大便師 大海軽暗

 「きみもクリエイター(クソみたいな語彙)になれる!クリエイター(クソみたいな語彙)になろう!」式に資本から発せられるメッセージは、同志同士の競争過程へと人間を駆り立て、果てしない消耗の中から浮いてくるアガリをはねることを目標に放たれているわけで、こう聞くとクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動をするというのはつらく、くるしく、自身を際限無く衰弱させる愚劣な行為、今すぐやめたほうがいいみたいな感じになるがそれはイデオロギーイデオロギー、と読みます)のせいと考えることができる。すなわち、この前提には創造性という概念が「何らかの美的*1な稀少性に拠って交換価値を持つ商品を創造する能力」と同一のものとして考えられており、例えばあなたが自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っているとしても、それは以上の記述から全く商品価値を持たないため、創造性とはみなされないとされるのだ。あなたはこの私秘的大便塑造行為をやり終わったあとちゃんと手を洗っているか? ならいい。存分に励んでほしい。

 ともあれこのような状況下でもなおクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事で飯を食いたいという新参者が消滅しそうな気配は一向になく(というか私もクリエイティヴ((クソみたいな語彙))な仕事で飯を食いたいと思っている人間の一人であるが)、一切が謎めいている、というわけではないがそれはそれとして、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事の他に、政治活動という分野がある。政治活動は一般にクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な行為とみなされてはいない*2。それは「なんかあれ嫌すぎる、なんとかならんか、せなあかんやろ、せいや!」や、「こうしたらいいだろ、なんとかならんか、せなあかんやろ、せいや!」や、前述二文の末尾「せいや!」→「するぞ!」の変換によって得られる各種意識によって発生したり、なんとなくデモやっているからついていくか、なんか投票日だった、紙に特定の人名を書き、箱に投入するか、などといったバリエーションがあるがとにかくクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動との大きな違いは、原則的に同志同士の競争過程という形を取らないところだ。「より強えーやつがカッケエ」みたいな話ではなく、とりあえず何らかの政治目標があったとして、それが実現したとすればそれに最も貢献したのは誰か、とかそいつは経済的に報われるべきだ、みたいなことはひとまず重要ではないということが言いたかった。今は「今からクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動や政治活動をしようかな」という段階の人間の視点で話をしているんだ。制度論やら戦術論やら内ゲバの歴史やらの話はしていない。とにかく同志同士で消耗することなく何かを実現しようとする動き、少なくとも理想的には政治活動をそのように言っていい。いいだろ、言わせてくれ、頼みます。

 

 さてこうなってくるとなぜわざわざつらく、くるしく、自身を際限無く衰弱させる愚劣な行為(イデオロギー((イデオロギー、と読みます)))ことクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動を止めて、政治活動に邁進しないのか不思議でしょうがなくなってくるように見えるが、見えるのは一瞬だけで、当然いくつか言いたいことが出てくる。①どっちもやればよくね?②やっぱ違いはデカくね?

 

 ①労働経済学から学べる画期的な知見として「一日には二十四時間ある」ということと、「経済主体には働いている時間と、働いていない時間がある」というものがあり、こういう風に書くとあんまりにもあんまりだがそう馬鹿にするものでもなくて、両立しようとするならクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動と、それで食って行けなければ賃労働の時間と、政治活動の時間を平等に所与としてある24時間のうちで割り振らなければならない。だが厳しいことに、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な領域にある行為は、先述のイデオロギーと一体化している場合、あらゆる仕事の中でもトップレベルに位置する過酷な資本の投入を要求する。そら詩とかパンクスをすぐに反例に上げたくなる気持ちはわかるが、パンクスはそのジャンルの歴史的コンテクストに乗れるかがめちゃ大事で詩はそもそも売れてねえだろ! 創造行為の話じゃなくて「クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事」の話に専念させてくれというわけで話を戻すと、美的価値に基づく商品ジャンルは(特に現在)猛烈な速度で洗練していくが、個々の商品の洗練の度合いは、大体、生まれてきてからその商品を生み出すまでにクリエイターが関係領域に投入した時間と資本の量に比例する(映画の話をやめろ!)。「天才」という文字からは甘いにおいがしますね。しますか? 天才というのはそのように表示された文字で、それだけです。突き抜けたいなら他のことやってる場合ではない。この領域に新規参入するにあたり週5・8時間労働などというのは舐めきっており(例えば『天才による凡人のための短歌教室』を参照)、世間には夢の中で書いた文章を起床後現実に持ってこれる小説家まで存在するという。恐ろしい話であり生身の人間による365日24時間労働の可能性が示唆されたわけだが普通に寝たほうがいいという話もあり実践にあたっては諸説あるが諸説あるとかいい出したらここで投入される資本には具体的な活動ジャンルにもよるけど「ボーッとする」とか「遊びまくるとか」とか言ってしまえば「政治活動をしてみる」とかだって選択肢になりそうになってくると話が全部おじゃんになってしまう! どうしよう! 今のはなかったことにしてくれ! また脇道にそれてしまったので戻すと、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な行為を仕事にできるほど突き抜けられた人間は「競争社会の権化」みたいなことになってくる。マジ成功したいのに政治活動などやっている場合なのか? となるのももっともなことである(もうある程度突き抜けて時間や資本に余裕のあるやつの話はしていない、「今から〜しようかな」の人間の話だとさっきいった)。これらの話をぜんぶドブに捨てる例外があるが後述する。

 

 ②デカい。政治運動をするのと、評伝『大便師・大海軽暗』を執筆することの間にはやはり差がある*3。どこかで欲望というものがあって(パラメータ的な話だけど)、芸術やらエンタメやらなんやらに行く方向と、政治活動やらボランティアやらに行く方向と、人それぞれ偏りがあるように見える。やはりこの二つを両立させるのは難しいのか。しかし、差がなくなる場所というものが存在する。

 

 要するに、政治活動とクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事を完全に同一化するという選択肢があり、いわゆるファシズム(政治の美学化)であって、文字通り現実世界を制作するというアートに人生をぶっこむということは考えうる。大変困ったことであり、これに対してネチネチと(それこそクリエイティヴ((クソみたいな語彙))のように)反論を考えてもいいのだが、しない。ここでは、「お前のやってることが『世界を作り出すこと』っつったってその世界はフィクションでしょ。こっちの政治はノンフィクションな世界を作り出すアートなわけ。お前、ショボない?」と言われるシチュエーションに集中したほうがいい気がする。「アートとしてのファシズムが現実化しうる、考えうる限りで最も美的に魅力的な世界」に対して拮抗しうる「フィクショナルな世界」とはそもそもどういうことなのか、何が起きているのか、ここへきて確かに一切が急速に判明ではなくなってくるが*4、私は欲張りだからフィクションもノンフィクションも諦めたくはない。しかしこんなにガチガチな感じでやる必要があったんだろうか。自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っているあなたのことを考えると、もう少し肩の力を抜いてやっていってもいい気がしている。

 

 

団鬼六先生、本当に申し訳ありませんでした。

 

本文中ではどスパルタみたいに見える書き方になってしまったが(とはいってもある程度いくとどスパルタ性も見えてくるのだが)、今から短歌を始めようとしている人への優しさが第一に伝わってくる。いい本だと思う。

 

「現実制作としてのアート=政治」を考える時、いつもここに立ち返ってくる。世界制作者=世界征服者としてのスターリン。この記事を書いていて、ボリス・グロイスは今でも自分が追っている数少ない批評家だということに気づいた。

 

 

 

 

*1:理想としての真善美というのはまだなんとなく受け入れられるものの、現実を分析するに当たっての対概念を考える時、真/偽、善/悪はまだいいとして、美の対概念となるとどうしてもモヤモヤしてしまう。境界を超えるにしてもそれには当然境界が前提されなければならないので、例えば美/醜と入れてみるが、これではあまりにもカバーされていないものが多すぎるし、しかしカバーされていないものをどの対概念でカバーしようかとなると、やはり美/?という感じがしてしまう。美という理念はどうも、真や善に比べてあまりに多大なものを背負わされている感がしなくもない。ともあれここでの美的はとりあえず美/非美とでもいうほかない二項を前提としているとおおらかに受け取ってほしい。ここを詰めはじめたら全然別の記事になっちゃうだろ。現在では美と、美の対概念になりそうなものとの境界がことごとく溶解しているように思われる。

*2:「政治とは可能性のアートである」という言葉があるが、それを踏まえれば「クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事とは可能性から/へのアートである」という形でひとまず差異を表現することができるかもしれない、が、本文にはうまく繋がらないなあということで以降本文が蛇足のように存在するわけである。というより書き終わってみると本文全体が蛇足だろというか全く凡庸なことしか言っていないな〜という気持ちになってすっきりした。

 本文に書いていることの大半は昨日寝る前にぼんやりと考えていたことであるが、どうしてこんなことを考えたのだろうと考えてみると、クリエイターに分類されるであろう多くの仕事は、(実質的に)フリーランスの個人が、巨大な生産技術と流通技術を持つ資本と協働することによってなされている。フリーランスという語は傭兵の謂であって、近年(マネタイズがいくらかでも可能になるようなインターネット各種インフラが整備されたのはデカい)なにかクリエイティヴなことをやろうという人間が増えているということはつまり傭兵志望者が増えているということか! 潜在的に増え続けている在野の兵士たち……おもしろ! ということはどういうことがいえるだろう……とイメージが短絡した結果だなあと思い至った。

 とはいえ特に結論部に関してはムヤムヤと折りに触れ思い出される問題だったし、書いてみて、そうか、そのように自分は思っていたのだな、と気づいたところがある。書かなくても考えることはできるが、書くと手をかける場所のようなものができるのを感じる。頭の中は見えないが文字は見えるということはとても大きいことなのだろう。大きいことといえば、自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っている人間が一人もいない世界がこの世界だとしたら、どうだろう。それでいいと100%思いながら超過した5%くらいで「ちょっと寂しい……」と思うのではないだろうか。私はあなたに、自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っている人間になって欲しいとは、全く、決して、100%思っていないし、無論超過した5%くらいでなって欲しいと思っているが、こうした秘めやかで過剰な欲求がかの大便師・大海軽暗を生み出したと言ってもいい。大海は「新宿の痔ならし屋」の異名を持つ、日本最強の大便師だった。大便師という言葉を聞いたことがなくても不思議ではない。かつて日本には「賭け排便」という博打があった。博打と言ってもなんのことはない。一本糞、この長さですべてが決まる。この一本糞をひり出す役目を負った者が「大便師」と呼ばれた。大きな勝負で他の大便師より短い糞を出してしまった大便師は、尻を拭く間もないまま命を奪われる危険さえある。そんな中、大海は勝ち続けた。圧倒的と言ってよかった。「一本勝負」とはちがい、「連チャン」ではただ長くひり出せばいいというものではない。予備糞を丁寧にコントロールし、今日の大一番がどこにあたるか、相手はどう考えているか、腸の調子はどうか、これらすべてを全身で読まなければならない。大海は「連チャン」でも負けなしだった。目にレントゲンがついていると言われた。相手の腸内が見えているかのように、絶妙な塩梅の一本糞をひり出し続けた。

 生前、「どうしてあなたは勝ち続けられるのか」という、それまでなんども浴びただろう質問に、寡黙だった彼がただ一度だけ答えたことがある。彼ははにかみ、洗ったばかりの左手でボサボサの頭をかきながら、こう言った。

 「固くなっちゃあダメだね。こっちがガチガチじゃあ、ウンコの機嫌が悪くなる」  

*3:「書くことそのものが政治的なのだ」と、後ろめたいものなしに言い切ることが可能な状態というのは、その時々の政治的状況との関わり合い抜きには考えられない。「言うだけならタダ」という粗暴な言い回しがあるが、少なくとも書くということについて考えるに当たっては、この粗暴さをもっとも残酷な水準で受け止める気持ちはどこかで持っておいたほうがいいと思う。

