パケット・パレット(文藝賞短篇部門落選作)+予告(?)

 開催迫る11/11の文フリ東京に刷って持っていこうかと思ったがフリペにするには長すぎるため、ここで公開する。文フリにはこの小説の前後に考えたことをまとめたものを持っていきたい。間に合えば……

パケット・パレット

 吐き切った。と、思った。一ミリ秒のsも発せないだろう。最期の旅に出る心持ちで口を開いたのが何度目かの前世のように遠いのに、間髪入れず真っ直ぐに挙がった右手が会場の薄暗い横一線を裂いた。

「すっきりした?」

 という声には刺すようないたわりと愛らしい無邪気な響きがあり、その声の主が遠い未来の息子であるとわたしが知ったのはX香川、世界で最初に垂直に立った川の、いくつもある分岐の中で最も流れの鋭い支流、そのほとりに建てられた核シェルターの中に篭もり一度として地に立つことなく、そう、床と直角に交わる土に初めて触れたとき、彼はすでに血の蒸発しきったばらばらの肉片だった。彼の母であるテルマ・イコライザ、超新星だけが配置されたホロスコープを支柱に生きてきた彼女は、継ぎ合わされたもののそのむごたらしい相貌を隠しきれなかったがために遂に開くことのなかった棺の窓、どこにも通じないことになった窓の向こう側を背中の目で見やりながら、ほとりから遠く離れた土の上の公営火葬場、告別室の角で、昔語りをぽつぽつとこぼしはじめる。レグルス・小嶋=カタリスとニゲル・Φ・イコライザの、樹形図を遡るような必然の出会いが、いつか彼らの孫の孫のそのまた孫の、イカリア・イコライザ、川剥ぎの伝説へ長い手を貸したように思えるのは、レグルスとニゲルの視線が初めて交わった、その直線が土に対して水平ではなく垂直にあったからだ。ニゲルは人間が言葉で名付けたことのない恒星の近所から綿毛のように舞い落ちてきた。二歳から一九歳までの間綿毛だけを食べ続けた花成みのりはその事実を一度も知られないまま高校を卒業したのだが、一度だけ指を入れあった友人のカノン・ボルシアにだけはそのことを打ち明けていた。五月、梅雨入りに掠るところでぎりぎり逃れ、薄い白色のカーテンの揺らぎへ差し込んでいく乾いた陽の光が生地の粗い目を抜けると保健室のベッドの上、制服姿の、足元に二枚の下着を横たえて、二人が膝を折って座っていた。みのりの家の縁側を消失点として、裏返した絵画のように前へ斜めへと広がる一面の蒲公英。食を同じくする母は毎年春の終わり頃、萎びた黄色を敷いて白い玉になった群れの頭を狩り、首から下を失ったイサメル・ヴィジョナーシカは色彩を限りなく増しながら錐揉みになっていく視界の中で、四肢がついている方へ意識を手渡して、醜い自分の顔を持ち歩かずにすむ人生を始めなおそうとぼんやり考えている。何気ないはずの会話に必死になることもない。ずっと昔から、早駆ける自分の喉を、舌を、口を、一体何を挽回しようというのか、その何かも知らないのに、と半ば軽蔑するように見つめていた士郎・イコライザの右目は葬儀の折に棺の中へ帰ってきたのだが、左目の方はテルマがいくら探しても見つからなかった。士郎の左目が再び他人の目に触れたのは静かの海の片隅だった。自分が「月面に到着する最初の人類」だと信じていたブルース・ブラッシャー三世は、六世代に渡って一族が作り続けた自前の宇宙探査船、その最初の船長となったのだが、月に近づくにつれ、父からその存在は嘘であると叩き込まれた月面基地の青い誘導灯が小さいながらもはっきり見えてきたために、自分だけでない系譜の両肩にのしかかっていた神話がまるごと、まるで小学校の運動場に気まぐれに立ち昇るつむじ風のように、軽さへ消え失せたのだと、楊分明は母国を海で隔てた、見知らぬ国の砂丘で、唇を噛み締めたまま立ち尽くしていた。