チャック・パラニューク わたしたちは癒やすことができるか

 だいぶ長いこと積んでいたチャック・パラニュークの現時点での最新作『インヴェンション・オブ・サウンド』を読んでいて(今更ながら?)気づいたことがあった。パラニュークはグループセラピーや自助グループのような、癒しの集団を執拗に書き入れている。

 

 サポートグループは、この集まりは、依存症治療のようなものだ。フォスターにとって、メンバーはみな死んだ子供への愛から立ち直る途上にある人々で、彼らはフォスターにも同じ回復の道をたどってほしいと望んでいるが、フォスターにはそれができない。依存を手放すつもりがない。ひょっとしたらほかのメンバーは、そうやって抵抗できるフォスターをうらやんでいるのかもしれない。どのメンバーも、息子や娘が命と切り離されるのを目撃した。遺体を確認した。葬儀を営んだ。フォスターだけが、我が子はまだこの世のどこかに存在していると思い込める。*1

 

 

 

 

 殺人、セックス、荒唐無稽なほどの大風呂敷などが、パラニュークの小説群に対する大雑把なイメージになるだろうが、それらは物語の原動力ではない。パラニュークの小説においては、傷を負うことというより、癒されることに失敗したこと、癒やされることを拒絶したことが物語を駆動させている。その際、グループセラピー的なものと主人公たちとの関係は毎回のように直球ではなく、変化球でつながっている。

 

 マーラ、出ていってもらおうか。出ていけ。出ていけ。

 泣きたければ、遠慮せずに泣きましょう。

 マーラはぼくをじっと見上げている。瞳は茶色だ。耳たぶのピアス穴はすぼめた唇みたいで、イヤリングはしていない。荒れた唇には死んだ皮膚が張りついている。

 遠慮せずに泣いて。

「そっちこそ死にかけてなんかないくせに」マーラが言う。

 ぼくらの周囲では、いくつもの二人組が互いに体を預けてすすり泣いている。

「あたしのことをばらしたら」マーラが言う。「あたしもあんたのことをばらすから」

 だったら曜日ごとに譲り合おうとぼくは提案する。マーラは骨疾患、住脳寄生虫感染症結核。ぼくは精巣ガン、住血寄生虫感染症。器質性脳障害。

 マーラが言う。「上行結腸がんは?」

 まったく、油断も隙もない。*2

 

 デビュー作である『ファイト・クラブ』では癒しの集団がかなりの文量をもって描かれている。ここでの主人公とグループセラピーとの関係の設定はとても効果的だった。「ぼく」の不眠は本物だが、医者は彼に睡眠薬を処方するものの「不眠症はより深刻な病気の症状の一つにすぎない。本当に悪いのはどこか見きわめるのが先だ。自分の体の声に耳を傾けなさい」や「バレリアンルートでも噛んで、もっと体を動かしなさい」などと言って、彼に病名を与えない。彼は不眠症の患者グループの会合に出席しない。「ぼく」の不眠をいっときは癒した患者互助グループのどのメンバーも、それぞれ自分の病名を持っている。病名を持たない「ぼく」には本来そこに入る資格がない。その後、明らかに自分と同じ行動をとっているマーラに出会ってしまい、「ぼく」はふたたび眠れなくなる。

 

 実質的な第一作である『インヴィジブル・モンスターズ』はどうか。「わたし」の顔がめちゃくちゃになる前の最後のクリスマスの日。両親から「わたし」に渡された、「お兄さん」から「わたし」へのクリスマスプレゼント。

 

 二通目の封筒を靴下から取り出すと、母が言う。「お母さんたちはね、あなたを正式に”仲間入り”させてあげたの」

「つまり、おまえのお兄さんの名前で」父が言った。「おまえにPFLAGの会員権を買った」

おしっこピークラブ?」

レズビアンとゲイの両親と友の会」母が言う。*3

 

 主人公の「わたし」の兄シェーンは家を飛び出し、エイズにかかって「死んだ」。残された主人公の両親は急速に性病に詳しくなっていき、性病にとりつかれ、息子もそうだったゲイにとりつかれ、アンチゲイのヘイトクライムに怯える日々が始まる。

 

「これは戦争なんだ」父は言う。「PFLAGの全員が戦っている戦争なんだ」

 PFLAG。レズビアンとゲイの両親と友の会。わかってる。わかってる。わかってる。ありがとう、シェーン。

 わたしは言う。「PFLAGの会員でいるほうが変よ。ゲイの息子は死んだわけでしょう。ママやパパには資格がないわ」*4

 

 父が言う。「で、ハニー、お母さんやわたしと一緒に参加してくれるだろうね」

 母が言う。「ゲイの人権を認知してもらうためにとても意味のあることなのよ」

 勇気をくれ。

 フラッシュ。

 忍耐をくれ。

 フラッシュ。

 知恵をくれ。

 フラッシュ。

【真実へ】わたしは言う。

「断わるわ」*5

 

 小説のなかでショーンはエイズで死んでいるどころではなくなる。もちろん「わたし」が「PFLAG。レズビアンとゲイの両親と友の会。」へ参加するシーンはない。

 

『サバイバー』にも目立たないがセラピーグループへの言及がある。

 

 実際のところは単に掃除が好きなだけだったが、僕は物心ついたころから人に従うように徹底して訓練されてきた。僕はケースワーカーのお粗末な診断が正しいと見せる努力をしたにすぎない。ケースワーカーは僕に症状を説明し、僕は最善を尽くしてそれを再現し、ケースワーカーにその治療をさせた。

 強迫神経症の次に、僕はPTSDになった。

 その次は広場恐怖症になった。

 パニック障害にもなった。

 歩道を行く僕の足は、ゆっくりが一つ、速いのが二つのワルツのステップを踏む。僕の頭は、ワンツースリーとカウントしている。(中略)

