第三回はこちら。
小林 つまり、荒川さんが最初におっしゃったことに引きつけて言うなら、三つの「場」がある。私は荒川さんとも下條さんとも違う立場ですが、言説を成り立たせている言語の場というものを考えると、これは非常にミステリアスで、どうしても明確にできないんです。でも、私は言語の側に立つ人間だから、謎めいたままにしておいた方がいい、明確にしなくていいと思っているんです。荒川さんは、それを絶対的に明確にしないかぎりわれわれは救われないということをはっきり言っている。また下條さんは科学者だから、それは絶対に明確にすべきだと思っていると思うんです。
実証科学がその認識対象として前提している世界という場と、非常にミステリアスな言語の場、この二つだけだと処理ができない。そこで出てきたのが行為だと思うんです。行為はそのどちらでもない、つまり言語でもなく、また必ずしも世界でもない。その行為の場というのは何かというのが、J・L・オースティンのスピーチ・アクトといった個別的な問題を超えて、非常に大きなトピックになってきた。それが荒川さんの最大の問題だと思うんです。つまり、荒川さんは意味の方から入って、言語の謎めいた場に対する問いかけをずっとなさってきて、それを突き抜けてしまった。普通のアーティストだったらそこで世界の方にいくのですが、荒川さんはそうではなく、時間と空間が一緒になった行為の場というのは何なのかを徹底的に明晰にするというテーマに向かわれた。そういうふうに見えるんです。
荒川 今日は意外にきみに賛成するところがある。(笑)言語にある程度の柔軟性を持たせるためには、言語というのはこういうものだと決して突き詰めて言わない方がいい。詩的言語がある以上、すべて詩的行為です。
小林 そこを残しておきたい。
荒川 というより、常にどこまでいっても残ってしまうんです。その詩的行為が大きければ大きいほど残る。また、たとえば名詞に不思議なものが残るのは当り前だけれども、述語にも大変な抽象が含まれている。そうであるかぎり、どのように言語を使っても、最終的にこうだという公式を立てることはできないだろうと思うんです。言い換えれば、人間がつくり上げた自由という言葉は生と死の問題が解決すれば逆に計算して出てくるだろうけれども、それが解決しないかいぎりは永遠に語れないし、しかも決して説明のできない場が残る。また永遠、時間、空間、本質、希望といった言葉が明確にならないかぎり……。
「おとうさん。
さいごだからなにか言って」
「おはよう!
おはよう!」
類似性、親和性、模倣
遺稿『哲学論文集』に収録されている「外部感覚について」でアダム・スミスは、生まれつき両目に白内障を患っていた青年がチェスルデンの白内障圧下法によって視力を回復した事例について語っているが、青年が視力回復後はじめて絵画を眼にしたとき、彼が絵の中の事物の手触りと、その絵が指示する事物の手触りの違いに驚いたエピソードを引いて書いた次の部分は、アダム・スミスが絵画における遠近法を「欺瞞」と感じていただろうことを補強する。
絵画は、自然がわれわれの目に提示する可視的諸対象において用いるものと同じような光と陰の組み合わせによって、それらの対象を模倣しようと努めるけれども、それはけっして自然の遠近法に匹敵しえず、その製作物に、自然がみずからの製作物に付与しているあの力強く明確な浮彫りや投影を与ええなかった。その青年紳士が、力強く明確な自然の遠近法をちょうど理解しはじめたとき、ぼんやりとした弱々しい絵画の遠近法は、彼に何らの印象も与えず、得は、彼には実際にそのあるがままに、さまざまな色彩で塗りたてられた平面として見えた。彼が自然の遠近法にもっとなじみ深くなったとき、絵画の遠近法の劣等性は、彼がそれと自然の遠近法との類似性を発見する妨げにはならなかった。自然の遠近法において、彼はつねに可触的・被表示的諸対象の位置と距離は、可視的・表示的諸対象が彼に示唆するものと正確に一致することを見いだした。彼は同じことを、絵画の、劣りはするが類似した遠近法においても見いだすことを期待したが、可視的対象と可触的対象は、この場合、それらの通常の対応関係をもたないということが分かって失望したのである。*3(強調は引用者)
この青年は当初、「強い光のもとでは、黒と白と真紅」の色彩を識別できたものの、形状はまったく識別できなかった。チェスルデンによる治療後、視覚と触覚の語彙を取り違えるような最初の「見る」体験をし(あらゆる対象が「目にさわった」)、知識と視覚的な対象を少しずつ一致させ(触感では識別できたが、視覚だけでは犬と猫を間違えることがあった)、ついにはエプソム高原に連れて行かれた際、そこに広がる光景を見て、「新しい種類の視覚だ」と感嘆をもらすまでになる。ここでアダム・スミスは、彼が今や彼が「視覚の言語」を完全に理解するに至ったこと、生まれつき失っていた視覚の習得は「だれでも成年に達した人物がどれかの外国語を完全に習得することのできる期間」よりも明らかに早い一年という期間で成し遂げられたこと、これは「視覚の偉大な諸原理が前もって彼の精神に深く刻印されて」いたから起きたことかもしれないことなどを述べているが、この生得的性向説と並べてもう一つの説明として提示されるその次の部分を見よう。
しかし、この急速な進歩は、おそらく、すでに言及された可視的諸対象と可触的諸対象とのあいだのあの表示の適合性から、説明されるかもしれない。この自然の言語においては、どんな人間の言語における場合よりも、類似は完全であり、語源、語形変化、および活用形と呼びうるものは規則的であるといってよい。規則はより少なく、それらの規則は例外を認めないのである。(強調は引用者)*4
視覚はある種の言語、「自然の言語」として語られるが、それは「どんな人間の言語」よりも「完全な言語」として現れる。これは「絵画の遠近法」と「自然の遠近法」の関係と並行関係を持っている。人間による自然の模倣から生まれた技術としての遠近法が、その模倣自身を完全な本質として自然に与え返すわけだ。これは前回取り上げた「悲嘆や歓喜からの転調を音楽が忠実に模倣した場合」という表現と構造を等しくしている。
アダム・スミスは可触的諸対象(触覚)と可視的諸対象(視覚)の関係と言語における「言葉や音声」と「それらが表示するもの」の関係を、バークリの先行研究を引きつつ明らかにしていく。まず「言葉や音声はそれらが表す事物となんの類似性ももたない」ように、「可視的諸対象は、それらが表示する可触的対象と何の類似性ももたないで、可触的対象の、われわれ自身との、またそれら相互間の、相対的位置について、われわれに情報を提供する」ことが確認される。しかし「記号と事物」と「視覚と触覚」のあいだには、重要な違いもある。「ほとんどどの言葉も、どれか他の意味よりもある特定の意味を表現するのに、本性上適しているということはないけれども、ある種の可視的諸対象は、ある種の可触的諸対象を表示するのに、他のものよりも適している」というのがそれである。可触的方形を表示するのには、可視的円形よりも可視的方形のほうが適している。この関係は、「可視的諸対象と可触的諸対象とのあいだには何の類似性もないとはいえ、両者の間にはある親和性と対応関係がある」という言い方で示唆されている。この「言葉・音声 - 事物」と「視覚 - 触覚」の類似と差異を説明した後で、アダム・スミスはバークリの解釈に異を挟み込んでいく。
バークリ博士は、めったに欠かしたことのない巧妙な例証によって、次のように述べている。すなわち、以上のことは、実際に通常の言語において生じていることがらにすぎない。諸文字は、それらが表す言葉とは何らの類似性ももたないけれども、ある言葉を表示する諸文字の同じ組み合わせが、必ずしも他の言葉を表示するのに適しているとはかぎらず、それぞれの言葉は、つねにそれ自体に固有の諸文字の組み合わせによって最もよく表示されていると。しかしながら、この場合には、比較はまったく変更されていると言わねばならない。可視的諸対象と可触的諸対象とのあいだの関係が、まず音声言語とその音声言語がわれわれに示唆する意味や観念とのあいだのそれと比較されることによって例証されたが、それが今や、これとはまったく異なる、文字言語と音声言語のとのあいだの関係によって例証されている。そのうえ、この第二の例証でさえも、この事例には完全には当てはまらないであろう。なるほど、慣習がそれぞれの文字の力能を完全に確定したとき、すなわち、それが、たとえばアルファベットの最初の文字はつねにこういう音声を表示し、二番目の文字は別のこういう音声を表示するのだということを確定したとき、それぞれの単語は、一定の書かれた文字や記号の組み合わせによるほうが、どれか他の組み合わせによる場合よりも、適正に表示されるようになるであろう。しかしそれでもやはり、諸記号そのものはまったく恣意的であり、それらが表す明瞭な音声とは何らの親和性や対応関係ももたない。たとえばアルファベットの最初の文字を表す記号は、もしそのようにきめるならば、われわれが現在二番目の文字に付与している音声を表現するために、そして二番目の文字の記号は、われわれが現在最初の文字に付与している音声を表現するために、完全な適切さをもって用いられたかもしれない。しかし可触的球体をわれわれの目に表示する可視的記号は、そのようにうまくは可触的立方体を表示しえないであろうし、また可触的立方体を表示する可視的記号は、そのように正確には可触的球体を表示しえないであろう。したがって、それぞれの可視的対象とまさにそれによって表象される特定の可触的対象とのあいだには、文字言語と音声言語とのあいだに、あるいは音声言語とそれが示唆する観念や意味との間に生じるものよりも、ずっと高度な一定の親和性と対応関係が存在することがあきらかである。自然がわれわれの目に語りかける言語は、あきらかに、表示の適合性、すなわちまさにそれが表す特定の事物を意味する能力、をもっており、しかもこれは、人間の技術と創意がこれまでに発明しえたどんな人為的言語のそれよりも、はるかにすぐれたものである。*5(強調は引用者)
アダム・スミスは、記号の恣意性を強調することで、バークリの論証の不正確性を突く。バークリは、本質的に類似していないものがもう一方を表示できることを、記号と意味の関係において、人間の言語には一見存在しないかに見える可視的対象と可触的対象の親和性や対応関係を、文字記号と音声記号の関係において説明しようとした。アダム・スミスの批判はこのどちらの説明の仕方をも揺るがすかに思えるが、アダム・スミスはそれでも言語の比喩を捨て去るつもりはない。「人為的言語」という表現がその証左であり、「自然がわれわれの目に語りかける言語」がいかなる「人為的言語」よりも優れている点は、「表示の適合性」によって端的に表されるだろう。感覚論、文体論、道徳論がこの「表示の適合性」によって接続するとき、アダム・スミスの問題系が、言語をいかに考えるかということによって支えられていることがわかる。「模倣芸術について」がアダム・スミスの感性の核心であったとするならば、「言語の最初の形成、および本源的ならびに複合的な言語のさまざまな特質に関する考察」、通称「言語起源論」は、アダム・スミスの思考の核心である。
