2022年おわる〜

今年は体感2年あったけど全然足りてねえ

 と思った。やりたかったけど出来なかったことが結構ある。映画館にもほとんど行けなかったしよく考えたらアマプラほとんど使わなかった。「観る」がほとんど欠落していたので説得力もなにもどうしようもないけど今年観た映画で一番印象に残ったのは河瀨直美『東京2020オリンピック  Side:A/B』です。

 

 

やりたかったことの一つは音楽で全然動かせていないが、まあ本気で動かす気がなかったという方が正しいのかも知れない。来年はちゃんと曲あげたいね。即興日記というのを動画を上げる練習がてら一時期やっていたのが以下の様子です。

 

youtu.be

 

 時間を得るために、時間を売って金を買っているという感覚があって、これは時間が肉体だとすればよりしっくりくる。この一年でどうやら「名前」と「時間(と呼ばれているもの)・空間(と呼ばれているもの)」には結び付きがあるなと思い始め、これには荒川修作があれだけ所与への戦いを挑んでいながら名前についてあまり言及しないなということが気になり始めたということもある。多分マドリン・ギンズとの「+(プラス)」が鍵で(多分あまりうまくはいかない鍵なんだけど)、とりあえずはマドリン・ギンズのまだ荒川との共同制作ではない文章も載っているこれを買ったが全然積んでいる。

 

 

 あとはやっぱずっと読まないっぱなしにしてるドゥルーズガタリとかのことも考えたほうがいいのだろうなと思うが「名前」へのアプローチの仕方は他にも色々あって、だいたいペンネームがそうだろという思いもあり、引き続きやっていきたい。今年書いたもので買えるものはこれらになります。本当にありがとう。よしなによしなに。

 

↑短編小説(『(折々の記・最終回)また会うための方法』)が載っています。

 

booth.pm

↑巻頭言と短編小説(『歩調たち』)、詩(『題名』)が載っています。

健康は大事にしたほうがいい

 今年は色々大変だったけど腹痛で寝れなくて死ぬかと思って病院行ったら便秘とのことだったため拍子抜けしたがそれはそれとして寝れねえんだから便秘だろうがなかろうが大変なことよこれは? と思いながら薬飲んで良くなったので良かったが、健康は大事にしたほうがいいと思った。全然思い込みだけど「死ぬかもしれん」の文字列にそれまでにない切迫感があり、そうか俺は「死ぬかもしれん」と思ったときにああいう感じになるのかというところを一つ得られた。

 音楽はどのジャンルにしてもどんどんボーダーレスな混淆と洗練が進んでいってて最近は疲れるなという気持ちがないではない。いやしかしIT革命なんてまだまだ黎明期だし「デジタルネイティヴ」が多数を占める/しかいなくなった世界だと人類の知覚や知識論が旧人類の俺とはだいぶ断絶してそうだな〜なんて感じたりしてどんどん感性が固陋になっていく。後半期は特にクラシック音楽を再び掘り返し始め、エディット・ファルナーディのラフマニノフはヤバすぎる……とか、ミクローシュ・ペレーニ生まれてきてくれてありがとう……とか、グスターボ・デュダメル & シモン・ボリバル交響楽団マーラー『復活』奇跡だ……とか、やはり戦前から活動してる奴らの演奏は全然ステージが違う……とか完全に厄介な人間になる未来が見え始めており、Open Your Heart......と自らに語りかける夜が続いているがまあそれはそれとして、今年出てよく聴いたアルバムはこんな感じ。

 

PIANO SOLO [12 inch Analog]

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STILL LIFE (RCIP-0335)

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JACOB'S LADDER

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The Parable Of The Poet

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Playground

 

 

 

もうそろそろ20代が終わる

 たいして長生きしてはいないけどそれでも2022年は多分今まで生きてて最悪の世相となっており、日本が最悪なのは今に始まったわけではないけどここ数年は特にひどい。とはいえ「あなたは言葉をたくさん知っておられるのですね」状態になることにはもう特に意味を感じなくなったし、俺(の生活)自体が世界やこの国の変化と競うようにして最悪に近づいていっているため、特にヴィジョンとか言いたいこととかはなくなっていくという感じである。友人と家族の健勝以外はどうでもいい。昨日青空文庫で読んだ二葉亭四迷の『平凡』が面白すぎたので、それに引っ張られているのかもしれないが、別に引っ張られていいし、四方八方から引っ張られて生まれる変な均衡を「わたし」とか名付けてあたかも何かがある気になってるんだろうが、みたいな気持はある。例によって新刊を大量に買ったりしないので、今年出てないのばっかりだが良かったやつです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翅の伝記

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memories

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引っ越してえ。では良いお年を。

「戸締まり」について

 

一九三六年にSSの幹部たちを前に行った演説で、ヒムラーは「我々は皆かつてどこかで既に出会ったことがあり、同様にして来世においても再会するであろう」と述べている。

 

横山茂雄『増補 聖別された肉体: オカルト人種論とナチズム』p207、創元社、2020年)

 

 どうして映画のタイトルに「戸締まり」とつけたのだろうか。

 

 常世と現世の間をつなぐ「後ろ戸」というものがあり、閉じ師は開いた後ろ戸を閉める「代々の家業」らしいのだが、閉じ師は鍵を持っているため、必然的に締める側が外側ということになる。家の戸締まりとは聞くが、会社の戸締まりとか、教室の戸締まりとかはあまり聞かない(おそらくここでより自然に使われるのは「施錠」である。逆に家には「施錠」とはあまり聞かない)。とすると常世  死者の場所、すべての時間がある場所  は家の中であり、現世  生者の場所  が家の外だということになる。かくしてわたしたちは死の家を追われたものとして生き、死ぬことで帰っていくということになった。

 

  生まれて初めて2日連続で同じ映画を見に行ったため、いまわたしの手元には『新海誠本』なる本が2冊もある。表紙をめくると下に「⚠本書は、作品の結末に触れています。ご鑑賞後にお読み下さい。」とあり、表紙には何のエクスキューズもないことから全くお粗末なデザインだと思いつつ律儀に読むのを止め、観てから再び中を覗いたのが1回目の鑑賞ということになり、2回目はもう『新海誠本』を読んだ状態で観たということになった。例えばインタビューが掲載されており、新海誠はこう言っている。

 

 どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。桜が人間社会の混乱とは無関係に咲き続けることと同じように、観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ないんです。それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う回路があるはずと、願い続けるしかありませんね。

 

 ではどうしてこの『新海誠本』なる冊子は、映画館の入り口で、それも鑑賞後ではなく鑑賞前にばら撒かれているのか。作品に放置し得ないほどの致命的な欠陥があり、註釈を付け足さなければならないとか、言い訳とかではないのだろうから、他に理由があると考えるべきだろうが、ここで私は新海誠が「観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ない」と言っており、「コントロールしようとは思わない」とは言っていないということについてどうしても考えてしまう。新海誠は不可能に対して祈り、願い、欲望でもって立ち向かうことを描き続けてきた、すなわち「出来ない」ことに「それでも」と言うことを続けてきたのだから、コントロール出来ないからといってコントロールを諦めることにはならない。1回目の鑑賞の後に、「ジェダイかシスかといえば圧倒的にシス」という感想を抱いた。私は新海誠が、『ハウルの動く城』や『千と千尋の神隠し』を作った宮崎駿よりも、『エヴァンゲリオン』を作った庵野秀明よりも(そしておそらく細田守よりも)、圧倒的に反ヒューマニズム的な場所で揺れていると思う。『すずめの戸締まり』で最も美しく描かれるものは、血、大地、そして死である。

 

 新海誠は言葉を恐れている。おそらく好き勝手気ままに増殖していく言葉であるという理由を含み込んで、観客の感想を恐れてもいる。そして恐れるということはそこに恐れるだけの力があると知っているということになる。今作でモノローグを排した結果どうなったかといえば、一つには台詞が破綻したということであり、さえずるように間投詞を吐き出し続ける鈴芽の台詞は聞くに堪えないし、草太との会話となると彼らが本当に会話をしているのか疑わしく思えてくる。キャラクターが声を発するごとに物語にブレーキが掛かるため、劇伴が壮大になり派手なアクションシーンを観せられても気持ちが画面についていかない。1回目の鑑賞だと序〜中盤で席を立とうかと思ったのだが友達と来ていたので止めた。モノローグは物語世界よりレイヤーが高次になる語りであり、このモノローグによって今まで新海誠は、作品全体を(かろうじて)統御するだけの抒情的な力を得てきたのだが、『すずめの戸締まり』ではその力は使えない。ではどうするのか。

 

 本作の『後ろ戸』は「常世  いわゆる霊界のような場所と繋がってしまったドアとして描いているが、その意味では『君の名は。』『天気の子』と同様に、民俗学的なアイディアを物語の仕掛けとしている。

 

 と書いてあるが実際のところ物語の仕掛け、舞台装置なのはキャラクターの方であり、「主人公」は民俗学的なアイディアの方になる。序盤から詰め込まれる、草太の不親切な説明的台詞によりしろしめされるこの世界の仕組みは映画の最後まで片時も揺らぐことはない。閉じ師は「宗像家」の家業であり、正確な台詞を失念してしまったが、草太の祖父が言うことには「普通の人」の関わるべきことではない。確かに彼は最終的に鈴芽を彼女の意志の向かう方へ送り出したように見えたが、彼女を「普通の人」とするには問題がある。「みみず」は宗像家の面々には見えるが、「普通の人」には見えない。そして当然のことだが鈴芽には「みみず」が見えている。伊予で地震を止めることに成功した鈴芽は束の間、「すごいことをやっている」と高揚する。泊めてくれた同い年の女の子(名前は忘れた。新海誠のキャラクターは名前を覚えておくのが難しいし、多分名前を覚える意味がない)に、自分(たち)が何をしているのかは明かさない。というか、基本的に鈴芽は「普通の人」に何も説明しない。説明を試み始めるのは、おそらくこの映画で唯一「大いなる力」ではなく、友情という人間的な理由で動いているキャラクターである眼鏡の兄さん(信じられないことに今この文章を書いているときにこのキャラクターの名前も忘れている)と出会って以降になる。ここには「選ばれし者」と「普通の人」がおり、その境界線が揺らぐことはない。

 

 そして「選ばれし者」はハウルのように美しい。「イケメン」という程度にしても。出会って幾ばくも経っていないイケメンのためにおそらく本気で死ぬことを「怖くない!」と言い切れる鈴芽がそう言い切れる理由を、後半で鈴芽の口から説明されるように「今まで生きるも死ぬも運だと思ってきた」からだとするには映画を通してみても説得力を持っていない。それは「怖くない!」の本気と釣り合っていない。鈴芽は序盤からそういう人間の顔をしていないし、声もしていないからだ。4歳をして家と母親を失った鈴芽にはいま2つの家があり、母親代わりの叔母がいる家は少なくとも後半までは居心地がすっきり良いというわけではない。もう1つの家、それは草太と戸締まりをしてきた「死の家」である。そこはすべての時間が集まる場所であり、美しく、懐かしい。観覧車の中で常世に魅入られる鈴芽。

