幸福について

 最近マーク・チャンギジーの本を読んだりしていて、おもしろかった。自然淘汰というのは便利な神話だなあと思ったりした。

 

 

 

 カントの超越論哲学と進化論には似ているところがあって、それは叡智へのアクセスを困難にすることだ。叡智。宇宙全体に浸透し、あまねく存在をさしつらぬく真理。その叡智は〈外部〉にうやうやしく祭り上げられ追い払われる。もちろん外部や内部といった分節に従属する真理は叡智ではない。超越論哲学や進化論のあと、つまり現代において叡智へのアクセスを試みることは危険な自由の行使、冒険に属している。そこに確かさを保証するものはなにもない。

 

いつも私ども尋ねて行くのは、神の確かさであります。確かさを求めている所は、神が死んだ死骸のようなものであります。動かないものは確かに見えるのであります。しかし行って見たならば、なくなってしまった。いよいよそれに行って、そのしかばねに会った時には屍はなくなってしまっておる。うつろになっておる。ちょうど私どもが真理を尋ねて行って、いつもそういう事を見るのであります。*1

 

 幸福とはなにか。幸福であることが生存にとって有利であるなら思考は淘汰されただろう。聖書における知恵の実と楽園追放の話はこのことについての強い主張であると読める。言葉を、知恵を持たぬ動物のように生きていれば、快不快を天井とする明快な秩序がいまなお地上をあまねく貫いていただろう。だが幸福は快そのものと同一のものではない。だからこそこれらの語は異なるものとしてそれぞれ生き続けている。思考、地上における思考は悲哀に属している。思考はこの地上において、捕食被捕食と天災における理不尽な死、意味という概念を手に入れながら世界にはおよそ意味がない(意味が意味をもつのはいつも世界ではなく意味においてだった)ということへの認識を持っただろう。およそ地上のことしか書くことがない小説がどのような形式においても(ユーモアは神的な悲哀のことだ)、そのほとんどが絶頂に幸福ではなく悲哀をおくことにはそれなりの根拠がある。

 あるいは幸福は思考が生まれた後に快を影として見出された見えない光なのだといってもいい。事後的なものとしての幸福はつねに事後的である「自然」なものではなかった。幸福を追求することを根底に置く思想というのはこの意味でかなり晩年の思想と言える。それは偽=擬-動物を理想とする不可能な反転の思想であって、そこで目指された場所には(不快とともにある)快はあっても幸福はなかった。幸福を追求することが幸福になることに結びつかないことを思えば、幸福は進化的に合理的なシグナルの領分にはない。叡智の追放を思えば、幸福は恩寵の領域にある。

 もちろん思考が悲哀のみを、脳髄への重力の加増や心臓の痛み、活力の低下のみをもたらすものだとすれば思考は淘汰されただろう。思考が淘汰されなかったのはそこに悲哀を補ってありあまるものがあったからであり、それは自由だ。思考こそが自由だった。しかし世界は自由そのものではない。ここに世界と思考にまつわるドラマの源泉があり、小説はそれを記述しえた。

 事故や疾病による脳機能障害や老化による「ボケ」は幸福な平原をもたらすのだろうかとたまに考える。認知症となり脳梗塞も発症したわたしの祖母は少なくともそれから小説を書くことはなかった。というか通常の意味で聞き手に理解することのできる言葉を発することはなかった。だからこの事態において、思考の彼岸に幸福があるのかどうかについて、わたしは確信をもって書くことができない。

 そしてこれらのありあまる横道の上を吹き抜ける風の通路こそが叡智への道なのだが、この道はよく知られるように目に見えることもなく音に聞こえることもない。文字も音楽も叡智への道を望んだとするならそれこそが開かれた「悲劇」であって、開かれたというのは、この「悲劇」には悲劇として終わるかどうかという最後が定まっていないからだ。正月休み中にはじめてオペレッタのDVDを観た。全編が甘ったるく、猥雑で、「あーあ」といった結末が待っているのかと思いきや気合でハッピーエンドに到達する強引さ。別にオペレッタが素晴らしいと言いたいわけではない。ただ最後まで可能性は異様な馬力をもって待ち構えているということが言いたかったのであり、だからこそまだ文字や音楽は能天気ともいえる幸福な現在を生きることがありえるのだった。そしてそれらのうちのいくつかでも叡智に繋がりうることを否定することは、その逆と同様に誰にも許されてはいなかった。

 

 

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*1:田中遵聖『主は偕にあり 田中遵聖説教集』p163, 新教出版社, 2019

2025年まとめ

 まとめる。

 

生活

 

 試練。壊れた。立ち直りつつある途上。

 

書いた

 

 Webに掌編小説をいっぱい書いた。

 

kakuyomu.jp

 

時期

 

 同人誌にも書いた(『〇.八九六秒、ダンス』)、よかったら買ってね

 

www.melonbooks.co.jp

 

 

 ブログも書いた。

 

ajisimidaikon.hatenablog.jp

 

 試練、底を脱した感じはするがまだ試練、負けてられっか、ガッとやる

 

読んだこと、聞いたこと、観たこと、あったこと

 

 試練でも印象に残ることがあってよかった。

 

 

 対話篇なのに最終的にひとりがひとりで喋り倒しても面白いということが発見だった。

 

 

 文学と、医療というか医術(医学ではない)には根底的なつながりがあるなと思った。いのちの物語。自然治癒力=自己修復力を持つ(脳を含めた)身体の保守性と、自然治癒力=自己修復力を持たない、だからこそ自由自在性をもつ心の革新性の相克。声と文字も似たようなことだなと思っていたら「文字の世界がファントム界です」と超速ではるか先に行く。すっげえ。神田橋條治は今年『80歳からの養生と援助の工夫』を88歳にして出しており、人間のポテンシャルってのはホント途方もねえなと思った。

 

 

 謎の元気が出てくる。

 

 

 谷川俊太郎は小説やラジオドラマを書いても詩人だった。

 

 

 泣いちゃうよ。

 

 

 読める拷問。こんなことしていいのか?いいんです!(心の川平慈英

 

note.com

 

 超すごかった。いま小説が面白い!

 

 

 おれは小説が好きだ。

 

 

Hindemith: Ludus Tonalis

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 今年知ったいい曲その1、ヒンデミットのルードゥス・トナリス。古くて新しいってこういうことだなって作り。音で造られた未知のDNAって感じする。

 

Gabriel Fauré: Chamber music, Musique de chambre

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 今年知ったいい曲その2、フォーレピアノ五重奏曲第2番。途方もなく美しいものが次々と予測の外側から、滑らかに織られてやってくる。

 

Yael Naim

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「Endless Song of Hapiness」ばっかり聞いてた。なんで戦争なんてあるんだ、人間の奥底のどこかに戦争したいというのがあるのか、たぶんそうなんだろう、でも戦争したくないというのがあることもたぶんたしかだろう、戦争はたしかに聖なるものであり聖なるものをもたらすだろうが、それならおれは戦争しないで戦争がしたい。

 

Disaster

Disaster

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 素晴らしいジャケ。

 

 

 あざす!!!!

 


www.youtube.com

 

 ビニールのレコードは復活したけどシェラックのSPは流石に復活せず、そしてSPでしか残っていない録音があって、それらはどうなっていくんだろうと思った。残されたものすべてを遺漏なく保存することはたぶん現実的に不可能なんだろうが、残す技術が生まれるということは「残された」と同時に「かつて残されていた」ということが可能になることだというのを思い起こさせられる。

 

www.bitters.co.jp

 

 はじめてエドワード・ヤンの映画を観て、信じられないくらいすごかった。ブログも書いた(書いた時「ビターズ・エンド」が日本の配給会社であることを知らなかったのは内緒だ)。

 

ajisimidaikon.hatenablog.jp

 

 映画は現実を聖化することができて、その聖化は「この映画は映画として撮られたものだ」ということを観客が察知してもなお続く感じがする。ありがとう最終盤のおばさん。俺の見間違いかも知れないけれど。どうも文字のメタフィクションになると現実の聖化の機能は発揮しづらい気がする。焦点が狭まる感じがするんだよね。「フィクションについての」ってことだから焦点がフィクションのほうにいっちゃうんだな、世界や宇宙ではなくて。でも映画ではそんな感じがさほどしないのが不思議。

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

 音楽がド頭からバキバキに良くて期待が高まったところでショーン・ペン扮するロックジョーが現れて最高。とにかくショーン・ペンの喋り、動き、そのすべてが屹立していて、あらゆる要約や理解を跳ね除ける力にはちきれんばかりだった。

 

100000t.net

 

 作家の講演って基本的に行かないのだけど、行ってよかったというか、あんなに打ち上げに観客が参加する作家の講演って想像したこともなかったのでびっくりした。書くことによって、書くことのさきに未定形のキャラバンみたいなのが生まれうるというのはものすごいことだと思う。

 

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 万博は開始前と終了後に行った。本番(本番?)に行くつもりがなかったわけではなかったのだが、気づいたら試練だったので行けなかったというわけだ。人工島というか埋立地のあの無情さ、嘘っぽさというのは俺は嫌いではなくて、たぶん連綿と続く土地の歴史の臭いみたいなものがないからだと思う。とくに風が違う。風はあんなにも厳然として独立した風であることがある。わざわざ埋立地にリアル地(何?)のような起伏を作る必要がないから基本的に埋立地は海まで平坦だが、たぶんこれが風の感触に影響している。人工島に感じるある種の心地よさ、しかし人工島に住むとなったらどうかというところ、そもそも埋め立てなんてしていいのかとか、俺がここで感じた心地よさは倫理的に正当化しうる心地よさなのかどうか怪しくて、それに気づいたときちょっとつらかった。

 

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 俺は津和野が好きだ。日本の都市に秩序の存在を感じ取ることはほとんどない。いまだに住宅建築、とくに一軒家を見るたびに、ひとつの創造として自らを総合する意識と、周囲含め世界と調和しようとする、いや調和を創造しようとする意志の欠落を感じ、そのあまりの醜さに「許しがたい!!!!!!」という気持ちになる。美観地区という概念はすごい。美観地区でなければ建築、建設において美などどうでもいいと思っていることが明らかだからだ。日本にはどうも建築するという精神自体が存在していないのではないか、自然の暴威への屈服からなしくずしに「建築」を生成しているだけなのではないかという気がしてくるのだが、津和野は例外的に人間と土地が編んだ秩序の存在を街全体から感じられて、俺にはとても心地が良い。それは谷間という地形、ある程度閉ざされた空間であることが効いている気がする。

 

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 試練となり、何もかもわからなくなって須磨の海に行って、何もかもわからないまま帰った。クソ焼けた。

 

ajisimidaikon.hatenablog.jp

 

 2025年話してくれた、やりとりしてくれたすべての人々ありがとう。

 

 良いお年を、というか、良さとして年へと入っていくぐらいの姿勢でいきたい。ボーっとしてたら終わっちゃうぜ!

 

 

読むことと読み方のこと

 2025年の俺は大変だった。みんな大変じゃなかったですか?俺だけ?俺だけじゃなかった気がするんだけどな。年齢的な問題かと思ったけど世代関係なく大変な感じになっている人を複数観測していたんだが俺側の偏りなんだろうか。この大いなる大変さ(重言)の原因について、龍脈の流れが変わったのか?太陽フレアか?あまり語られていない未知の微細な気候変動か?とか色々考えていたのだが、乙一さんがツイッター(現・X)でめざましテレビの星座ランキングの変化に反応しているのを見て爆笑してしまった。

 

 

 テレビを持っていないのでめざましテレビの星座占いコーナーにまでアンテナを張れていなかった。悔しい。まだまだ俺は甘いと思いました。Tverめざましテレビを?もうガッツリめざましてるのに?とはいえまだストンと腑に落ちてないので今のところ2025年問題は謎のままです。なんか流れが変わった感じはある。これからさらに大変な世界になるんだろうな〜〜〜〜という予感。えらいこっちゃ。

 

 退職と無職を経て体調がぶっ壊れぶっ壊れつつ金銭的にも体力的にもほんとギリギリのところで初めてのオフィスワークに拾ってもらったのだがそこで完全に破滅、二ヶ月持たずに退職し別のところで再就職となり今に至るのだが、その過程でちょっと考えたことがあった。

 

 俺は最近ようやく自分が文章をまともに読めない人間であり、だからこそ文章を書きたがっているところがあるなということに気づいた。他人の文章が読めているかはわからないが、自分の書く文章は読めるからな。読めてなかったら俺が俺に怒り俺に怒られた俺は俺に怒られなくなるまで修正を繰り返せばいいのでかなり頑健なシステムがあるといえる。それがなんで「自分はまともに文章が読めない」ということになったかというと仕事してる時に指摘されたり指摘されずともひとり黙って痛感したことがあるからで、記憶の限り仕事じゃない場(ブログとか小説とか)では言われたことがない。気い使って言わないでいてくれるのかもしれんけど、俺としてはたぶん大丈夫だろうという肌感でいる。このところのズレに引っかかっていた。

 

 この前、およそ本は実用的なものしか読まない、小説とか基本的に読まない知り合いに、高橋源一郎の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』の「オツベルと象」を読んでもらった。なぜそれだったかというと手元にあって短いからです。ぜんぜん文学とかの世界の外側にいる人間(これはアヤシイ概念ではあるけれど)の感想が聞きたかった。もうしばらくそんな機会がなかったのだ。