アダム・スミスの「言語起源論」においてまず誕生する品詞は名詞であるが、それはもともとすべて「固有な名称」すなわち「固有名詞」として現れる。何が「固有名詞」として生まれたものを名詞へ導くのか。それは類似によってである。冒頭を見ていこう。
1 特定の対象を指示するために特定の名称を割り当てること、すなわち、名詞相当語の開始は、おそらく、言語の形成に向けた最初の第一歩の一つであっただろう。話すことを学ばず、しかし、人間の社会から隔離されて育った二人の未開人は、彼らが一定の対象物を指示したいと思いさえすれば、相互の必要を互いに理解できるようにしようと試みるような言語を、何かの音を発することによって、自然に形成し始めるだろう。彼らにもっともなじみ深く、頻繁に言及する機会がある対象物だけが、特定の名称をそれに割り当てられるだろう。覆われていることによって、彼らが悪天候から守られる特別の洞窟、彼らの飢えを救う果実をつける特定の樹木、彼らの喉の渇きを鎮める水をたたえた特定の泉は、最初に、cave[洞窟]、tree[木]、fountain[泉]という言葉で、あるいは、未開人の仲間言葉で、彼らがそれを特徴づけるのに適していると考えるような、他の名称で呼ばれるだろう。後に、このような未開人の敬虔が視野のさらなる拡大を導き、また、彼らにとって不可避な必要性が、他の洞窟、木や泉に言及せざるをえないようにしたとき、彼らは、このような新しい対象物のそれぞれに、最初に学んだものに類似した対象を表し慣れてきたものと同じ名称を、自然に与えたことだろう。新しい対象物は、どれもそれ自体の名称をもたなかったが、それぞれが、そのような名称をもっていた他の対象物と、正確に類似していたのである。このような未開人が、古い対象物 また、新しい対象物との厳密な類似性を保持する、古い対象物の名前 を思い出さずに、新しい対象物を眺めることなどできるはずはなかった。それゆえ、彼らが新しい対象物のどれかに言及し、互いに指摘する機会があれば、古い対象物に似た名称 その瞬間に、その印象が、彼らの記憶のなかにもっとも強く、かつ生き生きとした仕方で必ず現れる を、自然に発しただろう。そしてこのようにして、もともと個体それぞれに固有な名称であった言葉が、それぞれ、気づかないうちに大勢のものの共通の名称になったであろう。*6
ここにはあまりにたくさんのトピックが含まれているが、まずは類似に注目してみていこう。最初は「固有名詞」として「人間の社会から隔離されて育った二人の未開人」の間で共同的に名付けられたものが、ふたたび似たものを目にした時、その名指したもの、名称の記憶として不可避に呼び覚まされる。触覚 - 視覚の親和性によって、ものに強固に結びついたイメージとして刻印された記憶は、「新しい対象物を眺める」ことによって、即座にいま目の前にあるものと等価な視覚 - 触覚のイメージへと解凍される(未開人の生活において、触覚より視覚が先行しうる場面は、真っ暗闇などを除いてほとんどない)。そこへ親和性の結合力には劣るが、それでも緩やかな結合力をもった類似性が、イメージのラベルとしての名詞を呼び起こす。類似性と名詞の記憶をめぐるこの動きは「互いに指摘する機会」を持ちうることになる他者との関わりによってより強められるわけだが、このようにして「固有名詞」から名詞への一段回目の抽象化が行われる。言語の発展は抽象化においてなされるが、その抽象化を推し進める働きは、類似、もっと言えば類似の想起である。この二つの類似するものは、現に今目の前に揃っていなくてもよいからである。この働きは、種や属といったカテゴリーを生み出す。
2 そもそもこのような仕分けや分類 スコラ哲学者[一般的には中世起源の大学に属する学者という意味だが、大部分がスコラ哲学者と呼ばれた]の間では種や属と呼ばており、独創的で筆がたつジュネーヴのルソー[Jean Jacques Rousseau, 1712-78. スイス生まれのフランスの社会思想家・哲学者]氏が、その起源の説明を試みて、まったく途方に暮れてしまった の形成をもたらしたのは、その類似性が、当の個体とそれが表示する名称に関する観念を自然に想起させる多数の対象物に対して、一つの個体の名称を、このように当てはめたことにある、種を形づくるのは、互いにある程度の類似性をもつ そのゆえに単一の名称で呼ばれ、含まれるすべてを表すように用いることが可能な 多数の対象物にすぎないのである。*7
名詞における類似の働きはさらに逆向きにも展開され、「現在では全く必要がない」とアダム・スミスが考えている「換称」すなわち換喩をも生み出す 。換喩は無知や他の類似物に接する経験の不足から抽象化された名詞と固有名詞を取り違えるということに可能性の起源を持っている。ここではテムズ川と川(the river)を取り違えるという例があげられているが、そそれはまわりまわって「テムズのような川」(a Themes)を生み出す。このことは決して年代がわからないほど遠い古語や慣用句の領域に収まるものではなく、スペインによるメキシコの植民地化にも適用される。
スペイン人は、彼らが最初にメキシコの海岸にたどり着き、そのすばらしい国の富、人口の多さ、住まいが、彼らが以前に訪れてきた未開の国よりもずっと優れていることを発見したとき、これはもう一つのスペインだ、と叫んだ。この故に、それはニュー・スペインと呼ばれたのであり、それ以降、この名前がその不運な国に纏わり付いてきた。*8
「固有名詞」の名詞への一般化は、逆に、それによってまとめて呼称されるおのおのの対象の差異を曖昧にしてしまう。ここから、対象を特定するための方途として、それ自身がもつ特別の資質と、他との関係という概念が見出され、結果として、資質を表示する品詞としての形容詞、関係を表示する品詞としての前置詞が誕生する。
アダム・スミスは抽象化の困難さを、言語発展の時系列を推測するにあたって重視している。最初は他の木よりも若々しく生き生きとした色彩に満ちる葉を茂らせた木を特別に「緑樹 greentree」と呼ぶような仕方で、具体物に規定された付加が起きていたかもしれない。しかしここから「緑の green」を呼び起こすには、逆に木ではないものにも「緑性 greenness」という一段抽象化された類似性があることを見抜く能力が必要になるだろう。「緑の green」の発見はまだ複数の具体物の観察に根ざしているが、それを駆動させるために潜在的に活動しなければならない「緑性 greenness」をそれ自体言語として発見することはもはや具体物の観察の領域を超えている。したがってまず具体物(それも必要性と親密さに根差した)名詞が、ついで形容詞が、そのあとに抽象的な名詞が誕生するというのがアダム・スミスの見立てである。
もっとも単純な形容詞の発明でさえ、しばしば我々が気づくよりも、ずっと多くの形而上学を必要とするはずである。配置や分類、比較、および抽象というさまざまな精神活動は、あらゆる形容詞のうちでもっとも形而上学的ではない、異なった色彩の名称が設定される以前でさえ、すべて用いられていたに違いない。以上のすべてから引き出される私の推測は、言語が形成されはじめたとき、形容詞は、決して最初期に発明された単語ではなかっただろうということである。*9
形容詞の誕生についてさえ「形而上学」が必要だとするアダム・スミスだが、前置詞はさらに輪をかけて発明されるのが困難なものとして現れる。
12 そもそも形容詞の発明がこれほど多くの困難を伴っていたとすれば、前置詞のそれは、さらに多くの困難を伴っていたことだろう。すでに指摘したように、前置詞はすべて相関的な対象物を構成する一部だと捉えられた、何らかの関係を表す。(中略)語句の意味を完全なものにするために、前置詞は、その後にくる何か別の単語をつねに必要とする。だから私は、そもそもそのような単語を発明することは、形容詞のそれに較べ、抽象化や一般化という点でさらに大きな努力を必要とする、と言いたい。関係というものは、何よりもまず、それ自体が資質よりもはるかに形而上学的な対象である。誰であろうと、資質として意味されているものを説明し損なうことはありえないが、関係として理解されていることをきわめて明確に表示できると自覚できる人物は、ごくまれにしかいない。資質は、ほとんどいつでも我々の外部感覚の対象物であるが、関係はそうではない。それゆえ、前者に属する対象物が、後者のそれよりもずっと分かりやすいはずだとしても、驚くようなことではない。*10
前置詞は、「関係を意味しているのであって、関係以外には何も意味しない」*11。外部に対応する対象を一切もたない前置詞的なものは、それゆえ感覚できるものではなく、純粋に抽象しなければ出てこない。その上、ギリシア語やラテン語といった原始的な言語には格という方法があった。名詞やそれにともなう形容詞や動詞などの語尾を変化させることで、前置詞を誕生させずとも話者が表したい関係を十分に表現することができた。これらすべてを乗り越えたところに前置詞は生まれる。
10 古代語における格の代理をするこのような現代の言語における前置詞は、とくに、最も一般的で、抽象的でしかも形而上学的であること、だから、結果的に最後に発明されたものであろうと指摘しておくことは、おそらく無駄ではあるまい。普通の鋭さを備えた人物に、 above[上の]という前置詞によって表されている関係は何か、と尋ねてみよ。その人物は即座に、 superiority[優越性]という関係だと答えるだろう。 below[下の]という前置詞についてはどうか? 彼はすぐに inferiority[劣等性]のそれだと返答するだろう。だが、前置詞 of[の]によって表される関係とは何かと彼に尋ねた場合、あらかじめこのような対象物に多くの思考を費やしていないかぎり、返答の内容を考えるために、彼に一週間の猶予を与えても差し支えないだろう。*12 (強調は引用者)
前置詞、最後に来たる者。そしてその中でももっとも高い抽象度を与えられるもの、したがって「現代」の言語つまり英語のうちでもっとも深遠で形而上学的なものこそが「の of」である。
前置詞 of[の]は、相関的な対象物を構成する一部として考えた場合の一般的な関係を表示している。それは、それに先行する名詞が、その後に来る名詞と少し違って関係していることを指示するが、前置詞 above[上に]によってなされるように、その関係にかかわる特定の資質が何であるかを確定するようなものは、何も含んでいない。それゆえ、我々はしばしば真反対の関係を表現するために、それを用いる。というのは、真反対の関係は、関係についての一般的な思考や本質をそれぞれの内部に含むということを、その点に関するかぎり、容認するからである。我々は、 the father of the son[息子の父]とか the son of the father[父の息子]、the fir-trees of the forest[森のモミの木]とか the forest of the fir-tree[モミの木の森]という。父親が息子に対してもつ関係は、息子が父親に対してもつ関係とまったく反対のそれであること、すなわち、そこでは部分が全体に対してもつ関係は、全体が部分に対してもつ関係とはまったく反対であるということ、これは明らかである。しかしながら、前置詞の of は、それ自体が特定の関係を指示するものを何も含んでいないため、このような関係のすべてを指示するのにきわめて好都合であり、また、ある特定の関係がそのような表現から推察されるかぎり、それは、前置詞そのものからではなく、その間に前置詞が挿入される複数の主体の性質や配置から、心によって推測されるのである。