 

 閉じ師は鍵を締める際にかつてその土地に生きていた者たちの声を聞くという仕組みになっており、場合によっては当時のビジョンを観ることになる。扉の外で。そのルールが破れるのが最後の常世である。西の要石が扉の外側にあり、東の要石は扉の内側にあった。「被災地」の昔のヴィジョンが見えるのは常世の側である。もちろん最後の扉の内側で、「これが常世……!?」と鈴芽が言っているのだから、常世でない可能性もあるのだが、その後のシーンを見るとどうもちゃんと常世であるように思える。具体的な地名や施設の名前を挙げられないのはもちろん覚えていないからだが、それ以上に最後のこの場所のヴィジョンが他の場所で見たヴィジョンより遥かに土地固有の具体性を欠いているからだ。常世は死者の場所、すべての時間が集まる場所である。つまり我々は扉の外側  死の地点から「被災地」のヴィジョンが広がるのをみており、現世  生の世界は家の内側にあることになる。今までの場所が生の場所から広がっていく死の時空だったのに対し、「被災地」はそもそも死の場所から死の時空が広がっていく。溢れ出る声とヴィジョンを封じ、東の要石の法則(そんなものがあれば)にならえば、最後の「行ってきます」の台詞、そして要石ともども、「被災地」は死の場所に閉じられる。ここには死の複雑な運動があるが、少なくとも言えることは、湧き出した「被災地」の声やヴィジョンは「普通の人」にはまったく届くことのない、縁のない場所に封じられたということであり、要石が解き放たれなければ  すなわち大震災がおこらなければ、これからの死者にとってすらなお縁のないものになったということである。

 

 ソフィーが扉の向こうの世界で、ハウルへ「未来で待ってる」と言った時、それは約束である。約束は今しかすることができない。その台詞が、今としての未来から、あるいは今としての過去から放たれる限りで、それは未来や過去であっても約束である。

 扉の内側で鈴芽が過去の鈴芽  常世はすべての時間が集まる場所なのだから、本当は過去とか未来とかいう言葉を使うのはおそらく適切ではないのだが  に母の椅子を手渡す一連のシークエンス。ここに込められた思いはたしかに美しいのだが、最後の最後で、鈴芽は「必ずそうなる、そうなることに決まっている」という風に言ってしまう。これは約束ではなく、予言である。ここには過去・今・未来という切断的かつ連続的な時間の秩序が乱れることに対する恐れが働いており、過去への予言はこの3つの時間に渡る秩序を確定しようとする営みである。私は新海誠が「コントロール」という言葉を使ったことを思い出している。

 

 そして過去の鈴芽はまた、何度も現世と常世を行き帰りし、椅子を継承し、予言をするだろう。生から死、死から生へと繰り返される運動は、一般には輪廻の名で呼ばれている。

 

─ ─ ─ ─ ─ ─

 

 わたしは先に新海誠が反ヒューマニズム的な場所で「揺れている」と書いた。新海誠が「反ヒューマニストである」とは書いていない。

 

 廃遊園地での戸締まりに成功した後、新海は鈴芽に「怖かった〜〜〜〜」と自然に言わせることが出来た(その直後の椅子=草太の笑い声は相変わらず会話として不自然すぎてゾッとさせられたが)。疎外感を抱えた「選ばれし者」は、旅の中で出会う「普通の人」たちの優しさに触れることが出来た(この点では『天気の子』のほうがよほど深刻だったような記憶がある)。おばとの関係を「大いなる力」の発させる言葉ではなく、人間の言葉で織ることが出来た(全ての過程がそうだったわけではないが)。

 

(前略)この感覚や体力や欲望がまだあるうちに、自分たちの全てを絞りきるような作品を作らなければならない。果たして間に合うのかという焦りや、見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安は、今もあります。でもだからといって、今立ち止まって周囲の顔を見渡すわけにはいきません。

 

 

 新海誠には不安がある。見当違いの方向に全速力で走ってしまっているのではないかという不安もあるだろうが、それ以上に、わたしは新海誠が自分自身を不安に思っているのではないかという気がしている。1日目に観終わった後、私は観客の何人かは、背中が重くなったのではないかと思った。要するに「憑かれる」んじゃないかということだが、私見では新海誠は霊界やオカルト的なものに対して興味があるだけで感度がある人間ではないように思われる。だが、感度のない人間が作るものが霊的な力を持たないとは限らないのであり、実際わたしは人生で初めて、2日連続で映画館に同じ映画を観に行ったのだから、なにかおかしなことにはなっている。全く予想もしていなかったことだが、わたしが『すずめの戸締まり』に見出した新海誠の位置について、自分もかなり近いところにいるような気がしているからなのだと思う。

 

 廃墟を美しいと思うことや、自然の非人間的な冷徹さを美しいと思うことへ恐れをいだくことはあるだろう。宮崎駿が恐ろしいのは、(もちろん、美の領域に取り掛かる前の段階では悩むかもしれないし、美以外のことも考えるだろうが)彼が美へ向かう際には迷っていないこと、そしてその結果、美の中に美を超えた「なにか」を見せることができるという点にある。美が恐ろしいものであることは自明であり、「なにか」とは微妙に異なる「力」は、善悪の両方を望み引き裂かれる迷いの隙間から浸潤してくる。実際のところ、新海誠は「周囲の顔を見渡す」ことはできるだろうと思うが、本当は「あなたの顔を見つめる」ことができるか、ではないのだろうか。顔を見渡している最中の人間の耳に彼らの言葉は届かないから。迷いが、本当に芯を捉えた迷いなのか、そこから逃げるために誂えたはりぼての迷いなのか、それを見極めなければならないように思う。これはわたしの話。

 

─ ─ ─ ─ ─ ─

 

 49歳の今の僕にはもう『君の名は。』のような映画は作れない。運命の赤い糸のような物語は、今の自分には当時ほどの強度では作ることが出来ません。同時に、『すずめの戸締まり』のような物語は、今でなければ作ることが出来なかった。『君の名は。』の頃の自分には届かない深度(しんど)に、『すずめの戸締まり』はあると思います。『すずめの戸締まり』は、震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。きっと珍しくも特別でもない。でもそれをオリジナルのアニメーション映画として、メジャーな規模で公開されるエンタメの枠組みで作ったということに、今回の僕たちの仕事の意味があるはずだと考えています。

 

 「深度」という言葉を使っているが、今回の新海誠は、「選ばれし者」と「普通の人」を分割し、「地上の世界」と「地下の世界」を交わらないものとして分割した。これは皇居を映したとか「宗像」の問題より遥かに恐ろしい力をもっているので(なぜなら後者は物語世界内の個別的意味にすぎないからであり、新海誠が観客にふるった力は、物語世界全体を統制する意味であるからだ)、「主人公」が(ゆらぎがあるとはいえ)個々のキャラクターではなく設定である理由になる。タブーとは公然の秘密であるからこそ力を持つのだが、「皇居の地下」に対抗的な力を求めるのは、「公然の秘密」に対して「公然」を廃した「秘密」をぶつけて戦うことになるわけであって、それはどちらにしても「力」の領域である。

 

 「震災文学」などという言葉を自分から使うことも気にかかる。震災の前年に生まれ、もうすぐ中学生になる娘にとっては震災は「教科書の中の出来事」だろうと言えていながら、どうして「震災文学」などという全く教科書にお似合いの字面を選択するのだろう。教科書とはもちろん制度の言葉であり、教科書に書かれた歴史から私達が読み取るのは、私達が過去の物事をどのように覚えようとしているかであり、すなわち過去の物事をどのように忘れようとしているかに他ならないというのに。

 

 たしかに震災文学は数多くある。しかし当然のことだが、それは「震災文学」にとどまるものではない。もしも震災が本当に「大したこと」なのだとしたら、震災以降作られた全ての文学は震災文学であるはずであり、どのような作品にも震災の痕跡があるはずである。わざわざ「震災文学」などという名前を作り出した時点で、私達は忘れるための方法に手を付け始めたのだ。それは震災、という名前をつけることさえまだ早い「なにか」を封じるための呪言であり、もちろんその反応自体が一概に否定されるべきものではないにしても(『新海誠本』にはちゃんとフロイトの話が出ている)、「震災文学」、その言葉が何のひっかかりもなく自然に口の端から溢れるのだとしたら、わたしはもうその先から「大したこと」という響きを聞き取ることはないだろう。

 

 わたしたちが精神だけではなく肉体を伴って生まれてくる意味の一つは、わたしたちが生まれながらにして地震計であるということである。全く正当な理念によって整備されたであろう緊急地震速報のシステムがうんだ副作用の一つは、わたしたちが自分自身のことを忘れやすくなったことだ。情報として伝えられるために生み出された「震度」によってわたしたちが揺れを考えるようになったなら、わたしたちはどんどんわたしたちを忘れていくだろう。考えるとは、今まさに揺れがわたしのどこにどのようにあるのかということであり、その今は今としての過去でもあり、今としての未来でもある。その揺れを精密に捉えようとする限りで、わたしは「深度」ではなく「震度」を採用する。わたしたちは地上の活断層であり、今もきしみ続けている。毎日のように昨日のわたしたちが死者として生者のわたしたちに堆積する。ウェゲナーの大陸移動説が、離れた大陸同士に連続性を見出したことに比せば、わたしたちは地下に潜らずとも、すでに地上において、活断層として、引き裂かれた連続性、通じ合うはずの回路をもっていたのではなかっただろうか。

俺(たち)には「アンパンマンのマーチ」がある

 という結論になったので、以下説明していく。
 

 俺はアンパンマンについて人並みにしか知らないので、ストーリーや設定に絡めて何かを言ったりするのは無理だし他にいくらでも適任がいるだろう。なので俺は遠い未来(そう、1万年後くらい)の人間が初めて「アンパンマンのマーチ」を聴いた時のように書きたいと思っている。

 俺は音楽評論というものを自分の書ける文章から一番遠いものであるように感じている。基本音楽聴くときも歌詞は無視しているか聴き取れない。余程気に入った曲は歌詞を確認しに行ったりするけど、すぐ忘れる。それに覚えていたとしても、音楽は鳴っている音の構造だけであまりにも自立していて、しかも意味とは別の回路を通って俺に伝わってくる。そこへプラスして意味である歌詞を同時に処理するのというのは俺にはどうしても上手くできない。俺にとっては、音と歌詞の間には意味の境界があって、歌はその境界の上でゆらゆら揺れている。ここには突っ込んで考えられるだろういくつかの問題が存在するが(例えば、言葉から意味を剥ぎ取っていけば、言葉は音楽に近づくだろうか? それだけでは十分ではないのではないか? リズムと意味、音高と意味、抑揚と意味はどう関係しているのか? とか)、今は無視するし、俺は今回歌詞に全ベットしていくのでそこんところご承知おき願いたい。

 

 ☆

 「アンパンマンのマーチ」は冒頭から飛ばしてくる。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえ胸の傷がいたんでも

 
 冒頭の「そうだ」によって、聴き手は何らかの時間が凝縮されてここにあるのを知る。J-Popの基本構造が「(サビ→)Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→Cメロ→サビ」であるため、冒頭でサビが置かれる場合、歌詞世界の時間が先取りされるということがありうる。この操作は意味だけでなく時間というものを異化して提示することになる。「アンパンマンのマーチ」冒頭においてこの時間という要素は「そうだ」という言葉によって更に強められている。「そうだ」とは気づきの声であり、気づきは過去に提示されているか、気づきによって逆向きに構成されるかを問わず、自らのうちに「問い」を含んでいる。

 
 ではどんな「問い」だったのか? 次の歌詞を見てみよう。

なんのために生まれて

なにをして生きるのか

答えられないなんて

そんなのはいやだ!