 

 

 たしか彼は「うーん」といい、それから「どう面白がったらいいかがわからん」というようなことを言ったはずだ。「どう読んだらいいかわからん」だった気もする。

 俺は最近までおよそ文学と呼ばれるものについて人が「読み方がわからない」という感想を持つことの意味がわからなかった。読んだら読めるじゃん、そこに全部書いてあるんだから、という感じだった。むかし作家の講演会に行ったとき質問コーナーがあって、その作家が書いた小説の一部分について「このここのところは〇〇という解釈であっていますか?」という意味の質問をする人がいてやはり意味がわからなかった。そんなこと作家に聞いてどうするんだろう?作家が知っているとでも思っているんだろうか?作家が何か答えたとしてそれで何か変わると思っているんだろうか?作品は作家じゃないのに。

 しかしはじめてのオフィスワークを経て俺は理解した。俺は「読み方」という概念そのものを理解していなかったのだ。

 オフィスワーク?デスクワーク?は当然だが形式の完璧さを求められる。個人情報の取り扱いや数字一つを間違えれば下手したら大ニュース、株価暴落して破滅といったことになるのでこの姿勢は企業として正しい。したがってそこにはたくさんのマニュアルがあり、つまり「読み方」があった。問題はこの世界に俺が致命的に合っていなかったということだった。その文章から受ける印象はほんとうに「読み方」のいうところの通りになるか?これは本当にその読み方でそう解釈されるようにちゃんと書かれている文章なのか?しかしすべてを俺の理解や納得より速いスピードで流していかなければ仕事は回らないため、この作品-解釈の回路は実のところ読みというより関数の入力-出力に近いところまで圧縮されており、そこには読みはなく読み方だけがあった。それに適応できない俺は超速で壊れた。

 読むものより読み方のほうがはるかに大事なのがこの世界なのかもしれない、と俺は極めて短い期間の間に思った。「何を書くかではなくどう書くかが大事」とはよく言われることだが、本当にそうなのか、読むことにについてもやはり「何を読むかではなくどう読むかが大事」なのか、それがこんなに苦しいなら俺はいったいどこで生きていけるのだろうか、人間であるとは現状の世界だと読める動物として認識されるみたいなものだよなぁみたいなことを考え大変に辛かった。そして、こんな世界でふつうのひとは小説なんて読まないよと思った。

「文学は人間を自由にする」というのもあんまりピンときてなかったけど、今はかなりわかる。「読み方」が決まっているということ、決まった「読み方」があるという世界の「読み方」が俺には苦痛で仕方がない。そこには読みがない。文学はただ読めばいいもので、そのこと自体が自由であることにつながってしまうような社会が築かれてしまった。でもこれは文学が人を自由にする力を持つということでもない気がする。『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』を読んでもらった知り合いに「どう読んだらいいかがわからん」と言われた時、俺は結構いろいろな方向から面白さを分かってもらおうと頑張ってみたのだが、うまく解きほぐせた感覚はなかった。高橋源一郎はどちらかというと文学慣れした人に読まれる作家だろうからそもそもハードだったというのはあるんだろうし、俺の能力不足というのはもちろん前提にしても、「読み方がわからない」に対して俺は無力だった。俺は読み方で読んでないから読み方なんて教えられないし、教えられるような「読み方」を注入する教育の悲喜劇として高山宏の教え子たちが最後にはミニ高山宏になってしまう『夢十夜を十夜で』があります。

 

 

 確かに「つまらない」に触れるとブチギレが起こったりはするが、そのぶん「おもしろい」に触れるとブチアガリが起こるから嬉しい。どちらにしても読んでいなければ起こらないことだ。だがブチギレもブチアガリも疲れちゃうってことになると、読まないで読み方だけで済ますというのは選択としてはある。「つまらない」ということだけではなく「おもしろい」ということに触れる恐ろしさから逃れるためにこの社会は用意されたのかもしれない。本当は生きることはつまらないわけではなくおもしろいものでもあるということに気づいてしまうことに耐えられないというのは、すごく哀しいことじゃないだろうか。

差別と友情あるいは恋愛はどう違うのか、あるいは違うのか

 差別が、関係を恣意的に分割することにあるのだとしたら、友情や恋愛  このふたつの包含関係はいまは問わない  あるいは家族愛といったもの、ようするに大概の愛は差別であるということになる。しかしそうなのか。友情や恋愛や家族愛といったものを差別から差別することはできないのだろうか  なぜそのようなことをしようと思うことができるのかについてもいまは問わない。

 おそらくそれは差別される悲しみと、失恋や友情の裏切りによる悲しみの場面を比較することによって可能になる。差別を差別しない立場からすれば、これらは暴力的に悲しみを与えるという点で等しく悪である。だが、ここで起きていることには微妙だが差別しうるものがあるように思う。

 裏切りや失恋の悲しさは、それをもたらすものがほかならぬあなたであることから来ている。それは代替不可能な関係であり、その終わりを宣告されることは耐え難い悲しみである。しかし耐え難いのはそれがほかならないあなたとの関係の喪失だからであり、現実的にはどうあれ、潜在的にはそこに和解への道がある。耐え難いことは耐えうることの証である。

 しかし差別による悲しみの場面を考えてみると、ことは微妙に違う気がする。あなたはほかならないわたしを差別するのではなく、わたしに偶然あるいは必然的にまとわりついてしまったひとつの、あるいは複数の属性を通じて暴力を加えるのであり、またこの暴力もほかならぬあなたが加える必然性をもたないものである。

 差別という力は一般的な、正規的(normal)な力、あるいは典型的(typical)な、類型(type)を刻印する力であり、それが振るわれる場面では、ひとはほかならないもの、個別的で分割不可能(in-dividual)なものであることを失う。しかしもちろんそれは普遍的な、宇宙的(universal)なものになるのではない。宇宙的なものから加えられる暴力は恩寵である。差別のあらわれる場はあくまで多数的、量的な、一時しのぎの、統計的な、堕落した、偽物の普遍性であるところの一般性である。

 差別はわたしを「ほかならないものではないもの」にすると同時に、あなたをも「ほかならないものではないもの」にする。一見この関係はわたしとあなたである必然性から解放されているという意味で、失恋や裏切りほど耐え難いものではないように思えるかもしれない。しかしこれは耐え難いものではないというより耐え難さが欠如しているという事態であり、そこには潜在的にも和解の可能性が閉ざされているという意味でより耐え難い。和解はほかならぬものどうしによってしか結びえない。耐え難くないことは耐え難いことの証である。

 差別の悲しみは、ただわたしが不合理な暴力にさらされることからのみくるのではない。常に具体的で個別的な存在が差別するのであり、わたしがあなたに差別されるまさにそのとき、わたしはあなたによってあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うと同時に、あなたによってあなたがあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うことになる。分割不可能であるはずのあなたが分割不可能な存在でありながら同時に一般的な存在に分裂するとき、分割不可能性は定義上喪失する。裏切りや失恋によって失われるのは、ほかならぬあなたとわたしが築き上げてきた具体的な関係だが、差別によってうしなわれるのは、その関係の可能性それ自体である。

 こう書きながら、なにかごまかしというか、無駄なあがきをしているような気もする。友情や恋愛は本当にほかならぬもの、分割不可能なものの場、あるいは宇宙的なものの場に属しているのか。やはりそれらもまた一般的な場に属しているのではないのか。

 それはそれとして具現化した一般性こそが社会である。したがって社会の言葉はすべて差別する。社会の言葉はわたしに自らを一般性として聞くように要請するからである。

 希望があるとするなら、言葉そのものが一般性に属しているのか普遍性に属しているのかをわたしたちが知りえないということである。受肉という出来事は、宇宙的な言葉が分割不可能な、ほかならぬあなたの言葉につながっていることを教える出来事だったのではないか。そして、宇宙的な言葉がほかならぬあなたとしてのあなたのもとへ降りてくるという事態を可能にした暴力=恩寵こそが、ほかならぬ愛だったのではないか、と思ったりする。

「すべて」を書こうとすること、つまりは「すべて『へ』」を書くこと 高橋源一郎『ゴーストバスターズ 冒険小説』

 この小説を書き始めた時、

 ぼくが決めていたこと   

 ①世界全部を入れる ②歴史全部を入れる

 ③愛と友情と哀しみを入れる ④読んでひたすら面白い(裏へ)

 ⑤なおかつ、今世紀末の日本文学を代表する(!)

 ⑥同時に、今世紀末の世界文学を代表する(!)

 ⑦そればかりか、21世紀の文学を予言する(!)

 ぼくの能力は出し尽くした気がする。

 いま、これ以上のものは書けない。(著者)

 

  高橋源一郎ゴーストバスターズ 冒険小説』1997年、講談社より発売された単行本の帯文より

 

 

「すべて」がやってきた

 

 高橋源一郎の『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み終わった時、それまで自分がほそぼそと建ててきた(つもりでいた)すべてがぶっ壊れた。文学に限ったことではない。

 それまで俺は様々なことについて「どこかにもうある程度のものは建てられていて、自分はそこになにほどかのものを付け加えられるだろうか」という風に考えていたのだ。そしてそれは極めて恣意的な考え方だった。俺が勝手にそう信じ込んでいただけで、その姿勢でいいのかどうか、ちゃんと考えたことがなかったのだ。

 俺は俺の中に権威主義者を発見したのだった。

 権威とはなにかというと「説明をしないで済ませる力」のことだ。権威が発揮される場面というと、なにか「上」の人間や組織が「下」の存在に対して「説明しません」というパターンが目立つけれども、「自分」が「自分」に対して「説明しません」というのもあって、それは「誰か詳しい偉い人〜説明してください!」とか「説明しなくてもいいですよこうなんですよねそうすりゃいいんですよね」という形で「下」から「上」へ権威を与えるという動きを生み出す。なりたくもなかっただろうに「権威」になっちゃった人から漂ってくる悲哀というのはこのあたりに原因があると思う。権威は力であって人間ではない。力には経済があって、権威の経済は「上」と「下」という方向の概念を基盤として、権威という力を人々の営みのなかで循環させる。

 権威主義者でなくなるということは、「上下」の世界から脱出すること、説明、とくに理由を説明できる精神であり続けることだ。

 並大抵のことではない。一生かかっても俺にはできないかもしれない。

 しかし少なくとも俺は自分のなかに権威主義者を発見できたのだった。なにも進んでいないわけではないと思った。

 こうも思った。そもそもどこかで誰かが俺にとっての「すべて」を用意してくれているなんて、そんな話はないのだ。俺にとっての「すべて」は俺が自分自身で、素手で、ゼロからやっていかなければ触れることができないのだ。これはよく考えたら当たり前のことだった。恋について考えよう。すごい好きな人ができたとする。その人への「好き」が、「『好き』とは何かについて本や漫画やドラマや映画やアニメである程度知っているし先生や友人や同僚たちからも結構聞いたりしてきたから、今までに学んできた『好き』に加えてなにか独自の『好き』をプラスできたらいいなあ」みたいなものである、なんてことがありうるだろうか? だいたいこれじゃ「好き」の中に当の相手がいないじゃん。ガッときてバーン!でしょ。俺はこういうことに関して馬鹿で恥知らずなので正直にガッときてバーン!とか書いちゃうが、ともかく俺は自分で知っていたことすら知らなかったのだ。忘れていたといったほうが正しいかもしれない。人間は自分が知っていることしか知ることができない。でも自分にとっての「すべて」はみんな知っているのだ。まだ気づいていなかったり、忘れているだけなのだ。

 

すべての人はまったく同等と見なされます。しかしそうではありません。すべての人が同等に才能があるのではありません。才能は確かに至るところに流布しています。才能のない人はいません。才能がないなどということはありえないことです。かれらはみな才能をもっています。問題はどうすればあなた方のかけがえのなさが開花できるかということです。なぜなら自分自身のものでないものを学ぶことはできないからです。そんなことは不可能なことです。*1

 

 こうも思った。いったん「すべて」があるとしよう。「すべて」はすべてなのだから、「いつ」や「どこ」に限定されることはない。しかし「すべて」は「ある」、「存在する」ともいえない。「すべて」は「ない」、「存在しない」をも含んでいなければすべてではないからだ。

 そして「わたし」がある。

 このことから何が言えるか。「わたし」はいつでもどこでもほんとうは「すべて」に触れられるはずなのだ。生まれる前でさえ、死んだ後でさえ! そのことはずっとむかしから変わらなかった(なぜなら「すべて」は「すべて」だから)。そして「すべて」へ向かい続けてきた生命たちがいて(どうして人間だけが「すべて」に触れられると言い切れるだろうか。ヤモリによる「すべて」が、ハエトリグモによる「すべて」が、ヒマワリによる「すべて」がどうしてないと言い切れるだろう)、人間は表現をすることができるので、「すべて」に触れることのできた人間はおのおのの仕方で「すべて」を表現した。

「すべて」はもののような真理、対象にとれるような真理ではない。もしかしたらそういう真理もあるのかもしれない。だがそういう物質的な真理は、質量を、重力を持ち、必然的に重い。そしてそれはおそらく「すべて」につながっていけるような真理ではないのだ。