20 私が前置詞 of[の]について述べてきたことは、ある程度まで to[へ]、for[ために]、with[ともに]、by[によって]という前置詞に、さらにまた、古代言語における格に代わるものを与えるために現代の言語で用いられている、他のあらゆる前置詞に適用できるだろう。そのすべてが、きわめて抽象的で形而上学的な関係を表現しており、それを試みる苦労を引き受ける人物は誰でも、名詞を用いることによって、前置詞 above[上に]を用いたり superiority[優越性]という名詞を用いたりして指示する関係を表現するのと同じ方法で表現するのは、絶望的に困難だと分かるだろう。しかしながら、そのすべてはある特定の関係を表現するし、したがって結果的に、そのどれも前置詞 of[の] あらゆる前置詞のなかで、もっとも形而上学的である点で突出していると見なして良い ほど、抽象的ではないのである。*13(強調は引用者。)
こうして前置詞 of は英語の発展における極限として現れる。デリダが「と et」の人であったとしたら、アダム・スミスは「の of」の人であった。前後が等置関係にある「と et」はそれゆえ二項関係に階層関係を与えないが、これが文脈の中に投げ込まれた際、そこには等置関係があるがゆえに順序というべつの階層性が導入される余地が生まれる。二項対立を表現するにあたって「と et」が「/(スラッシュ)」によく置き換えられるのは、「と et」の等置関係を弱めて順序の階層性を高めるためであろう。一方でアダム・スミスの場合、of の極端な抽象性は文明の発展をなぞるように捉えられるだろう。属格、所有格という完璧な表現は、所有を人類史において決定的に重要で不可欠な要素として認識するようにアダム・スミスを導き、結果『国富論』という、所有における世界像を書かせるところまで至るだろう。前回、私はアダム・スミスにおける文体の美しさが音楽性、それも器楽としての音楽性に強く結びついていることを主張した。器楽は「模倣芸術について」では特異な位置、模倣芸術としての芸術の終端にあるものであった。こうした、あるカテゴリーにおける極限的な概念を基盤として、アダム・スミスは人間という現象を認識するのである。結果、器楽と前置詞 of という、芸術と言語それぞれのうちでもっとも「形而上学的」といってよいものがアダム・スミスの全思考を規定するのである。
アダム・スミスの「言語起源論」において、名詞と同様原始的な位置を占めるのが動詞である。
27 動詞は、必然的に、言語の形成に向かう初期のすべての試みと同じくらい、古いものだったはずである。いかなる主張も、何らかの動詞の助けなしに表現できるはずがない。我々は、何かが存在するとか、しないとかいう意見を表明するためでなければ、けっして話などしない。だが、我々の主張の対象物である出来事や厳然たる事実を指示する単語は、つねに動詞でなければならない。*14
アダム・スミスは、最初に現れた動詞は非人称動詞であっただろうとし、それが最初の単語でさえあっただろうという。「雨が降る it rains」といった動詞がそれである。だが英語においてはすでに「it」が獲得されてしまっている。非人称動詞がどのようにして人称を得るようになる過程を見てみよう。
29 このような非人称動詞が、言語の発展過程で人称を示すようになったはずだということは、たやすく理解できる。たとえば、単語の venit[来る]、つまり it comes[来る]は、もともと非人称動詞であったこと、さらに、それは現在のように、一般的に何かが来るということを指すのではなく、たとえば the Lion[ライオン]といった特定の対象物がやってくることを意味した、と想定してみよう。言語の最初の野蛮な発見者は、我々の想定によれば、彼らがこの獰猛な動物の接近を知った時、互いに venit[来る]すなわち the lion comes[ライオンが来る]と大声をあげる習慣をもっていて、この単語は、他のいかなる単語の助けを求めることなく、事象の全体をこのように表現したと想定するとしよう。後に、言語がさらに発展して、彼らが特定の個体に名称をつけ始めたとき、何か別の恐ろしい対象物の接近に気づくたびに、彼らは自然にその対象物の名称と単語 venit[来る]とを合体させ、そして venit ursus[雄熊が来る]とか venit lupus[オオカミが来る]と叫んだことだろう。次第に単語 venit[来る]は、こうして、たんにライオンが来ることだけでなく、何か恐ろしい対象物が来ることを意味するようになったのだろう。したがってそれは、今や特定の対象物が来ることではなく、特定の種類の対象物が来ることを表現した。その意味するところがより一般的になってきたため、それは、もはや何ら特定の明確な事象を、それ自体として、さらにはその意味を確定したり、定めたりするのに役立つような名詞の助けを借りずして、表すことは不可能になった。それゆえ、今やそれは非人称動詞の代わりに、人称動詞になった。*15(強調は引用者)
例示として選ばれたのは come に対応するラテン語 venit であったが、それが恐怖とともにやってくるということは、第二回で私が主張した、科学者の原動力としての恐怖という概念をすぐに想起させるだろう。「野蛮人」もまた原初的な科学者である。ともあれこのようにして非人称動詞、それも「固有名詞」同様、固有な現象に結びついた非人称動詞が人称動詞へと変化していく。そして抽象化の先に、もう一つの抽象化の極限の極限、すなわち代名詞における「わたし I」が誕生する。
単語 I[私]は、きわめて特殊な種類の単語である。話すものは何であれ、それ自体がこの人称名詞によって表示できるだろう。それゆえ、単語 I[私]は一般的な単語であり、論理学者が言うように、無限に多様な対象について断言されるものでありうる。しかしながら、それが他の一般的な単語と異なるのは以下の点、つまり、それについて断言されうる対象物が、他のすべてのものから区別される特定の種類の対象物を構成しない、という点である。単語 I[私]は、単語 man[人間]のような、それ自体の特定の資質によって他のすべてから区分される、特定の部類の対象を指示することはない。それは種の名称であるとはとても言えないが、しかし逆に、それが使われるときはつねに正確な個体を、すなわち、そのとき話している特定の人物をつねに指示している。同時にそれは、論理学者が単数と呼ぶものと、格変化を持たない名辞と呼ぶものの両方に関して成り立つのであって、だからその意味のなかに、外見的に真反対の資質、つまり、もっとも厳密な個別性をもつものと、もっとも広範な一般化とを合体している、と言って良いだろう。それゆえ、これほど抽象的で形而上学的な観念を表現している単語が、言語の最初の形成者の手中で、苦もなく容易に生じたとは思えないだろう。*16(強調は引用者)
説明を省いたもう一つの抽象の極限としての数・数詞を除けば、これで「言語起源論」において起源を辿られた品詞の要素がほぼすべて出揃ったことになる。まず非人称動詞と具体名詞が現れる。それらは身近でそれを捉えることが必要な具体物およびその運動に根差した、個別特殊的なものとしてあらわれた。それらは類似によって一般化され、名詞においてはその差異を再度認識し直すものとして形容詞が、そして抽象的な一般名詞が生まれ、その関係の表示というところに至り前置詞が登場する。動詞においては非人称動詞から人称動詞が生まれ、代名詞を生み出すに至る。この全体的な動きの中で、人間は何をしているのかといえば、よく見れば類似の発見において一貫しているのである。最初は二つのものが、時間をまたいで、記憶と今をまたぐ形で結び付けられる。次に、その結び付けたラベルどうしでのより抽象的な関係が結び付けられる。言語の発展において、人間はひたすらに結び付ける。
この動きを端的に表した前置詞、あるいは形容詞がある。「ような like」がそれである。英語の奇跡は、この単語が同時に「好きである like」をも表示するということである。人間は世界の事物、動きにたいして、 like の橋を架ける。「I like you」が「わたしはあなたのことが好きである」であると同時に「あなたのようなわたし」ではないと言い切れるだろうか。長年連れ添った夫婦の顔が似てくるというあの俗論は、すくなくとも英語の神秘的な場所において支えられている。類似の世界、like の世界は、物同士の、現象同士のある種親密な関係を表しており、それは sympathy としての共感に比肩するものである。人間は言語を生み出すというはたらきにおいて、それらの触媒としての役割を果たしている。
そして、この動きをおこなう「わたし I」がすでに「like ような/好きだ」的なのである。名詞は「彼らにもっともなじみ深く、頻繁に言及する機会がある対象物」を名付けることから始まったのだ。「わたし」が「I」として現れる前に、すでに「わたし」は模倣している。音楽が感情を模倣し、感情が音楽を模倣する運動をわれわれは先に見た。「つなげる」ことにおいて、「わたし」はすでに like であった。「つなげる」であって「つながる」ではない。「わたし I」は消えているものとして、世界においてものとものをつなげる、というのが触媒の論理である。「わたし」はすでに模倣として世界に生まれたところから「わたし I」へ変身していく。
だがわたしがさらに言いたいのは、love は一体どんな前置詞なのか、形容詞なのか、ということである。love はどうしていまだ like のような前置詞や形容詞でもあるということになっていないのだろうか。love もまた明らかに何かをつなげている。だがそれはいかなる種類の「つなげる」ことなのだろうか。触媒のように「わたし」が消える運動ではないようにも思える。
もしかしたら上の「世界」は、「自然」や「宇宙」に書き直したほうが良いのかもしれない。like とはまさしく「自然の言語」であり、「宇宙の言語」、この宇宙のつながりを表している最初の「似ている」かもしれない。ルイス・カーンはこのように書いている。
どのような知識のかけらもつねに断片的なものですから、アインシュタインのような真の洞察者にとっては充分ではありませんでした。かれは知識が全知識に属さないかぎり、それを受けいれようとはしませんでした。それゆえにかれは相対性についての美しい公式を容易に書き上げることができます。かれの公式は、すべての知識が真に応答するオーダーについての一層大きな畏敬の感覚へとわれわれを導くものを端的に示す方法でした。人は知識が人間的なものに属するものとは見なしません。知識は自然に関わるものだけに属するということです。だとすれば知識は宇宙に属しますが、しかしそれは永遠なるものには属さないのではないのでしょうか。宇宙と永遠なるもの、そこには大きな相違があります。*17