 どこまで速いんだ「アンパンマンのマーチ」は。「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。孔子は「五十にして天命を知る」言うとるぞ。焦るな。と言いたくなるが、いちばん大事なのは「答えられないなんて」だ。二つの問いはどちらも目的論に属するものだが、ここで「生まれてきた理由」とか「生きる理由」とかいう風に、目的を実体化して取り扱うのではなく問いの形になっているのがいい。別にそういう理由は存在しなくてもいいのだ。「いや」なのは「理由が存在しない」ことではなく、「答えられない」ことなのだから。

 
 ところで、これらの問いは誰から発せられたのだろう。そして答えようとしているのは誰なのだろう。これが今回の記事で言いたいことのほぼ全てなのでちょっと覚えておいてほしい。

 
 (今回はアンパンマンのストーリーや設定に立ち入らないつもりなので補足という形になるが、「歌詞の主体」という観点から考えると「たとえ胸の傷がいたんでも」も興味深い。歌詞の主体が「アンパンマン」だとすると、少し不思議なことがある。視聴者が目にするところでは、アンパンマンが傷つく象徴的な場所はいつも「胸」ではなく「顔」だからだ。)

今を生きることで

熱いこころ燃える

だから君はいくんだ

ほほえんで

 
 本当に速すぎる。「アンパンマンのマーチ」は音速を超えているので、俺たちには十分聴き取れないまま、それは空の彼方へブッ飛んで行ってしまう。

 
 ここで「今」という言葉が出てきた。冒頭の「そうだ」における、「問い」と「答え」の間に広がっている時間の凝縮と、「答え」としての「今」は、どちらも瞬間として重なり合っている。過去だけでなく未来の時間をも凝縮する「そうだ」は、過去でも未来でもある「今」を瞬間のうちに形作り、そして爆発する。あたかも星のように。「燃える熱いこころ」とは時間の爆発がもたらす輝きなのだ。

 
 そして初めて出てきた代名詞「君」のすぐ前にある「だから」の密度。誰かがどこかへ「行く」ことはわかるが、どうして「ほほえんで」いくことにつながるのだろうか。この問いに答えを出すのはまだまだ早い。

 
 そして冒頭サビの歌詞が繰り返され、その次はこうくる。

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため


 「そうだ うれしいんだ 生きるよろこび」。生まれてしまうこと、そして生きていくことは「胸の傷のいたみ」を伴うが、それでも「生きるよろこび」の存在が肯定されている(「たとえ〜でも」)。この答えを用意した問いはおそらくこの歌詞に直接的には現れていなかったものだ。それは「どうして生きるのか」という問いである。「なにをして生きるのか」は暗黙のうちに「生きることを選ぶこと」を前提としているのだが、その隙間を答えだけで埋めてくる。スタイリッシュすぎるだろうが「アンパンマンのマーチ」はよお。

 上の引用部分は二つ目の問い「なんのために生まれて なにをして生きるのか」への回答に読めるが、ここで現れる「君」と「みんな」をどう考えればいいだろうか。ここで「君」が基本的に「アンパンマン」であることが分かるが、「みんな」は一体誰で、どこから来たのだろうか。冒頭から「君」と呼びかけ、命令形の動詞を発する者は誰だろう。そして「夢」とはなんだろうか。


 多くが置き去りにされ、「アンパンマンのマーチ」は光速に近づいていく。

なにが君のしあわせ

なにをしてよろこぶ

わからないままおわる

そんなのはいやだ!


 「生きるよろこび」は見つかった。では具体的には「しあわせ」「よろこび」とは何なのだろうか。それも「君」=アンパンマンにおいて。今の所アンパンマンは「いく」だけを持っている。

 ここでは「答えられない」ことではなく「わからないままおわる」ことが拒絶されているという差異にも注目しなければならない。1番の問いに対して答えることへの欲求は切迫しており、そこでは問われた瞬間の態度が問題になっているのだが、2番の問いには答えを出すまでの時間的な余裕がある代わりに、リミットとして(である)おわり=死が設定されている。1番では自分が出さなければならない答えへの理解の内実はあまり問われていなかったように見えるが、2番ではそうはいかない(「分からな」ければならない)。行為の価値から真理の価値へ、「君」=アンパンマンは飛んでいく。

忘れないで夢を

こぼさないで涙

だから君はとぶんだ どこまでも


 「アンパンマンのマーチ」の歌詞は難解だがここも難しい。「忘れないで」「こぼさないで」とお願い(命令?)している主体とその相手がまず判然としない。「だから」が続くのが余計に事態をややこしくしている。「君」=アンパンマンが「みんな」へ願い、その願いを叶えるために「君」=アンパンマンは飛ぶのだろうという解釈が穏当なところだろうが(アンパンマンは「みんな」の夢をまもるために「いけ!」と命じられているのだから)、呼びかける者/呼びかけられる者の関係が錯綜していることは間違いないだろう。

 
 とにかく「君」=アンパンマンは飛ばなければならないのだが、「どこまでも」が「おわる」の後に出てくるのがすごい。ハイデガーヴィトゲンシュタインらが言う通り、死は厳然としてありながら、語り得ぬものであり、(経験)不可能なものですらある。分かろうが分からないままだろうがいつか生は「おわる」のだが、みんなの夢をまもり、涙をこぼさないでいいようにすることを生の幸福、歓喜として把握したことにより(「だから」!)、「君」=アンパンマンはあらゆる「おわり」なしに飛んで「いく」。ここでアンパンマンの「いく」理由(「みんなの夢 まもるため」)に加えて、「どこへ行くのか」が解決されたことになる。その場所に限りはない。飛行が終わることなどない。

そうだ おそれないで

みんなのために

愛と勇気だけが ともだちさ


 ここでの「そうだ」は気づきの声というよりも「おそれないで」を肯定する声に聴こえる。「みんなのために」、おそれてはいけないのだ(「みんな」って誰なんだ? とそろそろみんな思い始めるだろう)。

 その次の行はおそらく「アンパンマンのマーチ」の歌詞について人が語る時最も注目される部分だろう。なぜ「だけ」なのか。この問いも後回しにする。サビの後段が繰り返されるが、もしかして「君」=アンパンマンが「ほほえんで」行くのは「やさしい」からだろうか。それはほとんど問題の先送りに過ぎない。問題は「だから」にある。

時ははやくすぎる

光る星は消える

だから君はいくんだ ほほえんで


 「君」=アンパンマンは「時間の時間」について知っている。「もえる心」=「光る星」が「消える」=「おわる」ことを知っている。ここでの「だから」は1番の「だから」よりも手を掛けられる部分が多い感じがする。「君」=アンパンマンは、「胸の傷がいたんでも」「生きるよろこび」の存在を肯定し、「みんなのために」「おそれない」自身を肯定した。「君」=アンパンマンの肯定は、「分からないまま」だろうが分かろうが「おわる」幸福と歓喜に満ちた「光る星」の肯定のうちに無限の揚力を得ることへとつながっていく。ゆえに「だから」。ほほえみとはこの歓喜を知った星と時間の輝きのことであり、その証であり、同時に無限の飛行の条件なのだ。

そうだ うれしいんだ

生きるよろこび

たとえどんな敵があいてでも

あ あ アンパンマン やさしい君は

いけ!みんなの夢まもるため 

 

 「アンパンマンのマーチ」の歌詞の中で最も異物感を放っている言葉がこの「敵」だ。2番の「ともだち」を踏まえると、俺はどうしてもカール・シュミットを想起してしまう。シュミットは『政治的なものの概念』で、政治的なものが国家で、国家が政治的なもので説明される悪循環を打破するために、道徳的なもの、美的なもの、経済的なものとは異なる基準で「政治的なもの」を定義しようとした。そして提示されるのが「友と敵の設定」だ。シュミットは敵の性質について色々言っているが(『政治的なものの概念』ではまだ曖昧だったが、後年の『パルチザンの理論』になると「正しい敵」として「在来的な敵」、「現実の敵」が、それとは異なる次元の敵概念として「絶対的な敵」が提示される)、そのあたりは今別にいい。問題は「敵」という言葉が現れたことによって、「みんな」をどう解釈するかという点にヒントが与えられたということだ。「君」=アンパンマンと「みんな」の「敵」としてなにかが現れるとすると、「君」=アンパンマンと「みんな」は友として規定される、ということになるのだろうか。アンパンマンはみんなの夢を脅かす敵のために戦う軍隊なのだろうか。ここでの敵とは政治的な次元のものなのだろうか。

 もちろんそうではない(補足として言えば、だいたいアンパンマンがいるのはジャムおじさんパン工場である。シュミットの友敵理論で言うところの「敵」とは「私敵」ではなく「公敵」であり、それは国家に代表される政治的統一体の主権者によって決断され設定されるものだ。パン工場はどう見ても議会ではないし、宮廷でもない)。どうしてここに引いてくるには無理があるように見えるシュミットを持ってきたのかといえば、それがシュミットの「友敵」とどう違うのかという梃子として、歌詞の内容に迫るための助けになるからだ。アンパンマンの「ともだち」は「愛と勇気”だけ”」であり、「みんな」は含まれていない。シュミットの友敵判断においては具体的な敵の量(そして反射的に友の量)が重要であるが(友敵対立の極限としての戦争を考慮しなければならないため)、「たとえどんな敵があいてでも」と、ここでの敵は具体的ではない仮定のうちにとどまっているし、アンパンマンの「ひとり」とは量的な「一人」でもあるが質的な「独り」でもある。シュミットの政治的なものにおける友敵の判断には、他の質的な概念は原則としては入ってこないので(もちろん現実には道徳的なものや経済的なもの、美的なものにさえ侵食されるわけだが)、孤独とかマジどうでもいいわけだが、しかし、どうしてこの歌詞で「敵」のようなゴツゴツした、おどろおどろしい言葉が使われたのだろうという問いはまだ解決されていない。


