インカメという言葉がこれだけ定着したのだから、インカメ以前のカメラ、すなわちカメラを境界として、撮り手の反対方向を撮影するカメラにも新しい呼称が生まれただろうと思ったが、一つも思い浮かばなかった。「アウトカメラ」とか「背面カメラ」とかがあるようだが定着しているとは思えない。大体「カメ」と「カメラ」は全然違う。とりあえずここではアウトカメとするが、語感が本当に気持ち悪い。といっても「アウトカム」と呼んでしまえば逆は「インカム」であるし、それにoutcomeとの誤った暗合を引き起こしてしまいかねないので耐え忍ぶほかない。にしても、どうしてまだインカメの逆としての呼称は定まっていないのか。
写真を銃撃と同じ「shot」と呼び、それが定着したという事実自体が、カメラが生まれてから人間がずっと写真を撮ることと撃つことの間になにか符合するものがあると感じていた証左ではないかと思うが、ではインカメとは自殺なのだろうか? そのような暗喩的な負荷を、今日「自撮り」をする者たちが感じているとは思えない。もう肖像写真を撮るために長い時間じっとしていなければならない時代ではないし、カメラの前で準備をしてからシャッターが下ろされるまでの間に流れる時間には、かつてほどの厳粛さはない。
スマートフォンは、ほとんど摩擦もなしにインカメとアウトカメ、二つの射線をシームレスに切り替える。それはスマートフォンの手前からタッチパネル以外の一切の表面が消滅した機種が登場しより鮮明となったが、およそshotの重なりからすれば、ここに摩擦がほとんど存在しないのは考えられないことである。相手を撃つことと、自分を撃つことはまったく意味の異なる行為である。ところがスマートフォンの場合、それは写真(それもフィルムがあるわけではなく、電子的な画像データにすぎない)を撮ることの、文字通り二つの側面にすぎない。ここには、どちらの側面についたレンズが撮影の目的に対してより適当であるか、という判断だけが存在する。ただ射線が正反対の方向に切り替わるというだけのことになったことが、shotの意味論的非対称性をなめらかに殺したのだった。
先日、たまたま他人のBeRealに収まる機会があった。わたしはBeRealをやっていないので、興味本位で撮られた写真を見せてもらうと、要するにそれは「ビデオ通話のレイアウトでスナップショットを撮る+時間制限付きチェーンメール」ということだとその時は理解した(なお、泥酔していた)。が、冷静に考えるとよくわからない話でもあった。今、Google検索でberealと打つと(「BeReal ビリヤニ」がサジェストされることはなかった。わたしは最初にBeRealという単語を聞いた時、ビリヤニしか思い浮かばなかった)、公式らしいアプリへのリンクが一番上に表示され、そこには「BeReal. リアルな日常を友達と。」とあった。
BeRealの画面は先述の通り「ビデオ通話のレイアウト」に近い。ほぼ画面全体をアウトカメの写真、その左上に重ねられるようにして小さくインカメの写真が入る。しかし当然ながらこれは「ビデオ通話のスクショ」ではない。ビデオ通話は、二つの端末において、二人の人間がインカメで自分を撮影し続け、それは相手方の大画面と、自分側の小画面(たいてい下側、非表示にすることができるものもあるかもしれない)に送信されることになる。インカメの図像が相手方に送られるということは、ビデオ通話がコミュニケーション技術である以上当然の話のように思われるが、「自撮り」の映像を、相手方の「見られる装置」であるディスプレイ、その「大きい方」のレイヤーに表示させるという発想は、自分の外側/内側という近代的自我の二分法を正確に踏襲しており、近代的ではあっても現代的ではなかったといえる。いや、だからこそ現代的なのかもしれない。なぜならビデオ通話は、通話している二人が、同時に「相手と目があっている」という感覚を絶対に得ることができない異様なコミュニケーションを結果として提供することになるからである。相手目線の画像を送るためには、「相手」から目線をそらし、カメラを見る必要がある。ビデオ通話は、互いに見つめ合うのではなく、互いがそれぞれ自分自身を撃ち、それを見せ合うことによって構成されている。その死の瞬間を、互いが互いに見ることはできない。ビデオ通話において不可能なのは心中である。
一方BeRealの場合、共有されるイメージのうち、基礎レイヤーをアウトカメの画像が占めることになる。「交差したインカメonインカメ」ではなく、「インカメonアウトカメの全体」が共有されるイメージであり、それが「リアルな日常」であるということはどういうことなのか。スマートフォンという形状に規定されたフォーマットでは全方位撮影ができない。それはただ断念されているだけなのか。それとも、インカメとアウトカメの二つの面を総合するだけで、日常は十分に日常として構成されるのか。それはやはり近代的自我のモデルから導かれる通りの、「外側+内側=世界」という等式なのか。
shotの話に戻ろう。スマートフォンの登場による、インカメとアウトカメのシームレスな切り替えが、銃撃の方向についての意味論的非対称性を破壊したとしよう。「ハゲタカと少女」を撮ったケビン・カーターが、その写真によってピュリッツァー賞を受賞したおよそ二ヶ月後に自殺したことはここで改めて書くことでもないが、スマートフォンによる撮影には、「カメラであるカメラ」にはあった、引き金としてのシャッターのひっかかりすら存在しない。等価なタッチパネルのいくらかの領域が、シャッターの機能を代替するというだけである。このことは果たして、写真と銃撃の間の等号もまた殺されたことを意味する、のだろうか?
