本麒麟の註

 最近気に入っている註があって、まあタイトル通りではあるのだがとりあえず次の画像を見て頂きたい。

 

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(『本麒麟』350ml 6缶パック、2022/1/28、撮影は引用者)

 

 「うまさ、極める。」と影付き文字で大きく出ているが惹句なのでそれは別にいい。そんなことを気にしていたら、サッポロの『GOLD STAR』なんかは同時期に6缶パックで「すべてのうまさを、過去にする。」と力強すぎる惹句を打ち出しており、俺は酒類売り場に足を向けてはGOLD STARのパックに書かれた文言を見るたびに、(すべてのうまさを、過去にしてしまったGOLD STAR。その味を、俺達は「うまさ」という範疇で果たして理解することができるのだろうか……?)などと思っては心の中でのみならず普通に顔面もニヤニヤしていた(キモすぎる)ので収拾がつかなくなってしまう。

 問題は惹句そのもののデカさではなくて、商品と惹句の関係にある。丁度GOLD STARの話を出したので引き続きその例でいくと、「すべてのうまさを、過去にする。」は、素直に「この商品は競合商品に比べて格段にうまいですよ」、というアピールとして読める。広告として実にスタンダードな訴求であり、分かりやすい。他のビール系飲料も大体はそんな感じで、あとは原材料の話とか、糖質やらプリン体やらが0ですよとかが多いと思われる。とにかく商品のガワに書かれていることは中身に関わりがあるのが基本ということだけ覚えてくれればいい。ちなみに俺の記憶ではGOLD STARの6缶パックに註はなかった。

 一方の本麒麟

 本麒麟も註、「※」がなければ、他の商品と似たりよったりの、特筆すべきこともない惹句だったに違いない。だが本麒麟の註は本当にヤバい。

本麒麟が目指すうまさを極めていくという姿勢」

 ※の対象は「うまさ、極める。」という文全体に掛かっているように見えるが、註の対象が語句ではなく文であるのにどうして「姿勢」という体言止めで終わるのか。いや「極める」だけだったら動詞なのでもっとヤバいんだけどそんなのはまだ序の口というかまだ俺の単なる穿ちの範囲である。

 この惹句と註を合わせて解釈するならば、この商品パッケージには「姿勢」が書かれていることになるのだが商品パッケージに姿勢を書くとは一体どういうことなのか? 「うまさが極まっていること」と「うまさを極めていく姿勢」はぜんぜん違う。今俺の目の前にある本麒麟の中身、これのうまさは極まっているのか? 極まり途上であるのか? 全然極まってないのか? 一切が不明であるこの惹句は異様な訴求力を持って俺を誘惑する。

 多分、本麒麟という飲料の中身には姿勢とかない。本麒麟は動物ではないので当然意志とかもないのだから当たり前の話である。そうするとおそらくこの「姿勢」とはキリンの商品開発部が本麒麟の開発にかける姿勢、思い、決意といった類のものを表しているのであろう。となるとこの惹句は、商品の中身と直接の関連を持っていないことになる。前掲のGOLD STARの惹句は原材料の品質アピールや健康志向アピールよりやや曖昧な文言ではあるが、それでも主語にGOLD STARという商品それ自身を代入してもさほどの違和感はない。だが本麒麟でそうしてしまうと、商品が「俺、やる気あります! これからももっともっと……うまさ、極めるんで……口ん中、行かせて下さい!!!!」と言っている感じになり俺は一体何なんだコイツは、という感興を覚え嬉しくなってしまう。

 いつ頃からか自動車やマンションなどの惹句が、商品そのものの特性をアピールすることからブランドイメージをアピールする方向へ傾斜するようになったと記憶しているが、本麒麟の「姿勢」は、ブランドイメージとも異なる。「姿勢」はどちらかというと企業理念とかに近い概念であり、俺達はプルタブを空け、プシュッ、という音の向こう側に、確かな肉体を持った人間たちの熱意、そしてそれによって駆動する、企業という近現代を代表する有機的システム、その交響楽を聴き取ることになる……

 

 ?

 

 商品のパッケージは気づくと変わっていたりする。俺を楽しませてくれた本麒麟の註もいつか消え去ってしまうのかもしれない。いや俺が楽しみまくっていただけで、もしかしたらキリンの方ではこのパッケージに落ち着くまでに紆余曲折あり、愉快でないこともあったのかもしれない。これは霊感なのだが、俺みたいな人間を惹きつけるためにこの文言に決めたという広告戦略の匂いは、このパッケージからはしない。まあ、ただの消費者である俺には分からないことだ。とりあえず本麒麟350ml6缶パックを買った。だからこのブログには本麒麟350ml6缶パックの写真があって、俺はこの記事を書いている。

 