 初めてケースワーカーに会った直後の三ヶ月ほど、子供時代をいっさい語らない僕は、解離性障害だった。

 次に統合失調症人格障害になった。ケースワーカーが週一度開いているセラピーグループへの参加を断ったからだ。

 次に、典型的な事例になるとケースワーカーが考えたおかげで、ペニスが小さくなっていき、ついに消えると同時に自分は死ぬと思い込むコロ症候群(ファビアン、一九九一年/ジャンほか、一九九二年)になった。*6

 

 目立たないというだけあって、この小説の中で主人公の「テンダー・ブランソン」がセラピーグループへ参加しているシーンは一回も描かれない。テンダーが生まれ育ったコミュニティはクリード教というカルトで、彼は「脱出」  集団自殺のことだが  から逃れた。それまで信者同士は「外の世界」で出会った場合、いくつかの定型的な祈りの言葉を交わし合う以外のいかなる接触も許されていなかった。「脱出」後、コミュニティが崩壊した後で生き残った信者たちが出くわしても、彼らは誓いを果たせなかった自分自身に対する決まり悪さと、同じ立場である他の信徒への嫌悪によって打ち解けることがない。おまけに生き残っている信者を無理やり「脱出」させる殺人者の影までちらついている。このような状態で多数の信者からなるグループセラピーを成り立たせるのはそもそも難しいように思える。『サバイバー』においては、負わされた傷の性格そのものが集団的な癒やしへのアクセスを困難にしている。

 

『チョーク!』は癒しの集団という観点から見たときとても美しい構造をしている。

 

 ほかのみんなはパステル色の日曜学校の教室へ行く。ニコはその後ろ姿に笑みを向ける。指を一本立てて耳の横でくるくると回す。頭がどうかしていることを表す国際的なサインランゲージ。ニコは言う。「負け犬たち」それから僕を反対に引っ張っていく。”婦人”と書いた札のほうに引っ張っていく。*7

 

 微笑みを浮かべた老女が二人、ゆったりとした足取りで通り過ぎていく。一人が指さしてもう一人に言う。「ほら、この間話したのは、そこの好青年のことよ。あたしの猫の首を絞めて殺した青年」

 するともう一人の老女は、セーターのボタンをかけ違えていて、言う。「あらほんと?」老女は言う。

「あの青年なら、昔、あたしの妹を殴り殺しかけたのよ」

 二人はたゆたゆと歩み去る。

「すばらしいわ」ドクター・マーシャルが言う。「あなたがしてること。あなたはここの人たちの人生最大のトラウマに解決を与えている」*8

 

 主人公のヴィクター・マンシーニセックス依存症だが、今では依存と正面切って向き合うことを避けており、ニコのような同類たち(「水曜の夜はニコを意味する。金曜の夜はターニャだ。日曜日はリーザ。」)と外のトイレでセックスをするために集会に出かけるようになっている。最初からずっとそうだったわけではおそらくない。そのことはヴィクターが親友のデニーと「セックス中毒者」の集会で出会ったことからもわかる。そんなヴィクターの母親アイダは聖アントニー・ケアセンターに収容されていて、彼はそこへ向かうたびに、ともに収容された老女たちのトラウマを、彼女たちを傷つけた男性たちの罪をかぶることで癒やしている。*9ヴィクターは、かたや癒やされることを回避しようとする集団のひとりとして、かたや癒しを必要としていた集団への救世主として現れる。

 ここでもセックス依存症のセラピーグループが直線的に主人公を癒やすわけではないが、『チョーク!』はパラニュークの小説の中でも集団の癒しの可能性に対してもっとも明るい展望を抱かせるものだ。

 

 煙草を吸う。爪を噛む。それはかつて、すべてがセックスだった僕の特効薬だった。しかしニコが僕にのしかかって手足をばたばたさせていては、僕は何もできない。

 ニコが言う。「ねえ、どこかほかの場所を探しましょ」

 ニコは一歩下がり、僕は体を二つに折って腹の痛みをこらえ、きいきい言っているニコを従えて、ふらつく足で二三四号室に向かう。

「ちょっと」ニコはきいきい言っている。

 二三四号室では、グループリーダーが言っている。「今夜は第四ステップに取り組みましょう」

「そこはだめ」ニコは言い、僕らが開いたままの戸口に立ったところでようやく口をつぐむ。(中略)

 グループリーダーが言う。「まだ第四ステップが完了していない人はいますか」

 ニコは僕にぴたりと体を寄せ、僕の耳もとでささやく。「ここに入るなら、この負け犬たちのところに行くなら」ニコは言う。「二度とあんたとは寝ないから」

(中略)

 そして僕はテーブルをぐるりと回り、プラスチックの椅子の一つにどさりと腰を下ろす。

 全員の視線を感じながら、僕は言う。「こんばんは。僕はヴィクターです」

 ニコの目をまっすぐに見て、僕は言う。「僕の名前はヴィクター・マンシーニ。僕はセックス中毒者です」

 そして僕は話す。永遠と思われる長い間ずっと、僕は第四ステップで立ち往生しています。

 その感覚は、終点というより新たな出発点に近い。*10

 

『ララバイ』の主人公ストリーターは、二十年前に妻子を失い、それからセックスをしていない。この傷を直接癒やすためのグループセラピーなどにストリーターが参加している様子はない。新聞記者の彼は乳幼児突然死症候群についての特集記事の取材の過程で、読み聞かせ、しまいには対象を思いながら頭の中で詩句を念じるだけで人間を殺すことができる「間引きの歌」の力の虜になってしまう。

 