「すべて」はたしかに真理と繋がっている(もちろん「すべて」だから)。しかしそこでいう真理は、その「すべて」であることのうちにあるのだ。だから「すべて」を表現しているものたちの見た目がお互いに全然違ったとしてもそれは大したことじゃない。みんなそれぞれのうちに「すべて」を持っているのだから。継ぎ目のないネットワーク、全体である部分しかもたない全体、そういう真理のありようが「すべて」と繋がっている。

 そういう風に考えるようになってから『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み返してみると、この小説は「すべて」ではないような気がしたけれども、「『すべて』について書こうとしている小説」であり、また「『すべて』へと向かっていく小説」であるように思った。だから俺は最初にこの小説を読んだとき、「すべて」ということに気づけたのだ。単行本の帯の言葉を知ったのは、はじめて文庫版で小説を読んでから随分たったあとのことだった。

 

 とてもじゃないが高橋源一郎ゴーストバスターズ 冒険小説』のすべてについて書くことはできない。それは講談社文芸文庫版『ゴーストバスターズ 冒険小説』の「著者から読者へ」コーナーに「『ゴースト』の尻尾」というタイトルで収録された高橋源一郎の言葉を読んでみればわかる。高橋源一郎にとって小説を書くときに最も大事なことは「塊」=「小説の『魂』」の芽生えを捉えること、そしてその「塊」の秘密は「タイトル」の中に眠っているということを書いている。 

 

 というわけで、『ゴーストバスターズ』である。

 ぼくは、この子に『ゴーストバスターズ』と名前をつけた。その名の通り、「ゴースト」をやっつける物語である。それ以外には、なにも決まっていなかった。ぼくは、登場人物たちに、「ゴースト」を退治に出かける旅に出るよう命じた。

「ぼくが、きみたちの旅を記録してあげるから」

 そして、「ゴースト」退治の旅を記録するぼくの旅が始まった。だが、その旅が始まった時、ぼくは、その旅が、どれほど過酷なものになるのか知らなかったのだ。

ゴーストバスターズ』は、最初の着想から完成まで、七年以上かかっている。いや、正直にいおう、ぼくが(登場人物たちが)退治しようとした「ゴースト」は、ぼくが(登場人物たちが)想像していたより遥かに巨大な怪物だった。ぼくは、その怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかったのだ。

 あれから十数年。ぼくは、いまも、ひそかに「ゴースト」を追っている。なんとか、「ゴースト」の背中を捕まえつつあるような気がしている。

 もしかしたら、この『ゴーストバスターズ』以降の小説もすべて、タイトルは『ゴーストバスターズ』でよかったのかもしれませんね。*2

 

 当の作者自身においてすら、『ゴーストバスターズ』は書ききれていないのだ。じっさい『「悪」と戦う』(2010年)を読んだ時、俺は高橋源一郎が10年以上の時を経てなおまだ『ゴーストバスターズ』でありつづけていることをまざまざと見せつけられ、その根性と体力と誠実さに感動した。『ゴーストバスターズ 冒険小説』はそれほどにデカいものなのだ。*3

 なので、ここでは、タイトルと、扉に引用された詩、冒頭について書く。「すべて」への扉はどこにでもある。大事なのは最初、ゼロ、冒頭に出会うことだ。

 

タイトルのふたつの由来

 

 『ゴーストバスターズ 冒険小説』。

 この小説のタイトルを見た時、いくらかの読者は「ああ、あの映画の」と思い、多くの読者は「妙な副題だな」と思うだろう。なんでわざわざ「冒険小説」って入れるの? 読んだらそう分かるんじゃないの? ここにはふたつの元ネタがあり、ひとつは言うまでもない、1984年に公開された映画『ゴーストバスターズ』だ。もちろん単にタイトルを拝借したというのではない。重要なところをピックアップしていこう。

 ①映画『ゴーストバスターズ』において最初にゴーストが登場する場所はニューヨーク市立図書館、世界最大級の公共図書館だ。そしてゴーストバスターズのひとり、イゴン・スペングラーは、電話番や受付を担うゴーストバスターズ事務員のジャニーンに「読書はお好き?」と聞かれ、「活字は死んだ(Print is dead.)」と答える。ジャニーンは読書が好きで、インテリの趣味にぴったりだと思っている。「ゴーストバスターズ」の面々は大学を追放されたインテリたちだが、最後まで(少なくとも趣味としての)読書をしているような形跡はない。この映画はすでに最初から、1980年代における書物の凋落をバックグラウンドに抱えていた。すでにニューヨーク市立図書館は「遺跡」だった。これは同時に、ニューヨーク市立図書館が「遺跡」である1980年代アメリカの世界と、ゴーストの世界をつなげる役割を果たす人間は、読書が好きな事務員である、ということも意味している。

 ②最後のゴーストもまた「遺跡」に現れる。最後の戦いの舞台となった奇怪なマンションは、イヴォ・シャンドアというヤバい医者の手によって設計されたのだが、そのきっかけは第一次世界大戦だった。戦争による世界への絶望が彼を破滅の神への信仰に走らせたのだ。

 ③大学を追放されたあと「ゴーストバスターズ」を起業した面々が発信するテレビCM。ここには「We're ready to believe you(あなたを信じる用意はできています)」、字幕では「いかなる話も信じます」という台詞が出てくる。小説、近代の小説においていまだ巨大なメルクマールであり続けているセルバンデス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語を信じ込んでしまった男ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと、騎士道物語を信じ込んでいないお供のサンチョ・パンサを主人公とした、騎士道物語のパロディとして世に現れた。小説は聖典ではない。つまりそれは信じられるものではない。小説家は伝えるに値すると信じる何か、自分自身でもはっきり掴めているかどうかすら分からない何かを、不信を通じて  それは単に通り過ぎる、通り抜けることができるというようなものではなくて、格闘、それも自らの影との格闘を強いられ、通り抜けられるかもわからないようなものなのだが  人々に届けようとする。それはゴーストバスターズたちの「We're ready to believe you」とは対照的な姿勢だ。どうしてゴーストバスターズたちはそうあることができるのか。

 ④それはラスボスのことを考えるとはっきりしてくる。ラスボスたるゴーザ神は、最初こそ人の形をしているが、途中で姿を消す。そして空と扉が光り輝く中、ゴーザ神の声だけが聞こえる。ゴーザ神はゴーストバスターズたちに「この世に破壊を持たらす者の形」を選択させる。何も考えなければ、イメージを思い浮かべなければ大丈夫だとにらんだピーターの声掛けも虚しく、レイが「マシュマロ・マン」をイメージしてしまったため、ゴーザ神は破滅をもたらす「マシュマロ・マン」を降臨させたのだった。ここに映画『ゴーストバスターズ』と高橋源一郎の小説『ゴーストバスターズ』の最大の違いがある。映画において、ゴーストは基本的に「映る」のだ。難しい言い方をすると、映画の力はゴーストを表象可能にしてしまう。表象できてしまえば対象にとれるようになる。目の前に見えているのに見えるも見えないもない。ゴーストバスターズの面々は、ニューヨーク市立図書館における「ゴースト」との初遭遇のときこそなすすべがなかったものの、すぐに「原子力エネルギー」を用いるなどして対ゴースト装備を次から次へ準備し、実際ゴースト退治に成功してしまう。納得できるような原理の説明はない。そういうものだからそうなるのだ。最初の最初から「ゴースト」とは何か、と考えようとしたときに、表象可能であることを前提にしていいのだろうか?

ゴーストバスターズ」というタイトルが高橋源一郎の元に降りてきた。このタイトルの中に「塊」=「小説の魂」の秘密が眠っている。この映画『ゴーストバスターズ』には戦争を、小説を、文学を考え続けてきた高橋源一郎にとって無視し得ないものがたくさん含まれていた。この映画は明らかに「活字は死んだ」→「小説は死んだ」という認識の上で撮影されており、なおかつ戦争というものがまだ終わっていないことを認識している。しかし映画『ゴーストバスターズ』は本当に「ゴーストバスターズ」の秘密に触れることができたといえるのだろうか?

 こうして『ゴーストバスターズ』は、『ゴーストバスターズ』でありながら『ゴーストバスターズ』でないものを書くとなったときに、これ以外にありえないタイトルとして降りてきたのだと俺は思う。

 

 もうひとつの由来、というか副題の「冒険小説」にも由来があるのだ。それは自分の指の間から砂になった水のようにこぼれ落ちていくアメリカを見つめ続け、詩であるままに(散文詩的に書くということではなく)小説を書くという、英雄的としかいえない行為のうちに斃れたアメリカの詩人であり小説家、リチャード・ブローティガンだ。

 ブローティガンは、邦題では『愛のゆくえ』となっている『中絶:歴史的なロマンス1966年』から、異なるジャンルでアメリカを描くプロジェクトを始めた。そしてその中に『ゴーストバスターズ』にうってつけの作品があるのだ。それは『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』である。翻訳者の藤本和子による解説によれば、ブローティガンはこのどこかギクシャクしたものを覚える小説の映画化を目指し、シナリオを書いていたらしい。高橋源一郎はそのことを知っていたはずだ。それ以前に自分の小説に書いているのだから。

 

 わたしは悲しかった。

 わたしは「現代名文全集」に必ず載っている「さきにて」の哀れなはちたいのように悲しかった。

 わたしが蜂だったら、絶対に志賀直哉の前では死ななかったのに。

 蜂さんたち! どうせ死ぬならリチャード・ブローティガンの前で死ねば良かったのに。

 

〈ホークライン家の怪物・パート2〉はかんのビールを蜂の上からぶっかけた。

「いつまで死んだまねをしてやがるんだよ、ばーかめ!」

 死んでいた蜂はあわてて生き返ると、メガネを探した。

「ないぞ! ないぞ! 昨日、丸井のクレジットで買ったばかりの境い目のない遠近両用メガネ『バリラックスⅡ』が見つかんない!』*4(強調は原文ママ

 

 『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』はハワイから始まる。そこでは殺し屋のふたり、グリアとキャメロンが、地元である東オレゴンの服装、すなわち「カウボーイ」の服装をしてターゲットを暗殺しようとしていた。だが無理だった。ふたりには殺れなかった。そしてふたりはアメリカ本土に帰って来る。オレゴン州ポートランドで彼らは、彼らへの依頼を携えた「マジック・チャイルド」という謎の少女に導かれ、「死の山」を越えて、東オレゴンの辺境にあるホークライン家の屋敷にたどり着く。そこで依頼人のミス・ホークラインから「怪物退治」を依頼されるのだ。*5ここに『ゴーストバスターズ』のブッチ・キャシディサンダンス・キッドの影を見るなという方が難しい。

 

The History of Bolivia

 

"Butch didn't die in Bolivia. He came

home to Utah I saw him after he got back.

The Sundance Kid was killed in Bolivia

and it grieved Butch to leave him there."

 

ボリヴィアの歴史

 

「ブッチはボリヴィアでは死ななかったのさ。

やつは故郷のユタに帰ってきていたんだよ。

わたしは、会ったから知ってるんだ。

サンダンス・キッドがボリヴィアで殺されたからね。

やつはとても悲しんでいたっけ。

あんなところにいつまでもいたくなかったのさ」*6

 

 そして『ホークライン家の怪物』に漂うギクシャク感の要因のひとつであろう、唐突に思えるエピローグ。ここで主人公がオレゴン州であったことがわかるのだが、さりげなく重要なことが書かれている。殺し屋のひとりであったキャメロンは、第一次世界大戦の直前に「映画プロデューサー」になったというのだ!

 小説ということをおいても年齢からしてかなり厳しそうなのだが、それでも映画『ゴーストバスターズ』を高橋源一郎に向けてプロデュースしたのは、このキャメロンではないのだろうか、と言いたくなる。

 まず「ゴーストバスターズ」というタイトルが降りてきた。そしてその秘密を探っているうちに、おそらく『ホークライン家の怪物』という作品、ブローティガンの遺した小説に、意識してか知らずか行き当たったのだ。だから必然的に、この小説の書き出しの一行目は「アメリカ」という固有名詞で始まる。21世紀にもし文学があるとしたら、とくに日本文学があるとしたら、日本文学が20世紀の自らを振り返るとき、その起点は1945年の敗戦によって始まるだろう。べつに「現代」仮名遣いだけの話ではない。いや、そもそも敗戦した日本が造られたきっかけもまた、「アメリカ」の黒船だったことを思い出さなければならない。近代日本文学は、日本とアメリカとの衝突によって生まれたのだから。

 しかしそんなデカい話を、このタイトルひとつから言ってもいいのだろうか。それを確かめるために、ある系譜をたどってみたい。それには『ホークライン家の怪物』から漂ってくるギクシャクのもう一つの理由である「怪物」について考える必要がある。ブローティガンをさらに遡り、「ゴーストの系譜」を追ってみよう。

 

ゴーストの系譜 

 

Formal Portrait

 

I like to think of Frankenstein as a huge keyhole

and the laboratory as the key that turn the lock

and everything that happens afterward as just the

         lock turning.

