前回(第二回)の記事はこちら。
Sympathy と Empathy
内海健『自閉症スペクトラムの精神病理』において、共感はASD(自閉症スペクトラム症)者を考えるうえで、定型者のそれと表出の傾向が相違する重要なポイントの一つである。
フリスは、本能的 instinctive な共感と、志向的 intentional な共感を区別して, 前者を sympathy, 後者を empathy と呼んでいる. 前者は「こころ」を介さない無媒介なものである. つまりは地続き的な共感である. むしろ「共鳴」, あるいはより即物的に「共振」といった方が実情に近い. それに対して, 後者は他者の心に対する「共感」である. *1(強調は引用者)
定型者の場合、他者の(すなわち母の)まなざしによって超越論的〈Φ〉が形成され(視線触発)、そこから自己が形成され、やがては心を直観する能力を身に着けていくことになる。ASD者とはこの、他者からの志向性に触発されない障害をもつ者である。ASD者の場合、他者からのまなざしによって〈Φ〉が形成されず、したがって自己が形成されず、他者の心を直観することができない(「心の理論」は定型者が心の直観に失敗した場合にようやく持ち出されることもある技術の一つであるが、ASD者の場合、それは直観することのできない心を推論するための重要な技術の一つであり、意義も価値の重み付けもまったく異なる。そこから「心の理論」は「心の理論」ではないという批判が行われる)。empathy は他者の志向性に対する志向性によって成り立つわけだから、ASD者はここに困難をもつ。だがしかし sympathyの方はそうではない。それは本能的なものであり、自己を前提とするものですらないからである。
あるいは神田橋條治の語る共感はどうか。『神田橋條治 精神科講義』に収録された「共感について」では、「共感」を理解するうえでの重要な鍵概念として、「人間同士は通じ合える、分かり合える」あるいは「命あるものは通じ合える」と、「他人のことはわからない。人は人、自分は自分なんだから、わからん」が挙げられる。*2通常、医師の診療場面に限らず、人が人の話を聞いている時、あるいは赤ちゃんの泣き声に対する時の姿勢は「思い入れ」である。これは言語以前のフィーリングに対する「共鳴」「共振」である。それが高まっていくと、相手のフィーリングとこちら側の理解が合っている「思い入れ」の状態を超えて、「こっが勝手に思う」、すなわち「思い込み」の状態になる。
「思い入れ」と「思い込み」のときには、その不幸な人の全体を自分が包み込んで、この人全体を理解し、共鳴し、共振れしているような感じが起こります。こちら側にね。そんなときは入れ込んどる状態です。その人に対する理解が、一面同じ色になったような、「はあ、そうだったか、こりゃとにかく、なんとかしちゃらにゃならん」とか、「もう憎たらしいやっちゃ」とか、一色になった状態。それが「思い込み」「思い入れ」の状態です。*3(強調は引用者)
赤ちゃんが言語を獲得すると、フィーリングは言語によってまとめられるようになり、そのようにして現れたものを神田橋は「体験」と呼ぶ。この相に入ってはじめて、フィーリングを体験化し、他人にコミュニケートする、伝えるといったことが可能になり、それを理解しようという意図のもとに聞き取るという段になってようやく「共感」が可能になる。フィーリングに依拠する「思い入れ」「思い込み」から生まれる(特に医療現場の場合にあっては致命的にもなりうる)思い違いが、言語というレベルによってあたらしい形で受け止められるようになる。上の引用の続きを見よう。
それがズレが見つかって、「ああ、なんだ」となるとどうなるかといいますと、この患者というひとりの人について、「この人のこういうところは分かる。だけど、こういうところはちょっと分からん。異質だ。やはり、生まれも育ちも違うから私とは別だ」というふうに、自分とは異質のところがたくさん見えてくる。そして、異質のところが見えながら、ある部分について、今までの思い込みのときとは異なった、ジーンとするような感じが出てくる。言葉になりにくいこちらの感情が、患者が話す体験のある部分に対してだけ、焦点的に起こってきます。これが「共感の体験」です。
そして、「ああ、そうだったのか」から分かるように、これは「洞察の体験」なの。つまり、共感は洞察の体験なのです。*4
「共感」は「思い入れ」によって作られていた「ズレ」、謬見が晴れた時に初めて起こるものだが、その「共感」は「思い入れ」へと向かっていくエネルギーと同じものによって駆動していくため、「共感」への手続きは「思い入れ」→「ズレ」→「共感」の順番をどうしても踏まざるを得ない。この図式はヘーゲルの即自→対他→対自という弁証法的機構を強く想起させるが、ここでその名で現れる「共感」とは、論文の序盤で挙げられていたオットー・カンバーグとの対話において、カンバーグの発言として「『共感』(エンパシー)」と表記されていることから empathy であろうことが推察される。
高哲男訳のアダム・スミス『道徳感情論』、その第一部第一篇第一章の表題は、「共感について」である。
アダム・スミスは empathy ではなく sympathy において道徳の基盤としての道徳感情の分析を行った。このことは、『道徳感情論』を規範的研究ではなく記述的研究だとするアダム・スミスの立場(これについては最後にもう一度取り上げるが)において、重要な「共感のレベルの峻別」が行われていることを意味する。ここでとりあげられる事例に共通する共感の性質は即時性である。神田橋の語る共感のような、ある一定の時間を必要とするものではない。とくに共感という事態そのものを記述する前半部分において、音楽的な比喩が顔を覗かせることはそのことと無関係ではない。
観察者の情動は、苦しんでいる人物が感じる激しさに及ばない場合が大半であろう。人間は生まれつき共感的であるが、他人の身に生じた事柄について、主たる関心の対象になっている人物を自然に駆り立てているような強い激情を抱くことは、けっして生じない。そのような想像上の立場の交換が共感の基礎であることは確かだが、それはまったく瞬間的なものだ。自分自身は安全だという考え、つまり自分は本当の被害者ではないという考えが、絶え間なく押し寄せる。また、それは、彼らが被害者とある程度似た激情を感じる妨げにはならないが、同程度の激しさに匹敵するようなものを感受することは妨害する。主要な関心の的にされている人物は、このことに敏感であるだけでなく、さらに完全に共感するように望む。観察者と彼の心的傾向が完全に一致したときだけしか得られない救済が、彼が望んでやまないことなのだ。猛烈で不快なほど強い激情のなかで、観察者の心を占めている情動が、あらゆる点で彼自身のそれと拍子を合わせているのを眺めることが、彼にとって比類のない慰めになる。だが、これを確保する望みは、観察者が拍子をとりながら合わせられる音の高さまで彼の激情を下げなければ、かなえることができない。周囲の人々の情動と調和し、一致するような程度に引き下げるためには、本来の口調がもつ甲高さを引き下げる必要がある、と言い換えられよう。実際、観察者が感じることは、関心の的である当事者が感じることといつもいくつかの点で異なっており、したがって、同情がそもそもの悲哀とまったく同一であることなど、けっしてありえない。というのは、共感的感情の発生原因である立場の転換は想像上の事柄にすぎないというひそかな意識が、類似性の程度を低下させるだけでなく、多少ともその性質を変化させ、まったく異質の変更を施すからである。しかし、この二様の感情の間の類似性は、社会の調和をもたらすためなら明らかにそれで十分である、と言うことができるだろう。両者の音程や旋律が同一のものになったりすることはないが、両者が協和音化する可能性は残っており、そしてこれが、求められ、必要とされることのすべてなのである。*5(強調は引用者)
アダム・スミスによる道徳の基盤としての共感の研究は、その成功/失敗が結果として現れる地点から遡行的になされるといえる。「なぜ共感に成功した/失敗したのか」という視点から「どうすれば共感が成功/失敗するか」が導かれる。sympathy は瞬間の一発勝負であり、empathy のような時間性、漸近性をもってないからである。この方法から「公平な観察者」に代表されるようなアイデアが現れてくる。いわば人間は共感を目指して自らの表現(感情から行為へ)を作曲するのだが、これは特殊な共作であって、ふたりの作曲者がお互いの作り上げている曲をいざ演奏する段になるまで覗き見ることができず、お互いが演奏者であると同時に鑑賞者でもあるような、瞬間的な共作である。
この共感および共感へと至るプロセス全体が道徳の基盤となるのだが、共感のない地点からいかにして共感へと至るかを追求することについては、アダム・スミスの関心は向いていない。それは sympathy ではなく empathy の領域であるし、アダム・スミスは道徳の基礎としての共感に関心があるのであって、道徳の目的は共感に至ることではない。その逆であり、共感、それも物質的共鳴・共振というべき共感が善悪を判定するための標識となることが判明すればそれで充分なのである。
次の部分は『道徳感情論』の作者が「模倣芸術について」を書いた人間と同一人物であることを強く感じさせる。
6 悲嘆や歓喜からの転調を音楽が忠実に模倣した場合、我々は、実際にそのような激情を引き起こすか、少なくとも感じやすい気分になる。だが、それが怒りの音符を模倣した場合、それは我々に恐怖感を抱かせる。歓喜、悲嘆、愛、賞賛、献身などは、もともとそのすべてが音調の美しい激情である。その本来の音色はすべて柔らかく、澄みわたり、美しく響く。そしてそれは、規則正しい休止で区切られた楽節のなかにおのずと現れるし、その理由から、主旋律に対応するメロディーの規則的な回帰に心地よく適合する。これに反して、怒り、つまり怒りと似たすべての激情が発する声の調子は耳障りで、しっくりこない。その楽節もまたすべて不揃いであって、あるときはきわめて長く、あるときにはきわめて短く、規則的な休止をもたない点で際立っている。それゆえ、音楽がそのような激情のすべてを模倣できるわけではないし、怒りなどの激情を模倣する音楽は、快適とはほど遠いものになる。余興の全体は、何ら不適合なものを含むことなく、社交的で快適な激情の模倣でもって構成できるだろう。すべてを嫌悪と怒りの模倣で構成してしまうと、それは奇妙な余興になってしまうだろう。*6(強調は引用者)
「悲嘆や歓喜からの転調を音楽が忠実に模倣した場合」という表現は、感情と音楽の相同性が「転調」という逆向きの比喩を可能にするほどのものであることを示している。彼が器楽について語っていたこと(「われわれが器楽から感じるものは何でも、本源的な気持であって、同感的な気持ではない」)が、ここではさらに推し進められている。感情を模倣する音楽が、音楽を模倣する感情を導いていく。感情は調性を、リズムを、楽節を、音色を、ハーモニーを、そして旋律を持つことになる。このことによって、アダム・スミスは人間それも他人の心という、それ自体は見ることも聞くこともできないもの、しかし天体における質量、天体間における引力に匹敵する原動力を記述可能なものとするひとつの手がかりを得たのである。
アダム・スミスが語る文体の美しさも、この観点からいえば文学的、審美的な意味での美しさという以上に、倫理的、道徳的な美しさなのだということが改めて分かる。もう一度ここに引こう。
私は、文章にじっさいに美しさをあたえるのは、なんであるかを指摘した。それはすなわち、記述されるべきものごとを言葉がむだなく適切に表現し、著者がそのものごとについて心にいだき同感によって聞き手に伝達したいとおもった感情を、つたえているばあいには、その表現は、言語が表現にあたえうる美のすべてをもっているのだということである。*7
言うまでもなく、この定義を取る際の困難は、自らが著者ならともかく他人が書いた文章の美を判断する際に必要になるはずの「記述されるべきものごと」や「著者がそのものごとについて心にいだき同感によって聞き手に伝達したいとおもった感情」を知るすべがないということである。書かれたものしかないところからどうやって「筆者の気持ち」を知り、「筆者の気持ちが簡潔に十全に表現されているか」を知るというのか。この根本的な欠陥は『修辞学・文学講義』におけるアダム・スミスの批評全体の妥当性に影を投げかけるかに見えるが、『道徳感情論』や「模倣芸術について」との一貫性をより高めようとするならば、ここはアダム・スミスの書いていることに逆らってでも見方を逆にするべきなのである。
まず書かれたものに共感できるかどうかである。共感できない場合、それをすぐに文体の欠陥に返すことはできない。読み手の偏狭さ、小ささによって、あまりにも限られた文体でしか共感することができないということがあり得るからである。この点においてひとつの定理があらわれる。文体の美しさは文体自体において独立することはできない。それは書き手だけでなく読み手にも依存する。
