俺(たち)には「アンパンマンのマーチ」がある

 という結論になったので、以下説明していく。
 

 俺はアンパンマンについて人並みにしか知らないので、ストーリーや設定に絡めて何かを言ったりするのは無理だし他にいくらでも適任がいるだろう。なので俺は遠い未来(そう、1万年後くらい)の人間が初めて「アンパンマンのマーチ」を聴いた時のように書きたいと思っている。

 俺は音楽評論というものを自分の書ける文章から一番遠いものであるように感じている。基本音楽聴くときも歌詞は無視しているか聴き取れない。余程気に入った曲は歌詞を確認しに行ったりするけど、すぐ忘れる。それに覚えていたとしても、音楽は鳴っている音の構造だけであまりにも自立していて、しかも意味とは別の回路を通って俺に伝わってくる。そこへプラスして意味である歌詞を同時に処理するのというのは俺にはどうしても上手くできない。俺にとっては、音と歌詞の間には意味の境界があって、歌はその境界の上でゆらゆら揺れている。ここには突っ込んで考えられるだろういくつかの問題が存在するが(例えば、言葉から意味を剥ぎ取っていけば、言葉は音楽に近づくだろうか? それだけでは十分ではないのではないか? リズムと意味、音高と意味、抑揚と意味はどう関係しているのか? とか)、今は無視するし、俺は今回歌詞に全ベットしていくのでそこんところご承知おき願いたい。

 

 ☆

 「アンパンマンのマーチ」は冒頭から飛ばしてくる。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえ胸の傷がいたんでも

 
 冒頭の「そうだ」によって、聴き手は何らかの時間が凝縮されてここにあるのを知る。J-Popの基本構造が「(サビ→)Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→Cメロ→サビ」であるため、冒頭でサビが置かれる場合、歌詞世界の時間が先取りされるということがありうる。この操作は意味だけでなく時間というものを異化して提示することになる。「アンパンマンのマーチ」冒頭においてこの時間という要素は「そうだ」という言葉によって更に強められている。「そうだ」とは気づきの声であり、気づきは過去に提示されているか、気づきによって逆向きに構成されるかを問わず、自らのうちに「問い」を含んでいる。

 
 ではどんな「問い」だったのか? 次の歌詞を見てみよう。

なんのために生まれて

なにをして生きるのか

答えられないなんて

そんなのはいやだ!


 どこまで速いんだ「アンパンマンのマーチ」は。「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。孔子は「五十にして天命を知る」言うとるぞ。焦るな。と言いたくなるが、いちばん大事なのは「答えられないなんて」だ。二つの問いはどちらも目的論に属するものだが、ここで「生まれてきた理由」とか「生きる理由」とかいう風に、目的を実体化して取り扱うのではなく問いの形になっているのがいい。別にそういう理由は存在しなくてもいいのだ。「いや」なのは「理由が存在しない」ことではなく、「答えられない」ことなのだから。

 
 ところで、これらの問いは誰から発せられたのだろう。そして答えようとしているのは誰なのだろう。これが今回の記事で言いたいことのほぼ全てなのでちょっと覚えておいてほしい。

 
 (今回はアンパンマンのストーリーや設定に立ち入らないつもりなので補足という形になるが、「歌詞の主体」という観点から考えると「たとえ胸の傷がいたんでも」も興味深い。歌詞の主体が「アンパンマン」だとすると、少し不思議なことがある。視聴者が目にするところでは、アンパンマンが傷つく象徴的な場所はいつも「胸」ではなく「顔」だからだ。)

今を生きることで

熱いこころ燃える

だから君はいくんだ

ほほえんで

 
 本当に速すぎる。「アンパンマンのマーチ」は音速を超えているので、俺たちには十分聴き取れないまま、それは空の彼方へブッ飛んで行ってしまう。

 
 ここで「今」という言葉が出てきた。冒頭の「そうだ」における、「問い」と「答え」の間に広がっている時間の凝縮と、「答え」としての「今」は、どちらも瞬間として重なり合っている。過去だけでなく未来の時間をも凝縮する「そうだ」は、過去でも未来でもある「今」を瞬間のうちに形作り、そして爆発する。あたかも星のように。「燃える熱いこころ」とは時間の爆発がもたらす輝きなのだ。