*4:似た類型の話として、「理想世界においてフィクションは制作されるか?」というものがある。これに対してはプラトンの「詩人追放論」を経由して考えたことがある。理想国家というものがあって、詩人は現に追放されたのだと考えてみる。詩人がその詩により風紀を乱すから理想国家が実現されないという類の、詩人を原因とみなす考え方より、詩人が存在するのでここは理想国家ではない、と逆向きに考えるほうが私にはしっくりくる。信号としての詩人。私は人間の創造欲求というものを純粋な良きものとはとても考えられない。それは途方もなくややこしく、困ったもんですなあとなる類のものだろうという直感を今でもずっと抱いている。

TARの足と才能について

 映画『TAR/ター』を観て、まだ映画館でやっていてよかったと思った。

gaga.ne.jp

 エンドロールから始まるところで男性の声がして、「自然な感じで歌ってごらん」的なことを言っていた気がする(何しろ3時間近くあり、最初の方のセリフや声の質感までは覚えられなかった。大概オペラは3時間とか4時間とかあって暗譜しなくてもいいとはいえよく振れるものだと思う)。女の子の歌う声がして、ちょっと緊張に由来しているような喉の苦しさと音程のブレがある。終わるとターが立っている。もう苦しそうであり、人間の苦悶に満ちた表情と仕草のバリエーションの豊富さがあらためて確認され、この人はもうすでに大変な状態にあるんだなと思う。

 

 素晴らしい対談シーンのことを映画が終わった後で思い出してみると、(『トリビアの泉』を観ていた世代には常識であろう)リュリのエピソードがあった。初の独立した指揮者リュリは杖で指揮をしていた。床を打ち鳴らすのだがそれが手へと移っていったのは、あるときリュリの突いていた指揮杖が足を貫いてそのまま死んでしまったからだ。ターは指揮者が時間を支配するという、それは手によって行われるのだが、この映画で印象に残ったのは手の動きよりもむしろ足の部分だった。

 

 トイレの扉の隙間から覗く足元、ブラインドオーディションの衝立の隙間から覗く足元(この連関で落選したチェリストがいた)。ペトラは足を握ってくれという。劇中唯一第四の壁を超えているかにみえる、ペトラとターが急にカメラの方へ振り返るシーンも、ターがペトラの足を握っているときに起こったことだ。マジで無茶苦茶な部屋に住んでいる隣人に呼ばれ、何がなんだかよくわからんがとにかく大変なことになっていて倒れている同居人?の足首を持たされるターは自室に帰った後全部脱いでいるが洗面台の前で執拗に洗うのは足である。本番、マーラーの5番冒頭をBGMに、彼女は舞台へ上がってきて、指揮者をはっ倒す、その手は時間を止める、そして転がった指揮者を足で踏みつける。もうBGMは鳴っていなくて、それはBGMではなかったからで、時間は止まっているということになっている舞台の上で、彼女は転がった指揮者を足で踏みつける。リュリが昔、指揮棒として使っていた杖で自分の足を刺して死んだ。時間が止まっているので、誰も死んでいないとも言えるし、誰も生きていないとも言えるが、殺すことはできない。彼女は指揮者ではないから。

 

 足といえば忘れてはいけないことがあって、ドイツ・グラモフォンのレコードを景気よく床にバラまいて、足でぞんざいにより分けていくシーン。2つの足が指し示したのはクラウディオ・アバドベルリン・フィルによるグスタフ・マーラー交響曲第5番』、1993年5月のライブ録音。どうしてアバドだったんだろう。確かにターがこれから挑もうとしているのは5番のライブ録音であり条件としては一致しているが、それだけで済ませていいことなんだろうか。

 ターの人物造形のネタ元としてはアバドより明らかに近いカラヤンでもなく(出られなくなったチェリストの代役の採否にはじまり、エルガーの協奏曲のソリスト選定にまで至る、オルガを巡るオーディションのいざこざがザビーネ・マイヤー事件を思い起こさせるというのは確かにと思った)、自分の師匠だというバーンスタインでもなく、アバドアバドベルリン・フィルの前任カラヤンのようなカリスマ指揮者ではない。バーンスタインみたいに自分自身が音楽だと言わんばかりに燃え上がるカリスマ指揮者でもない。とにかくアバドは少なくとも(音楽面においては)ターに似ていない。いやカリスマはあったといえるのかもしれないが、音はカリスマの音ではない。トップダウンというよりボトムアップ、しかも音楽の底の底、まだ知られていないがたしかにはじめからそこにあったボトムから音を引き出してくる人であり、なにより演奏者たちと一緒に引き出してくる人だ、という印象がある。ルツェルン祝祭管弦楽団という、地球上のうまいやつ全員いれる気なんかというスーパー・オーケストラのマーラーにしたって、それはクラウディオ・アバドという稀有な人間性の持ち主だったからこそ成立し得たのであり、そういったものはターが意識してか知らずかかなぐり捨ててきたものだろう。あとアバドはオペラを振りまくっているが、ターにそのような描写はなかった。そんな彼女が来るべき新盤のジャケットをアバドに似せようとする、というかそもそも、どうして彼女はこんなに真似をしたがるのだろう。カプランには「人真似とかやめろ、自分で考えろ」みたいに言っていたのに(そしてそれすらメモ帳に書き残すカプランのことを、ちょっと物悲しい気持ちで思い出してしまった、今)。

 

 リディア・ターはペトラ以外の他人と向き合う時、相手の話を本当に聞くということができない。プログラムでの指導にしたってそうだし、フランチェスカにせよシャロンにせよ、とにかく間がない。すぐ威嚇するように、上から返答する(キスシーンの前にLi'l Darlin'とは!)。指揮台は高く、ケイト・ブランシェットの身長はすごく高い。クラシック音楽と称される西洋音楽への憎しみは、その音が人間を疎外するところからはじまるように思える。かつて純正律による倍音は、その音を歌っている人間がいないにもかかわらず聴こえるがゆえに、「天使の声」といわれたりしていたのだった。いっぽうで、幻聴にせよ、家電の振動にせよ、一人でいる時のターは恐ろしいほどよく聴く人で、なんならその音を楽譜に書き写すところまでいく。この差は何なんだろうと思ったときに、またオルガのことを思い出す。

 

 リディア・ターを演じるケイト・ブランシェットの指揮は酷い。いや別に酷くない映像作品の方が珍しくてそれは悪くない(ジャストならともかく、先振りができていた俳優を観た記憶がない)。俳優はプロの指揮者ではないから。後ろや周りがプロなので、シャロンの弓使いも指使いも酷いことが際立つのと同じようにありふれたことで、普通の音楽映画を観た感想というのなら意識に上ることすらないと思う。だがこの映画は普通の映画ではなくTARなので、書かなくてはいけない。

 というのも、チェリストのオルガ・メトキーナの身体技術が尋常ではないからで、観ながら俳優にしては上手すぎる、本職じゃないのか? と思って調べてみたらオルガ役のゾフィー・カウアーはプロのチェリストだったので安心したがそれで終わることはできなくて、そのせいで「リディア・ター」の指揮のみじめさがあらわになる。ところどころ演奏に遅れてしまっているシーンまであり、演奏に置いていかれるなど指揮者失格ということになるのだが、翻って思い出すと、ターは暗雲漂うアメリカでの出版イベントにオルガを連れてきているが、オルガには言葉が陳腐、クソなどとめちゃくちゃ馬鹿にされている。彼女がジャケットを誰か似せようとすること(他のジャンルでは先行作品やアーティストへのリスペクトとして似たジャケットを作ることはよくある気がするが、基本的に作曲家・演奏家の肖像がオーソドックスなクラシック音楽のジャケット業界には、そのようなリスペクトの文化はないような気がする)、カプランに人真似を止め、自分で考えるよう言っていたこと、それらが繋がってしまい、どうしてもこう思ってしまう。ターには「才能」なんてあるのか?

 

 YouTubeでデュ・プレのエルガーを聴いてチェロを初めたというオルガはその演奏の指揮者バレンボイムのことには興味がなかった(バレンボイムはデュ・プレの夫でもあった。オルガは結婚に興味がなく、くまのぬいぐるみを持っている。ペトラは家の床にぬいぐるみをならべて、鉛筆を民主主義的に行き渡らせようとしている)。じゃあターはどのように音楽をはじめたのだろう。バーンスタインに師事していたのではないのか。そうではない気がする。流れ着いた「実家(?)」で、彼女は思い出のクローゼットの中からVHSを取り出す。そこには白黒のバーンスタインがいて、ターに語りかけている。ターは泣いている。手が顔を覆い隠しているので、どんな顔をしているのかよくわからない。VHSとYouTube。今から輝いていくだろうオルガと、もう輝くどころの話ではなくなっているだろうターのあいだに、意外と距離はなかったんじゃないだろうか。最初のきらめきの場所の話であって人間関係のことではない。

 

 自分はテレビゲーム・ビデオゲームと無縁の人生を送ってきてしまったため(デジタルゲームにまで広げたとしても『艦砲射撃・甲改』の話くらいしかすることができない、あれは素晴らしいFlashゲームだった)、最後のシーンの流れている曲が調べないと分からなかった。この映画を観る人間としては致命的なことだがそれでも思ったことはあって、彼女は冒頭のシーンのように舞台袖ですごいことになったりしていない。楽屋でまだ楽譜をみている。そして舞台に出てくる。そのリディア・ターはとても小さい、こぢんまりしている。カメラの焦点が彼女にあっていないということではないけれど、カメラの中心はもう彼女ではないように見える。拍手もベルリンより大きくない。さあ振り始めるということになって、誰かが後ろから彼女に近づいて、ヘッドマイクを被せる。演奏が始まる。舞台の上から幕が下りてくる。彼女の演奏は観客に届くことはないし彼女にも届くことはないと一瞬思う。それは緞帳ではなかった。スクリーンに映像が映し出され、ナレーションが始まる。客席には多種多様なコスチュームに身を包んだ人々が、静かにしている。このときの自分はこれがゲーム音楽の演奏会だということを知りようがなかったので、なにか異様な儀式のようなものを観ている気がしている。彼らは今からどこかへいくのだろうかと思っている。今はゲーム音楽だということを知っているので、それがコスプレをしたファンの観客なんだと思う。けれど同じことを思っているところがあって、クラシック音楽のコンサートというのは静かにしていること、動かないことを公然のルールとしている代表的なジャンルで、昔はそうじゃなかったけれど今は同じルールをもっている似たものとして映画館がある。彼らの身体からゲームの世界の記憶に突き動かされた同調現象のようなものは見えなくて、彼らはただ音楽を聴いている。多分ターが指揮をしている。

 

 経験の貧困、それは(正確に言えばWWI後のドイツで)経験から語られる言葉の不可逆的な貧困さのことだけれどそういうことを言い出したベンヤミンという人が死んでからもうだいぶ経っていて、現代の言葉の貧困なんて自分が書くことはとても恥ずかしくてできることではないけれど、VHSの白黒のバーンスタインが言っていたように、感情には言葉で名前をつけることができるものもあるが、音楽はそうしようがない感情にまでしっくりきてくれることがある、ということへ向かっていく人間たちまでもが、言葉を使うこと、使わざるをえないことについて自分はどんな言葉を持っているだろうか。音楽へ向かっていく人間が口にしたり書いたりタイピングしたりフリックしたりする言葉とは、その人が本当に発していい、いや、発したいと思っている音なのかどうか。そして発されてしまった言葉について、どのように聞くことができるのだろうか。音楽は半分くらい人間じゃない気がするけれども、音楽へ向かっていく人間は人間でしかないはずで、逆さまになった裏切り者のTARが(彼女は画面に映らないほどの遠い昔にまずもって自分の涙を裏切ったのだろうと思う)迎えるエンディングはもはや何にがんじがらめになっているか分からなくなるほどのがんじがらめによる舞台袖の痙攣でしかない。しかしそれでもエンドロールはあって、そこでは不器用な女の子の歌声があるのだけど、顔もわからない男性の優しい声色も聴こえる。そう、あの声は優しい声だったと思う。