そして、共感できるとしても、まだその文体が美しいとは言い切ることはできない。ここからは書き手への想像力、さらには「わたし」ではない「読み手」への想像力さえもが要求される。書かれていることをそれ以上に簡潔にできないか、伝えそこなっているもの、足りていないものがないか、配列の仕方はどうか……読み手は編集者になり、書かれた文章を検討する。重要なのは「私だったらこう書く」という姿勢だけではなく、書き手からも読み手からも少し離れた(しかしこの二人なしではあり得なかった)編集者としても見るということである。これが「公平な観察者」の構造と重なることは言うまでもない。この動きが重要なのは、「文体の美しさの判断」と「文書の内容の判断」が混濁することを防ぎやすいというところにある。この段階を経るためには、読み手が、書き手が書きたいと思ったものごとや伝えたいと思った感情をとりこぼさないでいられるだけの広く細やかな感性と知性を持っていることが必要になる。このような読み手を想像することによって、そしてまた第一の読み手となることにおいて、書き手もまた同じ作業を要求される。これはある種の推敲であり、ここであの定理に付随する補題があらわれる。文体の美しさを判断するためには、それを判断する者の共感能力が必要とされるレベルまで高められておかねばならないということである。
この作業の結果として、その文体に推敲の余地がないこと、すなわち伝達の媒介として簡潔で十全であると判断できるとき、ようやくアダム・スミスが本来書くべきだった文体の美しさを定義することができる。アダム・スミスにとって最も美しい文体とは、本源的なものの外在として現れる。すなわち、彼にとっての文体の美しさとは、文体の(アダム・スミスが書くかぎりでの)音楽性に他ならない。
同感、すなわち sympathy によって聞き手に伝達すること。アダム・スミスにおいては、文体の美も道徳と同じ基盤を共有していることになる。美的判断と道徳判断の基盤が共通のものである以上、アダム・スミスは趣味を良俗と独立にもつことは難しかっただろう。音楽の見方からしてもそうである。社交的で快適なものを好んだのは間違いない。「歓喜、悲嘆、愛、賞賛、献身などは、もともとそのすべてが音調の美しい激情である」と書くのであるから。彼を知る者が、アダム・スミスは芸術を理解しなかったと言ったとしてもそこに驚きはない。ただ、彼がこのような定義を択べたということ自体が、彼の、人間への善性への信頼を示しているとはいえないか。
1 いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。哀れみや同情がこの種のもので、他人の苦悩を目の当たりにし、事態をくっきりと認識したときに感じる情動に他ならない。我々がしばしば他人の悲哀から悲しみを引き出すという事実は、例証するまでもなく明らかである。この感情は、人間本性がもつ他のすべての根源的な激情と同様に、高潔で慈悲深い人間がおそらくもっとも敏感に感じるものではあろうが、しかし、そのような人間に限られるわけではない。手の施しようがない悪党や、社会の法のもっとも冷酷かつ常習的な侵犯者でさえ、それをまったくもたないわけではないのである。*8
『道徳感情論』はこのようにはじまる。訳者の高哲男は訳者解説で、『道徳感情論』を「人間行動学・動物行動学の生誕を告げるもの」と位置づけ、さらに次のように書く。
明らかにスミスの方法は、理論物理学的というよりも、観察を重視した生物学的な方法である。したがってまた、スミスの思想が「予定調和」でありうるはずもない。そもそも「予定調和」は、ゴットフリート・ライプニッツが『単子論』のなかで指摘したことだが、スミスのコレクションにライプニッツの著作はまったく含まれていない(ニュートンの著作はほぼすべて含まれている)し、彼に対する言及も見当たらない。むしろ、予定調和的な楽観論の表明であるライプニッツの『弁神論』をを厳しく批判した『カンディード』の著者ヴォルテールを、スミスは生涯にわたってきわめて高く評価していた。*9
わたしはアダム・スミスの研究者でも経済思想史の研究者でもなく、アダム・スミスの宇宙人的思考の瞬間を跡づけたいと思っているにすぎない。たしかに蔵書にライプニッツはなく、道徳的には過大評価していたであろうニュートンの著作はほぼ揃っていたのだろう。ヴォルテールを評価し続けていたのも間違いないだろう。だが、アダム・スミスが自覚していたとは思えないものの、わたしにはアダム・スミスが記述し信じていた世界がライプニッツの「予定調和」的な世界からそう遠いものではないように思える。
5 宇宙のどの部分においても、我々は、考えられるかぎり巧妙に、意図した目的に手段が適合させられているのを見るし、植物の構造や動物の身体のなかで、あらゆることが自然の二大目的 個体の維持と種の繁栄 を促進するためにいかによく工夫されていることか、と感嘆して眺める。だがこのようなもののなかに、つまり、そのような対象のなかに、我々はさらに、いくつかの運動や有機的構造における究極原因と作用原因とを区別することができる。食べ物の消化、血液の循環、それから取り出される体液の分泌などは、ことごとく動物が生きるという偉大な目的のために不可欠な働きである。だが、我々は、このような働きを作用原因から説明するようには、動物の生命維持という偉大な目的から説明しようと試みることはしないし、循環や消化の目的に対する見通しや心積もりをもった上で、血液が循環するとか、食べ物はおのずと消化されるなどと想像することもない。(中略)だが我々は、身体の働きの説明に際して、作用原因と究極原因をこのような仕方で識別し損なったりすることはないのに、心の動きを説明する段になると、この二つの異なった原因を、いとも簡単に互いに混同する傾向をもっている。我々が、生まれつきもっている原動力によって、このような目的 精緻化され、啓発された理性が我々に勧めるような目的 を推しすすめるように導かれているときにはいつでも、我々は、このような目的を推進する感情や活動の原因を、いとも簡単に啓発された理性のせいに その作用原因であるように してしまい、本当は神の英知であるものを、人間の英知であるに違いないと、いとも安直に想像しがちである。表面的な観察にもとづくなら、この原因は、それに帰された結果 原因や結果をもたらすという意味で をもたらすには、十分なもののように見える。すなわち人間本性の体系は、このような仕方で、そのさまざまな作用が、すべて一つの原理から演繹された場合に、より単純明快で好ましい、と思われるのである。*10
最後の部分は難しいが、アダム・スミスは、啓蒙主義時代に至り人間が「宗教の迷妄」から解放され、自らの感情や思考を啓発された人間理性のみによって説明しようとする誤謬を犯しがちになったとしても、神の英知がそのような性向さえもつものとして人間を創造したのだというようにしてふたたび神を見つけるようにしている。これが敬虔な考えであると言い切ることはわたしにはできないが、次のようにはいえる。その原因の認識が忘れ去られるほどにこの誤謬への性向が習慣化されれば、人間は神の英知どころか神さえも忘れてしまうだろう。ここでアダム・スミスが意識してか知らずか書いたことは、神にさよならを言うことだったように思える。それは神と別れられるということを意味しない。巣立つ子が親に旅立ちの挨拶をすることそれ自体は親子の別れではない。さよならをうけても、見守ることはできる。この意味で、人間は別れを知っているように思えるが、人間の英知を超えたところでは、実は「別れる」ことなどありえず、できることはさよならを言うことだけなのかもしれない。
話が逸れてしまったが、『道徳感情論』というプロジェクトは、道徳という精神にまつわる概念を感情という身体にまつわる(少なくともアダム・スミスは感情に伴う身体の反応を描写している)概念に必然的に結びつけるものであり、この全体構造が神の英知に適っている(少なくとも反しない)ことを示すものでもあろう。現実のアダム・スミスがライプニッツを避けていたとしても、人間という条件において、この世界が最善であることはゴールではなくスタート、それも、そうでなくてはスタートすること自体ができないようなスタートであるということは、この二人にとって共通する信念であったのではないだろうか。
「人間物理学者」としてのアダム・スミスという描像は、高も指摘するように『道徳感情論』の実際においては当てはまらないように思える。そもそも天体と人間は異なるものであるという当たり前のことを無視して、ニュートン体系の「文体」をそのまま人間行動の記述にも流用するなどということは、物理学以前の理性の失敗である*11。「人間物理学者」らしい記述には『国富論』のような問題系のほうが向いていただろう。経済には基数的なものも序数的なものもあるが(それは商品という物量、とくに数字を刻印された貨幣という謎めいた商品に顕著である)、心や性格といったものにはそこまで明確なものはない。前に見たように彼が心理的な動きを描写する際に数量的語彙を使用することにためらいがなかったとしても、それに基づいて体系を作り上げられるかどうかは別の話である。しかし、ニュートン体系的な文体であるか否かというところから離れてふたたびこの観点を考えてみるとき、「人間物理学者」の相貌が『道徳感情論』においても現れているのではないかと思わされる箇所が見えてくる。それは、アダム・スミスが「体系重視の精神」について書く場面である。ここでアダム・スミスは一種のゆらぎを見せている。
愛国者が、公共行政のどこか一部を改善しようと試みる場合、必ずしも彼の行為は、それが実現する恩恵を享受する人々の幸福に対する純粋な共感から生じるわけではない。公共心にあふれる人物が幹線道路の補修を奨励するのは、普通、運搬人や馬車の御者に対して一体感を抱くからではない。リンネルや羊毛の製造業を促進するために、立法府が奨励金その他の奨励策を制定する場合、その活動が、安くて質の良い服地の着用者に対する純粋な共感からなされていることはほとんどなく、大半は、その製造業者や承認に対する共感からだと言って良い。交易や製造業の拡大政策の整備は、気高く壮大な目的である。そのような目論見は、我々の歓迎するところであり、しかも我々は、その拡大につながる可能性をもつものすべてに関心を寄せる。それは大きな統治機構の一部になっており、したがって、政治を動かす機械の推進力は、このような手段によって調和の度を増して、滑らかに作動するように見える。我々は、これほど壮麗で偉大な機構が完備されていること大歓迎するのであって、その適切で正常な働きを少しでも妨害し、阻止するような障害物を取り除くまで安心しない。しかし、あらゆる政治体制が評価されるのは、そこで生きる人々の幸福の促進に貢献する程度に応じてでしかない。これが、そのような組織の唯一の効用であり、目的である。だが一定の体系重視の精神から、すなわち技法や装置に対する明確な好みから、時には、目的よりも手段を重視しているように見えるし、また、我々の仲間が被ったり享受したりするものを直接に知覚したりすることよりも、一定の美しい秩序だった体系の完全性と改良という観点から、彼らの幸福を強く希望しているように見える。最大の公共精神に恵まれた人物でも、他の側面では、人間の気持ちなど、まったく感取しないことがある。また逆に、最大の人間愛に恵まれた人物でも、公共精神がまったく欠如している場合がある。*12(強調は引用者)
ここではその前段の「見えざる手」の議論が引き継がれ、公共精神と人間愛が必ずしも一致しないこと、共感をまったく欠いた公共精神が存在することが書かれている。なによりここに「我々」とあるように、アダム・スミスは「体系重視の精神」を持つ側の人間として、「政治体制」の妥当な評価軸(「あらゆる政治体制が評価されるのは、そこで生きる人々の幸福の促進に貢献する程度に応じてでしかない。これが、そのような組織の唯一の効用であり、目的である」)と「体系重視の精神」を持つ側の人々の非本質的な評価軸(「我々は、これほど壮麗で偉大な機構が完備されていること大歓迎するのであって、その適切で正常な働きを少しでも妨害し、阻止するような障害物を取り除くまで安心しない」)とのズレを認識しているように見える。そして何よりここでは「見えざる手」のシステムとパラレルな形で、共感に基づく人間愛を欠いた公共精神であっても、人間の幸福に資しうるということが主張されているわけだ。しかし、次の長い部分では様子が変わってくる。
15 内紛の動乱と混乱のなかでは、明確な体系重視の精神は、人間愛 同国人の一部がさらされかねない不便や難儀に対する真の一体感 にもとづく公共精神とたやすく混じり合いがちである。このような体系重視の精神は、一般的により穏やかな公共精神の目標を受けいれて、つねに公共精神を呼び覚まし、熱狂的な行為に没頭させるほど、それを燃え上がらせることさえ少なくない。不満を抱いている党派の指導者は、不都合を取り除き、直接訴えている難儀を軽減するだけでなく、将来いつでも同じような不都合や難儀が繰り返されないように予防するなどと嘘八百を申し立て、ほとんどつねに、一見もっともらしい計画を提案することになる。この理由から、彼らはしばしば国制を新しい形にして、数世紀という長きにわたって、大帝国の臣民が、おそらくは平和、安全、さらには栄光という形で享受してきた統治体制を、そのもっとも本質的な部分において変更しようと提案する。その党派の大部分は、まだまったく未体験であるが、彼らの指導者の雄弁が、目くるめく極上の色彩で描き出して提供する、この理想的な秩序がもつ想像上の美しさに、一般的に酔いしれる。指導者自身は、そもそも自分たちの地位と勢力の拡大しか意図していなかったのに、やがて、彼らの多くが自分自身の詭弁の盲従者になって、追従者のうちもっとも愚かでばかげた人物に引けを取らぬほど、この偉大な再編成を熱望する。思想家は、自分自身の冷静さを保ち、通例そうであるように、この狂信的行為から解き放たれているはずであるが、しかし、やはり彼らは、追従者の期待を必ずしも裏切らないように敢然と立ち向かい、彼らの行動原則や良心と矛盾するにもかかわらず、あたかも、彼らが共通の妄想のもとに行動すべく余儀なくされてしまうことが多い。党派の猛威は、あらゆる弁解、妥協、理にかなった調停をことごとく拒絶し、あまりにも要求することが多すぎて、しばしば、何も得ることができない。だから、わずかな節度がありさえすれば、ほとんどすべて取り除かれ解放される可能性のある不便や苦悩といったものが、ほとんど救済のめども立たず、放置されることになる。