 

公式的な肖像

 

フランケンシュタインというと

わたしが連想するのは大きな鍵穴だ

なんだかそんな気がするな

すると研究室は錠を回すための鍵だろうか

誰かが鍵穴に鍵をつっこんだ

それだけのこと*7

 

 いきなりだが、俺はゴーストの「起源」がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』にあると考えている。

 

 サンチョ・パンサの言葉ではないが、何事にも始まりがあり、その始まりはそれに先立つものと結びついていなければならない。ヒンドゥー教徒はこの世界を一頭の象に支えてもらっているが、その像だって一匹の亀の上に立っている。創作とはしたがって、無ではなく混沌こんとんから生まれると認めざるを得ないのだ。まず第一にかたちのない素材があって、それにかたちを与えていくのであって、かたちから材料が生まれてくるわけではない。発見でも発明でもすべて同じことで、仮に創造にかかわることであっても、わたしたちは常にコロンブスの卵の話を思い出す必要がある。創作は、ある主題に込められた可能性をつかみ取る能力、その主題がつむぎ出すアイデアをかたちにする能力があってはじめて成し遂げることができるのだ。*8(強調は引用者)

 

 よく言われる話だが『フランケンシュタイン』に出てくる怪物の名前は「フランケンシュタイン」ではない。怪物には名前がない。フランケンシュタインジュネーヴに生まれ、怪物はインゴルシュタットで生まれた。怪物の作り方のベースには生理学があっただろう。怪物の創造、その核心部分はフランケンシュタイン自身の考えによってこちらには明らかにされない。どうやら怪物の作成にあたり、フランケンシュタインは人間に限らず、多くの動物の死体を材料にしているようだ。心さえなければ美醜に苦しむこともなかった。これ以上ないほど醜い怪物は、創造主たるフランケンシュタインに対して、自分と同じように醜い女の怪物を作れと迫る。

 

「願いを聞いてくれれば、おまえの前にも、いや人間の前には二度と姿を見せない。南アメリカの広い荒野へ行くつもりだ。」*9

 

 北西アメリカ、すなわち東オレゴンであれば完璧だったのだが、そこまで符合を求めるのは贅沢だしやりすぎというものだろう。ヨーロッパで生まれた怪物は、ヨーロッパにいてはならない。怪物はアメリカに去らねばならないのだ。そしておそらく小説の20世紀とはアメリカの20世紀だったのだった。ジョイスプルーストらが巨大なヨーロッパの花火を打ち上げ、カフカが『アメリカ』の途上で倒れたあと、フォークナーが、ヘミングウェイが、フィッツジェラルドがやってきて、ビートニクが、ブラッドベリやらウィリアム・ギブスンやらありとあらゆるSFが、そしてピンチョン、スティーヴ・エリクソンが……というようにして、世界はアメリカが書くということになった(ところでドス・パソスのU.S.A.三部作は新訳出ないんですか?)。*10

 

 ブローティガンの娘は1960年に生まれる。アイアンシ(Ianthe)という名の娘はブローティガンが死んだ翌年、エリザベスという女の子を産んだ。

 

かれが死んで一年後に、アイアンシは女の子を産んだ。名をエリザベスとつけたが、それは彼女のミドル・ネームでもある。アイアンシという名はギリシャ語で「紫の花」を意味している。詩人のシェリーが自分の娘につけた名で、いい名だといって両親は生まれた娘にそう名づけたのだったが、「変わった名だから、こんな名はいやだ、と思うようなことになったら、きみはミドル・ネームのエリザベスを名乗ればいいんだよ」と父ブローティガンはいったという。*11(強調は引用者)

 

 ここで「詩人のシェリー」とあるのが、『フランケンシュタイン』の初版で作者に成り代わって序文を書いた男、メアリー・シェリーの夫パーシー・シェリーにほかならない。パーシーは前妻ハリエット・ウェストブルックとの間に生まれた娘にアイアンシと名付けたのだった。

 フランケンシュタインという、知への情熱と名誉に憑かれた男が怪物を作り出す。そして彼がその怪物退治を、かつての彼と同じ種類の情熱を燃やす(その対象は新しい北極方面への航路開拓や磁力の秘密の解明といったことだが)、冒頭の手紙の書き手ロバート・ウォルトンへ継承しようとする。怪物の創生と退治、その継承というテーマは、パーシーをフランケンシュタインと見立てたときさらに重層性を帯びてくる。小説中、最初に「フランケンシュタイン」という語が出てくるのは、恩師ヴァルドマン教授と会話をする場面だ。

 

教授が言葉を続けるに従い、わたしは自分の心が、触れることができるほど近くの敵と戦っているような気分になっていきます。わたしという存在をかたちづくっているさまざまな鍵盤の一つ一つに触れ、次々に和音が奏でられ、まもなく頭のなかが一つの考え、概念、目的によって満たされる。これだけのことが成し遂げられたのだ、わたしのなかにあるフランケンシュタインの心(the soul of Frankenstein)がそう叫び声をあげました。*12(強調は引用者、英語原文はProject Gutenberg(https://www.gutenberg.org/files/84/84-h/84-h.htm)から引いた。)

 

 ここですでにしてヴィクターはその表現の仕方の通り、自分のうちにある「フランケンシュタインの心」を他者であるかのように見つめている。怪物の名前が「フランケンシュタイン」と誤認されることにもいわれがないわけではない。確かにヴィクター・フランケンシュタインはすでに怪物を作る前から怪物じみたものを持っていた。

フランケンシュタイン』初版の序文は、妙な昂揚感と浮足立った自信がある。新規性を訴え、自分の成果を誇る(「これまでにないもので、その意味で評価の対象になるだろう」や「大胆な新機軸を打ち出した」)。1831年版の「まえがき」において、メアリーは初版の序文が代筆された事実を明かしている。

 

 初めはわずか数ページ、短い話にするつもりだった。しかしシェリーが、そのアイデアを発展させて、もっと長いものにしたほうがいいと言ったのである。とはいっても、事件一つ書くのにも、あるいは一つながりの感情を描くのにも、夫の助けを借りたことはない。彼の激励がなければ、今のようなかたちでこの物語が世に出ることはなかったのも事実だが  。ただしここでも例外があることを言い添えておかなければならない。すなわち、わたしの記憶によれば、次に掲げる初版の序文は、すべて夫のシェリーが書いたのである。*13

 

 ここにおいて「ゴーストの起源」としての『フランケンシュタイン』は最大の広がりをもつことになる。パーシー・シェリーはその激励によって「メアリー・シェリー」という小説家を創造したのだが、彼は自らがその「メアリー・シェリー」に成り代わって序文を書くところまで突進した。*14まるでフランケンシュタインがことの最初から怪物たる「フランケンシュタインの心」を持っていたかのように。そしてここで造られた「怪物」は意志を持っており、後年その手によって「私はフランケンシュタインに造られたのではない」と宣言する。しかしそれですべてがすっきりするわけではない。そのことは『フランケンシュタイン』のような作品を創作すること自体に関わっている。「現代のプロメテウス」としてのフランケンシュタイン。プロメテウスは神の領域にあるはずの創造の火を人間の手に引き渡した。その罪によってプロメテウスは罰されることになるわけだが、ここでメアリーが創作を、無からではなく混沌から生まれるものだと考えていたこと、そしてその創作には創造にかかわることさえも組み入れていたことを思い出す必要がある。フランケンシュタインが怪物を作ったことと、メアリーが『フランケンシュタイン』を書いたことと、パーシーがメアリーに対してやったことは、どれほどの違いがあるのだろうか。もし創作と創造の根本に本質的な違いがないとしたら、つまり神の手にある創造の火と人間の手にあるそれとの間に本質的な違いがないのだとしたら、あのフランケンシュタインが行った「怪物」の創造が悪であることは、創造そのものが悪であること、少なくとも創作することそのものが悪である可能性を示唆してはいないだろうか。

「ゴーストの起源」には「小説を書くことそのものの悪」というテーマが潜んでいるのだ。

 

 メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に比べると、ブローティガンの『ホークライン家の怪物』には「小説を書くことそのものの悪」というテーマの影は薄いように思える。そんなことブローティガンは考えなかったのかもしれない。だがこのテーマをまっすぐ書きえなかった理由の一端は分かる。先にも書いたことだが、『フランケンシュタイン』の頃にはなかったものが、『ホークライン家の怪物』の舞台となった1901年にはすでに登場してしまっている。映画だ。もはや物語といえば文学、という図式が成立しなくなっていくだろう。東オレゴンのホークライン湖。

 

そこはオレゴン州でもかなり辺鄙な土地で、道路もひどく貧弱だったから、その湖が人の多く集まるレクリエーションの場として発展することは全然なかった。現在も訪れる人はすくない。*15

 

 ホークライン湖、ひいては東オレゴンとは小説のことでもあるのだ。現在も訪れる人はすくない、そんな土地。先述の通り、殺し屋のひとりであるキャメロンは映画プロデューサーになったのだった。『フランケンシュタイン』は何度も映画化されたが、結局今になるまで『ホークライン家の怪物』は映画化されていない。こんなに映画化されなかった理由の一つには、おそらく、ブローティガンが書いた怪物が妙に複雑でイメージしにくいということがある。フランケンシュタインの怪物は生理学を基調としていたが、ホークライン家の怪物は化学、それもミス・ホークラインの父の化学実験から生まれたらしい。しかしミス・ホークラインがいうには、それは実験の途上にあるものであり、娘としては父に託された実験を完遂したい、犬が食われたりしたのは実験の途中で起きた事故のようなものだというのだ。いっときはそのものずばり〈化学物質〉と呼ばれることもある怪物だが、しかし〈化学物質〉それ自体が怪物なのではない。〈化学物質〉だってもとはといえばミス・ホークラインの父親の最後の実験をそう呼んでしまったのがはじまりだ。〈化学物質〉に電気を通した結果犬や父がいなくなるなどの変なことが起こって……ああややこしい!

 だいたい怪物の見た目がよくわからない。少なくとも『フランケンシュタイン』の怪物のように掴めそうには思えない。怪物たる〈化学物質〉は光を発し、そして影を生む。〈化学物質〉には古今東西のありとあらゆる物質が混ぜ合わされている。エジプトのピラミッドからとってきたもの、古代中国、ローマ、ギリシャからのものもある(アトランティスのものさえも?)。混ぜ合わされた〈化学物質〉に電気を通すと(この点『フランケンシュタイン』を生み出したガルヴァーニ電流の発見を思い起こさせる)、おかしなことが起こった。まだわからない。怪物が怪力を持ち、吠えたてることは分かる。だがどんな見た目をしているのか、わからない。そもそも怪物は作中で姿形を自由自在に変えている。その正体らしきものが書かれている部分を引いてみよう。

 

しかし、怪物が〈化学物質〉中で変質した光によってつくりだされるイリュージョンであるとは、ふたりは気がつかなかった。光はその意志を作用させて人間の心と物体を左右させる力を持っていて、そのいたずら好きの心に合うように、現実の性格そのものを変えてしまうのだった。

 光は胎児が臍の緒をとおしてしか夕食をとることができないのとおなじように、〈化学物質〉から滋養をとらなければならなかった。

 短い時間なら、光は〈化学物質〉を離れていることができるが、生気を回復するためにも眠るためにも〈化学物質〉へ戻らなければならない。光にとって、〈化学物質〉はレストランでありホテルである。

 光はいくつもの小さな可変性の形たちに変身することができて、仲間に影を連れていた。影は滑稽な変種で、全面的に光に屈従していた。じぶんの役割にはかなり不満で、〈化学物質〉の中を調和が支配していた昔のことを思い出すのが好きだった。*16

 

フランケンシュタイン』は創造された過程こそヴェールに包まれているが、その見た目自体ははっきりとしており、カメラに映しやすい。いっぽうで『ホークライン家の怪物』はカメラに映ることに抵抗しているように思える。というか、この怪物、すなわち光によってつくりだされるイリュージョンというのは、映画そのものではないか。映画それ自体を怪物として映画が撮ることはできない。その点ではデニス・ホッパーすら失敗してるんだぞ。『ラストムービー』大好きだけど。古今東西あらゆる物質を混ぜて造られた〈化学物質〉。それは歴史のことだ。エジソンを見ると、電気を流すと映画ができたことがわかる。1895年、アメリカの海の向こう側でやはり映画を作っていた兄弟のファミリー・ネームが「リュミエールLumière, 光)」であることにはいつまでも感動させられるが、光によってつくりだされるイリュージョンは、ここでは怪物と呼ばれるのだ。いったいブローティガンは、マジにこんな小説を映画界に売り込めると思っていたのだろうか? でも映画化するのか……マジで? 2020年にヨルゴス・ランティモスが映画化するってニュースがあったけどそれから続報聞いてないが……*17

 

『ホークライン家の怪物』が『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ 冒険小説』を橋渡ししていると強く感じられるのは、殺し屋ふたりがミス・ホークラインから怪物のことを聞こうとするシーンだ。ミス・ホークラインは怪物の話をしようとしているのに、なぜか別の話になってしまう。いつの間にかハワイの話になったりするし、怪物の潜んでいる場所をめぐる「地下室の下にある氷の洞窟」と「地下室」との混同に躓いたりする。重要なのはその後のシーンだ。また話がおかしくなりそうになるところで、その台詞は発される。

 

「また話が脱線してるわ」ともうひとりのミス・ホークラインがいった。「どうなっちゃってるんでしょ。説明するのは簡単なはずなのに、なんだか急に、とてもこんがらがっちゃった。話がどんどんおかしなほうへ行っちゃって、まるで変だわ」