記憶も定かではない頃、背中の、一番手の届きにくいところ奥深くに埋められたフラッシュメモリを巡り、彼は人体として血塗れの報酬そのものになった。本当に追い込まれたときにしか彼は人を殺めなかったが、追手が分明の腕の一振りで血を失うと(彼の爪はある時から伸びるのを止め、鈍い光沢を持つ刃に変わった)、彼はその場で致命傷を与えた自分の指を切り落とした。今、異国の砂丘で、ただ立ち尽くすことしかできなくなった彼の左手には二本、右手には三本の指が残されており、アルカドゥル・ネレンフォリディーは娘を連れて東へと消えてしまった妻の母国、その子供たちに伝わるという「ユビキリ」なる約束のことを今でも覚えていて、子供の遊びだろうと思い、そして、約束を違えたのは妻の方だろうと重ねながらも、なぜか痛む気のする自分の右の小指を、人目をはばかるようにさすることがあった。店先の、焼けつく砂の道から逃れるようにして時たまやってくる客へ、アルカドゥルは一年中いつでも熱いコーヒーを差し出す。粉が十分に沈むのを待ってから。見知った客のときも、そうでないときもある。やあ、調子はどうだい。そう声を掛けると、目の前の客が人生の時間をまるごと全部引き連れてもう一度店の中に入ってくるような、そんな響きが返ってきたりする。例えば次の「……」の部分。

「姪っ子が……亡くなったの。生まれて一週間もたってないのに」

 そうだった。いや、そうだったのではなかった。夫が後妻との間につくる子供を、死んだわたしの子供でもあると言っていいのだろうか。十分に誠実をした、と胸の裡の届きにくいところで思った夫がそれでも人目を忍んで再婚した、その彼女がわたしの目を見ることはできない。代償のように、彼女に乳をもらうわたしの娘の顔は、あの母のたっぷりした背中に隠れていて見えない。それでもどこかにあの子と結べる線が書けるはずだと、わたしは死後の座標を四方に探り、ようやく絞り込めた一点へ、遅れてきた宇宙開拓者として特例で入港を許されたブルース・ブラッシャー三世は無意識にだが着実に近づいていった。「静かの海一番店は本当にヤバいぜ」と入港管理局の青年に薦められたROUND1に行く前に、ブルースはアポロ一一号記念月開発資料館へ立ち寄り、曲がりくねった形ではあったが、自分は今、ある意味でブラッシャー家が何代にもわたり待ち望んできた瞬間を手に入れたのだと、強化ガラスの向こう、空調から地球と同じ組成の風が吹き込まれ、たなびいているあの星条旗を見つめながら、もう一度みのりの手を握っても良かったな、とカノンは未だよそよそしい東京で、雪にかじかんだ左手を自分の右手で包み込み、何度も優しく揉む。あの保健室の年に東京へ転校したカノンは、みのりとその母の失踪を知ったときすでに大学院を卒業していた。両親はすっかり仕事ともどもこの国に居ついてしまい、こちらに渡ってきたときにはすでに賃貸を引き払い、荷物をまるごと持ってきてしまっていたから、彼女は故国という接頭辞付きで呼ばれるはずのイタリア、太陽の光が湿っぽくないイタリア、家族アルバムの中、まだ二足で歩き始めたばかりの自分の背景にしかなく、そして今はもうほとんど色褪せてよく見えないイタリアには戻りたいような気がしても気がするだけだった。語学能力を買われて美術系の出版社に職を得たカノンはときどき自分が、記憶の中のイタリアの光、あの明晰で直情な光の質感をまだ生き生きと保持している両親の後を遅れて追っているだけのような気分になることがある。実は追われているだけだと思っていたが、こちらから追い込んでいたところもあったのではないか、と分明が思い始めた頃合いで砂丘の向こう側に広がる海は鏡のように暗くなっていく空を映し始めていた。日が昇っている間、観光客らしい何人かが近くを通りかかって、消えた。これからは、できるだけ丸い石のようになるのだと決めていた。硬度を保ったまま、流れに身を任せる。