16 みずからの公共精神が、余すところなく人間愛と思いやりによって駆り立てられている人物は、たとえ個人に属していても、確立された権力や特権に敬意を払うであろうし、国家を形成する偉大な階級や、社会の権力や特権をよりいっそう尊重するだろう。もっとも、そのうちのいくつかを、彼はある程度まで不正だと考えるはずであるが、ひどい暴力を用いないかぎり破棄できないたぐいのものについては、緩和すれば良しとするだろう。大衆の根深い偏見を、理性や説得によって打破できないときには、力で大衆を服従させようとは試みず、プラトンの神聖な格言とキケロが正しく呼んだように、両親に対すると同様、母国に対してけっして暴力を用いないということを、忠実に守るだろう。彼は、自分が用意している公共福祉のための手順を、可能なかぎり大衆の間に定着している習慣や偏見に順応させようと試みるだろうし、大衆が従いたがらないこの手の規制がないために発生しかねない不都合を、可能な限り除去しようとするだろう。公正さを確立できなかった場合でも、不正を改めることに価値がないと考えたりせず、ソロン[Solon, 640 B.C.-c. 560 B.C. 古代のアテネの政治家で、ギリシャ七賢人の一人]のように、最良の法制度を制定できないとき、彼は、大衆が耐えうる最良のものを制定するために努力するだろう。
17 これとは反対に、体系重視の人間は、自分自身がとても賢明であるとうぬぼれることが多く、統治に関する彼独自の理想的な計画がもっている想像上の美しさに心を奪われることがしばしばあるため、どの部分であろうとおかまいなく、それからのごくわずかな逸脱にも我慢できない。彼は、最大の利益とか、それと矛盾しかねない最大の偏見についてはまったく考慮せず、理想的な計画を、完全にしかも事細かに規定しつづける。彼は、まるで競技者がチェス盤のうえでさまざまな駒を配列するかのように、大きな社会のさまざまな構成員を管理できる、と想像しているように思われる。チェス盤の上の駒は、競技者がそれぞれに付与するもの以外に動き方の原則をもたないが、人間社会という大きなチェス盤の場合、それぞれの駒のすべてが、それ自身の動き方の原則 立法府が個人に付与するように決めかねないものとは、まったく異なる をもっているなどと、彼は考えてもみないのである。もしこの二つの原則が、一致して同一方向に作用するとすれば、人間社会というゲームは、円滑に調和を保って進行するだろうし、幸福な繁栄も大いに確実なことであろう。もし両者が逆だったり、違っていたりしたら、そのゲームは悲惨なうちに進行し、社会は、つねにこれ以上ない混乱状態に陥るはずである。
18 政策や法律における完全性という、一般的であるばかりか体系的でさえある何らかの信念が、政治家の考え方を導くために不可欠なことは、間違いあるまい。だが、その信念が求めるようなすべてのことを、あらゆる反対を押し切って制定すること、しかも、全体を一度に制定することなど、多くの場合、この上ないほどの傲慢さであるに違いない。それは、彼自身の判断を、正邪に関する最高の基準に格上げすることになろう。それは、共和国のなかで、彼だけが英知に恵まれたたった一人の立派な人間であるとうぬぼれ、同国人はすべて彼に合わせるべきであるということに他ならず、彼が、同国民に合わせるべきだということではない。あらゆる政治的空論家や、外国の君主が危険きわまりないというのは、この理由にもとづく。*13(強調は引用者)
最終版である第六版からの翻訳であることを念頭におけば、この部分は最初期であったフランス革命に対する批判の意図を残してあることは明白だろう。「16」における記述は革命期の主張としては保守的、反動的といって間違いない。引用部の最後に「外国の君主」とわざわざ言われることも、その趣を強める。アダム・スミスの党派嫌いもここで改めて確認することができる(アダム・スミスの、自然科学者と文学者や著述家に対する評価の違いは、党派性の有無に大きく左右されていたことを思い出そう)。システムへの没入や党派的なものは、アダム・スミスにとって、真の認識に至るうえでの障害となる。ここからもアダム・スミスが道徳問題に関してニュートン的な体系化、物理学化をこれ以上推進しそうにないことがわかるが、ここでもっとも重要な点は、前の引用部とは逆に、人間愛に基づかない公共精神が否定されている点にある。
この矛盾に見える部分をどうすればよいのか。「内紛の動乱と混乱のなかでは」という条件が重要であり、平時においては共感そして人間愛を欠いた公共精神が肯定されえても、緊急時においてはそうではないということなのか。あるいは、「体系重視の精神」と「体系重視の人間」は精神と人間であるから違うカテゴリーであり、前者の行き過ぎとなった人間を後者のように呼んでいるだけなのだろうか。しかしいずれにしてもこの亀裂から、我々はニュートン体系を羨望する者という意味とはまた別の意味で「人間物理学者」、それも宇宙人的な「人間物理学者」を見出すことになる。もし「余すところなく人間愛によって駆り立てられた公共精神」と、「人間の気持ちなど、まったく感取しない公共精神」が社会状況によってスイッチングできたり、配分を変更できるというのであれば、アダム・スミスにとって「人間愛」も「体系重視の精神」も、「公共精神」に接続されたある種の操作可能なパラメータとして並列されていることになろう。確かにアダム・スミスにとって人間社会というゲームはチェスではないし、人間はチェスの駒ではないだろう。だがそのことは、人間社会がゲームではないことを意味するのではないし、人間が何らかのゲームの駒でないことを意味するのでもない。『道徳感情論』全体にいえることだが、アダム・スミスが本書で描写する有名無名の人間に対して、アダム・スミス自身がどういう感情を抱いていたのかが、読者には不透明に映る。「未亡人や父無し子」が「父」に抱く復讐心を記述する部分が数少ない例外だろうが(ここでのアダム・スミスの観察は他の部分に較べて異質に映る)、ほとんどの記述は「ある人間がある人間に共感する(あるいは共感できなかった)場面を描いている」というトーンであり、そこには必ず距離がある。
アダム・スミスの視線は地球表面に降り立ち、人間に到達した。そこで人間という星々が織り成す秩序は、音楽的なものによってアダム・スミスに引力にも似た隠された秩序を明らかにするのだが、そういった秩序への愛は、しばしばアダム・スミス自身がはっきり観察する人間の実相と対立する。「18」における「政策や法律における完全性という、一般的であるばかりか体系的でさえある何らかの信念が、政治家の考え方を導くために不可欠なことは、間違いあるまい」という記述には、アダム・スミスの内での亀裂がよく露呈されている。彼が当時のフランスで育ちフランスにいたフランスの知識人だったとしたら、同じように書いただろうか。
8 異なった二組の哲学者が、この道徳性というあらゆる課題のうちでもっとも困難な課題を教えようと試みてきた。一方は、他者の利益に対する我々の意識を高めるべく努めてきたし、他方は、我々自身の利益に対する意識を低下させようと努力してきた。前者は、我々が自然に自分自身を思いやるように他者を思いやり、後者は、我々が自然に他者を思いやるように、自分自身を思いやらせようとした。両方とも、おそらく、自然の摂理と適合性の正当な基準をはるかに超えるところまで、その主張を貫き通してきた。
9 前者は、ぶつぶつ泣き言をいう類の憂鬱な道徳主義者であって、彼らは、きわめて多くの仲間が窮状にあえいでいるというのに、我々に対して、我々の幸福をたえず叱責し続ける人々であり、ありとあらゆる苦難にあえぎながら、貧しさに疲れ果て、病に苦悩し、敵から受ける愚弄と抑圧による死の恐怖のなかで、どんな場合も働き続ける多くの悲惨な境遇にある人間のことなど、思いやりもしない繁栄にともなって生じる自然なばか騒ぎを、敬神的ではないと見なすような人々である。我々が見たことも聞いたこともないが、それほど多くの人間仲間にいつも降りかかっている と確信して良い このような不運に対する哀れみが、幸運な人々の喜びを鈍らせ、すべての人間を習慣的に意気消沈させ、憂鬱にするはずである、と彼らは考えるのである。だが、第一に、我々がまったく知識をもっていない不運に対するこのような極端な共感は、まったくばかげていて、不合理だと思われる。世界全体で平均すれば、苦悩や災難を被っている人間一人について、繁栄と幸福な状態、あるいは、少なくともまあまあな境遇にいるのは、二〇人とあてがうことができよう。我々は、二〇人といっしょに喜ぶのではなく、なぜ一人のために泣くべきなのか、明確に特定できる理由は確かにない。加えて、このような人為的な哀れみは、単に不条理であるだけでなく、まったく達成しがたいものだと思われる。そして、このような特徴をもつ振りをする人間は、一定の悲しみに心を打たれる感傷的な悲哀しかもたないのが普通であって、それは心には届かず、図々しくも、ぶざまで不快な精神的な支持と親交をもたらすのに役立つだけである。そして最後に、この心の気質は、到達することはできても、まったく無益なものであり、それをもつ人物を惨めにすること以外の目的には、役立ちようがない。面識も関係ももたず、我々の行動範囲から完全に外れたところにいる人々の運命に抱く関心がどのようなものであろうと、それは、いかなる方法においても彼らに利益をもたらさず、我々に、心配の種を生じさせることができるだけである。いったい何の目的で、月に存在している世界について、思い煩わなければならないというのか? あらゆる人々 もっとも遠くにいる人々でさえ が、我々から、思いやりにあふれた祝福の言葉を受ける権利を有することは間違いないし、思いやりのある祝福の言葉を、我々は自然に彼らに与える。だが、それにもかかわらず、もし彼らが不運であったら、それを理由に我々自身心配することが、我々の義務の一部であるとは思われない。それゆえ、我々が助力することも、傷つけることもできず、どこから見ても我々とはきわめて疎遠な人々の運命にほとんど関心を抱かないはずだということ、これは、自然の女神によって、賢明にも命じられたことだと思われる。だから、たとえこの点で、我々の身体が元来もっている体質を手直しできるにしても、なお、この変更によって我々が得るものは何もないだろう。*14
距離が、人間と天体を分かつ。星々は、そのひとつひとつの間には文字通り天文学的な距離が広がっていることを知識としては知っていても、いざ夜空を見上げてみれば星座を描きうるほどには同じ一つの天球に張り付いているように見えてしまう。しかし人間という地上の星の場合はそうではない。人間と天体の間の距離よりも遥かに近い人間と人間の間には、天球的調和など、知識としても体感としてももはや見出すことができない。そしてこの距離という概念が、アダム・スミスにおいて思いやりの適切なレベルという発想に結実する。アダム・スミスにおいて共感が、想像力によって(ある程度)共感しようとしている対象の人物自身になる、という動きによって行われるものであってみれば、グラスゴーのアダム・スミスにとってフランスはおそらく自身が思っていた以上に遠かったのである。同時代のフランスに生まれ育っていても、アダム・スミスほどの「体系重視の精神」がフランス革命に共感することはなかったのだろうか。そこではもはや「外国の国王」に配慮し自分を圧し殺す必要もなかったなかっただろうが。*15
一人の哲学者が sympathy によって人間の善への性向を基礎づけようとした。それは文体の問題とも相まって、人間が人間を理解しうるための必須の条件にさえなった。だがその視線は地球の重力下において歪曲し、水平線の手前に没することになる。empathy はまだ始まっていない。sympathy には「感じてしまう」があり、empathy には「感じたい」がある。*16empathy はアダム・スミスにおいて、感情と道徳の間で浮遊したまま、朝靄のように消えてしまったものである。鶏鳴や喇叭の代わりに蒸気機関がイングランドに朝を告げる。『国富論』の朝がやってくる。私はここで『国富論』を見送ることにする。それは大地の支配の学問があげた最も力強い産声である。大地は根を張るところのもの、よって立つところのものであり、また死者が死体となり還りゆくところである。歩かせつつ縛り、恵みを与えつつ食らうものである。大地とは重力と墓を本質とするということができる。わたしはここまで「詩」について、「詩人」についてしか書いていない。「詩人」の対岸にある「科学者」を、その表情をみつめ、「詩」が「詩人」が、どこへ向かっていくのかに思いを馳せること、それがここまでのすべてである。『国富論』は そして思い切っていえば「哲学」もまた 「詩人」に背を向けて、遠くへ立ち去ってしまう。われわれが最後に向かうべきところは『国富論』ではなく、アダム・スミスが第三版以降『道徳感情論』の巻末に追加した、しかしグラスゴー版全集では『修辞学・文学講義』に収録されることとなった浮遊する論文、すなわち「言語起源論」をおいて他にない。
補:アダム・スミスとデリダ 自然の女神は人工知能であり得るか?