 そして僕は言う。証明はできないが、ミセス・ボイルは歌の使い方を知っている。僕は言う。彼女に助けてもらいたい。こいつをコントロールできるように。自制できるように。

 するとモナ・サバットはメモパッドに書くのをやめて一枚破り取る。その紙切れを僕と彼女の中間点に差し出して言う。「そのパワーをコントロールする方法を本気で知りたいと思ってるなら、魔術ウィカンの癒しの儀式に来なくちゃ」彼女は僕にメモを振ってみせて言う。「一つの部屋に一千年の経験が詰まってるの」それから彼女は警察無線をオンにする。*11

 

 しかしこの道行きはすぐにモナの雇い主でもあり、ストリーターと同時期に「間引きの歌」で家族を失ったヘレンによって防がれる。

 

 靴に足を戻して、彼女は言う。「どうやら今後の私の仕事はあなたとモナを会わせないようにすることのようね」*12

 

 結局ストリーターもヘレンもモナたちの「癒しの儀式」に参加するのだが、事態は癒しどころではなくなる。モナのパートナーであるオイスターも加わり、四人はアメリカ全土を回りながら「間引きの歌」が収録された『世界の詩と歌』、そして殺人以外の力を秘めている詩句も収録されているであろう原本『闇の書』を探す旅にでることになる。

 

 パラニュークは癒やしを目指す集団と傷を負った主人公たちとの関係をストレートに繋げないよう慎重にペンを制御している。最初から主人公が集団を裏切っていたり(『ファイト・クラブ』)、集団に到達しなかったりできなかったりする(『サバイバー』、『インヴィジブル・モンスターズ』)。ストレートではなく変化球。そうすることで、集団による癒やしの期待が裏切られたとしても、それによって集団的な癒やしは不可能であるという帰結が導かれることが避けられるようにしてある。近代以前であればキリスト教があったかもしれない。実際聖書の引用や神、救済についての言及はパラニュークの小説にしばしば現れる。だが神によって救われることはない。*13

 

 ジョゼフ・ド・メーストルという、フランス革命期においておそらくもっとも過激な反革命思想を展開したカトリック保守主義者がいて、日本語訳がなく、日本語で読める研究書も少ない上に高くて手に入りにくいから、影浦亮平の論文「ジョゼフ・ド・メーストルにおける近代の神学的解釈」を読んでいる。*14

 若い頃フリーメーソンだった彼は、ルイ16世をはじめとした「無実の」人々を処刑したフランス革命、その根底の一つにあるヴォルテールやルソーやカントといった啓蒙思想家たちの思想と対峙する。一体性が善であり、孤独は悪である。真理は共同性においてこそ存在する。それを理解していた教会の聖餐。このキリスト教的な一体性を破壊し、真理を教会から個人の下に手繰り寄せようとする啓蒙思想は悪魔的であり、近代は悪魔的な時代である。啓蒙主義の時代に先立つルネサンス、人間と科学が主役になりはじめた時代の哲学者フランシス・ベーコンを、ド・メーストルは罵倒する。ベーコンの哲学は真理を人間の理性にとって確実なものへとすり替える。その根底には不信がある。

 

 世の中には、知は力なりと信じる人々がいまだ存在する。*15

 

 とはいえ彼自身は自分が反啓蒙の思想家、暗黒の思想家であるなどとは思ってもいなかっただろう。彼からすれば「啓蒙思想家」たちこそ悪魔的な、世界に闇をもたらす思想家たちであって、自分は人々を、世界を、ふたたび最も合理的である神の知、人間の理性の光を超えた神の真理の光のもとにもたらそう(enlightment)とする人間だと自認していた可能性のほうが高い。

 「功徳の相互転換性」というカトリックの教義を「罪人が利する形での罪なき人の痛みの転換性」として理解し、無実の人々の処刑によってフランス革命という罪が贖われたとする主張や、誤りの治療薬は誤りから生まれ、悪はその極限の地点で自壊するといったド・メーストルの思想は、信仰を前提にした論理としては理解できなくもないが、それを貫き通せることには尊敬の念を抱くことはできても俺にはついていくことはむつかしい。だがこの誤りを、悪を、罪を、悪魔性を徹底することによって、そこから善へ、救済へと導かれる治療薬が生まれてくるという思想は、おそらくオルタナ右翼  今や懐かしい響きすらある  と呼ばれていた人々が『マトリックス』などと並んで『ファイト・クラブ』などのパラニューク作品を好む理由の一端にもつながっているだろう。資本主義の運動が加速しきった果てのカタストロフが救済のヴィジョンと重なるように見える、という構造は『ファイト・クラブ』に限らず多くのパラニューク作品にあらわれるものだ。悪が善を生む。冒涜は敬虔な行いである。

 

 低く落ちれば落ちるほど、高く飛べる。遠くへ逃げれば逃げるほど、神は手もとに呼び戻そうとする。*16

 

 ド・メーストルの思想はのちに政治哲学者カール・シュミットに影響を与える。友敵理論。

 

 モナによれば、人は人を殺してはならない。なぜなら、その行為は人を人間の世界から弾き出すからだ。人殺しを正当化するには、被害者を敵とする必要がある。殺人に限らず犯罪を正当化するためには、被害者を敵とする必要がある。

 そう時間がたたぬうちに、この世の全員がきみの敵になるだろう。*17

 

 そのような見方はあっているのだろうか。『サバイバー』のテンダーと兄アダムによるこんなやりとりがある。

 

「俺とおまえを除いた全員が死んだ」

でもって、僕に最後に残された仕事は自殺することだ。

「おまえはそう訓練されたってだけだ」アダムは言う。「それは奴隷に与えられた究極の行為だ」

 じゃあ、人生を変えたいとしたら、僕に何ができる?

