笑いの暴力性について

 暴力的なものを利用する笑いについてではなく、笑いの暴力的な利用についてでもない。

 

 笑いそのものがもつ固有の暴力性というものがあるだろうかと考えたとき、笑いが「ゼロへの暴力的な移行」から生まれることに思い当たる。

 

 差異と何の関わりも持たない笑いというものはありえない。この差異を何らかの系においてゼロ=無に帰すこと、その移行によって発生するエネルギーが笑いと呼ばれる。「ゼロへの暴力的な移行」は、先行する差異の系が何らかの意味でゼロ点=原点を持つことを必ずしも前提としない。というより、この移行によってはじめて「ゼロ」は示唆されるといったほうが正確であろう。「ゼロ」は実在ではなく、決して埋められることのない穴に似ている。落ち込んでいたときに友人が口にしたユーモアに思わず笑ってしまう。そこではマイナスの符号が奪い去られゼロへと移行しているのである。冷笑が逆の符号を奪い去ることで笑いを汲み取るものであることはいうまでもない。

 芸人の裸体と露出狂の裸体に差があるとするなら、それは標識の有無である。芸人の裸体は自らの異物性、ズレを、準-遡行的に解消することによって笑いに変換することへと誘導する標識となっている。それが遡行的でないのは、この運動全体が「(ゼロから)差異を経たゼロへの運動」となっているからである。笑いが常識を変えることはない。公共の場に裸体が存在するという常識=原点から逸脱した事態が、芸人という記号化された肉体とそれを取り巻くさまざまな環境によって、当の常識において「笑ってよいもの」と認識される。この系において裸体のズレは解消され、移行の結果として排熱のごとく笑いが放出される。芸人の裸体とは、端的にいえば「それを見て笑うことを推奨された裸体」、笑わせる肉体と笑われる肉体が一致する特殊な現れであるが、露出狂の裸体に欠けているのはその標識である。それは笑わせる肉体でもなければ笑われる肉体でもない。それはあまりにも異物として現れ、それを見るものをゼロへの移行へ誘引するような要素をまったく持たない。露出狂の裸体は物質に還元されたものとしてせり出され、その肉体が求めるのもまた物質的な視線であるのだが、そのような肉体がせり出される場所は夢の世界以外の何物でもない。露出狂の肉体は笑われないのだが、笑うこともない。露出狂にとってのズレはふたつの世界の間に起こっているものであり、この差異を解消することは、かの体が夢の世界から追放されること、物質の肉体が追放されることを意味するからである。それでももしその肉体が笑うとしたら、ゼロ点は夢の世界の側におかれ、昼の世界は消滅した、ということになるだろう。

 この差異の解消は価値的な系だけに起こるものではない。「トムとジェリー」が次から次へと繰り出してくる夢のような「肉体」の運動は、物理法則を無視しているのではまったくない。むしろそれは「自然法則が見る夢」といってもいい、物理法則の法外な誇張であり、符号や項の法外な置換である。「トムとジェリー」の夢もやはり準-遡行的な運動として、われわれが物理法則を知っていたことを明らかにしている。いずれにせよ「芸人-露出狂」や「トムとジェリー」が収まるカテゴリーの笑いは、差異とわかる差異によって駆動しているといっていいだろう。

 

 これらとは別のカテゴリーにある笑いとして、ある系自体がゼロへと移行する=切断されるパターンもある。例えば「凄すぎて笑ってしまった」というときの「笑い」がここに該当するだろう。「予想を超えた」などというレベルではない凄まじい演奏は、聴衆が演奏前に編んでいた予測というコンテクストを切断してしまう。このカテゴリーに属するのはそこまで特殊な例ばかりというわけでもない。誰かと会話していて自分の思い込みが思い込みだと分かった時、思わず笑ってしまうことはよくあることだ。ここでもまたコンテクストが切断されている。これらのパターンでは、笑いの後に新しい系が始まる。「芸人-露出狂」の場合、それは社会常識というひとつの系の中における要素が持つ差異とその解消の動きを巡るものであった。先述したように、このカテゴリーにおいて発生する笑いは常識=系を変えることはない。一方で、系自体がゼロへと移行する=切断されるこのカテゴリーでの笑いは、むしろ世界の見方、世界でのあり方が変わってしまったことの標識として発生する。

 

 笑いをもたらす技術は、認識された差異から笑いを汲み取るばかりではなく、差異があると認識されていないところへ能動的に差異を差し込むものもある。笑いの二つのカテゴリーのうち、前者で芸人の例を引いたのは必然的なものであった。笑いをもたらす技術が認識すなわちオブジェクトレベルに対するメタレベルの技術であることは自明であるが、「ツッコミ」という認識のレイヤーに対して、「ボケ」はその認識のレイヤーを認識してはじめて可能となるさにメタの技術であること、そこから「ボケ」のレイヤーに上がってきた「ツッコミ」が改めてオブジェクトレベルとなった「ボケ」に「ツッコミ」を入れ……という、いわば「三歩進んで二歩下がる」に似たシステムであることは注目されてよい。「ボケ」と「ツッコミ」の組は、常識の系から笑いが汲み出される仕組みを抽出した装置であり、それはある種の消失点を垣間見させるものとして、常識の現在がいかなるものであるかを示す指標でありつづけている。系そのものの切断によって起こるような笑いは笑いの技術として抽出することができない。それはキルケゴールのいう真の新しさに近いものであり、「それ」と「わたし」の間で生まれる奇跡のような産物でしかありえないからである。