わたしの知る限り、デリダはアダム・スミスについて書いていない。二人を並べて何かを書くには無理があるように思える。しかし、デリダはルソーについて書いており、アダム・スミスとルソーが書き残したものには深く繋がりがあることを思えば、まったく道筋がないというわけでもない。わたしはいまから『道徳感情論』と『法の力』を並べて読もうとしているのだが、それにはまず、並べること自体にある困難を突破しなければならない。最大の困難は、『法の力』は規範研究であるのに対し、『道徳感情論』は記述研究であるという点にあり、そのことは謝意と憤りを研究する部分でアダム・スミス自身が書いている。見てみよう。
10 ここでの研究は正しさにかかわる問題ではなく、言うなれば、事実にかかわる問題であることも、考慮してほしい。我々がここで検討していることは、完全な人間はどのような原理にもとづいて有害な行為の処罰を是認するかではなく、人間のような意志薄弱で不完全な被造物は、いかなる原理にもとづいて、実際、現実的にそれを是認するかである。私が今ここで言及している原動力が、人間の感情にきわめて大きな影響を及ぼすことは明白であって、しかも、賢明にもかくのごとくあるべし、と命じているように思われる。不当でいわれのない悪意は、適切な処罰をつうじて抑制されるべきであり、したがって結果的に、このように処罰することは正当であり、賞賛に値する行為として認められねばならぬということを不可避にするのは、まさに社会の存在なのである。したがって、社会の繁栄と存続を自然に望むような資質が人間に付与されているとはいえ、自然の創造主[第三版から大文字の Author に変更された]は、社会の繁栄と存続を、一定の罰を与えることが、この所期の目的達成のための適切な手段であると発見する人間の理性に委ねず、所期の目的をもっともうまく達成する不屈の努力を直接本能的に賞賛する才能を、人間に授けたのである。自然の営みは、この点で、他の多くの事例で生じることと完全に一致する。このようなすべての目的、つまり、それ自体がきわめて重要であるという理由から、自然のお気に入りの目的 もしそのような表現が許されるとすれば と見なしうる、社会の繁栄と存続という目的の全体に関して、自然の女神は、みずから提示した目的に対する本能的欲求だけでなく、同様に、手段それ自体が自動的に、しかもそれを生み出す手段自体がもっている傾向とは無関係に、それに頼りさえすれば社会の繁栄と存続という目的を達成できる手段に対する本能的欲求を、このような方法で、たえず人間に授けてきたのである。要するに自己保存、したがってまた種の増殖は、自然の女神があらゆる動物を育む際にもくろんだ偉大な目的である。人間は、このような目的に対する欲求と反対の目的に対する嫌悪 生命愛と死滅の恐怖、さらには、種の存続や繁栄の望みと、その完全な消滅という見解への嫌悪 を、生まれつきもっている。だが、このような目的をめざす強烈な欲求が我々に付与されているとはいえ、それを実現するための適切な手段を発見することが、人間理性の緩慢で不確かな決定に委ねられることはなかった。自然の女神は、本源的で媒介なしの本能によって、このような目的の大部分へと我々人間を導いてきた。飢え、渇き、両性を結びつける熱情、快楽愛、死の恐怖などといったものは、自然の偉大な指導者[神のことだが、第四版以降Director と大文字で表記]がそれをつうじて生みだそうと意図した有益な目的に向かう傾向など、まったく考慮することなく、このような手段を、それ自身がもつ目的のために発動するように、我々を駆り立てるのである。*17(強調は引用者)
人間の不完全な理性を前提とするアダム・スミスの道徳理論は、記述レベルでの研究に理性に対する感情の優位を持ち込むことになる。この点でアダム・スミスはルソーに近接する。この引用の手前のところでアダム・スミスは「しかし、人間が現代の堕落した状態にあってもなお、自然の女神は、あらゆる点でまったく有害な、つまり、程度においても方向性においてもまったく賞賛と是認の正当な対象になりえない原動力を我々に与えるほど、我々に対して不親切であったとは思われない」と書いている。ルソーと異なり、アダム・スミスがどうしてあれだけ利己心を擁護しようとしたかもここで理解される。自然の女神は、それとして言及されることのない、人間の持ちうる倫理の最終的な審級として舞台裏に控えているのだ。
それぞれの感覚は、それぞれに固有な対象にとって、最高の存在である。色彩の美しさについては、目以上に上訴の場はなく、音の和声については、耳以上に、また味の良さについては、味覚以上に上訴するところがない。このような感覚が、最後の手段として、それぞれ固有の対象物について判定を下す。味覚を満たすものはすべてがおいしく、目を楽しませるものはすべてが美しく、耳を落ち着かせるものは、すべてがよく調和しているのである。このような資質のそれぞれに特有な本質は、まさに注がれている感覚を楽しませるのに適している点にある。いつ耳が落ち着かせられるべきか、いつ目が楽しまされるべきか、いつ味覚が満たされるべきか、いつどの程度まで、我々の本性の他のすべての原動力が甘やかされたり、抑制されたりするべきか、このようなことを同じ仕方で決定すること、これは、我々の道徳的能力に属することである。我々の道徳的能力にとって快適なことは、なされることがふさわしく、正当で、しかも適正であり、その反対のものは、誤っており、欠陥があって、不適切である。我々の道徳的能力が是認する感情は、気品があって、魅力的なそれである。その反対のものは、下品であり、見苦しい。正当な、間違った、適切な、不適当な、上品な、下品なという言葉そのものは、このような能力を楽しませたり、不快にしたりするものを意味するにすぎない。
6 このような感情は、それゆえ、人間本性を律する原動力として明確に意図されたものであるから、そのような感情が指図する規則は、絶対者の命令とか、絶対者がこのように人間の心のなかに埋め込んだ代理人によって広められた律法である、と見なされるようになる。あらゆる一般規則は、普通その特徴を示す名称で呼ばれる法則であり、それゆえ、物体が動きを伝える際に従う一般規則は、運動法則と呼ばれる。だが、我々の道徳的能力が検討対象に取り上げるすべての感情や行為を、是認したり非難したりする際に従う一般規則をそのような名称で呼ぶことは、さらに正当なことであろう。それは正当にも法と呼ばれているもの、つまり、国王が臣民の行為を取り締まるために定める一般規則と、非常によく似ている。*18(強調は引用者)
感覚に対する快適さの絶対性。これが道徳感情にまで敷衍され、絶対性として神から国王へと繋げられていく。結果としてアダム・スミスは、次のように反動的で、諦念に満ちた、むしろ反語ではないかとさえ思える記述をも導くことになる。*19
3 富者と有力者の激情にことごとく同調してしまう人間の習性を土台にして、身分の区別、つまり社会秩序が構築されるのである。優れた人物に対する我々の追従性は、彼らの善意に基づく恩恵に対する個人的期待よりも、彼らの地位がもつ強みに対する我々の賞賛から生じることが、はるかに多い。(中略)およそ国王は人民の奉仕者であって、公共の便宜の要請に従って、守られ、反抗され、退位させられ、罰せられるべきものである、というのは理性と哲学の教えであって、自然の女神のそれではない。自然の女神が我々に教えようとしたことは、自分自身の利益のために国王に服従すること、高位の人々の前では震えおののいて頭を下げること、彼らの微笑みをもって、あらゆる貢献に報いる十分な報償であると見なすこと、何ら他の災難がそれに続くわけではないが、あらゆる屈辱のうち、彼らの不興こそもっとも過酷なものだと恐れること、これである。*20
ヒュームと親交が深く、宗教的にはキリスト教徒として敬虔であったか疑問のあるアダム・スミスであるが、次の宗教に対する言及を見れば、彼が記述的レベルではなく、規範的レベルにおいても宗教に対して与えている価値の大きさがわかる。
名声だけでなく、行為の適合性に対する関心、他者の賞賛だけでなく、胸中の人の賞賛に対する関心、これが、世俗の人間と同様に、宗教的な人間にも影響力をもつと信じられている動機である。だが、宗教的な人間は、別の抑制のもとに服しており、最終的に、人間の行為に報いる最高の権威者の面前にいる場合を除き、けっして故意に活動することはない。より大きな信頼というものは、それゆえ、行為の規則性と厳格さに依存する。だから、宗教の自然な原動力が、くだらない陰謀の派閥的で、党派的な熱狂で腐敗していないところでありさえすれば、さらに、宗教のより身近な義務として、正義や善行に属する活動よりも、むしろ、取るに足りない儀式を配慮するように教え込まれたりせず、犠牲的な行為、儀式や虚しい祈願によって、人間が、絶対者に不正直、背信、暴力を期待することができるなどとは考えないところでありさえすれば、世間は、間違いなくこの点で正しい判断を下すし、宗教的な人間の振る舞いの正しさに対して、まったく正当に、二重の信頼を寄せるのである。*21(強調は引用者)
この宗教について語る場面においても、アダム・スミスの党派性嫌いが打ち出される。これはアダム・スミスの体系にとって党派性が深刻な問題を引き起こすからであり、なぜかといえばそれが「公平な観察者」を不可能にするからである。「党派的な観察者」は、共感を巡る動きが駆動し始める場面で、関係する人物の党派的な属性に応じて判断に重み付けをすることになり、それは自然の女神が与えた感情の「自然な」動きを阻害することになる。「体系重視の精神」に対する両義的な態度も、それが自然の女神が与えた感情の善性に傷をつけかねないものであることを思えば理解できよう(その体系はいつもいつまでも不完全な人間の理性によって建設されざるを得ない)。こうしてみたとき、最後の「二重の信頼」こそが、アダム・スミスの道徳理論における記述的かつ規範的でもある核心として現れる。自らの行為の適合性を信頼すると同時に、最終的審級としての神による是認をも宗教者を通して信頼する、この「まったく正当」な信頼が、人間にとって必要かつ十分な法として静かに提示されているのである。この宗教的な人間がキリスト教の聖職者であるとは限らないわけだが。
理性に対する感情の優位を宣言する二人の道はここで分かたれるだろう。ルソーは「自然に帰れ」ないと判断されるほどに社会が社会として現れてしまったところで、はじめて理性に対する感情の優位から離陸し、「社会契約」という神話的かつ理性的な原理を提示する(しかし神話的なものと理性的なものは別のものなのだろうか?)。「一般意志」が「自然に帰れ」と命じる日まで、この理性的なものによる建設は人間を「自然」から切断することになるだろう。一方のアダム・スミスは、社会が「進歩」し、身分制度=社会秩序が建設されたことをも感情という神が与えたプログラムのなしたところとして肯定することになる。いわばアダム・スミスは文明にいながらして「自然に帰れ」を愚直に実行し続けるわけだ。それが見せる光景がアダム・スミス自身の目にさえ極めて愚劣なものに映ったとしてもである。「模倣芸術について」でアダム・スミスが書いた「野蛮人の踊り」の衝撃と、それを踏まえた舞踊に対する考えを思い出せば、彼は「自然」と「文明」が完全に相容れないとは考えていないはずである。
この意味で、アダム・スミスの体系においては、人間は神に与えられた感情によって駆動し、神に与えられた人間の英知=理性をもって計算する計算機であれば、そしてなによりそれらの計算を阻害する要因が取り除かれていさえすれば、十分に善であるとされるだろう。神への信頼もまた感情の自然な性向として人間に実装されているからだ。ここでようやく、デリダの「計算」を巡る議論にアダム・スミスを対置することができるようになる