そうして「その手で飯、食えるんすか?」と話しかけてきたらしい最後の青年の誘いに乗り、砂丘からほど近い市街にあるファミリーレストランで、分明は三本指の右手で正確に箸を操り青年を驚愕させると、どうしたことか、青年に分かるはずもない土地の言葉で、自分がなぜここにいるのか、どうしてこの両手なのかということをおもむろに語り始めた。話があまりに長いのでマグレス・コレキリアデスは、この席で飲み下したあくびの総数を数えようとしてすぐにやめた。最初の方はちゃんと話を聞いていたので数えていなかったのだ。牛はあくびも反芻するんだったかな、などとどうでも良いことをぼんやり思いながら改めて前方を見渡す。壇上にはいくつかのパイプ椅子と長机が設けられており、色とりどりというには寂しいスーツをきた男女が宇宙開発と環境倫理だか何だかの議題で誰一人首をとられないようなぬるい討論をしていた。その中に高校時代の友人がいて、今日は彼から久々に食事でもどうかと誘われ、夕方まで暇を持て余すよりはましだろうと、自分にはまったく縁のなかった学会なるものに来てみたのだが、何かが目の前で起こっていたとしても暇を持て余すことはあるものだということが分かっただけだった。とはいえ席を立っても特にすることはない。アテネから遠く流れてサンパウロへ、そこでもう随分長い間止まっている。輸入雑貨の店を営み、アテネサンパウロを持ってきていたのがこちらへきて逆になっただけだったが、宇宙服越しの右手に握られた眼球、これが地球からやってきたことなどブルースは知るよしもない。自前の宇宙服は月に着いて早々役立たずになった。国際安全規格を満たさない装備では、月でも火星でもどこでも、そもそも建物の外に出られないようになっていたのだ。レンタルショップで借りた宇宙服にはadidasの文字があり、ナチの服は嫌いだと言ったが相手にされなかった。しぶしぶ着心地の良いそれを着て「安―四七一二」と輝く気密室を通り、最後のハッチが開くと隙間から空気と重力が逃げていく。世界だった地面がどんどん輪郭を持ち始め、遂には青まみれの円になったところで、母と離れ離れになったみのりは存在しない目を閉じようとする。綿毛の身体は太陽風に揺られて暗い真空の海に浚われていく。ここでは窒息もない。息ができるから息が詰まるのだと、二本の足で生きていたときのことを思い出す。読み終えた小説を閉じるごとに消え失せ開くたびにまた現れる家系図のことを考える。樹形。どうして樹の終端は地面であって地点ではないのかと倒立したところへ、切り裂くような叫び声が上がる。

「危ない!」

 わたしの声と身体とどちらが先に飛び上がったのかよくわからない。本棚の絵本はあらかた読み終わってしまったのに「もっと、もっと!」とせがむ娘へとりあえず子供用の百科事典を開いてやったのだが、彼女はどのページにも目線を沈めていくことはなく、しきりにわたしの方を振り返ってくる。目を見つめられているのかと思ったが実はわたしの唇を見ているのだ。わたしは適当に開いたページに載っていた動物や乗り物、建物や国旗から、その場でなんとかおはなしを捻り出していた。書かれている文字を声に出して読むだけならあんなにスラスラとできたのに、今は息詰めるようにページの隅々へ見入らなければ一言も発せなくなる。集中が視界を狭め、わたしはつい一ヶ月前にようやく立てるようになった娘が、積み木が散らばったままの床で逆立ちを試みようとしていることに気づかなかった。スローモーションのように、足が再び地面に着こうとしているところを、遥か離れた恒星系のほとりでオルスバ・γ・フィクトゥスは固唾を呑んで見守っている。ニゲル、君はそんなにも、その先を言えないまま彼は彼女がここから浮遊して、あるパースを掴むのを確かめた。星だと? 遠い我々の始祖が、手遊びに天球の中へ描き入れた落書きのようなものではないか。