するとデニーは椅子に座ったまま、僕が用意万端整えた紙のチューブにうなずく。汚い方の耳を僕のほうに持ち上げて、言う。「よう。もう一回頼むぜ。やみつきになる。こっちの耳もきれいにしてくれ」*35

 

 長い間一人きりで生きてきたあとでは、”僕ら”という響きは心地いい。*36

 

 ヴィクターは「僕ら」に到達できた。それにはヴィクターとデニーという「バディ」を構成するふたりどちらもが(おそらく)異性愛者の男性で、そのうえ性依存症であることが一因になっているとは思う。だがそれ以上に「癒す人-癒やされる人」というのは固定されるような関係ではないということ、しかし頼られたい、救いたいという感情が自分のうちにあることをヴィクターが受け入れ、それをデニーに伝えられたこと、デニーもそれを受け止められたことが大きいだろう。それに、バディという関係だけに閉じなかったということもある。「僕ら」にはヴィクターとデニーだけではなく、ベスや(おそらく)ペイジも含まれている。ここにも「愛ではないと思う」けど、「好き」がある。まったく。

 

 もしかしたら「わたしたち」は癒せない、いや、癒やさないことによって癒やせるようになるのかもしれない。……って感じで〆ようと思ってたんだけど、好きかあ、好きって言われちゃうと、困っちゃうな。

 

「愛」という言葉を信じられない人々のためのロマンスを書きつづける作家。

 好きってすごいぜ。

 

 

 

 

 

 

 

*1:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴェンション・オブ・サウンド』pp46-47, 早川書房, 2023

*2:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp47-48, 早川書房, 2015

*3:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』p115, 早川書房, 2003

*4:同上, p126

*5:同上, pp130-131

*6:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー〔新版〕』pp323-322, 早川書房, 2022。原著同様に、ページ番号は逆向きに振られている。

*7:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』p15, 早川書房, 2004

*8:同上, p122

*9:アイダがイタリアからの移民であることを考えても、かれら母子の姓名の由来は、イタリア人作曲家ヴェルディの『アイーダ』、ポーランドユダヤアメリカ人映画音楽家ヴィクター・ヤング、そしてイタリア系アメリカ人の映画音楽家ヘンリー・マンシーニからきていると思われる。ともに疎外を感じてはいるが、アイダ世代が通過した反体制的なカルチャーと、ヴィクター世代のそれは異なる。映画からオペラへ。映画の登場によりコルンゴルトなど有力だったオペラ作曲家は次々と映画音楽へ活躍の場を移していくことになる。面会のたび、アイダは目の前にいるヴィクターをヴィクターとして認識せず、別人として接しながら、その「別人」に対してヴィクターのことを気にかけているように振る舞う。ヴィクターもその「別人」として振る舞う。言葉はまさに詰まっているチョーク。聖アントニー・ケアセンターには監視カメラが設置されており、各部屋の音を聞くこともできる。音楽の名前を背負った母子たち。映画音楽家の名前だけをもつヴィクターが、監視カメラのモニター越しに、オペラと映画のあいだにまたがっているアイダを見ているとき、そのときだけ彼はスピーカーを通じて、母親が息子に対して話したかったであろう言葉、母親の声を聞くことができる。

*10:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp257-258, 早川書房, 2004

*11:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p87, 早川書房, 2005

*12:同上, p90

*13:ラニュークがこれだけ癒しの集団を小説に書き入れるのは、彼が『ファイト・クラブ』を書く以前に「若くして死に瀕した人々がいるホスピスでボランティア活動をしていた」ことが影響していよう(「【イベントレポート】もう限界な人のための物語。パラニューク、自作を語る」https://www.hayakawabooks.com/n/n5f21b9f490bd, 2025年6月15日閲覧。)。では本当にストレートに「傷ついた人物が癒しの集団に辿り着き、そこで癒やされる」という小説を書くというのはどうか。あまりパラニュークらしくはない。それにそういう風に小説を書くのはかなり難しい。思いつく限りではアレイスター・クロウリーの『麻薬常用者の日記』がギリギリ当てはまる小説(?)だろうか。しかしあの本をそういう風に読むというのは何か全体的に間違っているという感じがする。おそらく集団的な癒しのプロセスはかなり宗教的なもので、そのことが、宗教的なもののうちになかなかとどまっていられない小説という存在との相性の悪さにつながっているのではないかと思う。パラニュークの小説における癒しの集団の場所は教会であることが多く、とくに『ファイト・クラブ』や『インヴェンション・オブ・サウンド』ではそれらの場所が教会の「地下」であることは示唆的である。地下教会と類似しているというより、「地下」にはもう光が届かないのだ。

*14:影浦亮平「ジョゼフ・ド・メーストルにおける近代の神学的解釈, https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/179569/1/bkr00009_039.pdf, 2025年6月14日閲覧。

*15:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p197, 早川書房, 2005

*16:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』 p255, 早川書房, 2003

*17:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p143, 早川書房, 2005。この続きはこうなっている。

 

 どんな犯罪でも、とモナは言う。犯すたびに世界から疎外されていく。罪を重ねるたびに、全世界が君の敵だと思えてくる。

(中略)

 唯一の解決策は、とモナは言う。降伏して、罪を犯したヘレンと僕を世界に殺させることだろう。あるいは、ヘレンと僕が自殺するのでもいい。

 僕は訊く。それもやはりウィカンの戯言たわごとなのか。

 するとモナは言う。「違うわ。実を言うとね、カール・マルクスよ」

 

 俺の知るかぎり、カール・マルクスはそういうタイプの宗教家ではなかった気がする。カール違いの方もそういうことではなかった気がする。もちろん登場人物にもそのことは認識されていよう。

 

 もしモナが正しいなら、モナが話していたカール・マルクスに従えば、ナッシュを殺せばナッシュを救うことになる。ナッシュを神のみもとに送り返すことになる。ナッシュの罪を取り消して、ナッシュを人類のもとに連れ戻すことになる。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p249, 早川書房, 2005)

*18:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー』p62, 早川書房, 2023

*19:同上, p61

*20:ついでに言えば、おそらくベンヤミンアドルノが「歴史」を背負いつつ願っていたのもこの「自分から自由になること」だったと思う。とくにベンヤミンが映画や写真から「気散じ」や「ショック」を読み取り、それらに希望を見出したのは、それらの現象が自分自身の精神の連続性を切断する瞬間、「自分が(資本主義社会によってつくられた)自分から自由になる」瞬間であるように思えたからだろう。アドルノの「非同一性の思考」、あるいは「概念の崩壊こそ批判的哲学のイデーだ」というのも同じことだ。かれらの神経政治学はパラニュークに(批判的に)受け継がれている。