 

 

音楽の「力」について考える時どうしてかここに戻ってきてしまう。

 

アバドの一番好きなマーラーが5番でもベルリン・フィルでもないことに、申し訳ないという気持ちが、少しだけ、あります。

2022年おわる〜

今年は体感2年あったけど全然足りてねえ

 と思った。やりたかったけど出来なかったことが結構ある。映画館にもほとんど行けなかったしよく考えたらアマプラほとんど使わなかった。「観る」がほとんど欠落していたので説得力もなにもどうしようもないけど今年観た映画で一番印象に残ったのは河瀨直美『東京2020オリンピック  Side:A/B』です。

 

 

やりたかったことの一つは音楽で全然動かせていないが、まあ本気で動かす気がなかったという方が正しいのかも知れない。来年はちゃんと曲あげたいね。即興日記というのを動画を上げる練習がてら一時期やっていたのが以下の様子です。

 

youtu.be

 

 時間を得るために、時間を売って金を買っているという感覚があって、これは時間が肉体だとすればよりしっくりくる。この一年でどうやら「名前」と「時間(と呼ばれているもの)・空間(と呼ばれているもの)」には結び付きがあるなと思い始め、これには荒川修作があれだけ所与への戦いを挑んでいながら名前についてあまり言及しないなということが気になり始めたということもある。多分マドリン・ギンズとの「+(プラス)」が鍵で(多分あまりうまくはいかない鍵なんだけど)、とりあえずはマドリン・ギンズのまだ荒川との共同制作ではない文章も載っているこれを買ったが全然積んでいる。

 

 

 あとはやっぱずっと読まないっぱなしにしてるドゥルーズガタリとかのことも考えたほうがいいのだろうなと思うが「名前」へのアプローチの仕方は他にも色々あって、だいたいペンネームがそうだろという思いもあり、引き続きやっていきたい。今年書いたもので買えるものはこれらになります。本当にありがとう。よしなによしなに。

 

↑短編小説(『(折々の記・最終回)また会うための方法』)が載っています。

 

booth.pm

↑巻頭言と短編小説(『歩調たち』)、詩(『題名』)が載っています。

健康は大事にしたほうがいい

 今年は色々大変だったけど腹痛で寝れなくて死ぬかと思って病院行ったら便秘とのことだったため拍子抜けしたがそれはそれとして寝れねえんだから便秘だろうがなかろうが大変なことよこれは? と思いながら薬飲んで良くなったので良かったが、健康は大事にしたほうがいいと思った。全然思い込みだけど「死ぬかもしれん」の文字列にそれまでにない切迫感があり、そうか俺は「死ぬかもしれん」と思ったときにああいう感じになるのかというところを一つ得られた。

 音楽はどのジャンルにしてもどんどんボーダーレスな混淆と洗練が進んでいってて最近は疲れるなという気持ちがないではない。いやしかしIT革命なんてまだまだ黎明期だし「デジタルネイティヴ」が多数を占める/しかいなくなった世界だと人類の知覚や知識論が旧人類の俺とはだいぶ断絶してそうだな〜なんて感じたりしてどんどん感性が固陋になっていく。後半期は特にクラシック音楽を再び掘り返し始め、エディット・ファルナーディのラフマニノフはヤバすぎる……とか、ミクローシュ・ペレーニ生まれてきてくれてありがとう……とか、グスターボ・デュダメル & シモン・ボリバル交響楽団マーラー『復活』奇跡だ……とか、やはり戦前から活動してる奴らの演奏は全然ステージが違う……とか完全に厄介な人間になる未来が見え始めており、Open Your Heart......と自らに語りかける夜が続いているがまあそれはそれとして、今年出てよく聴いたアルバムはこんな感じ。

 

PIANO SOLO [12 inch Analog]

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STILL LIFE (RCIP-0335)

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JACOB'S LADDER

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The Parable Of The Poet

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Playground

 

 

 

もうそろそろ20代が終わる

 たいして長生きしてはいないけどそれでも2022年は多分今まで生きてて最悪の世相となっており、日本が最悪なのは今に始まったわけではないけどここ数年は特にひどい。とはいえ「あなたは言葉をたくさん知っておられるのですね」状態になることにはもう特に意味を感じなくなったし、俺(の生活)自体が世界やこの国の変化と競うようにして最悪に近づいていっているため、特にヴィジョンとか言いたいこととかはなくなっていくという感じである。友人と家族の健勝以外はどうでもいい。昨日青空文庫で読んだ二葉亭四迷の『平凡』が面白すぎたので、それに引っ張られているのかもしれないが、別に引っ張られていいし、四方八方から引っ張られて生まれる変な均衡を「わたし」とか名付けてあたかも何かがある気になってるんだろうが、みたいな気持はある。例によって新刊を大量に買ったりしないので、今年出てないのばっかりだが良かったやつです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翅の伝記

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引っ越してえ。では良いお年を。

「戸締まり」について

 

一九三六年にSSの幹部たちを前に行った演説で、ヒムラーは「我々は皆かつてどこかで既に出会ったことがあり、同様にして来世においても再会するであろう」と述べている。

 

横山茂雄『増補 聖別された肉体: オカルト人種論とナチズム』p207、創元社、2020年)

 

 どうして映画のタイトルに「戸締まり」とつけたのだろうか。

 

 常世と現世の間をつなぐ「後ろ戸」というものがあり、閉じ師は開いた後ろ戸を閉める「代々の家業」らしいのだが、閉じ師は鍵を持っているため、必然的に締める側が外側ということになる。家の戸締まりとは聞くが、会社の戸締まりとか、教室の戸締まりとかはあまり聞かない(おそらくここでより自然に使われるのは「施錠」である。逆に家には「施錠」とはあまり聞かない)。とすると常世  死者の場所、すべての時間がある場所  は家の中であり、現世  生者の場所  が家の外だということになる。かくしてわたしたちは死の家を追われたものとして生き、死ぬことで帰っていくということになった。

 

  生まれて初めて2日連続で同じ映画を見に行ったため、いまわたしの手元には『新海誠本』なる本が2冊もある。表紙をめくると下に「⚠本書は、作品の結末に触れています。ご鑑賞後にお読み下さい。」とあり、表紙には何のエクスキューズもないことから全くお粗末なデザインだと思いつつ律儀に読むのを止め、観てから再び中を覗いたのが1回目の鑑賞ということになり、2回目はもう『新海誠本』を読んだ状態で観たということになった。例えばインタビューが掲載されており、新海誠はこう言っている。

 

 どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。桜が人間社会の混乱とは無関係に咲き続けることと同じように、観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ないんです。それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う回路があるはずと、願い続けるしかありませんね。

 

 ではどうしてこの『新海誠本』なる冊子は、映画館の入り口で、それも鑑賞後ではなく鑑賞前にばら撒かれているのか。作品に放置し得ないほどの致命的な欠陥があり、註釈を付け足さなければならないとか、言い訳とかではないのだろうから、他に理由があると考えるべきだろうが、ここで私は新海誠が「観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ない」と言っており、「コントロールしようとは思わない」とは言っていないということについてどうしても考えてしまう。新海誠は不可能に対して祈り、願い、欲望でもって立ち向かうことを描き続けてきた、すなわち「出来ない」ことに「それでも」と言うことを続けてきたのだから、コントロール出来ないからといってコントロールを諦めることにはならない。1回目の鑑賞の後に、「ジェダイかシスかといえば圧倒的にシス」という感想を抱いた。私は新海誠が、『ハウルの動く城』や『千と千尋の神隠し』を作った宮崎駿よりも、『エヴァンゲリオン』を作った庵野秀明よりも(そしておそらく細田守よりも)、圧倒的に反ヒューマニズム的な場所で揺れていると思う。『すずめの戸締まり』で最も美しく描かれるものは、血、大地、そして死である。

 

 新海誠は言葉を恐れている。おそらく好き勝手気ままに増殖していく言葉であるという理由を含み込んで、観客の感想を恐れてもいる。そして恐れるということはそこに恐れるだけの力があると知っているということになる。今作でモノローグを排した結果どうなったかといえば、一つには台詞が破綻したということであり、さえずるように間投詞を吐き出し続ける鈴芽の台詞は聞くに堪えないし、草太との会話となると彼らが本当に会話をしているのか疑わしく思えてくる。キャラクターが声を発するごとに物語にブレーキが掛かるため、劇伴が壮大になり派手なアクションシーンを観せられても気持ちが画面についていかない。1回目の鑑賞だと序〜中盤で席を立とうかと思ったのだが友達と来ていたので止めた。モノローグは物語世界よりレイヤーが高次になる語りであり、このモノローグによって今まで新海誠は、作品全体を(かろうじて)統御するだけの抒情的な力を得てきたのだが、『すずめの戸締まり』ではその力は使えない。ではどうするのか。

 

 本作の『後ろ戸』は「常世  いわゆる霊界のような場所と繋がってしまったドアとして描いているが、その意味では『君の名は。』『天気の子』と同様に、民俗学的なアイディアを物語の仕掛けとしている。

 

 と書いてあるが実際のところ物語の仕掛け、舞台装置なのはキャラクターの方であり、「主人公」は民俗学的なアイディアの方になる。序盤から詰め込まれる、草太の不親切な説明的台詞によりしろしめされるこの世界の仕組みは映画の最後まで片時も揺らぐことはない。閉じ師は「宗像家」の家業であり、正確な台詞を失念してしまったが、草太の祖父が言うことには「普通の人」の関わるべきことではない。確かに彼は最終的に鈴芽を彼女の意志の向かう方へ送り出したように見えたが、彼女を「普通の人」とするには問題がある。「みみず」は宗像家の面々には見えるが、「普通の人」には見えない。そして当然のことだが鈴芽には「みみず」が見えている。伊予で地震を止めることに成功した鈴芽は束の間、「すごいことをやっている」と高揚する。泊めてくれた同い年の女の子(名前は忘れた。新海誠のキャラクターは名前を覚えておくのが難しいし、多分名前を覚える意味がない)に、自分(たち)が何をしているのかは明かさない。というか、基本的に鈴芽は「普通の人」に何も説明しない。説明を試み始めるのは、おそらくこの映画で唯一「大いなる力」ではなく、友情という人間的な理由で動いているキャラクターである眼鏡の兄さん(信じられないことに今この文章を書いているときにこのキャラクターの名前も忘れている)と出会って以降になる。ここには「選ばれし者」と「普通の人」がおり、その境界線が揺らぐことはない。

 

 そして「選ばれし者」はハウルのように美しい。「イケメン」という程度にしても。出会って幾ばくも経っていないイケメンのためにおそらく本気で死ぬことを「怖くない!」と言い切れる鈴芽がそう言い切れる理由を、後半で鈴芽の口から説明されるように「今まで生きるも死ぬも運だと思ってきた」からだとするには映画を通してみても説得力を持っていない。それは「怖くない!」の本気と釣り合っていない。鈴芽は序盤からそういう人間の顔をしていないし、声もしていないからだ。4歳をして家と母親を失った鈴芽にはいま2つの家があり、母親代わりの叔母がいる家は少なくとも後半までは居心地がすっきり良いというわけではない。もう1つの家、それは草太と戸締まりをしてきた「死の家」である。そこはすべての時間が集まる場所であり、美しく、懐かしい。観覧車の中で常世に魅入られる鈴芽。

 

