どうして狼少年だけが狼少年なのか

 というタイトルにしてブログを書き始める前にふと「狼少年」って本当に「狼少年」だったっけ?との疑問が湧き全幅の信頼を持ってWikipediaを開くと原題は「嘘をつく子供」だという。終わり。

 

 ではなく冷静に考えると俺は手元に角川文庫から出ていた『キリシタン版エソポ物語 付古活字本伊曽保物語』を持っていたので、そのあたりを確かめられるのだった。「キリシタン版」の方で対応するタイトルは「童(わらんべ)の羊を飼うた事。」、「古活字本」の方には対応する話が残されていないようだった。とまれ「童(わらんべ)」は短いのでここに引用してしまうのだが、

 

 ある童羊に草を飼うて居たが、ややもすれば口号(くちずさみ)に、「狼の来るぞ」と叫ぶほどに、人々集まれば、さもなうて帰ること、たびたびに及うだ。またある時、真(まこと)に狼が来て、羊をくらふによって、声をはかりに喚(オめ)き叫べども、例の虚言(そらごと)よと心得、出で合ふ人なうて、ことごとくくらひ果たされた。

                                     下心。

 常に虚言(きヨごん)を云ふ者は、たとひ真(まこと)を云ふ時も、人が信ぜぬものぢゃ。

 

 

 ということで知ってる知ってる、と思いつつ虚言が「そらごと」と「きょごん」と二通りあって面白く、また、「口号(くちずさみ)」で「ある一つのことを何度も口にすること(バレト註)」となるのは経済的で面白いが、なによりも説話を読んでいると、その短さ、そしてそれを物語の論理で一直線につなげてしまわない(ここがあらすじの文体と違うところだろう)ことからくる独特のグルーヴ感が気持ちいいなと思う。「ある童羊に草を飼うて居たが」という飾らない、空気のようなスタートから、「ことごとくくらひ果たされた」とかいう強烈な締めまでよく見ればわずか二文であり、この加速をもたらしているのは二文目冒頭の「またある時」という切り替えの仕方だろう。更にここには『キリシタン版エソポ物語』独特の面白さもあって、「下心。」、これが発生させる効果としては『カウボーイ・ビバップ』第11話の「教訓」に近いところがあるが、ちょっと違うところがあるとするなら「下心。」のあとだけ語尾が「ぢゃ」で終わる謎爺構成(例外あり)がさらに速度を上げるというところか(「教訓」の方はどちらかというと頭韻・脚韻に近い)。当時の人がそう読んでたかどうかは知らないけれどもそう読めるので教訓話というよりひたすら「え?」を速射される感覚が出てくるわけだがそもそも最初は「狼少年」の話がしたかったのを思い出した。

 

 教訓としては「いっつも嘘ついとるやつはもし本当のことを言っても人に信じてもらえんものぢゃ」ということになるが、なら人口に膾炙するタイトルのようなものは「嘘少年」でよくない?ウィキ観るまで「嘘をつく子供」っていうタイトル知らなかったんだけど?という気持ちは残る。ここで「嘘をつく子供」はめちゃくちゃいるが「狼少年」はイソップ系列でしか知らないというところに何らかのヒントがあるのではないか、という考えがよぎる。そして上の教訓で最も大事なところはどこなのか、と考えたときに、それは「虚言」ではなくて「常に」の方なんだということが分かってくる。

 