 

「あなたは人の言葉の製品なのよ」ブランディが言う。「法律の製品でもあるし、神がわたしたちに望んでいるとわたしたちが信じているものの製品でもある。あなたのちっちゃな分子の一つひとつは、あなたより前に数百万の人々によって考え作られたものなの」ブランディは言う。「あなたにできることはどれも退屈で、古くて、誰にも文句はつけられない。あなたは安全だわ。自分の文化の内側にとらわれているから。あなたが思いつけることはすべて妥当なのよ。なぜかと言えば、人が思いつけることだから。逃げる方法は想像もできないはず。逃げる方法は一つも存在しないの」ブランディは言う。

「世界は」ブランディは言う。「あなたのゆりかごであって、あなたの罠でもある」(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』p190, 早川書房, 2003)

 

 コンパクトディスクが自分に録音されているものに責任がないのと一緒だ。人はプログラムされたコンピューターと同じくらい自由だ。ドル札と同じ程度に個性的だ。

あなた、、、のなかには本当のあなた、、、なんかないの」ブランディは言う。「肉体でさえ、八ヶ月ですべての細胞が新しく入れ替わるのよ」(同上, p189)

 

 かのジョージ・オーウェルは、あべこべを書いた。

 ”ビッグブラザー”は監視しているのではない。歌を歌い、踊っている。帽子からウサギを出して人の気を引いている。ビッグブラザーは、きみが目を覚ましている間、絶えずきみの関心を引きつけておくのに忙しい。きみの注意がつねに散漫であるよう念を入れている。いつも完全に上の空でいるよう念を入れている。

 ビッグブラザーは、きみの想像力が退化するよう念を入れている。盲腸と同じくらい無用の長物になるよう念を入れている。きみの意識がいつも満杯であるよう念を入れている。

 そしてこのくらい満杯だと、監視されているよりもなお不幸だ。意識がつねに世界によって占領されていると、きみが何を考えているか、誰も気にする必要がなくなる。すべての人の想像力が退化していると、誰も世界に脅威を与えない。

(中略)

 いまの時代、誰の心もその持ち主のものではない。集中できない。考えられない。絶えず何らかの騒音が忍び入っている。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』pp25-26, 早川書房, 2005)

 

『ヴォーグ』や『グラマー』といったファッション雑誌をパラパラめくることになぞらえて構築された『インヴィジブル・モンスターズ』を読んでいるときの体験はカットアップモンタージュを思い起こさせる。パラニュークの小説は映画的であったりミクスチャー的であったりというよりも、そこに感じられるものが、映画からベンヤミンが読み取れたものに似ているのだ。

*21:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp60-61, 早川書房, 2015

*22:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー〔新版〕』p5, 早川書房, 2022

*23:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』 pp194-195, 早川書房, 2003

*24:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp298-299, 早川書房, 2004

*25:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p245, 早川書房, 2005

*26:原作版よりも遥かに巨大な視覚的スペクタクルをともなう「カタストロフ」をみせた映画版『ファイト・クラブ』のヒットの影響は多少あるかもしれない。

*27:ところでストリーターの次の語りを読んでみよう。

 

 僕ときみ vs. 世界……

 ゲイリー・ルウィントンには弟のサディウスがいた。ケネス・ビアンキにはアンジェロ・ブオノがいた。ラリー・ビテカーにはロイ・ノリスがいた。ダグ・クラークにはキャロル・バンディがいた。デヴィッド・ゴアにはフレッド・ウォーターフィールドがいた。グウェン・グレアムにはキャシー・ウッドがいた。ダグ・グレツラーにはビル・スティールマンがいた。ジョー・キャリンガーには息子のマイクがいた。パット・キアニーにはデイヴ・ヒルがいた。アンディ・コカラリスには弟のトムがいた。レオ・レイクにはチャールズ・エイングがいた。ヘンリー・ルーカスにはオティス・トゥールがいた。アルバート・アンセルミにはジョン・スカリジがいた。アレン・マイケルにはクレアモン・ジョンソンがいた。クライド・バローにはボニー・パーカーがいた。ダグ・ビーモアにはキース・コスビーがいた。イアン・ブレイディにはマイラ・ヒンドリーがいた。トム・ブラウンにはレオ・メインがいた。ベン・ブルックスにはフレッド・トリーシュがいた。ジョン・ブラウンにはサム・コツィがいた。ビル・バークにはビル・ヘアがいた。アースキン・バローズにはラリー・タクリンがいた。ホセ・バックスにはマリアーノ・マクーがいた。ブルース・チャイルズにはヘンリー・マケニーがいた。オルトン・コールマンにはデビー・ブラウンがいた。アン・フレンチには息子のビルがいた。フランク・グーゼンバーグには弟のピーターがいた。デルフィナ・ゴンザレスには妹のマリアがいた。ドクター・ティート・ヘルムにはドクター・トム・アルジェンがいた。アメリア・サックスにはアニー・ウォルターズがいた。

 公表されている連続殺人者の十三パーセントが、二人一組で罪を重ねていた。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク』pp144-145, 早川書房, 2005)

 

 こんなに愉快な「セカイ系」はそうそうない。

*28:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』pp122-123, 早川書房, 2003

*29:都甲幸治「自分の人生を取り戻せ  ファイトクラブ解説』、チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』所収, p325, 早川書房, 2015

*30:インヴィジブル・モンスターズ』が他の作品に比べて抜きん出ているところがあると感じるのは、パラニュークがカタストロフを「カタストロフ」的に使用する誘惑をギリギリのところで振り払い、ミニマルな関係の反転・回転運動にとどまっていることが一因だと思う。冒頭=最後の大炎舞にしても、無関係な人間を大量に巻き込む種類のものではない。『サバイバー』でのテンダーは乗客を殺してはいないものの、ハイジャックはハイジャックだ。『チョーク!』では見た目こそ派手なスペクタクルはおこらないものの、時間的なスケールが冗談みたいに巨大化していく。

*31:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』p168, 早川書房, 2004

*32:「【イベントレポート】もう限界な人のための物語。パラニューク、自作を語る」https://www.hayakawabooks.com/n/n5f21b9f490bd, 2025年6月14日閲覧。

*33:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp168-169, 早川書房, 2015

*34:同上, pp293-294

*35:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp254-255, 早川書房, 2004

*36:同上, p279

わたしを否定する世界に対し否定でもって戦うときわたしはどこにいるのか?