 閉じ師は鍵を締める際にかつてその土地に生きていた者たちの声を聞くという仕組みになっており、場合によっては当時のビジョンを観ることになる。扉の外で。そのルールが破れるのが最後の常世である。西の要石が扉の外側にあり、東の要石は扉の内側にあった。「被災地」の昔のヴィジョンが見えるのは常世の側である。もちろん最後の扉の内側で、「これが常世……!?」と鈴芽が言っているのだから、常世でない可能性もあるのだが、その後のシーンを見るとどうもちゃんと常世であるように思える。具体的な地名や施設の名前を挙げられないのはもちろん覚えていないからだが、それ以上に最後のこの場所のヴィジョンが他の場所で見たヴィジョンより遥かに土地固有の具体性を欠いているからだ。常世は死者の場所、すべての時間が集まる場所である。つまり我々は扉の外側  死の地点から「被災地」のヴィジョンが広がるのをみており、現世  生の世界は家の内側にあることになる。今までの場所が生の場所から広がっていく死の時空だったのに対し、「被災地」はそもそも死の場所から死の時空が広がっていく。溢れ出る声とヴィジョンを封じ、東の要石の法則(そんなものがあれば)にならえば、最後の「行ってきます」の台詞、そして要石ともども、「被災地」は死の場所に閉じられる。ここには死の複雑な運動があるが、少なくとも言えることは、湧き出した「被災地」の声やヴィジョンは「普通の人」にはまったく届くことのない、縁のない場所に封じられたということであり、要石が解き放たれなければ  すなわち大震災がおこらなければ、これからの死者にとってすらなお縁のないものになったということである。

 

 ソフィーが扉の向こうの世界で、ハウルへ「未来で待ってる」と言った時、それは約束である。約束は今しかすることができない。その台詞が、今としての未来から、あるいは今としての過去から放たれる限りで、それは未来や過去であっても約束である。

 扉の内側で鈴芽が過去の鈴芽  常世はすべての時間が集まる場所なのだから、本当は過去とか未来とかいう言葉を使うのはおそらく適切ではないのだが  に母の椅子を手渡す一連のシークエンス。ここに込められた思いはたしかに美しいのだが、最後の最後で、鈴芽は「必ずそうなる、そうなることに決まっている」という風に言ってしまう。これは約束ではなく、予言である。ここには過去・今・未来という切断的かつ連続的な時間の秩序が乱れることに対する恐れが働いており、過去への予言はこの3つの時間に渡る秩序を確定しようとする営みである。私は新海誠が「コントロール」という言葉を使ったことを思い出している。

 

 そして過去の鈴芽はまた、何度も現世と常世を行き帰りし、椅子を継承し、予言をするだろう。生から死、死から生へと繰り返される運動は、一般には輪廻の名で呼ばれている。

 

─ ─ ─ ─ ─ ─

 

 わたしは先に新海誠が反ヒューマニズム的な場所で「揺れている」と書いた。新海誠が「反ヒューマニストである」とは書いていない。

 

 廃遊園地での戸締まりに成功した後、新海は鈴芽に「怖かった〜〜〜〜」と自然に言わせることが出来た(その直後の椅子=草太の笑い声は相変わらず会話として不自然すぎてゾッとさせられたが)。疎外感を抱えた「選ばれし者」は、旅の中で出会う「普通の人」たちの優しさに触れることが出来た(この点では『天気の子』のほうがよほど深刻だったような記憶がある)。おばとの関係を「大いなる力」の発させる言葉ではなく、人間の言葉で織ることが出来た(全ての過程がそうだったわけではないが)。

 

(前略)この感覚や体力や欲望がまだあるうちに、自分たちの全てを絞りきるような作品を作らなければならない。果たして間に合うのかという焦りや、見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安は、今もあります。でもだからといって、今立ち止まって周囲の顔を見渡すわけにはいきません。

 

 

 新海誠には不安がある。見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安もあるだろうが、それ以上に、わたしは新海誠が自分自身を不安に思っているのではないかという気がしている。1日目に観終わった後、私は観客の何人かは、背中が重くなったのではないかと思った。要するに「憑かれる」んじゃないかということだが、私見では新海誠は霊界やオカルト的なものに対して興味があるだけで感度がある人間ではないように思われる。だが、感度のない人間が作るものが霊的な力を持たないとは限らないのであり、実際わたしは人生で初めて、2日連続で映画館に同じ映画を観に行ったのだから、なにかおかしなことにはなっている。全く予想もしていなかったことだが、わたしが『すずめの戸締まり』に見出した新海誠の位置について、自分もかなり近いところにいるような気がしているからなのだと思う。

 

 廃墟を美しいと思うことや、自然の非人間的な冷徹さを美しいと思うことへ恐れをいだくことはあるだろう。宮崎駿が恐ろしいのは、(もちろん、美の領域に取り掛かる前の段階では悩むかもしれないし、美以外のことも考えるだろうが)彼が美へ向かう際には迷っていないこと、そしてその結果、美の中に美を超えた「なにか」を見せることができるという点にある。美が恐ろしいものであることは自明であり、「なにか」とは微妙に異なる「力」は、善悪の両方を望み引き裂かれる迷いの隙間から浸潤してくる。実際のところ、新海誠は「周囲の顔を見渡す」ことはできるだろうと思うが、本当は「あなたの顔を見つめる」ことができるか、ではないのだろうか。顔を見渡している最中の人間の耳に彼らの言葉は届かないから。迷いが、本当に芯を捉えた迷いなのか、そこから逃げるために誂えたはりぼての迷いなのか、それを見極めなければならないように思う。これはわたしの話。

 

─ ─ ─ ─ ─ ─

 

 49歳の今の僕にはもう『君の名は。』のような映画は作れない。運命の赤い糸のような物語は、今の自分には当時ほどの強度では作ることが出来ません。同時に、『すずめの戸締まり』のような物語は、今でなければ作ることが出来なかった。『君の名は。』の頃の自分には届かない深度(しんど)に、『すずめの戸締まり』はあると思います。『すずめの戸締まり』は、震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。きっと珍しくも特別でもない。でもそれをオリジナルのアニメーション映画として、メジャーな規模で公開されるエンタメの枠組みで作ったということに、今回の僕たちの仕事の意味があるはずだと考えています。

 

 「深度」という言葉を使っているが、今回の新海誠は、「選ばれし者」と「普通の人」を分割し、「地上の世界」と「地下の世界」を交わらないものとして分割した。これは皇居を映したとか「宗像」の問題より遥かに恐ろしい力をもっているので(なぜなら後者は物語世界内の個別的意味にすぎないからであり、新海誠が観客にふるった力は、物語世界全体を統制する意味であるからだ)、「主人公」が(ゆらぎがあるとはいえ)個々のキャラクターではなく設定である理由になる。タブーとは公然の秘密であるからこそ力を持つのだが、「皇居の地下」に対抗的な力を求めるのは、「公然の秘密」に対して「公然」を廃した「秘密」をぶつけて戦うことになるわけであって、それはどちらにしても「力」の領域である。

 

 「震災文学」などという言葉を自分から使うことも気にかかる。震災の前年に生まれ、もうすぐ中学生になる娘にとっては震災は「教科書の中の出来事」だろうと言えていながら、どうして「震災文学」などという全く教科書にお似合いの字面を選択するのだろう。教科書とはもちろん制度の言葉であり、教科書に書かれた歴史から私達が読み取るのは、私達が過去の物事をどのように覚えようとしているかであり、すなわち過去の物事をどのように忘れようとしているかに他ならないというのに。

 

 たしかに震災文学は数多くある。しかし当然のことだが、それは「震災文学」にとどまるものではない。もしも震災が本当に「大したこと」なのだとしたら、震災以降作られた全ての文学は震災文学であるはずであり、どのような作品にも震災の痕跡があるはずである。わざわざ「震災文学」などという名前を作り出した時点で、私達は忘れるための方法に手を付け始めたのだ。それは震災、という名前をつけることさえまだ早い「なにか」を封じるための呪言であり、もちろんその反応自体が一概に否定されるべきものではないにしても(『新海誠本』にはちゃんとフロイトの話が出ている)、「震災文学」、その言葉が何のひっかかりもなく自然に口の端から溢れるのだとしたら、わたしはもうその先から「大したこと」という響きを聞き取ることはないだろう。

 

 わたしたちが精神だけではなく肉体を伴って生まれてくる意味の一つは、わたしたちが生まれながらにして地震計であるということである。全く正当な理念によって整備されたであろう緊急地震速報のシステムがうんだ副作用の一つは、わたしたちが自分自身のことを忘れやすくなったことだ。情報として伝えられるために生み出された「震度」によってわたしたちが揺れを考えるようになったなら、わたしたちはどんどんわたしたちを忘れていくだろう。考えるとは、今まさに揺れがわたしのどこにどのようにあるのかということであり、その今は今としての過去でもあり、今としての未来でもある。その揺れを精密に捉えようとする限りで、わたしは「深度」ではなく「震度」を採用する。わたしたちは地上の活断層であり、今もきしみ続けている。毎日のように昨日のわたしたちが死者として生者のわたしたちに堆積する。ウェゲナーの大陸移動説が、離れた大陸同士に連続性を見出したことに比せば、わたしたちは地下に潜らずとも、すでに地上において、活断層として、引き裂かれた連続性、通じ合うはずの回路をもっていたのではなかっただろうか。

俺(たち)には「アンパンマンのマーチ」がある

 という結論になったので、以下説明していく。
 

 俺はアンパンマンについて人並みにしか知らないので、ストーリーや設定に絡めて何かを言ったりするのは無理だし他にいくらでも適任がいるだろう。なので俺は遠い未来(そう、1万年後くらい)の人間が初めて「アンパンマンのマーチ」を聴いた時のように書きたいと思っている。

 俺は音楽評論というものを自分の書ける文章から一番遠いものであるように感じている。基本音楽聴くときも歌詞は無視しているか聴き取れない。余程気に入った曲は歌詞を確認しに行ったりするけど、すぐ忘れる。それに覚えていたとしても、音楽は鳴っている音の構造だけであまりにも自立していて、しかも意味とは別の回路を通って俺に伝わってくる。そこへプラスして意味である歌詞を同時に処理するのというのは俺にはどうしても上手くできない。俺にとっては、音と歌詞の間には意味の境界があって、歌はその境界の上でゆらゆら揺れている。ここには突っ込んで考えられるだろういくつかの問題が存在するが(例えば、言葉から意味を剥ぎ取っていけば、言葉は音楽に近づくだろうか? それだけでは十分ではないのではないか? リズムと意味、音高と意味、抑揚と意味はどう関係しているのか? とか)、今は無視するし、俺は今回歌詞に全ベットしていくのでそこんところご承知おき願いたい。

 

 ☆

 「アンパンマンのマーチ」は冒頭から飛ばしてくる。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえ胸の傷がいたんでも

 
 冒頭の「そうだ」によって、聴き手は何らかの時間が凝縮されてここにあるのを知る。J-Popの基本構造が「(サビ→)Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→Cメロ→サビ」であるため、冒頭でサビが置かれる場合、歌詞世界の時間が先取りされるということがありうる。この操作は意味だけでなく時間というものを異化して提示することになる。「アンパンマンのマーチ」冒頭においてこの時間という要素は「そうだ」という言葉によって更に強められている。「そうだ」とは気づきの声であり、気づきは過去に提示されているか、気づきによって逆向きに構成されるかを問わず、自らのうちに「問い」を含んでいる。

 
 ではどんな「問い」だったのか? 次の歌詞を見てみよう。

なんのために生まれて

なにをして生きるのか

答えられないなんて

そんなのはいやだ!