妥協も反論もなく、ニゲルは微笑んだままだった。五ノード先の一族の一人が固有名詞の雨を天球の四方へ降らせてから、ニ、ゲ、ルとどう発音しようか悩んだものだ。思い出と自分の間の霧は日に日に濃くなっていくのが、ここでは陽炎になる。見渡す地平線のどの果てまでも土が沸いている。北からやってきた、肌の白く、スカラベのような色の長い髪をなびかせる女に託された赤ん坊が、ンディア・ララバイラギの腕の中で泣いている。「ウアー、ウアー」と泣くその声が、あの蜃気楼じみた女の故郷では「Ur-,Ur-」と綴られることにンディアが気づくことはないだろう。雲母の乳房を取り出すと、磁石のように唇がその先端へ迫る。母乳は彼女の肌と同じように白いのに、なぜあの海を隔てたもうひとつの大地は、自分の遠い祖先をここから無理やり引き剥がし、その後で無理やり投げ返したのだろう。大学から帰ってきた兄によって我が家にも初めて本棚ができて、長期休暇の度にンディアは兄にその中のいくつかを読んで聞かされた。多分一冊も最後まで聞き通したことはない。こんな厚みが必要なことが、この世界にはあとどれくらいあるのだろう。ンディアもそれなりに文字を書いたり読んだりするが、そのほとんどは台所のほど近いところにぱらぱらと重ねられた家計簿のようなものだ。兄は、金が出たり入ったりするのをちゃんと記録しておけば、無駄遣いもしなくなるだろう。ほら、前に騙されて買ったスマートフォンみたいな。あれ、結局動かなかったんだろう? と言ったが、よくわからない。数字はただ書かれていって、書くのはこの手だ。数字が勝手に逃げ出すことはない。この均衡、貸方と借方が必ず一致するという複式簿記の均衡に魅入られた先で、ダスタニェル・サキモリの指はひたすらテンキーの打鍵へと捧げられている。オセアニアの大洋を望む高層マンションの最上階、ガラス張りの一室に彼の居所はある。何度も固辞したものの引き止められ、彼は雇い主の住まいを間借りし、彼の税務と彼が経営している投資会社(といっても彼一人だけの会社だ)の事務を一手に引き受けている。おそらく同期の中では一番稼いでいるだろう。まだ大学を出たばかりの、実務経験のない若造に百万ドルもやるものではない。だが彼が雇い主の命令を受け入れ続けているのは、今では金のためというより恐怖のためだった。雇い主の目の奥から後頭部へ抜け広がるようにして、黒々とした瘴気が渦巻いているのをダスタニェルは見ていた。時折自分の仕事振りを確認しにやってくる雇い主は、どう考えても秘密にしておくべき電話をこれ見よがしにダスタニェルの前でかけることがあった。挨拶も抜きにして、「フラッシュメモリはどうした」と低く鋭い声で言う。まるで電話のたびに人を殺しているみたいだった。自分が孤児であることを雇い主は知っていて、だからあれほど引き止められたのだろうと、ダスタニェルは随分後で思い至って、一刻も早くその考えを忘れようとした。そういう時は自分の口座残高のことを思い出す。それでも駄目なら、個人的な財務諸表の作成に没頭する。雇い主は電話を終えたらしく、後ろから「おい、そろそろ出るぞ」とクリシエ曹長の声がして、マテオス・サン・フエル・ディセンバー伍長は鈍い腰を上げた。立ち上がったところで曹長が振り返り、「オ、イ」と口を動かし始めた。多分次の瞬間、そういうときはいつもそうであるように、彼は畏れと驚きの入り混じった表情を浮かべ、次には怪訝そうな響きの、「耳が良すぎるな、お前は」という声が聞こえるだろう。失敗した。マテオスは昔から光より音を先に受け取るところがあった。すぐに人と話しづらくなり、やがてほとんど喋らなくなった。身体さえしっかりしていれば文句の言われない、外人部隊とは名ばかりの傭兵集団にまぎれこんで日銭を稼ぐ生活を始めた。