『サイダーのように言葉が湧き上がる』メモ 書くこと・話すこと・伝えることの場所

 なぜチェリーは予定日の一カ月も前から引っ越しの準備を始めるのか。

 それはチェリーにとってこの街がうるさいからだ。

 

何がメディアにそうさせるか

 『サイダーのように言葉が湧き上がる』の中では複数のメディアが絡み合っている。メディアはコミュニケーションの技術であり、記憶する媒体であり、またそれ自身伝達されるべき意味を持つメタ・メディアでもある。書くこと・話すこと・伝えることは何らかの物質的な基盤を必要とする。ケータイ、筆ペン、短冊、レコード、そして声帯。

 

 高校生のチェリーは特に何かを聴くこともなくヘッドフォンをつけている。音を遮断することは一つのコミュニケーションを遮断することであるが、彼自身は話す。同様に、スマイルもかつてはチャームポイントであった出っ歯にコンプレックスを抱き、マスクをしているが、視覚的なコンプレックスでありながら彼女もまた配信をしている(キュリオシティのデザインはテキストベースはツイッター、ライブはインスタグラムに依拠しているがこれは20代の筆者にとってはかなり適切な若年層のSNS環境の表現になっていると感じられる。ツイッターは確かにもう古びているのだが、テキストベースのSNSで若年層に人気のSNSというのはツイッター以降聞いたことがない)。

 

 ラテンアメリカ系で日本語は話せるが書くのは不得手というビーバーによる、ちょっと現実的には不可能ではないかというタギングがなされたチェリーの住む集合住宅は静かである。父親が帰宅し、金属製の扉を閉めるときに響く質量と静寂は、スマイル三姉妹の住む、まるであのショッピングモール(そう、ショッピングモールには全てがある)のように過剰な一軒家の軽さと無秩序とは対称的だ。母親のぎっくり腰により、デイサービスのバイトのピンチヒッターとなっているチェリーは、淡々と、父親の話に相槌を打ち、淡々と引っ越し準備を進める。母親は息子の俳句を「いいね」しまくり、「どうせわたしにぐらいしか読まれてないんでしょー」といったことを特に悪気もなく言う。室内にテントを擁する一軒家では、凄まじい単位の視聴者を抱えたスマイルが逡巡の末マスクをし、ショッピングモールで「かわいい」を配信する(マスクの時代になってから、私は笑顔に関する情報を明らかに視覚よりも聴覚によって得ようとするようになっているが、みなさんはどうだろうか)。チェリーの家の雰囲気にはまだイエ的な父親と母親の役割を匂わせるところがあるが、「I♡ODA」(だったっけ?)などと書かれたTシャツを父親が着るスマイル一家にはあまりその匂いはない。

 

 この対称性と類似性を抱える二人を初めてつないだのがケータイというメディアであった。『コマンド―』ばりのショッピングモールド派手アクションをビーバーが繰り広げた結果、チェリーとスマイルのケータイが入れ替わってしまう。スマイルにとってケータイは「ないと死ぬ」ものであり、チェリーにとっては「別にどこにいても一緒」であることを担保する装置としてある(父親から貰った歳時記はケータイのカバーに取りつけられている)。ここで話は急に結末へ飛んでしまうのだが、最後まで特にチェリーの俳句がバズることはなく、小田山だるままつりの最後、大量の視聴者を抱えた配信中のスマホをスマイルが取り落とし、ほとんどの客が花火を見る中、チェリーによる「配信」のたった一人の視聴者となるシーンは、ベタなのかもしれないが感動した。単にSNSを称揚するのでもクサすのでもない(スマイルの配信がなければチェリーはショッピングモールに現れえなかったのだから)、良いSNSの使い方だったと思う。

 

 人前で話すとあがってしまい言葉につまってしまうチェリーはなぜ櫓の上でマイクを握り締め、しまいには俳句としての体裁を崩壊させるようなところまで絶叫しえたのか。ビーバーの良き誤読の一つである「俳句」と「ライム」の取り違えが櫓への運命を用意していることは確かだが、まずもってフジヤマさんという最高の老人の存在が大きい。

 

 フジヤマさんは、ほとんどの登場人物が渾名や名前で呼ばれる中、苗字で現れる数少ない人物である。苗字とは歴史であり、後述するが、フジヤマさんは作中での「垂直的なもの」を体現している。