 ようやく俺たちは「アンパンマンのマーチ」に追いついてきた。多分文字通り追いつかなきゃいけないんだが……置き去りにしてきた問題を解決しよう。歌詞に登場する存在者たち(呼びかける者/呼びかけられる者、「みんな」と「君」=アンパンマンの関係)の問題、「敵」の問題、「夢」の問題、そして「だけ」の問題。

 「ともだち」として具体者が存在しないことは、アンパンマンが「君」として、二人称単数で呼びかけられていたことと呼応しているように見える。声を掛けるものと掛けられる者は「ともだち」の関係ではない。では声を掛けるものとは「みんな」だったのだろうか。みんなからの一方的な声援を受け、孤独のうちにアンパンマンは「みんな」のために「ほほえんで」飛ぶのだろうか。多分そうではない。(補足で示唆したが)この歌詞の主体は基本的にアンパンマンであり、「君」とは自分自身への呼びかけだと考えられる。この歌詞に頻出する「だから」のつながりを自然に理解するにはそう読むしかない。だがそれだけでは十分ではないのだ。「忘れないで夢を」の「夢」は「みんなの夢」とつながるから「みんな」への呼びかけである。どうして「愛と勇気だけがともだち」であるアンパンマンが「ともだち」ではない「みんな」へと呼びかけたのか。超人的な人格の持ち主だからなのだろうか。そうではない。結論を言えば、「アンパンマン」とは「君」であり、同時に「みんな」なのだ。そこにはきっと俺もいる。

 (「アンパンマンのマーチ」しか知らない人間として書くという縛りを外して言えば、この結論は「アンパンマンたいそう」を知っていればすぐに出せる。その歌詞には「アンパンマンは君さ」と直球で答えがあるわけだから。なんだこの迂遠な記事はよお……それはともかく、アンパンマンの顔がどれだけ交換可能であっても基本的に同一であることは、「アンパンマン」が「みんな」と同一であるという主張を補強してくれる。人がアンパンマンである時、その顔=差異がどうあろうがその「顔」は「アンパンマン」として同一なのだ。と同時に、「顔が交換可能であること」そのものは、元からアンパンマンのような顔でない「みんな」の顔が「アンパンマン」の顔に交換可能であることもまた示している。)

 「アンパンマンのともだちはどうして愛と”勇気”だけなのか」、という問い方自体がおそらく正確ではないのだ。「そうだ おそれないで みんなのために」と言うアンパンマンの、無限の飛行のうちにこの問いは設定されなければならない。これは「おわり」の問題に関連している。自分の死を死ぬことができない「みんな」は、輪をかけて友達の死を死ぬことはできない。そもそもアンパンマンは「君」=自分自身への呼びかけの中で無限の飛行に至る真理を手に入れた。その過程は孤独な営みであり、「みんな」からの声は「いけ!」の一言しかない。「みんな」が冷たいとかそういうことじゃない。「光る星は消える」という真理を前にすれば原理的にそうなるという話だ。
 
 こうしてアンパンマンは「愛と勇気」だけを友とする。愛によって「ともだち」を超える願いが可能となり、勇気によって「いく」「とぶ」が可能になる。敵が「たとえどんな敵があいてでも」と非限定的であったこともまた愛に結びついている。シュミット的な敵との違いは歴然としている。シュミット的な友敵概念で絶対にありえないこと、それは自分自身を敵に設定するという事態だが、この歌詞の上でその可能性は否定されていない。アンパンマン=みんな=俺の敵が自分自身であることは十分あり得ることだ。自らによって夢を忘れること、涙をこぼすこと。そういった敵にもアンパンマンは、愛をもって立ち向かって「いく」ことさえできる。というか歌詞の中でアンパンマンは行為としては「いく」「とぶ」ことしかしていない(ああ、「生きる」ことを忘れちゃいけない)。そこには超人的な技も、強力な武器も、武力行使もない。このことは、アンパンマンの「敵」の捉え方だけでなく敵への向かい合い方までもがアンパンマン=みんな=俺に広く委ねられていることを意味している。敵へと向かっていきながらほほえむことができるのは、愛と勇気の力にほかならない。

 愛の条件の一つは、境界を超えうるか否かだ。「アンパンマンのマーチ」の歌詞における「敵」という異物は、愛が最も試される瞬間、すなわち他者との邂逅を明確に形作るために置かれたのだ。関係性の不明確な「他者」ではなく、明白に自らへ対立する他者としての「敵」が、アンパンマン側から設定されるのではなく歌詞の中に突然に現れる。勇気が「いけ!」と呼びかける。

 

 アンパンマンを歌詞の主体として読むとき、そこで現れている感情の発露「いやだ!」の内容は、「みんな」にとっても根源的なものである。単純な話、「夢」とは「なにをして生きるのか」の答えと言っていい。アンパンマンは歌詞の中で「なんのために生まれて」きたのかから問い、問われ、「なにをして生きるのか」という問いに答えを出した。みんなの夢を守ること。循環めいたものがあるが、不思議でもなんでもない。すべての夢は「アンパンマンになること」という形を必然的に取るのだから。

 (補足:アニメのアンパンマンがどうして新しい顔を得るたびに「X気Y倍!アンパンマン!(Xには「元」とか「勇」とか入る。Yの最頻値は100)」と言うのか。それはアンパンマン自身でさえもがアンパンマンの顔を手に入れることで初めてアンパンマンに「なる」からであり、アンパンマンアンパンマン「である」のではない。そしてアンパンマンに「なる」直前には、ジャムおじさんやバタコさんをはじめとする「みんな」からの「アンパンマン!新しい顔よ!」という呼びかけがある。呼びかけに答えることがアンパンマンに「なる」ことの条件であり、そしておそらくその呼びかけはアンパンマン=みんな=俺の図式として、「君」という形でやってくる。)

 

 夢に向かう夢であるアンパンマンのとりうる動詞がほぼ無限定に開かれていることは、「みんな」がほとんどどのようにもなれることを意味する。ただし二つの義務がある。「いけ!」という自らの声を聴くこと。そして、どこまでも飛ぶこと。

 
 そうすれば、俺はアンパンマンになれる。……そして多分、君もそうなんじゃないかな、と思っている。そしてようやく、俺(たち)はアンパンマンの「胸の傷」がどんな感じなのかを知っていたことを知るだろう。

 


 俺は英雄にはなれないだろう。というか多分ならなくてすむならならないほうがいい。
 英雄の本質は、その顔が交換不可能であることだ。

 シュミットは『政治的なものの概念』でこう書いている……って書きたかったんだけど手元にある本(今は手に入れにくいと思う)では『政治の概念』というタイトルなんで、そこから引く。

 国民が政治の圏域に実存する限り、国民は極限的場合──それが現存するかどうかは国民自身が決定する──に限られるとはいえ、友敵の区別を自ら規定せねばならぬ。ここにこそ国民の政治的実存の本質が存する。国民がもはやこうした区別をする能力なり意思なりを持たない場合には、国民は政治的に実存することをやめる。誰が彼の敵であり、誰と戦ってよいかが他者によって指示される場合には、政治的に自由な国民はもはや存在せず、他の政治体系に編入もしくは従属せしめられる。*1

 

 シュミットは政治的なものの圏域というのをきちんと画定しようとして色々書いていた。政治的なものを国家と同一視しないこと、かといって経済的なものや社会的なものに政治的なものを解消させないこと。その過程で上の文章ができた。これは1932年に出た第2版からの翻訳。個人的にシュミットはちょっと前(多分2,3年前?)くらいから面白いな〜と思っていたんだけど、面白いってことは(多くの場合)危険であることと不可分なんだなというのを再認識させられた。

 

 英雄にはならなくてもいいけど、ヒーローにはなれるものならなったほうがいい気がしている。別に特殊な能力を持ってるとか、異常に身体が強いとか、そういうことはヒーローの必須資格じゃない。ただ、どんな敵が相手でも立ち向かわなきゃいけないというのはある。これはマジで厳しい。自分の方から敵を定めないことがヒーローの条件とはいえ、敵を選べないわけだから大変なことだ……とか色々思っていた結果、アンパンマン(正確には「アンパンマンのマーチ」のアンパンマン)凄すぎるとなったため今回の記事となった。アンパンマンが守らなければならない夢には自分の夢も入っている、ということは、英雄的なものとは違うところにヒーローを立てられる可能性を示しているように思う。

 アンパンマンは、生きることが終わっても飛べること、飛ばなければならないことを教えてくれた。だから俺もなんとか飛ぼうと思う。
 不幸にして今はまだ会えない人。1万年後でも待っとるぞ。

 

 

アンパンマンのマーチ

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*1:「政治の概念」,p.202(カール・シュミット著・長尾龍一他訳『現代思想1 危機の政治理論』所収,ダイヤモンド社,1973年 )

本麒麟の註

 最近気に入っている註があって、まあタイトル通りではあるのだがとりあえず次の画像を見て頂きたい。

 

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(『本麒麟』350ml 6缶パック、2022/1/28、撮影は引用者)

 

 「うまさ、極める。」と影付き文字で大きく出ているが惹句なのでそれは別にいい。そんなことを気にしていたら、サッポロの『GOLD STAR』なんかは同時期に6缶パックで「すべてのうまさを、過去にする。」と力強すぎる惹句を打ち出しており、俺は酒類売り場に足を向けてはGOLD STARのパックに書かれた文言を見るたびに、(すべてのうまさを、過去にしてしまったGOLD STAR。その味を、俺達は「うまさ」という範疇で果たして理解することができるのだろうか……?)などと思っては心の中でのみならず普通に顔面もニヤニヤしていた(キモすぎる)ので収拾がつかなくなってしまう。

 問題は惹句そのもののデカさではなくて、商品と惹句の関係にある。丁度GOLD STARの話を出したので引き続きその例でいくと、「すべてのうまさを、過去にする。」は、素直に「この商品は競合商品に比べて格段にうまいですよ」、というアピールとして読める。広告として実にスタンダードな訴求であり、分かりやすい。他のビール系飲料も大体はそんな感じで、あとは原材料の話とか、糖質やらプリン体やらが0ですよとかが多いと思われる。とにかく商品のガワに書かれていることは中身に関わりがあるのが基本ということだけ覚えてくれればいい。ちなみに俺の記憶ではGOLD STARの6缶パックに註はなかった。