 

 しかし、いったいなぜ、笑いは「ゼロへの”暴力的”な移行」でなければならないのか。それはこの移行が一切の合意なしに起こらなければならないからである。説明や説得から笑いが生まれることはない(それらがレトリックとして笑いを利用することはあるが、それは次元を異にしているし、説明や説得に対して「ツッコミ」が可能であるとするなら、それは説明や説得として機能することに失敗しているか、「ボケ」として提出されているのである)。ゆえに日常生活において人間が人間に対して発するユーモアは、それとして機能しない可能性を抱えながら発される。芸人の世界は、「ボケ」と「ツッコミ」の装置がひとつの抽象であったのと同じように、笑いを目的として構成された抽象的な「世界」として観客との合意を取り結んでいるのだが、この合意は、説明や説得が利用する笑いとは逆の方向に次元を異としている。この次元の合意に綻びが見えるという事態は、常識が重層的なレイヤーを持っていることを示唆しており、そこに介入するお笑いもまたその重層的なレイヤーと複雑な結びつき方をしていることを示唆しているが、それは冒頭に書いた通りここで語られるべきことではなかった。

 ここは絶えず動いているのであり、ゼロへの動きをそれとして保存することはできない。ゆえに笑いは瞬間に属している。そのような笑いそのものとコミュニケーションを取ることは不可能であり、それゆえに笑いは徹底した自己完結的なものとして現れる。みんなが笑う、みんなで笑った、といった現象は、笑いがつながり合うというよりも、むしろ自己完結した笑いという現象がみんなをつなげているのではないか。一人ひとりが笑うのではなく、みんなが笑う。そう、笑いはつながり合うのではなく、伝染るのであった。威嚇、敵意、そして殺意……時として命のやりとりにまで発展しうるような攻撃性の発露としての笑いは、この自己完結性を基礎としているように思われる。人間は平和のうちに笑い合うことができるが、笑いとなった人間は、露出狂とある意味で似通った、圧倒的な異物性の世界に足を踏み入れている。

 

 さて、ここまでの素描から何か言えることがあるのだろうか。「いい笑いと悪い笑いがある」という帰結は「笑いの暴力的な利用」に属するが、「笑いそのものがもつ固有の暴力性」から引き出せる帰結はいかなるものだろうか。おそらくそれは常に背中合わせの二つ組として提出される。

 まず、笑いの第一カテゴリー、すなわちある系における要素レベルの差異を源泉として生まれる笑いからは、生産的なものが生産的であることを維持し続けること、生産性が生産性でありつづけることはできないことが示唆される。あらゆる価値は、それが価値であるというだけで無に帰する可能性を抱え込まざるを得ない。しかし同時に、いかなる意味でもまったく生産性を持たないままでいられるものもないということも示唆される。なぜなら少なくともそこから笑いが生まれうるからである。そもそもプラスマイナスの符号は、それ自体がゼロに依存している(このようなゼロもまたプラスマイナスに依存しているのだが)。笑いはニヒリズムである。

 しかしこの「笑いが生まれたこと」自体が生むメタレベルの喜びというものを無視することはできない。それは認識のもたらす喜びである(もっとも、笑いがどんな場合でもその認識の正しさを保証するというわけではないが)。笑いの価値は奪えない。「笑えない」とは、笑いを「笑える/笑えない」というオブジェクトレベルに置いた位相における現象であって、笑いの価値を奪うものではない。笑いはニヒリズムではない。

 

 では第二のカテゴリー、すなわちある系自体がゼロへ移行する=切断されることから生まれる笑いからは一体何が帰結するのだろうか。ここで突然として「もうええわ!」がやってくるのである。漫才における「もうええわ!」は終幕の記号である。第一カテゴリーにおける笑いのニヒリズムという様相は、第二カテゴリーにせり上がることによって一つのコンテクストを終わらせるという「ニヒリズム」へと上昇する。この宇宙が終わる時、もしかしたら最大にして最後の「もうええわ!」が響き渡るのかもしれない。

 ?それはいいとして、やはりここでも笑いはただ終末の徴であるばかりではないのだ。「もうええわ!」の「もう」にはそこにいたるまでの何らかの流れ、コンテクストが存在したことを示している。そのコンテクストはいかにして生まれたか、いや、そもそもどうしてそんなコンテクストが生成されうるのか。笑いそのものが喜びとなんの関わりももたないとしたなら、どうして「笑いたい」などと思うだろうか(そしてその魅力を商品とするようなエンターテイメントが成立するだろうか)。我々はそれ自身一つのコンテクストの束であると同時に、より大きなコンテクストの中にも存在している。笑いがある系の切断を示したとしても、その瞬間から新しい系が始まり、その流れを世界は受け止め続けている。この意味で、笑いは「世界が終わることなどない」という世界への信頼において、初めて笑いとして生じうる。そして、笑いがありうるような世界というものは、笑いうる我々の喜びを求めるようにして、すなわち我々を信頼するものとして存在するのである。