われわれの最も広く共有する公理は次のものである。すなわち、正義にかなっている または正義にかなっていない ためには、あるいは正義を行使する または正義を冒涜する ためには、私は自由であらねばならないし、私の行為、私の行動、私の思考、私の決断について責任がある/応答可能であるのでなければならない。自由のない存在について、または少なくともある種の現実的行為においては自由でない存在について、それのなす決断が正義にかなっているとか正義にかなっていないなどとは言わないだろう。しかし、義の人のこの自由またはこの決断は、決断であるためには、そして決断だと言われるためには、つまり決断として認知されるためには、何らかの掟または支持、つまり規則に従わなければならない。この意味で決断は、自分が自律的であるまさにそのなかにあって、すなわち掟に従うも従わないも自由ななかにあって、または自分に掟を与えるも与えないも自由ななかにあって、例えば公平にもとづく現実的行為として、計算可能なものまたはプログラムとして組むことができるものの次元のうちにありうるのでなければならない。しかし、この現実的行為とは単に、ある規則を適用すること、あるプログラムを展開すること、ある計算を行うことであるとすると、その現実的行為はたぶん、合法的とか法/権利にかなっていると言われるだろうし、メタファーを使うならばたぶん正義にかなっているとも言われるであろう。けれども、その決断は正義にかなっていたと言うと誤りになるであろう、その理由はごく単純で、このケースには決断がなかったからである。*22(強調は引用者)
ここを読んでアダム・スミスに立ち返るとき、われわれは『道徳感情論』において「自由意志」という言葉、「自由」という言葉がほとんど登場しないことを思い出す。これは『道徳感情論』の記述的な性質に加え、彼が sympathy としての共感に注目していること、そして神がいぜん最終的審級におかれていることを考えれば明らかである。彼の道徳概念は正義と徳に大別されるが、前者は must すなわち禁止と義務の体系、後者は should すなわち奨励・推奨と警告の体系であり、どちらにせよデリダの言うところの「プログラム」に属していよう。彼の道徳体系は自由意志を根幹に据えたものではない。デリダの決断に類似したものはアダム・スミスにおいては道徳的な卓越性の部分に関わるだろうが、やはりそれは彼の体系においてはデリダが与えるほどの重要性を持つものではない。「正義」という語の理解の出発点からしてすでに異なる二人を比較してみることはやはり無謀であるのか。次のところを見よう。
正義の決断は、発起することのなかで始まるし、権利問題または原理問題として考えてもそのなかで始まらねばならないはずのものである。そしてこの発起することが結局は、認識すること、読むこと、理解すること、規則を解釈することを生み出し、さらには計算することさえ生み出すのである。なぜなら、もし計算とは計算にほかならないとすると、計算しようという決断は計算可能なものの次元にあるのではないし、そのような次元にあるべきでもないからである。*23(強調は引用者)
デリダはここで正義と法/権利の関係と、計算不可能なものと計算可能なものの関係をアポリアとして提示しようとしている。このアポリアは「計算不可能な正義は計算するように命令する」*24と述べられるところで最高点に達するだろう。ここでアダム・スミスとの合流点と明確な差異を、「AIを統治者におくことは道徳的に正当化されうるか?」というかなり戯画的な問いをおくことによってはっきりさせることができるかもしれない。私の考えではおそらく両者とも正当化はできないと考えると思われる。だが、その道筋はまったく異なる。
デリダの場合、正義は法/権利の機械的、慣習的、すなわち正義への寄生的な態度からなされる、決断でない決断を拒む。AIは計算可能性以外のすべての可能性を持たない。大量の学習データを瞬時に学習するAIは、即応性と応答可能性、そしてもちろん計算可能性を持つだろう。だがAIは正義に狂うことができない。AIに狂気はなくあるのはエラーだけである。そのような機構に統治権を譲り渡すこと(これがこの問題に関して現れうる唯一の「決断」である)は、決断することを放棄することの「決断」であって、およそ最も正義に悖ることである。ゆえにAIによる統治を正当化することはできない、ということになるだろう。
一方アダム・スミスの場合はそうではない。そもそもアダム・スミスの残した体系は、進化論、動物行動学を(もしかしたら認知科学さえも)先取りするようなものであり、道徳的な核心である神を除けばどれも機械論的な成果だといえる。おそらく「人間は一種の計算機です」と告げられたところで、アダム・スミスはたいした打撃を受けないだろう。名義が「人間」から「計算機」になったとて、それは神の被造物であることに変わりはないからである。AIを統治者におくことが正当でないのは、ただ神の英知による被造物と、人間の英知による被造物を較べたとき、後者が前者より優れていることなどありえないからである。人間の理性を人間の理性でもって正当化するような(啓蒙主義的?)発想は、アダム・スミスの体系からすればその循環性以上に、人間の理性を神の英知から切り離すことによる人工性のほうが、よりこの問題に対して重要な意味を与えるだろう。人間の理性が人間の理性を基礎づけ、組み立てるとしたなら、その時点で人間の理性はいくぶんか人工知能すなわちAIになっていることになる。すでにAIによる統治をしているのだから、AIが作ったAIによる統治など冗長でしかない。アダム・スミスによる判断はこのような流れを取るものと思われる。AIそのものが問題であるというより、その手前にすでに問題があるということになるだろう。
『道徳感情論』から『法の力』を眺めたとき、おそらく次のような疑問、というより興味が現れるだろう。「どうしてこの者は『計算すること』が正義にかなっていないように感じているのだろうか? そこに卓越した徳はないが、それ自体は不正義ではなかろうに」というのがそれである。ここへきてデリダとアダム・スミスを並べる試みは「脱構築は正義である」という有名なテーゼをめぐる箇所に遡行することになる。「慣習尊重主義」や「功利主義的相対主義」へのデリダの批判的な目があるとしても、その目によってそうである。
法/権利の、または こう言ってよければ 法/権利としての正義の、この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。脱構築そのものについても、もしそのようなものが現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。脱構築は正義である。法/権利(当然私は、それを一貫した仕方で正義から区別しようとする)が、協約と自然との対立をはみ出したある意味において構築可能であるというたぶんこの理由で、また法/権利がこの対立をはみ出すというたぶんこの限りで、法/権利は構築可能である したがって脱構築可能である。そればかりか、この理由でまたこの限りにおいて、法/権利が脱構築を可能にするのだ。*25
デリダは、カントに代表されるような、法/権利に執行する力(適用可能性/執行可能性/力あらしめる可能性)が内在していることが正義の条件である、という道徳論に対して、パスカルとモンテーニュに導かれ(掟=法/権利の/としての正義は正義ではないこと、掟に従うのは権威によってであること)、最終的な法/権利の正当化は神秘的なもの それはヴィトゲンシュタイン的なものともいわれる 、すなわち自らを自らによって定義するという行為遂行的・解釈的な暴力によって行われるのであって自らの証明をもたないことから、正義の条件である(と同時にそれらによって正義が保証されるとする)法/権利に内在する力の位相を、法/権利を創設する力にずらしつつ、その創設の隙間に脱構築可能性を差し向ける。その隙間は同時に、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを分かつ両者の間隙にも重なっている。
アダム・スミスは(デリダが読み込んだ)パスカルやモンテーニュと異なり、正義と法(/権利)を自覚的に分離できていたようには見えない。
もっとも神聖な正義の法 その侵犯は、もっとも声高に復讐と罰を要求するように思われる とは、隣人の生命と身体を保護する法のことである。その次には、所有財産と所有物を保護する法があり、最後に来るのが、人間の人的権利と呼ばれるもの、つまり他人の約束から当然支払われてしかるべきものを保護する法である。*26
同様に、徳と徳目に関してもそうである。
1 このような二つの努力 主たる関心の的である当事者の感情を思いやる観察者の努力、および観察者が自分自身の情動に同調できるようにしようとする当事者の努力 は、それぞれ異なった二組の徳にもとづいている。穏やかで、優しく、友好的な徳、つまり誠実な謙遜や寛大な人間愛は前者に基づいており、偉大で、威厳があって尊敬すべき徳、つまり我々の天性に由来するあらゆる活動を、我々自身の品位、名誉、さらには行為の適合性が要求する水準に従わせようとする激情抑制的な徳は、後者にもとづいている。*27
正義は「正義の法」、「正義の規則」として書かれ、徳はいくつかの徳目として書かれる。正義そのもの、徳そのものが何かについて直接的に書くことは避けられている。あくまで事実研究であるという体裁をとった『道徳感情論』としては当然のことではある。「正義とはXである」や「徳とはXである」といった原理的な問いかけは、その文法的な構造から一見事実言明に見えるが、これは同時に規範言明でありすぎるのである。彼は「徳はどこに存在するのか?」と書くことはできるが、やはり「徳とは何か?」と書くことはない。
2 道徳の原動力について論じる場合、考察されるべき問題は二つある。第一に、徳はどこに存在するのか? すなわち、優れていて、称賛に値する特徴 賞賛、尊敬および是認の自然な対象である特徴 となる、気分の調子や行為の傾向とは、いったいどのようなものか? そして第二に、それが何であろうと、このような特徴が我々に推奨されるのは、心のなかにあるどのような能力や機能によってであるか? 言い換えるなら、心が、ある傾向の行為を他のものよりも好み、一方を正しいと呼び、他方を間違いと呼ぶこと 一方を是認、名誉や報奨の対象と見なし、他方を非難、譴責や処罰の対象と見なすこと になってしまうのはどうしてであり、またどのような手段によるのか? *28
しかし、次の箇所を読むとき、私はどうしてもここに脱構築というあの正義を差し挟みたくなる。
11 正義の規則は文法の規則になぞらえることができるし、それ以外の徳に関する規則は、批評家たちが、文章構成のなかに卓越した優美な部分を付加するために課す規則に、なぞらえることができよう。前者は厳密で、正確で、しかも不可欠なものである。後者は、あいまいで、漠然として、しかも確定不可能なものであり、その獲得のために、確実で絶対誤りのない手引きを我々に提供するというよりも、むしろ、我々がめざすべき完全性に関する一般的観念を提供する。こうして、おそらく彼は、正しく振る舞うことを学ぶことになる。だが、ある程度とはいえ、事情が異なれば、我々がこのような完全性に到達できたかもしれないあいまいな考え方を、修正したり、確認したりするのに役立つ何かが存在するとはいえ、しかし、それさえ遵守すれば、間違いなく我々を、文章作成における優美さと卓越性を達成できるように導くような規則など、あるはずがない。さらに、いくつかの観点から眺めた場合、もし事情が異なっていたら我々が達成できたかもしれない徳に関する不完全な考え方を、修正したり正確にしたりできるような規則がいくつか存在しはするが、我々が、その知識に従いさえすれば、どんな場合でも、注意深く、適度の寛大や適切な慈悲心をもって行為できるように誤りなく学べるような規則など、存在しない。*29(強調は引用者)
文法的にいえば、アダム・スミスにおいて正義は「ねばならない must/have to」、徳は「すべきだ/したほうがよい should」に対応するということを先にいっておいた。「正義の規則は文法の規則になぞらえることができる」、「それ以外の徳に関する規則は、批評家たちが、文章構成のなかに卓越した優美な部分を付加するために課す規則に、なぞらえることができよう」、わたしはこの二つから飛躍して、アダム・スミスにおいて、「正義とは文法である」こと、そして「徳とは批評である」ことを主張しよう。比喩の構造からして、徳の規則は、正義という文法によって書かれるだろう。文法がなければ批評に限らず一文も書くことはできない。ところが、正義は徳の一部である。
5 だが、遵守することが我々自身の自由意志に委ねられていないばかりか、力で強制される可能性があり、さらに、その侵犯が憤り 結果的な処罰 にさらされかねない、もう一つ別の徳がある。この徳が正義であり、正義の侵犯 否認されるのが自然であるような動機にもとづいて、実際に、他の特定の人物に明白な危害を及ぼすこと は不正である。*30
