ずっと歯医者に通っていないとその事自体が悪い方向へ想像力を加速させ(俺の口の中はもはやコンポスト、最終処分場、臭い元気玉、元・口腔、頭部にできた廃坑エトセトラエトセトラ……)、ますます歯医者に行けなくなってしまうわけだが、このたびなぜか機運が生じ(こういったことを恩寵といいます)、歯科検診ということで歯医者に行った。行ってみればまあそれなりに大変なことにはなっていたようだが予想していたよりも大変なことにはなっていなかった(余命宣告をされたり、すべての歯が虫歯、歯を歯肉ごと全摘するとかはないという意味)ため、大変良かった。あまりにも行っていなかったので、歯科医院が音響イベントスペースであることもその時はじめて知ったのだった。
まずは歯の全体像を把握するためにレントゲンを撮るのだが、ここから記憶と違った。多分十数年は行っていなかった気がするので当たり前っちゃあ当たり前なのだろうが、これだけの期間をおいて機材が全く進歩していないなんてことはありえないのだ。子供の頃に歯医者でレントゲンをとられたときは、それこそ学校の健康診断みたいな感じで、太い板みたいな装置に胸?後頭部?を押し付けて全体的に撮るといった感じだった気がするのだが、今回は椅子に座り、頭部をゆるく固定された後、頭部上方にかすがい型の装置が降臨し、それがキラキラとデジタルな点滅を繰り返しながら高速で横回転するということになった。そのときに鳴る機械音が最高で、その雰囲気は似たところでいうと、カウボーイ・ビバップ「道化師の鎮魂歌」の、東風の人体実験の模様が流れる過去シーンで流れていたBGMに近い。
それらは、レントゲンを撮る過程で必然的に必要な光や音とは考えられなかったため、あれは設計者が歯科医院をクラブだと認識していたのだと推察された。病院に来たはずなのにここでしか聴くことのできないテクノをいきなり注入されて、魂の形がOne More Timeになったわけだが、まだ序盤である。
死の宣告がなかったことに安堵して一回目の掃除に入った。床屋と歯科医院、この二つの施設は、人間を物体にする特有の座席を使用している代表的な場所だ。「アウトレイジ」を思い出すまでもなく、これらの座席は着席者に、考えうる限り最も無抵抗な姿勢を強要する。デッケエ布?繊維?を掛けられ手の動きまで完璧に封じられるし、足をばたつかせようにも施術者は頭部付近それも後方にしかいないのだからいくら暴れても仕方がない。相手に対する信頼がなければこのような関係を編み出す器具を使う文化は廃れてしまうだろう。そうなるとこの姿勢の危険さが逆に全面的な信頼のモードへとわたしを導いていき、要するに身体を動かす気がしなくなってくる。自分がシンプルな物質になっていく感覚が生まれてくる。歯科技工士が向き合うのはわたしではなくわたしの歯であって、それは部分にすぎない。それで良い。
そして歯の清掃が行われるのだが、目を瞑ってみると、口の中からどんどん音楽が広がっていくことがわかった。歯の表面にべっとりと付着した歯石を剥がしていく器具の高音域、取れた歯石を吸い取るバキュームの中音域、ときおり治療区域を洗浄する水の音。それらすべてが口腔粘膜を、あるいは歯を通じて頭蓋骨へわたり、おそらく耳を経由しはするものの、直接脳へと届いていく感覚を覚える。イヤフォンが生まれた時、人間は耳の中から音が聞こえてくるという体験を初めて操作することができるようになったのだろうが、思えば口の中からの音楽という概念はあまりにも未開拓だった。おそらく全く需要がなかったからだろう。わたしは心地よく横たわり、しばしここでしか聴くことのできない音楽に身を委ねていた。おまけに歯もきれいになるのだから、言うことはなかった。
歯科医院の音楽についてだが、歌のない音楽に興味がないという向きには厳しいかもしれない。歯科医院の音楽は基本的にインダストリアルであり、メロディーを拒絶する。それは人間が物体になる場所に鳴る音楽としてあまりにふさわしい。歯医者に限らず医者にかかるという体験は、自分が肉体という純粋な物体に還元される体験に接するということであって、そう思えば医者ぎらいというものがあるということも分かる気がする。というかかくいう自分が十年以上も歯医者に行っていなかったのだから、そういうことは当然ありうるに決まっていたのだが、いざ自分のそれが歯医者嫌いかといわれると腑に落ちない感じがしたためこうして書いてみた。どうだろうか。つまりわたしはここで精神科や心療内科という場所に思いを馳せているのだが、精神科の音楽、心療内科の音楽というものはあるのだろうか。もしそんなものが存在するとして、それはどこからどのように聞こえてくるのか。そこにメロディーはあるのか、ないのか。どこかで「精神医学は他の医学分野に比べて百年は遅れている」という趣旨の文章を読んだ覚えがあるが、あの時私は精神医学に携わる人々への同情の念を禁じ得なかった。神田橋條治の本を書店で立ち読みしたときにも思ったことだが、医者ではなく患者になるばかりの私としては、治りたいのが第一であって、「科学的」に治るかどうかは二の次である。単に他の分野は科学的アプローチが最も信頼できそうだということで通うわけで、よく考えればそれも不思議なことなのだが(ここにはあの床屋や歯科医院の座席と同じ「信頼」というものが流れている気がする)、精神医学という領域にはまだ「医学」ではなく「医術」という言葉が、良くも悪くも、というより、うれしくもさびしくも、ふさわしいようなところがある。そしてこのことは、その「医術」にふさわしい音楽というものを想像することが難しいこととつながっているような気がしているのだ。