今もできるだけ静かにしていて、境界の意味が失われ殺戮だけが残った街の切れ端で、「ゲリラ」をひたすら撃ち殺している。大国の後ろ盾をなくした相手方にろくな武器がないことは部隊の誰もが承知している。トリガーの引っ掛かりは、鼻をかんだ後のティッシュをポイ捨てするときの感覚に近いところまで引き下げられていた。ゴミ溜めの底に散らばった死体はたまに女だったり子供だったりするが、部隊ではみな「動く方が悪い」と叩き込まれている。マテオスもそう思う。動くやつはみんな悪い。子供の頃にボロボロの雑誌で見た宇宙旅行の記事を思い出す。あの未来予想が正しかったなら、今頃月には巨大なハブ宇宙港ができていて、火星でも土星でも、太陽系外だって自由に行けるはずだった。もちろん子供向けの科学雑誌で、それこそSFとも呼べない戯れのような記事だったと今では思う。だが、その今ここで宇宙といえば、新米のガンツが担当する携帯誘導弾をきちんと目標に導いてくれるだけだ。大気圏外すら遠い。「パン!」の直後、罰当たりな想起を切り裂くような音がして、マテオスは咄嗟に上官を引き倒す。ほんの僅か後に、つい先程まで曹長が立っていた後ろの壁に銃弾がめり込み、ガラスのような亀裂が入る。曹長がなにか言うより早く、マテオスは口を開く。うちの銃ですよ、あの発砲音は。いよいよ曹長の顔に恐懼の色が濃くなるのを横目で見ながら、本当は血とともに倒れるべきではなかったか、いや、この俺が、俺がこんな、何を、やめろ、やめろぁ! という絶叫で終わったインスタグラムのストーリーを、免月唯と立川豊の二人はもう一度見る気になれない。デート中、古民家を改造したカフェに入ったところで、共通の友人から船馬流の死をDMで知らされたのだった。三人とも同じ吹奏楽部の部員で、最近はストーリーの更新で近況を流し目に見るだけだったが、いざ死の知らせがくると、自然に伸びていった距離が急に縮まる気がした。そのまま彼のアカウントに飛ぶと、半日前にストーリーが更新されていた。満開の蒲公英が一面に広がるのどかな光景がわずかな手ブレを伴って映し続けられていた。だがそこに入っていた音はまったく場違いだった。流は息切れしていた。必死そうな足音も聞こえる。あの絶叫の直前、スマートフォンのマイクにぴったりと口を近づけていたとしか思えないソプラノの声が入っていた。

「それじゃ間に合わない」

 それは分かっている、と思わない。だが、どうしても話したいことが嵩張っていくのを止められない、と思わない。もう何年、この清潔な施設で車椅子とベッドを往復する生活を続けているのか、と思わない。思えばここにくるずっと前から今に至るまで、交通量調査のように、動かない自分の身体の前を、無数の人生が理不尽の速さで行き交っていくのを黙って見ていることしかできなかった、と思わない。本当は叫びたいと思っていた、と思わない。自分の名前を、そして相手の名前を聞きたかった、と思わない。そして叶うことならその手を握り、抱きしめ合いたかった、と思わない。「受付」と書かれたところに、顔に覚えのあるような気がする老紳士がいて、こちらに近づいてくる。ヤア、チョウシハドウダイ、と聞こえる。わたしはずっと話しているのに、自分の声がもう、喉に、舌に、口に、届かないのだ、と思わない。老紳士は大きなテーブルの近くから椅子を一つ引き寄せて、わたしの前に座る。彼はわたしの手を握って、潤んだ目でわたしを見つめてくる。どうしたんだろう、この人は。彼は話しはじめる。彼が何をしたかではないような、わたしが好きだったという季節の話のような、わたしが好きだったという場所の話のような、わたしが好きだったという食べ物の話のような、わたしが好きだったという音楽のような、……わたしはそれらが好きだったのかどうかと思わない。「え」と「わ」の違いを思わない。ただ、声が流れ込んできて、わたしは透明なパイプオルガンの、ひとつの垂直な管になる、と思わない。