「8分休符にスタッカートを付けろや!」

 『運命』の冒頭を「タタタターン」などという、明らかに「タタタ/ターン」と3音節単位で分割する想定から来るであろう表記を平然と用いる風潮に対して往時バチギレており(ちょっぴり嘘、なぜなら今でもほんの少しムカついているから)、「タタタターン」じゃなくて「タタタターーン!なんだよ!4分の2拍子だろ!それじゃあ伝わらんのや!フォルテッシモの8分休符を、いや、8分休符にスタッカートを付けろや! といった剣幕の傍目から見て完全に病的な少年がかつていたとされる。知りません、何も知りません。思い出全部忘れました。嘘だよ。全部覚えているよ。

 

 ベートーヴェン交響曲第5番『運命』の第1楽章の冒頭が休符から始まるなんて話はあまりにも有名なのでそれ自体に大した衝迫力はないわけだが今日不意にそのことを思い出して、どうしてそんなことを思い出したいとどこかで思ったりしたんだろうと思ったのだが、どうも「休符にスタッカートを付ける」ということに引っかかっていたらしい。直接的に受け取るとそれは不可能な表現なわけだが当時の自分にはそれが可能であるという謎の確信があったに違いない。考えてみれば別に最初に8分休符を入れて厳格な4分の2拍子の譜面を維持しなければならないなんてことはなくて、アウフタクト(Auftakt)を用いれば最初の小節だけ8分音符3つでもなんの問題もない。でもベートーヴェンはそうしなかったわけで、そうだとするとやはりどうしてもベートーヴェンは最初に8分休符を入れたくなった、という風に考えなくてはいけない。

 

 ではどうしたらいいのか。音がないことを造形するためには、物理的にはその境界を処理するという方法以外にない。したがって「ンダダダダーーン」の「ンダ」の間をどうするかということになるが見ての通り筆記体でもない限り文字と文字の間は常に空いており、詰んでる感じがするでしょう? 最悪です! だが諦めてはいけない。音に戻りつつ文字の上でも食いついていくが、文字から考えるとやはり「ダダダダーン」と書いたほうが話が早い。嫌ですが。このように書くと一文字目の「ダ」の前に何物もなくなり、別の観点がよりくっきりとしてくる、そう書き出し、一画目の書き出しから始まる筆跡をどう形作るかということにすべてがかかることになる。ゆえに「8分休符にスタッカートを付けろや!」というバチギレは象徴的な指示ということになり、現実的には一音目のアタックの瞬間をいかにソリッドにすべきか、ってことに翻訳されるんだろう。ちょっと物足りないけど。そして別に楽譜上の8分休符には(それどころかその後の8分音符3つにさえも)スタッカートはなくて、ff(フォルテッシモ)もギリ8分休符にはかかってない。文章を文字通り読めてなかったね。でもそういう「(俺には)こうなんだよ!」みたいなロマンを大事にしてもいいと思うよ。今ではもっとそう思っているよ。

 

 こんな話ができるのは五線譜という西洋音楽の記譜システムには休符という「音がないことを表す記号」が存在するからで、これはすごいことだと思う。小説で『運命』が書けるかというとかなり厳しくて、「ン」は「ン」であって休符じゃない。少なくとも日本語には休符と等価な機能を発揮する文字も記号もひとつとして存在しない。0や「。」は文脈を用意してやらないと無になってくれないし、「無」はあまりにも背負ってる意味や文脈が大きくなりすぎちゃって全然無じゃなくなっている。第一休符は無じゃねえし。じゃあ筆跡による縁取りの線で行くかといっても印刷技術ができた段階で小説を読むときには基本的に筆跡なんてわからないし、書く方からしても、小説において筆跡で何かを表現しようというのは錯誤でしかないが一旦短歌に行ってみよう。

 

 金色の星 やり方がわからないまま口を開け 銀色の星

 

 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

そして、

 

 マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている

 

 千種創一『砂丘律』

 

 この二つの短歌を引いてきたのは、パッと見た時のレイアウトの構造が一緒というところから。文字ではない同一の記号で中間部を挟み込むわけだけど、「(スペース)」と「、」がそれぞれの短歌で最適であることは入れ替えてみれば分かる。

 

 金色の星、やり方がわからないまま口を開け、銀色の星

 

 だと、例えば「(やり方が分かっているかどうかわからないが)口を閉じて金色の星を見ている→やり方がわからないまま口を開ける→口を開けて銀色の星を見ている」とか、「金色の星がある状態で、やり方がわからないまま口を開けると、金色の星が銀色の星になる」とか無理すればかなり素っ頓狂な上に苦しすぎてやはり行けていない。「、」を使うと「やり方がわからないまま」がうまく処理できなくなるのが分かる。

 これが「(一字空け)」であることによって、色々通りだす。それはずっと喋り方がわからない、あるいは本当に喋れているのかわからないなと感じている人間が口を開ける時、その人のちょっと後ろにもう一人その人がいるのかもしれないし、喋るどころか呼吸でそうなっているのかもしれないし、あるいは全然別の方面から、金色の星や銀色の星が見える場所で、人生で初めてフェラチオをする、あるいは見たこともない宇宙人とかにフェラチオをするシチュエーションに突入したのかもしれないし、まあとにかく「(一字空け)」であることによって、読みの範囲を制約する最も大きなヒントである「やり方」を持て余さずに読める。