アインシュタインについて私がもっとも敬服している本質的特質は、かれがバイオリン弾きだということです。このことからかれは普遍なるものについての多くの感覚を引き出しました。あるいはむしろつぎのようにいえます。つまりユニヴァーサル・オーダー(宇宙秩序)は、永遠なるものの感覚からやってきた事柄であって、たんなる数学の知識や科学の知識からのものではないのだと。すべての人に浸透するはずの宇宙秩序の感覚が、知識をもっていたにもかかわらず他の科学者のところへ到達しなかったのはいったいなぜでしょう。知識は手に入れることのできるものです。それは、他のものに属していた知識がたまたまその人のものになっただけで、したがって知識は誰のものにもなります。知識はあきらかにその人自身の仕方でそれぞれの人に属するものです。人間のために知識の書物は書き尽くされてはいないし、これからも書き尽くされることはないでしょう。自然は知識の書物をけっして必要としません。それは自然のためにすでに書き尽くされているからです。*18
一方には、宇宙 - 自然 - 科学者 - sympathy - like の領域が存在している。そしてもし、 「愛している love」が前置詞として、形容詞としてある領域が存在するなら、それはおそらく、世界 - 永遠 - 詩人 - empathy - love という連関をえがいているのではないだろうか。
言語と機械 混合と言語の「完全性」
「言語起源論」はある特定の言語の起源と発展を記した論文ではなく、言語そのものの起源と発展を記した論文である。ここに複数の言語、そして言語の完全性・不完全性という問題があらわれる。
20 一つの単語で出来事の始終を表現し、その表現のなかに完全な単一性やまとまりを維持し、対象物や観念のなかにつねに存在するだけでなく、出来事を、形而上学的に何らの抽象観念、主語や限定語といったいくつかの構成要素に区分したり、抽象化したりすることをまったく想定しない非人称動詞が、十中八九、最初に発見された種類の動詞であっただろう。動詞 pluit[雨が降る]つまり it rains[雨が降る]、ningit[雪が降る]つまり it snows[雪が降る]、tonat[雷が鳴る]つまり it thunders[雷が鳴る]、lucet[昼である]つまり it is day[昼である]、turbatur[混乱している]つまり there is a confusion[混乱がある]などは、それぞれ一つの完結した主張、つまり、心がそれを現実に感じる完全な単純性やまとまりをもつ事象全体である。これとは逆に、 Alexander ambulat[アレクサンダーが歩く]つまり Alexander walks[アレクサンダーが歩く]、Pertus sedet[ピーターが座る]つまり Peter sits[ピーターが座る]という語句は、事象をあたかも二つの部分に、つまり人称ないし主語とその限定詞、あるいはその主語によって確定された厳然たる事実とに分割している。だが現実には、歩いているアレクサンダーという思考や概念は、歩いていないアレクサンダーのそれと同様に、完全かつ完結した一つの概念である。それゆえ、このような事象の二つの部分への分割は、まったく人工的なものであり、言語が不完全である結果であって、この場合も他の多くの場合と同様に、いくつかの単語を用いて、確定されようとしている厳然たる事実の全体を一度に表現できる言葉の不足を、補充するのである。*19(強調は引用者)
対象、概念の全体性、完結性、単一性に対して分割された言葉を対応させることに、アダム・スミスは人工性、言語の不完全性の臭いをかぎつける。それはここに明らかなように文字の誕生にも及ぶ。先に引用した「ライオンが来る」に引き続く箇所、非人称動詞が人称動詞へと変容する過程で、中国語が、そしてあるていど日本語もまた、アダム・スミスの体系から脱落していくだろう。
30 ほとんどすべての動詞が人称動詞的になったのは、また、ほとんどすべての事象を、極めて多数の形而上学的部分 さまざまな部分から成り立つ発言によって表現され、あらゆる語句や文章からなる異なった構成要素のなかに、さまざまに結合された部分 に分離して分けることを次第に人類が学んだのは、おそらく、このような方法においてのことであっただろう。同じような種類の進歩は、表記の技法と同様に、発音の技法でもなされたように思われる。人類がその着想を書くことによって表現しようと最初に試み始めたとき、どの文字も、単語をまるごと表していた。だが、単語数は無限にあるから、覚えておく必要がある文字の多さによって、記憶がやたら詰め込まれ、すっかり圧迫されることがおのずと分かった。必要は、それゆえ人類に対して、単語をその要素に分けること、さらに、単語それ自体ではなく、単語を構成する要素を表す文字を発明すること、これを教えた。*20
アダム・スミスの論文は(おそらく彼の母国語としての、という限定もあっただろうが)、英語を最後にその発展運動を止める。ギリシア語などの古代語から英語に至る発展は、いかにしてなされたか。それは「国民の混淆」によってである。言語の発展を眺めるアダム・スミスの視点は、文明の発展や「利己心」を眺めるときにもにた両義性の印象を我々に与える。
33 言語は、いくつかの言語が互いに入り混じった 異なった国民の混合によって引き起こされる 結果、構文がより複雑化しなかったら、おそらくそれは、あらゆる国でこのように持続的に発展していただろうし、名詞や形容詞の語形変化や動詞の格変化の点で、よりいっそう単純化することはなかっただろう。*21
アダム・スミスは古代語における性と格変化を、単純で自然にかなったものと見なした。「男性の/女性の/性のない」を表す形容詞という概念を新しく作るより、「ラテン語では lupus[オオカミ]と lupa[雌オオカミ]、equus[馬]と equa[雌馬]」*22のように、単語の一部を規則的に変えれば済むし、同様に前置詞なる概念を発明する難しさに比べれば、対応する語尾変化によって、主格、属格、対格、与格のような関係性の概念を充分に表現することができた。「名詞の異なった組成は、しばらくの間、形容詞の発明を未然に防ぐことができたかもしれないが、このような必要性を、完全に未然に防御し尽くすことはできなかった」*23という表現には、言語の変化に対するアダム・スミスの基本姿勢が透けて見える。形容詞が生まれてからも、それは名詞の語尾変化に同調する変化をすることで、「一定の音の類似性、一定の種類の押韻」は守られた。
形容詞が発明されたとき、それが、名詞に対する 形容辞とか、限定として用いられるはずの 一定の類似性をもって形成されただろうということは、道理にかなっていた。人間は、最初につけた実体物と同じ接尾辞を、そのようなものに対して自然に与えたことであろうし、また、音の類似性を好むこと、さらには、同じ音節の繰り返し それは、あらゆる言語における類似性の基礎である を喜ぶことが原因になって、同じ形容詞の接尾辞を、男性、女性あるいは中性の主体に対してつける機会をもつのに応じて、人間はそれをしばしば変えていったことだろう。*24(強調は引用者)
だが、もはや英語にはそのような文法的な保護は残されていない。前置詞が格変化にとって代わり、名詞の語尾変化は、複数形と三人称単数を残すのみとなった。音の類似性は文法の気にするところではなくなってしまった。この文法的な抽象度の増加と同時にある種の単純化が起こる理由こそ、先に上げた異なる国民の混合である。見知らぬ言語の複雑な格変化や語形変化を母国語話者のように覚えるのは困難であり、適当な前置詞によってそれを代替していくということが起こる。この異種混淆は「征服」や「移民」によって「余儀なく」されるものである。こうしてラテン語はギリシャ語と古代トスカナ語の混合物であり、フランス語はラテン語と古代フランク族の言語、イタリア語はラテン語と古代ロンバルディア人の言語の混淆から起り、そして英語はフランス語と古代サクソン人の言語の混合物として生まれる(この運動は新しい言語から古い言語に逆流することもあり、アダム・スミスはトルコ人によるコンスタンチノープルの奪取以降、ギリシャ語でも前置詞がうまれたと書いている)。
両義性というのは、これらの運動全体をアダム・スミスが機械の進歩と比較するところで明白になる。
40 英語はフランス語と古代サクソン人の言語の合成物である。フランス語はノルマン人による征服によってイギリスに持ち込まれ、エドワード三世[Edward III, 1312-77]の時代まで、唯一の法律用語であるだけでなく、宮廷における主要な言語であり続けた。後に話されるようになり、今もなお話され続けている英語は、古代のサクソン語とこのノルマンディーのフランス語との混合物である。それゆえ、英語は、その構成の点でフランス語やイタリア語のそれよりもより複雑であるから、したがって同様に、名詞や形容詞の格変化や動詞の格変化においては、より単純化されている。少なくとも、この二つの言語は一部の男女の区別を残しており、さらに形容詞は、男性あるいは女性の名詞に適用されるのに応じて、その接尾辞を変化させる。だが、英語にはそのような区別はなく、その形容詞はいかなる接尾辞の変化も容認しない。(中略)
41 言語が、その構造がよりいっそう複雑になるのとまさに比例して、その基礎と原理の点でより単純なものになるのは、このような方法においてであり、機械装置について一般的に生じるのと同じことが、言語においても生じてきた。あらゆる機械は、最初に発明されたときには、一般的にその原動力に関して極端に複雑であり、それが遂行するように意図された特定の運動に対して、特定の運動の原動力が存在することが多い。それ以後の改良で観察されるのは、一つの原動力が、このようないくつかの運動を生みだすように利用されることであり、こうして機会が一般的にますます単純になって、その効果を、より少ない数の回転盤と、より少ない運動の原動力を用いて生みだす、ということである。言語においても、同じような方法で、あらゆる名詞のすべての格と、あらゆる動詞のすべての時制は、これ以外の目的には使えない特定の明確な単語で、もともと表現されていた。だが、続いて起きたことを観察して分かったことは、一組の単語が、その不定形の数すべての代わりを提供できること、および、四つか五つの前置詞、半ダースの助動詞が、古代言語におけるあらゆる名詞や形容詞の語形変化と動詞の格変化がもつ目的をかなえることができる、ということであった。
42 だが、この言語の単純化は、おそらく似たような理由から生じるとはいえ、対応する機械の単純化と似た効果をまったくもっていない。機械の単純化は、機械をよりいっそう完全なものにするが、しかし、言語の未発展な状態におけるこの単純化は、それをますます不完全で、言語がもつ目的の多くにとって、さらに不適切なものにする。*25(強調は引用者)