 ※未読の方は、先に青松輝氏の以下のブログを読んでほしい。

 

note.com

 

 

A. 長い前置き(プロファイル)

 

 近年の俺が目指していたことをカッコつけていうなら「『ファインダー越しの私の世界』(死語?)ではなく世界に到達する」ということになると思う。「文学」とか「芸術」とかだんだんどうでもよくなっていって、ただ「それが何がしかの意味で世界を直で掴んでいる感触があるか?」ということが大事だろうという方向になっていった。もちろん「文学」や「芸術」で見るということそれ自体がよくないという話ではない。そういう風にして自分の持っていた感受性がいい方向に伸びていくということはありうる。だが「文学」や「芸術」を信じはじめてしまったら、それは本末が転倒しちゃってるだろ、と思う。荒川修作という人が(たしか詩人の宮沢賢治を批判するなかで)「物語を信じてしまったら科学はできない」というようなことをいっていて、それは自分の指針になり続けている。

 

「文学」のために死ぬとか「芸術」のために死ぬって、嫌だなあと思う。「国家」とか「理想」とか「会社」のために死ぬとかと何が違うのかわからない。*1まあ似たようなことで「〜〜のために生きる」も全然ピンとこないし好きじゃないんだけど、死ぬよかマシではある。もちろん「生活が、暮らしがある」ということと「生活が、暮らしがあるだけ」ということは全く違っており、後者は偽です。「生きていくなかで」という言い方が今のところ一番しっくりくるかな、と思う。生きていくなかで、世界の何かを発見したり気づいていく、ってありようが理想的だった。

 

 ただ冷静に考えると「世界に到達する」っていうのは変っちゃあ変な日本語で、なぜかといえば言うまでもなくわたしはこの世界にいるし、わたしも含めてこの世界ということは当たり前の話だからだ。*2そもそもなんで「世界に到達する」って目標が出てきたのかといえば、自分が世界に到達できていない、世界に居られていない感触があるからということになる。

 

 谷川俊太郎という詩人の詩、というか姿勢が好きでたまに詩やインタビューを読む。

 

note.com

 

 谷川は幼少期に言葉につまづいて、それで詩人になった。自分が感受したことをごまかさないひとだったんだなあと思う。谷川からは、詩に思い詰めたひとという感じがしてこない(「自分の詩」についてはわからん、スランプとか感じてた時期もあるかもしれんけど)。実際真空管ラジオに夢中になったり、あとたしかクラシック音楽も好きだったんじゃなかっただろうか。「これしかない!」という切迫感があんまりなくて、それがだんだん俺も心地良く感じていった、という記憶がある。

 

 俺は過去に詩を書いていた時期があって、詩集も作ったりしていたのだけれど、最初の最初に詩を書き終えたときの感想は「あ〜あ、これは詩だな、詩が書けちゃったよ、どうしようかなあ」というもので、まあ字面としては傲岸不遜すぎるわけだがそのときの正直な気持ちではあって、何がいいたいかというと谷川は最初に詩を書いたときたぶんこういう感想にはならなかったと思う。それ以前から、俺のような神経質でバランス感覚を欠いたタイプの人間が詩を書くようなときっていうのはだいたい自分の状態がヤバくなっているんだろうな、という自己理解はしていた。詩の手前で事故が起きていて、崩れた自分のバランスを何とか取ろうとしてそういうことになった、という理解をしつつも、まあ詩をやめれば良くなるというもんでもなかろう、機会ってことだろうし1冊ぶんになるまではやってみっか、と思い、それから1、2年は詩を書いていた。その2年目くらいに、たぶん精神科医神田橋條治の本経由だったと思うけど「詩を作るより田を作れ」っていう言葉を読んで、*3あまりにもしっくりきてしまったのでそれから書かなくなったし詩もほとんど読まなくなった。*4現状、田は作れておりません。何を?

 

 思い詰めがちな俺の場合、世界にどうやったらなじんでいけるか、世界とどう折り合いをつけていくか、というのが、あらゆる枠組みを超えて、一個の、もしかしたら一生の課題として現れてくるだろうなと思う。

 

B. 青松輝「ふたたび戦うための7章」について

 B-1. 戦うこと

 

 本題に入る。青松輝の「ふたたび戦うための7章」を読んだ。最初に「否定」の文字が目に入り、「戦う」や「不可能性」、最後には「戦え」といった文字が続いてやってくる。ぐったりしてしまう。

 

 長々と前置きを書いたのには理由がある。青松の記事がもし「現代詩」あるいは「詩」のみについての文章であるとしたなら俺が「世界」とか言い出すのは明らかに広げ過ぎなので、俺がただただ明後日の方向に行っているということになってしまう。だが冒頭を読む限り、青松もただ「現代詩」につまづいているだけには見えなかった。

 

 部屋のなかで、ずっと動画を見ている。テレビでAmazon Fire TVを使えるようになったから、便利で仕方がない。ずっと動画を見ている。(中略)

 

画面のなかで、世界が平らになる。どこまでもスワイプできる世界、倍速再生の世界、9:16の世界。

 

〈一個のもの〉に、世界が回収されていく。世界がつまらなく見える。それらを否定しなくてはならない。しかし、すべてを否定しきることはできない。自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない。

 

画面をすべて割りたい。世界をすべて割りたい。だが勿論、そんなことはできず、すべてがくだらないと思いながらベッドに潜りこむ。眠りにつくのは、夜だったり朝だったりする。

 

 スマートフォンと世界が重ね合わされて、コンテンツ業界と世界が一致するように書かれているとする。そうなればやはりこれは(商業的状況を含めた)コンテンツ業界における詩の話だということになるが、やはりそうは思えない。

 

 これから、詩の歴史を題材にふたつの戦略について書く。詩は、もはや商業的には終わったジャンルと考えられても仕方がないが、われわれは焼け跡から多くの武器を拾うことが可能だ。   

 

 焼け跡とはどこか、ここだ。もし、なにかと戦う身ぶりが過剰にヒロイックに見えるのなら、読者のあなた自身も戦いの場にいるにも関わらず、それに気づいていないだけのことだ。

 

詩の歴史を題材に」するのであるから話の本筋は詩だけの世界にとどまらないし、「焼け跡とはどこか、ここだ」と言われたら、それは詩の世界だけではなくてすべての「ここ」ということになると思う。なので、現代詩だけではなくて、世界の話をすべきだろうなと思った。

 

 俺は結構いろんなものにつまづいている。コミュニケーションもそうだし日本の社会にしてもそうだし自分自身にすらつまづいちゃっている。そんななかで、俺は自分と世界をなんとかすりあわせられないか、なじませていけないか、というのが一生の「課題」なんだろうなと思っている。実際ぜんぜん生活できてねえし。でもこれは「課題」であって「戦い」ではない。