 一方の本麒麟

 本麒麟も註、「※」がなければ、他の商品と似たりよったりの、特筆すべきこともない惹句だったに違いない。だが本麒麟の註は本当にヤバい。

本麒麟が目指すうまさを極めていくという姿勢」

 ※の対象は「うまさ、極める。」という文全体に掛かっているように見えるが、註の対象が語句ではなく文であるのにどうして「姿勢」という体言止めで終わるのか。いや「極める」だけだったら動詞なのでもっとヤバいんだけどそんなのはまだ序の口というかまだ俺の単なる穿ちの範囲である。

 この惹句と註を合わせて解釈するならば、この商品パッケージには「姿勢」が書かれていることになるのだが商品パッケージに姿勢を書くとは一体どういうことなのか? 「うまさが極まっていること」と「うまさを極めていく姿勢」はぜんぜん違う。今俺の目の前にある本麒麟の中身、これのうまさは極まっているのか? 極まり途上であるのか? 全然極まってないのか? 一切が不明であるこの惹句は異様な訴求力を持って俺を誘惑する。

 多分、本麒麟という飲料の中身には姿勢とかない。本麒麟は動物ではないので当然意志とかもないのだから当たり前の話である。そうするとおそらくこの「姿勢」とはキリンの商品開発部が本麒麟の開発にかける姿勢、思い、決意といった類のものを表しているのであろう。となるとこの惹句は、商品の中身と直接の関連を持っていないことになる。前掲のGOLD STARの惹句は原材料の品質アピールや健康志向アピールよりやや曖昧な文言ではあるが、それでも主語にGOLD STARという商品それ自身を代入してもさほどの違和感はない。だが本麒麟でそうしてしまうと、商品が「俺、やる気あります! これからももっともっと……うまさ、極めるんで……口ん中、行かせて下さい!!!!」と言っている感じになり俺は一体何なんだコイツは、という感興を覚え嬉しくなってしまう。

 いつ頃からか自動車やマンションなどの惹句が、商品そのものの特性をアピールすることからブランドイメージをアピールする方向へ傾斜するようになったと記憶しているが、本麒麟の「姿勢」は、ブランドイメージとも異なる。「姿勢」はどちらかというと企業理念とかに近い概念であり、俺達はプルタブを空け、プシュッ、という音の向こう側に、確かな肉体を持った人間たちの熱意、そしてそれによって駆動する、企業という近現代を代表する有機的システム、その交響楽を聴き取ることになる……

 

 ?

 

 商品のパッケージは気づくと変わっていたりする。俺を楽しませてくれた本麒麟の註もいつか消え去ってしまうのかもしれない。いや俺が楽しみまくっていただけで、もしかしたらキリンの方ではこのパッケージに落ち着くまでに紆余曲折あり、愉快でないこともあったのかもしれない。これは霊感なのだが、俺みたいな人間を惹きつけるためにこの文言に決めたという広告戦略の匂いは、このパッケージからはしない。まあ、ただの消費者である俺には分からないことだ。とりあえず本麒麟350ml6缶パックを買った。だからこのブログには本麒麟350ml6缶パックの写真があって、俺はこの記事を書いている。

 

 こういう本麒麟みたいなタイプの面白い註、本文との相互作用で謎の面白みが発生するタイプの註というのは本ではあまり見かけない。註が豊富な本といえば研究書だが、大抵そういう本の面白い註というのは大体著者が狙ってやっているという「姿勢」が伺えるものが多い。研究書(?)だと俺の記憶に残っている最後の相互作用面白註は、ヤニス・クセナキスの『形式化された音楽』で、野々村禎一と冨永星による翻訳である。今手元にない上に読んだのが数年前なので正確な引用ができなくて申し訳ないのだが、訳註が凄かった覚えがあり、ストレートに「意味不明」とか書かれていたと思う。クセナキス自身が本の最後の方で数学補足を書いているのだが、確か訳註で「証明すべき定理を前提にしてしまっている」といった指摘がなされた後に正しい定理の証明の方針が生真面目な文体で記載されていて爆笑した記憶がある。俺はそんなにクセナキスの音楽は好きではないけどクッソ天井の高い狭い暗いスタジオで尋常じゃないチャンネル数のサラウンドで爆音で聴いたら好きになるかもな〜ぐらいに思っていたのだが、この本を読んで逆にクセナキスという作曲家の凄みを感じた。数学はクセナキスを数学ではなく音楽に導いたのだろう。

 小説だとエルンスト・ユンガーの『ガラスの蜂』という小説があって、阿部重夫と谷本愼介が翻訳しているのだが、これも訳註が面白い。この本はまず本文203ページに対して訳註が88ページもあり、小説世界を超えていくようなところがまず面白いのだが手元にあったので次の画像の「*毒針」部分を見て頂きたい。

 

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(エルンスト・ユンガー『ガラスの蜂』田畑書店(2019)、阿部重夫・谷本愼介訳、p266、撮影は引用者)

 

 読んだ当時、小説の註でNHKEテレ香川照之の昆虫すごいぜ!」四時間目クマバチ編を参照していいんだ、という衝撃が物凄かった。ある程度有名な話ではあるから、この「〜を参照」の部分は載せなくても良かっただろうし、載せるにしても昆虫学の本だったり、もっと言えば図鑑とかで良かったのではないか、なにもテレビ番組でなくても……という気持ちになるかもしれない。だがどうしても訳者はそう書きたかったのだろう。そしておそらくその理由の重心は「香川照之」にある。エルンスト・ユンガーと香川照之、活躍した時代もその人生の内実もかけ離れている二人が共有していること、それは、フランス語ができるということよりも昆虫が大好きであるということに帰されるだろう。だがそれだけではないような気がする。生涯に渡って「形態」に注目し、その深奥に地上の生命や技術と天上の星辰、それらが結びついた魔術的な世界を垣間見ていたユンガー。彼は1998年に101歳で亡くなったが、ドイツから遠き現代日本には、無類の昆虫好きであり、肉体という「形態」の物理的秩序と文化的秩序の制約を受けながら深奥を作り変えそれを表出させる職業たる俳優を選んだ香川照之という人間が生きている。訳者はこの二人の間に、時空を超えた存在の共鳴を聴いたのではないか。

 ……とまあここまで色々書いたが、ここで紹介した相互作用の面白さはいずれも本文と書き手が別であることによるところが大きいから、どうも本麒麟的な面白さとはちょっとずれている気がする。それぐらい本麒麟の註は奇跡的なものなのかもしれない。

 

 ☆

 

 最近正宗白鳥の『文壇五十年』(中公文庫版)を読んだのだが、その「序」にこんな一節がある。

 自分の一生を書きつくしたと云う人もあるが、実は、一部分に過ぎないのではあるまいか。私なども過去の思出は、小説として随筆として、或は、回顧録と銘を打ったりして、たびたび書いて来たけれど、それは実際の見聞、自分の生きて来た経験のすべてから見ると、九牛の一毛と云っていい。重な事大事な事だけは書いたつもりであっても、どれが本当に重要な事件であり経験であったか、分ったものじゃない。

正宗白鳥『文壇五十年』中公文庫(2013)、p3) 

 

 自分の人生を語るとき、それは僅かな本文なのだろうか、それとも語り得ない本文の膨大な註釈なのだろうか。あるいは不格好でも一応本の体裁は整うのだろうか。自分を物語ること。

 

 僕は小説家なので毎日物語を作っているわけです、でも小説家だけじゃなくて人というのは日々自分の物語を作り続けるっていうものなんです。意識的にせよ無意識的にせよ、人は自分の過去現在未来を物語化しないことには上手く生きていけないんです。

村上春樹さんが会見で語ったこと|サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB、2022/1/28

 

 村上春樹は「自分の物語」についてこのように言っている。共感するところもないではないが、俺はどちらかというと大岡昇平の言うことに惹かれる。

 

 人生をすべて小説的にしかながめられない人は不幸なのです。その不幸をのがれるには、いい小説を書くほかはありませんが、いい小説が必ず書けるとは限らないから困ります。その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫(2014)、p249)

 

 まったく困ったものである。ところで最後の一行の頭に※を打ち、「※その時真の不幸が訪れますから、注意を要します。」にしてみたら、なんだか可笑しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第4回阿波しらさぎ文学賞落選作と雑記

 特に使い回す可能性もないが他に出すところもないし、かといって仕舞ったままにしておくには個人的に惜しいという温度感のあったタイトル通りの応募作品について、全文を掲載した後、雑記が載ります。

 

『遊弋』伊東黒雲(15枚)

 