 
 そして初めて出てきた代名詞「君」のすぐ前にある「だから」の密度。誰かがどこかへ「行く」ことはわかるが、どうして「ほほえんで」いくことにつながるのだろうか。この問いに答えを出すのはまだまだ早い。

 
 そして冒頭サビの歌詞が繰り返され、その次はこうくる。

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため


 「そうだ うれしいんだ 生きるよろこび」。生まれてしまうこと、そして生きていくことは「胸の傷のいたみ」を伴うが、それでも「生きるよろこび」の存在が肯定されている(「たとえ〜でも」)。この答えを用意した問いはおそらくこの歌詞に直接的には現れていなかったものだ。それは「どうして生きるのか」という問いである。「なにをして生きるのか」は暗黙のうちに「生きることを選ぶこと」を前提としているのだが、その隙間を答えだけで埋めてくる。スタイリッシュすぎるだろうが「アンパンマンのマーチ」はよお。

 上の引用部分は二つ目の問い「なんのために生まれて なにをして生きるのか」への回答に読めるが、ここで現れる「君」と「みんな」をどう考えればいいだろうか。ここで「君」が基本的に「アンパンマン」であることが分かるが、「みんな」は一体誰で、どこから来たのだろうか。冒頭から「君」と呼びかけ、命令形の動詞を発する者は誰だろう。そして「夢」とはなんだろうか。


 多くが置き去りにされ、「アンパンマンのマーチ」は光速に近づいていく。

なにが君のしあわせ

なにをしてよろこぶ

わからないままおわる

そんなのはいやだ!


 「生きるよろこび」は見つかった。では具体的には「しあわせ」「よろこび」とは何なのだろうか。それも「君」=アンパンマンにおいて。今の所アンパンマンは「いく」だけを持っている。

 ここでは「答えられない」ことではなく「わからないままおわる」ことが拒絶されているという差異にも注目しなければならない。1番の問いに対して答えることへの欲求は切迫しており、そこでは問われた瞬間の態度が問題になっているのだが、2番の問いには答えを出すまでの時間的な余裕がある代わりに、リミットとして(である)おわり=死が設定されている。1番では自分が出さなければならない答えへの理解の内実はあまり問われていなかったように見えるが、2番ではそうはいかない(「分からな」ければならない)。行為の価値から真理の価値へ、「君」=アンパンマンは飛んでいく。

忘れないで夢を

こぼさないで涙

だから君はとぶんだ どこまでも


 「アンパンマンのマーチ」の歌詞は難解だがここも難しい。「忘れないで」「こぼさないで」とお願い(命令?)している主体とその相手がまず判然としない。「だから」が続くのが余計に事態をややこしくしている。「君」=アンパンマンが「みんな」へ願い、その願いを叶えるために「君」=アンパンマンは飛ぶのだろうという解釈が穏当なところだろうが(アンパンマンは「みんな」の夢をまもるために「いけ!」と命じられているのだから)、呼びかける者/呼びかけられる者の関係が錯綜していることは間違いないだろう。

 
 とにかく「君」=アンパンマンは飛ばなければならないのだが、「どこまでも」が「おわる」の後に出てくるのがすごい。ハイデガーヴィトゲンシュタインらが言う通り、死は厳然としてありながら、語り得ぬものであり、(経験)不可能なものですらある。分かろうが分からないままだろうがいつか生は「おわる」のだが、みんなの夢をまもり、涙をこぼさないでいいようにすることを生の幸福、歓喜として把握したことにより(「だから」!)、「君」=アンパンマンはあらゆる「おわり」なしに飛んで「いく」。ここでアンパンマンの「いく」理由(「みんなの夢 まもるため」)に加えて、「どこへ行くのか」が解決されたことになる。その場所に限りはない。飛行が終わることなどない。

そうだ おそれないで

みんなのために

愛と勇気だけが ともだちさ


 ここでの「そうだ」は気づきの声というよりも「おそれないで」を肯定する声に聴こえる。「みんなのために」、おそれてはいけないのだ(「みんな」って誰なんだ? とそろそろみんな思い始めるだろう)。