 こういう本麒麟みたいなタイプの面白い註、本文との相互作用で謎の面白みが発生するタイプの註というのは本ではあまり見かけない。註が豊富な本といえば研究書だが、大抵そういう本の面白い註というのは大体著者が狙ってやっているという「姿勢」が伺えるものが多い。研究書(?)だと俺の記憶に残っている最後の相互作用面白註は、ヤニス・クセナキスの『形式化された音楽』で、野々村禎一と冨永星による翻訳である。今手元にない上に読んだのが数年前なので正確な引用ができなくて申し訳ないのだが、訳註が凄かった覚えがあり、ストレートに「意味不明」とか書かれていたと思う。クセナキス自身が本の最後の方で数学補足を書いているのだが、確か訳註で「証明すべき定理を前提にしてしまっている」といった指摘がなされた後に正しい定理の証明の方針が生真面目な文体で記載されていて爆笑した記憶がある。俺はそんなにクセナキスの音楽は好きではないけどクッソ天井の高い狭い暗いスタジオで尋常じゃないチャンネル数のサラウンドで爆音で聴いたら好きになるかもな〜ぐらいに思っていたのだが、この本を読んで逆にクセナキスという作曲家の凄みを感じた。数学はクセナキスを数学ではなく音楽に導いたのだろう。

 小説だとエルンスト・ユンガーの『ガラスの蜂』という小説があって、阿部重夫と谷本愼介が翻訳しているのだが、これも訳註が面白い。この本はまず本文203ページに対して訳註が88ページもあり、小説世界を超えていくようなところがまず面白いのだが手元にあったので次の画像の「*毒針」部分を見て頂きたい。

 

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(エルンスト・ユンガー『ガラスの蜂』田畑書店(2019)、阿部重夫・谷本愼介訳、p266、撮影は引用者)

 

 読んだ当時、小説の註でNHKEテレ香川照之の昆虫すごいぜ!」四時間目クマバチ編を参照していいんだ、という衝撃が物凄かった。ある程度有名な話ではあるから、この「〜を参照」の部分は載せなくても良かっただろうし、載せるにしても昆虫学の本だったり、もっと言えば図鑑とかで良かったのではないか、なにもテレビ番組でなくても……という気持ちになるかもしれない。だがどうしても訳者はそう書きたかったのだろう。そしておそらくその理由の重心は「香川照之」にある。エルンスト・ユンガーと香川照之、活躍した時代もその人生の内実もかけ離れている二人が共有していること、それは、フランス語ができるということよりも昆虫が大好きであるということに帰されるだろう。だがそれだけではないような気がする。生涯に渡って「形態」に注目し、その深奥に地上の生命や技術と天上の星辰、それらが結びついた魔術的な世界を垣間見ていたユンガー。彼は1998年に101歳で亡くなったが、ドイツから遠き現代日本には、無類の昆虫好きであり、肉体という「形態」の物理的秩序と文化的秩序の制約を受けながら深奥を作り変えそれを表出させる職業たる俳優を選んだ香川照之という人間が生きている。訳者はこの二人の間に、時空を超えた存在の共鳴を聴いたのではないか。

 ……とまあここまで色々書いたが、ここで紹介した相互作用の面白さはいずれも本文と書き手が別であることによるところが大きいから、どうも本麒麟的な面白さとはちょっとずれている気がする。それぐらい本麒麟の註は奇跡的なものなのかもしれない。

 

 ☆

 

 最近正宗白鳥の『文壇五十年』(中公文庫版)を読んだのだが、その「序」にこんな一節がある。

 自分の一生を書きつくしたと云う人もあるが、実は、一部分に過ぎないのではあるまいか。私なども過去の思出は、小説として随筆として、或は、回顧録と銘を打ったりして、たびたび書いて来たけれど、それは実際の見聞、自分の生きて来た経験のすべてから見ると、九牛の一毛と云っていい。重な事大事な事だけは書いたつもりであっても、どれが本当に重要な事件であり経験であったか、分ったものじゃない。

正宗白鳥『文壇五十年』中公文庫(2013)、p3) 

 

 自分の人生を語るとき、それは僅かな本文なのだろうか、それとも語り得ない本文の膨大な註釈なのだろうか。あるいは不格好でも一応本の体裁は整うのだろうか。自分を物語ること。

 

 僕は小説家なので毎日物語を作っているわけです、でも小説家だけじゃなくて人というのは日々自分の物語を作り続けるっていうものなんです。意識的にせよ無意識的にせよ、人は自分の過去現在未来を物語化しないことには上手く生きていけないんです。

村上春樹さんが会見で語ったこと|サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB、2022/1/28

 

 村上春樹は「自分の物語」についてこのように言っている。共感するところもないではないが、俺はどちらかというと大岡昇平の言うことに惹かれる。

 

 人生をすべて小説的にしかながめられない人は不幸なのです。その不幸をのがれるには、いい小説を書くほかはありませんが、いい小説が必ず書けるとは限らないから困ります。その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫(2014)、p249)

 

 まったく困ったものである。ところで最後の一行の頭に※を打ち、「※その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。」にしてみたら、なんだか可笑しくなった。