我々が人を撃たなくなったのだとしたら、我々はもう人を撮っていないのだ。人を撮ることができないのならば、図である人間に対する地として、人間の影につつまれた自然であるところの風景もまた、我々は撮っていないのだ。では何を撮っているのか。それはもう、日常というほかない。人も風景もない日常などありえないのだから、日常があって、それを撮るのではない。撮るものが、撮られたものを日常として構成するしかないのだ。ではそれはどんな「日常」となるのだろうか。
RealではなくBeRealである。撮影機能とコミュニケーション機能はビデオ通話のように統合されてはいない。それは通知が来てから二分以内に撮影されなければならない。イメージの共有に至るまでのBeRealの機構は、命令によって駆動するレイヤーと、外側/内側を撮影するカメラのレイヤーに分けられる。等号がまだ生きているならば、命令を受け射撃するシステムによって撮られるものはすべて、本質的には「戦争写真」ということになる。が、その等号は今消滅したものとして考えられているのだった。それでもあえて続けるならば、BeRealは自らをも撃つ、ということになっている、冷静に考えれば、本来インカメでは何を撮っても構わない(撮りにくいことこのうえないが)。だが、「自撮り」という圧倒的なコンテクストが成立している以上、BeRealは「見ている世界」と「見ているところの者」を重ね合わせにして提示する。それは撃たれた瞬間の人間が、撃たれた当の位置から、自分が最後に見た世界を自分自身を含めるかたちで撮影すると言っているようなものだ。BeRealが構成する画像全体を撮影できる視点は存在しない。BeRealはビデオ通話とレイアウトの面で似かよっているように見えるが、まったく異なる種類の不可能性を提示する。BeRealは写真というよりも、ある強制された瞬間の、認識の物証とでも呼べるものであり、それが呈示する不可能性とは、日常を撮るとき、日常を撮ることはできないということ、そして、撮ることのできない日常が、撮られた日常である、ということになるだろう。そうはいっても、等号が生きていればの話なのだが。
やはり等号は生きているのだろうか。そうして我々は最初の話に戻る。インカメに対するレトロニムが定着しないのはなぜか。インカメを手にした今、「それ」はなにかよそよそしいものなのである。写真=銃撃としても、写真≠銃撃としても、我々はなにか居心地の悪いものを感じる。それはおそらく語感レベルでそうであり、我々がそれを「インカメ」と呼ぶようになった日から、「それ」は自身が呪われた出口であったことを思い出させるのではないか、という気配を帯び始めたのだろう。この不穏さはスマートフォンを超えて、カメラという存在全体へと広がっているように思われる。我々は何を撮っているのか、何か撮っているのか。我々は我々自身を撮るカメラを、我々自身を撮ることのないカメラと一体化したものとして、我々自身の手に委ねてよかったのか。我々は乱射と自殺を繰り返しているのか、それとも我々はただの模様であり、もはやいかなる意味においても撮る者ではありえなくなったのか。これらの問いはすべて、あのBeRealの画面全体を写真として撮りうる者の視点から発せられる問いであり、その視点は不可能な位置として現実である。が、それこそが我々のリアルであり、我々はリアルであれと命じられている。