 前出の「もし、なにかと戦う身ぶりが過剰にヒロイックに見えるのなら、読者のあなた自身も戦いの場にいるにも関わらず、それに気づいていないだけのことだ」というところもそうだし、「負けても戦え、理由はない、戦うために戦え。」もそうなのだが、この世界ぜんたいが戦場と化したかのような表現が見られる。ドイツの文学者エルンスト・ユンガーがワイマールの極右時代にアジテートした、永続総力戦としての全世界というヴィジョンを思い起こすが、まだこの「戦い」の領域が純粋な比喩として使用されている可能性はある。日常生活の世界に「戦争」の比喩をあてがうことは点々と続けられている。

 

革命起こしたいセンシティヴなお年頃

落としたものは拾えない

キリツレイここは戦場

確立前のアイデンティティ

 

  Moe Shop, TORIENA「Notice」より

 

だが、坂口安吾の「戦略」について青松が評するとき、次のような箇所が出てくる。

 

このような言葉は、強い人間にしか吐けないのではないか。このようなことを本気で言える人間は、初めから文学も詩も必要としないだろう。坂口安吾自身の生涯を眺めれば、安吾自身がほんとうにこれを本気で言い続けられたか、ということも疑わしいのではないか。

 

坂口安吾の生涯」や坂口安吾の人間強度?が〈抒情〉や〈エモ〉と並ぶ戦略としての〈人生〉を批評する際の観点として採用されることによって、戦略を要する「戦う」はただの比喩であるとして「世界」をかわすことが難しい位置にやってくることになる。

 

 俺がまず気になるのは、この世界で「戦う」ことをひとつの至上命題につりあげていく際に、何と「戦う」のかということだ。

 

 これから、戦うための方針と技術、つまり戦略について書く。戦略は2つある。ひとつは〈抒情〉で、もうひとつは〈エモ〉だ。   

 

 戦うための方針と技術。何と戦うのか。戦うとはつまり、否定性の波のなかで、飲み込まれないで立って、肯定性を獲得するためのプロセスのことだ。それは、世界で傷つき倒れかかっている、誰かを救うためでもあり、自分自身を救うためにでもある。

 

「何と戦うのか」の答えが明示的に書かれている箇所は文中に存在しないが、「否定性としてあらわれる世界」ということができるだろうと思った。最初に戻れば、「〈一個のもの〉に、世界が回収されていく。世界がつまらなく見える。それらを否定しなくてはならない。しかし、すべてを否定しきることはできない。自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない」とある。これは「戦う」の定義をなぞっている。単なる否定は戦いではない。否定(あるいは裏返しとしての肯定)と救済を接続したプロセスが「戦う」ということになる。

 

外向きにある否定性と、そこから逆算で導かれる肯定性-〈抒情〉、それら否定性を裏返して導かれる肯定性-〈エモ〉。それらの、外的な接触を使ってなにかを創ろうとする態度からの脱皮。それが〈人生〉である。

 

 そしてプロファイルで示唆しておいたように、俺は〈内-外〉のようにして〈わたし-世界〉というようにスッパリ分けてしまうことには納得がいかない。「分けられる」から「分けなければならない」にはならない。そして俺には救済がいまだにわからない。ベーシックインカム負の所得税は分かる。孤独・孤立対策担当大臣は……わからない、あれは一体何なんだ?

 

 ちょっと前に俺はこんなことを書いていた。

 

・「自己肯定」が「自己否定」とともにナンセンスな概念であることはわかる。肯定しようが否定しようが自己はゆるぎなくあり続けるし、そもそも自己が「肯定」や「否定」と関係するようなものではないのだ。「私とは存在だ」といってしまいたくなる(これは「私が存在している」や「私だけが存在している」とは全く違うことだ。そして「私の性質」は「私」ではない)。たぶんこれは頭の一部だけを先走りさせすぎている。    

 

・しかし意識というのはすごいことだ。意識の基盤はモノだろうと思うが、意識自体はモノではない。それは色も形も重さもない。人間は飛べないのに意識は飛ぶことができる。意識には場所がない。「〇〇を意識して」というとき、意識は「どこ」と関わりを持っていないように思う。というか「意識する」という動詞そのものが凄すぎる。動詞だぞ! 世界はスピリチュアルな時代に入ったとひしひしと感じる昨今だが、一番身近なものからして相当スピリチュアルだ。*5

 

 わたしを否定する世界に対して、否定でもって戦うとき、わたしはどこにいるのだろうか?「自分が今ここに存在していることを、救い出さなくてはならない」ことと「戦う」ことのプロセスの間には困難があり、人間はいろいろな意味で「デカルト空間」に存在しているのではない。肯定されるべきわたし(そうしたものがありうるとしたらだが)はつねに「いま・ここ」の「世界」とセットになっていて、〈内-外〉の切り離しを前提とした戦いはこの間隙を埋めることができない。俺としては「意識が飛ぶ」ことができるということ、つまり「いま・ここ」から自由になりうる可能性が人間には与えられているということになかなかのワクワクを感じるのだが、どうなんだろうな。

 

ajisimidaikon.hatenablog.jp

 

 B-2. 〈抒情〉、〈エモ〉、ループ

 

 青松は〈抒情〉について次のように書く。

 

古くから受け継がれてきた、ひとつめの戦略を〈抒情〉という。〈抒情〉とは、すべての否定性をそのまま引き受け、それでもなお僅かに残った書けるものを書く、その戦略のことをさす。抒情詩とは何かをひとことで説明するのは難しいが、辞書的な定義をするなら、叙景、叙事に対立させて「感情を述べあらわす」もの、となる。  

 

〈抒情〉は、否定性をきっかけとして起動する。現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。   

 

すぐれた抒情詩は、世界を書き換え、すべての否定性を梃子に、一個だけの肯定をかたちにする。作品は、それらの否定性を内蔵しながら、同時に、作品として存在させられたことの、ただそこに詩としてあることの、強い肯定性を主張する。

 

 〈抒情〉は世界からの否定性によって駆動する。「現状を否定的に捉えるのでなければ、あたらしい言葉=作品は必要でない。詩人はいつも苦難のなかで多くのものを否定し、まだ世界にない何かを書き始める。われわれを取り巻く否定性と、それをうつす感情を、ひとつの作品として結晶させようとする。」と、先に書いた「戦い」における〈内-外〉の構造から、〈抒情〉は否定性として現れる外的な触発(世界)に対し、それを受け入れたうえで、内的なもの(わたし)が「それでもなお」を出力する。「新しさ」がこの運動を無限に繰り返すことを要求する。青松は日本近代詩の代表的な詩人、萩原朔太郎の詩を読んでいきながら、そのことを「こうして、〈抒情〉は無限のループに入った。」という言葉で表現する。