 その次の行はおそらく「アンパンマンのマーチ」の歌詞について人が語る時最も注目される部分だろう。なぜ「だけ」なのか。この問いも後回しにする。サビの後段が繰り返されるが、もしかして「君」=アンパンマンが「ほほえんで」行くのは「やさしい」からだろうか。それはほとんど問題の先送りに過ぎない。問題は「だから」にある。

時ははやくすぎる

光る星は消える

だから君はいくんだ ほほえんで


 「君」=アンパンマンは「時間の時間」について知っている。「もえる心」=「光る星」が「消える」=「おわる」ことを知っている。ここでの「だから」は1番の「だから」よりも手を掛けられる部分が多い感じがする。「君」=アンパンマンは、「胸の傷がいたんでも」「生きるよろこび」の存在を肯定し、「みんなのために」「おそれない」自身を肯定した。「君」=アンパンマンの肯定は、「分からないまま」だろうが分かろうが「おわる」幸福と歓喜に満ちた「光る星」の肯定のうちに無限の揚力を得ることへとつながっていく。ゆえに「だから」。ほほえみとはこの歓喜を知った星と時間の輝きのことであり、その証であり、同時に無限の飛行の条件なのだ。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえどんな敵があいてでも

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため 

 

 「アンパンマンのマーチ」の歌詞の中で最も異物感を放っている言葉がこの「敵」だ。2番の「ともだち」を踏まえると、俺はどうしてもカール・シュミットを想起してしまう。シュミットは『政治的なものの概念』で、政治的なものが国家で、国家が政治的なもので説明される悪循環を打破するために、道徳的なもの、美的なもの、経済的なものとは異なる基準で「政治的なもの」を定義しようとした。そして提示されるのが「友と敵の設定」だ。シュミットは敵の性質について色々言っているが(『政治的なものの概念』ではまだ曖昧だったが、後年の『パルチザンの理論』になると「正しい敵」として「在来的な敵」、「現実の敵」が、それとは異なる次元の敵概念として「絶対的な敵」が提示される)、そのあたりは今別にいい。問題は「敵」という言葉が現れたことによって、「みんな」をどう解釈するかという点にヒントが与えられたということだ。「君」=アンパンマンと「みんな」の「敵」としてなにかが現れるとすると、「君」=アンパンマンと「みんな」は友として規定される、ということになるのだろうか。アンパンマンはみんなの夢を脅かす敵のために戦う軍隊なのだろうか。ここでの敵とは政治的な次元のものなのだろうか。

 もちろんそうではない(補足として言えば、だいたいアンパンマンがいるのはジャムおじさんパン工場である。シュミットの友敵理論で言うところの「敵」とは「私敵」ではなく「公敵」であり、それは国家に代表される政治的統一体の主権者によって決断され設定されるものだ。パン工場はどう見ても議会ではないし、宮廷でもない)。どうしてここに引いてくるには無理があるように見えるシュミットを持ってきたのかといえば、それがシュミットの「友敵」とどう違うのかという梃子として、歌詞の内容に迫るための助けになるからだ。アンパンマンの「ともだち」は「愛と勇気”だけ”」であり、「みんな」は含まれていない。シュミットの友敵判断においては具体的な敵の量(そして反射的に友の量)が重要であるが(友敵対立の極限としての戦争を考慮しなければならないため)、「たとえどんな敵があいてでも」と、ここでの敵は具体的ではない仮定のうちにとどまっているし、アンパンマンの「ひとり」とは量的な「一人」でもあるが質的な「独り」でもある。シュミットの政治的なものにおける友敵の判断には、他の質的な概念は原則としては入ってこないので(もちろん現実には道徳的なものや経済的なもの、美的なものにさえ侵食されるわけだが)、孤独とかマジどうでもいいわけだが、しかし、どうしてこの歌詞で「敵」のようなゴツゴツした、おどろおどろしい言葉が使われたのだろうという問いはまだ解決されていない。


 ようやく俺たちは「アンパンマンのマーチ」に追いついてきた。多分文字通り追いつかなきゃいけないんだが……置き去りにしてきた問題を解決しよう。歌詞に登場する存在者たち(呼びかける者/呼びかけられる者、「みんな」と「君」=アンパンマンの関係)の問題、「敵」の問題、「夢」の問題、そして「だけ」の問題。

