ポスト「新聞」の宇宙論的表現

 最近ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』を読んでいて、面白い。これぁ古典になるな〜と思った。

 

 

「想像の共同体」に絡めて小説とナショナリズムの関係の話がよくされているのはなんとなく知っていたけれど、アンダーソンが小説に連なる形で新聞にも言及しているのは知らなかった。

 

新聞上すみの日付、新聞のもっとも重要な表象、これが、本質的なつながり、ゆるぎなく前進する均質で空虚な時間を提示している。この時間のなかで「世界」はゆっくりと着実に進行していく。もしもマリが二日間の飢饉の報道のあと、数ヶ月ニューヨーク・タイムズのページから消えたとして、読者は一瞬たりともマリが消え去ったとか、飢饉がそのすべての市民を一掃してしまったとか考えたりはしない。新聞の小説的構成によって、読者は、どこか向うの方で「登場人物」マリが次の出番を待ちながら静かに移動しているのを確信しているのだ。*1

 

新聞は、本の「極端な一形態」、途方もない規模で販売されるが、その人気たるやきわめてはかない本にすぎないともいえよう。一日だけのベストセラーとでも言おうか。新聞が印刷の翌日には古紙になってしまうこと  この初期の大量生産商品は、その意味で、奇妙なほどに、時間のたつにつれ陳腐化していくという近代的消費財の属性を予示するものであったが  まさにその故に、それは、異常なマス・セレモニー、虚構としての新聞を人々がほとんどまったく同時に消費(「想像」)するという儀式を創り出した。*2 

 

 新聞、とくに紙の新聞とはなんだったかといえば、宇宙論的な表現としての一望性をもった共時平面である。それは日付と、恣意的な平面の分割、そして紙それ自体の形状がもたらす閉域によって構成される。宗教による支配が衰弱したあとに、宇宙論を担ったのは小説と(紙の)新聞であり、そのどちらもが現在衰弱している、少なくとも売れなくなっている。ナショナリズム以前、宇宙の誕生から死後の救済に至るまですべてを説明する宇宙論をもった宗教、その体系を神聖な言語(ラテン語、古典ギリシャ語、古典アラビア語などなど……)で記述した手写本、宗教的宇宙観によって位置づけられ、それを体現しさえする王による神聖な統治……もちろん地域によってバリエーションがあるだろうけれども、少なくとも宇宙論と人間の秩序が宗教的に一体となっていた時代があった。近代もまたそれらに代わる宇宙論の表現として小説と新聞を見出した。宇宙論はもはや欲されなくなったのだろうか。そうとは思えない。たぶん現在は過渡期なんだと思う。少なくともニュースは飽きられていない。

 

 紙の新聞による宇宙論に限界がきた理由についてはなんとなくわかるというか、小説の方が先にぶつかった危機に、新聞もぶち当たったんじゃないかと思う。「これで全部を書いたことになるんですか?恣意的な場所で恣意的な言語で恣意的なピックアップをしてるだけじゃないですか?こんな風に書くことが許されるんですか(とくにナチス以降)?」という怒涛の疑いがやってくるわけで、小説も結構頑張っているけれどもなかなか厳しい。個人的な宇宙、一人称的、あるいは作者と読者の間に共有されうる一人称-二人称(わたしとあなた)的な小宇宙はまだまだいっぱいある。けど一人称複数的な宇宙、宇宙論となってくるとほんとうに稀だと思う。新聞はもっと厳しいかもしれない。事件が、多すぎるだろ!紙面は限られているんですよ!