 

 〈エモ〉はどうか。

 

 いつから使われているのかはわからないが、もはや定番になりつつある、ふたつめの戦略を〈エモ〉という。この戦略は、〈抒情〉における否定性の連鎖と正面から向かい合って、それらを克服するために使われている。   

 

エモーショナルなもの - 近代的な抒情を通過しおわって、すべてが汲みつくされた世界で、日本語は「エモーショナル」を「エモ」と略すようになった。ここに〈エモ〉の核心がある。   

 

エモーションは二文字で「エモ」と略せる。「略せる」ということが鍵を握っている。すでに通った道を捨てるのではなく、裏技として利用すること。その態度が〈エモ〉の本質だといってみよう。〈エモ〉が志向するのは、いちど否定されたはずのものの再-肯定だ。〈抒情〉において採用された、否定の果ての「書くべきこと」は、他者との同一化に対する欲望から生まれてきていた。〈エモ〉の戦略ではそのような、全体性に対する欲望は、すでに捨てられている。   

 

エモ〉の戦略が、すでに情緒的だと知られている過程をなぞることにためらいがないのは、単なる無知ではなく、ある種の開き直り、あるいはブレイクスルーである。そして〈抒情〉を通過して書かれる以上、〈エモ〉は必然的にアイロニカルな戦略でもある。

 

「〈抒情〉を通過して書かれる以上、〈エモ〉は必然的にアイロニカルな戦略でもある。」や「〈抒情〉における否定性の連鎖と正面から向かい合って」というところから、〈エモ〉が〈抒情〉の延長線上にあることが分かる。〈抒情〉を外に置き(でなければ正面から向かい合うことはできない)、その否定性を受け入れたうえで、内であるわたしは「それでもなお」を出力する。もちろん二重否定ではないので最初に戻るわけではないことが引用部分からもわかる。

 

しかし〈エモ〉戦略の重要なところは、〈抒情〉に対抗するための最短経路を、意味内容ではなくてモチーフのテクスチャーを通して可能にしたことだ。 

 

 表にしろ裏にしろテクスチャーは曲面であり、詩であるところの文字は紙にしろ液晶画面にしろ平らな場所に印刷されている。そしてこの運動は青松の記事の最初に戻ってくることになる。

 

画面のなかで、世界が平らになる。

 

懺悔は極光を求め、極光はあらたな懺悔を要求する。」という、萩原の詩から抽出された命題、この文字の上では確かに〈抒情〉はループしているが、〈歴史〉は時間の線形性に基づいて編まれるため、〈抒情〉とは正確にはループではなく、〈歴史〉に対する「否定性(外)-肯定性(内)」というプロセスの再帰的な適用だったといえる。だが、ここでたどり着いたのは本物のループだ。〈抒情〉と〈エモ〉は戦略という観点からみて並存しているのではない。〈エモ〉が戦略として可能になるのは、〈抒情〉という戦略が否定性として捉えられたからである。こうして「画面の中の平らな世界」-〈抒情〉-〈エモ〉のループが完成する。*6

 どうしてこういうことになるのか。青松の記事ぜんたいを動かしているのは(俺が今まで読んだ中でも最短最速の優れた)〈抒情〉を軸とした日本近現代詩史であり、それはすなわち否定性(そして閉塞的な男性性)を軸として起動する日本近現代詩史にほかならない。それがテレビやスマートフォンといった平面、象徴的な〈一個のもの〉としてのスクリーンのある現実世界に接続されていることがこのループを導くことになる。〈エモ〉がまさしく〈一個のもの〉としてのスクリーンに収束するであろうことはここまで、そして青松の記事においても確認されている。厄介なのはじゃあ〈一個のもの〉、スクリーンから始めずに日本近現代〈抒情〉詩史を世界から切断すればこのループから脱出できるかといえばそうではなく、(坂口安吾を抜きにしても)この〈歴史〉は、名前は出ていないが戦後の焼け野原から出発した「荒地」派や、その後の1968年の闘争を駆けた「凶区」や「ドラムカン」などのグループなど、現実世界とリンクすることなしにありえなかったような〈抒情〉の系譜を暗黙の内に含み込んでしまっている。

 

 それで、どうすればよいのだろう。目の前には、ただ白い画面がある。色々なことを考えて、われわれは振り出しに戻った。

 

 どうすればこのループから脱出できるのだろう。

 〈抒情〉詩の運動に内在していなかったことがあって、それは〈エモ〉の持つ(つぎはぎでありつつも)プレーンなテクスチャーだ。これは詩の外の世界からやってきたもので、〈歴史〉の流れのままに構成するならば〈抒情〉→〈エモ〉→「画面のなかで、世界が平らになる。どこまでもスワイプできる世界、倍速再生の世界、9:16の世界。 」となる。そう思って前の引用を読み返すと、そこにヒントがあるように思えた。

 青松は「確かなことは、われわれが晒されているこの戦いにおいて、安全な勝ちパターンなど何ひとつないということだ」と書くが、青松自身がすでに別の答え(それが「安全な勝ちパターン」であるかは俺にはわからないが)を書いているような気がする。冒頭に戻る。

 

部屋のなかで、ずっと動画を見ている。テレビでAmazon Fire TVを使えるようになったから、便利で仕方がない。ずっと動画を見ている。できるだけ多くの面白いものに触れたいから、僕は入れるかぎりのサブスクに加入していて、YouTubeも、 Netflixも、DAZNも、U-NEXTも、TVerも、家のテレビで見放題だ。それだけで毎月1万円かかるが、仕方がない。

 

ずっと動画を見ている」のであれば、その画面は「ただ白い画面」ではない。あらんかぎりの文字列や画像、動画で埋め尽くされているのならそれは「ただ白い画面」ではない。「振り出しに戻った」のならループは継続していることになるだろうが、「ただ白い画面」はうっかりループからはみ出してしまっている。「ただ白い画面」へ到達することを目指す。「ただ白い画面」という〈抒情〉を構築するとはどういうことなのか、俺には分からないが、まったく不可能というようにも見えない。

 

 谷川雁という詩人がいて、読まれなくなるんだろうなという気は少ししている。ただその著作が読まれなくなったとしても、彼が残したタイトル「原点が存在する」はまだ輝いてるんじゃないかと感じる。「まるでワグナァの歌劇の装置を思わせた。」で始まる文を今読むのはなかなかしんどかろう。俺は「原点が存在する」の内容よりもタイトルが好きだ。

 

第一に古くなってしまった力は根源的ではありえない。第二に根源的でないものは創造的ではない。

 

  谷川雁「原点が存在する」より*7

 