 先に書いたように説話は基本一話があまりに短いため、ものすごい余白がある、というか余白があるかのようにこちらを誘ってくる。今はそれに耐え、書いてあることだけで考えると、とりあえず童(わらんべ)は「狼の来るぞ」と口号(くちずさみ)に叫んでいたということで、他のことは言っていない。要するに人々の間で「童(わらんべ)による『狼の来るぞ』」→「嘘乙」という学習が発生したということだがそれならやはり彼は嘘童(うそわらんべ)ではないか。ということにはならない。「常に」が大事、ということを思い起こしておくと、この学習が更に「あの童(わらんべ)は『狼〜』ばっか云うとるな〜」→「狼少年でいこう」という共通認識を作り上げていなければならない。この嘘童(うそわらんべ)の特徴は嘘ばっかりつくところではなく、全く同じ嘘しかつかないというところにあり、それこそが「狼少年」を”その”「嘘童(わらんべ)」へと同定させるものだった。ある日童が「太陽が存在している(日中の発言)」など疑いようもなく真の発言を挟んでいたり、虚言にしても「米津玄師の来るぞ(米津玄師の来ていない状態での発言)」など少しのバリエーションでも加えていれば、彼は少なくとも「狼少年」にはならなかっただろう。童が「声をはかりに喚(オめ)き叫」んでいたのは、文章から見る限り「狼の来るぞ」以外のものであるとは思えない。これはもう通常の嘘をつく子供の話という範疇を超えた事態であって、全く同じ文字列が正反対に解釈されるまでの顛末という、一つの仮構されたデータとして考えることができる。

 

 そういう風に(強引に)読んでいくと、最後の「下心。」からやってくる教訓もちょっと違った風に読める。これは「虚言(きヨごん)を云う者」の話ではなくて「常に虚言(きヨごん)を云う者」の話なのだ。「たとひ真(まこと)を云ふ時も、人が信ぜぬものぢゃ。」の「信ぜぬ」の目的語は「言」となりそうだが、そうではないのかもしれない。「人々」は解釈によって、文字通りの反対の意味として「言」を信じていると言える。「人が信ぜぬ」のは、「者」の方なのではないか。人は発言者を一切信頼しないままに、(何らかの関数を挟んで)その発言だけを信じることができる。ぞっとするかどうかは各人の自由だが、そういう事態は多分に実在してきたし、今もしていると思う。

 

 余白の話をする。どうして狼少年は狼少年になり始めたのか。羊飼いの仕事がマジで辛かったのか、それとも仕事自体は特につらくもないし好きでもあったが、仕事上人と全然喋る機会がなくて、何でもいいからレスポンスが欲しかったのか、こっちから人のところへ行くのは職務放棄になるから、向こうから来てもらうしかない……ユリイカ!となったのか、こういう方向にはあまり掘り下げたくない(説話が持つ速度を成り立たせる必要条件として、こういう方向に掘り下げないということがある)。最初に「狼が来たぞ」と少年が言った瞬間の声の大きさのことが気になる。多分、ずっと内言であったそれが、ほとんどうっかりという形で口をついて出てしまったのではないか。そして、その声を自分の耳で初めて聞いた瞬間に、少年は言いしれないワクワク感が湧いてくるのを感じる。狼が来る。米津玄師が来る。シンギュラリティが来る。毎日のような風景が一瞬にして砕け散るイメージ。だが少年は狼が来ないことを知っている。羊飼いだから。でも一度よぎってしまったイメージは、あまりに魅惑的なだけではなかった。大きな声で「シンギュラリティが来たぞ」と言ってみる。血相を変えて人々がやってくる。やはりすごい。少年にとってだけでなく、他の人々にとってもシンギュラリティは、そのイメージだけで強烈な印象を与えるものだった。繰り返す。だんだん血相を変えてやってくる人々が減っていく。どうして? シンギュラリティはこんなにもすごかったじゃないか。どうして来ないんだ? 本当に来たらどうするんだ? そうしてある日、シンギュラリティ、イメージじゃない本物のシンギュラリティがやってくる。それはもはや指示代名詞以外の一切を受け付けない、まさに「それ」としかいいようのない。0と1の雨降りしきる中、少年は羊を置いていっさんに野原を駆け下りる。「シンギュラリティの来るぞ!」誰も来ない。いや、「誰」がいない。彼らは、「それ」によって「」(鉤括弧)の形に崩落した壁を残すのみとなった、このあたりで唯一の集会場に集まっていた。息を枯らした少年が隙間から中を覗く。一斉に振り返るその顔は、正確に「下心。」の形になっていた。それらがみな同時に笑った。なぜか、笑った、と、わかった。

 

 ぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃ!!!!!!!!!!!!

 

 以上が、「どうして狼少年だけが狼少年なのか」についての解釈である。