 

 ニュースはいくらでもバズる、というかツイッター(現・X)が「トレンド」の項目を作ってるのがもうすでにちょっとポスト「新聞」感があるが、ともかく新聞社のオンライン記事はまだまだ見られている。新聞-インターネットの連関からなる「宇宙論」、つまり非-紙の新聞としての「宇宙論」の表現は、一覧性と共時平面のどちらも犠牲にすることになった。たとえばパッと朝日新聞社のニュースサイトにいってスクショしたものがこれだ。

 

https://www.asahi.com ,2025年5月26日閲覧。

 まず上部にデカデカと広告であり、スクロールしなければ一番下の記事は見切れてタイトルも読めない。同一「平面」上に存在しながら有料購読者でなければ読めない記事と無料でも読める記事が混在しており、アクセシビリティは同一平面上で均一化されていない。速報の欄と有識者によるコメントの欄が右側に用意されている(やはり一望できない)。そしてなにより重要なことだが、このページには記事全体を束ねる日付が存在しない。各記事ごとに投稿された時間だけが表記され、それらの配置は時間的な因果性をまったく無視している。

 結果、断片化されたアクセシビリティSNSが用意した「リツイート」機能によって、新聞は断片化された拡散性を持つことになる。たとえばライブドアニュースのようなアカウントが「【1000RP】」といった文言をいれてニュース記事を投稿することで、個別のニュースは強化的に再拡散される。拡散されるニュースとそうでないニュースを分ける理由はなにもない。拡散されているかどうかを除けば。これは新聞社だけの力で行われることではなく、やはり新聞-インターネットの連関によって起こったことだ。

 

 しかし新聞は失ったばかりでもない。現在の朝日新聞社のページには重要トピックをまとめたカテゴリが存在している。例えば「トランプ関税」のページはこうだ。

 

https://www.asahi.com/topics/AP-d3be69f4-8afd-485b-9b6f-99cec23e7ed1/?iref=pc_gnavi_upper ,2025年5月25日閲覧。

 日付を跨いで継続的なトピックの追跡が可能になっている。これは紙の新聞にはできなかったことで、やろうとするなら読者が自分でスクラップブックを作るしかない(当然これは共時平面という機能を喪失させる行為でもある)。新聞は一覧性と共時平面という性質を犠牲にすることで、異なる時間の弾ける泡の海の中に、幾分か秩序だった構造としてある種の「経時平面」をまぎれこませようとしている。*3もちろん恣意性からは逃れられないのだが、宗教から引き継いだ、上から下への垂直的な宇宙論的機能を共時平面ごと失った結果、恣意性は生産者から消費者の側に転嫁された。変な話、人類全員が新聞記者になれば漏れるニュースはほぼ存在しなくなるだろうが、そうやって書かれた記事を全部読むことなど誰にもできはしない。

 

 このことは、現在さかんに呟かれる「分断」が、コミュニケーション、相互理解の困難という社会学的レベルに留まらないことを示唆している。ナショナリズムの時代、近代の宇宙論の一翼を担った新聞の終焉は、現代の「分断」という現象が宇宙論的なレベルの変動であることを示していないだろうか。つまり、我々は同じ宇宙にいながらにしてすでに「マルチバース」の世界に生きており、「同時性」の概念をまたしても喪失しつつあるのではないか。そのことを強く感じるのはポピュラー音楽における「流行」の感覚の喪失で、逆に言えばもうなんだって流行れる。もうトレンド全体を支配するような音楽的様式なんてないし、あまりにもすぐに「次」がくる。そしてどの「次」も、個別にピックアップしてみれば、そこへと続く「経時平面」を見出すことができるだろう。俺はグスタフ・マーラーを現代でやってるのがジェイコブ・コリアーだと思っているけれども、諸様式を際限なく取り込んでいくにも限界というものがある。そしてグスタフ・マーラーは(ジャン・シベリウスと対称的な形で)交響曲という形式に終焉を告げたのであり、つまり19世紀の終わりを告げたのだった。

 

 

 

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 アンダーソンは「同時性」について大事な話をしている。つまり、ナショナリズム以前と以後で、「同時性」の意味が変わっているのだ。

 

聖処女マリアを、今日の博物館の復元精神によって「セム族」の容姿、「一世紀」の衣装で再現することなど、思いもよらないことだった。というのは、中世キリスト教精神は、歴史を原因・結果の無限連鎖、あるいは過去と現在との根底的分離と理解することとは全く無縁だったからである。*4

 

アウエルバッハは、こうした同時性◯◯◯の観念が我々にはまったく異質のものであることを正しく強調している。この時間観念は、ベンヤミンがメシア的時間と呼ぶ、即時的現在における過去と未来の同時性に相当する。そして、事象をこのようにみるとき、「このかん」という言葉はいかなる現実的意味ももちえない。*5