「キビ悪いな」といったのはグリアだ。「いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか

「なに話してたんだっけ」と、ミス・ホークライン。もうひとりのミス・ホークラインのほうを向いた。「なにを話してたか思い出せて?」

「忘れちゃった」ともうひとりのミス・ホークラインが答えた。「ハワイのことだったかしら?」

「ついさっきは、ハワイのことを話してたさ」とグリア。「でも、そのあとは、なにかべつのことを話し合っていたのだ。なんだっけか?」

「ハワイのことだったかもしれない」とキャメロンがいった。「そう、ハワイのことを話してたんだ。あのさ、ちょっと、寒いみたいじゃないか?」*18(強調は引用者)

 

いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか」。ここで怪物をめぐって、言葉という問題は直接的に小説の表舞台へせり上がってくる。ふたりの殺し屋が冒頭で暗殺に失敗したハワイ。ハワイの話がここでループしている。このループは『ゴーストバスターズ 冒険小説』にも受け継がれる、あるいは受け継がれてしまうことになる。だが『ホークライン家の怪物』ではグリアとキャメロンの殺し屋ふたりは怪物を倒すことに成功する。〈化学物質〉の瓶を見つけたキャメロンは、それが怪物の正体、というより、根源をなすものだと気づく。

 

 ホークライン家の女たちが語ったことから推して、これが〈ホークライン家の怪物〉の根源をなすものだとわかった。……そうだ、〈化学物質〉なのだ。かれは瓶からおよそ三メートルのところに立っている。そして、問題の怪物はその瓶から一・五メートルのところに"かくれて"いる。

 とつぜん、キャメロンががなり立てた。「おい、そこだ! それだっ!」

 グリアは、怒鳴り声をあげ指さしているキャメロンの方を向いた。なにがなんだかさっぱりわからない。なぜキャメロンは怒鳴っているんだ。全然キャメロンらしくない。だが、とりあえずかれは指さされている方角を見た。

〈ホークライン家の怪物〉も、なんだろうかと興味をそそられた。なんだっていうんだ? ここ、、だというのに、あっち、、、だというのはどういうことだ?*19(強調は引用者)

 

 そして怪物は意外な方法で倒され、怪物は屋敷ごと焼け落ちてしまう。スクリーンそのものでもあった屋敷はもうない。映画は焼け落ちた映画館では上映できないのだ。闇が、影がなければ光のいたずらはできない。そのきっかけは言ってしまえば見ての通り「あっち向いてホイ」のレベルの話だが、このわずかなことばのズレによって怪物の命運は尽きたことになる。

 なぜ『ホークライン家の怪物』は倒せたのか。それは、ややこしいとはいえ怪物が表象可能なものとして取り扱われていたからだ。怪物の根っこには物質があり、物質は表象可能なものである。ゴーストの系譜において、『ホークライン家の怪物』は『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ』のちょうど中間に位置している。表象可能であり、なんどもスクリーンに、ブラウン管に、ディスプレイに映されてきた『フランケンシュタイン』と、表象可能な根源=物質と、表象不可能な(なぜなら光は表象可能性/不可能性を可能にするものそのものであるから)本質の両方を併せ持つ『ホークライン家の怪物』。*2019世紀から20世紀へ、抽象化・複雑化と表象不可能性への道をじりじり進んでいく歴史。本編では叶わなかったであろう希望は叶えられ、「怪物」はヨーロッパから海を渡ってアメリカへやってきた。その「怪物」をブローティガンが蒸留し、キャメロンはそれを「ゴースト」として、映画としてプロデュースする。そうしてアメリカからやってきた『ゴーストバスターズ』にぶつかり日本で高橋源一郎が書いた『ゴーストバスターズ』においては、もはやゴーストは捉えきれない。そうやって「怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかった」戦いが、20世紀の終わりに戦われたのだった。

 

詩という「すべて」との対峙

 

ゴーストバスターズ 冒険小説』の冒頭にはエピグラフがある。こうある。

 

一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る  S・T 

 

 最初にこのエピグラフが印刷されたページが目に入ったとき、俺は「S・T」のことを「T・S・エリオット」が省略されたものに空目した(中途半端にものを知っていたっていいことはないね)。そんなわけないとすぐ思い直し、イニシャルが「S・T」になる詩人のリストを頭の中で探していった。そして一個も出なかった。なんにも知らんのじゃないか俺は。インターネットにすぐ逃げる。サミュエル・テイラー・コールリッジ……なわけないな。ディラン・トマスはD・Tだし(雲行きが怪しい)……となり、すぐに観念して本文で検索すると出た。すぐに納得した。これはShuntaro Tanikawa、谷川俊太郎の詩だったのだ。その後もインターネットをゴチャゴチャした結果、どうやら当該作が『世間知ラズ』という古書価のすっごい詩集に収録されていることが分かり、祈るように図書館を調べると、ありました。とても助かりながら『世間知ラズ』を借りると、それはとても素晴らしい詩だった。全文を引用するほかない。

 

一篇

 

一篇の詩を書いてしまうと世界はそこで終わる

それはいまガタンと閉まった戸の音が

もう二度と繰り返されないのと同じくらいどうでもいいことだが

 

詩を書いていると信じる者たちはそこに独特な現実を見い出す

日常と紙一重の慎重に選ばれた現実

言葉だけかと言えばそうも言えない

ある人には美しくある人には訳のわからない魂の

言い難い混乱と秩序

 

一篇の詩は他の一篇とつながり

その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり

詩もひとつの世界をかたちづくっているが

それはたとえば観客で溢れた野球場とどう違うのだろうか

 

法や契約や物語の散文を一方に載せ

詩を他方に載せた天秤があるとすると

それがどちらにも傾かず時にかすかに時に激しく揺れながら

どうにか平衡を保っていることが望ましいとぼくは思うが

もっと過激な考えの者もいるかもしれない

 

一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る

その味わいはぼくらをここから追放するのかそれとも

ぼくらをここに囲いこんでしまうのか

絶滅しかけた珍しい動物みたいに*21

 

 引用されたエピグラフがいつでも引用してきた文章に奉仕するわけではない。もちろん引用された文章と引用してきた文章が互いを全体として解釈しあうということもある。だがここで言いたいことはそういうことではない。

 思うに、対峙するエピグラフというのがあるのだ。『世間知ラズ』に収録された別の詩篇を見てみるとそのことはよりはっきりする。「北軽井沢日録」から何日分か引いてみよう。

 

小鳥たちは何故近づいてこないんだ

双眼鏡を片手に

もうずいぶん長い間ぼくは待ってる

 

やはり仲間はずれか

うたう歌が違うのか

 

そうなのさ

ぼくはいつの間にか

同じ歌を繰り返す退屈に我慢出来なくなった

ヒトという生きもの

 

結局ひとつ歌をうたっているに過ぎないのに

君たちの空から見れば

七月三十一日

太陽は光の網を張りめぐらす巨大な蜘蛛

捕えられてぼくはもがく

 

その快さが詩だとしたら

ヒトの手では救えぬものにぼくは執着している

八月十一日

 

我慢するしかないと思う

気にいらないすべてを

だってそれはそこにあるのだから

大昔から

どんなに言葉でごまかそうとしても

 

だからと言って唐突な喜びが消え失せてしまうわけでもないさ

ヒトはいつだってはみ出して生きてきたんだ

観念からも思想からも

たぶん神からも

八月十五日

 

蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない

だが世界を変えるのがそんなに大事か

 

どんなに頑張ったって詩は新しくはならない

詩は歴史よりも古いんだ

もし新しく見えるときがあるとすれば

それは詩が世界は変わらないということを

繰り返しぼくらに納得させてくれるとき

そのつつましくも傲慢な語り口で

八月十五日

 

ぼくらの土地に育った言葉は

おしゃべりを忌む

 

さらりと言ってのけて知らんぷりして

言葉に言葉を重ねたりせず

 

ほんとはいつでも無言を目指して

歴史なんてなかったかのように

いつでも白紙で今を始めて

 

言葉で捕まえようとすると

するりと逃げてしまうものがある

その逃げてしまうものこそ最高の獲物と信じて

 

この土地に育つ言葉は

この土地に

生まれたぼくらを困らせる

九月四日*22

 

ゴーストバスターズ 冒険小説』と『世間知ラズ』の両方の読者なら、たとえばここで出てくる「蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない」という一節から、小説内で躍動していたBA-SHOやSO-RAのことを思い出すだろう。いったんそれはいい。俺が言いたいのは、ここで引いてみた詩を読んでいると、谷川俊太郎がすでにこの詩集において「ゴーストとは何か?」という問いには答えていないものの、「『ゴーストを追う』とは何か?」あるいは「『ゴーストを退治する』とは何か?」ということについて、詩人としての立場からすでに答えを出してしまっているように思えるということだ。

 さて「一篇」へ、扉の一節へ戻ろう。

 なぜ高橋源一郎はここで「谷川俊太郎」と書かずに「S・T」と書いたか?

 答えのひとつは先にも述べた小説の冒頭にある。この小説は「アメリカ」からはじめなければならないということはすでに確認した。おそらく1997年当時だと、まだ日本人の姓名も英語表記では名、姓の順番に表記するのが一般的なはずだ。日本語と同じ順番で姓名を表記するハンガリー出身の有名な作曲家、ベーラ・バルトークの日本語ウィキペディアが、いつの間にか名前の表記を「バルトーク・ベーラ」に変更していたのが懐かしい。あれはいつのことだっただろうか。

 ともあれ俺はもうひとつの答えのほうが重要じゃないかと思っている。

 俺はこの「S・T」が、「E・T」に重ね合わされているのだと確信している。

 もちろんタイトルが『ゴーストバスターズ』という、映画からの直球の引用だからというのもあるが、それだけではない。*23なんせ谷川俊太郎は、火星人のようにデビューした詩人である。

 

火星人は小さな球の上で

何をしてるか 僕は知らない  

(或いはネリリし キルルし ハララしているか)  

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする  

それはまったくたしかなことだ*24

 

 詩人とは火星人であり、重力を逃れ自由にある。小説家は地球の地表で這いずり回る。「正義の味方」超人マンであるタカハシさんですらやはり地球の重力に縛られているのである。火星の蝶である詩人は光の網のうちに捉えられるのだが、それは光のうちにあるということであり、そこに影はない。つまりそこは闇や影、いいかえれば、ゴーストの領分ではないのだ。太陽の影というものはない。影を作り出すものがあるとしたらそれは詩人の身体だけだ。それが投影されうるのは光の網のはるか下に横たわる大地、地球の大地であり、散文の大地である。

 高橋源一郎谷川俊太郎は、これらの言葉がいつもある面では書かれただけ、言われただけであるということに敏感であり、「本心」やら「真実」やら「ほんとうのこと」と言葉の間に安定的な関係が結ばれうると心底からは信じていないという点において共通している。だがその共通点はそのまますぐに詩人と小説家との、あるいは詩と小説との和解が可能であることを意味するわけではない。「一篇」において詩と小説=散文は、天秤の両の皿にそれぞれ載せられるものとして書かれている。つまり詩と小説は天秤ということ、つまり平衡(とその破綻)という、「法」を超えた「法」によって隔てられている。

 詩のなかに出てくる「野球場」の言葉でこの断絶と和解をとりまく緊張はさらに高まる。高橋源一郎は『優雅で感傷的な日本野球』という小説を書いている。どうやら詩にも小説にも野球場があるのだ。「一篇の詩は他の一篇とつながり/その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり/詩もひとつの世界をかたちづくっている」としよう。このつながりが詩を超えてひとつの小説にも繋がりうるのだとしたら、E・Tとタカハシさんとの間には繋がりができ、それは谷川俊太郎高橋源一郎との間の繋がりへと降りてくるだろう。そしてそこには「日本文学」という野球場ができることになるだろう。だが谷川の詩を読む限りそんなことはできない。この詩篇には地名がない。それは「ここ」という言葉をぎりぎり許容するような世界において書かれる言葉である。谷川俊太郎の「野球場」は現実の地球上にはおそらく建設されたためしのない野球場なのだ。現実の野球場はどこかの土地に建てられる。それはどこかの国、領土をもった国家の土地に建てられるということだ。谷川の野球場は「『日本』文学」ではありえない。

 それでも高橋源一郎はS・Tを小説が始まる前の扉に引くことを選んだ。『E.T.』の差し伸べる人差し指が地球人の人差し指と触れ合う。E・Tの人差し指は光から指差されるのだが、タカハシさんの人差し指は光を指差そうとしている。この人差し指の先という一点に賭けられたものは、「すべてを書くこと」と「すべてを書こうとすること」の間にある計り知れないほどの距離を高橋源一郎が痛いほど認識していながら、そうするより他になかったこと、つまり、小説を書くということではなかっただろうか。

 ゴーストを見極めるために必要なものとはなにか。ゴーストを照らせるものがあるとしたら、それが光以外のなにであるだろうか?

