第4回阿波しらさぎ文学賞落選作と雑記

 特に使い回す可能性もないが他に出すところもないし、かといって仕舞ったままにしておくには個人的に惜しいという温度感のあったタイトル通りの応募作品について、全文を掲載した後、雑記が載ります。

 

『遊弋』伊東黒雲(15枚)

 

 ちょっと出てくるわ―んー海まで散歩―うんあー了解了解ってキラリのママチャリ乗って線路沿いにキコキコ鳴らしてたらすぐJR須磨駅に着いたんだけどもう日は沈みかけてたから砂浜を縫っている赤レンガの舗装がちょっと不気味な質感でというか寒い! 七月中旬だぞまだ気まぐれなのかよ。微風でも半袖の腕にはしりしりくる。押してくかー自転車で潮風をカバーできるしってまあ無理だけどこういうのは気持ちの問題だからって俺は水族園の方に歩き出す。散歩ってしようと思ってするというより身体が玄関の方に引っ張られててそれに気づくとああ俺散歩したいんだってなるんじゃないか。目的がないことを目的にしてる行動というかああでもお使い頼まれちゃったなビールかーマックスバリュは遠回りだなーまあ運動と思えばいっか。あるやつ適当に選んであ、でもまだ俺散歩感感じてるな。買い物感はない。「ついでに」をつけると主目的を乗っ取らずにお願いできるわけだな策士キラリめって水族園が遠い。やー気づいてるんだよ。水族園が遠いんじゃなくて俺が進んでない。海にくると嫌でも明石海峡大橋が目に入る。観念すっかーって俺は踵を返す。そういやカネダ死んだってツイッターで誰か呟いてたなユキノだっだっけか? 三〇過ぎたら知り合いも少しは死ぬだろうなとは思ってたけどこれでオケの同期二人目か。ハヤサカは自殺でカネダは病死。二人ともそんなに仲良くならなかったせいだと思うけどしょうがねえよなそういうこともあるよな色々あるしなくらいで考えが続かなくなるのは年齢のせいって部分も確実にある。留年してた頃は自分の年齢なんか忘れてたのにスゲー色々悩んで考えてた気がする。今とは逆だな。戻りたいかって言われたら別にって感じだけどてかいま親父何歳なんだっけっていよいよ俺は親父のことを考え出し足が重くなる。しょうがないから砂浜に自転車を置いて俺は波打ち際に腰を下ろす。もう死ね親父みたいな勢いはなくなったけどやっぱ帰省は毎年気が重かったのが去年は世のゴタゴタで帰省しなくていい雰囲気になってホッとしたし今年もどうやらそうなりそうでますますホッとしてるはずなんだけどキラリもコースケも割と残念そうでホッの上前歯裏の付け根あたりがもよもよしてくる。いや鳴門だぞド田舎だぞそんな楽しみか?って俺は思うけどキラリもコースケも東京生まれ都会育ちだから目に映る世界が俺とは違うのかもしれない。毎年手渡しで貰ってたすだちは去年から宅配便で送られてきていて今年の分も既に冷蔵庫に入っている。アレをみるとイラッとするのは今も治らないけどキラリとコースケがワイワイしながらざるうどんにすだち絞りまくってるのを見ると顔に出すのは良くないからきゅいって笑顔に持っていく。多分今年もあの橋を渡ることはないんだろう。あー綺麗に光ってんのが余計くるな。奥さんに逃げられた親父はあの橋が完成する前に俺を連れて瀬戸内海を渡ったらしいけど詳しいことは特に聞きたくないで済ませてきたから知らないし当時は三歳だったから記憶もないけど確か大鳴門橋はもうあったはず。親父は鳴門高校近くに小さな庭付きの一軒家を借り俺より育てたいんじゃないかってくらい庭にすだちを繁茂させて無口だった。休みの日にはよく千畳敷の展望台まで俺を連れて行ってぼけーっと淡路島の方を見たりしてて俺は会ったことねーけど母さんのとこ戻りたいならはっきりしろよって思うようになった頃あの明石海峡大橋ができて絶対に親父が逃げ出した東京にダッシュ! ってメラメラ燃えていたけど親父は国立じゃないとダメだとかぬかすのでマジで厳しく行けたのは結局名古屋。でも良かった。都会で鳴門が遠けりゃどこでも良かった。夜行バスでバイバイしてこんなとこには二度と戻らんぞクソボケと思ったあの座席はまー狭くて全てが硬かったけど最高だった。それから爆速で名古屋に飽きて授業も特に興味湧かなくてばんばか留年してチャイ五とかハルサイとかめちゃくちゃ練習した。一番楽しかったのはシェーンベルクの室内交響曲第一番。なんであんなプログラムが通ったんだよ。メインはブラ四だったけど釣り合い取れてるか? ってやってたら当然帰省なんてしないしそもそも俺の生まれは巣鴨のはずで俺は東京に帰るべきなのになんで親父は鳴門にいるんだってどうしようもないことにムカムカしていた気はするけど本当かどうかはもう渦の底。大学四年目まではまだ殺意があったはずだけど留年し始めてからはやけに細かい「哲学」的な問題に凝り始めてそのくせ後から振り返ると思考の記憶が曖昧に溶けていて何やってたんだか完全に分からないという風になっている。あまりに典型的で寒かったなーあの頃はうわー「あの頃は」なんて考えてるよもう老だな三三ってもうそんな感じなのかどうなんだろう大人になるって全く想像も実感もできないままなんだけど俺ヤバイのかな? まあ学部七年も行った奴は普通にヤバいかー七年目でようやく卒業と就職が決まって一応連絡したら親父はおめでとう良く頑張った一度帰ってきて呑まないかとか言ってていや絶対お前とは呑まんがって頭がカッとなったけど今考えるとカッてなりたいなるべきだって感情させてたような気がしなくもないっていうのはいくら留年しても親父が特に俺を叱らないどころか最初に留年した時俺も八年行ったからなとか衝撃の告白までしてきて頭の中がもんじゃみたいになったそりゃなるよずっと無口でいりゃいいのに口を開けば常識を盾にか弱い子供を激詰めしてきやがってお前もレール外れてんじゃねえかよって思ったのは些事でもう意地張んなくて良いんじゃね? っていう考えがあのあたりで生まれた気がするせいでもう長い間親父と俺の一部が結託して俺を負かそうとしてくる卑怯すぎるしでも二対一じゃ勝てないから希望に目を輝かせているフリして追い立てられるように東京で働き始める頃にはもう名古屋で都会への憧れなんか擦り減ってしまっていたからHPMP共に削れた状態で労働にブン回されてノックダウンしてもっと友達を大事にすべきだったなーってすごい思ったんだよなだって都会って結局趣味や気の合う奴が身近にいるから色々楽しめるみたいなことばかりでモノが好きなだけなら通販とかだけで良くて釧路だろうが舞鶴だろうが北九州だろうが一緒だろあー寂しい寂しい寂しい! ってマッチングアプリ始めて出会ったのがキラリでキラリは本当に優秀で俺より年下なのに年収が三倍違った上に二歳のコースケの育児放棄し浮気までした夫をすっぱり切ってガッツリ慰謝料も取って本当にちゃんとしている自分と真逆の俺のどこが良かったのか今でもはっきりとは分からないんだけどキラリに言わせると前の夫と真逆な感じだし一緒にいて息がしやすいらしいけどそんな簡単な感じで良いのか良いよーってことで結婚した。流石に報告しなきゃいかんだろと思って親父のとこ行ったらまあ嬉しそうだしそれはそれはよく喋る。孫に血の繋がりがないとか全然気にしてなさそうな皺の目立ち始めた笑顔でコースケーおじいちゃんと一緒に橋見に行かんかーとか言うしその勢いそのまま俺にまで話しかけてくるから俺は記憶の中の親父みたいにどんどん無口になっていくし普通にこの部屋から出てーと思ったけど庭のすだちが相変わらず元気いっぱいでげんなりするからどうしようもないってタイミングで何で縁もゆかりもない鳴門なんかに引っ越したんだよ親父って聞くべきだった気がするけど今の今まで聞けてない。そういや未だに再婚してないな親父ってロマンチストなのかはともかくロマンとは違う感じで結婚した俺がママチャリのチャイルドシートにコースケを乗せて走ったことは一度もなくて出会った時にコースケはもう小学一年生だったからもう一人で乗れたあのかわいいサイズの自転車とママチャリ連れてキラリの仕事の都合で俺達は神戸に引っ越して俺はのんべんだらりと自宅でWebデザインの受注しているがこう振り返ってみると親父からできるだけ離れてはみたけど結局引き摺り込まれるように鳴門に近づいているんだよなーって電話が「今どこー?」「海きてるよ」「良かったー。ちょっと今手が離せないから駅にコースケ迎えに行ってくれる? そろそろ着くから」「オッケー」ということでジーンズの砂払い落して須磨駅に向かうとコースケはもう北口の外に立ってて英単語帳をぱらぱらめくっている。コースケ、と発音する直前は未だに気道が一瞬細くなる気がする。「お疲れ」「うん」「今日は何やったんだ」「線形代数」「そんな難しいことやってるんだな」「お父さん、母さんから聞いてないの?塾がプログラミングとかAIとか大事っていうから教えてくれるんだよ。まあやってることは行列の足し算引き算みたいな簡単なことばっかだけど」いや知ってるけど改めてヤバすぎるだろまだ小四だぞというか話すたびに思うがコースケしっかりしすぎてて怖いって別にキラリは母さんで俺がお父さんって部分は逆に年齢相応でちょっとかわいいとさえ思うし俺がいきなりコースケお前は確かに最初は「ついでに」だったかもしれないけど今はそんなことないしというか別に今も「ついでに」だったとしてそもそも人生に意味なんかないしでも意味がないからこそ散歩と同じような良さがあるわけだからさお前も俺を軽い「ついでに」だと思って一緒にもっと楽しく仲良くやっていこうよついでに俺を「お」を付けずに呼んでくれよコースケって言い出すの異様すぎるから当然そんなことしないけど俺小四の時ってどんなんだったっけ? 少なくとも勉強はしてなくてヴァイオリン弾いて本読んで寝だった気がするがコースケは俺のヴァイオリンや本を触る上にガンガン勉強するので小四俺の完全上位互換でノックアウトだがママチャリ押してコースケと並んでマックスバリュに向かって歩く三三の俺がぶっ倒れるとコースケが困るしママチャリのライトはちゃんとつけてる。あああコースケ後ろに乗るかーって言ってみようかなでも絶対恥ずかしいだろコースケもってかチャイルドシート使ってなさすぎて汚れまくりだし純粋に嫌だろうなーでもまた三年後くらいには使うことになりそうだしいつかは綺麗にしなくちゃなー何が要るんだろう古雑巾と洗剤とついでにチェーンも綺麗にしたほうが良いよな異音が凄いしってこれはコースケから逃げてるのか? もっと俺から話しかけた方が良いのか? っていっつも思ってるな結局俺もコースケから見たら無口な父親なのかもなー意識して軽い感じで話しかけているつもりではあるんだけど結局俺は親父の息子かー「お父さん、帰らないの? 家から離れてるけど」「ん、ああ、母さんにビール買ってこいって頼まれたんだよ。マックスバリュまで行こうかと思って」「そんな遠くまで行くの? この辺コンビニあるよ」そうなんだよな。家を出た時は気の済むまでぶらぶらしようと思ってたけど今はお前がいるからなコースケお前が正しいよ。ほんとに。「なあ、コースケ。父さんは」「ん?」「いや、何でもないよ」ってセブンイレブンにきた。そしたら思わず手に取ってしまったビールがあってその理由が澄んでさらさらした琥珀色のせいか産地のせいか分からない。メキシコかーメキシコまで行ってたら渦から逃げ切れたんだろうかっていうのは郷愁で実際のところ今はそこまで逃げたいわけじゃないし逃げちゃいけない理由もあるし第一メキシコも俺の玩具じゃない。なあコースケもし弟か妹ができたらお前はもう一生俺を「お」なしで呼べなくなるのかって一旦考え始めてしまうとキツくなってコースケ欲しいものあるかって聞くと「サクレが食べたい」ってメチャ素直に言うので嬉しくて俺とキラリの分も買ってしまう。自然と足が速くなる。「食べていいよ。溶けるだろ」「行儀悪いよ」「それが良いんだよ」「えー」「四時間も塾いて何も食ってないんだろ。おなか減ってんじゃないか?」「んー」あれ、俺今結構喋ってないか? 何も考えてねーぞ。「今アイス食べたらご飯おいしくなくなるよ」「お? 母さんの晩ごはんがアイスに負けるというのかねコースケ―」「そんなんじゃないよ」「じゃあいいじゃん」「でもお父さん両手塞がってるし」「いい、いい。大人はビールを飲んでからアイスを食べるって贅沢があるから」「なんかそれ、ズルい感じがする」「そうだコースケ。大人はズルいぞー」って言ってたらコースケは観念してビニール袋からサクレを取りだした。幸いまだあまり溶けてなかったらしい。「やっぱ行儀悪いよ」「はは」「はい、お父さんの分」って小っちゃいコースケが背伸びして木匙に乗せた甘酸っぱい欠片を差し出してきて俺の知らない俺のどこかで「どう」「旨すぎる」「味、違う?」「違うね」「分かんないなあ」壊血病に罹った忘却たちの船団が難破すべき瞬間を探して「今度友達とやりなよ。メッチャ楽しいからさ」「買い食いなんて先生に怒られるよ」ある小舟が橋脚に接触して砕けた船体から零れ落ちるそれたちは例えば「バレないさ」「バレるバレないとかじゃないよ」(小四の時近所に生えてたすだちを他人んちのものとは思わずにどっさり取ってその家の人から親父がメタクソに怒られて)「先生に叱られたことないのか」「そりゃそうだよ。怒られるようなことしてないし」(親父がすだちを庭に植え始めたのはそのあたりからだった気もする)として裂け水中花火みたいにきらめいた後海峡に眠り落ちていって交差するように浮上する「コースケは真面目だなあ。疲れたりしないのか」「お父さんほど真面目じゃないよ」俺が取り下げた質問に対して思いがけずコースケが口にした答えを何度も聴き取り反芻しながら家に着くと「おかえりー」「ただいま」「ただいまー。ほい、これビール」「あ、コロナじゃん」「コンビニに売ってるの珍しくてさ。あとアイスも買ってきた。コースケはさっき食べた」「えー、家で一緒に食べれば良かったじゃん」あーやっちゃったと思ってコースケの方見ると何故かニヤついてやがる「コースケ、お母さんの分いるー?」「いい、ごはんでおなかいっぱいになるし」「そう?欲しくなったら分けたげる。あ、ライムないじゃん」「確かすだちあっただろ。あれでいいよ」「えー、合うかなあ」「まあ物は試しよ」と俺はタッパーの中から一粒摘んでパパッと切って絞っては瓶の中に詰めてたら三切れで限界がきてどれどれーって青苦あああっっっ!!! やっぱコロナビールにはライムだよライム。