 

中世の時間軸に沿った同時性の観念にとって代わったのは、再びベンヤミンの言葉を借りるならば、「均質で空虚な時間」の観念であり、そこでは、同時性は、横断的で、時間軸と交叉し、予兆とその成就によってではなく、時間的偶然によって特徴づけられ、時計と暦によって計られるものとなった。*6

 

 同時性という概念そのものが近代によって発明されなおしたとして、その「同時性」が失われた後、来たるべき「同時性」というものがなんなのか、俺にははっきりよくわからない。ナショナリズム以前の「同時性」が復古的に復活するようにはどうしても思えないし、それで良い気もしない。現状は過渡期なんだと思うといった。それは共時平面の存在しない、無数の経時平面が並立するマルチバースのような状態だ。これは「わたしたち」が困難であることを意味している。「国民文学」はかつて「わたしたち」であるような「わたし」を構成することによって「国民」を醸成することができたが、その「わたしたち」は新聞とともに不可能になりつつある。

 時間的秩序のカオスにおいても「わたしたち」を可能にする方法が存在してはいた。「同時性」をある意味で放棄することが同時性をもちえた、という技法-時代がサンプリングだったように思う。サンプリングはナショナリズムの「同時性」を無視することができる。個々の要素のネットワーク状の結合により、べき乗則的に密度を増す力がサンプリングにはあった。実際ピンチョンはデカいし高橋源一郎もデカい。ただ、ジェイコブ・コリアーの行く先を不安な面持ちで眺めている自分がいることも事実だ(そんなにみんなで合唱したいか?)。

 

 サンプリングそれ自体がもたらす時間をよく見つめることで、次にやってくる「時間」の性質がちょっと見えてくるかも知れない……とか書いてみたもののやっぱりしっくりこない。俺は全体がやってくる瞬間をいまだに期待しているんだと思う。たぶんそれは思ってもみない角度からやってくるんじゃないだろうか。ミクロコスモス-マクロコスモスの照応でもなく、神話の借用や絶対的な神による支配の再来でもない、もちろん現在とリンクした全体。過去を油田みたく掘り尽くすようでもない、日付以降のあたらしい時間。もしポスト「新聞」の宇宙論的表現というものがありうるのだとしたら、少なくとも「同時性」を、時間を再発明する必要があるだろう。

 

*1:ベネディクト・アンダーソン著、白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体  ナショナリズムの起源と流行』p60, 書籍工房早山, 2007

*2:同上,pp61-62

*3:ところでマンガ、とくに紙のマンガもまた限定された平面の分割の集合からなるのだが、これは現在でもまだ生き生きとしている。これには日付が不在であるうえに、分割が恣意的ではなく、部分平面同士が(紙面をまたぐほどに)有機的に結合するよう分割されているというのも大きいだろう。紙面外の世界と直接的には関係せず、内在的な論理をもっているというわけだ。この点から見てウェブトゥーンの登場は面白い。もちろんウェブマンガやマンガアプリは新聞同様に紙面という物理的制限からマンガを解放した。しかしウェブトゥーンはこの点でさらに進んでおり、コマ割りすら消滅させることができる。ウェブトゥーンは一見、マンガの起源と取り沙汰されがちな「鳥獣戯画」にマンガよりも近接しているが(巻物とスマートフォンという基材の相違による決定的な違いはもちろんある)、そのような「先祖返り」としてみるのではなく、むしろ先に書いたように、新聞の宇宙論が機能不全になって以降の「経時平面」的な志向に並行する現象としてみたほうが良いように思う。ストーリーは経時的であり、ウェブトゥーンの「方向の限定された無限平面」は理にかなっている。ただそれは、マンガが可能にしていた、自在な平面分割およびその有機的構成が織りなす時間と因果の複雑な構造を犠牲にする方に向かうこともありうる。

*4:ベネディクト・アンダーソン著、白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体  ナショナリズムの起源と流行』p48, 書籍工房早山, 2007

*5:同上, p49

*6:同上, p50