それらはこんな風に響いている。可愛そうなわたしの息子! こんな死に方があってたまるかい! ……天使ですか、と聞くのは、さすがに罰当たりかな? いいか、川を釣り上げろ! どこにだって帰ることができるのだと、皆、ここで信じ、そのことを誓うのだ! ねえ、これからも友達でいてくれる? ……どういう意味? ジャンセン、あなたの優しげな言葉がわたしをますます醜くしていくのがどうして分からないの! 母さん、本当に僕は可愛そうなのかな? 初めての土は気持ちが良かったよ。今は、ただ、それだけなんだ。父さん、もういいだろう。アポロは嘘じゃなかったんだ。だけどもうどうでもいいよ。この目ん玉が父さんのじゃなくたっていい。ただ、一緒に見ていてくれよ。分かるかい? あれが俺たちの国、俺達の家だよ。謝謝……どうして、お前が泣けるんだ? 鏡なんてないよな。何か言ってくれよ、どうして黙ってるんだ。お前だけが俺に声を掛けてくれたんだよ。あの勇気があって、どうして今、お前は何も言ってくれないんだ? そうかい、そんなことが……神が、……とは言えないな。わたしには、……もう一杯いるかい? 今年で終わりって、急に言われても困ります。……伝手なんてないですよ、もう。よく分からんかったが、結局のところ、わしらは死ぬまでに月に行けるのかね? ……行きたくないのか! なんでそんな研究をしてるんだ? 宇宙が好きなんじゃないのかね? ニゲル、こんな物が届いたよ。白くて、ふわふわしている。この見た目で温かくはないんだ。……不思議だね。君がいなくなってから、驚くことができるようになったんだよ。いや、まだできてはいなくて、言葉の意味がわかり始めているだけかもしれないけどね。母さんに会いたいかい? それにしても力が強いねえ、あんたは。乳首が腫れちゃうわよ。……はい。率直に申し上げて、このままでは次々回の決算を迎えられずに、あなたの会社は破産します。……わたしを殺しても、何も変わりませんよ。曹長、本当に犯人を探すおつもりですか? ……いえ、何でもありません。ねえ、今なにか聞こえなかった? 怖いこと言うのやめろよ。今からそっち行くね。うーん、次の電車は……げえっ、四〇分後! もしもし、文山ですー。お疲れさまです。あの、先日注文入ってた一二〇ロットの件なんですけど……少輝、だから止めなよって言ったのに。父さんは殺せなかったけど、全然知らないヤツなら殺れるなんて、本気でそう思っていたの? あの、ここのバスはいつくるんですか? 帰省するところなんです。急ぎで……なんで出さねえんだよっ! 紛争? てめえらのせいだろうが! せめてバスくらい出しやがれ! では一〇三小節目から……もう一度……ミスター・フェルゲン、あなたはレグルスに行ったことがありますか? あなたのトランペットはもっと遠くまで、宇宙のないところまで聴こえなければいけないのですよ。入ったーっ! 入った、入った! いやどうだ? 審判が……オフサイドフラッグは上がっていませんが…… X香川? あんた、あそこにはあんまり近づかないほうがいいよ。あのあたりは、何が起こってもおかしくないからね。お父さん、きてきて、ほら、もうすぐ着陸するわよ。すごいわねえ、人が月に行くなんて……あなた、どうしたの? 綿毛しか食べないから怖くなって逃げてきた? アハハハハッ! お父さんったら飲みすぎよォ……どうしたの、マテオス。そんなに泣きじゃくって……耳がおかしいの? 目? 目も? ちょっとあなた、こっちにきて! マテオスが何だかおかしいの! 大事なのは脳への刺激です。奥さんに、できるだけたくさん話しかけてあげて下さい。お疲れ様ー。今日は、おお、もう五千いったか。ああ、カウントはこっちで戻しておくから、触んないで。こんなことして何になるんですか、だと? 何にもならねえから今すぐ死ねよ。