(了)

 

雑記

 今回の公募結果については、何らかのアナウンスが出るまで珍しくじりじりと緊張していた。普段は公募の結果が出る時期など忘れてしまうのだが、これは割合自信作だったからなのだろう、と最初は思っていたが、どうもそうではなく(毎回自分史上最も良い出来と言いたいものだ)、単純に〆切から発表までの期間が短かったがために発表期日を意識してしまった、というのがより真相に近い感じはする。あと最近個人的に設定している、あるいは正式に抱えている〆切がまだ先なため、ダラダラしていたのが効いた。これは一般論ではなく個人的な話なのだが、シャキッとしていないと心身が淀んでくる。落選を知った後、(大したものではないが)筋トレの負荷を上げた。

 

 唐突に新人賞をどういう機能として見るかという話をするが、基本的に新人賞は(小説に絞って話をするが別に何でも良い)小説家として一般的に認知されていない人間の文章の中から比較的優れた小説を選別する機能を持つと考えることができる。ここで大事なのはその文章が確かに中立的立場の人間によって小説として認識されているということで、早い話、新人賞は「小説とは何か/何でないか」という問いについてある程度中立性をもった実験として捉えることができる。

 既に小説家として一般的に認知されている人間の出した文章は、何かジャンルを指定するような惹句でもなければ(あるいは逆にあることによって。例:「これは小説なのか!?」は大抵の場合、惹句の対象がメタ小説的機能を持った小説であると主張している)、内容を確認される以前に小説としてある程度先入見が発生してしまう。そしてそれが覆ることはまずない。

 ところが新人賞の場合、「文章になっていない」「これは小説というより現代詩」など、必ずしも文章が読者にきちんと小説として認識されるわけではないと考えられる。新人賞というシステムこそまだ小説家として認知されていない人間にのみ利用可能な実験装置であると言える。ただこの実験装置は、n次選考を通過したり受賞したりした場合には上記の意味を解釈として適用することが出来るが、1次選考で落ちている場合や結果が公表されるラインに到達できていなかった場合には、全作品に講評がつくような特殊な例外を除けば、その結果の意味を解釈することができない。

 

 今回私は「上の空」で行動している人間が意識と無意識の間で行っている思考とも思考でないとも言えないものを言語化しようと試みた。これには数年前に池澤夏樹個人編集=世界文学全集所収『アブサロム・アブサロム!』を最初の十数ページ読んで挫折した(そして今に至るまでフォークナーを読めていない)という経験、そしてその後にヴァージニア・ウルフの『波』は読めたのにこの差は何であろうか?というのがおそらくどこかで燻っていたのだと推測される。

 まず敵は改行であった。改行は意識的な行為であり、主に意味の大まかなまとまりを形成しかつ切断する。今回の場合主人公は明確な輪郭を持った考え事をしているわけではないため、改行を使うだけで不自然になる。そのため改行は使えなかった(余談になるが、改行をほとんど用いない小説となると横光利一の『機械』が当然のように思い浮かぶが、私は創作に入る近い時間に摂取したものにすぐ影響される性質なので執筆前に当該作品を読むのを避けた)。

 次に句点をできるだけ避ける必要があった。句点も同じように意識的な行為である。段落よりも微小な区切りであり、私にもっと実力があれば句点は最後の一つだけになるまで圧縮するべきだったと思われるがその実力はなかった。そのために接続詞や読点の数を操作し、出来るだけ一文を長くし、一文中における、類似による併置に限定されない意味の密度を出来るだけ上げる必要があった。

 読み返して分かったことだが、「けれども」や「だが」といった逆接はかなり主観的な強度が強いものであり(おそらく接続詞の手前に対する操作的な意味合いが含まれるところが順接よりも強度が強い理由である)、主体的に思考の流れをコントロールしきれていないという状況を表現するにはあまり適切ではないということが分かった。これはもっとよく考えるべきだったポイントだったと今にして思う。この主人公の場合「けど」は流れるように処理されているのだが、物質的な表れとしてこの小説の文字の流れを見た場合、この主人公がどういった位相でこの「思考」を行っているのかが不明確になるように感じた。

 
 この小説を書いていく中で気づいた非文化、というか文の骨組みを完結させず破壊するという方向性は今後も有効な使い道を探るに値する技術のように感じている。

 
 改行がなく一文も長い文章を普通の人間は読むことに耐えられないため、文章の速度を上げる必要があった。対策の一つとして、小説の意味内容としての物語を、意味を受容するためのコストが低い凡庸で分かりやすいものにすることにしたが、これが正しい選択だったかは分からない。自分の実力に不安があったというのが第一だが、形式的にかなり壊れているのにさらに内容も壊すとなると単なる異常な文章の羅列にしか見られないという事態を恐れたというのが正直なところである。だがこの決断は明らかに守備的であり、もっと適切な舞台を設定すればこの形式が活きたような気はしないでもない。

 

 作中、会話の途中に主人公の思考のようなものが混ざるのは主人公と息子がアイスを分けあうシーンのみだが(会話しながら別の行為を行うことはできるが、会話しながら全く別のことを純粋に思考することは恐らく出来ない)、ここでは主人公には全く意識できない無意識の領域を書くことを試みた。無意識が言語のように構造化されているのかは知らないが、ここで私が取り出したのは記憶と思考を曖昧に取り纏めたイメージであり、現代詩をやろうとしたわけではないのだが読み返してみてもここはやはり浮いていると言わざるを得ない。端的に実力不足というものであろう。

 

 この節は雑記であるため、まとめは特に存在しない。

 

『サイダーのように言葉が湧き上がる』メモ 書くこと・話すこと・伝えることの場所

 なぜチェリーは予定日の一カ月も前から引っ越しの準備を始めるのか。

 それはチェリーにとってこの街がうるさいからだ。

 

何がメディアにそうさせるか

 『サイダーのように言葉が湧き上がる』の中では複数のメディアが絡み合っている。メディアはコミュニケーションの技術であり、記憶する媒体であり、またそれ自身伝達されるべき意味を持つメタ・メディアでもある。書くこと・話すこと・伝えることは何らかの物質的な基盤を必要とする。ケータイ、筆ペン、短冊、レコード、そして声帯。

 

 高校生のチェリーは特に何かを聴くこともなくヘッドフォンをつけている。音を遮断することは一つのコミュニケーションを遮断することであるが、彼自身は話す。同様に、スマイルもかつてはチャームポイントであった出っ歯にコンプレックスを抱き、マスクをしているが、視覚的なコンプレックスでありながら彼女もまた配信をしている(キュリオシティのデザインはテキストベースはツイッター、ライブはインスタグラムに依拠しているがこれは20代の筆者にとってはかなり適切な若年層のSNS環境の表現になっていると感じられる。ツイッターは確かにもう古びているのだが、テキストベースのSNSで若年層に人気のSNSというのはツイッター以降聞いたことがない)。

 

 ラテンアメリカ系で日本語は話せるが書くのは不得手というビーバーによる、ちょっと現実的には不可能ではないかというタギングがなされたチェリーの住む集合住宅は静かである。父親が帰宅し、金属製の扉を閉めるときに響く質量と静寂は、スマイル三姉妹の住む、まるであのショッピングモール(そう、ショッピングモールには全てがある)のように過剰な一軒家の軽さと無秩序とは対称的だ。母親のぎっくり腰により、デイサービスのバイトのピンチヒッターとなっているチェリーは、淡々と、父親の話に相槌を打ち、淡々と引っ越し準備を進める。母親は息子の俳句を「いいね」しまくり、「どうせわたしにぐらいしか読まれてないんでしょー」といったことを特に悪気もなく言う。室内にテントを擁する一軒家では、凄まじい単位の視聴者を抱えたスマイルが逡巡の末マスクをし、ショッピングモールで「かわいい」を配信する(マスクの時代になってから、私は笑顔に関する情報を明らかに視覚よりも聴覚によって得ようとするようになっているが、みなさんはどうだろうか)。チェリーの家の雰囲気にはまだイエ的な父親と母親の役割を匂わせるところがあるが、「I♡ODA」(だったっけ?)などと書かれたTシャツを父親が着るスマイル一家にはあまりその匂いはない。

 