 ちょっと出てくるわ―んー海まで散歩―うんあー了解了解ってキラリのママチャリ乗って線路沿いにキコキコ鳴らしてたらすぐJR須磨駅に着いたんだけどもう日は沈みかけてたから砂浜を縫っている赤レンガの舗装がちょっと不気味な質感でというか寒い! 七月中旬だぞまだ気まぐれなのかよ。微風でも半袖の腕にはしりしりくる。押してくかー自転車で潮風をカバーできるしってまあ無理だけどこういうのは気持ちの問題だからって俺は水族園の方に歩き出す。散歩ってしようと思ってするというより身体が玄関の方に引っ張られててそれに気づくとああ俺散歩したいんだってなるんじゃないか。目的がないことを目的にしてる行動というかああでもお使い頼まれちゃったなビールかーマックスバリュは遠回りだなーまあ運動と思えばいっか。あるやつ適当に選んであ、でもまだ俺散歩感感じてるな。買い物感はない。「ついでに」をつけると主目的を乗っ取らずにお願いできるわけだな策士キラリめって水族園が遠い。やー気づいてるんだよ。水族園が遠いんじゃなくて俺が進んでない。海にくると嫌でも明石海峡大橋が目に入る。観念すっかーって俺は踵を返す。そういやカネダ死んだってツイッターで誰か呟いてたなユキノだっだっけか? 三〇過ぎたら知り合いも少しは死ぬだろうなとは思ってたけどこれでオケの同期二人目か。ハヤサカは自殺でカネダは病死。二人ともそんなに仲良くならなかったせいだと思うけどしょうがねえよなそういうこともあるよな色々あるしなくらいで考えが続かなくなるのは年齢のせいって部分も確実にある。留年してた頃は自分の年齢なんか忘れてたのにスゲー色々悩んで考えてた気がする。今とは逆だな。戻りたいかって言われたら別にって感じだけどてかいま親父何歳なんだっけっていよいよ俺は親父のことを考え出し足が重くなる。しょうがないから砂浜に自転車を置いて俺は波打ち際に腰を下ろす。もう死ね親父みたいな勢いはなくなったけどやっぱ帰省は毎年気が重かったのが去年は世のゴタゴタで帰省しなくていい雰囲気になってホッとしたし今年もどうやらそうなりそうでますますホッとしてるはずなんだけどキラリもコースケも割と残念そうでホッの上前歯裏の付け根あたりがもよもよしてくる。いや鳴門だぞド田舎だぞそんな楽しみか?って俺は思うけどキラリもコースケも東京生まれ都会育ちだから目に映る世界が俺とは違うのかもしれない。毎年手渡しで貰ってたすだちは去年から宅配便で送られてきていて今年の分も既に冷蔵庫に入っている。アレをみるとイラッとするのは今も治らないけどキラリとコースケがワイワイしながらざるうどんにすだち絞りまくってるのを見ると顔に出すのは良くないからきゅいって笑顔に持っていく。多分今年もあの橋を渡ることはないんだろう。あー綺麗に光ってんのが余計くるな。奥さんに逃げられた親父はあの橋が完成する前に俺を連れて瀬戸内海を渡ったらしいけど詳しいことは特に聞きたくないで済ませてきたから知らないし当時は三歳だったから記憶もないけど確か大鳴門橋はもうあったはず。親父は鳴門高校近くに小さな庭付きの一軒家を借り俺より育てたいんじゃないかってくらい庭にすだちを繁茂させて無口だった。休みの日にはよく千畳敷の展望台まで俺を連れて行ってぼけーっと淡路島の方を見たりしてて俺は会ったことねーけど母さんのとこ戻りたいならはっきりしろよって思うようになった頃あの明石海峡大橋ができて絶対に親父が逃げ出した東京にダッシュ! ってメラメラ燃えていたけど親父は国立じゃないとダメだとかぬかすのでマジで厳しく行けたのは結局名古屋。でも良かった。都会で鳴門が遠けりゃどこでも良かった。夜行バスでバイバイしてこんなとこには二度と戻らんぞクソボケと思ったあの座席はまー狭くて全てが硬かったけど最高だった。それから爆速で名古屋に飽きて授業も特に興味湧かなくてばんばか留年してチャイ五とかハルサイとかめちゃくちゃ練習した。一番楽しかったのはシェーンベルクの室内交響曲第一番。なんであんなプログラムが通ったんだよ。メインはブラ四だったけど釣り合い取れてるか? ってやってたら当然帰省なんてしないしそもそも俺の生まれは巣鴨のはずで俺は東京に帰るべきなのになんで親父は鳴門にいるんだってどうしようもないことにムカムカしていた気はするけど本当かどうかはもう渦の底。大学四年目まではまだ殺意があったはずだけど留年し始めてからはやけに細かい「哲学」的な問題に凝り始めてそのくせ後から振り返ると思考の記憶が曖昧に溶けていて何やってたんだか完全に分からないという風になっている。あまりに典型的で寒かったなーあの頃はうわー「あの頃は」なんて考えてるよもう老だな三三ってもうそんな感じなのかどうなんだろう大人になるって全く想像も実感もできないままなんだけど俺ヤバイのかな? まあ学部七年も行った奴は普通にヤバいかー七年目でようやく卒業と就職が決まって一応連絡したら親父はおめでとう良く頑張った一度帰ってきて呑まないかとか言ってていや絶対お前とは呑まんがって頭がカッとなったけど今考えるとカッてなりたいなるべきだって感情させてたような気がしなくもないっていうのはいくら留年しても親父が特に俺を叱らないどころか最初に留年した時俺も八年行ったからなとか衝撃の告白までしてきて頭の中がもんじゃみたいになったそりゃなるよずっと無口でいりゃいいのに口を開けば常識を盾にか弱い子供を激詰めしてきやがってお前もレール外れてんじゃねえかよって思ったのは些事でもう意地張んなくて良いんじゃね? っていう考えがあのあたりで生まれた気がするせいでもう長い間親父と俺の一部が結託して俺を負かそうとしてくる卑怯すぎるしでも二対一じゃ勝てないから希望に目を輝かせているフリして追い立てられるように東京で働き始める頃にはもう名古屋で都会への憧れなんか擦り減ってしまっていたからHPMP共に削れた状態で労働にブン回されてノックダウンしてもっと友達を大事にすべきだったなーってすごい思ったんだよなだって都会って結局趣味や気の合う奴が身近にいるから色々楽しめるみたいなことばかりでモノが好きなだけなら通販とかだけで良くて釧路だろうが舞鶴だろうが北九州だろうが一緒だろあー寂しい寂しい寂しい! ってマッチングアプリ始めて出会ったのがキラリでキラリは本当に優秀で俺より年下なのに年収が三倍違った上に二歳のコースケの育児放棄し浮気までした夫をすっぱり切ってガッツリ慰謝料も取って本当にちゃんとしている自分と真逆の俺のどこが良かったのか今でもはっきりとは分からないんだけどキラリに言わせると前の夫と真逆な感じだし一緒にいて息がしやすいらしいけどそんな簡単な感じで良いのか良いよーってことで結婚した。流石に報告しなきゃいかんだろと思って親父のとこ行ったらまあ嬉しそうだしそれはそれはよく喋る。孫に血の繋がりがないとか全然気にしてなさそうな皺の目立ち始めた笑顔でコースケーおじいちゃんと一緒に橋見に行かんかーとか言うしその勢いそのまま俺にまで話しかけてくるから俺は記憶の中の親父みたいにどんどん無口になっていくし普通にこの部屋から出てーと思ったけど庭のすだちが相変わらず元気いっぱいでげんなりするからどうしようもないってタイミングで何で縁もゆかりもない鳴門なんかに引っ越したんだよ親父って聞くべきだった気がするけど今の今まで聞けてない。そういや未だに再婚してないな親父ってロマンチストなのかはともかくロマンとは違う感じで結婚した俺がママチャリのチャイルドシートにコースケを乗せて走ったことは一度もなくて出会った時にコースケはもう小学一年生だったからもう一人で乗れたあのかわいいサイズの自転車とママチャリ連れてキラリの仕事の都合で俺達は神戸に引っ越して俺はのんべんだらりと自宅でWebデザインの受注しているがこう振り返ってみると親父からできるだけ離れてはみたけど結局引き摺り込まれるように鳴門に近づいているんだよなーって電話が「今どこー?」「海きてるよ」「良かったー。ちょっと今手が離せないから駅にコースケ迎えに行ってくれる? そろそろ着くから」「オッケー」ということでジーンズの砂払い落して須磨駅に向かうとコースケはもう北口の外に立ってて英単語帳をぱらぱらめくっている。コースケ、と発音する直前は未だに気道が一瞬細くなる気がする。「お疲れ」「うん」「今日は何やったんだ」「線形代数」「そんな難しいことやってるんだな」「お父さん、母さんから聞いてないの?塾がプログラミングとかAIとか大事っていうから教えてくれるんだよ。まあやってることは行列の足し算引き算みたいな簡単なことばっかだけど」いや知ってるけど改めてヤバすぎるだろまだ小四だぞというか話すたびに思うがコースケしっかりしすぎてて怖いって別にキラリは母さんで俺がお父さんって部分は逆に年齢相応でちょっとかわいいとさえ思うし俺がいきなりコースケお前は確かに最初は「ついでに」だったかもしれないけど今はそんなことないしというか別に今も「ついでに」だったとしてそもそも人生に意味なんかないしでも意味がないからこそ散歩と同じような良さがあるわけだからさお前も俺を軽い「ついでに」だと思って一緒にもっと楽しく仲良くやっていこうよついでに俺を「お」を付けずに呼んでくれよコースケって言い出すの異様すぎるから当然そんなことしないけど俺小四の時ってどんなんだったっけ? 少なくとも勉強はしてなくてヴァイオリン弾いて本読んで寝だった気がするがコースケは俺のヴァイオリンや本を触る上にガンガン勉強するので小四俺の完全上位互換でノックアウトだがママチャリ押してコースケと並んでマックスバリュに向かって歩く三三の俺がぶっ倒れるとコースケが困るしママチャリのライトはちゃんとつけてる。あああコースケ後ろに乗るかーって言ってみようかなでも絶対恥ずかしいだろコースケもってかチャイルドシート使ってなさすぎて汚れまくりだし純粋に嫌だろうなーでもまた三年後くらいには使うことになりそうだしいつかは綺麗にしなくちゃなー何が要るんだろう古雑巾と洗剤とついでにチェーンも綺麗にしたほうが良いよな異音が凄いしってこれはコースケから逃げてるのか? もっと俺から話しかけた方が良いのか? っていっつも思ってるな結局俺もコースケから見たら無口な父親なのかもなー意識して軽い感じで話しかけているつもりではあるんだけど結局俺は親父の息子かー「お父さん、帰らないの? 家から離れてるけど」「ん、ああ、母さんにビール買ってこいって頼まれたんだよ。マックスバリュまで行こうかと思って」「そんな遠くまで行くの? この辺コンビニあるよ」そうなんだよな。家を出た時は気の済むまでぶらぶらしようと思ってたけど今はお前がいるからなコースケお前が正しいよ。ほんとに。「なあ、コースケ。父さんは」「ん?」「いや、何でもないよ」ってセブンイレブンにきた。そしたら思わず手に取ってしまったビールがあってその理由が澄んでさらさらした琥珀色のせいか産地のせいか分からない。メキシコかーメキシコまで行ってたら渦から逃げ切れたんだろうかっていうのは郷愁で実際のところ今はそこまで逃げたいわけじゃないし逃げちゃいけない理由もあるし第一メキシコも俺の玩具じゃない。なあコースケもし弟か妹ができたらお前はもう一生俺を「お」なしで呼べなくなるのかって一旦考え始めてしまうとキツくなってコースケ欲しいものあるかって聞くと「サクレが食べたい」ってメチャ素直に言うので嬉しくて俺とキラリの分も買ってしまう。自然と足が速くなる。「食べていいよ。溶けるだろ」「行儀悪いよ」「それが良いんだよ」「えー」「四時間も塾いて何も食ってないんだろ。おなか減ってんじゃないか?」「んー」あれ、俺今結構喋ってないか? 何も考えてねーぞ。「今アイス食べたらご飯おいしくなくなるよ」「お? 母さんの晩ごはんがアイスに負けるというのかねコースケ―」「そんなんじゃないよ」「じゃあいいじゃん」「でもお父さん両手塞がってるし」「いい、いい。大人はビールを飲んでからアイスを食べるって贅沢があるから」「なんかそれ、ズルい感じがする」「そうだコースケ。大人はズルいぞー」って言ってたらコースケは観念してビニール袋からサクレを取りだした。幸いまだあまり溶けてなかったらしい。「やっぱ行儀悪いよ」「はは」「はい、お父さんの分」って小っちゃいコースケが背伸びして木匙に乗せた甘酸っぱい欠片を差し出してきて俺の知らない俺のどこかで「どう」「旨すぎる」「味、違う?」「違うね」「分かんないなあ」壊血病に罹った忘却たちの船団が難破すべき瞬間を探して「今度友達とやりなよ。メッチャ楽しいからさ」「買い食いなんて先生に怒られるよ」ある小舟が橋脚に接触して砕けた船体から零れ落ちるそれたちは例えば「バレないさ」「バレるバレないとかじゃないよ」(小四の時近所に生えてたすだちを他人んちのものとは思わずにどっさり取ってその家の人から親父がメタクソに怒られて)「先生に叱られたことないのか」「そりゃそうだよ。怒られるようなことしてないし」(親父がすだちを庭に植え始めたのはそのあたりからだった気もする)として裂け水中花火みたいにきらめいた後海峡に眠り落ちていって交差するように浮上する「コースケは真面目だなあ。疲れたりしないのか」「お父さんほど真面目じゃないよ」俺が取り下げた質問に対して思いがけずコースケが口にした答えを何度も聴き取り反芻しながら家に着くと「おかえりー」「ただいま」「ただいまー。ほい、これビール」「あ、コロナじゃん」「コンビニに売ってるの珍しくてさ。あとアイスも買ってきた。コースケはさっき食べた」「えー、家で一緒に食べれば良かったじゃん」あーやっちゃったと思ってコースケの方見ると何故かニヤついてやがる「コースケ、お母さんの分いるー?」「いい、ごはんでおなかいっぱいになるし」「そう?欲しくなったら分けたげる。あ、ライムないじゃん」「確かすだちあっただろ。あれでいいよ」「えー、合うかなあ」「まあ物は試しよ」と俺はタッパーの中から一粒摘んでパパッと切って絞っては瓶の中に詰めてたら三切れで限界がきてどれどれーって青苦あああっっっ!!! やっぱコロナビールにはライムだよライム。