「自分のアイデンティティを取り戻すたった一つの方法は、クリード教会の長老から絶対にしてはならないと教えこまれた行為をすることだ」アダムは言う。「最大の罪を犯すことだ。究極の罪を。教会の教義に背を向けることだ」*18

 

 だがふたりがクリード教の旧所有地、いまは「テンダー・ブランソン全国要注意廃棄物衛生埋立場」、ポルノ雑誌やアダルトグッズなどありとあらゆる性的にいかがわしい物品を処分するゴミ捨て場と化した故郷にたどり着いた後、アダムは弟のテンダーに(結果として?)自分を殺させることになる。

 アダムはもしかしたらテンダー以上にクリード教の世界観から脱出したかった。ひどいのは脱出という言葉がすでにクリード教によって先取りされていたことで、アダムは厳密には自殺していないというだけでその死はほとんど自殺といっていい。アダムが死に至る構造はド・メーストルの思想をまるでなぞるようだが、アダムの物語には治療薬が、救済が見当たらない。これが救済であるとしたならそれはクリード教における救済をド・メーストルのように解釈した結果ということになるだろうがアダムにとってそれだけは嫌な終末であるはずだった。

 

 あるいは、心の傷はもしかしたら回復しないのかもしれない。だがそれは傷が癒えないということを意味しているわけではない。それに、傷が回復することが、元の状態に戻ることを意味するのだとしたら、ある種の傷を負いやすいようにできていた心に戻っても、また傷ついてしまう可能性が高い(これは精神科医神田橋條治が「職場復帰」と「仕事復帰」の違いという言い方で表現しているものに近いような気がする)。アダムは「アイデンティティを取り戻す」べきだったのだろうか。先の会話のすぐあとに、アダムはこんな話をしていた。

 

「人生を修復しようとなんかするな。目の前の大問題と向き合え」アダムは言う。

「弟よ」アダムは言う。「まずは童貞を捨てることからだ」*19

 

 修復は必ずしも取り戻すことではない。

 職場のような外的環境が心を傷つけるものとしてあらわれていたのだとすれば、環境を変えることで傷が回復する可能性はある。だが記憶につけられた傷、その痛みは、記憶と世界が地続きであることによって、自分自身が自分自身を傷つける環境であるかのように作動してしまう。そのような連関のなかで「環境を変えよう」とすることは、つまり「自分から自由になること」だ。パラニュークの小説の登場人物の多くがこの出口を目指してきた。*20

 

 ドアマンが近づいてきて、ぼくの肩越しに言う。「自分が本当に欲しいものがわからない若者は多い」

 お願いだ、タイラー。ぼくを助けてくれ。

 呼び出し音が続く。

「若者は、全世界を手に入れたいと考える」

 北欧家具からぼくを救い出してくれ。

 気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。

 呼び出し音が続き、そしてタイラーが電話に出た。

「欲しいものがわからないと」ドアマンが続けた。「本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」

 完全になどしないでくれ。

 満足などさせないでくれ。

 完璧になどしないでくれ。

 助けてくれ、タイラー。完璧で完全な人生からぼくを救ってくれ。*21

 

 ファーティリティによれば、理解しさえすれば僕は脱出できる。この高度から逃れられる。墜落を回避できる。テンダー・ブランソンであることから解放される。警察の追及を振り切れる。過去から逃れられれば、ねじれ、燃え、みじめで、もつれまくった僕のここまでの物語から自由になれる。*22

 

 最低だ。わたしはわたしでいることにいい加減うんざりしている。美しいわたし。醜いわたし。ブロンドのわたし。ブルネットのわたし。結局はわたしをわたしでいることから逃れられなくしただけの、百万回のくそったれなファッション的イメージチェンジ。

 事故の前のわたしは、いまとなっては物語に過ぎない。いまこの瞬間よりも前、いまこの瞬間よりも前、いまこの瞬間よりも前のすべては、わたしについて回る物語だ。それは世界中の誰にも当てはまる。わたしに必要なのは、わたしが誰であるかを語る新しい物語だ。

 わたしがすべきなのは、私自身を救うこともできないほどの大間違いをすることだ。*23

 

 思い出せるより長い年月のなかで初めて、僕は安らぎに包まれる。幸せではない。悲しくはない。不安ではない。欲情していない。僕の脳味噌の高度な部分が、活動を停止しようとしている。大脳皮質。小脳。僕の問題がある場所はそこだ。

 僕は自分の複雑さを解消しようとしている。*24

 

 僕に残されているのは、自由を探し当てるためのおそらく唯一の方法は、僕がしたくないことをすることだ。ナッシュを止めることだ。警察に自白することだ。

 僕自身に対する謀反を起こさなくてはならない。

 至福を追求するのとは正反対の道。僕は、僕自身がもっとも怖れていることをしなくてはならない。*25

 

 この出口へ向かって疾走していくパラニュークの小説の構造は、オルタナ右翼たちに見られる解釈の問題とはまた別の問題を抱え込むことになる。荒唐無稽なほどの大風呂敷を広げることに通じているのだが、パラニュークの作品においては「カタストロフ」そのものが救済を示すのではない。事態の大規模化(「カタストロフ」はその一部にすぎない)によって傷がどうだというどころの話ではなくなってくることが「救済」として機能している。この意味での「カタストロフ」への傾斜が『ファイト・クラブ』以降のパラニュークの作品には目立っているように思われる。*26

 パラニュークの小説の世界で、癒やし、救済といったものへ接近しうるバディはきまって「癒す人 - 癒やされる人」や「救う人 - 救われる人」という固定された関係を構成しない。たとえば『サバイバー』で、政府の支援プログラムによって派遣されたケースワーカーとテンダーの関係は、十年という時間を積み重ねたもののケースワーカーの死という形で破綻してしまう。バディはそれぞれに傷を抱えており、互いを癒そうとしないことによってバディたりえている。