美しさをシステムに見出すアダム・スミスにおいて、英語の「基礎、原理=原動力」における単純化と構造の複雑さは、美しい発展として映らなかった。不適切な理由として、アダム・スミスは冗長さ(たとえばラテン語ではDei[神の]とDeo[神に]をそれぞれ一語で言えるところ、英語は of God[神の]、to God[神へ]と二語使わなければならない)、音の快適さの低下(連動する語尾変化が失われたことにより明らかである)、配列の不自由さ(第◯文型というあの教育を思い出せばよい)を挙げる。この三つはすべて英語において美しい表現を困難にするものとして理解されている。簡素さ、そしてなにより音の美しさを、英語の構文は失わせてしまった。それはノルマン・コンクエストという「征服」によって「余儀なく」されたものであった、というのがアダム・スミスの基本的な英語に対する理解であろう。
「言語の未発展な状態における」という条件が英語という単純化に当てはまったとしよう。しかしいったいいつ、言語は適切な単純化を可能とするような発展状態を迎えるのだろうか。すでにしてラテン語の段階で、言語は一つの単語ですべてを説明することの出来ない不完全性を抱え込んでいた。そのような意味での完全性へ、いかなる「進歩」なら到達しうるというのか。そしてなによりも、ここにあらわれた言語の混合と不完全性に関するアダム・スミスの主張は、かれ自身が言語の起源において記述した事態とどういった関係にあるのか。アダム・スミスは言語の最初の形成を記述するにあたって、一番最初に「二人の未開人」の出会いを記していたではないか。出会いから生まれた言語が、出会いによって色褪せていくということがあるのだろうか。ここでふたたび我々は冒頭、はじまりに戻る必要がある。
ひとりとふたり 言語の生まれる場
アダム・スミスとルソーは核心的な部分でしばしば対立している。例えば所有はアダム・スミスにおいて「殺してはならない」の次点にくる、「所有財産、所有物は保護されなければならない」という正義の法によって保護される人間の根幹であるが、ルソーにとっては人間の自然的でない一切の不平等の源泉である。ルソーはホッブズに反対する形で、自然状態の人間は必要最小限の理性しか持たず、情念の感ずるままにあり、満ち足りていたと想像する。ルソーが想像するこの自然状態は、たとえ歴史上どこにも実在しなかったとしてもルソーにとってはそれを思考することが必要で意味のあるものである。一方のアダム・スミスはといえば、自然状態という概念そのものに意味を見出していない。
聖職者たちは、徳にかんするこの危険な学説[引用者注:ホッブズの学説]に反対することが、自分たちの義務だと考え、自然状態は戦争状態ではなく、社会は政治制度がなくても、それほど融和的な状態ではないが存続しうることを、示そうと努力することによって、それを攻撃した。かれらは、人間がこの状態において、自分の身体、自分の労働の果実、契約の履行にたいする権利というように、自分に属する一定の権利をもっていることを、示そうと努力した。この意図をもってプーフェンドルフは、かれの大論説を書いた。それの第一部の唯一の目的は、ホッブズを論駁することにあったが、自然状態というようなものは存在しないのだから、そこで成立するだろうという諸法を論じたり、どのような手段で所有の継承が行われたかを論じたりしても、じっさいには何の役にもたたないのである。*26(強調は引用者)
アダム・スミスが言及した『人間不平等起源論』においては、言語の起源は「人間の最初の言語、このうえなく普遍的で、このうえなく力強く、会衆を説得しなければならなくなる以前に必要とされた唯一の言語は、自然に基づいた叫び声」*27であり、『言語起源論』の方ではまず身振りの言語が生まれ、次に情念、「生きる必要によって互いに避け合う人間たちを、すべての情念が近づける」ところの情念、「愛、憎しみ、憐憫の情、怒り」といった情念から言語が生まれ、それもまず「文彩」からはじまる(「人間がことばを話す最初の動機となったのは情念だったので、人間の最初の表現は文彩だった」*28)。アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で文のあや、文彩について極めて低い評価を下している(たとえば、「それで、全体として、あやは、文体になにも美しさをあたえない。われわれがそれを称賛するのは、表現が話し手の意味と愛情に適合しているときである」*29など)。のっけから噛み合わない。「われわれに知られている最も古い言語であるオリエントの諸言語の精髄は、その形成において想像される学術的な歩みとは相いれない。それらの言語は、方法的で理論的なものが何もない。その諸言語は、生き生きとしていて比喩に富んでいる。最初の人間の言語を幾何学者の言語のようなものとする人がいるが、詩人の言語だったことがわかる」*30とルソーは書く。『人間不平等起源論』でルソーが言語の起源についての考察を短く切り上げてしまったことにはアダム・スミスも言及した通りの理由があったであろうが、ここで「幾何学者の言語」が槍玉に挙げられていることは、第一回で引用した、アダム・スミスの死後ある人が彼を評した言葉「かれは良俗的な美と卓越については、もっともただしい理解力をもっていたにもかかわらず、多くの趣味をもつには幾何学者でありすぎました」を思い出すとなかなか鮮烈な対照に映る。
だが、しばしばアダム・スミスとルソーは同じような位置にも立っている。先にあげた 「venit 来る」をめぐるアダム・スミスの思考には恐怖が滑り込んでいたが、ルソーにも似たシーンがある。
野生人は別の野生人に出会ったらまず恐怖に陥るだろう。恐怖によってその人たちが自分より大きく強いように思えただろう。そこで彼は彼らを巨人と名づけた。多くの経験の後、彼は、自分が巨人と名づけた者たちが自分より大きくも強くもないことを認め、彼らの体格は巨人という後に最初に結びつけた観念にまったく適さないことを認めた。そこで野生人は彼らと彼に共通の名前、たとえば人間を発明し、巨人という名前は幻想の間彼に印象を与えた間違った対象のために残しておいた。こうして情念がわれわれの目をくらませ、情念によって与えられる最初の観念が真理のものではないとき、比喩的な語は本来の〔意味の〕語よりも先に誕生する。私が語や名前について言ったことは、言い回しについても何の問題もない。情念によって提示された幻想のイメージは最初に示されるので、それに対応する言語も最初に発明された。精神が啓蒙されその最初の間違いを認め、誤りを生み出したのと同じ情念でのみそれらの表現を使うようになり、その言語はそれから比喩的なものになった。*31(強調は引用者)
見知らぬ他人と出会うということは野生人にとって恐怖であった。「来る」はその起源からして二人にとって恐怖を起源としている。この二人の言語の起源は本当に、どうしようもないほどに異なっているのか。コミュニケーションとしての言語と詩としての言語は、それほどにまで遠かったのだろうか。
もう一度アダム・スミスの「言語起源論」の冒頭に戻ろう。
1 特定の対象を指示するために特定の名称を割り当てること、すなわち、名詞相当語の開始は、おそらく、言語の形成に向けた最初の第一歩の一つであっただろう。話すことを学ばず、しかし、人間の社会から隔離されて育った二人の未開人は、彼らが一定の対象物を指示したいと思いさえすれば、相互の必要を互いに理解できるようにしようと試みるような言語を、何かの音を発することによって、自然に形成し始めるだろう。彼らにもっともなじみ深く、頻繁に言及する機会がある対象物だけが、特定の名称をそれに割り当てられるだろう。
これが、講義録である『修辞学・文学講義』第三回では次のようになっている。
実在するあるものを表示して、われわれが名詞とよぶ単語が、言語を創造しつつあった人びとが、はじめて案出したもののなかにあっただろうということは、もっともであるように思われる。出あっておなじ場所に住居をさだめた、ふたりの未開人は、ほとんどただちに、ひじょうに頻繁に発生してかれらがひじょうに関心をもった対象を表示する、記号をもつように努力しただろう。*32(強調は引用者)
この講義ノートは1762年から1763年にかけて行われた講義の記録であり(1763年にアダム・スミスは母校グラスゴー大学を辞する)、「言語起源論」が『道徳感情論』の最後に追加された第三稿が1767年であるから、この講義を通過したうえでアダム・スミスは「言語起源論」を出版したことになる。この二つの間に、出会いにまつわる微妙だが重要な違いが現れている。まず講義においては「人間の社会から隔離されて育った」という要素が見られない。『人間不平等起源論』には、言語の起源についての哲学者の考察は「まさに私が疑問としていること、すなわち言語を発明した人たちの間にある種の社会がすでにうちたてられていることを前提にしてしまっている」*33という批判がなされており、これを受け止めたという可能性がある。もう一つの違いは、「おなじ場所に住居をさだめた」と講義録にはあったものが、「言語起源論」においては消滅していることである。実はここにおいてアダム・スミスとルソーは同じ思想を共有しているのである。
アダム・スミスは動詞の起源を語るところで、「我々は、何かが存在するとか、しないとかいう意見を表明するためでなければ、けっして話などしない」と書いていた。ここは見過ごせないところである。話さなければならないほどのきっかけがなければ言語は生まれないという話であるかに見えるが、文字通り読む限り、ここには雑談の余地がない。人間は積極的に話をするようにはできていないというのがアダム・スミスの隠された基盤になっている。『人間不平等起源論』における、先の批判のそのすこし後を見てみよう。
最初にあらわれる疑問は、いったいどのようにして言語が必要になりえたのかを想像することである。なぜなら、人間たちの間にはいかなる交渉もなく、交渉をもちたいという欲求などまったくないのだから、言語がなくてはならないものでなかったならば、言語を発明する必要も、言語を発明する可能性も、想像するだにできないからである。他の多くの人たちと同じように、父親と母親と子供たちからなる家庭内のつきあいから言語が生まれたのだといえるものならいいたい。しかし、それでは、異論を解消できないばかりか、社会の中で得られた諸々の観念を自然状態に持ち込んだうえで自然状態について推論する人たちと同じ過ちを犯すことになってしまうだろう。すなわち、数多くの共通する利害が家族の構成員を結びつけている私たちと同じように、家族の構成員が親密で継続的な結合を保って、ひとつ屋根の下に集まって暮らしているとみなしていることになる。ところが、この原初的状態にあっては、家も小屋もいかなる財産もなく、各人が偶然にまかせて居を定め、しばしばたったひとりで夜を過ごすのである。偶然の出会い、きっかけ、欲望にまかせて、雄と雌はたまたま結ばれ、互いに伝え合うべきことをどうしても言葉にしなければならないということもなかった。別れるのも同じように簡単だった。母親が子供たちに授乳するのも、はじめは自分自身の欲求を満たすためだった。やがて習慣から子供たちがかわいくなり、子供たちの欲求を満たすために養うようになる。餌を自分で探せるようになるやいなや、子供たちはやがて母親さえ見捨てた。ふたたび会うためには、見失わずにいるほかに手段がなかったから、やがてお互いに親子であることがわからなくなってしまった。いっそう注意してみるべきことがある。子供は自分のあらゆる欲求を説明しなければならないので、その結果、母親が子供に対する以上に、子供は母親に対していうべきことがあるのだから、言葉を発明するのに子供の方がいっそう骨を折るに違いなし、子供が使う言葉の大部分は自分自身でつくったものになるはずだということである。このため、言語を話す個人の数だけ言語の数が増えていくことになる。すみかを定めない放浪生活をしているため、いかなる慣用表現も定着する暇をもたない。子供があれこれと母親にせがむために用いるはずの言葉は、母親が子供に教えるのだ、などといってみても、それはすでにできあがった言語をどのように教えるのかを示しているだけで、母親がどのようにその言葉をつくったのかはなにも示していない。*34(強調は引用者)