我々の自由意志を必然的に要求することがない正義という徳。このウロボロス的なメタレベルとオブジェクトレベルの入れ替わりをどう理解すればよいのか。
もっとも穏当かつつまらない解釈は、アダム・スミスの比喩がうまくいっていないという解釈である。正義と徳を比喩によって比較したのち、「前者は厳密で、正確で、しかも不可欠なものである。後者は、あいまいで、漠然として、しかも確定不可能なものであり、その獲得のために、確実で絶対誤りのない手引きを我々に提供するというよりも、むしろ、我々がめざすべき完全性に関する一般的観念を提供する」と書かれる部分においては、文法という(おそらくアダム・スミスにおいては)天与の法と、批評という人間の法という構造的な位相のずれが、単純な対比となって水平に均されてしまっているようにみえる。だが、正義の確実性と徳の不確実性の原因までもが均されているとまで言い切ることはできない。ここで読み取れることは、これにしたがっておけば/したがわなければ、有徳な行為ができる/できない「に違いない must」徳というものはありえないということである。 must を与えてくれる徳は存在しないが、その徳の中には「なければならない/てはならない must」すなわち正義が含まれている。この must をめぐる絡まりの中に我々は侵入し、アダム・スミスにおける「正義」と「正義の法」を切り離す。
「徳 should」は「違いない must」 を与えてくれないが、「正義 must」 は 「違いない must」 を与える。このように言うのではなく、「徳 should」は「だろう should」を与えるというように考えてみる、すなわち遵守から少し離れた位置で、アダム・スミスの書いていることを書き直すのだ。そうした時、正義の規則や徳の規則が取る文法的形態と、我々に与えられる助動詞は反射性をもつことがわかる。これは助動詞を前に転倒しているだけだろうか。少なくともこの書き直しによって、二つのことがいえる。should が mustを含みこむ構造によって、徳の一部として正義があること、一方この構造そのものを書き下ろしうるのは文法によってであり、よって、正義という文法によって徳を書き下ろすことが可能になっているということもできるということ、以上の二つである。前者の正義と後者の正義の関係が、デリダにおける法/権利と正義の関係になっているといいうるのではないか。
文法の規則を破ることはできる。日本語においては現代詩が(かつて)その突端にあった。だが文法そのものを破ることはできない。文法から文法の規則が生まれる。しかしこの文法は存在するのだろうか。存在するとして、それはいかなる意味での存在なのだろうか。ここで我々はふたたび文法を巡って、AIによる統治についての思考実験をしたときの構造をそのままなぞりうる。
①文法は文法の規則の外、もしくは彼方にある。ここで「文法は正義である」とまで踏み込むことは許されるだろうか。文法の規則についての規則は言語学によって打ち立てられ、批判がなされ、研究が進められている。ところが文法そのものは定義によっても証明によっても打ち立てられたものではない。それは基盤をもたない。したがってその創設の背後には暴力がある。許されるだろうか、というのはこの地点である。「脱構築は正義である」との相同は完全なものではない。文法の規則は、人間が自由意志によって構成したものとは言い切れない。それは多分に慣習的な、進化的な、経験論的な次元の彫琢を経たと思われる。ところで文法がなければいかなる正義も書くことが、語ることができない。では文法は正義に構造的に優越しているのか。それは彼方の彼方にあるということなのか。文法は正義の彼岸にあるかということをそもそも語りうるのか。ここは ヴィトゲンシュタイン的な もうひとつの神秘的な場なのか。あらゆる場面で must が should を包含するとはいえない。「しなければならない」が「すべきである」を包含しない場はある。力による強制において降りかかる must がそれである。しかし正義において「しなければならない」が「すべきである」を含み込むことは自明である。何かこの跳躍、制限を許すものはあるか。それは自由である。我々が自由であることを絶対的な条件として、文法は正義である、と言いたいのだが、やはり、文法の規則が法/権利と同じ意味で「構造」を持っているとは言い切れない。詩は、切るだろうか。
②文法は、神の英知によって与えられた人間の生得的な能力である。普遍文法は文法そのものではないが、それでも似たような形で、感情と同様に生体計算機としての人間に内在するハードウェアのようなものだと考えられる。神の英知にかなっていないものを人間の英知を作り上げる際に神が与えるはずがないから、やはり正義の規則を文法の規則になぞらえることは正しく、まさになぞらえるという言葉の意味どおりに、正義も文法も人間に与えられた互いの類似物であることを示唆している。
デリダとアダム・スミスを完全に合流させたり、対立させたり、どちらかをどちらかに包括することはできないだろう。それはあくまでも併置、交錯にとどまるだろう。それでもここで一旦デリダとの並行を試みたのは、アダム・スミスがなぜある時期から『道徳感情論』の最後に「言語起源論」を入れたのか、品詞の誕生の順序をできるだけ正確に辿ろうとしたのかにつての手がかりを鮮明にしようとしたからである。ルソーの『音楽起源論』が発表されたのはルソーの死後1781年であり、デリダは『グラマトロジーについて』でこの論文をとりあげている。ただ、『道徳感情論』に「言語起源論」が加わった第三版が発表されたのは1767年であり、アダム・スミスがルソーの『言語起源論』を参照することはできなかった。その後改訂しうる余地は十分にあっただろうが、「言語起源論」において唯一明示的に書名をあげて引用がなされる書物は『人間不平等起源論』だけであった。この三角関係をそろそろ打ち切り、ルソーの『言語起源論』をも適度に参照しつつ、われわれは最後にアダム・スミスとルソーを根本的に分かつであろう言語に下りていくことにしよう。
*1:内海健著『自閉症スペクトラムの精神病理』pp64-65, 医学書院, 2015
*2:神田橋條治著、林道彦・かしまえりこ編『神田橋條治 精神科講義』創元社, 2012, p102
*3:同上, p105
*4:同上, pp105-106
*5:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp53-54, 講談社, 2013
*6:同上, p81
*7:アダム・スミスの会監修、水田洋・松原慶子訳『アダム・スミス 修辞学・文学講義』p70, 名古屋大学出版会, 2004
*8:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』p30, 講談社, 2013
*9:同上, pp685-686
*10:同上, pp171-172
*11:「経済人」という概念を科学的モデル以上のもの、「人間の本質」であるかのように語る者は、そもそもそのモデルを、人間の多面的な性質の中から利己心を抽出して(そして数理化して)構成したことを忘れている。利己心それ自体が悪でないということは、『道徳感情論』のマンデヴィル批判において、アダム・スミスが利己心と虚栄心を苦心して区別しようとしていることからも分かる。しかし利己心がそれ由来の行動をすべて道徳的に正当化するはずがないことは、強盗のことを考えれば明らかである。利己心は、それによって道徳的な行動を導くこともあるというというだけであって、「経済人」それ自体を無条件に道徳的に肯定するような思想についてはアダム・スミスに責はない。そうわたしは言い切りたいのだが、しかし、「見えざる手」の周りで、わたしはそう口にすることをためらわされる。『道徳感情論』には一箇所だけ「見えざる手」が登場する。その前後を長くなるが引用する。
鼻高々で冷淡な地主が、他の仲間の必需品などまったく考慮せず、そこで育った作物の全部を、自分自身で消費するという思いを胸に秘めて広々とした彼の畑を眺めても、何の成果も上がりはしない。素朴でありふれた諺 人間は満腹しても、まだ食べようとする が真実だと証明されるのは、何はともあれ、地主においてのことである。彼の胃の大きさは、その欲望の巨大さには比例しておらず、もっとも貧しい農民の胃より多量に受け入れることはなかろう。その残りは、申し分のない仕方だが、自分自身が利用するものはごくわずかしかないことを覚悟している人々 ごくわずかしか消費せずに王宮をしつらえた人々であり、地位の高い人の家政に従事させられ、価値がなく、つまらないさまざまな品物のすべてを提供し、維持する人々 に分配せざるをえない。このような人々はすべて、こうして地主のぜいたくと気まぐれから、彼の優しさや正義に期待しても得られなかった、生活必需品の分け前を引き出す。土地の生産物は、いつでも、生産物の量が維持しうるだけの数の住人を扶養する。富者は、もっとも価値があって好みに合うものを、収穫物のなかから選び出すだけである。富者が食べ尽くす量は、貧しい人々のそれとほとんど違いがなく、だから、生まれつき強欲であるにもかかわらず、さらにまた、自分自身の便宜しか考慮せず、雇っている数千人の労働をもとに計画する唯一の目標が、自分自身の無価値で飽くことを知らない欲望の充足であるにもかかわらず、富者は、すべての改良した土地の生産物を貧しい人々と分け合うのである。富者は、見えざる手に導かれて、生活必需品のほぼ等しい分配 大地がその住人のすべてに等分されていた場合に達成されていたであろうもの を実現するのであり、こうして富者は、それを意図することなく、またその知識もなしに、社会の利益を促進して、種が増殖する手段を提供するのである。神の御旨が、大地をごく少数の傲慢な支配者に割り振ったとき、分割から除外されていたように見えた人々は、忘れられていたわけでも、見捨てられていたわけでもない。除外されたように見えた人々も、大地が産出するすべての分け前を享受する。人間生活における真の幸福を形づくるもののなかで、彼らよりずっと上だと思われている、傲慢な支配者より劣るところはまったくない。身体の安楽と心の平和という点で見ると、さまざまな階級の生活もすべてほぼ等しい水準にあり、主要道のかたわらで日光浴する物乞いでも、国王の戦いの目的である安全を享受している。(強調は引用者)(アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp338-340, 講談社, 2013)
「見えざる手」への長々とした道には何か邪悪なものがある。富者への批判は「生まれつき強欲」という地点にまで達するとき、単なる冷徹の域を超え出る。これが「神の御旨が、大地をごく少数の傲慢な支配者に割り振った」という記述へと繋がっていくとき、アダム・スミスが共感によって基礎づけようとした道徳、正義と徳の可能性は、生得的なものと運命に衝突する。富者とは貧者はまるで生まれながらにして別の生き物であるかのようである。その両者を土地の分配において分かつこととなった運命は「神の御旨」とよばれ、これが「見えざる手」というアクロバットの条件となっている。「申し分のない仕方」という評定が発せられる地点は、他の多くの部分で神(それは「自然の女神」や「創造主」などに言い換えられうるものなのだが)の英知を称えるような地点とは異なっている。ここには自分を無理にでも納得させようとするような、そう、自己欺瞞の臭いが漂っているかに見える。先の引用の手前の部分において、アダム・スミスの恐ろしい記述は頂点に達する。