 この対称性と類似性を抱える二人を初めてつないだのがケータイというメディアであった。『コマンド―』ばりのショッピングモールド派手アクションをビーバーが繰り広げた結果、チェリーとスマイルのケータイが入れ替わってしまう。スマイルにとってケータイは「ないと死ぬ」ものであり、チェリーにとっては「別にどこにいても一緒」であることを担保する装置としてある(父親から貰った歳時記はケータイのカバーに取りつけられている)。ここで話は急に結末へ飛んでしまうのだが、最後まで特にチェリーの俳句がバズることはなく、小田山だるままつりの最後、大量の視聴者を抱えた配信中のスマホをスマイルが取り落とし、ほとんどの客が花火を見る中、チェリーによる「配信」のたった一人の視聴者となるシーンは、ベタなのかもしれないが感動した。単にSNSを称揚するのでもクサすのでもない(スマイルの配信がなければチェリーはショッピングモールに現れえなかったのだから)、良いSNSの使い方だったと思う。

 

 人前で話すとあがってしまい言葉につまってしまうチェリーはなぜ櫓の上でマイクを握り締め、しまいには俳句としての体裁を崩壊させるようなところまで絶叫しえたのか。ビーバーの良き誤読の一つである「俳句」と「ライム」の取り違えが櫓への運命を用意していることは確かだが、まずもってフジヤマさんという最高の老人の存在が大きい。

 

 フジヤマさんは、ほとんどの登場人物が渾名や名前で呼ばれる中、苗字で現れる数少ない人物である。苗字とは歴史であり、後述するが、フジヤマさんは作中での「垂直的なもの」を体現している。

 

 作中屈指のシークエンスである、デイサービスでのショッピングモール行脚と俳句発表会は、フジヤマさんが何者であるかを雄弁に物語る。「俳句は文字の芸術なんだから別に声に出して読まなくても」というチェリーに対し、「声に出すことで伝わることもあるのではないか」という講師の仄めかしは物語全体の大きな推進力としてある(もしチェリーが一切口に出すこともせずにただキュリオシティに俳句を書くだけであったなら、日本語の文字に弱いビーバーが日本語の勉強と称してチェリーの俳句をタギングすることはなかっただろう)。水平に移動する客たちをバックに講評が続き、絞り出すようにチェリーは自分の俳句を声に出す。そしてフジヤマさんは、講師がその名を呼ぶ前に絶叫する。

 

 この時点で、フジヤマさんが単に耳が遠かったり、なまじボケているのでは?というだけの人間でないことが分かってくる。他のデイサービスの面々が作った俳句が観察と抒情による静的なものだとすれば、フジヤマさんの俳句は動的であり、そこには志向性がある。実際この時はチェリーと講師の関係を誤解した三姉妹を指さしており、最後の最後でもその俳句は明らかにチェリーを狙い撃ちするものであった(スムースなマイクの受け渡し!)。また後述するつもりのことを先取りしてしまうが(構成がヘタクソで悲しい)、フジヤマさんの声は水平に沁み渡るように伝播するものではない。垂直に屹立している。序盤からしばしばフジヤマさんが発する唸り声、あれはボケでも耳が遠いのでもなく、チェリーが「これなら言葉にできる気がする」と言うところの形式である俳句、その俳句にまだ分化していく前の、原初的な声ではないだろうか。チェリーが俳句を作る過程で唸り声を発しないのは普通といえば普通だが、面白い。例外は初めてスマイルと並んで歩いている時、スマイルに無茶ぶりをされた時ぐらいだ。おそらくSNSという言語の水平な伝播を中心とするメディアへの書き込みという形で俳句制作を規定されていたチェリーには、垂直的な孤立した声というのは似合わないのだ。祭りの場所でようやくチェリーは、フジヤマさんのような、垂直的な声で叫ぶのである。青春の志向性を伴って。

 

 そのフジヤマさんが探し続けていたのがレコードである。声という生きたメディアを半永久的にするものがレコードであるが、ここではビーバーとジャパン(このあだ名はジャパンの趣味を考えるとビーバーが付けたのではないかと思われる)の、アニメキャラの全身が印刷されたボードを巡るやりとりがよく活きていたと言うにとどめたい。ド迫力アクションの結果首がちぎれたボードに対し、「からだもあるし」「そういうことじゃないんだよ!」というやりとりは、全体性として初めて現れるものがその全体性を毀損されるということは取り返しのつかないことであることを示唆していたが、レコードもまさにそういったメディアである。

 長回しで描かれるスマイルの、レコードを修復しようとする絶望的な試みは見ていて苦しい。世代的に、レコードを元通りの形にすれば元通りの音が鳴る、と、もしかしたらスマイルが思っているのではないかとまで想起させられるが、それは叶わないことだ。

 遅くまで作業した結果長寝したスマイルのもとに、姉のジュリが飲み物を持ってくる。ジュリ&マリは、父親の前歯の遺伝を受け継いでいない。ショッピングモールでスマイルが出っ歯に関する回想を終えた後も、ジュリは「思春期だねえ」という悪気のない大変軽い返しをするのみだ(チェリーの母親の発言同様、これらには相手を慮る優しさがあるのだが)。では姉妹の中で唯一そうであるスマイルの出っ歯は、全体性の毀損、欠落なのだろうか。そうではないだろう。チェリーの告白にマスクを脱いだスマイルは、チャームポイントとしての出っ歯という過去を単に復古したのではない。姉妹の中での垂直性と、チェリーの垂直性が呼応し合ったことで、スマイルの中で出っ歯は新しい場所で肯定的に受け入れられるのだ。

 

 チェリーとスマイルは、メディアを使い、メディアに動かされながらも、最後にはヘッドフォンを外し、マスクを外した身体-身体という場所に立った。前にも述べたようにそれはメディアの否定ではない。過去から現在までをつなぐメディアの交錯こそが二人をここに連れて来たのだから。メディアを駆動するものは、あのフジヤマさんの「唸り声」のような、メディアに書きこむことのできる記号にまだなっていない力なのだ。

 

俳句監修が黒瀬珂瀾という、私の拙い知識では俳人というよりは歌人として活動している人物であったことが、俳句愛好者にとってどのような印象を受けることになるのかは(門外漢の私にはよく分からないが)気になる点ではあったが、総じてとても良い映画だと思ったし、ボロボロ泣いた。

 

 以上が全体を通したメモ書きと言ってもいいものである。

 

ショッピングモールの水平と垂直

 最後にショッピングモールの話をしたい。

 ショッピングモールとは世界の限界である。この映画は極めて限定的な場所しか登場しないため、街の全貌はショッピングモールを中心としたズームアウトでしか窺うことが出来ない。ショッピングモールには全てがあり、その「全て」を疑った時、限界は踏み破られ、未到の外部が現れる。チェリーはそこを目指している。

 中央部を吹き抜けとするショッピングモール、そこにハードオフ(地方出身者の私にとって中古ショップと言えばハードオフ・オフハウスであり、しばしばブックオフが同じ店舗内に併設されていた)があること、これだけで私は世界の限界だったショッピングモールないし大型スーパーを思い出す。

 この不思議な町(Curio-City)でその異様にヴィヴィッドな外観は、街全体に対して水平に放射されている。フジヤマさんの声、人ごみとならんで、ショッピングモールのこの色彩が、チェリーにとってのうるささを構成していることは想像に難くない。前節でも何度か言及したが、この垂直と水平のヴィジョンが、物語の中でショッピングモールという場所に統合されているように思えてならない。

 

 このショッピングモールはかつてレコードプレス機の工場であった。苗字について先に述べたように、歴史とは垂直性である。だからレコードの記憶の上に立ったショッピングモールの中からフジヤマさんの探していたレコードは発見されるし、ショッピングモールの屋上には子供たちの秘密基地が存在するのである。モール内ではパネルが作られ、ショッピングモールの歴史が秩序立って現れるのだが、我らインターネット時代の子たちが集うモールの上では、法的に大丈夫なのか不明な手段によって集められた、歴史的文脈も全く関係のない事物が並んでいる。

 

 テントのあるショッピングモールの秘密基地と、マリのテントがある三姉妹の部屋。世界であるショッピングモールの内部でインターネット時代の少年少女たちが交錯する。水平運動の層化によって構成されるショッピングモールで、配信をするスマイルと、デイケアサービスでのアルバイトに従事するチェリー。二人を出会わせるのは、スペイン語を主とする親を持つ、ショッピングモールの持つ垂直性の外部からやってきた撹乱者・ビーバーの三次元的なアクションである。

 (この表現には微妙な問題がある。ラテンアメリカ系の日本への移民は、特にブラジル系(ブラジルは南米大陸唯一のポルトガル語圏なので単純にラテンアメリカ系というには注意を要するが)を主として名古屋や関東などの大都市工業地帯だけでなく、島根県など地方においてもこのところ増加している。かつて日本から少なくない数の移民がラテンアメリカを目指し、今ではその日系の子孫が日本に移民することもあるという状況となっているわけで、単に移民=外部と言うことには慎重になる必要があるだろう)。

 

 レコードを巡る冒険は、チェリーとスマイルを街の外れの山へと誘い、フジヤマさんのレコードショップを経て、デイケアセンターという最初の場所へと回帰した。街を新しい目を持って水平的に移動したことで、チェリーはもう「どこにいても同じ」とは思わないだろう。引越しの段ボールはショッピングモールとは対称的にカラフルさを抑えられた白であった。まだ外部にどのような色があるか知らないチェリーが、スマイルの極めて水平的なメディアによる垂直的なメッセージを受け取った時、チェリーはヴィヴィッドなショッピングモールに回帰する。恐らく最後の回帰である。

 

 ハプニングの運命にある司会者の二度目のハプニングによって、YAMAZAKURAは流れ、フジヤマさんは一瞬唸った後、涙を流した。「感情や少年海より上がりけり」と攝津幸彦の句がマイクを通して鳴り響き、チェリーが怒涛のパフォーマンスを二人きりの場所でやりきった後、花火は秘密基地を超え、垂直に華開いていった。

 

「舞台少女」はカーテンコールに応えうるか?あるいは奇妙な歌劇

 前口上

 例えばこのような物語がある。勝者総取りのゼロサムゲームを企画し、弁舌巧みに登場人物たちを参加させるゲームマスターが存在する。主人公もしくはその対となる人物はルールブレイカー、少なくともルールの穴を追い求める者として設定される。

 また、参加者たちはよく見知った、それでいて単なる友人ともいえない少女たちである。

 加えて、何らかの理由により時間をループさせる者が登場する。

 そして、キリンが存在する。

 

 これは「舞台少女」を名乗る者たちによる「少女歌劇」と銘打たれた、奇妙な歌劇。もしくは……

 

 舞台少女は演技をしない(?)