 

「へ」を書くひと、高橋源一郎

 

 ここではタイトルと、扉と、冒頭それも「アメリカ」の一語の話しかしなかった。「タカハシさん」の飛行に関する素晴らしい部分について書かなかった。読んでて泣きそうになる「ペンギン村に陽は落ちて」の章について書かなかった(「死」は「ゴースト」ではない!)。映画のフィルムの両端を微妙にずらしてくっつけた、破綻するループについて書かなかった。それが20世紀の末に書かれ、ループしたフィルムの切れ端は21世紀に到達しようがないことについて書かなかった(端がないのだから、そして21世紀の予言は21世紀にあることはできないのだから)。「すべて」を書こうとするためには「すべて」を書くことに失敗することすら書くことのうちに含まれていなければならなくて、だから『ゴーストバスターズ 冒険小説』は「すべて」を書くことに失敗することによって「すべて」を書こうとすることに成功したということについて書かなかった。それは今から書くことだ。

 高橋源一郎は「なにか『を』』書く小説家ではない。「なにか『へ』」を書き続けてきた小説家だ。思えばデビュー作『さようなら、ギャングたち』からしてそうだった。「言葉のない世界」あるいは「言葉を失ってしまった世界」を生きる者たちが、その先「へ」と向かおうとしていた。読んでいて苦しくなる、しかし俺の大好きな『虹の彼方にオーヴァー・ザ・レインボウ』は、あの写真の部屋の外「へ」出ようともがいていた(この小説もループしていた)。小説の中に姿勢を書き込むということは、不動の、死んだ、物質である活字という条件を受け入れながら、しかしなお動くこと、動こうとすること、生きることを書こうとすることだ。いや、俺はこういうふうに言いたいのか。丸田洋渡の歌集『これからの友情』に多賀盛剛が寄せた文章はすべてが素晴らしくて、部分を引用することが難しい、というかできない文章で(でもほんとうはすべての文章がそうなんじゃなかったか。高橋源一郎もまた「本当なら全文引用したい」ということを折に触れて詩や小説に言ってきた人で、ひとつの小説を理解するためにはもう一冊分小説を書く必要があるとまで言っていたんじゃなかったか。違う作家だったっけ?)、これは嘘にしかならないのだけれども一部を引用するしかない。全文はみんなでよんでください。*25

 

note.com

 

にんげんはその日をぜんぶ記憶することはできひんけど、五百日かけてみえてくる人生がある、ひとつの短歌がにんげんからちょっとずつこぼれおちても、五百読んではじめてにんげんが手にふれられるものがあって、この世の歌集はだいたいこれくらいっていう短歌の数があるから、にんげんの手もその範囲におさまるんやけど、でもこれからの友情はそれをつきぬけてて、せやからはじめてとどくところがあって、できれば人生のなかの何時間かを確保して、この歌集をゆっくりいちどで読んでみるのをおすすめします、映画をいちどでみるように。それぞれの短歌を、じぶんのなかで、わかった、としないままで、手におえないままで。ざんねんながら、短歌はにんげんの手にはおえない、でも短歌っていう体験はあって歌集っていう体験はあって、その最良のものがもしかしたらこの歌集にあるのかもしれない。*26(強調は引用者)

 

 俺はこれは短歌に限った話じゃないと思う。俺は、人間は自分の手に負えないものを書くことができるということに驚き、自分にもできるかもしれないと思ってワクワクしてくる。たしかにフランケンシュタインは自分の手に負えないものを作った。でもそれ自体が悪いことだったんだろうか。あの、怪物を作っているときのフランケンシュタインが、どう読んでも喜びに満ち満ちている感じじゃなかったことが良くなかったんじゃないか。

 

建築家の仕事  私はこの話で終わらねばなりません  は、つぎのような空間、つぎのような研究課題を見いだすことだと思います。つまりアヴェイラビリティ  それはいまだここにはないものも、すでにあるものも含みます  が、あなたに語りかける空間へと成熟するためのよりよき環境を保持することができ、そしてあなたのつくる空間がやがて来る人への捧げものの所在地であることを真にあきらかにすることができる、そのような空間を見いだすことです。(中略)たんなる専門家ではなく、真の建築家であるべきです。専門家であることは、あなたを覆い隠してしまいます。あなたは居ごこちがよくなり、みんなと同じように大いに称えられるので、いつのまにか自分を忘れてしまいます。仕事の評判はよく、そして終日ゴルフへでかけても、建物はどっちみち建てられるでしょう。しかしそれが何になるのでしょうか。ジョイが覆われているところに、どんなジョイがあるというのでしょうか。ジョイこそがわれわれの仕事におけるキー・ワードだと思います。ジョイを感覚すべきです。もしあなたが行っているもののなかにジョイがなければ、真に働いているとはいえないのです。生き抜かねばならない貧しい時代はあるものです。しかしながら、きっとジョイはうち勝つでしょう。*27(強調は原文ママ

 

 ジョイ。読んでいて、あるいは書いていて胃潰瘍になるような小説ではなく、胃の調子が良くなるような小説が書けたら、と思う。現れる「すべて」が、よろこびから生まれてくるような「すべて」であってほしいと、俺は思う。

 

補足:もうひとりの「ゴーストバスターズ

 

 高橋源一郎が『ゴーストバスターズ 冒険小説』で追究したものを、全く別の分野で追究した人間がいる。精神科医神田橋條治だ。次の部分を読めばそのことが分かり、と同時に、ふたりの追ったものの微妙な違いも分かって来る気がする。

 

 文字の世界がファントム界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。*28

 

 医学を文学に濫用するなよ、という人もいるかもしれない。だが、初っ端からこうはじまる医学書というものは俺はほかに読んだことがない。

 

 医療の対象はヒトのいのちです。医療を根本から考える手始めに、対象となるいのちについて空想をめぐらしてみることにします。*29

 

 タイトルがもうすでに『「現場からの治療論」という物語』だ。俺はこのタイトルを見てすぐに、この本は医療の話であると同時に文学の話でもあると思った。空想は、メアリー・シェリーが小説を書くことよりも好きだったことだ。

 

 優れた文学的名声をもつ両親から生まれた娘だったから、わたしが幼い頃から文筆に手を染めようと考えたことに不思議はあるまい。子供のときから手すさびに文章を書き、与えられた遊び時間に熱中したのが「物語を書く」ことだった。だが当時は、もっと好きなこともあった。それは空中に城を築くこと  つまり白昼夢にふけることだ。いろいろなことを次々に考えては、それを主題に、頭のなかで一連の事件を組み立てるのである。そうした夢は、実際に書くよりも、幻想的でずっと心地よかった。*30

 

 ここで神田橋が空想し、物語るファントム(幻)と、小説家たちによって連綿と語られ続けてきたゴースト(亡霊)の違いははっきりしている。ファントムは取り憑かない。それはわたしたちの影のようなものだ。光とわたしたちがある限りファントムもありつづけるだろう。それは取り憑くということではない。ゴーストはそうじゃない。取り憑く。ファントムがいつ、どうやって、なぜゴーストになるのか、あるいは人間がファントムをゴーストにしてしまうのか、それはまだ俺にははっきりいうことはできない。だが次のようなことは言える。ファントムはたぶんバスターできない。だが、ゴーストはバスターできる。できそうな気がしたからこそ「ゴーストバスターズ」という言葉が生まれたんだろう。言葉というゴーストに取り憑かれてしまい、そのことに気づき、取り憑いてくる言葉を祓おうとする人々。言葉の力に自覚的であり、なおかつその力と対峙することを決めた人々。たとえばそういう小説家のことを「ゴーストバスターズ」と呼ぶんじゃないだろうか。

 

 

 ありがとう高橋源一郎

 

 

 空想の好きだったメアリー・シェリー。メアリー、あなたは本当に小説家になりたかった?

 

 

 魂をもって復刊してくれ。

*1:ルイス・カーン著、前田忠直編訳『ルイス・カーン建築論集』p13, 鹿島出版会, 2008

*2:高橋源一郎著『ゴーストバスターズ 冒険小説』pp373-374, 講談社文芸文庫, 2010

*3:よく考えると『ゴーストバスターズ 冒険小説』を書き終えた高橋源一郎がその後、タイトルモロの『あ・だ・る・と』(1999年)、田山花袋がアダルトビデオを撮り出す『日本文学盛衰史』(2001年)、「ニッポンのポルノ」と題された章のある『ゴヂラ』(2001年)、やっぱりタイトルモロの『官能小説家』(2002年)というように(文学史と)エロ方向へゴリッゴリに突っ込んでいったのは、「幽霊にはエロが効く」という、『今昔物語集』にすでに書かれているほどには伝統的な除霊の技術に則ったものといえるかもしれない。巻二十七第二十四話「人の妻、死にて後、もとの形となりて旧夫に会うこと」を読んでほしい(武石彰夫訳『全現代語訳 今昔物語集 本朝世俗篇下』pp85-90, 講談社学術文庫, 2016)。これは除霊しようと思ってセックスした話ではなく、セックスしたらうっかり除霊してしまったという話だが、除霊は除霊だ。ともかくゴーストとの戦いは長く、正体を掴む前に退却戦をしなければならない場面だってあるのだ。

*4:高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』p138, 新潮文庫, 1988

*5:『ホークライン家の怪物』は、村上春樹のモチーフにもつながりを感じる。とくに見分けがつかない二人の女(ミス・ホークラインとマジック・チャイルド)のヴィジョンはそのまま『1973年のピンボール』に出てくる名前のない双子を想起させる。『ホークライン家の怪物』の原作が1974年、藤本和子による邦訳が1975年、『1973年のピンボール』が1980年、そして『ゴーストバスターズ 冒険小説』1997年。よく言われることではあるが、ブローティガンが(おそらく藤本和子の翻訳を通じて)日本文学に与えた影響は巨大なものがある。それは少なくとも高橋源一郎と、高橋源一郎が最初にそのページ開いたとき「これ以上読んだらダメだ!」と思ってそれ以上読むのをやめた『風の歌を聴け』の作者である村上春樹、このふたりに共通する源流だった。

*6:高橋源一郎訳『ロンメル進軍 リチャード・ブローティガン詩集』pp62-63, 思潮社, 1991

*7:同上, pp38-39

*8:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp13-14, 光文社, 2010

*9:同上, p261

*10:フランケンシュタインは15歳の時期の回想として、家にたまたま来ていた優れた科学者からガルヴァーニ電流の話を聞いた話をしている。ガルヴァーニ電流の発見時期を考えれば、小説内の時代は1780年代から1790年代に限定される。ここでジュネーヴ生まれの同時代人としてジャン=ジャック・ルソーを思い出さないのは難しい。フランケンシュタインをルソーと重ね合わせてみたとき、(おそらく)多くの死体を材料に作り出された怪物は、それ自体怪物であると同時に平等からなる(材料である死体には男も女も人間も人間以外もない)民主主義そのものの具現化でもある。その怪物と「契約」を取り交わしたあとで、フランケンシュタインは「女の怪物」を作ることについての躊躇いを振り払うことができない。

 

すでにこの世に生まれた伴侶は人間のそばから姿を消すと誓い、荒野に潜んでいますが、今度の女とはまだそんな約束もしていません。思考力のある生き物として生まれて、自分の誕生以前に交わされた約束など聞き入れない可能性だって大いにあります。(メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p294, 光文社, 2010)

 

 ここにはメアリー・シェリーの母メアリ・ウルストンクラフトをその起源のひとつとするフェミニズムだけではなく、契約に関する重要な思考がある。自分の生前に結ばれた契約などというものは「思考力のある生き物」が聞き入れない可能性があるということだ。後代にヴェーバーが提起する「アンシュタルト」論のような、契約以前の所与であるかのように強制されるものとして国家や社会といった共同体を捉える見方とは逆に(所与とは時間を超えた過去のことでもある)、社会契約は現在を要求する。作者が王であるのか神であるのか最高存在であるのかは定かではない。だが「フランケンシュタイン」という特異な存在が自身の創造主に契約を迫るということは、単に父殺しの変形を意味するにとどまるわけではないだろう。人間が主権を持った人間として生まれるということは、単に人間がこの世界に生まれ落ちてくることを意味しない。小説がすぐれて近代的な文学の形式であるとことさら言うことに何か意味があるのだとしたら、そこにはすでにフランス革命以前から、ルソー以前から、ルソー的ななにものかが小説という形式のうちに告知されていたということになるのだろう。死者の一般意志が恐ろしいものであるということなのか、それとも一般意志自体が死体であるのかについてはいまだ謎に包まれている。

*11:藤本和子著『リチャード・ブローティガン』p93, 筑摩書房, 2025

*12:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p89, 光文社, 2010

*13:同上, p17

*14:これによく似た関係が、高橋源一郎の『官能小説家』にある樋口夏子(一葉)と半井桃水との間にも見出される。

*15:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』p233, 晶文社, 1975

*16:同上, p142

*17:『「女王陛下のお気に入り」監督&脚本家コンビ、ゴシック西部劇「ホークライン家の怪物」を映画化』

https://eiga.com/news/20200621/9/,2025年10月31日閲覧。

*18:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』pp103-104, 晶文社, 1975

*19:同上, p217

*20:ここでアメリカの建築家、ルイス・カーンが言った「自然のなかのいっさいの物質、つまり山、川、空気、そしてわれわれ人間も燃え尽きた光からできているということです。そしてすべての物質は使い尽くされた光です」(ルイス・カーン著、前田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』p18, 鹿島出版会, 2008)というフレーズが思い出されるが、ブローティガンは物質=光源→光の幻という形を取るのに対して、ルイス・カーンのそれは「光→物質=燃え尽きた光に投げかけられる→影=光に属するもの、光とともに現れるもの=存在」という形を取っており、対照的な違いがある。それは幻と存在の対比である。世界は光のうちに現れるが、映画は闇のうちに現れる。

*21:谷川俊太郎『世間知ラズ』pp58-59, 思潮社, 1993

*22:同上, pp62-74より一部抜粋

*23:BA-SHOやSO-RAはどうしてそうなるか、ここまで読まれた方はおわかりだろう。それはC-3POであり、R2-D2なのだ。『俳句鉄道888』は1977年に連載が開始された松本零士の漫画『銀河鉄道999』であると同時に、1977年に第一作目が公開された映画『スター・ウォーズ』でもあるのだ。

 

 光速で落下する「ヘーゲルの大論理学」の顔は宇宙戦艦ヤマト波動砲で撃ちぬかれたダース・ヴェーダのように官能的だった。(高橋源一郎著『ジョン・レノン対火星人』p67, 新潮文庫, 1988)


*24:谷川俊太郎『二十億光年の孤独』p72, 集英社, 2008

*25:俺は、歌集『これからの友情』のことを多賀さんが書くとき、ふつう作品名の表記に使われる二重鍵括弧を一度も使わないことが、これからの友情を単にひとつの作品としてしまう、いったん終わらせてしまうあり方のなかに閉じ込めようとしていないことに、その徹底ぶりにびっくりしちゃう。感動しちゃう。多賀さんって書いちゃった。アハハ!