 ここには「わたしたち」の萌芽がありそうなものだが、パラニュークはここでもグループセラピー同様に、主人公たちが「わたしたち」に到達することを拒む。「わたしたち」は、ふたり以上の人間が集まっているその感じが、単なる個々人の総和以上の感じになっているときに現れる。『ファイト・クラブ』の「ぼく」とタイラー・ダーデンの関係はどうだったか。『ララバイ』において「間引きの歌」を燃やす旅を続ける、連続殺人者のバディ、ヘレンとストリーター、それに魔術を信じるモナとオイスターカップル、計四人の一行は、まさにその「間引きの歌」を巡って分裂してしまう。『闇の書』に辿り着き、「間引きの歌」だけではない数々の呪文に触れてからはさらにひどい。*27インヴィジブル・モンスターズ』でバディ=二者関係がことごとく裏切られ続ける「わたし」。ブランディの「わたし」への求婚はこれ以上ないほどに叶わない。

 

 わたしを救える人々の名簿には、もうわたし一人しか残っていない。親友はだめ。元恋人もだめ。医者や修道女にも頼れない。警察は相手にしてくれるかもしれないが、まだその時期ではない。この騒ぎを法律でこぎれいに包装して、わたしの人生未満の人生の再スタートを切るには早すぎる。醜悪で、永遠に人の目に見えず、過去の断片を拾い直す人生をやり直すには早すぎる。

 事態は混乱のきわみで宙ぶらりんになっている。でも、まだ解決しようという気にはなれない。わたしの快適帯は一分ごとに広がっている。わたしのドラマの限界値は跳ね上がっている。いまは新しい可能性を開くべきときだ。何だってできそうな気がしている。わたしはいまようやく始めの一歩を踏み出そうとしている。

 わたしのライフルは装弾され、わたしは一人目の人質を手にしている。*28

 

 ここまでの道のりを経て、孤立した個人でもなく「わたしたち」でもない個々人の希望を描こうとするとき、とれる選択肢は限られている。自分の内に救いはない。自分こそが自分を救えないものにしている原因だからだ。しかし「わたしたち」もない。それは成立しないか、裏切られるか、気づかないままに崩れ落ちる。誰にもわたしを救えない。神は押し黙ったままだ。

 結果として、救いは第三者、神でも人間でもない第三者によってもたらされるしかない。それは「カタストロフ」という形をとる。パラニュークは実際にそれでOKとは思っていないだろう。早川書房から出た文庫版である『ファイト・クラブ〔新版〕』の解説のなかにパラニュークの発言が引かれており、そこでこう書かれているとしてもである。

 

ラニュークは本書でどうして暴力や混乱を描いたのか。彼は言う。「無秩序で破滅的なものを前にしても、我々は恐れず、むしろ受け入れなければなりません。こうしたものを通じてしか我々は救われないし、変われないのです」*29

 

 パラニュークの描く大惨事に「カタストロフ」を見出すのは受け手側の問題だ。パラニュークの小説においてはっきりと「これが救済である」といえるようなものはひとつもないし、「カタストロフ」が実際に起きたのかさえもしばしばぼかされる。*30

 

 母親はいつも、残念に思っていると言っていた。人々は長年、世界を安全で秩序ある場所にするために働いてきた。世界がどれだけ退屈なものになろうとしているのか、誰も気づかずにいた。全世界に境界線が引かれ、速度が制限され、地域区分がなされ、税金がかけられて、規制されて、すべての人々は検査され、登録されて、住所が割り振られ、記録されている。冒険の余地らしい余地は残されていない。お金を出せば手に入れられるものを除いては。たとえばローラーコースター。映画。冒険は、そういった作り物の興奮でしかありえない。恐竜が子どもたちを本当に食ったりしないことは誰でも知っている。試写会のアンケートは、大きな作り物の災害の起きる余地さえ否決した。本物の災害、本物の危険の可能性がゼロであるがゆえに、本物の救済を得られる可能性もゼロになった。*31

 

 パラニュークのインタビュー記事を昔読んで、とても印象的だった部分がある。

 

都甲 すごく納得できますね。アメリカの文化では、個人が自分自身の力によって自由を獲得していくことがとても重要視されますから。といっても、文化が異なる日本でもパラニュークさんの作品が愛されているというのは、みんな普遍的にそういう問題に行き当たるのかもしれませんが。 パラニュークさんはそうしたテーマの小説を書くことで、読者だけでなく、ご自身も自由になっているのでしょうか?  

ラニューク 自由になっているのは私だけですよ。  *32

 

 パラニュークは、自分の小説が何をもたらさないかについてとても正確に知っている。パラニュークが小説を書くことで自由になれているのだとしたら、俺は嬉しいと思う。

 

 俺は『インヴェンション・オブ・サウンド』があんまり好きではない。一番大きいのはジミーのことだ。他の登場人物への態度に比して、ジミーへのそれは不当に敬意を欠いている。フォスターもミッツィも丁寧に破滅させられる。ジミーは使い捨てられるだけだ。

 あるいはフォスターとミッツィのインヴェンション(二声の鍵盤楽曲)と対になる、ブラッシュとジミーの反-インヴェンションを意図しているのかもしれない。確かに目論見がトントン拍子にうまくいき、女優としてカムバックとはいかずとも宝石商への道を掴んだブラッシュと、何もなしとげていない、何をやろうとしているのかもわからないまま商品の材料として殺害され、この世に残されたただひとつの自分のものであろう絶叫が音響兵器になり(この作品でのカタストロフは映画版の『ファイト・クラブ』に匹敵するところまできている)、最後には他のテープもろとも焼け落ちるジミーとは、それだけ書けば対比になっているようにも見える。だがブラッシュは自分の夫になった人間が怪物になってしまったであろうことを知らない。成功と失敗の対比は綺麗に成立していない。

 あるいは「俺たち」を「去勢」した世界に対して、去勢による苦痛の叫びが復讐として「カタストロフ」となって世界に反転してくると考えればいいのか。うーん……カタストロフを個人の存在に背負わせるのはどうなんすかね。『チョーク!』のヴィクターは自分の出生にまつわるとんでもない事実を背負わされそうになるけど、そのこと自体はヴィクターを救済する意味でのカタストロフとしては機能していないし、それがよかったように思うのだけど。

 あるいはギャグとして(特に劇場の崩落あたりから)この小説を受け止めればいいのかも知れない。だがジミーというギャグは、他の人物たちによって織りなされるギャグと調和していない。ジミーはつまはじきにされている。精子だってシェローの精子に先を越されたかもだし。あーそれならギリ有機的なギャグのつながりの中にジミーもいるのか。いるのか……?