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のポジション・ゼロは掴みづらい。

 聖翔音楽学園に通う8人の「舞台少女」たちと、転校生の神楽ひかりを加えた9人は、夜な夜な謎のキリンから呼び出しを受け、「オーディション」というレヴューに参加している。合格者には「トップスターの座」が与えられ、合格者の望んだ「運命の舞台」が誂えられる。

 「オーディション」開催時、彼女たちは各々の衣裳に着替えるのだが、それは変身ではない。日常世界と「オーディション」の世界での振る舞いはほとんど連続性を保っていると言っていいし、むしろ彼女たちは「オーディション」の場において日常世界よりもはっきりとした物言いを相手にぶつけていく傾向がある。歌い、剣を手に舞い、トップスターの座を奪いあうとしても、あまりに日常世界から切断されていない台詞が演技から演技を奪っていく。ここでは武芸の熟練度ではなく、相手よりも強く、真実に迫った思いを持っているのかどうかが結局のところ勝負を分けているように見える。スター性が基準であるなら天堂真矢は大場ななに負けないだろうから(ところで強い思いや真実味というのは何であり、一体どういった理由で尊重されているのだろうか?)。ここにあるのは武装した少女たちの演技というよりも、少女たちが武装した日常である(言うまでもなく、舞台少女たちに限らずA組の生徒たちにとってオーディションは「オーディション」だけではない)。

 では、「オーディション」の世界の方が素顔であり、日常世界でこそ少女たちは演技をしているのだというべきなのだろうか。それも腑に落ちない。なぜなら各「オーディション」終了後、舞台少女たちは「オーディション」で起こったことを前提にして会話をし、相互理解を深めていくからだ。私たちは普段嘘をついたり、あえて何かを言わずにおいたり、ごまかしたりすることがある。しかし日常にそういった部分があることをもって、私たちは日常世界で演技をしているとは言わない。

 私たちは舞台少女の演技を、練習風景や、9話における第99回聖翔祭公演『スタァライト』の回想を用いた愛城華恋とひかりの会話の中で確認することができるだけにとどまる。劇場版では露崎まひるがひかりに対して作中最も長い「演技」を見せるかに思われるが、これとて日常的に我々が用いる「演技」であって、舞台の上としての演技というわけではなかろう。舞台少女の構成要素である演技が、滑り抜けていく。

 少女たちだけではない。劇中最も謎めいたフレーズである「アタシ再生産」もまた、その意味を掴ませることを拒み続ける。
 
 華恋の着替えのシーンに登場する、衣裳の縫製に似合わない熔鉄。これは作品世界全体のモチーフであろう宝塚歌劇の創設者・小林一三が、日本の工業化黎明期において最も(文字通り)資本を多量に消費したであろう私営鉄道の経営者であったことを即座に思い起こさせる。「ゲーム」は熾烈な競争と巨大なリスクを舞台少女に強いているし、「アタシ再生産」という言葉はこれらの要素との繋がりの下に明らかになるのだろうという予測がつくが、事態はそう簡単にはいかない。

 愛城華恋は確かに舞台少女たちの中で、日常世界と「オーディション」での振る舞いが一番なめらかに繋がっている人物ではある。では「アタシ再生産」とは、変身してもアタシはアタシでありつづけるという強みを謳いあげるフレーズなのであろうか。そうはならない。日常世界と「オーディション」での振る舞いの差はどの舞台少女にしても微々たるものであり、別に華恋だけが特別ではない。

 極めて類型的に形成されている舞台少女たちを掘り下げる回でのドラマはほとんど予想の域を超えず(私にとって例外だったのは花柳香子で、私は香子が石動双葉の知らないところで特訓を怠っていないものだと思っていたが、正解はそうではない方だった)、煌びやかな音楽と舞台装置の力でなんとか物語は進んでいく。中盤を経て大場ななが、スターになることを諦めた者や、演劇の楽しさを教えてくれた仲間たちとの別れによって、大切な人たちが傷つくことを嫌い、最高にキラメいていた過去の公演を繰り返し「再演」していたということが明らかになる。この試みは確かに「ゲーム」へ抵抗しうる要素を含んではいるが、華恋は第9話の「オーディション」で、ななにこう言い放つ。

 舞台少女は日々進化中……!同じわたしたちも、同じ舞台もない!どんな舞台も一度きり、その一瞬で燃え尽きるから、愛おしくて、かけがえなくて、価値があるの!一瞬で燃え上がるから、舞台少女はみんな、舞台に立つ度に新しく生まれ変わるの!

 「愛」という有史以来最も著名なバズワードを除けば、ここには労働者の自己啓発と、経済学において商品を定義するための三要素すなわち、対象の物理的特性・利用可能な場所・利用可能な時間に則って説明される舞台少女の稀少性、そしてついでに耐久消費財をいかにして経済学理論が取り扱うかという簡潔な比喩、これらが凝縮されている。    

 こうしてななは華恋に敗北し、星見純那と語らう。

「欲張り過ぎたのかな……」

 「え……」

 「あの一年がもっと楽しく、もっと仲良くなれるようにって、『再演』の度に少しずつ台詞をいじったり、演出を加えたりした……でも、ひかりちゃんがきて、華恋ちゃんが、変わって、みんなも、どんどん変わって……わたしの『再演』が、否定されていくみたいで怖かった。だけど、新しい日々は刺激的で、新しいみんなも魅力的で……どうしていいのか、分からなくなって……」

 「なあんだ、あなたもちゃんと、舞台少女なんじゃない」

 ななの欲望が持っていた「ゲーム」への抵抗という側面は、こうして私的な圏域で再解釈されることによって沈降していく。少々悪辣に華恋とななの台詞を読んでみたが、それでは「アタシ再生産」とは華恋の「ゲーム」に対する圧倒的な適合性を示すのだろうか。そうはならない。「オーディション」終了後、舞台少女たちの「罪」を一人で背負い塔に幽閉されたひかりを助けるため、華恋はひかりが口にするところの「運命」を変えるべく、ひかりが自らに与えた「伝説の舞台」に突貫する。無限に繰り返されるひかりの『スタァライト』一人芝居に介入する華恋は、一度ひかりに敗れ、ひかりは幾度となく「再演」されたであろう第99回聖翔祭公演『スタァライト』の最後を締めくくる台詞「ふたりの夢は、叶わないのよ……」を言い切るのだが、華恋は脚本を改変し、復活する。キリンは「『伝説の舞台』の、再生産……!」と感極まり、「フローラ」と「クレール」という呼びかけは、「華恋」と「ひかりちゃん」に変わる。華恋の「革命」はひかりに怖れをもたらす。「そんなことしたら……わたしの『運命の舞台』に囚われて、華恋のキラメキも奪われちゃう!」というひかりに、華恋は答える。

 

「奪っていいよ!わたしの全部!」 

 「……!」

 「奪われたって終わりじゃない!失くしたってキラメキは消えない!舞台に立つ度に、何度だって燃え上がって生まれ変わる!」

 「……東京、タワー……!」

 

 そして発されるのがあの「アタシ再生産」である。「ひかりちゃんをわたしに、全部ちょうだい!」という台詞といい、12話での華恋はもはや競争からの脱落が即絶望(「絶望」とは、ななが自身「再演」し続けていた舞台において演じていた幽閉された女神の罪である)を意味するわけではないこと、キラメキと市場価値は異なることを知っており、キラメキを含めた自分自身全体を贈与し、またひかりが自身に贈与することを求める(私自身は贈与なる概念が「資本主義」に対抗しうる位相にあるかのように語られることに疑念を持っているが)。だがその彼女はその場面においても「アタシ『再生産』」を言う。「オーディション」の主催であると同時に観客の機能を背負うキリンもまた12話の山場で「再生産」を口にしており、その意味はけして肯定的に解消され尽くすものではない。劇場版において「アタシ再生産」が華恋の口から発せられる時、それはただの復活を意味しているように観えてしまう。

 華恋は「再生産」を資本主義の文脈(私は「資本主義」も「新自由主義」も気に入らないものを全部投げ込めるゴミ箱になってしまったと感じているため出来る限り使いたくないのだが)とは違った文脈で使えるようになったということなのだろうか?そう言い切れるだけの材料はまったく不足している。

 こうして「アタシ再生産」は滑り抜けていく。

 
 東京タワーは何度も華恋とひかりの想い出の場所として現れ、二人でスタァライトするという未来は華恋からひかりに向けては「約束」として、ひかりから華恋に向けては「運命」として東京タワーに結びつけられるが、12話にてひかりの悲しい「運命」を華恋は打ち破ったのだから、東京タワーが倒れるのは理にかなっているが、それでは約束はどうなるのかというと、なんとテロップで「約束タワーブリッジ」と表示される。二人はスタァライトの頂に上り、約束は文字通り果たされ、東京タワーは滑り抜けていく。

 

 この物語には、舞台少女たちの物語とは別の軸がある。それがキリンである。

 キリンは観客席で「首を長くして(実際これ以外の比喩が私には今のところ思いついていない)」舞台少女たちのキラメキを待ち望んでいるが、「オーディション」の主催者でもある。「わかります」が口癖のキリンは「完全に理解した」がる画面の向こう側の観客の性向とよく同期しており、そう明示されなくとも自身が観客であることを何度もキリン自身語っている。

 それが12話で、キリンは唐突に画面の方を向き、鑑賞者に向けて語りはじめる。

 なぜわたしが観ているだけなのか分からない?

 わかります。

 舞台とは、演じる者と観る者が揃って成り立つもの。演者が立ち、観客が望むかぎり続くのです。

 そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように。

 わたしは途切れさせたくない!舞台を愛する観客にして、「運命の舞台」の主催者!

 舞台少女たち……永遠の一瞬!迸るキラメキ!わたしはそれが観たいのです!

 そう、あなたと一緒に。

  実際のところ私が見守ってきたのは舞台少女ではなくてキリンなのだが、それは趣味の問題かもしれない。いずれにせよこの部分はアニメシリーズの中であまりにも唐突に現れるが、端的に言ってキリンによる第四の壁の越境は舞台少女たちの物語となんら繋がっていないように見える。劇場版においてキリンは、新たな舞台の開幕を宣言し、少女たちを新たなレヴューへ誘導し、「舞台」を作るための燃料としての観客という視点を提示して燃え上がりながら落下していく。キリンの存在と舞台少女たちの物語をどう劇場版で噛みあわせるのか、私は期待して映画館に向かったのだが。

 とはいえ「わたしは途切れさせたくない」と言いながらキリンが画面のこちら側を真っ正面から見据え、華恋とひかりの戦っている舞台が煙に隠されるカットは素直に興奮した。私はこのまま最後まで、時空を無視し、静止してこちらを向くキリンが画面の右端に映り続けることを願ったが、その期待は叶わず、私たちはあっけなく舞台少女たちの物語を再び曇りなく観ることができるようになる。

 (ところで「ワイルドスクリーンバロック」を謳うキリンは時々全身が野菜になったりしていたが、私の拙い知識ではアルチンボルドマニエリスム、少なくとも後期ルネサンスの画家として認知されており、バロックの画家というイメージはないのだが、どうだのだろうか。)

 キリンもまたこうして滑り抜けていった。

 

 舞台少女たちのドラマは規格的であり、演技は脇道であり、キリンは舞台に乗りきることができず、象徴は簡単に象徴であることを止め、アニメを見返す度に華恋だけではなくすべてのキャラクターが、東京タワーが、そして運命の外部へ突き進んだ華恋が再生産される。

 これは観客が「わかります」と言うことが禁じられた物語。

 

 ……本当に?

舞台少女は演技をする(?)