*26:多賀盛剛さんが読む『これからの友情』  https://note.com/nanarokusha/n/n1d33d07de31c, 2025年10月22日閲覧。

*27:ルイス・カーン著、山田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』pp26-27, 鹿島出版会, 2008

*28:神田橋條治著『「現場からの治療論」という物語』p39, 岩崎学術出版社, 2006

*29:同上, p7

*30:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp7-8, 光文社, 2010

ハイデガーとSF

 マルティン・ハイデガーという哲学者がいて、どこかで「哲学は終わった」みたいなことを言って、相手に「哲学のあと何が来ますか?」って訊かれて「サイバネティクス」って答えたという話が印象に残っていて、今でもたまに思い出すことがある。

 ハイデガーが哲学だと思っていたものは「根源」について考えるような営みで、それは「ゆるぎないはじまり」を前提にしないと成り立たないことだった。ここで「サイバネティクス」というのは、あるシステムの出力が、それを出力したシステムに対して再び入力として返ってくる回路「のような」構造をとっているということで、大事なことはこのフィードバックによって回路全体の構造さえ変わってしまう可能性を持つということだ。確かにこれがやってくるとハイデガーが哲学だと思っていることはやれなくなる。なぜってもはやどんな前提も変わってしまう可能性があるからで、そうなるとどこから入っても「根源」とは言えなくなってしまう。*1

 俺は、ハイデガーという人は、最初の頃はあまりにも他人に向かって何か言いたいという気持ちが強くて、色々あって最終的に「聞くのが大事」ってことになった人だと思っていて、ハイデガーが「聞くのが大事」ってことに気づいてよかったなぁと思う。実際『存在と時間』はうるさすぎてあんまり好きじゃない。それに比べると最晩年の「物」や「建てること、住まうこと、考えること」は静かで、話を聞くようになった感じがする(「人の」話かはちょっと怪しいのだが)。ただ聞く、というのは出力ではないので、「サイバネティクス」の後にも思考がやれることとして残る、とは言えるかもしれない。しっかり受け止めることによってフィードバックの外側の声、フィードバックを超えてある永遠の声が聞こえてくるのかは定かではないけれども。

サイバネティクス」がもたらす世界観は地球に似ている。地表で今日も誰かが何かをやり、それが地表にフィードバックされて、地球はどんどん変わっていく。*2環境問題はもはや人間の視点でのみ重要な問題ではなくて、脱-人間中心主義的に捉えられるようになる。ただ「脱-人間中心主義的思考」というのは異様な字面で、人間はいまだに人間以外の知性体に出会っていない(とされている)のだから、なにをもって人間にそんなことが言えるのかと言いたくなるが、それでもやっぱりそれは可能だとされるようになったとは言えるわけで、それをもたらしたのは「技術」ということになる。

 ハイデガーにとって「技術」それ自体は(本人の好みは措いておくとして)善でも悪でもない。だが中立的なものではない。「存在」にとって「技術」は決定的な位置を占めるようになる。これは技術決定論ではない。それは「存在の真理」が明らかになっていく過程に「技術」が必然的に介在してくるということで、言い換えれば「技術」は「もたらされる何か」ではなく「もたらされる」という受動態のなかに浸透していく。

 このようにハイデガーの、「ナチズム」の技術観を理解したとき、SFについてのある定式が得られる。現代において、すべてのフィクションはSFである。厳密に言えば、言葉のいかなる意味においてもSFでないようなフィクションは存在しえない。

 しかしこんなSFの定義は、実際にSFの話をしたい人々にとってなんの役にも立たないだろう。あんまりにも広すぎる。実際20世紀のSFはアメリカ(そしてイギリス)で隆盛する。日本のSFも「ナチズム」的な技術観に立つわけではない。SFに登場する科学技術、そしてそれが存在する世界は未来的だ。しかしそれに対してそこで展開される思想に未来的なものはないといっていい。こうなるのは当然ではあって、SFは技術を仮説として利用し、それを書くのは現代の人間であり、その思想は現代(とそれまでの歴史的思想的遺産)に制約される。

 ハイデガーの「技術」は「存在の真理」と本質的な関わりを持つのであって、「未来」と本質的な関わりを持つものではない。そしてなにより「仮説」は中立的である。仮説は採用することもしないこともできるからだ。ハイデガーにとって技術は「仮説」ではありえない。ではハイデガー的SFはどこにあるのか、というと、これは定義通り、どこにでもある。というより見出されるのであって、現代を精密に描けば描くほどに、フィクションは「SF」に近づいていく。

 中立的な技術というリベラルな技術観自体が誤っているとも思わない(むしろそれは目指すべきひとつの理念であるとすらいえるかもしれない)。だが人間-技術-未来という単線的かつ静的な思考が隆盛するとき、これは図らずも媒介として人間と未来を短絡させる準-技術決定論をとることになり、*3人間観は昔ながらの主体に逆戻りする。このような図式の成立にこそ「技術」は関わるのであり、ハイデガーの「ナチズム」的SFは決して書かれることのないまま、「人間」や「世界」が静かに変動していく痕跡を描き続けている。

 

 

 

 

*1:初期の『存在と時間』でハイデガーが現存在の存在了解の話を念頭に「循環の中に正しく入っていくことが大事」的なことを言っているときの「循環」は、まだ「サイバネティクス」のように哲学に破壊的に作用するわけではない。ここでいう「循環構造」自体は静的で固定的な構造なので、それ自体を一個の安定した前提として取り扱うことができる。「サイバネティクス」は全体が動的で可変的なので、そういうわけにはいかなくなる。

*2:バタイユ「太陽」を反例に思い出す人もあるかもしれないが、太陽からの贈与という構造は(少なくとも数万年程度は)一定であろうと予想することができる。このようにして、地球は、地表で起きている物事のすべては、やっぱり「太陽からの贈与」など太陽系的制約を所与とした、大気圏下のサイバネティクスとして捉えることができる。

*3:決定論的図式」に「仮説性」が先立つためそれは純粋な技術決定論ではないのだが、「仮説性」は技術的なものの産物であるため図式全体は技術決定論の様相を呈する。このような意味で準-技術決定論と呼ぶ。美学者、批評家でありSF評論家の難波勇輝氏によれば、「SFプロトタイピング」とは「いずれ訪れるかもしれない近い未来、あるいは遠い未来からやってきた、“手触り”があって心に訴えかけるようなプロトタイプを作る実践的な手法」であり、「未来を考えてフィクションの形にし、現実をどこまで近づけたいのかバックキャストしていく。そして、今はこれができるかなと考えていく」ことを基本としている(『「SFプロトタイピング」で描く、“手触り”のある未来の価値と事業』https://dentsu-ho.com/articles/8567, 2025年7月13日閲覧)。これは一種のアブダクションを梃子として現実に接触するところまで磨き上げられた「中立的」技術観によって可能になるものであり、「SFプロトタイピング」は「準-技術決定論」の現在地を示すひとつの標識である。

平成という教室

 この世からもし「いじめ」というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います。

 

  五味太郎『大人問題』*1

 

 参政党ってなんなんだろうなと最初に思ったのはたしか2年前くらいで、梅田の大混雑する大阪富国生命ビル前交差点の真ん中で、「ひとり街宣」をやっている40代前半くらいの男性を見たときだった。「ひとり街宣」といってもとくにその人は演説してるわけでもなくて(スピーカーは足元に置いていたような気もする。止めたか休んでいたのかもしれない)、声掛けもしないまま(あるいは声がクソ小さかったのかもしれない)チラシをおずおずと前に差し出しては誰にも受け取られていなかった。完全に素人といった感じがあり、浮いてはいたが異様という風ではなかった。オレンジ色の政党シャツを着て青信号になっても歩かないことを除けば、そこを通る周りの人々にやすやす溶け込むだろうな、という人だったというのがあるだろう。いろいろと「すげーな」とは思った。一般的な政治組織なら素人に「ひとり街宣」なんてさせるか? 日中に経験者つけてやるだろ。しかしその男性はひとり黙々と立ってチラシを持った手を前後させていた。

 

 参政党の「憲法案」がひどいという話が目に入って、見るまでもなくそりゃそうだろう、現代日本にひどくない憲法を書けるだけの知性とハートのある人間なんかおらんでしょ……しかしひどくない「憲法」がありますか? 国って誰?何様? とか思いつつぼーっと「参政党 憲法」といったあたりで検索したんだろうが、「創憲チーム責任者(この字面からしてすでに凄い)」である安達悠司氏が東大寺学園を卒業して京大法学部を出た「エリート弁護士」であることが分かったり*2、やっぱり憲法草案*3がひどいなということが分かったりした。なぜひどいなと思ったのかは後に回すとして、俺が「んんー……」という気持ちになったのはその安達氏が書いた「参政党の憲法草案」という記事を見てからだった。

 

go2senkyo.com

 

 「参政党創憲チーム」は新憲法草案を作るに際し、「今までのいくつかの常識を取り払わなければ」ならなかったという。そうして出てきたのが、

 

憲法は国民の思いやアイデアを形にしたもの

②法律の専門家の難しい議論から出発するものではない

③一人一人が憲法に入れたい条文を全国の党員から集めたい

 

という3つの発想だ。俺は①に「そうかなあ」と思い、②に「その通りだ!」と思い、③に「マジで!?」と思う。そして俺は次の部分に衝撃を受ける。

 

このような発想に立って、まず10人余りのメンバーで条文アイデアを出し合い、憲法案の試作をしました(一昨年5月)。  

 

次に、全国で憲法のグループワークを開き、約1時間で憲法案をつくって模造紙で発表してもらいました(昨年1-2月)。  

 

最後に、全国の各地域(11ブロック)から半年ほどかけて憲法案をつくり発表してもらいました(昨年12月)。    

 

こうして全国から集めた多くの案から、できるだけ重なっている部分を中心に抜き出し、構成を組み立て、33か条にまとめました。*4

 

 正直、感動してしまったところがある。何に感動したといえば、人々が3年という時間をかけて一生懸命にやってきたことがわかるからであり、俺は人が一生懸命にやっていることに素朴に感動するのでやっぱり感動する。一番感動したのは「模造紙」です。すごくないですか? この記事を読むまで「模造紙」という発想は俺にはなかった。やっぱり憲法をゼロから作るならデッケエ模造紙を広げたいだろ。お高く止まった巻物やら石碑やらじゃなくてさあ!