 

『インヴェンション・オブ・サウンド』における主人公と癒しの集団との関係は、それまでのものよりも暗鬱なポイントに近づいている。確かにフォスターは子供を失った遺族たちの集まりによっては癒やされなかった。それどころかこの遺族グループはフォスターひとりをはめるための仕掛けであり、フォスター以外の人間はおそらく誰一人子供を失ってなどいなかった。癒しの集団による主人公への裏切り。それだけ読めば、これも主人公と癒しの集団の関係を変化球でつなぐことで、集団の癒しの可能性の否定に帰着するのを押し留めているようにも思える。だが、この集団が偽の遺族たちであると気づくまではフォスターはそれが本物の遺族グループだと思っていたし、ある時点までは「依存」から抜け出したくないと思いつつもそこへ通っていた(それは『ファイト・クラブ』の「ぼく」のような不実ではない)。なにより、そこで出会ったロブはフォスターのたったふたりの友人のうちのひとりだったのだ。ロブとフォスターの関係は、『チョーク!』のヴィクターとデニーのそれとちょうど対称になっているといえる。『チョーク!』から『インヴェンション・オブ・サウンド』へ、主人公と癒しの集団を乗せたシーソーの重心がずれ、癒しの集団は闇の底に滑り落ちつつある。

 

 傷ついている数多の「わたし」が存在しており、また「わたしたち」も傷ついている。わたしたちは癒やすことができるのだろうか。ド・メーストルの末裔が国家の背後でアップを始めているのがわかる。

ファイト・クラブ』で俺が最も美しいと思う交差。

 

 放火は月曜。

 強襲は火曜。

 悪ふざけは水曜。

 情報操作は木曜。

 組織的カオス。無政府統治。わけがわからない。

 互助グループだ。一種の互助グループ。*33

 

「待って」マーラが屋上を横切って近づいてくる。

 マーラはぼくのほうへ、ぼく一人がいるところに近づいてくる。(中略)

「尾けてきたの」マーラが大声を張り上げる。「互助グループのみんなで。そんなもの必要ない。銃を下ろして」

 マーラに続き、結腸ガン、住脳寄生虫、黒色腫、結核の患者が歩き、足を引きずり、あるいは車椅子を操って近づいてくる。

 口々に言っている。「待ちなさい」

 彼らの声が冷たい風に乗って届く。「やめなさい」

「私たちが力になる」

「力にならせて」*34

 

「わたしたち」であること以外のすべてを無に還そうとするシステムに取り込まれてしまった「ぼく」を、「わたしたち」の一員であることを偽った人間が、それぞれの「わたしたち」の枠をこえて集まった「わたしたち」を率いて助けにやってくる。愛ではないと思うけれども、好きだっていうんだもんな。そりゃあしょうがない。すげえことだよ。

 

 パラニュークは「わたしたち」が成立するのを拒む、と俺が書いたとき、意図的に落とした『チョーク!』。

 

「問題はだ、僕はおまえに僕の助けを必要としてもらいたかった」僕は言う。「僕はおまえにどうか手伝ってくれと言われたかった」

 ベスとデニーは初めてまともに僕の顔を見る。そして僕は窓に映る僕ら三人を見る。

「ああ、もちろんだよ」デニーは言う。「おまえの力が必要だ」ベスに向かって、デニーは言う。「俺たちがテレビに出てたって?」

 するとベスは肩をすくめて言う。「確か火曜日よ」彼女は言う。「ううん、ちょっと待って。今日は何曜日?」

 そこで僕は言う。「つまり、僕が必要ってことかな」 

 するとデニーは椅子に座ったまま、僕が用意万端整えた紙のチューブにうなずく。汚い方の耳を僕のほうに持ち上げて、言う。「よう。もう一回頼むぜ。やみつきになる。こっちの耳もきれいにしてくれ」*35

 

 長い間一人きりで生きてきたあとでは、”僕ら”という響きは心地いい。*36

 

 ヴィクターは「僕ら」に到達できた。それにはヴィクターとデニーという「バディ」を構成するふたりどちらもが(おそらく)異性愛者の男性で、そのうえ性依存症であることが一因になっているとは思う。だがそれ以上に「癒す人-癒やされる人」というのは固定されるような関係ではないということ、しかし頼られたい、救いたいという感情が自分のうちにあることをヴィクターが受け入れ、それをデニーに伝えられたこと、デニーもそれを受け止められたことが大きいだろう。それに、バディという関係だけに閉じなかったということもある。「僕ら」にはヴィクターとデニーだけではなく、ベスや(おそらく)ペイジも含まれている。ここにも「愛ではないと思う」けど、「好き」がある。まったく。

 

 もしかしたら「わたしたち」は癒せない、いや、癒やさないことによって癒やせるようになるのかもしれない。……って感じで〆ようと思ってたんだけど、好きかあ、好きって言われちゃうと、困っちゃうな。

 

「愛」という言葉を信じられない人々のためのロマンスを書きつづける作家。

 好きってすごいぜ。

 

 

 

 

 

 

 

*1:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴェンション・オブ・サウンド』pp46-47, 早川書房, 2023