ルソーにおいて、(自然状態の)人間は他人と交渉を持ちたいという欲求がまったくなく、したがって話しはじめようとする積極的な理由がまったくない。そしてそれを家族に求めることはできない。これは社会を言語の誕生の前提にするという転倒の帰結でもあるが、同時に自然状態という仮定から出される帰結でもある。しかし、そもそも自然状態なるものは存在しないし考慮する意味もないというアダム・スミスにとって、これをそっくりそのまま受け入れる必要はなかったはずである。母親への言及があればなおさらである。アダム・スミスは父無し子であり、一時期フランスやスイスに旅行したものの、終生母親と一緒に暮らした。一方ルソーは母無し子であり、ヨーロッパじゅうを放浪した。このような「自然状態」をアダム・スミスが受けいれられただろうか。しかしそれでも「言語起源論」における言語の起源からは講義録にあった共に住むという要素、家族につながる要素が消滅しているのは確かである。
動物には群れをつくるものもつくらないものもいる。遊牧民とまではいかずとも、複数の家族が集団的に狩猟採集を繰り返しながら移動するという発想もありえたはずである。自然状態はそれが現実においてどうであったかが問題なのではなく、それを通して現れる、筆者にとっての人間の原初の捉え方が重要なのだ。ルソーにとっては孤独が自然だったが、アダム・スミスにとってはルソーの孤独もホッブズの闘争状態も等しくフィクションであるというだけでなく、等しく受け入れがたいものではなかったか。「言語起源論」において家族は言語の誕生する場所としては消えてしまったが、それは原初において家族が存在しなかったという主張もないということである。名詞の起源のところで、アダム・スミスは「今まさに話し始めた子供は、家に入ってくる人物をすべてパパやママと呼ぶのであって、こうして、二つの個体に対してつけるように教えられた名称を、種全体に与える」*35と書き、個体としての人間の言語習得に、言語の起源の痕跡を読み取ろうとしている。
よく考えればアダム・スミスの「人間の原初」の捉え方は異様なものである。人間は存在しはじめた原初の段階から自然と切り離されている。自然状態が存在しないとはそういうことである。しかし「言語の起源」があるということは、人間には「言語以前」があるということである。しかし言語なしに社会はありえない。アダム・スミスにおいて「人間の原初」は、自然も社会もないということにならざるをえない。ではいったいなにがあるというのか。家族である。ルソーの批判通り、社会から言語が生まれるというのは転倒であり、したがって社会化された家族を前提としてそこから言語が生まれることは主張し得ないだろう。だがそのことは、言語の起源の段階において家族が存在しなかったということを含意しない。家族はあっても、家族において話しはじめる必要がなかった、したがって「社会ではない家族」がありうる、社会がなくとも家族はありうる、と考えればいいのである。「言語起源論」におけるアダム・スミスの記述は、このルートを残している。
アメリカの特異な経済学者フランク・ナイトは、「自由社会と倫理」と題された講義の中で、「およそ文字通りの意味での個人主義的社会といった発想全体には、基本的な誤信があります。個人主義と呼ばれているものは、家族主義と呼ばれるべきなのであって、最も決定的な自由とは、家庭生活に関わる自由なのです」*36と書いている。幼児に家計管理はできないし、契約も結ぶことができない。それは保護者によってなされる。人間は動物の中でもきわめて未成熟な状態で生まれる生物であるが、そのことは純粋で完全な意味での個人主義が不可能であることを意味する。おそらくこの考え方にはアダム・スミスの考えが静かに浸透している。「人間の社会から隔絶されて育った二人の未開人」はどこで育ったか。十分に成長していれば一人で生活できるかもしれないが、ここで問題なのは「育った」である。原初の段階において人間が集団的な生活を営んでいたとしても、子供が生まれた途端に母親を集団からパージするような集団というのは考えられない(スパルタはもはや原初というには原初から離れすぎている)。集団的でなければなおさらである。よって、原初における子供は(広い意味で)家族において育つ以外にない。ルソーでさえ母親は「習慣から子供たちがかわいくなり、子供たちの欲求を満たすために養うようになる」と書いている。母子家庭も父子家庭も「家庭」であるかどうか。この関係をどう見つめるか。アダム・スミスとルソーの根本的な対立点はおそらくここに見えてくる。一方には「しばしばたったひとりで夜をすごす」ルソーの沈黙がある。もう一方には、(もしかしたら母と)ふたり、何かを話す必要もなくただじっと共に夜を過ごしている、アダム・スミスの沈黙がある。根本的な対立、それは「ひとりかふたりか」ということにほかならない。
スタロバンスキーによるルソー論のタイトルは『透明と障害』であったが、このタイトルはまたアダム・スミスにも当てはまるものだろう。ルソーは不平等の起源に所有を見出したが、次の箇所を見てみると、彼の絶望はもっと深いように思われる。
人間たちが粗末な小屋で満足していた限り、着るものを植物の棘や魚の骨で縫い、鳥の羽や貝殻で身を飾り、身体にさまざまな色を塗り、弓矢を美しく仕上げ、よく切れる石で釣り舟や簡単な楽器などをつくったりするにとどまっていた限り、要するに、自分ひとりの手でつくることができる、複数の人間たちの手の協力を必要としない技芸だけに励んでいた限り、人間たちはその本性によって可能な限り自由、健康、善良、幸福に生き、独立した者たちの交際がもたらす心地よさを享受し続けていた。ところが、他の誰かの助けを必要とするようになったとたん、ひとりで二人分の食料を手にすることが有益だと気づく者が現れたとたん、平等は消え失せ、所有権が導入され、労働が必要不可欠になった。*37(強調は引用者)
もはや社会が誕生してしまった段階で、所有権への道は指一本触れるだけでドミノ倒しに到達するような危ういものでしかない。言語はこの道へ続く禁断の扉を開けるものとなる。「自然に帰る」とき、おそらく彼は一人で森の中に消える。その森が消えてしまったなら、彼は社会において消滅したものとして生きていくか、あるいは社会を消滅させるか、選択を迫られることになるだろう。この消滅はもちろん比喩である。
アダム・スミスが『国富論』において「牧羊者の羊毛刈り取り用の大鋏」を作るために必要な労働を列挙する部分を見てみよう。
船員の船、縮絨工の圧搾機、さらには織布工の織り機という複雑な機械はさておき、ここではきわめて簡単な機械、つまり牧羊者の羊毛刈り取り用の大鋏を作るのに要する労働がいかに多様であるか、これに絞って考察してみよう。
鉱山業者、溶鉱炉建設業者、木材伐採業者、製鉄業者が使用する木炭の炭焼工、レンガ製造工、さらに、溶鉱炉の世話をする機械組立工、鍛鉄工、鍛冶屋などすべての労働者は、大鋏を生産するためにさまざまな技術を残らず結合する必要がある。くわえて、牧羊者の衣類や家具の大部分、つまり、直に肌にふれる粗い麻の下着、靴、ベッド、寝具、食事を調理する台所の火床、地下から掘り出され、おそらく長距離の海運と陸運を経て運び込まれた調理用の石炭、その他のあらゆる台所用品、食事を取り分ける陶製や錫合金製の皿、ナイフやフォークといったあらゆる食卓用品、パンとビールを造るのに使用された他人の労力、暖と採光をもたらし、風雨を防いでくれるガラス窓 この美しくて幸福な発明を生み出すために必要なすべての知識と技術をもってしても、これなしでは、地球の北部地域をきわめて快適な居住場所にできなかったであろう物 に加え、このようなさまざまな便宜品を生産するために用いられたさまざまな労働者の道具も、すべて同様に調査してみる(以下略)*38(強調は引用者)
この労働のネットワークを網羅的に浚いあげるような記述の中で、特権的な言及がなされているものが「ガラス窓」である。それは「美しくて幸福な発明」であり、それを作るために必要なすべての知識と技術があったとしても、それがなければ「地球の北部地域をきわめて快適な居住場所にできなかったであろう物」である。「文明」や「進歩」を記述し、人間の「徳」や「正義」を記述し、芸術の「美しさ」を記述したアダム・スミス。彼は人間の観察に努め、その成果を、そのどこにも彼自身がいるように見えない文体によって書き残した。地球は必ずしも彼にとって居心地のいい場所ではなかった。自然の恐怖をニュートン体系がある程度解決したにせよ、人間という新たな現象、驚異、驚愕をもたらす不可解な現象が発見され、かれをひっきりなしに襲う。それらはどのように動くかわからない。内側に「心」があるということは分かるが、それがいったいどのような行為へ、運動へとそれらを導いていくのか、容易には判別しがたい。文体の美しさ、感情、道徳にまたがる音楽性は、向こう側からこちら側へ、こちら側から向こう側へ、伝わろうとするもののノイズを限りなく減少させることを志向した結果現れたものでもあろう。それは希望であり、現実社会においてノイズはそう易々となくなることはない。アダム・スミスは自然に帰ったりなどしない。文明がガラス窓を生み出した。われわれは最初に帰ってくる。「すぐまえの人の署名をそっくり写し」たアダム・スミス。ガラス窓に魅了されるアダム・スミス。おそらく自身口にしたことも書いたこともない希望の中で、美しく幸福な物質的透明として、彼は文字通り消滅する。
アダム・スミスのあとで(そしてわたしたちがふたたびはじめてはなしはじめられるようになるために)
『現代詩手帖 1991年7月号』の特集は「詩になにができるか」と題され、巻頭には谷川俊太郎と稲川方人の対談が掲載されている。タイトルは「ディスコミュニケーションをめぐって」である。湾岸戦争、そしてそれに呼応した『鳩よ!』の湾岸戦争詩特集をひとつのきっかけとして交わされる対談。選択される言葉の差異。「リアリティ」を巡る差異。現代詩の歴史的状況とメディア環境の状況に目を配りつつ、「人間」のディスコミュニケーションに関心を寄せる稲川と、「僕と稲川さん」のディスコミュニケーションに関心を寄せる谷川。
稲川 (前略)本質的に今回の問題というのは言葉のディスコミュニケーションを巡る問題だと思わざるを得なかった、ということがあります。
谷川 そのディスコミュニケーションというのは、例えば僕と稲川さんとの間のディスコミュニケーション、それから詩を書いている人間と読者との間のディスコミュニケーション、もっと一般的に言えば、現代の状況の中で人間同志が言葉によってはなかなかうまくコミュニケーションが出来ないという事ですか?