 どこまで速いんだ「アンパンマンのマーチ」は。「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。孔子は「五十にして天命を知る」言うとるぞ。焦るな。と言いたくなるが、いちばん大事なのは「答えられないなんて」だ。二つの問いはどちらも目的論に属するものだが、ここで「生まれてきた理由」とか「生きる理由」とかいう風に、目的を実体化して取り扱うのではなく問いの形になっているのがいい。別にそういう理由は存在しなくてもいいのだ。「いや」なのは「理由が存在しない」ことではなく、「答えられない」ことなのだから。

 
 ところで、これらの問いは誰から発せられたのだろう。そして答えようとしているのは誰なのだろう。これが今回の記事で言いたいことのほぼ全てなのでちょっと覚えておいてほしい。

 
 (今回はアンパンマンのストーリーや設定に立ち入らないつもりなので補足という形になるが、「歌詞の主体」という観点から考えると「たとえ胸の傷がいたんでも」も興味深い。歌詞の主体が「アンパンマン」だとすると、少し不思議なことがある。視聴者が目にするところでは、アンパンマンが傷つく象徴的な場所はいつも「胸」ではなく「顔」だからだ。)

今を生きることで

熱いこころ燃える

だから君はいくんだ

ほほえんで

 
 本当に速すぎる。「アンパンマンのマーチ」は音速を超えているので、俺たちには十分聴き取れないまま、それは空の彼方へブッ飛んで行ってしまう。

 
 ここで「今」という言葉が出てきた。冒頭の「そうだ」における、「問い」と「答え」の間に広がっている時間の凝縮と、「答え」としての「今」は、どちらも瞬間として重なり合っている。過去だけでなく未来の時間をも凝縮する「そうだ」は、過去でも未来でもある「今」を瞬間のうちに形作り、そして爆発する。あたかも星のように。「燃える熱いこころ」とは時間の爆発がもたらす輝きなのだ。

 
 そして初めて出てきた代名詞「君」のすぐ前にある「だから」の密度。誰かがどこかへ「行く」ことはわかるが、どうして「ほほえんで」いくことにつながるのだろうか。この問いに答えを出すのはまだまだ早い。

 
 そして冒頭サビの歌詞が繰り返され、その次はこうくる。

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため


 「そうだ うれしいんだ 生きるよろこび」。生まれてしまうこと、そして生きていくことは「胸の傷のいたみ」を伴うが、それでも「生きるよろこび」の存在が肯定されている(「たとえ〜でも」)。この答えを用意した問いはおそらくこの歌詞に直接的には現れていなかったものだ。それは「どうして生きるのか」という問いである。「なにをして生きるのか」は暗黙のうちに「生きることを選ぶこと」を前提としているのだが、その隙間を答えだけで埋めてくる。スタイリッシュすぎるだろうが「アンパンマンのマーチ」はよお。

 上の引用部分は二つ目の問い「なんのために生まれて なにをして生きるのか」への回答に読めるが、ここで現れる「君」と「みんな」をどう考えればいいだろうか。ここで「君」が基本的に「アンパンマン」であることが分かるが、「みんな」は一体誰で、どこから来たのだろうか。冒頭から「君」と呼びかけ、命令形の動詞を発する者は誰だろう。そして「夢」とはなんだろうか。


 多くが置き去りにされ、「アンパンマンのマーチ」は光速に近づいていく。

なにが君のしあわせ

なにをしてよろこぶ

わからないままおわる

そんなのはいやだ!


 「生きるよろこび」は見つかった。では具体的には「しあわせ」「よろこび」とは何なのだろうか。それも「君」=アンパンマンにおいて。今の所アンパンマンは「いく」だけを持っている。

 ここでは「答えられない」ことではなく「わからないままおわる」ことが拒絶されているという差異にも注目しなければならない。1番の問いに対して答えることへの欲求は切迫しており、そこでは問われた瞬間の態度が問題になっているのだが、2番の問いには答えを出すまでの時間的な余裕がある代わりに、リミットとして(である)おわり=死が設定されている。1番では自分が出さなければならない答えへの理解の内実はあまり問われていなかったように見えるが、2番ではそうはいかない(「分からな」ければならない)。行為の価値から真理の価値へ、「君」=アンパンマンは飛んでいく。

忘れないで夢を

こぼさないで涙

だから君はとぶんだ どこまでも


 「アンパンマンのマーチ」の歌詞は難解だがここも難しい。「忘れないで」「こぼさないで」とお願い(命令?)している主体とその相手がまず判然としない。「だから」が続くのが余計に事態をややこしくしている。「君」=アンパンマンが「みんな」へ願い、その願いを叶えるために「君」=アンパンマンは飛ぶのだろうという解釈が穏当なところだろうが(アンパンマンは「みんな」の夢をまもるために「いけ!」と命じられているのだから)、呼びかける者/呼びかけられる者の関係が錯綜していることは間違いないだろう。

 
 とにかく「君」=アンパンマンは飛ばなければならないのだが、「どこまでも」が「おわる」の後に出てくるのがすごい。ハイデガーヴィトゲンシュタインらが言う通り、死は厳然としてありながら、語り得ぬものであり、(経験)不可能なものですらある。分かろうが分からないままだろうがいつか生は「おわる」のだが、みんなの夢をまもり、涙をこぼさないでいいようにすることを生の幸福、歓喜として把握したことにより(「だから」!)、「君」=アンパンマンはあらゆる「おわり」なしに飛んで「いく」。ここでアンパンマンの「いく」理由(「みんなの夢 まもるため」)に加えて、「どこへ行くのか」が解決されたことになる。その場所に限りはない。飛行が終わることなどない。

そうだ おそれないで

みんなのために

愛と勇気だけが ともだちさ


 ここでの「そうだ」は気づきの声というよりも「おそれないで」を肯定する声に聴こえる。「みんなのために」、おそれてはいけないのだ(「みんな」って誰なんだ? とそろそろみんな思い始めるだろう)。

 その次の行はおそらく「アンパンマンのマーチ」の歌詞について人が語る時最も注目される部分だろう。なぜ「だけ」なのか。この問いも後回しにする。サビの後段が繰り返されるが、もしかして「君」=アンパンマンが「ほほえんで」行くのは「やさしい」からだろうか。それはほとんど問題の先送りに過ぎない。問題は「だから」にある。

時ははやくすぎる

光る星は消える

だから君はいくんだ ほほえんで


 「君」=アンパンマンは「時間の時間」について知っている。「もえる心」=「光る星」が「消える」=「おわる」ことを知っている。ここでの「だから」は1番の「だから」よりも手を掛けられる部分が多い感じがする。「君」=アンパンマンは、「胸の傷がいたんでも」「生きるよろこび」の存在を肯定し、「みんなのために」「おそれない」自身を肯定した。「君」=アンパンマンの肯定は、「分からないまま」だろうが分かろうが「おわる」幸福と歓喜に満ちた「光る星」の肯定のうちに無限の揚力を得ることへとつながっていく。ゆえに「だから」。ほほえみとはこの歓喜を知った星と時間の輝きのことであり、その証であり、同時に無限の飛行の条件なのだ。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえどんな敵があいてでも

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため 

 

 「アンパンマンのマーチ」の歌詞の中で最も異物感を放っている言葉がこの「敵」だ。2番の「ともだち」を踏まえると、俺はどうしてもカール・シュミットを想起してしまう。シュミットは『政治的なものの概念』で、政治的なものが国家で、国家が政治的なもので説明される悪循環を打破するために、道徳的なもの、美的なもの、経済的なものとは異なる基準で「政治的なもの」を定義しようとした。そして提示されるのが「友と敵の設定」だ。シュミットは敵の性質について色々言っているが(『政治的なものの概念』ではまだ曖昧だったが、後年の『パルチザンの理論』になると「正しい敵」として「在来的な敵」、「現実の敵」が、それとは異なる次元の敵概念として「絶対的な敵」が提示される)、そのあたりは今別にいい。問題は「敵」という言葉が現れたことによって、「みんな」をどう解釈するかという点にヒントが与えられたということだ。「君」=アンパンマンと「みんな」の「敵」としてなにかが現れるとすると、「君」=アンパンマンと「みんな」は友として規定される、ということになるのだろうか。アンパンマンはみんなの夢を脅かす敵のために戦う軍隊なのだろうか。ここでの敵とは政治的な次元のものなのだろうか。

 もちろんそうではない(補足として言えば、だいたいアンパンマンがいるのはジャムおじさんパン工場である。シュミットの友敵理論で言うところの「敵」とは「私敵」ではなく「公敵」であり、それは国家に代表される政治的統一体の主権者によって決断され設定されるものだ。パン工場はどう見ても議会ではないし、宮廷でもない)。どうしてここに引いてくるには無理があるように見えるシュミットを持ってきたのかといえば、それがシュミットの「友敵」とどう違うのかという梃子として、歌詞の内容に迫るための助けになるからだ。アンパンマンの「ともだち」は「愛と勇気”だけ”」であり、「みんな」は含まれていない。シュミットの友敵判断においては具体的な敵の量(そして反射的に友の量)が重要であるが(友敵対立の極限としての戦争を考慮しなければならないため)、「たとえどんな敵があいてでも」と、ここでの敵は具体的ではない仮定のうちにとどまっているし、アンパンマンの「ひとり」とは量的な「一人」でもあるが質的な「独り」でもある。シュミットの政治的なものにおける友敵の判断には、他の質的な概念は原則としては入ってこないので(もちろん現実には道徳的なものや経済的なもの、美的なものにさえ侵食されるわけだが)、孤独とかマジどうでもいいわけだが、しかし、どうしてこの歌詞で「敵」のようなゴツゴツした、おどろおどろしい言葉が使われたのだろうという問いはまだ解決されていない。


 ようやく俺たちは「アンパンマンのマーチ」に追いついてきた。多分文字通り追いつかなきゃいけないんだが……置き去りにしてきた問題を解決しよう。歌詞に登場する存在者たち(呼びかける者/呼びかけられる者、「みんな」と「君」=アンパンマンの関係)の問題、「敵」の問題、「夢」の問題、そして「だけ」の問題。

 「ともだち」として具体者が存在しないことは、アンパンマンが「君」として、二人称単数で呼びかけられていたことと呼応しているように見える。声を掛けるものと掛けられる者は「ともだち」の関係ではない。では声を掛けるものとは「みんな」だったのだろうか。みんなからの一方的な声援を受け、孤独のうちにアンパンマンは「みんな」のために「ほほえんで」飛ぶのだろうか。多分そうではない。(補足で示唆したが)この歌詞の主体は基本的にアンパンマンであり、「君」とは自分自身への呼びかけだと考えられる。この歌詞に頻出する「だから」のつながりを自然に理解するにはそう読むしかない。だがそれだけでは十分ではないのだ。「忘れないで夢を」の「夢」は「みんなの夢」とつながるから「みんな」への呼びかけである。どうして「愛と勇気だけがともだち」であるアンパンマンが「ともだち」ではない「みんな」へと呼びかけたのか。超人的な人格の持ち主だからなのだろうか。そうではない。結論を言えば、「アンパンマン」とは「君」であり、同時に「みんな」なのだ。そこにはきっと俺もいる。

 (「アンパンマンのマーチ」しか知らない人間として書くという縛りを外して言えば、この結論は「アンパンマンたいそう」を知っていればすぐに出せる。その歌詞には「アンパンマンは君さ」と直球で答えがあるわけだから。なんだこの迂遠な記事はよお……それはともかく、アンパンマンの顔がどれだけ交換可能であっても基本的に同一であることは、「アンパンマン」が「みんな」と同一であるという主張を補強してくれる。人がアンパンマンである時、その顔=差異がどうあろうがその「顔」は「アンパンマン」として同一なのだ。と同時に、「顔が交換可能であること」そのものは、元からアンパンマンのような顔でない「みんな」の顔が「アンパンマン」の顔に交換可能であることもまた示している。)

 「アンパンマンのともだちはどうして愛と”勇気”だけなのか」、という問い方自体がおそらく正確ではないのだ。「そうだ おそれないで みんなのために」と言うアンパンマンの、無限の飛行のうちにこの問いは設定されなければならない。これは「おわり」の問題に関連している。自分の死を死ぬことができない「みんな」は、輪をかけて友達の死を死ぬことはできない。そもそもアンパンマンは「君」=自分自身への呼びかけの中で無限の飛行に至る真理を手に入れた。その過程は孤独な営みであり、「みんな」からの声は「いけ!」の一言しかない。「みんな」が冷たいとかそういうことじゃない。「光る星は消える」という真理を前にすれば原理的にそうなるという話だ。
 