*2:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp47-48, 早川書房, 2015

*3:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』p115, 早川書房, 2003

*4:同上, p126

*5:同上, pp130-131

*6:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー〔新版〕』pp323-322, 早川書房, 2022。原著同様に、ページ番号は逆向きに振られている。

*7:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』p15, 早川書房, 2004

*8:同上, p122

*9:アイダがイタリアからの移民であることを考えても、かれら母子の姓名の由来は、イタリア人作曲家ヴェルディの『アイーダ』、ポーランドユダヤアメリカ人映画音楽家ヴィクター・ヤング、そしてイタリア系アメリカ人の映画音楽家ヘンリー・マンシーニからきていると思われる。ともに疎外を感じてはいるが、アイダ世代が通過した反体制的なカルチャーと、ヴィクター世代のそれは異なる。映画からオペラへ。映画の登場によりコルンゴルトなど有力だったオペラ作曲家は次々と映画音楽へ活躍の場を移していくことになる。面会のたび、アイダは目の前にいるヴィクターをヴィクターとして認識せず、別人として接しながら、その「別人」に対してヴィクターのことを気にかけているように振る舞う。ヴィクターもその「別人」として振る舞う。言葉はまさに詰まっているチョーク。聖アントニー・ケアセンターには監視カメラが設置されており、各部屋の音を聞くこともできる。音楽の名前を背負った母子たち。映画音楽家の名前だけをもつヴィクターが、監視カメラのモニター越しに、オペラと映画のあいだにまたがっているアイダを見ているとき、そのときだけ彼はスピーカーを通じて、母親が息子に対して話したかったであろう言葉、母親の声を聞くことができる。

*10:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp257-258, 早川書房, 2004

*11:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p87, 早川書房, 2005

*12:同上, p90

*13:ラニュークがこれだけ癒しの集団を小説に書き入れるのは、彼が『ファイト・クラブ』を書く以前に「若くして死に瀕した人々がいるホスピスでボランティア活動をしていた」ことが影響していよう(「【イベントレポート】もう限界な人のための物語。パラニューク、自作を語る」https://www.hayakawabooks.com/n/n5f21b9f490bd, 2025年6月15日閲覧。)。では本当にストレートに「傷ついた人物が癒しの集団に辿り着き、そこで癒やされる」という小説を書くというのはどうか。あまりパラニュークらしくはない。それにそういう風に小説を書くのはかなり難しい。思いつく限りではアレイスター・クロウリーの『麻薬常用者の日記』がギリギリ当てはまる小説(?)だろうか。しかしあの本をそういう風に読むというのは何か全体的に間違っているという感じがする。おそらく集団的な癒しのプロセスはかなり宗教的なもので、そのことが、宗教的なもののうちになかなかとどまっていられない小説という存在との相性の悪さにつながっているのではないかと思う。パラニュークの小説における癒しの集団の場所は教会であることが多く、とくに『ファイト・クラブ』や『インヴェンション・オブ・サウンド』ではそれらの場所が教会の「地下」であることは示唆的である。地下教会と類似しているというより、「地下」にはもう光が届かないのだ。

*14:影浦亮平「ジョゼフ・ド・メーストルにおける近代の神学的解釈, https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/179569/1/bkr00009_039.pdf, 2025年6月14日閲覧。

*15:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p197, 早川書房, 2005

*16:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』 p255, 早川書房, 2003

*17:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p143, 早川書房, 2005。この続きはこうなっている。

 

 どんな犯罪でも、とモナは言う。犯すたびに世界から疎外されていく。罪を重ねるたびに、全世界が君の敵だと思えてくる。

(中略)

 唯一の解決策は、とモナは言う。降伏して、罪を犯したヘレンと僕を世界に殺させることだろう。あるいは、ヘレンと僕が自殺するのでもいい。

 僕は訊く。それもやはりウィカンの戯言たわごとなのか。

 するとモナは言う。「違うわ。実を言うとね、カール・マルクスよ」

 

 俺の知るかぎり、カール・マルクスはそういうタイプの宗教家ではなかった気がする。カール違いの方もそういうことではなかった気がする。もちろん登場人物にもそのことは認識されていよう。

 

 もしモナが正しいなら、モナが話していたカール・マルクスに従えば、ナッシュを殺せばナッシュを救うことになる。ナッシュを神のみもとに送り返すことになる。ナッシュの罪を取り消して、ナッシュを人類のもとに連れ戻すことになる。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p249, 早川書房, 2005)

*18:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー』p62, 早川書房, 2023

*19:同上, p61

*20:ついでに言えば、おそらくベンヤミンアドルノが「歴史」を背負いつつ願っていたのもこの「自分から自由になること」だったと思う。とくにベンヤミンが映画や写真から「気散じ」や「ショック」を読み取り、それらに希望を見出したのは、それらの現象が自分自身の精神の連続性を切断する瞬間、「自分が(資本主義社会によってつくられた)自分から自由になる」瞬間であるように思えたからだろう。アドルノの「非同一性の思考」、あるいは「概念の崩壊こそ批判的哲学のイデーだ」というのも同じことだ。かれらの神経政治学はパラニュークに(批判的に)受け継がれている。

 

「あなたは人の言葉の製品なのよ」ブランディが言う。「法律の製品でもあるし、神がわたしたちに望んでいるとわたしたちが信じているものの製品でもある。あなたのちっちゃな分子の一つひとつは、あなたより前に数百万の人々によって考え作られたものなの」ブランディは言う。「あなたにできることはどれも退屈で、古くて、誰にも文句はつけられない。あなたは安全だわ。自分の文化の内側にとらわれているから。あなたが思いつけることはすべて妥当なのよ。なぜかと言えば、人が思いつけることだから。逃げる方法は想像もできないはず。逃げる方法は一つも存在しないの」ブランディは言う。