 全12話の中で最も印象に残ったのは4話、外出規則を破って朝帰りを敢行した華恋とひかりを「舞台少女」たちが迎え入れる場面で双葉と香子が喋るシーンだ。

「勝手に家出すんなよ、香子じゃねえんだから」

「ウチ、そんなことしまへん」

  二人の部屋のレイアウトから考えると、二人は壁に向かって喋っていることになる。外で純那、なな、まひるがひかりと華恋の前でおかえりを言い、窓ガラス越しに天堂真矢が彼女たちを見下ろしながらおかえりを言う。西條クロディーヌは画面右を向いて「Dienvenue(おかえりなさい)」と呟いているが、これらはアニメとして特に違和感のある画面ではない。だが双葉と香子は壁に向かって、しかも視線が正確にカメラ目線となっている。双葉の後ろで寝ている香子には双葉がどこを向いているかなど分かるはずもないのに。

 どうして彼女たちは視点を壁の特定の一点で共有しえたのか。

 それは、私たちの観ているものが『テレビアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』であり、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』だからだ。

 前節で私は舞台少女は演技をしないと示唆したが、それは本当だろうか。舞台にはお芝居があるが、それだけではない。ひかりの言う通り、舞台には踊りも、歌もある。それにどうして彼女たちは「オーディション」に登場する際、聖翔音楽学園(すなわち日常世界)での規則もしくは伝統と同様に出席番号と名前を言うだけでなく口上を述べるのか。ここで私たちはアニメ女優という概念について考えなければならない。

 テレビや映画とアニメの違いは幾つもあるが、その一つに演技の位相がある。テレビドラマや映画では、まず演者は正しくこの世界に存在する人間として身体を持ち、その上に演技が重ね合わされることによって日常世界での存在とは別の存在へと変身を果たす(無論CGや着ぐるみの問題はあるが、それはこの基礎の延長線上にある)。だがアニメでは、画面に映る存在とそれを「演じている」存在は存在の位相からテレビや映画の演者と全く異なっている。アニメキャラクターの生成は声優による声の吹き込みと、キャラクターデザイン、作画、編集および撮影……という複数のプロセスを必要とする造形及び運動によってなされる。ラジオドラマでは声だけが、公式サイトのキャラクター紹介欄では絵だけが必要である。このように、アニメはテレビや映画の俳優と異なり、表現されるものと表現するものの一対一対応が壊れている。アニメキャラクターはそれが現れる場の要請に応じて取捨選択する事ができる複数の要素の集合体によって存在しているといえる。

 アニメキャラがアニメに現れるとき、彼ら彼女らの構成要素は総動員されるが、アニメキャラが現れる時彼女たちはすでに運命を背負っている。それが脚本である。それはアニメキャラが原理的に突破できない運命である。アニメが複合的な要素からなる集合体であり、ある要素の逸脱があったとしても、それが私たちの目の前に現れる前の段階で逸脱を許容する脚本がアニメを一つの運命としてまとめ上げる。あるいは声優のアドリブとは、脚本がそれを許容しうる範囲に存在するからこそ許されているのだという仕方で同じことが言える。アニメキャラは、表現されるものとしてしか私たちの前に現れることがない。これは私たちがあり得たかもしれないアニメキャラによる革命を見ることが不可能であることを意味しており、「ライブアニメ」が不可能である理由でもある。(ところでVtuberとはいったいどのような存在なのだろうか、あるいはなりうるのだろうか?)。

 従ってアニメキャラは演技することができない。このことから容易に「アニメ女優」は不可能であることが帰結する。

 
 ……本当に?

 あなた方の好きな(もしそうでないならお許し願いたい、私はそのようなあなたと握手がしたい)「想像力」を駆使しなければ、「舞台少女」たちの名前がアニメ女優たちの「役名」であり、私たちは彼女たちの本名あるいは女優名を知らないとは言えないのだろうか。

 口上について考えることにしよう。日常生活で私たちは挨拶する時に口上を述べたりしない(今ならヤクザさえしているのか怪しい)。前節のように、舞台少女たちが演技をしないと強弁しようとする時、歌や、踊りとしての戦闘だけでなく、口上の存在がネックになる。口上がなければレヴューへの登場はダンスルームへの入室と同一であり、日常世界と「オーディション」の世界の連続性はより強固なものとなるが、「オーディション」においてのみ口上が存在することは一体なにを意味しているのだろう?

 「オーディション」は『スタァライト』の筋書きをなぞるかのようにレヴューのタイトルが決められており、塔に幽閉された女神たちを演じた舞台少女たちは、女神たちの背負った罪をもまた背負っている(純那-激昂、香子=逃避、華恋=傲慢、双葉=呪縛、まひる=嫉妬、なな=絶望)。「オーディション」で舞台少女たちが語る言葉があまりにも日常世界のそれと連続していることは、日常世界の彼女たちがあまりにも『スタァライト』の登場人物たちに似すぎているということを意味しているが、これは偶然というには異様である。

 思うに、口上の存在は、4話における双葉と香子の奇妙なカメラ目線と同じ意味を持っているのだ。それは彼女たちが演技をしているという暗号である。この暗号が「オーディション」と「日常世界」の両方から発せられていること、レヴュー名・『スタァライト』の囚われの女神たち・舞台少女たちの抱える思いや状況の異様な符号は、この世界全体が作品であり、彼女たちは画面の中では演技しか見せていないということを示唆するのではないか。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が私たちに見せていたのは、文字通り、「トップスターを目指す舞台少女たちの物語」であり、彼女たちは「舞台少女」を演じるアニメ女優たちだったのではないか。

 

 私がこの節を書いている時、「歌って、踊って、奪い合いましょう」と言い、お芝居をオミットしたキリンはエレベーターホールの奥底で眠っている。

そしてスクリーンに舞台少女は現れ……

 劇場版において「舞台少女」たちは卒業を控え、それぞれのけじめをつけようとする(おそらく「みんな、喋りすぎ」とひとりごち、電車を舞台に現れた白衣のななが一枚噛んでいるであろう。「舞台少女」であるならば、喋るだけで何とかするというのは不足であり、歌って、踊って、お芝居をするべきだからだ)。ここではなな、クロディーヌ、真矢が演技としか言いようのない振る舞いを見せてくれる。特にクロディーヌ対真矢の対決は圧倒的だった。彼女たちの語る言葉には「脚本」の存在を感じられるが、しかしそれらは日常世界でのけじめをつけるための台詞にもなっていた。この段落は、「舞台少女は演技をしない」ことを否定するのだが、「舞台少女は演技をする」ことの補強にはならない。

 

 私は上映中に周囲を見渡したが、燃え尽きた後のキリンは特にどの席にも座っていなかったように見えたということもできるし、夥しい量のキリンが座っていたということもできる。

 劇場版においては華恋とひかりも第四の壁を超えたと解釈できるような台詞を口にするが、少女たちの物語を消費する観客について劇場版が示す態度は、テレビアニメ版のキリンでやろうとしていたこととは別の方向、はっきり言えば軟化していたように思えた。絢爛な背景と音楽は印象的だったが、私はテレビアニメの時点で「舞台少女」たちにはそれほど魅かれていなかったので、画面の速度が緩まる華恋とひかりの回想シーンなどは正直集中力を維持するのが辛かった。

 

 だが期待があった。「私たちはもう舞台の上」という言葉は、舞台少女たちが映っているのがスクリーンであることから彼女たちが女優であることへの可能性を残していた。彼女たちの存在しないスクリーンに「私たちはもう舞台の上」とでも現れれば、彼女たちは私の見えないどこかの舞台の上で、また別の演技をしているのではないか、と思える。もちろん彼女たちは私の拍手に応えることは出来ない。もし画面の中に、演技を終えたように見える彼女たちが現れても映画はそのシーンを含めて映画なのであり、そこは映画の外部ではない。だが……

 

 私はテレビアニメ版のキリンが「あなたと一緒に」と言ってくれたことに感謝している。キリンは簡潔な欲望を素直に口にし、舞台少女たちの見せるキラメキに感動する気持ちの良いキリンだが、このような長ったらしく、嫌味であり、妄想に満ちており、論理もあるのかないのか分からない文章を書いている私は、キリンを欲望し、「生身」のアニメキャラを欲望する気持ちの悪い人間だからだ。

 

 エンドロールを迎え、舞台少女たちは作品世界内に存在する学校や劇団へと散っていった。エンドロールが終わるとそこにはおそらく音楽学校を受験する華恋の姿があった。テロップからして彼女は今まで観客たちが観てきた「愛城華恋」ではないのかもしれない。年齢を考えるとおそらく人生最初の大舞台にいる。そこは体育館か集会場のようであり、椅子があり、長い机の向うに面接官の先生であろう人物がおり、その関係者たちが歩き回っている。確かに舞台然とはしていないが、華恋の「舞台少女」としての歩みは、舞台は、まさに今から始まろうとしていた。

 

 だから私は映画が終わった後、カーテンコールをするのをやめた。

ホー・ツーニェン『ヴォイス・オブ・ヴォイド』の感想

だらだらと長いよ。

内容はタイトルの通りとなります

こんばんは。お久しぶりです。

先日、シンガポール出身のアーティスト、ホー・ツーニェンの展示?『ヴォイス・オブ・ヴォイド』を山口情報芸術センター(YCAM)に観に行って、ここにはその感想が書かれています。

当該URLは以下の通りです。

www.ycam.jp

 

ちなみに来場者はまばらでしたが確実にいて、若い人が多かったです。

アニメーションの話

 現代アートに全く詳しくないのでこれは完全に素人の好みなのですが、いわゆる「現代アート」を観る時は、作品(作者が反作品の立場なら表現という言葉で置き換えてもよい。反作者の立場なら同様に「作者」という語を適当な語に置き換えてもらってかまわない)が自身のコンセプトを乗り越えてしまうようなところのある作品がすきです。そこに現れているもの(表象、現前性、物質性、メディウムなどについて気になる人は各自適当な語に置き換えてもらってかまわない)がコンセプトに解消されてしまうようなものなら普通に文章を書いたり、己の主張に従って何らかの活動をすればよいのでは?という考えがよぎってしまうからです。

 

 (これは私が身体性を重視していることを仄めかしていますが、別に私は身体性を無垢に全肯定しているわけではありません。ボリス・グロイスの『英雄の身体』をひくまでもないことですが、身体(性)の称揚や反理論的立場がしばしば危険な思想を伴うことはあります。けれども原則的に、多くの表現行為はその結果としての物質およびその運動やそれをとりまく環境との関係において身体(少なくとも脳)に作用することは間違いありませんから、やはり私は一人の観客としてはそういった部分を重視することになります。例えばライブがどこで行われているのか、どういったコンテクストでおこなわれているのかは演奏自体のクオリティとはまた別個の観点で私の体験に確かな影響を与えます。)

 

 今回の展示は、例えば京都学派と戦争というコンセプトを見出すことができるでしょうが、その他にも様々な仕掛けが施されていて、なにより体験として楽しかったです。これには私が本展覧会が人生最初のVR作品体験だったということがあるのかもしれませんが、何事にも「初めて」はあるので許して頂きたいと言ったところです。

 

 真っ暗な通路を抜けるとまず巨大なスクリーンと、その前にもう一つ透過スクリーンがあり、階段状の客席が左手に見えてきます。入口の係の方に説明されましたが、この展示には計6つのアニメーションとVRの展示があり、各アニメーションは約7分、VRは40分程度でおおよそ全てを把握できます(私は特にVRの部分が、作品全体を観客に全部観てもらうことを意図していないと感じましたが、それは後で)。とりあえず、透過スクリーンのすぐ前の席に座りました。

 

 正直最初から感動していました。YCAMのスタジオAが誇る音響技術によって、観客はイヤホンをしていないにも関わらずASMRのようなウィスパーヴォイスのナレーションを聴くことになります。全てのアニメーションのループは同期されており、動画が始まる度、一斉に「この作品に声を貸して下さることに感謝します。」の声が近くから、遠くから聴こえてくることになります。その後もしばしばナレーションは同期するのですが、当然各アニメーションの内容は異なるために音声は3次元的な感覚を伴ってずれていきます。

 この「同期=同一性とずれ」というモチーフが展示の全体を駆動するエンジンのような役割を果たしているように感じました。透過スクリーンには京都学派四天王(西谷啓治高坂正顕高山岩男鈴木成高)の3DCGモデルが食事を囲んで座っているのですが、部屋は描き込まれておらず、後ろのスクリーンで上映されている西田幾多郎が好んで使っていた料亭(名前を忘れてしまった……)が透過する結果彼ら4人がその料亭にいるかのように見えます。この2つのコーナーは後のVRで「茶室」として再登場します。
 

 各アニメーションでは、最後のVR作品で聴くことのできる彼らの文献や講演に関する説明とそれに関係する情報が日本語のナレーションと共に得られます(字幕は日英)。内容はおのおの観て聴いて頂くとして(おい)、とくに印象に残ったところを列挙していきます。

 

 ・これは意識してそうしたのかは分からないことですが、西田幾多郎のスクリーンでは字幕が固定されたまま畳の床を回転するように撮られた部分があり(もしかしたら壁だったかもしれない)、そこで若干めまいというか酔いのようなものを感じました。