 

 マグカップ落ちてゆくのを見てる人 それは僕で すでに寂しい顔をしている

 

 こっちは先程の短歌と違って読むのが全く無理になるということはないけれども、それでも読み味は変わってくる。なかでも「僕で すでに」が気持ち悪いことこの上ない。こうして初めて両サイドの「、」が挿入句としての異物感を維持し(575/6/77)、なおかつ流れを断ち切らないための唯一の選択肢だということがはっきりする。こうしてみるとどちらもABAの構造でありつつ、最初の短歌は背景として共通のAであり、その両サイドを「やり方がわからないまま口を開け」る誰かの存在が、遠い意味でつなげる仕組みになっており、もう一方はAの中にBが現れつつも、「それは僕で」が「人」へと繋がり、「、」が「僕で」「すでに」を繋げるという形になっている。簡潔に言えば前者は2つの位相、後者は1つの位相でできているが何の話だったか、そう、日本語の表記に休符と等価の記号はないという話をしていた。ここでたしかに「、」も「(スペース)」も文字ではないが、それぞれ異なる意味へと動いている。それ自体に意味はないのにもかかわらずだ。たしかにこれらは「8分休符」には似ていないかもしれないが、ある意味では「スタッカート付きの8分休符」に似ていないだろうか? ベートーヴェンの8分休符にスタッカートはついていないわけだが……

 

 ベートーヴェンが採用しなかった方から考えてみるのはどうだろう。Auftakt、Aufが「〜の上」、taktは「拍、小節、調子、ペース、常識、礼節、ペース、思いやり」などなどとなる。総合してみるとAuftaktというのは(第一)小節の前にあり、拍、律動、ペースをちょっと崩し、いたずら心のようなものがある、という感じだろうか。それは一旦置くとして音楽用語として日本語では弱起となる。何かが弱く起こる、というよりも、詩学用語だとAuftaktは頭拍(音節)らしいから、弱いところから起こる、ということになる。なんだかこれなら小説でもやれそうな気がしてくる。

 

 小説の冒頭がたいてい一字下げなのはどうしてか、ではなく、その一字下がったスペースの形、それが小説の生まれてきた場所の事実かつ象徴であって、だから人間は冒頭一行読めば小説がいいか悪いかなんとなく分かるし、なんならページを開いた瞬間目に飛び込んでくる文字と空白の配置で何となく良し悪しが分かるということだってあり得るだろう。小説のアウフタクトはいかに構築しうるか。

 あるいは、複数の詩人が「詩は沈黙から生まれる」的なことを言っていて、それを目にしたり耳にしたりするたびに常時頭の中がうるさく沈黙など知らないアテクシは詩人なんかじゃございませんわ〜〜〜〜〜!!!!! とどこかで絶叫しているわけだが、行分け詩が冒頭一字下げについてあまり関心のない形でスタイルを形成していったということと、散文詩では一字下げたり下げなかったりするということとの間を見ていると、非肉体的な、紙上の沈黙というありようについて、気づき始めたというより、目でさわれる一つの証拠を手に入れたのだという感じがする。詩のアウフタクトはいかに構築しうるか。

 

 ベートーヴェンは弱起を採用しなかった。『運命』って好きだけど笑いどころがないからね。Auf-taktって感じじゃなかったんだろうね。

 

 振り返ってみれば自分は最近、うるさい人間でも沈黙から始められないだろうか、せめて沈黙にさわれないだろうか、ということを遠回りにやっていたな、と思うのだが、よく考えたらすでに沈黙から始めたことがあるし沈黙に触れたこともあった。思い出の中で未だに激情家をやっている全然知らない少年が、来るべき『運命』の合奏の日に向かってなんか激憤しており、「8分休符にスタッカートを付けろや!」と叫んでいてかなり痛々しく危ない感じがするが、練習は続いているため、「もう1回最初から」というと、場が急速に静かになっていく。メチャクチャ聞いている。「これだ!これが”あの”8分休符へと連なる沈黙だ!」という沈黙になるまで待つ。鋭く右手を振り上げる。

 

 ……ここで完璧な8分休符が鳴っていたらただのきれいな、いやきれいすぎる「思い出話」でしかなくて、多分実際のところは、普通の少年が暮らしている普通の街から聴こえてくる、普通の少年少女たちが鳴らすような8分音符が鳴っていたんではないかねえと思う。ただ、あの時目指した「スタッカート付きの8分休符」を、まだ自分が諦めていなかったのだ、ということに気づいて、このように書いたブログ記事が終わる。

 

 

 

 ポケットスコアは小さくて可愛いので、一冊あると楽しいです。楽譜が読めなくても、いい曲は楽譜もきれいなので、いい模様です。

 

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私は青磁社版の『砂丘律』を持っています。いいでしょう。