 こうしてアンパンマンは「愛と勇気」だけを友とする。愛によって「ともだち」を超える願いが可能となり、勇気によって「いく」「とぶ」が可能になる。敵が「たとえどんな敵があいてでも」と非限定的であったこともまた愛に結びついている。シュミット的な敵との違いは歴然としている。シュミット的な友敵概念で絶対にありえないこと、それは自分自身を敵に設定するという事態だが、この歌詞の上でその可能性は否定されていない。アンパンマン=みんな=俺の敵が自分自身であることは十分あり得ることだ。自らによって夢を忘れること、涙をこぼすこと。そういった敵にもアンパンマンは、愛をもって立ち向かって「いく」ことさえできる。というか歌詞の中でアンパンマンは行為としては「いく」「とぶ」ことしかしていない(ああ、「生きる」ことを忘れちゃいけない)。そこには超人的な技も、強力な武器も、武力行使もない。このことは、アンパンマンの「敵」の捉え方だけでなく敵への向かい合い方までもがアンパンマン=みんな=俺に広く委ねられていることを意味している。敵へと向かっていきながらほほえむことができるのは、愛と勇気の力にほかならない。

 愛の条件の一つは、境界を超えうるか否かだ。「アンパンマンのマーチ」の歌詞における「敵」という異物は、愛が最も試される瞬間、すなわち他者との邂逅を明確に形作るために置かれたのだ。関係性の不明確な「他者」ではなく、明白に自らへ対立する他者としての「敵」が、アンパンマン側から設定されるのではなく歌詞の中に突然に現れる。勇気が「いけ!」と呼びかける。

 

 アンパンマンを歌詞の主体として読むとき、そこで現れている感情の発露「いやだ!」の内容は、「みんな」にとっても根源的なものである。単純な話、「夢」とは「なにをして生きるのか」の答えと言っていい。アンパンマンは歌詞の中で「なんのために生まれて」きたのかから問い、問われ、「なにをして生きるのか」という問いに答えを出した。みんなの夢を守ること。循環めいたものがあるが、不思議でもなんでもない。すべての夢は「アンパンマンになること」という形を必然的に取るのだから。

 (補足:アニメのアンパンマンがどうして新しい顔を得るたびに「X気Y倍!アンパンマン!(Xには「元」とか「勇」とか入る。Yの最頻値は100)」と言うのか。それはアンパンマン自身でさえもがアンパンマンの顔を手に入れることで初めてアンパンマンに「なる」からであり、アンパンマンアンパンマン「である」のではない。そしてアンパンマンに「なる」直前には、ジャムおじさんやバタコさんをはじめとする「みんな」からの「アンパンマン!新しい顔よ!」という呼びかけがある。呼びかけに答えることがアンパンマンに「なる」ことの条件であり、そしておそらくその呼びかけはアンパンマン=みんな=俺の図式として、「君」という形でやってくる。)

 

 夢に向かう夢であるアンパンマンのとりうる動詞がほぼ無限定に開かれていることは、「みんな」がほとんどどのようにもなれることを意味する。ただし二つの義務がある。「いけ!」という自らの声を聴くこと。そして、どこまでも飛ぶこと。

 
 そうすれば、俺はアンパンマンになれる。……そして多分、君もそうなんじゃないかな、と思っている。そしてようやく、俺(たち)はアンパンマンの「胸の傷」がどんな感じなのかを知っていたことを知るだろう。

 


 俺は英雄にはなれないだろう。というか多分ならなくてすむならならないほうがいい。
 英雄の本質は、その顔が交換不可能であることだ。

 シュミットは『政治的なものの概念』でこう書いている……って書きたかったんだけど手元にある本(今は手に入れにくいと思う)では『政治の概念』というタイトルなんで、そこから引く。

 国民が政治の圏域に実存する限り、国民は極限的場合──それが現存するかどうかは国民自身が決定する──に限られるとはいえ、友敵の区別を自ら規定せねばならぬ。ここにこそ国民の政治的実存の本質が存する。国民がもはやこうした区別をする能力なり意思なりを持たない場合には、国民は政治的に実存することをやめる。誰が彼の敵であり、誰と戦ってよいかが他者によって指示される場合には、政治的に自由な国民はもはや存在せず、他の政治体系に編入もしくは従属せしめられる。*1

 

 シュミットは政治的なものの圏域というのをきちんと画定しようとして色々書いていた。政治的なものを国家と同一視しないこと、かといって経済的なものや社会的なものに政治的なものを解消させないこと。その過程で上の文章ができた。これは1932年に出た第2版からの翻訳。個人的にシュミットはちょっと前(多分2,3年前?)くらいから面白いな〜と思っていたんだけど、面白いってことは(多くの場合)危険であることと不可分なんだなというのを再認識させられた。

 

 英雄にはならなくてもいいけど、ヒーローにはなれるものならなったほうがいい気がしている。別に特殊な能力を持ってるとか、異常に身体が強いとか、そういうことはヒーローの必須資格じゃない。ただ、どんな敵が相手でも立ち向かわなきゃいけないというのはある。これはマジで厳しい。自分の方から敵を定めないことがヒーローの条件とはいえ、敵を選べないわけだから大変なことだ……とか色々思っていた結果、アンパンマン(正確には「アンパンマンのマーチ」のアンパンマン)凄すぎるとなったため今回の記事となった。アンパンマンが守らなければならない夢には自分の夢も入っている、ということは、英雄的なものとは違うところにヒーローを立てられる可能性を示しているように思う。

 アンパンマンは、生きることが終わっても飛べること、飛ばなければならないことを教えてくれた。だから俺もなんとか飛ぼうと思う。
 不幸にして今はまだ会えない人。1万年後でも待っとるぞ。

 

 

アンパンマンのマーチ

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*1:「政治の概念」,p.202(カール・シュミット著・長尾龍一他訳『現代思想1 危機の政治理論』所収,ダイヤモンド社,1973年 )

本麒麟の註

 最近気に入っている註があって、まあタイトル通りではあるのだがとりあえず次の画像を見て頂きたい。

 

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(『本麒麟』350ml 6缶パック、2022/1/28、撮影は引用者)

 

 「うまさ、極める。」と影付き文字で大きく出ているが惹句なのでそれは別にいい。そんなことを気にしていたら、サッポロの『GOLD STAR』なんかは同時期に6缶パックで「すべてのうまさを、過去にする。」と力強すぎる惹句を打ち出しており、俺は酒類売り場に足を向けてはGOLD STARのパックに書かれた文言を見るたびに、(すべてのうまさを、過去にしてしまったGOLD STAR。その味を、俺達は「うまさ」という範疇で果たして理解することができるのだろうか……?)などと思っては心の中でのみならず普通に顔面もニヤニヤしていた(キモすぎる)ので収拾がつかなくなってしまう。

 問題は惹句そのもののデカさではなくて、商品と惹句の関係にある。丁度GOLD STARの話を出したので引き続きその例でいくと、「すべてのうまさを、過去にする。」は、素直に「この商品は競合商品に比べて格段にうまいですよ」、というアピールとして読める。広告として実にスタンダードな訴求であり、分かりやすい。他のビール系飲料も大体はそんな感じで、あとは原材料の話とか、糖質やらプリン体やらが0ですよとかが多いと思われる。とにかく商品のガワに書かれていることは中身に関わりがあるのが基本ということだけ覚えてくれればいい。ちなみに俺の記憶ではGOLD STARの6缶パックに註はなかった。

 一方の本麒麟

 本麒麟も註、「※」がなければ、他の商品と似たりよったりの、特筆すべきこともない惹句だったに違いない。だが本麒麟の註は本当にヤバい。

本麒麟が目指すうまさを極めていくという姿勢」

 ※の対象は「うまさ、極める。」という文全体に掛かっているように見えるが、註の対象が語句ではなく文であるのにどうして「姿勢」という体言止めで終わるのか。いや「極める」だけだったら動詞なのでもっとヤバいんだけどそんなのはまだ序の口というかまだ俺の単なる穿ちの範囲である。

 この惹句と註を合わせて解釈するならば、この商品パッケージには「姿勢」が書かれていることになるのだが商品パッケージに姿勢を書くとは一体どういうことなのか? 「うまさが極まっていること」と「うまさを極めていく姿勢」はぜんぜん違う。今俺の目の前にある本麒麟の中身、これのうまさは極まっているのか? 極まり途上であるのか? 全然極まってないのか? 一切が不明であるこの惹句は異様な訴求力を持って俺を誘惑する。

 多分、本麒麟という飲料の中身には姿勢とかない。本麒麟は動物ではないので当然意志とかもないのだから当たり前の話である。そうするとおそらくこの「姿勢」とはキリンの商品開発部が本麒麟の開発にかける姿勢、思い、決意といった類のものを表しているのであろう。となるとこの惹句は、商品の中身と直接の関連を持っていないことになる。前掲のGOLD STARの惹句は原材料の品質アピールや健康志向アピールよりやや曖昧な文言ではあるが、それでも主語にGOLD STARという商品それ自身を代入してもさほどの違和感はない。だが本麒麟でそうしてしまうと、商品が「俺、やる気あります! これからももっともっと……うまさ、極めるんで……口ん中、行かせて下さい!!!!」と言っている感じになり俺は一体何なんだコイツは、という感興を覚え嬉しくなってしまう。

 いつ頃からか自動車やマンションなどの惹句が、商品そのものの特性をアピールすることからブランドイメージをアピールする方向へ傾斜するようになったと記憶しているが、本麒麟の「姿勢」は、ブランドイメージとも異なる。「姿勢」はどちらかというと企業理念とかに近い概念であり、俺達はプルタブを空け、プシュッ、という音の向こう側に、確かな肉体を持った人間たちの熱意、そしてそれによって駆動する、企業という近現代を代表する有機的システム、その交響楽を聴き取ることになる……

 

 ?

 

 商品のパッケージは気づくと変わっていたりする。俺を楽しませてくれた本麒麟の註もいつか消え去ってしまうのかもしれない。いや俺が楽しみまくっていただけで、もしかしたらキリンの方ではこのパッケージに落ち着くまでに紆余曲折あり、愉快でないこともあったのかもしれない。これは霊感なのだが、俺みたいな人間を惹きつけるためにこの文言に決めたという広告戦略の匂いは、このパッケージからはしない。まあ、ただの消費者である俺には分からないことだ。とりあえず本麒麟350ml6缶パックを買った。だからこのブログには本麒麟350ml6缶パックの写真があって、俺はこの記事を書いている。

 

 こういう本麒麟みたいなタイプの面白い註、本文との相互作用で謎の面白みが発生するタイプの註というのは本ではあまり見かけない。註が豊富な本といえば研究書だが、大抵そういう本の面白い註というのは大体著者が狙ってやっているという「姿勢」が伺えるものが多い。研究書(?)だと俺の記憶に残っている最後の相互作用面白註は、ヤニス・クセナキスの『形式化された音楽』で、野々村禎一と冨永星による翻訳である。今手元にない上に読んだのが数年前なので正確な引用ができなくて申し訳ないのだが、訳註が凄かった覚えがあり、ストレートに「意味不明」とか書かれていたと思う。クセナキス自身が本の最後の方で数学補足を書いているのだが、確か訳註で「証明すべき定理を前提にしてしまっている」といった指摘がなされた後に正しい定理の証明の方針が生真面目な文体で記載されていて爆笑した記憶がある。俺はそんなにクセナキスの音楽は好きではないけどクッソ天井の高い狭い暗いスタジオで尋常じゃないチャンネル数のサラウンドで爆音で聴いたら好きになるかもな〜ぐらいに思っていたのだが、この本を読んで逆にクセナキスという作曲家の凄みを感じた。数学はクセナキスを数学ではなく音楽に導いたのだろう。

 小説だとエルンスト・ユンガーの『ガラスの蜂』という小説があって、阿部重夫と谷本愼介が翻訳しているのだが、これも訳註が面白い。この本はまず本文203ページに対して訳註が88ページもあり、小説世界を超えていくようなところがまず面白いのだが手元にあったので次の画像の「*毒針」部分を見て頂きたい。

 