我々の想像力は、苦痛と悲哀に満ちているときには、自分自身の身体のなかに留められ、閉じ込められているが、ゆとりがあって幸運なときには、身の回りのすべてに対して心を開く。こうして我々は、身分の高い人々の御殿や家政のなかではやっている便宜品の美しさに魅せられて、あらゆるものが、そのような人々の安息を促進し、不足を感じさせないようにして、彼らの望みを満たし、いかにも軽薄な、彼らの欲望を楽しませるためにいかによく適合しているか、これを賞賛する。このようなものすべてが提供できる真の満足を、それ自体として、つまり、満足を増進するために準備された装置の美しさと切り離して考察すれば、そのようなものは、ことごとく下劣で軽薄なものであることが、必ず見えてくるだろう、だが、我々がこのような抽象的で哲学的な見方でそれを眺めることなど、めったにない。我々は、想像のなかで、自然にそれを良好な状態、つまり、美しさを生み出す手段である機構、機械装置や営みなどがもつ、規則的で調和に満ちた運動と混同する。このように複合的な観点から考察した場合、富と高い身分がもつ喜びは、我々の想像力に偉大で美しく、しかも高貴な何か 我々がいとも簡単に費やしがちな、労苦や気遣いのすべてに十分値する を感じさせるのである。
10 そして、このように自然が我々を騙してつけ込むのは、良いことである。人間の勤勉をかき立てて持続的に作動させるのは、このような欺瞞である。人間に土地を耕作させ、家を建てさせ、都市や共和国を設立させ、あらゆる科学や技術を生みだして改良させ、人間生活を高めたり、飾ったりさせた 地球の表面全体を完全に変化させ、手つかずの自然林を快適で肥沃な畑に変え、道もない不毛の大海原を生活の糧の新しい蓄えに変え、それを地球上のさまざまな国民が行き交うために頻繁に利用する幹線路にした のは、これである。(強調は引用者)(同上,pp337-338)
あの、絵画や演劇において効果としての欺瞞を否定していたアダム・スミスが、ここで欺瞞を肯定する。この肯定は邪悪なものである。アダム・スミスが否定していた、芸術が美しさをもたらす仕組みとしての欺瞞は、人間の英知に関わっている。ここでアダム・スミスが肯定するのは、神の英知に関わる欺瞞であり、すなわち神は人間をつくるにあたって、善として欺瞞を用いたということになる。「便宜品」、これには芸術品も含まれよう。「模倣芸術について」での芸術音痴ともとれる視覚芸術へのそっけなさが何に由来するものであったか察されるものがあるが、芸術と(身分)社会の絡まりから次のように言うことができる。仕組みの美しさに欺瞞はないが、美しさの仕組みには欺瞞がある。アダム・スミスが美しいと感じるものは、本質的にシステムしかない。神の英知によって人間に与えられた欺瞞のシステムは、この意味で美しいものですらある。わたしはここへきてもまだアダム・スミスとライプニッツを予定調和が繋ぐと考えている。だが、アダム・スミスの予定調和は歪んでいる。「神にさよならを言う」とはますます文字通りの意味になる。神が最善の世界を選択し、人間を善を志向する身体と精神をもつものとして設計したのでなければ、もはやその志向性の価値を支えきることはできない。この意味で確かに、この世界が最善でなければアダム・スミスの苦闘には道徳的に何の価値もない。だが、神のもとを離れるということは邪悪の定義であり、だからこそさよならの後の地点から描かれた神の像もまた歪むことになる。
無論彼は現状すべてを神の意志として肯定するような超保守主義者ではない。でなければ『国富論』のような本を書くはずはない。だがその『国富論』から、神による支配ではなく、大地による支配の学問、すなわち経済学が誕生するのである。土地への注目は、当時の経済状況からだけではなく、宗教的な視点からも捉えられなければならない。
12 十分に注意する価値があることは、我々は、それ以外の方法で社会秩序を維持できないという理由だけで、不正義はこの世で処罰されなければならないと想像するよりはむしろ、自然の女神は我々に希望することを教えるし、そして宗教は我々の想像だが来世においてであろうと、不正義が処罰されると期待するのは当たり前だと認める、ということである。その罪状に関する我々の意識が、そう言って良ければ、墓の向こうでも そこでの処罰例が、犯罪を見もせず知りもしない人々が、現世における似たような活動で有罪になるのを思い止まらせるのに役立つはずもないが 処罰されるように、しつこく追い回すのである。しかし、神の正義がさらに求めることは、無事であったとはいえ、繰り返された屈辱によって未亡人や父無し子が受けた不当な扱いを、あの世で神が復讐することだ、と我々は考える。それゆえ、あらゆる宗教のなかには、さらに、世界が過去目にしてきたあらゆる迷信のなかには、地獄とならんで天国 邪悪なものを処罰するために用意された場所と、義にかなったものを報奨するための場所 があったのだ。(強調は引用者)(同上,p179)
アダム・スミスは父無し子であった。この部分で記述される神は、もはや幻に近づきつつある。一方で、「自然の女神は我々に希望することを教える」と書くアダム・スミスは確かに世界を肯定的に信じてもいよう。アダム・スミスは光と闇の際で『道徳感情論』を書いている。このようなところから、アダム・スミスははじめなければならなかったのだろうか。
悲痛を耐え忍ぶことや恐怖を克服することに偉大さを感じるとしたら、それは忍耐や克服に善の性質があることを示唆するだろう。しかし忍耐すべきものや克服されるべきものは、それ自体としては決して善きものではありえない。善と悪は必ずお互いを必要とする。ここから、善悪が生まれるということ自体は「善」であるのか「悪」であるのか、それともまさにそこは善悪の「彼岸」であるのか、という観点が生まれるのだが、ここでは措こう。ここで言いたいのは、本来アダム・スミスは、神の英知によって与えられた人間の本能が、その出自によってすべて克服する必要のない善であることが決まっていると考える必要はなかったはずだということである。向き合うこと、乗り越えていくことの美しさ、善は、本能に対しても同じくありえるはずなのだが、本能の各所を検討するところで、アダム・スミスは無理をしたように見える。実際アダム・スミスの文章が軋んでいるのだから。実際のところ、マンデヴィル批判においてアダム・スミスは利己心と虚栄心を峻別することができていたのだ。われわれは良くも悪くも、書きながら音楽を聞くことのできる環境を手にしている。アダム・スミスが「見えざる手」に差し掛かっていたときに器楽を聴ける環境にあったとしたら、同じように書いただろうか。
*12:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp340-341, 講談社, 2013
*13:同上, pp428-431
*14:同上, pp255-257
*15:ツイッターのようなSNSとPaypalのようなミクロな世界送金システムの存在する現代から、この部分を改めて見直してみる。アダム・スミスの時代にはとても「知りえなかった」であろう地球の裏側の悲惨が「知りうる」ものとなり、場合によっては個人レベルにまでミクロ化された金銭的支援を行うことができる現代の状況下では、アダム・スミスが批判する「憂鬱な道徳主義者」の思想、宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』にあるフレーズ「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」に集約されるであろう思想は技術的支援を得てその正当性を得るかに見える。物理的な距離をまったく乗り越えないままに、物理的に遠いところへ、個人が力を投射することができるからである。
アダム・スミスが挙げる三つの反論のなかでもっとも根底的かつ過酷な反論、というより反応は、「我々は、二〇人といっしょに喜ぶのではなく、なぜ一人のために泣くべきなのか、明確に特定できる理由は確かにない」の部分である。これが反論というより反応であるのは、「我々は、一人のために泣くのではなく、なぜ二〇人といっしょに喜ぶべきなのか、明確に特定できる理由は確かにない」と、「なぜ」の前後を反転させることができてしまうからである。なぜ反転できるのかといえば、それはアダム・スミスがここで共感する事態として想定しているのが、「幸福/不幸」ではなく、「幸運/不運」であることによる。前の回で、我々はアダム・スミスが他者の行為を賞賛/非難することのの基盤となる感情的是認/否認(いわゆる適合性)を考察するにあたり、行為-結果の連関には必然的に運の要素が介在してしまうがゆえに、結果をもって対象とすることを不適切とし、行為の結果から遡行的に想定される意図を対象とすることが適切であるとしたのを見た。アダム・スミスにとり、共感の対象として可能である状況は意図的(非)行為と運の混合物にほかならず、ここでは(人為的)構造的必然/偶然というレイヤーがあったとしても、結果に至る過程において最終的に運が構造に優越することにより(人間が天体でないことは、両者の法則の間の「必然性」の強度の差異にも反映されることは明らかである)、「なぜ」の前後の交換が正当化される。二〇人の幸運も、一人の不運も、運の産物として等価だからである。とここまで長々と書いたが、この発想自体は物理的な距離の遠近に依存しないはずである。しかしこれが循環的にアダム・スミスの共感が距離に依存していることを明らかにしている。というのもアダム・スミスは共感 = sympathy が元来哀れみや同情といった言葉と同じ意味だっただろうとして、人間は他人の喜びより悲しみに共感しやすいとしているからである。この原理が距離に依存しないならば、前に挙げたアダム・スミスの反発はアダム・スミス自身によって論駁されるだろう。しかしそうならないのは、距離が共感に優越するからである。
「疎遠さ」と距離について、ハイデガーを通る必要があるかもしれない。ハイデガーにおいて、「近さ/遠さ」という言葉が持つ空間的-時間的意味と場所的-心理的意味の重なりは錯綜する。交通の発達によって「近く」なった場所が、それゆえにより「遠く」なるということがあり得る。では想像力の領域においてはどうだろうか。アダム・スミスは小説を読み、歴史書を読む。歴史を元にした演劇、オペラを見ただろう。登場人物たちに共感したりしなかったりしただろう。小説や歴史の中の登場人物と、ニュースの中の「登場人物」と、どちらがより「遠い」のだろうか? おそらくアダム・スミスにおいて、ニュースの中の「登場人物」は、ニュースの中を離れて実在するがゆえに、それは実在の人物の影である。それに対して小説の登場人物は、手の中にある小説の文字より遠いところには存在し得ない。本の外のどこにも本体は存在しないからである。歴史書や神話の場合は、むしろ本の外の者のほうが本の中の者の影になっている。彼らは本の外では死んでいるか、神話なき世界の向こう側に隠れてしまっているからである。ゆえに、小説の登場人物よりニュースの「登場人物」たちの方が、遠い。問題は「距離」と「共感」の関係であった。ここで「距離」は「近さ/遠さ」になり、「共感」との間に「知ること」が介在してくる。「知ること」が「感じること」と結びつかない限り、当然知ることは共感と結びつくこともなければ、それに下支えされるところの善悪へ向かうこともないだろう。ルイス・カーンが、E. E. カミングスが、そしてジャン=ジャック・ルソーが「知ること」に対して距離を取っていることは、「知ること」自体というより、「知ること」へと流れ込んでいるもののなかに、「よくないもの」があることを感じ取っていることを示している。
宇宙飛行士が宇宙空間へ出かけたとき、地球は宇宙空間に浮かぶ青色やバラ色の素晴らしい球体に見えました。地球に眼を凝らし、私自身にも地球がそのように見えて以来、すべての知識は重要ではなくなりました。知識はまさにわれわれの外にある不完全な書物です。人は何かを知るために書物を取り上げるが、しかし知ることを他人に分け与えることはできません、知ることは個人的なことです。知ることはかけがえのないひとりひとりの人に自己 - 表現の手段を与えます。(ルイス・カーン著、前田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』pp88-89, 鹿島出版会, 1998)
■ 存在しない人人、すなわち単純な人人は存在しないもの、すなわち単純な事柄を好む。
〈善〉と〈悪〉は単純な事柄である。お前が私に一撃を加える、それは〈悪〉で、私がお前に一撃を加える、それが〈善〉である。何かを感ずる人人、すなわち混み入った人人は、実に無知でどんなことも知らないのに対して、いわゆるこの世界を走っている単純人は、このような〈善〉〈悪〉の分別をよく知っているし、また実に何んでもよく無駄な位よく知っている。
単純に知っていることだけの人人は、無知よりもずっと危険である。何故か?