 「ともだち」として具体者が存在しないことは、アンパンマンが「君」として、二人称単数で呼びかけられていたことと呼応しているように見える。声を掛けるものと掛けられる者は「ともだち」の関係ではない。では声を掛けるものとは「みんな」だったのだろうか。みんなからの一方的な声援を受け、孤独のうちにアンパンマンは「みんな」のために「ほほえんで」飛ぶのだろうか。多分そうではない。(補足で示唆したが)この歌詞の主体は基本的にアンパンマンであり、「君」とは自分自身への呼びかけだと考えられる。この歌詞に頻出する「だから」のつながりを自然に理解するにはそう読むしかない。だがそれだけでは十分ではないのだ。「忘れないで夢を」の「夢」は「みんなの夢」とつながるから「みんな」への呼びかけである。どうして「愛と勇気だけがともだち」であるアンパンマンが「ともだち」ではない「みんな」へと呼びかけたのか。超人的な人格の持ち主だからなのだろうか。そうではない。結論を言えば、「アンパンマン」とは「君」であり、同時に「みんな」なのだ。そこにはきっと俺もいる。

 (「アンパンマンのマーチ」しか知らない人間として書くという縛りを外して言えば、この結論は「アンパンマンたいそう」を知っていればすぐに出せる。その歌詞には「アンパンマンは君さ」と直球で答えがあるわけだから。なんだこの迂遠な記事はよお……それはともかく、アンパンマンの顔がどれだけ交換可能であっても基本的に同一であることは、「アンパンマン」が「みんな」と同一であるという主張を補強してくれる。人がアンパンマンである時、その顔=差異がどうあろうがその「顔」は「アンパンマン」として同一なのだ。と同時に、「顔が交換可能であること」そのものは、元からアンパンマンのような顔でない「みんな」の顔が「アンパンマン」の顔に交換可能であることもまた示している。)

 「アンパンマンのともだちはどうして愛と”勇気”だけなのか」、という問い方自体がおそらく正確ではないのだ。「そうだ おそれないで みんなのために」と言うアンパンマンの、無限の飛行のうちにこの問いは設定されなければならない。これは「おわり」の問題に関連している。自分の死を死ぬことができない「みんな」は、輪をかけて友達の死を死ぬことはできない。そもそもアンパンマンは「君」=自分自身への呼びかけの中で無限の飛行に至る真理を手に入れた。その過程は孤独な営みであり、「みんな」からの声は「いけ!」の一言しかない。「みんな」が冷たいとかそういうことじゃない。「光る星は消える」という真理を前にすれば原理的にそうなるという話だ。
 
 こうしてアンパンマンは「愛と勇気」だけを友とする。愛によって「ともだち」を超える願いが可能となり、勇気によって「いく」「とぶ」が可能になる。敵が「たとえどんな敵があいてでも」と非限定的であったこともまた愛に結びついている。シュミット的な敵との違いは歴然としている。シュミット的な友敵概念で絶対にありえないこと、それは自分自身を敵に設定するという事態だが、この歌詞の上でその可能性は否定されていない。アンパンマン=みんな=俺の敵が自分自身であることは十分あり得ることだ。自らによって夢を忘れること、涙をこぼすこと。そういった敵にもアンパンマンは、愛をもって立ち向かって「いく」ことさえできる。というか歌詞の中でアンパンマンは行為としては「いく」「とぶ」ことしかしていない(ああ、「生きる」ことを忘れちゃいけない)。そこには超人的な技も、強力な武器も、武力行使もない。このことは、アンパンマンの「敵」の捉え方だけでなく敵への向かい合い方までもがアンパンマン=みんな=俺に広く委ねられていることを意味している。敵へと向かっていきながらほほえむことができるのは、愛と勇気の力にほかならない。

 愛の条件の一つは、境界を超えうるか否かだ。「アンパンマンのマーチ」の歌詞における「敵」という異物は、愛が最も試される瞬間、すなわち他者との邂逅を明確に形作るために置かれたのだ。関係性の不明確な「他者」ではなく、明白に自らへ対立する他者としての「敵」が、アンパンマン側から設定されるのではなく歌詞の中に突然に現れる。勇気が「いけ!」と呼びかける。

 