 

 作中屈指のシークエンスである、デイサービスでのショッピングモール行脚と俳句発表会は、フジヤマさんが何者であるかを雄弁に物語る。「俳句は文字の芸術なんだから別に声に出して読まなくても」というチェリーに対し、「声に出すことで伝わることもあるのではないか」という講師の仄めかしは物語全体の大きな推進力としてある(もしチェリーが一切口に出すこともせずにただキュリオシティに俳句を書くだけであったなら、日本語の文字に弱いビーバーが日本語の勉強と称してチェリーの俳句をタギングすることはなかっただろう)。水平に移動する客たちをバックに講評が続き、絞り出すようにチェリーは自分の俳句を声に出す。そしてフジヤマさんは、講師がその名を呼ぶ前に絶叫する。

 

 この時点で、フジヤマさんが単に耳が遠かったり、なまじボケているのでは?というだけの人間でないことが分かってくる。他のデイサービスの面々が作った俳句が観察と抒情による静的なものだとすれば、フジヤマさんの俳句は動的であり、そこには志向性がある。実際この時はチェリーと講師の関係を誤解した三姉妹を指さしており、最後の最後でもその俳句は明らかにチェリーを狙い撃ちするものであった(スムースなマイクの受け渡し!)。また後述するつもりのことを先取りしてしまうが(構成がヘタクソで悲しい)、フジヤマさんの声は水平に沁み渡るように伝播するものではない。垂直に屹立している。序盤からしばしばフジヤマさんが発する唸り声、あれはボケでも耳が遠いのでもなく、チェリーが「これなら言葉にできる気がする」と言うところの形式である俳句、その俳句にまだ分化していく前の、原初的な声ではないだろうか。チェリーが俳句を作る過程で唸り声を発しないのは普通といえば普通だが、面白い。例外は初めてスマイルと並んで歩いている時、スマイルに無茶ぶりをされた時ぐらいだ。おそらくSNSという言語の水平な伝播を中心とするメディアへの書き込みという形で俳句制作を規定されていたチェリーには、垂直的な孤立した声というのは似合わないのだ。祭りの場所でようやくチェリーは、フジヤマさんのような、垂直的な声で叫ぶのである。青春の志向性を伴って。

 

 そのフジヤマさんが探し続けていたのがレコードである。声という生きたメディアを半永久的にするものがレコードであるが、ここではビーバーとジャパン(このあだ名はジャパンの趣味を考えるとビーバーが付けたのではないかと思われる)の、アニメキャラの全身が印刷されたボードを巡るやりとりがよく活きていたと言うにとどめたい。ド迫力アクションの結果首がちぎれたボードに対し、「からだもあるし」「そういうことじゃないんだよ!」というやりとりは、全体性として初めて現れるものがその全体性を毀損されるということは取り返しのつかないことであることを示唆していたが、レコードもまさにそういったメディアである。

 長回しで描かれるスマイルの、レコードを修復しようとする絶望的な試みは見ていて苦しい。世代的に、レコードを元通りの形にすれば元通りの音が鳴る、と、もしかしたらスマイルが思っているのではないかとまで想起させられるが、それは叶わないことだ。

 遅くまで作業した結果長寝したスマイルのもとに、姉のジュリが飲み物を持ってくる。ジュリ&マリは、父親の前歯の遺伝を受け継いでいない。ショッピングモールでスマイルが出っ歯に関する回想を終えた後も、ジュリは「思春期だねえ」という悪気のない大変軽い返しをするのみだ(チェリーの母親の発言同様、これらには相手を慮る優しさがあるのだが)。では姉妹の中で唯一そうであるスマイルの出っ歯は、全体性の毀損、欠落なのだろうか。そうではないだろう。チェリーの告白にマスクを脱いだスマイルは、チャームポイントとしての出っ歯という過去を単に復古したのではない。姉妹の中での垂直性と、チェリーの垂直性が呼応し合ったことで、スマイルの中で出っ歯は新しい場所で肯定的に受け入れられるのだ。

 

 チェリーとスマイルは、メディアを使い、メディアに動かされながらも、最後にはヘッドフォンを外し、マスクを外した身体-身体という場所に立った。前にも述べたようにそれはメディアの否定ではない。過去から現在までをつなぐメディアの交錯こそが二人をここに連れて来たのだから。メディアを駆動するものは、あのフジヤマさんの「唸り声」のような、メディアに書きこむことのできる記号にまだなっていない力なのだ。