そんなことも分かんねえ馬鹿な頭を使おうとするな、手ぇ動かせ! 俺たちは何にもなんねえが、ロケットは作るのを止めなきゃいつかはできるんだよ! うーん……あんたの星回りはかなり珍しいね。あんたの子供は、なかなか面白いことになるよ。本人も周りも、かなりしんどい思いをするだろうけどね……あたしの? あの子は身体が弱くてねえ……ズィークンさん、残念ですがあなたの亡命申請は却下されました。入国禁止者リストにあなたの名前が記載されています。……いや、あなたの容疑が冤罪かどうかを判断することは、わたしの仕事ではありませんので。パパ、パパ! あれ! おんなのひとが、おちてる! ……ながれぼし? 判定は……ゴールです! 松井久隆! 日本サッカー史に、新たな名前が刻まれようとしている! 日本、史上初のワールドカップベスト8に向けて大きく……そうねえ、名前ねえ……いっそ、この子に自分で決めてもらおうかしら。それにしても、今日は一段と暑いってんのに、水道はいっつも直ってないわね! アキコ、シキ、元気にしてるかい? 足が悪くてね、わたしはもうニホンに行けそうにないよ。しかし、もしかしたらわたしはもうおじいさんなのかもしれないんだね……はぇーえ! お前さんに娘が! もう六〇だろ。そりゃあ月世界旅行もしづらいってもんだ。それで、名前はどうするんだ? マテオス、お前、カミさんはいるか。子供は……いるのか! お前ほどの無口でも何とかなるもんなんだな。それで、名前は? 香織、みのり、俺だって、結構頑張って食えるか試したんだぞ。知らないと思ってたのか? ……戻ってきてくれよ、頼むよ……夏になったらナポリに行ってくる。旅行よ。……彼氏と。……まだ秘密。また会ったときにちゃんと紹介するから、名前も。ほんとに。心配しないで。うん、ママ、愛してる。……さて、と……唯、どうする? 流の葬式。急に行ってもなんか変な感じしないかな? ……そういえば、知らないなあ、流の両親の名前。そんなもんじゃない? わたしも豊の親の名前まだ知らないし。え、会いに行っていいの? とうとう完成しましたね、ブルースさん! そういえば、名前は決まってるんですか? この船の名前ですよ! ……失礼ですが曹長、裏切り者という名前はありません。彼はゴズリー・レグネットです。あなたがたった今撃ち殺した、わたしの、わたしたちの親友です。おめでとうソフィー! ……あらあ、本当にかわいいわねえ。わたしも子供欲しくなってきちゃったかも。……やーね、いつまでも大学生のわたしじゃないわ。それで、名前はなんていうの? イサメル? ……士郎、そうだ、士郎にしよう、テルマ。彼は泳げるようになるかな? こんな時に生まれて……しょうがないわね、誕生日なんて選べないんだから。長生きできたらめっけもんだね。それで、名前はどうしたの? 分明? 誰が僕にダスタニェルって名前を付けたんだろう? ……分からなかったな、最後まで……チキュウ? それって誰の名前なの、オルスバ? あなたの名前は? あなたはわたしにとって、どういう人なの? わたしの名前は? わたしの名前はなくなったのかまだないのか、固有名詞の雨は止み、晴れ上がる天球は破裂し、千々に散らばってゆく。まだわたしでないわたしが泣いている。その後で目が覚める。わたしでないわたしの周りは暖かな水で満たされていて、真っ暗で何も見えない。鼓動が聞こえる。臍のあたりから細長い一本の管が伸びていて、暗闇のどこかに繋がっているらしい。そこを通してなのかどうか、啜り泣くような声がする。どうしたら答えられるだろう。まだわたしでないわたしは思うように四肢を動かせないし、口もぴったり閉じたまま動かない。それでもまだわたしでないわたしは、そうだから、わたしでないところへ、例えばこんな響きで聞こえていく気がして、

「むかしむかし、……