 ・3,4番目のスクリーンはそれぞれ背中合わせで区切られており、入口から左手が戸坂潤、右手が三木清のコーナーとなっています。ここは後のVRで「牢獄」として登場することになります。どちらも(一応)京都学派左派に分類される人物ですが、二人は獄死しており、両者の3DCGは同一の背景を伴い死体として観客の前に現れます。象徴的なのが、戸坂潤は観客から見て向う側を向いておりその表情を窺うことが出来ないのに対して、三木清はこちらを向いているという点です。

 極めて浅い考えですが、これには戸坂潤のナレーションでも語られた、検閲をかいくぐるためにパロディなどを駆使しようとした、一見戦争協力的色彩を見せる戸坂の文章の二重性とその気持ちの良い性格、未来への志向といったものを反映しているように思われました。一方の三木清は、しばらくのあいだは知識人にとってもある種のヒーロー的な位置づけだったようですが、この展覧会でも紹介される「支那事変の世界史的意義」が知られるようになり、昭和研究会でのイデオロギーの形成に加担したことが明らかになってからはどうやら評価を下げたようで、そのあたりが死体の顔をもろに見せられるというところに反映されているのではないかと思われます。そう考えると戸坂と三木のスクリーンの配置もなにやら示唆的に感じられるのですが、どうなんでしょうか。

 ・5,6番目のスクリーンでは(記憶が正しければ)同一のナレーションで、田辺元の紹介がなされます。このスクリーンの内容がVRでの「天」につながります。田辺元の「死生」という講演の紹介が主ですが、内容が内容であり、これが特攻を後押ししたと言われてもしょうがないやろなあといった感じだったのですが、映し出されるのはかなりザクなモビルスーツで、これがのちのち効いてきますし、ホー・ツーニェンの目配りは凄いと感じました。二つのスクリーンで主に軍用ロボットを別角度から写しだすことになるのですが、正直ここはなぜ2つスクリーンが必要なのかよくわかりませんでした。もしかしたらのちのVRへの動線として、二つのモビルスーツに挟まれる観客に対して自らもその一部であることを示唆させる仕掛けだったのかもしれません。

 ・全体を通じて(VR部分も含め)、西田幾多郎田辺元には一度も出会うことがありません。これが良かったです。京都学派四天王が集った「世界史的立場と日本」、のちに『近代の超克』にまとめられる座談会のいずれにも西田は出席していません。西田と海軍との秘密会合の話などがなされますがやはり西田はいません。弟子たちへの影響が西田不在の場にも確かに息づいていることが感じられました。田辺の不在はより恐ろしい感じがしました。ハイデガーの死への先駆的覚悟性を乗り越えようというが如き「決死」の思想(というよりもはや信仰に近くなっている)を学生たちに講ずる戦場に不在の田辺と、空にあるモビルスーツ

 ・全てのスクリーンを通じて、しばしばカメラが3DCGのモデルを突き抜けていくのですが(それもまったくそれを強調することなく、まるで何も起こっていないかのように)、VRのために必要な表情を統御するための眼球周り、口腔、舌以外はまったく作られておらず、その度に空っぽの人体内部を見せられることになります。私はVRゲーム等やっていないのですがバイオハザードVRのやつとかマジで怖いみたいな話を聞いたことがあるので、おそらくですがこのモデルのクオリティ自体はそれほど高くないです。しかしこの作品には「作画」にコストをかける意味はなく、むしろVRの技術的原理的部分を剥き出しにする意図があるように思えます。やはり人体には内臓がないと幾らリアルにモデルの表面を見せられてもそれを人間に類するものだと体感することができません。おそらく多くのゲームやある種のCGアニメを見ている時、観客は無意識的に内臓を補完しているのだと思いました。これはまあ順序が逆で、作り手が人間らしく見える部分以外を見せないことにより、それを人間らしいキャラクターと認識した観客がその内臓の空虚さ(脳さえない!)を目の当たりにした時、強烈な不気味さを感じるのでしょう。

 

VRの話

 

 先にも書いたように、VR作品初体験だったのでかなり感動しました。空間は「天」、「茶室」、「座禅室(だったかな?)」、「牢獄」の4パートで構成されています。体験フィールドには八角形の畳および座布団が敷かれており、4つの空間のハブとなる「茶室」の質感を再現することに注力がなされていました。また同時に4人が体験できるようにスペースが硬いクッションのようなもので区切られていました。安心、安全です。

 座っていると、「茶室」で「世界史的立場と日本」の座談会の様子を、その記録者であった記者の大家益造の視点で窺うことになり、体験者が手を動かして目の前の紙に書く動作をすることで4人の声を聴くことができますが、手を止めると彼らの声は聴こえなくなり、戦後に大家が残したかなり直接的な戦前戦中の反省を歌った歌集(『アジアの砂』)の一部をまるで自分の声であるかのように聴くことになります。私がこの作品全ての音声を聴く必要がないことに気付いたのはここで、4人の話を最後まで聴こうとすると恐らくよほどタフな人間でないなら腕がパンパンになり終わります。何しろ無茶苦茶長い。何もない空間で筆記具を動かす様な動作を長時間続けるというのはかなり肉体に負荷がかかります。この身体的な苦痛は明らかに戦後の大家の心理的な苦痛とリンクするように設計されていて、4人が煙草を吸ったり、身振り手振りを交えて洋々と話しながら徐々に開いていく茶室の障子、そこに顔をのぞかせる美しい紅葉を観ても、やはりそのことが心から離れません。

 

 座ったままじっと動かないでいると、別位相の「座禅室(本当に?)」に飛びます。まったく和風ではない、灰色の硬質な床と幾何学的に構成された暗い部屋。そこで西田の「日本文化の問題」が低いトーンで流れ続けるわけですが、ナレーションにもあったように、「~ねばならない、~なければならない(sollen)」の連打は重苦しく、それを加速させるかのように、「座禅室」は垂直方向に押し潰れていきます。これがほんとうに息苦しい。西田の言葉が呪文のように聞こえ、わずかでも動くと「茶室」に飛ばされるため、やはりこれを通しで聴くのはかなり苦行でしょう。身体感覚とホー・ツーニェンの西田解釈であろうものがマッチしていて素晴らしかったです。

 

 寝ころぶと「茶室」の床を突き抜けて「監獄」に移ります。短い移動場面を経て牢獄の中に移るのですが、汚く狭い室内には剥き出しの便器、煤汚れた水道、ウジ虫が目につきます。左を向くと戸坂の、右を向くと三木の声が聴こえてくるのですが、仰向けになると両者の声が同レベルで聴こえ、そこにはスペクトラムがあります。現実には隔てられていた監獄で別々に死んでいった両者の声が同じ空間で聴こえる。しかし二人の目指すところは異なっており、同時に断絶を感じさせる。実際完全に右を向いたり左を向いたりすると、片方の声は全く聞こえなくなるわけで、良くできてんなーと素直に思いました。

 

 立ち上がると、茶室の天を突き抜け、「天」に到達します。多くの人がそうでしょうが、ここがベストでした。青空の中、周りにいるのはモビルスーツの編隊。耳元では田辺元の「死生」が流れています。周りを見渡していくうちに自分の腕もまたそのモビルスーツになっている。手を動かすとちゃんと動く。こうして自分の身体とモビルスーツが同一化しますが、田辺の講演は続いています。田辺の著作を読んだことがないので正確なことは分かりませんが、まず田辺は、人間には死に対する3つの向き合い方があると始めます。そのうち2つはかなり『存在と時間』を意識したもので、死を忘れる仕方、そしていわゆる死への先駆的覚悟性の話がなされるわけですが、この「覚悟」もまだ観念的だと田辺は批判します。そして田辺は第3の道を語り出します。(おそらくヘーゲルを通じて独自の弁証法を目指した田辺の思索、なかでも『種の論理』に通じているのだと思われますが未読のためよくわかりませんが)神と人間を結び付ける国家のために実際に死ぬ「決死」、そのことにより人間は神的な領域に通じるだのなんだのという話に入る辺りで周りのモビルスーツがバラバラに分解されていくのを目にします。そして気付くと自分(のモビルスーツ)もバラバラになっていく!もう腕のトラッキングは外れていて動かせません。不可能ではあるにしてもこの「決死」から繋がっていた特攻兵士たちの死を出来るだけ体感させようとする強い意志を感じます。そして旧宗主国ガンダムに代表されるようなアニメなどのポップカルチャーで戦争をテーマに幾つもの作品を「エンターテイメント」として作っていること、その語り方はどうであったかなどを思い出そうという気持ちになっていました。

 

 ずっとやってたかったですが、次の人もいたので多分一時間くらいでHMDを外し、私の鑑賞は終わりました。

全体の感想

 ・久々のアート体験だった(東京でピーター・ドイグと北脇昇観て以来だと思われる)というのはあるかもしれませんが本当に良かったです。山口情報芸術センターは最高過ぎる。自分も高校生までに図書館ばっかり行かないでもっと使っていれば……

 ・綿密な歴史的事実の調査に裏打ちされているのが感じられました(実際私は大家益造をこの展示で初めて知りました)が、単に歴史的事実を編集して提示するのではなく、VR技術と人間、音響技術、スクリーンの使用の仕方、身体への効果的なアプローチなど、本当に多面的な要素を違和感なく結合させていて、やらしさがなかったです。

 ・高校生くらいの男子たちがVR体験で普通に「すっげー!」とか言っていたため、文章の意味は分からなくても(当然のことながらVRで聴こえる彼らの話は一般客には難しいと思われる)何か伝わるところはあるんじゃないかと予想されます。「天」で自分のモビルスーツが動かなくなり分解していく体験は、田辺の話がよく分からなくてもかなり怖い感覚をもたらすと思います(実際私は動悸がしました。よく分からない方がもしかしたら不気味かもしれません。文字面だけでもあの講演には何か恐ろしいものの影を感知することが出来ると思います)。そういう意味でも広く開かれた展示だったと思います。

 ・ただ京都学派四天王なんて日本人にはあまりにも身近でなさすぎるので(せいぜい知られているのは西田くらいでは?)最初の入口にはいるのがハードル高い。実際僕の横で子連れのお母さんが撤退しておりました。入口マジで暗いし(仕方ないしそれが良いのだが)。

 ・個人的に幕末から敗戦までの日本人が考えていたこと、考え方の質感に興味があるのでいつかはやらねばと思っていたのですがやはり京都学派だけで山がデカすぎる……

 ・展示の性質上しょうがないのですが日中戦争支那事変)以降の京都学派の動きにスポットライトが当たっているため、京都学派の一面的な理解が発生しそうではあります。興味が湧いたらちゃんとやった方がいいというのは何でもそうですが、これにも当てはまります。単に時事に合わせて(無論そうした面もあり、京都学派の節操のなさが陸軍の京都学派に対する憎悪の原因の一つでは、という視点は展示でも語られています)体制迎合/反体制的な方向に行ったわけではないので。とくに田辺や三木の部分ではそれを感じました。

 

これから観る人へ

・京都学派について何も知らなくても基本は大丈夫(説明はしてくれるので)。だが多少は知っているにこしたことはない。本気を出すことにより「日本文化の問題」

、「世界史的立場と日本」、「死生」、「唯物論研究(どの巻のどの論文だったか忘れた)」、「支那事変の歴史的意義」を読めるかもしれないが、そのまえに恐らく展覧会が終わってしまう(7/4まで!!!!!!!!)

・音声の感じとか、先述の西田幾多郎のスクリーンとか、VRとかで酔う人がいるかもしれないのでそういう体質の人は注意。

・おそらく感染対策でHMDを被る前にアイマスク?的なのを着けることになるが、大変難儀した。これはおそらく私が完全不器用生命体であることに起因しているが、これを失敗すると大変厳しいので時間かかってもちゃんとセッティングしよう。

VRの「茶室」で私が無能すぎて仕掛けを見逃した形跡があるので、手を動かすのを止めてもいいからしばらく「茶室」で滞在したほうがいいかもしれない。

VRの「牢獄」に行くために寝そべる時はHMDのセンサーに注意しよう!私は愚鈍すぎて一度リセットされたぞ!