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(エルンスト・ユンガー『ガラスの蜂』田畑書店(2019)、阿部重夫・谷本愼介訳、p266、撮影は引用者)

 

 読んだ当時、小説の註でNHKEテレ香川照之の昆虫すごいぜ!」四時間目クマバチ編を参照していいんだ、という衝撃が物凄かった。ある程度有名な話ではあるから、この「〜を参照」の部分は載せなくても良かっただろうし、載せるにしても昆虫学の本だったり、もっと言えば図鑑とかで良かったのではないか、なにもテレビ番組でなくても……という気持ちになるかもしれない。だがどうしても訳者はそう書きたかったのだろう。そしておそらくその理由の重心は「香川照之」にある。エルンスト・ユンガーと香川照之、活躍した時代もその人生の内実もかけ離れている二人が共有していること、それは、フランス語ができるということよりも昆虫が大好きであるということに帰されるだろう。だがそれだけではないような気がする。生涯に渡って「形態」に注目し、その深奥に地上の生命や技術と天上の星辰、それらが結びついた魔術的な世界を垣間見ていたユンガー。彼は1998年に101歳で亡くなったが、ドイツから遠き現代日本には、無類の昆虫好きであり、肉体という「形態」の物理的秩序と文化的秩序の制約を受けながら深奥を作り変えそれを表出させる職業たる俳優を選んだ香川照之という人間が生きている。訳者はこの二人の間に、時空を超えた存在の共鳴を聴いたのではないか。

 ……とまあここまで色々書いたが、ここで紹介した相互作用の面白さはいずれも本文と書き手が別であることによるところが大きいから、どうも本麒麟的な面白さとはちょっとずれている気がする。それぐらい本麒麟の註は奇跡的なものなのかもしれない。

 

 ☆

 

 最近正宗白鳥の『文壇五十年』(中公文庫版)を読んだのだが、その「序」にこんな一節がある。

 自分の一生を書きつくしたと云う人もあるが、実は、一部分に過ぎないのではあるまいか。私なども過去の思出は、小説として随筆として、或は、回顧録と銘を打ったりして、たびたび書いて来たけれど、それは実際の見聞、自分の生きて来た経験のすべてから見ると、九牛の一毛と云っていい。重な事大事な事だけは書いたつもりであっても、どれが本当に重要な事件であり経験であったか、分ったものじゃない。

正宗白鳥『文壇五十年』中公文庫(2013)、p3) 

 

 自分の人生を語るとき、それは僅かな本文なのだろうか、それとも語り得ない本文の膨大な註釈なのだろうか。あるいは不格好でも一応本の体裁は整うのだろうか。自分を物語ること。

 

 僕は小説家なので毎日物語を作っているわけです、でも小説家だけじゃなくて人というのは日々自分の物語を作り続けるっていうものなんです。意識的にせよ無意識的にせよ、人は自分の過去現在未来を物語化しないことには上手く生きていけないんです。

村上春樹さんが会見で語ったこと|サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB、2022/1/28

 

 村上春樹は「自分の物語」についてこのように言っている。共感するところもないではないが、俺はどちらかというと大岡昇平の言うことに惹かれる。

 

 人生をすべて小説的にしかながめられない人は不幸なのです。その不幸をのがれるには、いい小説を書くほかはありませんが、いい小説が必ず書けるとは限らないから困ります。その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫(2014)、p249)

 

 まったく困ったものである。ところで最後の一行の頭に※を打ち、「※その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。」にしてみたら、なんだか可笑しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第4回阿波しらさぎ文学賞落選作と雑記

 特に使い回す可能性もないが他に出すところもないし、かといって仕舞ったままにしておくには個人的に惜しいという温度感のあったタイトル通りの応募作品について、全文を掲載した後、雑記が載ります。

 

『遊弋』伊東黒雲(15枚)

 

 ちょっと出てくるわ―んー海まで散歩―うんあー了解了解ってキラリのママチャリ乗って線路沿いにキコキコ鳴らしてたらすぐJR須磨駅に着いたんだけどもう日は沈みかけてたから砂浜を縫っている赤レンガの舗装がちょっと不気味な質感でというか寒い! 七月中旬だぞまだ気まぐれなのかよ。微風でも半袖の腕にはしりしりくる。押してくかー自転車で潮風をカバーできるしってまあ無理だけどこういうのは気持ちの問題だからって俺は水族園の方に歩き出す。散歩ってしようと思ってするというより身体が玄関の方に引っ張られててそれに気づくとああ俺散歩したいんだってなるんじゃないか。目的がないことを目的にしてる行動というかああでもお使い頼まれちゃったなビールかーマックスバリュは遠回りだなーまあ運動と思えばいっか。あるやつ適当に選んであ、でもまだ俺散歩感感じてるな。買い物感はない。「ついでに」をつけると主目的を乗っ取らずにお願いできるわけだな策士キラリめって水族園が遠い。やー気づいてるんだよ。水族園が遠いんじゃなくて俺が進んでない。海にくると嫌でも明石海峡大橋が目に入る。観念すっかーって俺は踵を返す。そういやカネダ死んだってツイッターで誰か呟いてたなユキノだっだっけか? 三〇過ぎたら知り合いも少しは死ぬだろうなとは思ってたけどこれでオケの同期二人目か。ハヤサカは自殺でカネダは病死。二人ともそんなに仲良くならなかったせいだと思うけどしょうがねえよなそういうこともあるよな色々あるしなくらいで考えが続かなくなるのは年齢のせいって部分も確実にある。留年してた頃は自分の年齢なんか忘れてたのにスゲー色々悩んで考えてた気がする。今とは逆だな。戻りたいかって言われたら別にって感じだけどてかいま親父何歳なんだっけっていよいよ俺は親父のことを考え出し足が重くなる。しょうがないから砂浜に自転車を置いて俺は波打ち際に腰を下ろす。もう死ね親父みたいな勢いはなくなったけどやっぱ帰省は毎年気が重かったのが去年は世のゴタゴタで帰省しなくていい雰囲気になってホッとしたし今年もどうやらそうなりそうでますますホッとしてるはずなんだけどキラリもコースケも割と残念そうでホッの上前歯裏の付け根あたりがもよもよしてくる。いや鳴門だぞド田舎だぞそんな楽しみか?って俺は思うけどキラリもコースケも東京生まれ都会育ちだから目に映る世界が俺とは違うのかもしれない。毎年手渡しで貰ってたすだちは去年から宅配便で送られてきていて今年の分も既に冷蔵庫に入っている。アレをみるとイラッとするのは今も治らないけどキラリとコースケがワイワイしながらざるうどんにすだち絞りまくってるのを見ると顔に出すのは良くないからきゅいって笑顔に持っていく。多分今年もあの橋を渡ることはないんだろう。あー綺麗に光ってんのが余計くるな。奥さんに逃げられた親父はあの橋が完成する前に俺を連れて瀬戸内海を渡ったらしいけど詳しいことは特に聞きたくないで済ませてきたから知らないし当時は三歳だったから記憶もないけど確か大鳴門橋はもうあったはず。親父は鳴門高校近くに小さな庭付きの一軒家を借り俺より育てたいんじゃないかってくらい庭にすだちを繁茂させて無口だった。休みの日にはよく千畳敷の展望台まで俺を連れて行ってぼけーっと淡路島の方を見たりしてて俺は会ったことねーけど母さんのとこ戻りたいならはっきりしろよって思うようになった頃あの明石海峡大橋ができて絶対に親父が逃げ出した東京にダッシュ! ってメラメラ燃えていたけど親父は国立じゃないとダメだとかぬかすのでマジで厳しく行けたのは結局名古屋。でも良かった。都会で鳴門が遠けりゃどこでも良かった。夜行バスでバイバイしてこんなとこには二度と戻らんぞクソボケと思ったあの座席はまー狭くて全てが硬かったけど最高だった。それから爆速で名古屋に飽きて授業も特に興味湧かなくてばんばか留年してチャイ五とかハルサイとかめちゃくちゃ練習した。一番楽しかったのはシェーンベルクの室内交響曲第一番。なんであんなプログラムが通ったんだよ。メインはブラ四だったけど釣り合い取れてるか? ってやってたら当然帰省なんてしないしそもそも俺の生まれは巣鴨のはずで俺は東京に帰るべきなのになんで親父は鳴門にいるんだってどうしようもないことにムカムカしていた気はするけど本当かどうかはもう渦の底。大学四年目まではまだ殺意があったはずだけど留年し始めてからはやけに細かい「哲学」的な問題に凝り始めてそのくせ後から振り返ると思考の記憶が曖昧に溶けていて何やってたんだか完全に分からないという風になっている。あまりに典型的で寒かったなーあの頃はうわー「あの頃は」なんて考えてるよもう老だな三三ってもうそんな感じなのかどうなんだろう大人になるって全く想像も実感もできないままなんだけど俺ヤバイのかな? まあ学部七年も行った奴は普通にヤバいかー七年目でようやく卒業と就職が決まって一応連絡したら親父はおめでとう良く頑張った一度帰ってきて呑まないかとか言ってていや絶対お前とは呑まんがって頭がカッとなったけど今考えるとカッてなりたいなるべきだって感情させてたような気がしなくもないっていうのはいくら留年しても親父が特に俺を叱らないどころか最初に留年した時俺も八年行ったからなとか衝撃の告白までしてきて頭の中がもんじゃみたいになったそりゃなるよずっと無口でいりゃいいのに口を開けば常識を盾にか弱い子供を激詰めしてきやがってお前もレール外れてんじゃねえかよって思ったのは些事でもう意地張んなくて良いんじゃね? っていう考えがあのあたりで生まれた気がするせいでもう長い間親父と俺の一部が結託して俺を負かそうとしてくる卑怯すぎるしでも二対一じゃ勝てないから希望に目を輝かせているフリして追い立てられるように東京で働き始める頃にはもう名古屋で都会への憧れなんか擦り減ってしまっていたからHPMP共に削れた状態で労働にブン回されてノックダウンしてもっと友達を大事にすべきだったなーってすごい思ったんだよなだって都会って結局趣味や気の合う奴が身近にいるから色々楽しめるみたいなことばかりでモノが好きなだけなら通販とかだけで良くて釧路だろうが舞鶴だろうが北九州だろうが一緒だろあー寂しい寂しい寂しい! ってマッチングアプリ始めて出会ったのがキラリでキラリは本当に優秀で俺より年下なのに年収が三倍違った上に二歳のコースケの育児放棄し浮気までした夫をすっぱり切ってガッツリ慰謝料も取って本当にちゃんとしている自分と真逆の俺のどこが良かったのか今でもはっきりとは分からないんだけどキラリに言わせると前の夫と真逆な感じだし一緒にいて息がしやすいらしいけどそんな簡単な感じで良いのか良いよーってことで結婚した。流石に報告しなきゃいかんだろと思って親父のとこ行ったらまあ嬉しそうだしそれはそれはよく喋る。孫に血の繋がりがないとか全然気にしてなさそうな皺の目立ち始めた笑顔でコースケーおじいちゃんと一緒に橋見に行かんかーとか言うしその勢いそのまま俺にまで話しかけてくるから俺は記憶の中の親父みたいにどんどん無口になっていくし普通にこの部屋から出てーと思ったけど庭のすだちが相変わらず元気いっぱいでげんなりするからどうしようもないってタイミングで何で縁もゆかりもない鳴門なんかに引っ越したんだよ親父って聞くべきだった気がするけど今の今まで聞けてない。そういや未だに再婚してないな親父ってロマンチストなのかはともかくロマンとは違う感じで結婚した俺がママチャリのチャイルドシートにコースケを乗せて走ったことは一度もなくて出会った時にコースケはもう小学一年生だったからもう一人で乗れたあのかわいいサイズの自転車とママチャリ連れてキラリの仕事の都合で俺達は神戸に引っ越して俺はのんべんだらりと自宅でWebデザインの受注しているがこう振り返ってみると親父からできるだけ離れてはみたけど結局引き摺り込まれるように鳴門に近づいているんだよなーって電話が「今どこー?」「海きてるよ」「良かったー。ちょっと今手が離せないから駅にコースケ迎えに行ってくれる? そろそろ着くから」「オッケー」ということでジーンズの砂払い落して須磨駅に向かうとコースケはもう北口の外に立ってて英単語帳をぱらぱらめくっている。コースケ、と発音する直前は未だに気道が一瞬細くなる気がする。「お疲れ」「うん」「今日は何やったんだ」「線形代数」「そんな難しいことやってるんだな」「お父さん、母さんから聞いてないの?塾がプログラミングとかAIとか大事っていうから教えてくれるんだよ。まあやってることは行列の足し算引き算みたいな簡単なことばっかだけど」いや知ってるけど改めてヤバすぎるだろまだ小四だぞというか話すたびに思うがコースケしっかりしすぎてて怖いって別にキラリは母さんで俺がお父さんって部分は逆に年齢相応でちょっとかわいいとさえ思うし俺がいきなりコースケお前は確かに最初は「ついでに」だったかもしれないけど今はそんなことないしというか別に今も「ついでに」だったとしてそもそも人生に意味なんかないしでも意味がないからこそ散歩と同じような良さがあるわけだからさお前も俺を軽い「ついでに」だと思って一緒にもっと楽しく仲良くやっていこうよついでに俺を「お」を付けずに呼んでくれよコースケって言い出すの異様すぎるから当然そんなことしないけど俺小四の時ってどんなんだったっけ? 少なくとも勉強はしてなくてヴァイオリン弾いて本読んで寝だった気がするがコースケは俺のヴァイオリンや本を触る上にガンガン勉強するので小四俺の完全上位互換でノックアウトだがママチャリ押してコースケと並んでマックスバリュに向かって歩く三三の俺がぶっ倒れるとコースケが困るしママチャリのライトはちゃんとつけてる。あああコースケ後ろに乗るかーって言ってみようかなでも絶対恥ずかしいだろコースケもってかチャイルドシート使ってなさすぎて汚れまくりだし純粋に嫌だろうなーでもまた三年後くらいには使うことになりそうだしいつかは綺麗にしなくちゃなー何が要るんだろう古雑巾と洗剤とついでにチェーンも綺麗にしたほうが良いよな異音が凄いしってこれはコースケから逃げてるのか? もっと俺から話しかけた方が良いのか? っていっつも思ってるな結局俺もコースケから見たら無口な父親なのかもなー意識して軽い感じで話しかけているつもりではあるんだけど結局俺は親父の息子かー「お父さん、帰らないの? 家から離れてるけど」「ん、ああ、母さんにビール買ってこいって頼まれたんだよ。マックスバリュまで行こうかと思って」「そんな遠くまで行くの? この辺コンビニあるよ」そうなんだよな。家を出た時は気の済むまでぶらぶらしようと思ってたけど今はお前がいるからなコースケお前が正しいよ。ほんとに。「なあ、コースケ。父さんは」「ん?」「いや、何でもないよ」ってセブンイレブンにきた。そしたら思わず手に取ってしまったビールがあってその理由が澄んでさらさらした琥珀色のせいか産地のせいか分からない。メキシコかーメキシコまで行ってたら渦から逃げ切れたんだろうかっていうのは郷愁で実際のところ今はそこまで逃げたいわけじゃないし逃げちゃいけない理由もあるし第一メキシコも俺の玩具じゃない。なあコースケもし弟か妹ができたらお前はもう一生俺を「お」なしで呼べなくなるのかって一旦考え始めてしまうとキツくなってコースケ欲しいものあるかって聞くと「サクレが食べたい」ってメチャ素直に言うので嬉しくて俺とキラリの分も買ってしまう。自然と足が速くなる。「食べていいよ。溶けるだろ」「行儀悪いよ」「それが良いんだよ」「えー」「四時間も塾いて何も食ってないんだろ。おなか減ってんじゃないか?」「んー」あれ、俺今結構喋ってないか? 何も考えてねーぞ。「今アイス食べたらご飯おいしくなくなるよ」「お? 母さんの晩ごはんがアイスに負けるというのかねコースケ―」「そんなんじゃないよ」「じゃあいいじゃん」「でもお父さん両手塞がってるし」「いい、いい。大人はビールを飲んでからアイスを食べるって贅沢があるから」「なんかそれ、ズルい感じがする」「そうだコースケ。大人はズルいぞー」って言ってたらコースケは観念してビニール袋からサクレを取りだした。幸いまだあまり溶けてなかったらしい。「やっぱ行儀悪いよ」「はは」「はい、お父さんの分」って小っちゃいコースケが背伸びして木匙に乗せた甘酸っぱい欠片を差し出してきて俺の知らない俺のどこかで「どう」「旨すぎる」「味、違う?」「違うね」「分かんないなあ」壊血病に罹った忘却たちの船団が難破すべき瞬間を探して「今度友達とやりなよ。メッチャ楽しいからさ」「買い食いなんて先生に怒られるよ」ある小舟が橋脚に接触して砕けた船体から零れ落ちるそれたちは例えば「バレないさ」「バレるバレないとかじゃないよ」(小四の時近所に生えてたすだちを他人んちのものとは思わずにどっさり取ってその家の人から親父がメタクソに怒られて)「先生に叱られたことないのか」「そりゃそうだよ。怒られるようなことしてないし」(親父がすだちを庭に植え始めたのはそのあたりからだった気もする)として裂け水中花火みたいにきらめいた後海峡に眠り落ちていって交差するように浮上する「コースケは真面目だなあ。疲れたりしないのか」「お父さんほど真面目じゃないよ」俺が取り下げた質問に対して思いがけずコースケが口にした答えを何度も聴き取り反芻しながら家に着くと「おかえりー」「ただいま」「ただいまー。ほい、これビール」「あ、コロナじゃん」「コンビニに売ってるの珍しくてさ。あとアイスも買ってきた。コースケはさっき食べた」「えー、家で一緒に食べれば良かったじゃん」あーやっちゃったと思ってコースケの方見ると何故かニヤついてやがる「コースケ、お母さんの分いるー?」「いい、ごはんでおなかいっぱいになるし」「そう?欲しくなったら分けたげる。あ、ライムないじゃん」「確かすだちあっただろ。あれでいいよ」「えー、合うかなあ」「まあ物は試しよ」と俺はタッパーの中から一粒摘んでパパッと切って絞っては瓶の中に詰めてたら三切れで限界がきてどれどれーって青苦あああっっっ!!! やっぱコロナビールにはライムだよライム。