 そして、俺がこの記事で一番「んんー……」となったのもこの引用部分ということになる。

 

 この記事は参政党についての記事ではないのでここで参政党の憲法草案のどこがひどいと思ったかを説明する。参政党は「改憲チーム」ではなく「創憲チーム」で憲法草案を作っているので、これはゼロから新しい憲法を作るということになり、すなわち新しい国を作るということになる。

 大日本帝國憲法から日本国憲法へ移り変わったとき、憲法は文体を変えた。文語体から口語体へ。新しい国は新しい言葉によって作られる(ついでにいえば、大日本帝國憲法ができたときは、近代的な「憲法」自体が新しい言葉だったんだと思う)。小説と一緒で、冒頭がダメなものは話にならない。俺はこの憲法草案を読めない。憲法としては新しい文体だという人がいるかもしれない。この草案の前文を、口語体になった日本国憲法の前文よりはるかに読みやすいと感じる人がいるかもしれない。だが俺はこれを「新しい文体」として認めることができない。秩序の「序」が変換できないのはまだいいとしよう(んあ?)。同じ前文の中に「国」と「國」の表記が並列するのは、「体」と「體」が並列するようなもので、そんなからだは分裂している。そうなってしまえば当然ひとつの「文体」にはならない。そしてこの憲法草案の中で、「國」という表記が使われるのは「國體」だけだ。

 

 なぜこんなことになるのかは想像がつくというか、草案三十三条憲法改正発議の要件が現在の日本国憲法の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」から「半数」に緩められていることからもわかるのだが、参政党は憲法を変えることを柔軟、というより簡単にしようとしている。「模造紙」が使われたグループワークで憲法草案の作成に要したのが「約1時間」であることからもそれはわかる。大事なのはこの「創憲」プロジェクトは記事にもある通り「帰納的に」なされているという点だ。

 

コンセプトが先にあったのではありません。  

 

日本人が共有したいアイデアを参政党内で出していった結果、帰納的に得られたのが、このコンセプトなのです。*5

 

 そりゃゴチャゴチャもしよう。前の引用部分も思い出してほしい。「こうして全国から集めた多くの案から、できるだけ重なっている部分を中心に抜き出し」たのがこの憲法草案である。帰納的であること自体が悪いとはいわない。もっとも民主的であるとすらいえるかもしれない。できるだけ重なっている部分を中心に抜き出すという姿勢は多数決の原理を(そしてその原理だけを)尊重しているといってもいい。*6

 

 俺は「参政党」という党名に惹かれる人間の気持ちはわかる気がする。今まで参加できなかったけれども、初めて参加できる、という感覚には浪漫(ロマン)を覚える人もいよう。本当に「参加」できなかったのか、どのような意味で「参加」できなかったのか、とかあるかも知れないが、そういうことよりも俺はこの党名を、英語名「The Party of Do it Yourself」たる党名を掲げられたとき、最初に参加するのが「政治」であればよかったのに、ということが一番哀しくなる。

 彼らはゼロから始まらなかった。「国」や「政治」や「憲法」に参加する前に、やすやすと「日本」を受け入れてしまっている。「憲法は国民の思いやアイデアを形にしたもの」という発想は、憲法の中身をどう作るかというhowという意味でいわれるのであって、whatの意味ではない。まさしくDIY的ではある。「なにを作るか」をDIYは教えてくれない。*7

 彼らは日本において極めて国家主義的であることと、その中に「DIY」のような横文字が入り込んでくることに違和感を持っていない。同様にして、同じ憲法の前文の中で「国」と「國」の表記が並列することにも違和感を持っていない。当然違和感なく「創憲チーム」と書くことができる。なぜならそれらが全部併存している日本国憲法下の日本、ことに平成の日本で彼らが育ったからで、彼らはその日本が好きだからだ。「参政党の憲法草案」の記事中に登場する「國體(こくたい)」という表記は、ウェブが登場しなければまずお目にかかることがなかっただろう。紙の本ならルビにするだろうし、こう表記するにしても全角カッコを使うだろう。

 俺が感動と同時に「んんー……」となった憲法草案の形成プロセスを読んでその光景を想像したとき、最初に思い浮かんだのは平成がもたらしたであろう教室の風景だった。ディベート、ポスターセッション、アクティブ・ラーニング……ファシリテーター(これは何?)やらグループワークといった横文字も平成の大学で徐々に現れてきていた記憶があるが、どうだろうか。参政党の主要支持層は、これら平成の「教育学的」遺産をリアルタイムで経験した世代ではなくて、もうちょっとだけ上の世代だと思うが、大事なことは彼らの「学校」経験が必ずしも楽しいものではなかった可能性が高いということで、そのことは参政党の「3つの重点政策」のド頭に「学力(テストの点数)より 学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の 高い日本人の育成」*8が置かれていることからも示唆される。「つぶれろ、駿台、」からはじまる茂木健一郎氏の名ツイートは2014年、平成26年になされている。

 

 

 テストやら詰め込みやら偏差値やらといったものが押し寄せてくる「実際の教室」での経験があまり幸福なものではなかったとして、しかし現在に至るまでの「教育学的成果」を取り入れつつ再び教室のような光景へ回帰していくというのはどういう理屈なのか。

 現在の生産年齢人口(15-64歳)は、「昭和」より「平成」を長く生きた人々によって占められている。「昭和」の人間はもはや定年退職しており、いまの日本を動かしているのは「平成」の人間たちだ。令和というのはあまり幸福な始まり方をしなかった。いきなりコロナでその次は戦争である。平成が終わったのはたかだか7年前の話だからまだ記憶が比較的鮮明であり、昔というのは幸せに見えがちなものだ。こうして平成は良き時代となる。

 オリコンチャートが無意味化していったこと、紅白歌合戦の視聴率がひたすらに低下していったこと、SMAPが解散したこと、などなど……平成を通じて日本人が共有するイメージは次々に衰弱へ向かっていった。こうやって共有イメージを剥ぎ取っていった場合、現代の日本で最後に残りうる具体的な共有イメージというのは、義務教育期間の学校、その記憶しかなくなる。実際の学校の思い出は大していいものではないが、学校という制度  多くの子供が最初に意識的に出くわすことになる、国家による構造的暴力  自体は嫌いにはなれない。「教室」に戻れば、みんながいる気がする。教育が「3つの重点政策」の冒頭に置かれる理由は過去の点数的な劣等感だけではないと思う。

 

 俺はいまだに平成という時代に思い入れを持てない。リアルタイムでも同時代の文化にはほとんど関心を持てなかった。でも平成について一番「あーあ」と思ったのは平成が終わったあと、令和になってからのことで、旧弊を「昭和の価値観」と平然と書く人間が大量に発生するのを見たときだ。あれ、平成ってありませんでしたっけ? まるで昭和と令和が直結してるみたいな言いようですけど、30年くらい間にありませんでしたっけ? なんで平成のうちになんとかしなかったんですか? と思った。平成は昭和という過去に対してまったく無力であり、責任能力を欠いているかのようだった。

 実際には平成という時代にはとんでもないことがたくさん起こったし、何も試みられなかったわけではない。だが平成が振り返られるとき、その卑小な、幼稚な側面は今に至るまで見て見ぬふりがなされ続けている。「昭和の価値観」といって過去の「ひどさ」を一足先に退場した「昭和」へ押し付けるかと思えば、「平成レトロ」とかいって過去の「美しさ」においては「昭和」に追随しようという、圧倒的な節操のなさを発揮する「平成」。この「平成」の精神は歴史修正主義という点で参政党と同一のものを持っているし、参政党の(歴史)教育に対する愛憎のありようと、平成の昭和に対するそれは「真正面から戦っても勝てないので、相手とまともに向き合うことを避ける」という卑小さにおいて共通している。まあ同じことから「とらわれなさ」とか「身軽さ」とか「細かいことは気にしない」とか「どんな手を使っても勝つ」とか「一発逆転」とか「下剋上」とか出てくるのかもしれないので人によっちゃ好きなんだろうけど。

 参政党とは令和になってから「昭和の価値観」とのたまうような「平成」によって生み出されたものだ。「平成の価値観」(そんなものがあったとしてだが)を振り返る素振りもなしに日夜大騒ぎがなされているのを見ると、この日本はまさに今「平成」によって作られているんだなあと俺は思うんだが、どうなんでしょう。*9

 

補足1日本国憲法は奇妙な憲法ではある。日本国憲法は日本人だけで作った、というのは正しくないが、GHQだけで作ったというのも正しくない。参政党の憲法草案は3年かかっているのに対し日本国憲法終戦から1年で公布までいっておりそれであのクオリティなのでイカれているのでは? と思ったが、憲法を作るってことは時間や人数の問題じゃないのかもしれない。ベアテ・シロタ・ゴードンという人がいて、人権、とくに女性の権利について憲法草案に入れようとして、ある程度条文に残ったけど(24条や14条)、ほとんどは通らなかった。彼女は法律の専門家ではなくて、それでもいろんな国の憲法の条文を集めたりして、いい憲法を作ろうとした。凄まじい短期間で。

 

ベアテ 聞きたい? 私が土井先生と一緒にイベントに出演した時のことです。私は「土井先生、あなたと同じイベントに出るのは私はとっても恥ずかしいです。だって、あなたは憲法の研究者で、Professorです。私は本当に法律の素人です。本当に素人なんです」って言いました。  

伊藤 確かにそうですけど、そこまで恥ずかしがらなくても(笑)。  

ベアテ 「私は弁護士じゃないですから」とも言ったんです。そうしたら土井先生が言ったのは「あなたが弁護士じゃなかったから、こういう“女性の権利”について書くことができたんだと思います。もし弁護士だったら、たった9日間でこういうものは書けない。“この意味はこうで”とか、“この権利はどうでしょうかね”とか言って、とても大騒ぎになって書けなかったと思う。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった」と言ってくれました。土井先生の指摘は、本当にそうだと思ってます。*10

 

 日本国憲法は日本人が作ったともGHQが作ったとも言い切れないけど、人間が作った憲法であることは間違いなくて、それはたぶん良いことだった。それもあって俺は憲法を改正したり新しく創ったりするときには外国人にも参加してもらったほうがいいんじゃあねえかとか考えたことがあるんだけど、多分これはそういう制度的に上手くやれるようなことじゃなくて、日本国憲法に再現性はないのかもしれない。

 

補足2:青春を国家へ直結させようとするありようは「ロマン主義」とか「浪漫主義」とか呼ばれていて、基本的にロクでもない。「令和ロマン」という名前のお笑いコンビがM-1で勝ち上がったと聞いたとき、令和ってロクでもない時代になるんだろうな、と思った。

 

 

*1:五味太郎『大人問題』p62, 講談社文庫, 2001

*2:https://go2senkyo.com/seijika/184681, 2025年7月9日閲覧。

*3:https://sanseito.jp/new_japanese_constitution/, 2025年7月9日

*4:https://go2senkyo.com/seijika/184681/posts/1109193, 2025年7月9日閲覧。

*5:同上, 2025年7月9日閲覧。

*6:マチュア性を最大限に活かそうとするシステムによって提出された参政党の憲法草案が人権を軽視しているという事実は、思いがけず国家と人権の関係の核心を照らすことになる。居住・移転の自由は、封建制を解体し近代化を達成するうえで必須となった極めて重要な権利であるはずだが、「国境」はこの権利をあからさまに侵害する。すなわち、国家はその存在そのものが重要な基本的人権を構造的に侵害するようにできている。国家と人権の関係は容易に融和しえないものであって、「日本」ひいては「国家」を好むであろう参政党の構成員たちが「みんなで」つくった憲法草案において、このように人権が無下にされるということはさほど不思議なことではない。

*7:同じようなことを俺は「チームみらい」にも感じている。ホームページを見れば一番最初に「チームみらいは、 未来のために手を動かす "実践型"の新党です」(https://team-mir.ai/#about, 2025年7月9日閲覧。)とあって、やっぱり手を動かすのだった。彼らは「日本」のかわりに「技術」を受け入れたのであって、オープンであり、帰納的である。チームみらいの党員や支持者がSF好きなのかは知らないが、SFは「テクノロジーが未来を変える」ことではなく「テクノロジーによって変わった未来」や「テクノロジーが未来を変えてしまう」ことを書いてきたのではなかったのか。「テクノロジーによって変わった未来」ではテクノロジーは背景であり、「テクノロジーが未来を変えてしまう」ではテクノロジーに相対する人間が書かれるということになるはずで、いずれにせよ技術は主体ではありえない。SFを読んでここにテクノロジーがある! ってなりますか? そこにあるのはフィクションであり、抒情であり、思想であったと思うのだが。「テクノロジー未来を変える」ではなく「テクノロジー未来を変える」と書かれた段階で、政治そして政治以上のものが放棄されるであろうということが示唆されるわけだが、実際俺には、howだけがある空虚なシステムへ「過去」を流し込むのが参政党であり、「未来」を流し込むのがチームみらいであるとしか思えない。本文より先に書いてしまうが、俺はどちらも平成の産物だと思う。平成から令和にかけて、自動車メーカーの不正、ジェネリック薬品の品質不正、ロボット産業の衰退(ASIMOなんてあったのにね)、カリフォルニアの連中による新興基幹産業の世界覇権の樹立といったことがあり、日本の「技術立国」という自画像は誰の目にも疑わしくなっていった。こうして「技術」の衰退が決定的となった頃合いになって「技術」を全面に押し出す「だけ」の「政治思想」を掲げるテクノクラート予備軍たちがあらわれるという哀しさは、政府が備蓄米を放出するところまできたこの時節に、憲法草案の前文冒頭を「日本は、稲穂の実る豊かな風土に、」などという噴飯もののファンタジーから始められてしまう参政党の哀しさと通じ合う。彼らは密閉された平成という教室の中で夢を見続けている少年のようなものだ。平成は素人の思いつきを愛する。

*8:https://sanseito.jp/political_measures/, 2025年7月10日閲覧。

*9:どうして「昭和の価値観」などという言い方が可能な精神になったのかという理由を因果的に特定することはもちろんできないが、平成という元号が被った事態は振り返ってみてもいいかもしれない。1989年に昭和天皇崩御し平成元年となるが、この日本史的事件の2年後、1991年にソ連崩壊という世界史的事件が起こる。21世紀も始まるし、このまま西暦=世界史的な時間が優勢になって元号とかどんどん影薄くなっていくんだろうな〜と思ったら、史上最初の、即位してからずっと象徴天皇制天皇だった平成天皇という人が上手い人で、最後の最後、いわゆる「『お気持ち』表明」によって急に元号(そして天皇)の存在感が回復した。ソ連崩壊クラスの世界史的事件はそうそう起こらないので、2019年、平成から令和に変わるという日本史的事件はそのまま区切りとしてはっきりした。(後からわかることだが)同じ年からコロナが中国で流行り始めたというのも、「日本史」と「世界史」が2年ズレた平成の頭と対照的だ。平成は「頭がぼんやりしていてケツがはっきりしている」ところがある。まあこれは振り返って30年ちょいもあったらどんな元号にしてもそうなるのかもしれないが。

*10:http://www.shinyawatanabe.net/atomicsunshine/BeateSirotaGordon/interview#part2, 2025年7月11日閲覧