ではまた。

虚踊の事

 虚踊は、ある種の人間  普段はのんびりしているがハンドルを握る段になるとからだが強張ってしまう類の  が、例えば林檎を剥いている最中に、三角コーナーにおいて発生する現象、とされる(怪異、というには足りない。取り違えられた証拠がここには欠けている)。虚踊に分類される現象は、三角コーナー以外にも、背中、顔(ただし鏡の介入は虚踊を禁じる)、初めて愛する人を打擲した時の「わたし」、就寝中における裁縫箱、非-非ユークリッド幾何学における平行線などにおいて見られる、とされる。「とされる」とは、わたしたちが虚踊を積極的に輪郭づけようとする際に必須となる符号であり、これなしには何事も始まらない(無論、何一つ始めなくてもいいのだが)。バークリーもその反対者も、きっと虚踊の存在は認めまい。虚踊は認識することができず、また存在する、と言うべき価値を感じさせない。わたしたちは虚踊を必要としないが、虚踊の側はわたしたちを必要としている、とされる、のか?

 三角コーナーに落下した林檎の皮は、作業者が手許に注意を向けている間だけ、奇妙な動きをする。理由としてそのように形作られた皮が、かつてあった自らの平衡を取り戻そうとするかの如くそのとぐろをうねらせ、まるで禁園の蛇のように三角コーナーを這うのだ。作業者が再び皮を捨てようとするなり、姿勢を変えるなりして再び三角コーナーを認識しようとすると、皮はそれを察知してすぐに皮に戻る。作業者が皮を剥き切り、キッチンを抜け出た後にもなお虚踊が続くのかは研究者の意見が分かれるところだが、現在ではその時点で虚踊の幕は下りているというのが主流のようである。

 虚踊はなぜ起こるとされるのか。様々な説明がなされているが、現在のところ有力なのは、生きたからだを持たないにもかかわらず、目の前に現れる生きたからだを鏡に映った己と誤認した者が刹那、喜びのあまり踊り出すためだという説である。鏡という概念を知り得ない者だけが全てを鏡だと誤認する可能性を手にする。しかしこの説には怪しいところがある。虚踊研究者のほぼ全員が、虚踊は人間の意識、特に目とものの関係によって起こるという点では一致している。この説が正しいとするならば、猫との間にも、木菟との間にも、虚踊が発生してしかるべきではないか。しかしこの反論は哀れな人間中心主義を引き摺っている。どうして猫の虚踊研究者や、木菟の虚踊研究者がいないなどと言い切れるのだろうか。ともあれ虚踊の研究はまだ端緒についたばかりであり、確言出来ることは少ない。最近は特に、鏡が虚踊を発生させる状況はありうるかという問題を巡り活発な研究がなされているようだ。虚踊が発生する理由についても、拙速な断言は避け、研究の進展を待つのが賢明であろう。

 さしあたり、夜に美味しい林檎を引き当てるという幸運に恵まれたのなら、パジャマを着たまま外に出て、タップダンスでもしながら、神を祝福してやるがよい。私も君の影で踊ることにする。

すずめ

 ある日のあさ、へやのまどをあけると、目のまえのでんせんにいちわのすずめがとまっていました。

 すずめはちゅん、ちゅん、とないたり、首をくく、くく、とうごかしていましたが、しばらくするといきなりへやの中にとびこんできました。

 すずめはぐるぐるとへやのなかをとびまわりましたが、すぐにつまらなくなったのでしょうか、外へとびだしていきました。

 ところがまたすずめはもどってきます。ぐるぐる、ぐるぐる。またそとにいっては、もどってきます。ぐるぐる。ぐるぐる。

 しばらくながめていると、すずめはわたしのまくらの上におりてきて、うつらうつらしはじめました。

 わたしもすずめみたいに、いつでもすきなときにへやでごろごろしたり、そとにおでかけできたらいいのになあ。

 そうおもっていると、わたしのからだはだんだんきれいにすけて、なくなっていきました。めのまえがまっくらになり、わたしはみえていたものもわすれて、びーだまのようにちいさくまるくなっていました。なにもかも、なくなっちゃったようなきがしました。

 とつぜん、きゅっ、というおとがして、ふわふわしたものがわたしのおしりをつつみました。

 こわくなって、じっとしていると、だんだんいきがくるしくなってきました。

 わたしはまっくらやみのなかで、あるのかもわからないからだをひっしにばたつかせました。ながいあいだそうしているうちに、ぱきっ、というおとがしました。ひかりのひびがみえました。ひかりのむこうにはみなれたへやがありました。

 わたし、すずめになっちゃったのかなあ。

 そうおもっていると、わたしのからだはだんだんぷにぷにとしてきて、ぐうんとおおきくなりました。わたしはずっとわたしだったのです。

 ほっとしたけど、ちょっぴりざんねん。

 そろそろとうこうのじかんです。

 せいふくにきがえようとしてパジャマをぬぐとき、せなかにふさふさしたものがあることに気がつきました。それはてのひらのなかにおさまるほど小さくて、すこしぬれていました。

 きっとすずめのはねだ、そうにちがいない。わたしはそうおもうことにしました。

 いまはまだとべないけれど、いつかとべるようになりたいな。

 わたしはランドセルをしょって、「いってきます!」といって、それから、みんなといっしょに、がっこうへつづくさかみちをあるきはじめました。いつもよりせなかがかるくて、なんだかうれしいきもちでした。

 

 

晩飯を食う前に

こんばんは

 昨今、批評の評判は悪い。まあ実際の所評判が悪いというのはまだ文字を読むのが好きな人々が多いと考えられるツイッターその他SNSでよくそういった話を目にするというだけで、画面の外に目を転じてみれば批評というのは存在していないに等しいと思われる。真面目に人文学をやっている学生(無論私のことではない)は教科書に始まり重要な関連書や論文を読んで卒論なり論文を書くのであって批評を書いたところで別に単位は貰えないし卒業にも学位にも関係ないのだからよほど好きでもない限り特に書くことはない。かく言う私も批評とされる文章はほとんど読んでいないし、書くのはほんのたまに、書きたいことがあった時だけそのような文章を書いている。『現代思想』も『ユリイカ』も買ったことはないし、批評とエッセイの違いもあやふや、論文との違いはなんか参考文献?注釈?が巻末にあるかないかの違いだろといった風であり全く素人と言える。ただ何となくそういった文章を遠ざけている理由はなくもないと感じているので書いている。何と呼ばれるものを?

 

 批評?批評もどき?についてよく言われていることに大体次のようなことがある。上から目線で腹立たしい(完全に同意)、批評の世界に男性中心の構造があり不当である(完全に同意2)、何故か殴り合っている(完全に同意3)、エトセトラエトセトラ。実際ツイッターで(具体的な言及相手は不明だし興味もないが)そういったマッチョイズムを漂わせた批評的なもの(批評と批評的なものとエッセイの違いは?分からないので宿題にしないでください)をやっている何某?何某らの集団?に対し、「批評家ワナビーの兜合わせ大学院生」というフレーズが飛ばされていたのを見た時は正直言って爆笑してしまい、そのすぐ後で真顔になった。

 

 爆笑→真顔になってそれで済むなら話は終わりで、私もこんなことをやっている場合ではなくさっさと晩飯の準備をすればいいのだが、にもかかわらずツイッターや通販サイトのレビュー欄などを見るに、人々はめちゃ語る。「つぶやく」というにはあまりに過剰な熱量と音量で、語る。批評が嫌いと言う人すらたまに語っている。私は「考察」、「感想」、「批判」、「評論」、「オタクの怪文書」と批評の区別がついていない素人なのでそれらは全部違うと言われればそれまでであるが事態はさらに複雑であり、ツイッターやユーチューブのコメント欄には「批判」と「誹謗中傷」の区別をつけろと言っている人間が時折大量発生しているが、ほとんど誰もその二つを区別できていないように思われる。私にも区別できる自信はないが、批判と誹謗中傷は文章の自立性を前提にしてその意味や文体、レトリックのレベルだけで完結して区別できるのか・していいのか?とか、現代の経済システムとメンタルヘルスの構造まで考えた方がいいのでは?と思ったりしているが今はどうでもいい。そういう状況を見てしまうとどうしても晩飯の準備ができなくなり、駄文を書いてしまうことになる。晩飯の準備はしたほうがいいとされている。


 これはとりあえず私が晩飯の準備ができる精神状態になるまで、落ち着くために書かれるものであり、冷蔵庫の中には手羽元が眠っている。今日と明日に分けて使う。今日は湯豆腐、明日は麻油鶏だ。手羽元はいつも正しい。骨があるので。

 

心地良い暴力・苦々しい暴力

 私は男性であり、まだ上手く考えがまとまっていないうえにその構造を変える力もないので、批評?が嫌われる理由として上で挙げた三つのうち男性中心的世界であるということについては今ここで書く資格も意味もない。とりあえず「上から目線でムカつく」ということと「何故か殴り合う」ことについて書こうと思う。

 

 暴力的ではない文章を書くのは難しい。多分この文章も(特に文体のせいで)人によってはかなり暴力的・抑圧的に感じられると思う。口を開けば露わになる私の攻撃性は生来の傾向と長年の経験によって血肉化していて、家族(特に母親)からなんとかせいという意味のことを何度も示唆された記憶があるがまあ改善しなかった。なんとかしたいとは思っています。これは本当。その方法が全く分からなくて途方に暮れているがそうなったのは人間不信が根底にあるからで、手羽元はきちんと調理すれば確実に旨いうえ栄養になってくれるので信頼できる。そろそろマジでお腹がすいてきたといったところであるが、多分誰も傷つけない文章というのは何の意味もない文章たとえば「ミ∃イヌ(存在量化子が降ってきて存在するようになった犬のこと)です、ミョイン(鳴き声)」とかになってくる。ちなみにこれの画像版が猫ですと言ったら話は不穏な方向に行くので自重するが、ある表現を行うことにより、それが存在していなかった今までの世界に一つの新しい線が引かれる、というのは難しい理論を勉強しなくても誰もが何となく感じられることではないだろうか。読める言語で書かれた文字列をぱっと見た時、その意味を理解するのと同時に(場合によってはそれより早く)その文字列と心の間に距離が発生する感覚。それは「好き/嫌い」とか「友/敵」みたいな感覚だ。意味は分割する。「分かる」という表記は残酷だなあと思う。

 

 意味に宿命的に内在する暴力性を和らげることはできる。私は文体やレトリックで「誹謗中傷」と「批判」や「批評」が区別されると無意識に思っている人が多いように感じている。だがその無意識的(意識的だったら本当にとんでもないことだと思うが)基準は実感に合わない。極めて丁寧な口調で書かれ、攻撃的なレトリックを排した文章を読んで、その文章が自分を名指ししているわけでもないのに傷つくことは私もある。自我がデカすぎる。全部SNSが悪い。良くないよ今すぐ辞めようSNS(川柳)という結論に至ったがまだ精神が落ち着かないのでこの記事はここで終わらない。どう語ろうが何かに対して意味のある言及をするということはそれだけで(多分その何かに特別な思いがある)誰かの神経を逆撫でする可能性がある。この段落はこの凡庸な文章が書ければそれでいい。冗長性。

 