 

俳句監修が黒瀬珂瀾という、私の拙い知識では俳人というよりは歌人として活動している人物であったことが、俳句愛好者にとってどのような印象を受けることになるのかは(門外漢の私にはよく分からないが)気になる点ではあったが、総じてとても良い映画だと思ったし、ボロボロ泣いた。

 

 以上が全体を通したメモ書きと言ってもいいものである。

 

ショッピングモールの水平と垂直

 最後にショッピングモールの話をしたい。

 ショッピングモールとは世界の限界である。この映画は極めて限定的な場所しか登場しないため、街の全貌はショッピングモールを中心としたズームアウトでしか窺うことが出来ない。ショッピングモールには全てがあり、その「全て」を疑った時、限界は踏み破られ、未到の外部が現れる。チェリーはそこを目指している。

 中央部を吹き抜けとするショッピングモール、そこにハードオフ(地方出身者の私にとって中古ショップと言えばハードオフ・オフハウスであり、しばしばブックオフが同じ店舗内に併設されていた)があること、これだけで私は世界の限界だったショッピングモールないし大型スーパーを思い出す。

 この不思議な町(Curio-City)でその異様にヴィヴィッドな外観は、街全体に対して水平に放射されている。フジヤマさんの声、人ごみとならんで、ショッピングモールのこの色彩が、チェリーにとってのうるささを構成していることは想像に難くない。前節でも何度か言及したが、この垂直と水平のヴィジョンが、物語の中でショッピングモールという場所に統合されているように思えてならない。

 

 このショッピングモールはかつてレコードプレス機の工場であった。苗字について先に述べたように、歴史とは垂直性である。だからレコードの記憶の上に立ったショッピングモールの中からフジヤマさんの探していたレコードは発見されるし、ショッピングモールの屋上には子供たちの秘密基地が存在するのである。モール内ではパネルが作られ、ショッピングモールの歴史が秩序立って現れるのだが、我らインターネット時代の子たちが集うモールの上では、法的に大丈夫なのか不明な手段によって集められた、歴史的文脈も全く関係のない事物が並んでいる。

 

 テントのあるショッピングモールの秘密基地と、マリのテントがある三姉妹の部屋。世界であるショッピングモールの内部でインターネット時代の少年少女たちが交錯する。水平運動の層化によって構成されるショッピングモールで、配信をするスマイルと、デイケアサービスでのアルバイトに従事するチェリー。二人を出会わせるのは、スペイン語を主とする親を持つ、ショッピングモールの持つ垂直性の外部からやってきた撹乱者・ビーバーの三次元的なアクションである。

 (この表現には微妙な問題がある。ラテンアメリカ系の日本への移民は、特にブラジル系(ブラジルは南米大陸唯一のポルトガル語圏なので単純にラテンアメリカ系というには注意を要するが)を主として名古屋や関東などの大都市工業地帯だけでなく、島根県など地方においてもこのところ増加している。かつて日本から少なくない数の移民がラテンアメリカを目指し、今ではその日系の子孫が日本に移民することもあるという状況となっているわけで、単に移民=外部と言うことには慎重になる必要があるだろう)。

 

 レコードを巡る冒険は、チェリーとスマイルを街の外れの山へと誘い、フジヤマさんのレコードショップを経て、デイケアセンターという最初の場所へと回帰した。街を新しい目を持って水平的に移動したことで、チェリーはもう「どこにいても同じ」とは思わないだろう。引越しの段ボールはショッピングモールとは対称的にカラフルさを抑えられた白であった。まだ外部にどのような色があるか知らないチェリーが、スマイルの極めて水平的なメディアによる垂直的なメッセージを受け取った時、チェリーはヴィヴィッドなショッピングモールに回帰する。恐らく最後の回帰である。

 

 ハプニングの運命にある司会者の二度目のハプニングによって、YAMAZAKURAは流れ、フジヤマさんは一瞬唸った後、涙を流した。「感情や少年海より上がりけり」と攝津幸彦の句がマイクを通して鳴り響き、チェリーが怒涛のパフォーマンスを二人きりの場所でやりきった後、花火は秘密基地を超え、垂直に華開いていった。