 アンパンマンを歌詞の主体として読むとき、そこで現れている感情の発露「いやだ!」の内容は、「みんな」にとっても根源的なものである。単純な話、「夢」とは「なにをして生きるのか」の答えと言っていい。アンパンマンは歌詞の中で「なんのために生まれて」きたのかから問い、問われ、「なにをして生きるのか」という問いに答えを出した。みんなの夢を守ること。循環めいたものがあるが、不思議でもなんでもない。すべての夢は「アンパンマンになること」という形を必然的に取るのだから。

 (補足:アニメのアンパンマンがどうして新しい顔を得るたびに「X気Y倍!アンパンマン!(Xには「元」とか「勇」とか入る。Yの最頻値は100)」と言うのか。それはアンパンマン自身でさえもがアンパンマンの顔を手に入れることで初めてアンパンマンに「なる」からであり、アンパンマンアンパンマン「である」のではない。そしてアンパンマンに「なる」直前には、ジャムおじさんやバタコさんをはじめとする「みんな」からの「アンパンマン!新しい顔よ!」という呼びかけがある。呼びかけに答えることがアンパンマンに「なる」ことの条件であり、そしておそらくその呼びかけはアンパンマン=みんな=俺の図式として、「君」という形でやってくる。)

 

 夢に向かう夢であるアンパンマンのとりうる動詞がほぼ無限定に開かれていることは、「みんな」がほとんどどのようにもなれることを意味する。ただし二つの義務がある。「いけ!」という自らの声を聴くこと。そして、どこまでも飛ぶこと。

 
 そうすれば、俺はアンパンマンになれる。……そして多分、君もそうなんじゃないかな、と思っている。そしてようやく、俺(たち)はアンパンマンの「胸の傷」がどんな感じなのかを知っていたことを知るだろう。

 


 俺は英雄にはなれないだろう。というか多分ならなくてすむならならないほうがいい。
 英雄の本質は、その顔が交換不可能であることだ。

 シュミットは『政治的なものの概念』でこう書いている……って書きたかったんだけど手元にある本(今は手に入れにくいと思う)では『政治の概念』というタイトルなんで、そこから引く。

 国民が政治の圏域に実存する限り、国民は極限的場合──それが現存するかどうかは国民自身が決定する──に限られるとはいえ、友敵の区別を自ら規定せねばならぬ。ここにこそ国民の政治的実存の本質が存する。国民がもはやこうした区別をする能力なり意思なりを持たない場合には、国民は政治的に実存することをやめる。誰が彼の敵であり、誰と戦ってよいかが他者によって指示される場合には、政治的に自由な国民はもはや存在せず、他の政治体系に編入もしくは従属せしめられる。*1

 

 シュミットは政治的なものの圏域というのをきちんと画定しようとして色々書いていた。政治的なものを国家と同一視しないこと、かといって経済的なものや社会的なものに政治的なものを解消させないこと。その過程で上の文章ができた。これは1932年に出た第2版からの翻訳。個人的にシュミットはちょっと前(多分2,3年前?)くらいから面白いな〜と思っていたんだけど、面白いってことは(多くの場合)危険であることと不可分なんだなというのを再認識させられた。

 

 英雄にはならなくてもいいけど、ヒーローにはなれるものならなったほうがいい気がしている。別に特殊な能力を持ってるとか、異常に身体が強いとか、そういうことはヒーローの必須資格じゃない。ただ、どんな敵が相手でも立ち向かわなきゃいけないというのはある。これはマジで厳しい。自分の方から敵を定めないことがヒーローの条件とはいえ、敵を選べないわけだから大変なことだ……とか色々思っていた結果、アンパンマン(正確には「アンパンマンのマーチ」のアンパンマン)凄すぎるとなったため今回の記事となった。アンパンマンが守らなければならない夢には自分の夢も入っている、ということは、英雄的なものとは違うところにヒーローを立てられる可能性を示しているように思う。

 アンパンマンは、生きることが終わっても飛べること、飛ばなければならないことを教えてくれた。だから俺もなんとか飛ぼうと思う。
 不幸にして今はまだ会えない人。1万年後でも待っとるぞ。

 

 

アンパンマンのマーチ

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*1:「政治の概念」,p.202(カール・シュミット著・長尾龍一他訳『現代思想1 危機の政治理論』所収,ダイヤモンド社,1973年 )