 原点、ゼロであること(0)は、ゼロになる、ゼロにする(±)ではない。実のところ「焼け跡」は原点ではなかった。それはゼロになる(−)運動の腐刻画であり、瓦礫に溢れ、燃え残る過去があり、それを整理し掃除することが必要だった。たとえば詩人の田村隆一にとってそれは先達の詩人高村光太郎らだったかもしれない。原点は、いつも発見されるのを待っているのであって、実在しない。しかし、原点は存在する。

 

 B-3. 愛と平和

 

 俺が絶対に首を縦に振れないところは次の部分だ。

 

 もちろん、こと〈詩〉の問題に限っていえば、〈抒情詩〉あるいは〈現代詩〉などという観念がカルトなのであって、それ自体を捨てろ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。だが、そんなことを言っては、〈愛〉も〈平和〉もカルトではないか。

 

 極めてキリスト教中心主義的な話からする。近代が宗教を振り払ったとき、救済と不死が死んだ。代わりに生まれたのは企業をはじめとする「法人」というアンデッド(undead = 死んでいない)技術と、アカデミズムという、命の不死を名前の不滅へスライドさせる教会の後継システムだ(もちろん「文学」や「芸術」もここに含まれる)。救済は死んだままだがそれはいまどうでもいい。カルトはある言葉の集合を信じる共同体だ。カルトの定義を最大限に広くしてそのようにとろう。問題は「信じる」にある。

 宗教をあまりにも粗雑に投げ捨ててしまってからそのままなので、実のところ人間は「信じる」ということがどういうことかいまだにほとんどわかっていない。企業やアカデミズムは「信じる」ことを根底から問い直した上に発明されたものではないと思う。少なくともアカデミズムの原型は宗教の時代からあったんだから。

 だが舞城王太郎が『好き好き大好き超愛してる。』で世界へ踏み出したとき、その冒頭が「愛は祈りだ。僕は祈る。」ではじまることを青松も知っているはずだ。愛祈りなのであって、愛祈るのではない。「愛」という言葉を信じることがカルトであることを俺は認めることができる。だがそこから「愛すること」がカルトであるということは帰結しない。俺の直感では「愛」や「平和」は「信じる」という言葉で人間と結びついているものではない。「愛」や「平和」という言葉を意識しない行為のなかからでさえそれは現れ、時には自覚さえされずに現れかき消える。「愛」と「愛する」、「平和」と「平和する」、俺たちはまだ名詞や動詞である(でない)ということがどういうことかすらはっきりとはわかっていない。俺たちはまだ、ほとんどなにもはじめてすらいない。

 

「われわれが晒されているこの戦い」、「普通の意味で、どこまでいってもこの世界は一つしかなく、逃げる先など、どこにもない」、「勝ち」、「勝ちパターン」、「負け」、「必敗」「負けても戦え、理由はない、戦うために戦え。」と言われる。

 

 俺は玉砕したくない。

 

A'. 「国民詩人」がいなくなったあとで(プロファイル')

 

 戦後最大の(そしてもしかしたら最後の)「国民詩人」である谷川俊太郎は、抒情詩も生活詩も書けたが、彼自身は抒情詩人でも生活詩人でもなく単に詩人だった。稲川方人との対談「ディスコミュニケーションをめぐって」にある谷川の次のような発言は、この詩人が何につまづかなかったかを明瞭に示している。

 

(引用者注:谷川)「普通の読者」という言い方は平出さん(引用者注:平出隆)なんかが問題にしてくれたんだけれど、僕は割とある具体的なイメージがあって、「普通の読者」といってしまう。でも平出さんや稲川さんは「普通の読者」という言い方に実体が感じられないんじゃないですか?

稲川 はい、それは間違いないですね。

谷川 でもね、なんて言えば良いのかな、勿論これは世代的な事もあるし受けてきた教育の問題なんかもあるんだけれど、ぼくの場合にはひとつは現実にある程度の数の読者がいて、その読者の人達が例えば自作朗読をすると集まってきて、自分が詩を読むときに色々な反応を示してくれる。それから数というのは留保をつけたいんだけれど、ある程度本が売れるということは、僕の中には僕の言葉で言う「普通の読者」と自分とがどこかで通じ合っている、そんな楽天性がどうしても出てきてしまうんですよね。そういう僕の置かれている位置と、稲川さんたち、僕なんかより先端的な言葉を扱っている人達は、相当かけ離れているところがあるんじゃないかっていう気がするのね。じゃあかけ離れているから、お前はお前で勝手にやれで済む問題かというと、全然そうじゃなくって、僕なんかでも共通の悩みとか疑問って持ってる筈なんですよね。だから僕はディスコミュニケーションっていうのは、一方では非常に強く感じるんだけど、それをもとにして発想する事は出来ない、とでも言うのかな。やはりディスコミュニケーションが問題であれば、何故通じ合えないのかな、という事を話し合えれば、というのが前提としてあるんです。*8

 

 谷川はコミュニケーションにつまづくことはあるが、コミュニケーションに限らず、何かにつまづいたとして、それを言葉にして話し合うことができるだろうということに関してはつまづいていない。ディスコミュニケーションをもとにして発想することは出来ない、という谷川の姿勢は、「普通の読者」すなわち普通の生活をしている普通の人々、谷川の言い方で言えば「『現代詩手帖』なんか全然読まない人々」と自分がどこかで通じ合っているという楽天的な信頼によって支えられている。

 彼が「国民詩人」であるのは、もちろん日本語で書いていて、日本語使用者がほとんど日本にいたということはあるが、それだけではない。(高村光太郎のような戦前の国民詩人のように)彼が愛国詩を書き、彼の詩が愛唱されたからではなく、「普通」に書くことを意識的に貫徹したからこそだ。とても簡単なことではない。それは「普通の日本語」で書くこととは似ているようで全く違うことだからだ。

 普通。普遍的に通じる。ディスコミュニケーションをもとにする発想から普遍的な詩を書くことはできるかもしれないが、たぶん普遍的に通じる詩を書くことはできない。「ディスコミュニケーションについてのコミュニケーション」、「ディスコミュニケーションについてのディスコミュニケーションについてのコミュニケーション」、……という風に、コミュニケーションを末尾につけることによってコミュニケーションの可能性はわずかずつかもしれないが回復する。末尾という概念は、最後に声をかけられた人間がさらに応答するかということに対応している。ディスコミュニケーション自体が「普通性」をもつとしたら、それは絶対的なディスコミュニケーション、コミュニケーションが末尾につく可能性をまったくもたないディスコミュニケーションが、全体を支配したときでしかない。

 

 ところで俺は〈抒情〉とは垂直性であり、〈エモ〉とは水平性であると思う。

 

 

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって

真昼の球体を 正午の詩を

おれは垂直的人間

おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 

  田村隆一「言葉のない世界」より*9

 

Seid ihr das Essen?  諸君は狩られる者であるか?