(了)

 

雑記

 今回の公募結果については、何らかのアナウンスが出るまで珍しくじりじりと緊張していた。普段は公募の結果が出る時期など忘れてしまうのだが、これは割合自信作だったからなのだろう、と最初は思っていたが、どうもそうではなく(毎回自分史上最も良い出来と言いたいものだ)、単純に〆切から発表までの期間が短かったがために発表期日を意識してしまった、というのがより真相に近い感じはする。あと最近個人的に設定している、あるいは正式に抱えている〆切がまだ先なため、ダラダラしていたのが効いた。これは一般論ではなく個人的な話なのだが、シャキッとしていないと心身が淀んでくる。落選を知った後、(大したものではないが)筋トレの負荷を上げた。

 

 唐突に新人賞をどういう機能として見るかという話をするが、基本的に新人賞は(小説に絞って話をするが別に何でも良い)小説家として一般的に認知されていない人間の文章の中から比較的優れた小説を選別する機能を持つと考えることができる。ここで大事なのはその文章が確かに中立的立場の人間によって小説として認識されているということで、早い話、新人賞は「小説とは何か/何でないか」という問いについてある程度中立性をもった実験として捉えることができる。

 既に小説家として一般的に認知されている人間の出した文章は、何かジャンルを指定するような惹句でもなければ(あるいは逆にあることによって。例:「これは小説なのか!?」は大抵の場合、惹句の対象がメタ小説的機能を持った小説であると主張している)、内容を確認される以前に小説としてある程度先入見が発生してしまう。そしてそれが覆ることはまずない。

 ところが新人賞の場合、「文章になっていない」「これは小説というより現代詩」など、必ずしも文章が読者にきちんと小説として認識されるわけではないと考えられる。新人賞というシステムこそまだ小説家として認知されていない人間にのみ利用可能な実験装置であると言える。ただこの実験装置は、n次選考を通過したり受賞したりした場合には上記の意味を解釈として適用することが出来るが、1次選考で落ちている場合や結果が公表されるラインに到達できていなかった場合には、全作品に講評がつくような特殊な例外を除けば、その結果の意味を解釈することができない。

 

 今回私は「上の空」で行動している人間が意識と無意識の間で行っている思考とも思考でないとも言えないものを言語化しようと試みた。これには数年前に池澤夏樹個人編集=世界文学全集所収『アブサロム・アブサロム!』を最初の十数ページ読んで挫折した(そして今に至るまでフォークナーを読めていない)という経験、そしてその後にヴァージニア・ウルフの『波』は読めたのにこの差は何であろうか?というのがおそらくどこかで燻っていたのだと推測される。

 まず敵は改行であった。改行は意識的な行為であり、主に意味の大まかなまとまりを形成しかつ切断する。今回の場合主人公は明確な輪郭を持った考え事をしているわけではないため、改行を使うだけで不自然になる。そのため改行は使えなかった(余談になるが、改行をほとんど用いない小説となると横光利一の『機械』が当然のように思い浮かぶが、私は創作に入る近い時間に摂取したものにすぐ影響される性質なので執筆前に当該作品を読むのを避けた)。

 次に句点をできるだけ避ける必要があった。句点も同じように意識的な行為である。段落よりも微小な区切りであり、私にもっと実力があれば句点は最後の一つだけになるまで圧縮するべきだったと思われるがその実力はなかった。そのために接続詞や読点の数を操作し、出来るだけ一文を長くし、一文中における、類似による併置に限定されない意味の密度を出来るだけ上げる必要があった。

 読み返して分かったことだが、「けれども」や「だが」といった逆接はかなり主観的な強度が強いものであり(おそらく接続詞の手前に対する操作的な意味合いが含まれるところが順接よりも強度が強い理由である)、主体的に思考の流れをコントロールしきれていないという状況を表現するにはあまり適切ではないということが分かった。これはもっとよく考えるべきだったポイントだったと今にして思う。この主人公の場合「けど」は流れるように処理されているのだが、物質的な表れとしてこの小説の文字の流れを見た場合、この主人公がどういった位相でこの「思考」を行っているのかが不明確になるように感じた。

 
 この小説を書いていく中で気づいた非文化、というか文の骨組みを完結させず破壊するという方向性は今後も有効な使い道を探るに値する技術のように感じている。

 
 改行がなく一文も長い文章を普通の人間は読むことに耐えられないため、文章の速度を上げる必要があった。対策の一つとして、小説の意味内容としての物語を、意味を受容するためのコストが低い凡庸で分かりやすいものにすることにしたが、これが正しい選択だったかは分からない。自分の実力に不安があったというのが第一だが、形式的にかなり壊れているのにさらに内容も壊すとなると単なる異常な文章の羅列にしか見られないという事態を恐れたというのが正直なところである。だがこの決断は明らかに守備的であり、もっと適切な舞台を設定すればこの形式が活きたような気はしないでもない。

 

 作中、会話の途中に主人公の思考のようなものが混ざるのは主人公と息子がアイスを分けあうシーンのみだが(会話しながら別の行為を行うことはできるが、会話しながら全く別のことを純粋に思考することは恐らく出来ない)、ここでは主人公には全く意識できない無意識の領域を書くことを試みた。無意識が言語のように構造化されているのかは知らないが、ここで私が取り出したのは記憶と思考を曖昧に取り纏めたイメージであり、現代詩をやろうとしたわけではないのだが読み返してみてもここはやはり浮いていると言わざるを得ない。端的に実力不足というものであろう。

 

 この節は雑記であるため、まとめは特に存在しない。