 それにしてもどうしてこんなに人は語るのだろう。多分切ないからだ。ある時、頭蓋骨の内部、身体の内部に留めておくにはあまりにも激しいエネルギーが生まれる。放出しなければ爆発してしまいそうだ。だがこういう経験がある人なら誰しも知るように、黙って放っておいても大抵の場合エネルギーは静寂に向かって減衰していく。だがたまにこうも思う。このエネルギーがあったことを自分自身の中だけの記憶にしたくない。それが世界から何かを受け取った証で、このエネルギーは確かにこの世界にあったのだと、そしてもしかしたら、もしかしたらこのエネルギーは、他の誰かが持つ似たエネルギーと共鳴して、完全音程がその倍音の豊かさを増すのと同じ意味において奇跡的な瞬間を形とする花火のようになるかもしれないと思う。永遠を信じない人間の、瞬間を希う切なさが人に口を開かせるのだろう。それが負のエネルギーであることもあるだろうが、それはそれでしょうがない。私は人間不信だが、多くの人に幸せであってほしいとは思っている。

 

 言語哲学者の佐藤信夫が、レトリックとは「発見的認識の造形」を旨とする技法であると言っていた記憶がある。私は、批評とは世界に対してのレトリックであると思っていた時期がある。それは実証的・規範的な論文とは違う。前者は視力を上げることだし、後者は目の使い方より手の使い方に関わる。批評は世界を変えないが、世界の見方を変える。私にそういう体験をさせてくれた文章が幾つかある。『死ぬのは法律違反です』がそうだし、『啓蒙の弁証法』がそうだし、『革命的な、あまりに革命的だ』もそうだと思う。ただこれらを批評という枠に入れていいのかはよく分からないのだが。これらの本はどれも強烈で、私のものの考え方に不可逆的な変化をもたらしたと思う。そしてそれらは残らず暴力的な本だった。論の苛烈さ、罵倒するときのトーン、敵とするものの巨大さ。だが私は本に脳を殴られながら、心地良さを感じていた。自分の中で決定的な変質が、だが快い変質が起こっているのを感じていた。恐怖はなかった。傷ついたという感覚もなかった。これは私の話でしかないが。だとしても、誰かにそういう効果をもたらした・もたらしうる文章と、「上から目線でムカつく」文章、「何故か殴り合う」文章との間にはやはり何らかの差があるように思う。どんな差か。一概には言えない。たんに文章の質の問題なのだろうか。誰の誰に対して上から目線なのか、何が何と殴り合っているのかによって変わってくるところがあるのではないか。全部を言うことはできない。ただ私の脳が気持ちよくブッ叩かれた本とそれらの文章の違いについてなら、質以外にも一つ言えることがある。それは歴史の問題だ。

 

唐突なそして全て自分語り

 私は平成生まれの地方出身者だ。阪神淡路大震災は歴史で、九・一一テロも記憶というより歴史に近いと感じている。2ちゃんねるも黎明期ニコニコ動画も通らずそれどころか周りの人間がほとんど中学生のときには持っていた携帯を(たしか)高校三年になるまで持たなかった。みんな迷惑掛けてごめんな。そういった育ち方をした二十数年間、正直いって身の回りの歴史が進展しているという感覚を持ったことがない。多分海の向こうではバリバリ大変なことになっていたり、「歴史の終わり」なんて関係ねえという地域もあったと思う。近年フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」というテーゼを撤回し、ヘーゲリアンの立場から承認欲求という概念を軸に現代を描こうとしている様子である(まだ読んでないのでよく知らないが)。一方私はずっと歴史が終わるのではなく、人間が歴史を見放しただけでは?と思っていた。歴史というのは人類史のことで、人類史が終わるとしたらそれは人類が滅んだ時だろという即物的な考え方をしていた。今でもそれは変わらないし、資本主義の終わりについてもだいたい同じように考えているがそれはいい。だがとにかく歴史の大変化を感じたことはない。文化が激変したように思えないのが大きな理由だと思う。田舎者だからそう感じる?はい回答が出ました。少し泣く。

 

 とはいえ歴史を描くのが難しくなったというのはあるだろう。まず何をもって描いたと言えるのか。アナール学派のことをもちだすまでもなく歴史と名のつく文章の生成は広範囲にわたっている(多分球体関節人形史とか、大学サークル史とか、MMD史とか、俺が知らないだけで多分やっている人はいる)。もちろんアナール学派歴史学の正統である政治史だけでは歴史をやったことにならないという、正統へのカウンターかつ補完として登場したわけだから、政治史が正統な歴史学であるという考え方もある。ではその正統性をもった歴史はどのように正当性を支えていたのか。それにはどうやら史観というのが使われていたらしく、日本だと一九四五年の敗戦で皇国史観がオシャカになり、ソ連崩壊でマルクス主義史観もオシャカになったという伝説がある。実証主義史学については何も分かりません。

 

 回り道をしてばかりだが、ようやく言いたいことに近づいてきた。菊地成孔+大谷能生の言う通り、「ジャズ史に限らず、およそ人間が編纂する歴史は総て偽史である」のだろう。それが「歴史」の成果だ。ところで批評は基本的に取り扱っている問題に対応する固有の歴史を持つ。ここが問題になる。複数存在する歴史の階層構造を認めるか、認めるのであればその構造がどのようになっているかによって、「上から目線でムカつく」文章や「何故か殴り合う」文章が何をやっているのかがぼんやりと浮かび上がってくる。それは批評とその対象のバックボーンにある歴史間の関係なのだ。あらゆる歴史が偽史として等価であるとは言わない。大学で通常教えられている日本古代史と古史古伝を正史とする日本古代史が同じ価値を持つとは流石に信じられない。資料批判の厳密性、先行研究の量と質、作法に則った適切な論理展開。詳しくは『科学が作られているとき』に譲るが、自然科学だけではなく、歴史にも格というものがあるだろう(王貞治王貞治ではない))。ある程度妥当な歴史と明らかに不満足な歴史が対立しているなら特に問題はない。端的に質の問題の一つに過ぎない。だが、対立する双方ともある程度妥当な歴史をもっている場合はどうだろう。それらの歴史は批評の先端と批評対象のそれぞれに連なっていて、正当性については等価であることを主張している。多分、「何故か殴り合う」批評が殴り合っているのはこういう場所だ。殴っている当人は相手の歴史系と自分の歴史系が両立しない・すべきではないと思っている。それが妥当な場合もあるだろうが、殴られている側が別に両立するだろというかおまえは俺と関係ないだろ誰?と思っている場合完全に事故であり、悲惨としか言いようがない。そして当事者でない大体の人間はきっかけになった問題の歴史的背景を知らないし興味もないので、何か知らないところで殴り殴られが発生しているということになる。

 一方「上から目線でムカつく」という場合、何が起こっているのか?越境だ。多くの場合、批評は自らが背負っている歴史が対象の歴史と共通しているか、あるいは包摂しうるという考えに立っている。文学史を背負って文芸批評をやるような、批評と批評対象の歴史がほとんど同じ場合は良い。だが批評される対象が批評の歴史に包摂されることを認めていなかったとしたら?

 ここで問題が権威に移ることになる。広大な範囲を包含しようとする歴史はかつてそれを実行に移すだけの権威を与えられていた(おそらくその歴史の理想的父が大文字の歴史と呼ばれていたのだろう)。だがもはや多くの人々はそんな権威を信じてはいないし、別にそんなもの勉強とかしたくないし、ウザいとさえ思っている。造園術史がフィギュア史を包摂していいと思っているのか?ああ?……そんなことは言わないが、問題になるのはやっぱり政治史や思想史と言われるやつで、何でこいつらは頼んでもないのに私の好きな小説や漫画やアニメやゲームのことをクソみたいな解像度で上から雑に切ってくるんだ?これはなあ俺の大事なものなんだよ汚ねえ手で触ってくんじゃねえよ的なことが発生しているのだと思われる。上から目線でウザいという原因の一端はこのように、歴史についての認識の共有が行われていないこと、不可能になってしまったことにある。


 先に挙げた三つの本は、どれも権威ある歴史の存在を前提にしたうえで、巨大なものに対し果敢に戦いを挑んでいた。『啓蒙の弁証法』や『革命的な、あまりに革命的な』は多少変化はあるにせよマルクス主義を基軸にして前者は啓蒙と理性、後者は戦後民主主義的な全共闘運動観と戦った。『死ぬのは法律違反です』はデリダまでの思想史と高度消費社会までの正統な政治史を踏まえながら科学革命以降の絶対化された死をひっくり返そうとした。ただこの段落を書いている今思うと、私がこれらに批評?との差異を感じたのは個人的な状況によるといった方が妥当な気がしなくもない。『啓蒙の弁証法』はともかく、残りの二つは二〇〇〇年代に出版されていて、批評に関して今と同じような歴史的状況の中で生まれた本ではある(私はコロナについてはプリズムだと思っているが、隕石だとは思っていない)。これらの本を読んで批評?と同様にムカつく人もいるかもしれない。ただ、おそらく上に挙げたどの本についても、文中で殴られるものが好きで、それが殴られることに耐えられない人間が読む本ではないし、殴られてクッソ―と思った人間はどうにか殴り返そうと発奮する類いの本だ。あと文中に登場し殴られている多くの固有名詞持ち人間はとっくに死んでいる。それらの本と、批評?された人間が真っ当に応答を返す気にさえなれない批評?(個々の論の質の話は今していません)とは置かれた状況が異なっている。私は批評史には全く興味がないのだが、最近の批評?は読者層と批評対象の層が被りまくっているうえ、批評対象の特定個人は大抵生きているために、複数形の歴史の構造と権威の問題が余計浮き彫りになっているというのが穏当な着地点だろうか。あとそういったごちゃごちゃした話は全部どうでもよくて、雑に罵倒するのはよくないと思う。言っていることがバラバラ過ぎでは?茹で過ぎた肉みたいに……鶏肉……湯豆腐!!!!

 

落ち着いてきたので俺は晩飯を作る

 私は批評があってもなくても別にどうでもいいのだが、「権威主義」とか「殴る」とかで批評に興味がある人間の意欲が挫かれるのはあんまりいいことじゃないなとは思っている。「男性中心主義」で挫かれるのはもっと悪い。じゃあどうしたらいいんだろうなって考えてたんだけど妙案はなかなかない。私はかなり古い人間だから礼儀の問題にある程度還元したくなっちゃうが(見知らぬ人をいきなり殴っちゃ駄目では?ぐらいの意味)、それでも自分の正しいと思う歴史観においてどうしても殴らなきゃいけないという思いが生まれることはあるだろう。思いが生まれることそれ自体はしょうがない。

 殴るより先に価値を作ってみせた方がいいんじゃないかとは最近ようやく思うようになった。自分の背負う歴史が、そしてそこから生み出される批評が未来にどのような場所を形成しうるのか。その場所にはどんな意味があるのか。そういった話はいきなり殴るよりは礼儀正しくまたより多くの人に開かれていると思う。そして上でも言ったように、あらゆる意味は暴力性を帯びている。そういった文章を読んでいる人の中には、かつて殴りたかった奴がいるかもしれない。上手くすれば(悪くすれば)そいつは殴られたことにも気付かずに考え方が変わるかもしれない。これはとても恐ろしい話で、言葉はとても恐ろしいものです。私は「文学の力」や「言葉の力」なるものを手放しで求める人間が怖くて仕方がない。あれは意図如何を問わず場合によっては普通に人がおかしくなったり死んだりするのでもうちょっと慎重に取り扱った方がいいと思っているんだけど、そんなに「文学の力」とか「言葉の力」があった方がいいんでしょうかね?これは私の話です。

 批評は今嫌われているかもしれないが、多分ここではないどこかの素描や、人々が欲しているがまだそれとは分からない価値の話は強く求められている。そういうところに批評が全く貢献できないとは言い切れないんじゃないかなと思っていますがようやく脳の粗熱が取れてきたので、これから湯豆腐を食べます。