Nein, wir sind der Jäger! 否、我らは狩る者なり!

 

  Linked Horizon「紅蓮の弓矢」より(強調、翻訳は引用者)

 

 垂直性と水平性を担保するのはデカルト座標における原点のような空虚ではなく、上下左右という方向性を持った基準軸だ。肉体といってもいい。それは重力下的、地球的世界のひとつの典型的なありようではある。

 

空は透き通り

空でないものがその青さをあらわにする

歌はとだえがちに帰ってゆくばかりなので

私は沈黙を歌のように歌い

沈黙もとどかないところを

幼いもののように無邪気に指さす

その時私はどんなものをも持つことが出来る

私は城を画いては消しして遊び

海を私の涙の中へかえしてやる

 

  谷川俊太郎「秋」より*10

 

 谷川の詩には重力も方向もない。それは質量を持たないネットワークのように広がる。無重力的、宇宙的世界のありようと、「国民詩人」としてのありようの奇妙な結びつきは、谷川俊太郎という人間と「国民=読者」の間に常に薄皮一枚の透明な膜があり、谷川の存在がその膜の奥にいるような感覚によって担保されていた。谷川が亡くなった後に「国民詩人」というものが成立しうるのか、俺にはわからない。過渡期にいるということは分かる。そもそも「国民詩人」のような存在はいたほうがいいのかということもある。*11

 

ajisimidaikon.hatenablog.jp

 

 ただ、コミュニケーション、通路があるということは大事だと思う。というのは、肯定-否定はその通路を前提として可能になるからだ。

 肯定-否定という作用は肯定-否定可能な対象に対してのみ有意味であり、自身がもつデジタルな性格(0/1)から、それはその対象に対してデジタルであること、もしくはデジタル化されることの正当性を要求する。ところがコミュニケーションの回路、通信路の場合、送受信されるデータがアナログかデジタルかにかかわらず、ノイズは「聞き取りづらい」や「ん?ちょっとここ分かんない」のように常にグラデーションである。肯定-否定のデジタルな性質がコミュニケーションの全体に適用されうるのは、通信路全体を投げ捨ててしまうかどうかという場合だけだ。ああ、谷川は真空管ラジオが好きなのだった。それは肯定-否定のデジタルな世界ではなく、ノイズのアナログな世界なのだ。

 

 いまだに驚異的な小説でありつづけているセルバンデスの『ドン・キホーテ』の凄さは枚挙にいとまがないが、ここでひとつ挙げるとするなら、小説全体をドン・キホーテの視点で書くという選択をしなかったことだ。彼には戦う相手がいないのだが彼は戦いたい。彼は騎士であり同時に普通に生活する普通の老人である。彼、とくに前篇の彼の戦いは〈抒情〉に似ている。

 「騎士道物語」を読むほかは退屈のなかに埋もれている老人アロンソ・キハーノの生活。ドン・キホーテとなった彼を人々は騎士と認めない。なぜなら騎士などというものはもはや騎士道物語のなかにしか存在しないからだ。彼は人々の目に狂人として映るが、そのことは〈抒情〉の観点からいえば、ドン・キホーテから世界への否定だけでなく、世界からドン・キホーテへの否定もまた働いていることを意味する。こうして相互に相互を否定性として規定した結果、純化された一個の世界エンジンと化したドン・キホーテは、風車を巨人として突撃することを代名詞としたド迫力の「冒険」を開始するのだが、これによって生成されるものは、騎士の冒険ではない。騎士でないものだけが騎士であることを生成しうる。彼の奇行が生成するものはドン・キホーテそのもの以外のなにものでもない。そしてそのことによって、彼は彼自身だけでなく、彼の周りの人間たちの退屈な日常生活、世界をも書き換えていく。

 『ドン・キホーテ』がすごいのは、ドン・キホーテの視点だけではなく、世界のなかにドン・キホーテを位置づけるようにして世界全体が書かれていくことであり、このようにしてセルバンデスはおそらく図らずも17世紀にして「〈抒情〉の構造」を表出させることに成功している。ここには「世界」があると俺は感じる。

 

 誰もドン・キホーテを騎士と認めない。しかしかれのそばにはサンチョ・パンサがいた。

 人間は実際のところあまりにも奇跡的なので、誰もがドン・キホーテであると同時に誰かのサンチョ・パンサであることもできる。そのうえ自分ではサンチョ・パンサだと気づかないままそうなっちゃってることさえある。俺はこれからも世界となんとか馴染んでいこうとするんだろうけど、その中でこのことは多分ちょっとした救いであって、こういうときに俺は「救い」という言葉を使うことができる。

 

 たしかピアニストの高橋悠治が短歌のイベントの客席にいて、歌人である東直子とのやりとりをしていたとき、彼はこういったというのをどこかで見た記憶がある。

 

あなたが自分の思いを他人に深く届けていいと思う根拠は何ですか? 

 

 この文字列を見てから何度かポツポツと思い出したりしている。そもそも根拠がいるのかどうかも含めて。でもなおざりにしていい問いではなかったはずだ。生きていて「画面のなかで、世界が平らになる。」という感覚を覚えうるような世界になった要因のひとつにもなっていると思う。

 大阪に葉ね文庫という本屋があって、そこに通うようになって、俺は詩や短歌が好きになった。そこには他にも詩や短歌が好きなお客さんが来て、仲良くなったりして、集まって話したりすることがあった。それはとても素晴らしいことだと思う。

「あなたが自分の思いを他人に深く届けていいと思う根拠は何ですか?」という問いのラディカルさ=根底性に釣り合っているかはよくわからないが、「そうすることによって、今日みたいに、ここにみんなが集まることができるから」というのは、そんなに悪い答えではない気がする。