(了)

 

雑記

 今回の公募結果については、何らかのアナウンスが出るまで珍しくじりじりと緊張していた。普段は公募の結果が出る時期など忘れてしまうのだが、これは割合自信作だったからなのだろう、と最初は思っていたが、どうもそうではなく(毎回自分史上最も良い出来と言いたいものだ)、単純に〆切から発表までの期間が短かったがために発表期日を意識してしまった、というのがより真相に近い感じはする。あと最近個人的に設定している、あるいは正式に抱えている〆切がまだ先なため、ダラダラしていたのが効いた。これは一般論ではなく個人的な話なのだが、シャキッとしていないと心身が淀んでくる。落選を知った後、(大したものではないが)筋トレの負荷を上げた。

 

 唐突に新人賞をどういう機能として見るかという話をするが、基本的に新人賞は(小説に絞って話をするが別に何でも良い)小説家として一般的に認知されていない人間の文章の中から比較的優れた小説を選別する機能を持つと考えることができる。ここで大事なのはその文章が確かに中立的立場の人間によって小説として認識されているということで、早い話、新人賞は「小説とは何か/何でないか」という問いについてある程度中立性をもった実験として捉えることができる。

 既に小説家として一般的に認知されている人間の出した文章は、何かジャンルを指定するような惹句でもなければ(あるいは逆にあることによって。例:「これは小説なのか!?」は大抵の場合、惹句の対象がメタ小説的機能を持った小説であると主張している)、内容を確認される以前に小説としてある程度先入見が発生してしまう。そしてそれが覆ることはまずない。

 ところが新人賞の場合、「文章になっていない」「これは小説というより現代詩」など、必ずしも文章が読者にきちんと小説として認識されるわけではないと考えられる。新人賞というシステムこそまだ小説家として認知されていない人間にのみ利用可能な実験装置であると言える。ただこの実験装置は、n次選考を通過したり受賞したりした場合には上記の意味を解釈として適用することが出来るが、1次選考で落ちている場合や結果が公表されるラインに到達できていなかった場合には、全作品に講評がつくような特殊な例外を除けば、その結果の意味を解釈することができない。

 

 今回私は「上の空」で行動している人間が意識と無意識の間で行っている思考とも思考でないとも言えないものを言語化しようと試みた。これには数年前に池澤夏樹個人編集=世界文学全集所収『アブサロム・アブサロム!』を最初の十数ページ読んで挫折した(そして今に至るまでフォークナーを読めていない)という経験、そしてその後にヴァージニア・ウルフの『波』は読めたのにこの差は何であろうか?というのがおそらくどこかで燻っていたのだと推測される。

 まず敵は改行であった。改行は意識的な行為であり、主に意味の大まかなまとまりを形成しかつ切断する。今回の場合主人公は明確な輪郭を持った考え事をしているわけではないため、改行を使うだけで不自然になる。そのため改行は使えなかった(余談になるが、改行をほとんど用いない小説となると横光利一の『機械』が当然のように思い浮かぶが、私は創作に入る近い時間に摂取したものにすぐ影響される性質なので執筆前に当該作品を読むのを避けた)。

 次に句点をできるだけ避ける必要があった。句点も同じように意識的な行為である。段落よりも微小な区切りであり、私にもっと実力があれば句点は最後の一つだけになるまで圧縮するべきだったと思われるがその実力はなかった。そのために接続詞や読点の数を操作し、出来るだけ一文を長くし、一文中における、類似による併置に限定されない意味の密度を出来るだけ上げる必要があった。

 読み返して分かったことだが、「けれども」や「だが」といった逆接はかなり主観的な強度が強いものであり(おそらく接続詞の手前に対する操作的な意味合いが含まれるところが順接よりも強度が強い理由である)、主体的に思考の流れをコントロールしきれていないという状況を表現するにはあまり適切ではないということが分かった。これはもっとよく考えるべきだったポイントだったと今にして思う。この主人公の場合「けど」は流れるように処理されているのだが、物質的な表れとしてこの小説の文字の流れを見た場合、この主人公がどういった位相でこの「思考」を行っているのかが不明確になるように感じた。

 
 この小説を書いていく中で気づいた非文化、というか文の骨組みを完結させず破壊するという方向性は今後も有効な使い道を探るに値する技術のように感じている。

 
 改行がなく一文も長い文章を普通の人間は読むことに耐えられないため、文章の速度を上げる必要があった。対策の一つとして、小説の意味内容としての物語を、意味を受容するためのコストが低い凡庸で分かりやすいものにすることにしたが、これが正しい選択だったかは分からない。自分の実力に不安があったというのが第一だが、形式的にかなり壊れているのにさらに内容も壊すとなると単なる異常な文章の羅列にしか見られないという事態を恐れたというのが正直なところである。だがこの決断は明らかに守備的であり、もっと適切な舞台を設定すればこの形式が活きたような気はしないでもない。

 

 作中、会話の途中に主人公の思考のようなものが混ざるのは主人公と息子がアイスを分けあうシーンのみだが(会話しながら別の行為を行うことはできるが、会話しながら全く別のことを純粋に思考することは恐らく出来ない)、ここでは主人公には全く意識できない無意識の領域を書くことを試みた。無意識が言語のように構造化されているのかは知らないが、ここで私が取り出したのは記憶と思考を曖昧に取り纏めたイメージであり、現代詩をやろうとしたわけではないのだが読み返してみてもここはやはり浮いていると言わざるを得ない。端的に実力不足というものであろう。

 

 この節は雑記であるため、まとめは特に存在しない。

 

『サイダーのように言葉が湧き上がる』メモ 書くこと・話すこと・伝えることの場所

 なぜチェリーは予定日の一カ月も前から引っ越しの準備を始めるのか。

 それはチェリーにとってこの街がうるさいからだ。

 

何がメディアにそうさせるか

 『サイダーのように言葉が湧き上がる』の中では複数のメディアが絡み合っている。メディアはコミュニケーションの技術であり、記憶する媒体であり、またそれ自身伝達されるべき意味を持つメタ・メディアでもある。書くこと・話すこと・伝えることは何らかの物質的な基盤を必要とする。ケータイ、筆ペン、短冊、レコード、そして声帯。

 

 高校生のチェリーは特に何かを聴くこともなくヘッドフォンをつけている。音を遮断することは一つのコミュニケーションを遮断することであるが、彼自身は話す。同様に、スマイルもかつてはチャームポイントであった出っ歯にコンプレックスを抱き、マスクをしているが、視覚的なコンプレックスでありながら彼女もまた配信をしている(キュリオシティのデザインはテキストベースはツイッター、ライブはインスタグラムに依拠しているがこれは20代の筆者にとってはかなり適切な若年層のSNS環境の表現になっていると感じられる。ツイッターは確かにもう古びているのだが、テキストベースのSNSで若年層に人気のSNSというのはツイッター以降聞いたことがない)。

 

 ラテンアメリカ系で日本語は話せるが書くのは不得手というビーバーによる、ちょっと現実的には不可能ではないかというタギングがなされたチェリーの住む集合住宅は静かである。父親が帰宅し、金属製の扉を閉めるときに響く質量と静寂は、スマイル三姉妹の住む、まるであのショッピングモール(そう、ショッピングモールには全てがある)のように過剰な一軒家の軽さと無秩序とは対称的だ。母親のぎっくり腰により、デイサービスのバイトのピンチヒッターとなっているチェリーは、淡々と、父親の話に相槌を打ち、淡々と引っ越し準備を進める。母親は息子の俳句を「いいね」しまくり、「どうせわたしにぐらいしか読まれてないんでしょー」といったことを特に悪気もなく言う。室内にテントを擁する一軒家では、凄まじい単位の視聴者を抱えたスマイルが逡巡の末マスクをし、ショッピングモールで「かわいい」を配信する(マスクの時代になってから、私は笑顔に関する情報を明らかに視覚よりも聴覚によって得ようとするようになっているが、みなさんはどうだろうか)。チェリーの家の雰囲気にはまだイエ的な父親と母親の役割を匂わせるところがあるが、「I♡ODA」(だったっけ?)などと書かれたTシャツを父親が着るスマイル一家にはあまりその匂いはない。

 

 この対称性と類似性を抱える二人を初めてつないだのがケータイというメディアであった。『コマンド―』ばりのショッピングモールド派手アクションをビーバーが繰り広げた結果、チェリーとスマイルのケータイが入れ替わってしまう。スマイルにとってケータイは「ないと死ぬ」ものであり、チェリーにとっては「別にどこにいても一緒」であることを担保する装置としてある(父親から貰った歳時記はケータイのカバーに取りつけられている)。ここで話は急に結末へ飛んでしまうのだが、最後まで特にチェリーの俳句がバズることはなく、小田山だるままつりの最後、大量の視聴者を抱えた配信中のスマホをスマイルが取り落とし、ほとんどの客が花火を見る中、チェリーによる「配信」のたった一人の視聴者となるシーンは、ベタなのかもしれないが感動した。単にSNSを称揚するのでもクサすのでもない(スマイルの配信がなければチェリーはショッピングモールに現れえなかったのだから)、良いSNSの使い方だったと思う。