稲川 はい。「人間」のディスコミュニケーションが一番大きな前提となっているのではないかと思います。クロニカルな区分をしますと、六〇年代後期から七〇年代中葉にかけて、言葉のコミュニケーションを巡る「空白」を露呈していたとすると、八〇年代はそれがどういう方向であれ、その「空白」地帯から言葉が動き始めたと思うんです。現代詩だけに限って良いますと、戦後詩的な理念の規範が解体したという、まあ一般的な言い方ですが、現代詩の言葉が低迷していた状況に対して執拗にベクトルを与え始めた時代だったと思うんです。言葉が動き始めた時代、そこには、今、谷川さんがおっしゃった詩とか文学という枠に留まらない、人間の、ホモ・サピエンスのディスコミュニケーションといいますか、それが世界的に露わになってきたという状況が一つ、大きな背景としてあるんではないかと思います。(中略)地球的にと言わざるを得ないかもしれませんけど、八〇年代には、それまで潜在的だった大きな前提が露わになって、それが感覚的にも「湾岸戦争」に集約されて、われわれにとって、とりわけ先進国の人間にとって、と言っていいんじゃないかと僕は考えてみるのですが、アメリカ・イギリス・フランスとか、当然その最たる日本とか、人間の自己同一性が際立って混沌とし始めている国の人間にとっては、「湾岸戦争」は単なる戦争のイメージ以上のものを持った、という感じがするのです。
谷川 僕も話が通じないというのが今回話題になると思ってきたんだけれど、僕の場合は割と大きな話じゃなくてね、僕と稲川さんと間でどこまで話が通じるのか、通じない場合には去年の末の座談でいわれていたような、何か世代的な対立があるんじゃないか、とかね。(中略)僕なんか正直言って、例えば稲川さんたちが話されたり書かれたりしている事、それが評論であれ、あるいは座談であれ、詩もそこに含めてもいいんだけれど、本当は詩と座談とか評論とは分けて考えなきゃいけないとは思ってるんですけどね、何かちょっと外国語みたいに思えるところがある。翻訳してもらわないと解らないみたいなさ、そういう感覚と言うのは僕が不勉強というところもあるのだけれど、何か稲川さんたちが使っている言葉を自分では使いたくない。できるだけ使わずに考えていきたいし、話していきたいし、書いていきたい、というのは確かにあるんですね。*39(強調は引用者)
アダム・スミスの「外国語」と、谷川の「外国語」。アダム・スミスにおいて「外国語」は言語をますます不完全に、不適切にする「進歩」をもたらす。一方、谷川の「外国語」は「母語」のなかに発見されるのだが、それはアダム・スミス的な純粋性の問題ではない。「母語」のうちにすでに「外国語」がある。翻訳しなくても解る言葉としての「母語」。母の言葉。ここには透明性の言葉、ガラスの言葉へと向かおうとする詩人の視線がある。しかしはたして、「外国語」は、「翻訳しなければ解らない」言葉は、ポップでない言葉は、通じにくいにしても、通じないというところまでいってしまうのだろうか。
『鳩よ!』から送られてきたウミウの写真。湾岸戦争を扱った詩をウミウの写真につけるという発想を谷川は「あんまり好きじゃなかったし、そういうことでかえって何か、詩を書く人を限定してしまうような気がしたし、始めは表紙にアレをつかうなんて言っていたから、そんなのやめた方がいいんじゃないかなあ」*40と考えていた。一方稲川はどうだったか。
稲川 『鳩よ!』からウミウの写真が送られてきまして、依頼文が付いていたんですけど、受け取った時からやれるとはちっとも思ってなかったですね。受け取った時に非常に腹がたったですね。冗談じゃねえ、と大声を出しました。つまり、雑誌ごときがというのもおかしいんですが、人間の立場を強要していいのか、と生理的な反発があった。しばらく前でしたら、そんなモノは唾棄すれば、捨てればよかった。しかし、自分でも不思議な気がするんですが、僕はしばらく、三ヶ月くらいあの写真をずっと持っていたんですね。倫理的なこだわりがあって持っていたんでもないんですね。さっきから言っているような、どうも価値的な選択で示されたものではない構造をもっている、それは何だろうかと、そこに引っ掛かってずっとあのウミウの写真を持ってたような気がするんですね。捨てることが出来なかった。もちろん今でも結論はついてないんですが、とりあえず非常に抽象的な言い方になってちょっと誤解されてしまうかもしれませんけど、あの声明文、高橋源一郎たちの「私は日本が湾岸戦争に加担することに反対する」という非常に明瞭な、爽快なといいますか、声明文が持っっていたものは何なのか、あるいは『鳩よ!』で様々な立場で、あるいは、様様な言葉のレベルで書かれた詩によって恐らくあのウミウの写真は「湾岸戦争」のメイン・イメージとして世界中に共有されたと思いますが 一つのイメージからどれだけ飛躍できるか試みた詩人たちが一冊構成した訳ですけど、それは多分、湾岸戦争に反対するとか、あるいはアメリカという国家の政治に反対するとか、そういう事ではない機能を持っているんじゃないか、と考えたんですね。
それは何かとずっと悪い頭で考えてですね、平和とか反戦とかが二価値的な言葉の範疇で収まりきらないとすると、それは別の言葉を求めているように思ったわけです。厳密に言いますけれど、そしてそれは「愛」なんだと思った訳です。つまり平和というのは「愛」のメタファーであり、反戦というのも「愛」のメタファーである。今の世界の構造が持っている政治的な力学に、「愛」のメタファーとして機能しはじめたんだ、と思ったんです。ウミウの写真を見たときのあるわだかまり。どんな状況であの原油が流されてですね、環境破壊が進んで、環境破壊をキイとした批判、立場の価値は、僕にとってリアリティがない。しかし、写真を見たときのわだかまりというのは、「愛」のメタファーに自分の言葉がこれ以後かかわり始めるのかな、という漠然とした思いだったかのかもしれません。まあ話は進まないかも知れないけれど。
谷川 いやいや、その愛というのはかっこいいじゃないですか(笑)。あいまいどころじゃなくて極めてクリアーな発言だと思うけれど。*41(強調は引用者)
怒り、叫び、わだかまり、漠然。思考のリアリティと感覚のリアリティがぶつかりあう中で、捨てられなかった写真、ウミウの写真が求める別の言葉、「愛」を見出した稲川。アダム・スミスの sympathy は即時性を要とする。編集部から届いたウミウの写真に稲川は腹が立ち、冗談じゃねえ、と大声を出す。それで捨てればよかった。だが彼はその後三ヶ月もの間、ウミウの写真を持っていた。捨てられなかった。それはもう sympathy の領域ではない。アダム・スミスは「我々は、何かが存在するとか、しないとかいう意見を表明するためでなければ、けっして話などしない」と書いた。それは「何も進まない話はしない」ということになろう。だが稲川が「まあ話は進まないかもしれないけど」と自分では言った話を、谷川は「あいまいどころか極めてクリアーな発言」として受け止める。ここでの稲川の発言の中にも、そしてここ以外においても、谷川なら使わない、使いたくないだろう言葉は現れている。だが谷川は受け止めた。
アダム・スミスはモデル過ぎるほどの「科学者」であり、ゆえにそれは理想的な「詩人」のネガである。このネガはいったいどのような「詩人」を浮かび上がらせるだろう。すでにいくつかのヒントは出ている。
「科学者」が驚愕 - 驚異由来の恐怖を原動力とし、その恐怖を鎮める自己治癒者として、そして結果的に自分以外をも治癒する治療者として現れるとしたら、「詩人」はおそらく恐怖以外のものを原動力とするだろう。それは手段としての恐怖を使わないということを意味しない(この意味でホラー、恐ろしいものにも「詩」への道はひらかれている)。が、結果として、それはおそらく恐怖する者に「怖くないよ」と声を掛ける者、治療するというよりも、恐怖に怯える者のそばにただいる者として現れるのではなかろうか。empathy とは「感じたい」という心の動き、声を掛ける動き、「必要か」どうかにかかわらず「助けたい」という気持ち、物質的直感ではなく根底的信頼の直感においてはたらく愛の動きであるように思われる。「世界 - 永遠 - 詩人 - empathy - love」という連関は、一見神秘的で手の届かないところに結ばれた星座に見えるが、実のところその手からすでに繋がっている。
無論、これらは詩人が取りうるいくつもの可能性の一つに過ぎないのではないか、ということをわたしは否定しない。そもそも「科学者」が必ずしも科学者ではないように、「詩人」も必ずしも詩人ではない。「詩人」の科学者、「科学者」の詩人というありようは当然ありうることである。わたしはここで「詩人とは〇〇である(べきだ)」とか「詩は〇〇である(べきだ)」といいたいのではない。そうではなく、世界を恐ろしいものだと思いたくないのに思ってしまう人に、「怖くないよ」と言いたいだけだ。そして多分、わたしも「怖くないよ」と言ってほしいのだと思う。
アダム・スミスの「言語起源論」とルソーの「言語起源論」そのどちらにおいても起源としてとりあげられなかったものがある。それは人間の名前すなわち固有名詞と、あいさつである。「わたし I」のもつ「もっとも厳密な個別性」は、「わたし I」でない「わたし I」が名指すことのできない個別性である。いつから人間が「わたし」は「わたし」しかいないと思い始めたのかは定かでないが、「あなた you」が、したがって「わたし I」が生まれる前夜にはすでにそうなっていただろう。だが、いくらたくさんの形容詞を束ねてみても、目のまえの「あなた you」ではないあの人を名指すことはできない。生まれた子供が親を「パパ」「ママ」と名付ける。だが成長すれば、「パパ」や「ママ」は他にも、子供の数だけいることに気がつく。しかしそうだとして名前などいるのか。「わたしのパパ」、「わたしのママ」と呼べばいいのではないか。それはできない。それは属格の、所有格の対象として呼びかけるべきものではないからだ。「わたしの息子」、「わたしの娘」も同様である。たぶんそのことに、どこかで気づいた人間がいたとわたしは思う。そうして、それ以上絶対に抽象化することの出来ない名付け、文字通り名前を付けるということが、この地点でようやく起こる。「わたし I」は、原理的にそれ以上抽象化出来ない、最終的な抽象としてあらわれただろう。固有名詞は、それ以上抽象化してはならないもの、所有されてはならないものがあるという段階に達した時、初めて生まれただろう。
地平線の向こうから誰かが「来る」。二人の想定する野生人はどちらも臆病であり、視界に捉えられたお互いは、声も届かぬ距離のうちから接触を避けるために離れていく。ルソーの方ならそこで「巨人」が生まれたかもしれない。しかし、近くの丘の向こうから小さな頭が現れる。すでに声は届いてしまう距離であり、周りには助けを求められる者もいない。相手と自分どちらの足が速いか、どちらのほうが強いか、それもわからない。
だが、必ずしも逃げなくていいはずなのだ。ルソーは「身振り」が「言語」より先に生まれると書いていた。二人の野生人は(おそるおそるかもしれないが)手を振る。そしてそのとき、「おーい」と、「やあ」と、声をかけるということがなかっただろうか。そうして朝がやってきて、「おはよう!」ということが、本当になかっただろうか。自然状態があったかはわからないが、朝は絶対に存在する。
*1:荒川修作+小林康夫『幽霊の真理 絶対自由に向かうために』pp88-89, 水声社, 2015