*1:映像で「愛するひとを守ろうとして死ぬ」シーンなどを観ると俺はベタに泣いてしまうのだが(チョロいので)、それはそいつが「愛する人」のために死ぬぞーッってなってないからだというのはあると思う。死ぬかどうかではなくて、愛する人のために生きる自分が何かに飛び込んでいく、死ぬかどうかってフィールドでやってないってことが大事だ。殉死みたいな要素が垣間見えると、まあチョロいから泣いちゃうんだけど(ダメじゃん)、泣きながら「しょうもね〜〜〜〜」と思う。漫画家の蛭子能収も言っていたような気がするけど、泣けるからって良いものってことにはならんですからね。小説読んでて泣くことはほぼない。最近ガンディー(いまの日本では助走をつけて殴ったり核ミサイルを撃ちまくることで知られている)の『獄中からの手紙』を読んでガーンとショックをうけてしまってどうしよう……となっているのだが、ガンディーもやっぱり「理想のために死んだ」人間ではない。あくまで「理想のために生きようとしていた道中に暗殺されてしまった」のであって、このふたつはぜんぜん違う。理念に殉ずるということでは古代ギリシアの哲学者ソクラテスのことも思い出すが、あれもドクニンジンYesオアNo?って以前に、いやソクラテスを殺す社会がカスすぎるだろ、ということの方が大事なことに思えてしまって、いかに死ぬべきか、自らの思想に一貫性を持たせるためには死さえ選ぶべきか、って問い自体があまり好きになれない。もちろん筋を通したからソクラテスは知られ続けたということもあるとは思う。けれどそんなところで、死に様で人様の知性を測ろうというのは、ソクラテスが偉大であるというより、人間の知性がウン千年残忍なままであることの証左でしかないんじゃないだろうか。

*2:「わたしのいない世界」というのは仮想あるいは推論を要する。これが「実存」という言葉が有しうる最大限の意味であって、実存主義というのはナンセンスな語だと思う。「実存は本質に先立つ」って「実存と本質の関係」についての本質じゃねーか!本質に先立たれちゃってるだろ!と思ってからサルトルに興味を失ってしまいました。ごめんよサルトル

*3:あとでネットで調べてみると「詩を作るより田を作れ」はことわざで、文学のような金にもならんことにうつつを抜かさないで稲作みたいに実益になることをやれ、という意味ということになっているらしいが、それはあんまりにもご無体で冷たい理解だと思う。最初にこういうことを言ったやつというのは、周りにひきこもりがちな、思い詰めている奴がいて、そんな内に籠もって頭でウンウン考えるより、外に出て体を動かして非言語的な感覚を耕したほうがいいよ〜って、そいつのことを心配し、思いやった奴じゃないかなあと思うんだけれども。

*4:「ふたたび戦うための7章」にも名前が出ている岸田将幸という詩人は現代詩文庫から『岸田将幸詩集』が出ていて、裏をみると著者の顔写真が載っている。精悍で鋭利な、どこか思い詰めたような表情をしている。そんな岸田は現在アスパラガス農家をやっていて、そちらでも活躍している(https://www.tj-matsuyama.com/ehime_shoku/detail_202009.php, 2025年5月29日閲覧)。ここに貼ったタウン情報まつやまの記事での岸田の表情は、確かにまだ硬さはあるけれども『岸田将幸詩集』の裏表紙のそれより明るくて、俺はアスパラガスとともにある岸田の表情のほうが好きだ。ある時「現代詩手帖」でアスパラガス農家になってからの岸田の連載を見つけると、宮沢賢治の話をしていて、正直「そうか〜〜〜〜」と思ってしまった。多分これは俺が、フランスの詩人アルチュール・ランボーの詩には興味がわかないけれど、詩を20歳で辞めアフリカにわたり商人になってからのランボーが何を考え、何を感じたのかにはちょっと興味があるということにつながっていると思う。ランボーの場合、アフリカ時代に残された書簡自体からそれを知ることは難しそうだなというのが俺の勘なんだが。詩を通ってからアスパラガス農家やアフリカの商人になることは、そこを通らずにアスパラガス農家やアフリカの商人になることとは違う。詩は、なんだかんだいっても(少なくとも書き手にとっては)かなり世界である言葉になってしまうので、そう簡単に切って捨てられるものではない。でもそれは妖怪みたいに憑いて振り払えないということではなくて(自分でそうしてしまうということはあるにせよ)、それから生きていく時間に濃淡やかたちはどうあれ詩が浸透していく、そういう人生になっていくということだと思う。その道を行く感覚から開けていく世界は、場合によってはもしかしたら「詩」よりも詩が目指していたところに近い、明るく開けた世界なんじゃないか、という気がどうしてもする。

*5:https://ajisimidaikon.hatenablog.jp/entry/2025/04/19/231409, 2025年5月30日閲覧。

*6:このような見方を主張する場合、最果タヒの評価がネックになりそうに思われる。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』に関する青松の「形態レベルでは〈エモ〉的な技術を多用しながら、内容レベルで〈抒情〉的な否定を書く」という評価は、一見〈抒情〉と〈エモ〉の戦略を同時に採用しているようにも思える余地がある。だが青松の記事からも分かる通り、〈エモ〉を通過している〈抒情〉の否定性はもはや、全体的な否定性を媒介に肯定性を打ち立てるという〈抒情〉の戦略それじたいを保存することはできなくなっている。青松の書くように最果は〈エモ〉戦略を取る詩人であり、そしてそのこと自体が〈抒情〉詩の正統な後継者として彼女を〈抒情〉の先端に位置させることになる。したがってここでもまた〈抒情〉と〈エモ〉の戦略は並列していないということができる。

余談ではあるが、青松がここで同一の「否定的な物言い」を形態と内容のレベルに分割しえたのと仕組みは違うものの、現代では同一の「肯定的な物言い」にも分割された事態を見出すことができる。俺はコウペンちゃんのような「全肯定コンテンツ」が嫌いなのだが(突然の悪口)、それはまだこちらが肯定-否定可能ななにものも提出していないうちから肯定的言辞が飛んでくることによって「あっコイツ全然俺とコミュニケーションしてねえじゃん」という気持ちになるからである。先行するなにものもない肯定性、応答の機能を全く欠落させた肯定性は、肯定的な形態はそのままにして否定性-肯定性そのものを担保するコミュニケーションの回路を否定する。

*7:谷川雁詩集』p41, 思潮社, 1968

*8:谷川俊太郎稲川方人ディスコミュニケーションをめぐって」『現代詩手帖』p11, 1997年7月号所収, 新潮社

*9:田村隆一『腐敗性物質』p99, 講談社文芸文庫, 1997

*10:谷川俊太郎『愛について』,1955

*11:問いが残されており、それは〈抒情〉は本質的に地球的なものなのか、それとも宇宙的抒情というものがありうるのかということだが、読んでの通り俺は〈抒情〉や〈エモ〉を戦略として採用するということそれじたいに頷けないので、ここでは問いを投げ出したままにしておく(なんてことを)。ただ宇宙的であることにはなかなかのロマンがある。イーロン・マスク?聞いているか?お前の火星は、宇宙は、垂直方向に持ち上げて伸ばしたありし日のアメリカ西部、フロンティアの延長に過ぎない。そこは宇宙ではなくて「アメリカ」なんだよ。横倒しになったシリコンバレーからエンジニアがバラバラ落ちていってるぞ、AIで代替するのか?