「世界は」ブランディは言う。「あなたのゆりかごであって、あなたの罠でもある」(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』p190, 早川書房, 2003)

 

 コンパクトディスクが自分に録音されているものに責任がないのと一緒だ。人はプログラムされたコンピューターと同じくらい自由だ。ドル札と同じ程度に個性的だ。

あなた、、、のなかには本当のあなた、、、なんかないの」ブランディは言う。「肉体でさえ、八ヶ月ですべての細胞が新しく入れ替わるのよ」(同上, p189)

 

 かのジョージ・オーウェルは、あべこべを書いた。

 ”ビッグブラザー”は監視しているのではない。歌を歌い、踊っている。帽子からウサギを出して人の気を引いている。ビッグブラザーは、きみが目を覚ましている間、絶えずきみの関心を引きつけておくのに忙しい。きみの注意がつねに散漫であるよう念を入れている。いつも完全に上の空でいるよう念を入れている。

 ビッグブラザーは、きみの想像力が退化するよう念を入れている。盲腸と同じくらい無用の長物になるよう念を入れている。きみの意識がいつも満杯であるよう念を入れている。

 そしてこのくらい満杯だと、監視されているよりもなお不幸だ。意識がつねに世界によって占領されていると、きみが何を考えているか、誰も気にする必要がなくなる。すべての人の想像力が退化していると、誰も世界に脅威を与えない。

(中略)

 いまの時代、誰の心もその持ち主のものではない。集中できない。考えられない。絶えず何らかの騒音が忍び入っている。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』pp25-26, 早川書房, 2005)

 

『ヴォーグ』や『グラマー』といったファッション雑誌をパラパラめくることになぞらえて構築された『インヴィジブル・モンスターズ』を読んでいるときの体験はカットアップモンタージュを思い起こさせる。パラニュークの小説は映画的であったりミクスチャー的であったりというよりも、そこに感じられるものが、映画からベンヤミンが読み取れたものに似ているのだ。

*21:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp60-61, 早川書房, 2015

*22:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『サバイバー〔新版〕』p5, 早川書房, 2022

*23:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』 pp194-195, 早川書房, 2003

*24:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp298-299, 早川書房, 2004

*25:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ララバイ』p245, 早川書房, 2005

*26:原作版よりも遥かに巨大な視覚的スペクタクルをともなう「カタストロフ」をみせた映画版『ファイト・クラブ』のヒットの影響は多少あるかもしれない。

*27:ところでストリーターの次の語りを読んでみよう。

 

 僕ときみ vs. 世界……

 ゲイリー・ルウィントンには弟のサディウスがいた。ケネス・ビアンキにはアンジェロ・ブオノがいた。ラリー・ビテカーにはロイ・ノリスがいた。ダグ・クラークにはキャロル・バンディがいた。デヴィッド・ゴアにはフレッド・ウォーターフィールドがいた。グウェン・グレアムにはキャシー・ウッドがいた。ダグ・グレツラーにはビル・スティールマンがいた。ジョー・キャリンガーには息子のマイクがいた。パット・キアニーにはデイヴ・ヒルがいた。アンディ・コカラリスには弟のトムがいた。レオ・レイクにはチャールズ・エイングがいた。ヘンリー・ルーカスにはオティス・トゥールがいた。アルバート・アンセルミにはジョン・スカリジがいた。アレン・マイケルにはクレアモン・ジョンソンがいた。クライド・バローにはボニー・パーカーがいた。ダグ・ビーモアにはキース・コスビーがいた。イアン・ブレイディにはマイラ・ヒンドリーがいた。トム・ブラウンにはレオ・メインがいた。ベン・ブルックスにはフレッド・トリーシュがいた。ジョン・ブラウンにはサム・コツィがいた。ビル・バークにはビル・ヘアがいた。アースキン・バローズにはラリー・タクリンがいた。ホセ・バックスにはマリアーノ・マクーがいた。ブルース・チャイルズにはヘンリー・マケニーがいた。オルトン・コールマンにはデビー・ブラウンがいた。アン・フレンチには息子のビルがいた。フランク・グーゼンバーグには弟のピーターがいた。デルフィナ・ゴンザレスには妹のマリアがいた。ドクター・ティート・ヘルムにはドクター・トム・アルジェンがいた。アメリア・サックスにはアニー・ウォルターズがいた。

 公表されている連続殺人者の十三パーセントが、二人一組で罪を重ねていた。(チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク』pp144-145, 早川書房, 2005)

 

 こんなに愉快な「セカイ系」はそうそうない。

*28:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『インヴィジブル・モンスターズ』pp122-123, 早川書房, 2003

*29:都甲幸治「自分の人生を取り戻せ  ファイトクラブ解説』、チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』所収, p325, 早川書房, 2015

*30:インヴィジブル・モンスターズ』が他の作品に比べて抜きん出ているところがあると感じるのは、パラニュークがカタストロフを「カタストロフ」的に使用する誘惑をギリギリのところで振り払い、ミニマルな関係の反転・回転運動にとどまっていることが一因だと思う。冒頭=最後の大炎舞にしても、無関係な人間を大量に巻き込む種類のものではない。『サバイバー』でのテンダーは乗客を殺してはいないものの、ハイジャックはハイジャックだ。『チョーク!』では見た目こそ派手なスペクタクルはおこらないものの、時間的なスケールが冗談みたいに巨大化していく。

*31:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』p168, 早川書房, 2004

*32:「【イベントレポート】もう限界な人のための物語。パラニューク、自作を語る」https://www.hayakawabooks.com/n/n5f21b9f490bd, 2025年6月14日閲覧。

*33:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『ファイト・クラブ〔新版〕』pp168-169, 早川書房, 2015

*34:同上, pp293-294

*35:チャック・パラニューク著、池田真紀子訳『チョーク!』pp254-255, 早川書房, 2004

*36:同上, p279