それは何かを感ずることは生きていることなのだからだ。
〈戦争〉や〈平和〉は危険でも生きていることでもない。それより、ずっとはずれている。〈平和〉は科学の無能であり、〈戦争〉と無能の科学である。そうして科学は知ることで、知ることは測定することである。(藤富保男訳編『カミングス詩集』p128, 思潮社, 1997)
とりわけホッブズがしたように、善についてなんら観念をもっていないのだから人間は自然にかなったあり方からして邪悪であるとか、美徳を知らないのだから人間は悪徳に染まっているとか、同類への奉仕を義務とは考えないからいつも奉仕を拒むのだとか、また、自分が必要とするものに対する権利があると当然のように考えるから愚かにも自分が宇宙の唯一の所有者だと思っているなどと、結論するのはやめよう。(中略)未開人たちは理性を用いるのを妨げられている、と私たちの法学者は主張する。まさにその原因こそが、ホッブズ自身も主張しているように未開人たちの能力の濫用がさまたげられている原因でもあるということを、ホッブズは見損なってしまったのである。したがって、未開人たちは、善良な存在とはどういうものなのかを知らないがゆえに、邪悪ではない、ということができよう。というのも、未開人たちが悪事をなさずにいるのは、知識を磨いたからでも、法律の歯止めが利いているからでもなく、情念が穏やかで悪徳を知らないからである。「この人たちが悪徳を知らずにいることは、別の人たちが美徳を知っていることよりも有益である」〔原文ラテン語〕。(ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』pp78-79, 講談社, 2017)
距離ということに関して、情報技術は何をしているのか? 「情報革命」は始まったばかりであり、現在の人間はこの現在に対してついていくことのできる体質を欠いている。引用の最後の部分、「我々の身体が元来もっている体質を手直しできるにしても、なお、この変更によって我々が得るものは何もないだろう」における Constitution は「憲法」とも翻訳されるものである。「朕は国家なり」とはかつて太陽王でもなければ口にし得なかったセリフであろうが、現代の状況は Constitution = 憲法が、Constitution = 体質へと逆流する段階に達していると思われる。それは全員が絶対君主となる状態を目指すものであり、身体は「かたち」として国家へと変形される。この状況は、ルソーが『人間不平等起源論』において「新しい自然状態」、「極度の腐敗の結果として生じた」自然状態といわれるものが更に進展した段階である。
身分と財産の極端な不平等から、情念と才能の多様性から、無益な技芸から、有害な技芸から、たわいない学問から、理性にも幸福にも美徳にも等しく反するあまたの偏見が生じてくることだろう。集まった人間たちを分断させて力をそぐことができそうなありとあらゆるものが、見かけのうえでは和合しているかのような雰囲気を社会に与えておきながら、実際には離反の種を蒔くことがありそうなありとあらゆるものが、権利と利害の対立を通じてさまざまな身分の人たちに不信感と憎しみを双方に吹き込むことがありうるような、その結果、自分があらゆる身分の人たちを抑え込む権力を強化することがありうるようなありとあらゆるものが、首長たちによってあおりたてられるのを見ることだろう。
まさにこの無秩序と変革のただなかにあって、専制主義が、少しずつその醜い頭をもたげてきて、国家のあらゆる部分から、善良で健全と思われるものをことごとく喰い付くし、ついには法律と民を踏みにじって、共和国の廃墟のうえにしっかり確立されるにいたるのである。この最後の変化に先立つ時代は、混乱と災難の時代だっただろう。しかし、最後にはすべてが怪物にのみこまれてしまい、もはや民は法律も首長もなくして、ただ僭主だけをもつことになっただろう。このときから、習俗も美徳も問題にならなくなっただろう。なぜなら、「誠実さについて何も善いことを期待できない」〔原文ラテン語〕専制主義が支配するところではどこでも、他のいかなる主人も受けいれられることがないからである。専制主義が語りだすやいなや、考慮すべき実直も義務もなくなり、このうえなく盲目的な隷従が唯一の美徳として奴隷たちに残されるのである。
まさにこれが、不平等が行き着く終着点であり、円をぐるっと回って一周し、私たちが最初に出発した地点に接するいちばん端の地点なのである。まさにここで、すべての個人はふたたび平等になる。というのも、すべての人は無だからであり、臣民たちは主人の意志のほかには法律をもたず、主人は自分の情念のほかには規則をもたないため、善の観念も正義の諸々の原理もふたたび消え失せてしまうからである。まさにここで、すべてはもっぱらもっとも強い者の法へと、したがって新たな自然状態へと連れ戻される。この自然状態は、私たちがはじめに検討した純粋なままの自然状態とは異なり、極度の腐敗の結果として生じたものである。(同上, pp138-140)
ルソーの「新しい自然状態」にはまだ僭主が人間であったが、我々が突入しようとしている自然状態に君臨する僭主は、もはや人間でさえない。この新しい「僭主」がいかなる力をふるうかについては、エルンスト・ユンガーがすでに半世紀以上前に書き残している。
問題の本質が一変したことは、読者も痛切に体験しているところであろう。われわれは、たえず問題を設定しようとする力が押しよせてくる時代に生きているのである。しかも、この力は観念的な知識欲にあふれているのみではない。この力は問題を掲げて近づきながらも、われわれが客観的真理に貢献することを期待しているのではない。いや、問題の解決に寄与することすらも期待してはいない。その力が求めているのは、われれれの解決ではない。われわれの回答なのである。(エルンスト・ユンガー著、新藤義孝・江藤専次郎訳「森の径」『文明について』p61 ,新潮社, 1955)
アダム・スミスは「いったい何の目的で、月に存在している世界について、思い煩わなければならないというのか?」と書いた。デヴィッド・ボウイの「Life On Mars?」は次のように歌う。
But the film is saddening bore
'Cause I wrote it ten times or more
It's about to be writ again
As I ask you to focus on
情報革命は、「身近さ」と物理的距離の連関を完全に断ち切る。この流れそのものは都市の誕生と都市 - 田舎連関の誕生によってすでに整備されていたことだが、それでも「身近さ」と物理的距離の連関の差異は地理的なものによって規定されるにとどまっていた。情報革命は、まったく地理的なものに依存しない形ですべてを「都市化」していく。どこにいても近さが近さであることを信じきれないように作られた文明においては、表現としての「生活」の価値(と反価値)は釣り上がり続ける。生活において「身近さ」はもはや身近なものではなく、したがってそれは希少価値をもつからである。私小説的なものが、エッセイが、そしてその反動としてのモダニズム美学がふたたび全面にあらわれる。プロレタリア文学はついに浮上しない。ここにおいて我々はプロレタリアでもなくブルジョアジーでもなく、単に無だからである(この意味でルソーの認識はのちのマルクスより遥かに過酷である)。役柄としての「実存」がせり上がり、あらゆる舞台の主役の名を占める。カメラとスクリーンを兼ねた極めて高額な「生活必需品」であるスマートフォンが、延々と同じ映画、あらゆる意味で小さな映画を撮っては映し続けることになる。終演は存在しないまま、世界はなしくずしに、デヴィッド・ボウイの「film」の意味で映画化してゆく。
同時に進行するのが世界の博物館化である。海野弘が『ワードマップ 現代美術』の終わりに、20世紀の美術状況を総括して書いた「美術館の世紀」は、「ミュージアムの世紀」に拡張されることによって現代まで続く世界そのものをラベリングする。博物館はものに死を宣告し収蔵する場所であり、同時に収蔵品同士を、あたかも星々を結んで星座をつくるようにして「再活性化」する、ものの演劇の舞台である。無となったわれわれはわれわれが作り上げるものと無として等価となり、たえず関係が結び直される演劇が上演され続ける。博物館が存在したということは、博物館的なものが全面化してはならず、博物館的なものとして封じられる場所を世界が求めたということであろう。結界がなしくずしに崩壊し、虚構の上に虚構を塗り重ねていくような世界が現出したところからふたたび「憂鬱な道徳主義者」をめぐる地点に戻ったときにいえることは、これが冗長な表現であるということであり、道徳は(そしてもちろん反道徳もまた)それ自体が憂鬱なものとして現れるということである。無にモラルはない。
*16:前の引用をもう一度思い起こそう。
余興の全体は、何ら不適合なものを含むことなく、社交的で快適な激情の模倣でもって構成できるだろう。すべてを嫌悪と怒りの模倣で構成してしまうと、それは奇妙な余興になってしまうだろう。
「模倣芸術について」では数多の芸術形式について書いていたが、「余興」については語られなかった。この「余興」を「エンターテイメント」と読み替えていくことによって、エンターテイメントを定式化することができるようになる。すなわち、エンターテイメントとは sympathy の芸術である。エンターテイメントの技芸は演出にある。
他の芸術はsympathyを第一の目的とすることはない。それはそれぞれの形式において、付随する結果として現れてくるものである。だがエンターテイメントだけはそうではない。エンターテイメントにおいては sympathy がすべてである。この成功の有無はすぐさま視聴率に、チケットやグッズの売上に反映されるのであり、見るものと見せるものの間を繋ぐ演出の巧緻が、その結果を左右する。
やはりここでもsympathyではなくempathyなのである。ポップ・ミュージックはどれも短い。即時的な共感を長時間にわたり維持することは極めて難しいからである。言葉遣いや歌詞は平易なものになりやすい。あまりに入り組んだ難解な構造は即時性を揺らがせるからである(しかし表面的に平易なものが必ずしも平易であるわけではない。平易でないものを平易であるかのようにして届ける手腕もまた演出の領域である)。
ところで大抵の場合、演者とされる人々と観客の間には隔絶が用意される。テレビの画面がそうであり、客席から切り離され、それより高い位置にあるステージがそうである。この隔絶がそれ自体演出として演者に神秘的な力を与える。YouTubeの画面は、この薄皮を一枚剥ぎ取ったように思われる。YouTuberは神秘性をまったく欠いている。動画においては観客の「声」がいつまでも画面下部にありつづけ、ライブでは常に一定の面積を占め、流れ続ける。「演者と観客を同時に見ている」という感覚、「演者とともに参加している」という感覚が、神秘性をもたらす隔絶に穴を開ける。「会いに行けるアイドル」とは決定的な崩壊だったのであり(戦後の昭和天皇は一瞬「会いに来るアイドル」だったわけだがそれは今はよい)、特に芸人が続々とYouTubeに参入するようになった現在、その穴はゆっくりだがますます広がっている。これは一種の「民主化」なのだろうか。そうではあるまい。YouTuberには神秘性がないが、そのようにするYouTubeには神秘性がある。個々のアイドルや芸人からは神秘性が剥ぎ取られていくが、「アイドル」というシステム、「芸人」というシステムには神秘性が残る。人間ではなくシステム自体が神秘性をもつのであり、エンターテイメントという力場は、隔絶が溶解した後もより広域にわたって作用し続けることになるだろう。なぜここまで「美しい」や「面白い」の価値がつり上がったのかを端的にいうことはできないが、少なくともそこにはこの「民主化」の結果が作用していることは間違いなかろう。
最後にマイケル・ジャクソンが1993年に行ったスーパーボウルのハーフ・タイム・ショーのリンクを貼る。
コロッセオのような観客席。中央に設えられたステージ。ヘリコプターから眺めたとき、その形は心なしかテオティワカンの「太陽のピラミッド」を想起させる。マイケル・ジャクソンは3回現れる。初めの2回はスクリーンから飛び出すようにして現れ、最後の3回目はステージのそこから飛び出す。マイケル・ジャクソンは動かない。熱狂的な声がステージの周囲を満たす。フィールドが解放され、観客がステージの周りに駆けていく。マイケル・ジャクソンは動かない。観客とは逆に、彼の周りだけがどんどん静寂を深めていく。眼鏡に手をかけ音楽が始まる前に、マイケル・ジャクソンは一度だけ首を振る。熱狂的な歓声のトーンが変わることはない。マイケル・ジャクソンはここで何をしたのか。何故直接に眼鏡を降ろさず、一つの動作を挟んだのか。マイケル・ジャクソンはステージに飛び出してきた。眼鏡に触ることは音楽を始めることの合図である。あの「合図」、観客側にも演者側にも向けられていない「合図」は、この間に関わることである。マイケル・ジャクソンは3回「登場」するのだが、そのうち最初の2回は厳密に言えば「ステージ」には現れていない。この流れの中に3回目のマイケル・ジャクソンの「ステージへの登場」がある。「ステージ」はここ「から」はじまるのである。したがって、あの合図は、ステージがはじまることそのものに向けられた合図と考えるしかない。一回だけ首を振ること、この合図は、演出と演出でないものの境界で発せられる。人間ではないものに向けられた合図が発せられたとき、ピラミッドの上で光り輝くマイケル・ジャクソンは、人間と人間の間の sympathy を超えた、崇高な sympathyに触れている。
この注に関わるアイデアについては、大槻龍之介氏との会話によって得られたところが大きい。名前を出すことを快く承諾してくれた氏に感謝する。
*17:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp152-154, 講談社, 2013
*18:同上, pp302-303
*19:このアダム・スミスの「諦念」をルソーがまったく共有していないとは思われない。『社会契約論』のなかには、人間の記憶や理性に影響を与える病気のアナロジーを用い、国家の動乱期において、革命が旧体制を滅ぼしながらも新しい体制を生み出すことで、国家を不死鳥のごとく蘇らせる、という箇所があるが、そこに続く次の一節は、民主主義の原理的な考察の中に、しばしば顔を覗かせる、ぞっとするような場面である
しかし、こうした出来事はまれである。それは例外であって、その理由はいつも、その例外的な国家の特殊な体制のうちに見出される。こういう〔例外的な〕ことは、同じ人民にたいして二度とは起りえないであろう。なぜなら、人民が自ら自由になりうるのは、人民がたんに未開である間だけのことであって、市民の活力が消耗した時には、もはやそういうことはできないからである。その場合には、動乱が人民を破壊することはありえても、革命が人民を再建することはできない。そしてその鉄鎖が断ちきられたとたんに、人民もばらばらになり、もはや存立しないのである。そうなった後には、人民に必要なのは主人であって、解放者ではない。自由な人民諸君よ、この格律を覚えておくがよい 人は自由を獲得することはできる。しかし、自由は取りもどされるものでは決してないということを。(ジャン=ジャック・ルソー著、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』pp68-69, 岩波書店, 1954)
*20:アダム・スミス著、高哲男訳『道徳感情論』pp109-110, 講談社, 2013
*21:同上, p312
*22:ジャック・デリダ著、堅田研一訳『法の力』pp54-55, 法政大学出版会, 1999
*23:同上, pp58-59
*24:同上, pp73
*25:同上, pp34-35
*26:アダム・スミス著、高哲男訳 『道徳感情論』p166, 講談社, 2013
*27:同上, p56
*28:同上, pp492-493
*29:同上, pp322-323
*30:同上, p158