*2:高橋源一郎著『虹の彼方に』pp194-195, 新潮文庫, 1988。この引用は不正確である。このページには英隆による写真が見開きで挿入されており、ここで引用したカギカッコで囲われた二つの文章は写真の上に重ねられるようにして、それぞれのページに一文ずつ挿入されている。正確に引用するためにはページ自体をスキャンして引用可能なデータに置き換えるしかない。さらに、ページ数も正確と言っていいのか不明である。昭和六三年発行新潮文庫版の『虹の彼方に』は、「第一話 虹の彼方に」の章題ページ(ここに『オズの魔法使い』の引用がなされる)の次ページから打たれ、そのページ番号は9である。よくある装丁だが、問題は最終ページである。この引用文は小説の最後の最後だが、見開き2ページにわたるそれにはページ番号が振られておらず、その直前のページ番号が193であることから、引用ページを194から195とした。これが文庫化に際しての著者の意志かといわれれば微妙なところである。たとえば私の手元にある同じく新潮文庫、昭和五十七発行の安部公房『箱男』には、途中写真を含むページがいくつか存在するが(そのページはわざわざ紙を変えてある)、同様にページ番号が振られていないため、これは新潮文庫が写真を含むページを組版する際のルールを適用したものだと考えるのが自然だろう。それでもこの組版には読む者に言い過ぎたくさせるものがある。『虹の彼方に』は、はじめること、はじめなおすことを巡る小説であり、そんな小説の本文の冒頭、例の章題ページの次ページ冒頭が「そしてわたしが話す番になった。」となっているとおり、すでにはじまってしまっていたことからはじまるところに面白さがある。この小説がある種の息苦しさをもつのは、「の彼方に」が絶え間なく挫折し、入れ子状の循環から出られないような形があるからだ。それは当然のことだ。この小説のほとんどは、「今までのテープをPLAY BACK」したものだからだ。再生=反復に超越はない。だが、章題ページの前のページにある写真と、最後の見開きページの写真、同じ部屋を映した写真が載ったどちらのページにもページ番号が打たれていないのを見るとき、あの一見投げ槍じみた、しかしよく考えてみれば真っ当な、「もう頁がないから」この小説は終わる、という結末への急激な加速が、この自我じみた牢獄的小説の外部へと接続する、という風に読みたくなる。「第一話 虹の彼方に」と記された章題ページの下には、次のような引用がある。
「いったいどこから帰って来たんだい」
「オズの国からよ」ドロシーは、おごそかに答えました。
ライマン・F・ボーム『オズの魔法使い』
扉のドロシーは、「どこかへ」のエネルギーに満ち満ちた小説の中で鮮烈な輝きを放つ「どこから」であり、彼女は灰色のカンザスから竜巻によってオズの国へたどり着き、またふたたびカンザスへと帰ってくる。帰ってきたカンザスが何色であったか、小説ではわからない。映画版、ジュディ・ガーランドが『虹の彼方に』を歌う(この歌も小説にはない)「オズの魔法使い」では、帰ってきたカンザスは行きのカンザスと同じ灰色、というよりセピア色である。オズの国というカラフルな場所から帰ってきたドロシーはセピア色の家に「帰ってきた」あと、「やっぱり家がいちばん」と言う。基本的に小説はモノクロの印刷によって書かれる。だがそのことは小説がモノクロであることを意味しない。たしかに『虹の彼方に』にドロシーはやってこない。だが、「伊藤整の『日本文壇史』」が、「金子光晴」が、「『カール・マルクス』」が、色彩がめまぐるしくうつりかわる「PLAY BACK」の終わりに、小説は「わたしたちが話をしていた」ことにふたたび戻ってくる。最初のモノクロ写真と最後のモノクロ写真の違い。ドロシーの代わりにやってくるもの、それは朝である。
*3:アダム・スミス著、アダム・スミスの会監修、水田洋ほか訳『アダム・スミス 哲学論文集』p271, 名古屋大学出版会, 1993
*4:同上,p272
*5:同上, pp266-262
*6:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp633-634, 講談社, 2013
*7:同上, p636
*8:同上, p635
*9:同上, p639。「あらゆる形容詞のうちで最も形而上学的ではない」とされる色彩だが、ヴィトゲンシュタインが最晩年に到達したのは色彩であった(『色彩について』参照)。色彩は、言語と対象という関係の閾に立っており、諸対象のネットワークと対象の間の関係に言語にも似た論理関係が成り立っている、というより、対象そのもののうちに諸対象のネットワークとしての論理が内在しているというべき特異な領域である。色彩を表す形容詞が「あらゆる形容詞のうちで最も形而上学的ではない」としたら、抽象の困難度に応じて誕生の時期を配列するアダム・スミスの考えからして、おそらくそれが最初に誕生した形容詞の一群ということになるだろう。色彩は形容詞という論理の誕生であり、そうなると色彩について問うことは、形容詞という論理の起源、もしかしたら差異の論理の起源を追うことでもあるだろう。「洞窟」や「木」や「泉」の差異の濃度と、「赤」と「緑」の差異の濃度は異なる。起源から見てみれば、前者はそれぞれ「木や泉でない」、「洞窟や泉でない」といった、リテラルに排他的な差異のみを内包するに過ぎないが、後者はそれに加えて「補色」という関係、いうなれば差異の距離についても包含している差異である。色彩という形容詞のシステムは、この差異の距離という概念をそれ自体に閉じた形でもっている。前掲『幽霊の真理』では、荒川修作が「人間が形容詞について語るのは五十年早い」とかつて言ったことがあることが示唆されているが、おそらくこの発言が言わんとしていたことは、形容詞という論理は人間の理性による純粋な抽象化の能力だけでは決して誕生しなかったということ、この論理はむしろもっとも形而下に近い位置にある論理、人間が名称を与える世界の側に、人間による世界の構成にわずかに先立ってあった論理ではないかということであり、人間と世界の論理を結ぶ蝶番として形容詞が生まれたのだとしたら、この事態そのものを思考するための枠組みというものを、いまだ人類は手にしていない、ということではないだろうか。
*10:同上, pp643-644
*11:同上,p644
*12:同上, p648
*13:同上, pp648-650。
*14:同上, p654
*15:同上, pp656-657
*16:同上, p660。アダム・スミスの前置詞を巡る思考を、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と対照させてみるのも面白いだろう。吉本は表現としての言語、詩としての言語を、指示表出と自己表出の織物と見なし、指示表出の極限に名詞を、自己表出の極限に「てにをは」、すなわち助詞をおいた。吉本の言語起源の神話はコミュニケーション型のアダム・スミスより、情念と詩をとるルソー型に近いものであるし、アダム・スミスは「言語起源論」に自己表現としての言語という観点をほとんど容れていない。にもかかわらず、極点という部分でアダム・スミスの前置詞と吉本の「てにをは」は合流する。一方は形而上学的なものの極限として、一方は自己表出の極限としてである。ここでアダム・スミスの「わたし I」に関する考察と合わせて考えると、ロマン主義的なものにアダム・スミスが好意を持つとは思えないものの、詩が到来する言語の場所は突端から来るということについては、合意し得るのではないかという気がする。「わたし」はすでに最も形而上学的であり、あの接続するものたちがそこへ下りてきて通り抜けていくのか、それとも「わたし」から突端が噴出してくるのか、それは定かではないが。
*17:ルイス・カーン著、前田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』p20, 鹿島出版会, 2008
*18:同上, pp108-109
*19:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp654-655, 講談社, 2013
*20:同上, p657。この文字論を日本語からどう眺めればいいだろう。日本語はかな文字を持つものの、いまだ記憶の重荷となる漢字を捨て去ることなく身につけている。かな文字によって失われた発音もあろう。記憶がなければ言葉が生まれえなかったのは確かだろう。その記憶が重荷となって言葉にものしかかる。有限の生の外側に「永遠」としての蓄積を、記憶を築き上げる、これは「科学」の営為である。では「詩」は? どうして「詩」はしばしばちゃぶ台をひっくり返そうとするのか、はじめからやりなおしたくなったりするのか。音楽史は音楽ではなく、美術史は美術ではなく、文学史は文学ではない。「詩」は蓄積でも記憶でもない(蓄積されるのは書かれた紙であり、ほとんんどありえないが印刷という文化が滅びたとしても、メタファーとして今後も蓄積し続けるだろう)。では「詩」とはなにか? 一言ではとてもいえないが、たとえば重荷に気づき、それを受け止め、書き下ろす重力としての詩があるだろう。重荷に抗う、反重力としての詩があるだろう。重力など存在しないかのようにただよい、うかび、あそぶ、無重力としての詩があるだろう。どれも詩ではあるだろう。ただ、わたしには重力、反重力、無重力、そのどれからも遠いところに場所にある「詩」というものがある気がする。それは宇宙の外側で輝く星のようなものだと思う。
*21:同上, p662
*22:同上, p640
*23:同上, pp641-642
*24:同上, p642
*25:同上, pp668-669
*26:アダム・スミス著、水田洋『法学講義』p21, 岩波書店, 2005
*27:ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』p70, 講談社, 2016
*28:ジャン=ジャック・ルソー著、増田真訳『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』p26, 岩波書店, 2016
*29:アダム・スミスの会監修、水田洋・松原慶子訳『アダム・スミス 修辞学・文学講義』p58, 名古屋大学出版会, 2004
*30:ジャン=ジャック・ルソー著、増田真訳『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』p23, 岩波書店, 2016
*31:ジャン=ジャック・ルソー著、増田真訳『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』pp26-27, 岩波文庫, 2016
*32:アダム・スミスの会監修、水田洋・松原慶子訳『アダム・スミス 修辞学・文学講義』p15, 名古屋大学出版会, 2004
*33:ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』p67, 講談社, 2016
*34:同上, pp67-68
*35:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』p634, 講談社, 2013
*36:フランク・ナイト著、黒木亮訳『フランク・ナイト 社会哲学を語る 講義録 知性と民主的行動』p193, ミネルヴァ書房, 2012
*37:ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕司訳『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』p107, 講談社, 2016
*38:アダム・スミス著、高哲男訳『国富論 上』pp41-42, 講談社, 2020
*39:谷川俊太郎・稲川方人「ディスコミュニケーションをめぐって」『現代詩手帖 1991年7月号』pp9-10, 思潮社
*40:同上, p17