このシリーズでは
・川合全弘訳『労働者 支配と形態』(月曜社, 2013)を使用する。この訳では底本として1932年の初版が使用されている。脚注において特に言及がない場合は本書のページ数を参照する。
・各記事につき一節分のノートとする。全80節あるため、「まえがき」を含め全81回の予定。
・無理では?
「まえがき」ノート
日本語訳にしてほぼ1ページにおさまる簡潔なまえがきである。全文引用してしまおう。
本書の企図は、理論を超え、党派対立を超え、予断を超えて、労働者の形態を、すでに歴史に力強く食い込み、変化した世界の諸々の形を有無を言わせぬ仕方で規定しつつある活動的な力として、目に見えるようにすることにある。ここでは新しい思想や新しい体系でなく、むしろ新しい現実が主題となっているので、全ては、囚われのない十分な視力を備えた目を前提とする、記述の鮮明さにかかっている。
この根本的な意図は恐らく本書のどの一文にも現れていると思われるが、他方そこで提示される素材は、個々人の必然的に限定された視野と特殊な経験とに見合うものとならざるをえない。とはいえ、労働者の形態は貧困の要素でなく充溢の要素を伴うので、リヴァイアサンの鰭を目に見えるようにすることができさえすれば、あとは読者自身がおのずと独自の発見へと突き進めよう。
本書で試みたのは、この重要な共同作業を、努めて基本教練の規則に従う実演という方法によって支援することである。基本教練において様々な素材は、常に同一の体得ができるよう反復練習するための機会として利用される。重要なものは諸々の機会でなく、むしろ体得の直観的な確実性である。
ベルリン、一九三二年七月一四日
エルンスト・ユンガー*1
(強調は原文ママ)
前提が存在する。現実を新たに鋳造する力としての「労働者」はまだ読者にとって目に見えるものではないという前提である。「視力」などに代表される目の比喩の頻出は、この本の目標が「労働者の形態を目に見えるようにすること」の一点に集約されることに沿っているが、この「見ること」は静的な観察、ましてや鑑賞ではない。労働者は学校や美術館とは関係なく存在する。労働者は美術品ではないしプレパラートでもない。
これを裏付けるのが「実演」「基本教練」というように頻出する軍事用語であり、座学は実演ではない。「新しい思想や新しい体系」は認識に即するが、「新しい現実」は認識のレベルを超えている存在の次元を示唆する。「体得」という語がこの「見えるようにすること」の内実を表している。「労働者の形態を目に見えるようにすること」とは「労働者の形態が目に見えるような身体を獲得すること」であって「労働者の概念を理解すること」ではない。
個々人という限界において経験された素材は、この目標の達成に向けた反復練習をするための機会として捉えられている。「重要なものは諸々の機会でなく、むしろ体得の直観的な確実性である」という文章は、素材=機会という等号によってすでにこの「見えるようになった目」の特徴を垣間見させる。この目にはもはや世界の諸々の事物や事態それそのものは重要ではない。いずれの素材も「反復」練習を通じ、世界を鋳造する力としての労働者という形態へと視線を到達させるための機会であるから、ここには教官の実演とそれを見学する新米兵士たちの身体だけが、素材の世界という地に対する図として浮き上がってくる。
このようにして最終段落の「実演という方法によって支援する」は読まれる必要がある。言い換えれば、ここにはユンガーが世界を見ている様子と、その視線を共有する読者だけが存在するのである。ふたつの身体が等号で接続される魔術を信じることが、この「教育」を可能にするための必要不可欠な前提である。この共同作業は魔術的である。
実演と基本教練というからには実戦が自然に想定される。いつまでも練習しているわけにはいかない。それだけではなく、人間はとうぜん食ったり寝たりしなくてはならない。ここで思い出されるのはヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の6.54節である。
私を理解する人は、私の命題を通り抜け その上に立ち それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)*2
わたしたちは「目の使い方」といったような本を片手に日々を生きなくてもものが見えるし、それゆえそのような本を必要としていない。同様にして「労働者の形態が目に見えるようになった身体」にとって「労働者の形態を目に見えるようにすること」を目標とする本は必要ではない(「あとは読者自身がおのずと独自の発見へと突き進めよう」)。小学六年生の授業では小学六年生用の教科書が使われるのであり、それ以前の学習過程の教科書は使用されない。とはいえ各々が復習をすることはあろう。梯子を登りきっていないものが梯子を投げ棄てることはルイス・キャロルの世界に属するし、基本教練は必要に応じて行われるだろう。
『労働者』の初版は1932年、『論理哲学論考』は1918年に成立する。第一次世界大戦末期から第二次世界大戦前にかけての時期、ほぼ戦間期といってよい時期に登場したふたつの文書は、似たものを共有している。前に引用した6.54節の冒頭「私を理解する人は」の「私」は、「まえがき」でなされる、視線の実演を通じたふたつの身体の魔術的な結合と同相な志向をもっていないだろうか。『論理哲学論考』を書いたとき、ヴィトゲンシュタインは哲学の問題は解決したと考え、小学校教師に転向する。ユンガーの『労働者』において、経験からなる素材はそのすべてが労働者の形態に到達するための扉となる。
ふたりの文書はいわば世界の天蓋に到達するものとして現れる。ここで「労働者の形態は貧困の要素でなく充溢の要素を伴う」という記述における「充溢」があらためて目を引く。充溢は満ち溢れるということであり、これは容器と内容物の関係を想像するのが適当である。つまり充溢と氾濫は異なるのであり、際限なく境界を飲み込んでいく氾濫に対して、充溢はある秩序だった世界、限りある世界を前提とする。充溢は全体性に属し、氾濫は無限に属する。『労働者』と『論理哲学論考』がどちらに属するかはいうまでもない。
二つの文章は「この文章の外側」を指し示すメタメッセージを発しているが、これは「書を捨てよ、町へ出よう」というメッセージとは異なっている。「書を捨てよ、町へ出よう」が捨てよというのは一般化された書物であり、この文字列自体はその命令を発したという特権的な地位を占めることになる。『労働者』と『論理哲学論考』が発するのは「この本を捨てよ」というメッセージであり、それは同時に「この本を捨てられるようになるまでは繰り返し読め」というメッセージでもある。
繰り返し読むということと、その本を読む必要がなくなるということの関係は必然的ではない。その反例としての文学が存在する。繰り返し読む、読んでしまう詩や小説に対し、読者は愛着を覚え、懐かしさを感じ、英気を養われ、ときには耽溺することもあろう。十分にその内容を体得していてなお、帰ってくるということがありうる。ひとによってはそのような書物を「故郷」という言葉で呼ぶかもしれない。『労働者』も『論理哲学論考』もその相貌を拒む。その拒絶を乗り越えてくる愛郷者はいるかもしれないが、少なくともヴィトゲンシュタインの場合、その「帰郷」は牧歌的なものではなかった。
なお、すべての文学がこのような反例であるわけではない。必ずしも文学は「故郷」であることを望むものではない。
この「まえがき」で、ユンガーは世界を鋳造する力としての労働者の形態を目に見えるようにすることを目標に据えた。この目が「労働者」の目であるのかは明らかでない。