 

 人前で話すとあがってしまい言葉につまってしまうチェリーはなぜ櫓の上でマイクを握り締め、しまいには俳句としての体裁を崩壊させるようなところまで絶叫しえたのか。ビーバーの良き誤読の一つである「俳句」と「ライム」の取り違えが櫓への運命を用意していることは確かだが、まずもってフジヤマさんという最高の老人の存在が大きい。

 

 フジヤマさんは、ほとんどの登場人物が渾名や名前で呼ばれる中、苗字で現れる数少ない人物である。苗字とは歴史であり、後述するが、フジヤマさんは作中での「垂直的なもの」を体現している。

 

 作中屈指のシークエンスである、デイサービスでのショッピングモール行脚と俳句発表会は、フジヤマさんが何者であるかを雄弁に物語る。「俳句は文字の芸術なんだから別に声に出して読まなくても」というチェリーに対し、「声に出すことで伝わることもあるのではないか」という講師の仄めかしは物語全体の大きな推進力としてある(もしチェリーが一切口に出すこともせずにただキュリオシティに俳句を書くだけであったなら、日本語の文字に弱いビーバーが日本語の勉強と称してチェリーの俳句をタギングすることはなかっただろう)。水平に移動する客たちをバックに講評が続き、絞り出すようにチェリーは自分の俳句を声に出す。そしてフジヤマさんは、講師がその名を呼ぶ前に絶叫する。

 

 この時点で、フジヤマさんが単に耳が遠かったり、なまじボケているのでは?というだけの人間でないことが分かってくる。他のデイサービスの面々が作った俳句が観察と抒情による静的なものだとすれば、フジヤマさんの俳句は動的であり、そこには志向性がある。実際この時はチェリーと講師の関係を誤解した三姉妹を指さしており、最後の最後でもその俳句は明らかにチェリーを狙い撃ちするものであった(スムースなマイクの受け渡し!)。また後述するつもりのことを先取りしてしまうが(構成がヘタクソで悲しい)、フジヤマさんの声は水平に沁み渡るように伝播するものではない。垂直に屹立している。序盤からしばしばフジヤマさんが発する唸り声、あれはボケでも耳が遠いのでもなく、チェリーが「これなら言葉にできる気がする」と言うところの形式である俳句、その俳句にまだ分化していく前の、原初的な声ではないだろうか。チェリーが俳句を作る過程で唸り声を発しないのは普通といえば普通だが、面白い。例外は初めてスマイルと並んで歩いている時、スマイルに無茶ぶりをされた時ぐらいだ。おそらくSNSという言語の水平な伝播を中心とするメディアへの書き込みという形で俳句制作を規定されていたチェリーには、垂直的な孤立した声というのは似合わないのだ。祭りの場所でようやくチェリーは、フジヤマさんのような、垂直的な声で叫ぶのである。青春の志向性を伴って。

 

 そのフジヤマさんが探し続けていたのがレコードである。声という生きたメディアを半永久的にするものがレコードであるが、ここではビーバーとジャパン(このあだ名はジャパンの趣味を考えるとビーバーが付けたのではないかと思われる)の、アニメキャラの全身が印刷されたボードを巡るやりとりがよく活きていたと言うにとどめたい。ド迫力アクションの結果首がちぎれたボードに対し、「からだもあるし」「そういうことじゃないんだよ!」というやりとりは、全体性として初めて現れるものがその全体性を毀損されるということは取り返しのつかないことであることを示唆していたが、レコードもまさにそういったメディアである。

 長回しで描かれるスマイルの、レコードを修復しようとする絶望的な試みは見ていて苦しい。世代的に、レコードを元通りの形にすれば元通りの音が鳴る、と、もしかしたらスマイルが思っているのではないかとまで想起させられるが、それは叶わないことだ。

 遅くまで作業した結果長寝したスマイルのもとに、姉のジュリが飲み物を持ってくる。ジュリ&マリは、父親の前歯の遺伝を受け継いでいない。ショッピングモールでスマイルが出っ歯に関する回想を終えた後も、ジュリは「思春期だねえ」という悪気のない大変軽い返しをするのみだ(チェリーの母親の発言同様、これらには相手を慮る優しさがあるのだが)。では姉妹の中で唯一そうであるスマイルの出っ歯は、全体性の毀損、欠落なのだろうか。そうではないだろう。チェリーの告白にマスクを脱いだスマイルは、チャームポイントとしての出っ歯という過去を単に復古したのではない。姉妹の中での垂直性と、チェリーの垂直性が呼応し合ったことで、スマイルの中で出っ歯は新しい場所で肯定的に受け入れられるのだ。

 

 チェリーとスマイルは、メディアを使い、メディアに動かされながらも、最後にはヘッドフォンを外し、マスクを外した身体-身体という場所に立った。前にも述べたようにそれはメディアの否定ではない。過去から現在までをつなぐメディアの交錯こそが二人をここに連れて来たのだから。メディアを駆動するものは、あのフジヤマさんの「唸り声」のような、メディアに書きこむことのできる記号にまだなっていない力なのだ。

 

俳句監修が黒瀬珂瀾という、私の拙い知識では俳人というよりは歌人として活動している人物であったことが、俳句愛好者にとってどのような印象を受けることになるのかは(門外漢の私にはよく分からないが)気になる点ではあったが、総じてとても良い映画だと思ったし、ボロボロ泣いた。

 

 以上が全体を通したメモ書きと言ってもいいものである。

 

ショッピングモールの水平と垂直

 最後にショッピングモールの話をしたい。

 ショッピングモールとは世界の限界である。この映画は極めて限定的な場所しか登場しないため、街の全貌はショッピングモールを中心としたズームアウトでしか窺うことが出来ない。ショッピングモールには全てがあり、その「全て」を疑った時、限界は踏み破られ、未到の外部が現れる。チェリーはそこを目指している。

 中央部を吹き抜けとするショッピングモール、そこにハードオフ(地方出身者の私にとって中古ショップと言えばハードオフ・オフハウスであり、しばしばブックオフが同じ店舗内に併設されていた)があること、これだけで私は世界の限界だったショッピングモールないし大型スーパーを思い出す。

 この不思議な町(Curio-City)でその異様にヴィヴィッドな外観は、街全体に対して水平に放射されている。フジヤマさんの声、人ごみとならんで、ショッピングモールのこの色彩が、チェリーにとってのうるささを構成していることは想像に難くない。前節でも何度か言及したが、この垂直と水平のヴィジョンが、物語の中でショッピングモールという場所に統合されているように思えてならない。

 

 このショッピングモールはかつてレコードプレス機の工場であった。苗字について先に述べたように、歴史とは垂直性である。だからレコードの記憶の上に立ったショッピングモールの中からフジヤマさんの探していたレコードは発見されるし、ショッピングモールの屋上には子供たちの秘密基地が存在するのである。モール内ではパネルが作られ、ショッピングモールの歴史が秩序立って現れるのだが、我らインターネット時代の子たちが集うモールの上では、法的に大丈夫なのか不明な手段によって集められた、歴史的文脈も全く関係のない事物が並んでいる。

 

 テントのあるショッピングモールの秘密基地と、マリのテントがある三姉妹の部屋。世界であるショッピングモールの内部でインターネット時代の少年少女たちが交錯する。水平運動の層化によって構成されるショッピングモールで、配信をするスマイルと、デイケアサービスでのアルバイトに従事するチェリー。二人を出会わせるのは、スペイン語を主とする親を持つ、ショッピングモールの持つ垂直性の外部からやってきた撹乱者・ビーバーの三次元的なアクションである。

 (この表現には微妙な問題がある。ラテンアメリカ系の日本への移民は、特にブラジル系(ブラジルは南米大陸唯一のポルトガル語圏なので単純にラテンアメリカ系というには注意を要するが)を主として名古屋や関東などの大都市工業地帯だけでなく、島根県など地方においてもこのところ増加している。かつて日本から少なくない数の移民がラテンアメリカを目指し、今ではその日系の子孫が日本に移民することもあるという状況となっているわけで、単に移民=外部と言うことには慎重になる必要があるだろう)。

 

 レコードを巡る冒険は、チェリーとスマイルを街の外れの山へと誘い、フジヤマさんのレコードショップを経て、デイケアセンターという最初の場所へと回帰した。街を新しい目を持って水平的に移動したことで、チェリーはもう「どこにいても同じ」とは思わないだろう。引越しの段ボールはショッピングモールとは対称的にカラフルさを抑えられた白であった。まだ外部にどのような色があるか知らないチェリーが、スマイルの極めて水平的なメディアによる垂直的なメッセージを受け取った時、チェリーはヴィヴィッドなショッピングモールに回帰する。恐らく最後の回帰である。

 

 ハプニングの運命にある司会者の二度目のハプニングによって、YAMAZAKURAは流れ、フジヤマさんは一瞬唸った後、涙を流した。「感情や少年海より上がりけり」と攝津幸彦の句がマイクを通して鳴り響き、チェリーが怒涛のパフォーマンスを二人きりの場所でやりきった後、花火は秘密基地を超え、垂直に華開いていった。

 

「舞台少女」はカーテンコールに応えうるか?あるいは奇妙な歌劇

 前口上

 例えばこのような物語がある。勝者総取りのゼロサムゲームを企画し、弁舌巧みに登場人物たちを参加させるゲームマスターが存在する。主人公もしくはその対となる人物はルールブレイカー、少なくともルールの穴を追い求める者として設定される。

 また、参加者たちはよく見知った、それでいて単なる友人ともいえない少女たちである。

 加えて、何らかの理由により時間をループさせる者が登場する。

 そして、キリンが存在する。

 

 これは「舞台少女」を名乗る者たちによる「少女歌劇」と銘打たれた、奇妙な歌劇。もしくは……

 

 舞台少女は演技をしない(?)

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のポジション・ゼロは掴みづらい。

 聖翔音楽学園に通う8人の「舞台少女」たちと、転校生の神楽ひかりを加えた9人は、夜な夜な謎のキリンから呼び出しを受け、「オーディション」というレヴューに参加している。合格者には「トップスターの座」が与えられ、合格者の望んだ「運命の舞台」が誂えられる。

 「オーディション」開催時、彼女たちは各々の衣裳に着替えるのだが、それは変身ではない。日常世界と「オーディション」の世界での振る舞いはほとんど連続性を保っていると言っていいし、むしろ彼女たちは「オーディション」の場において日常世界よりもはっきりとした物言いを相手にぶつけていく傾向がある。歌い、剣を手に舞い、トップスターの座を奪いあうとしても、あまりに日常世界から切断されていない台詞が演技から演技を奪っていく。ここでは武芸の熟練度ではなく、相手よりも強く、真実に迫った思いを持っているのかどうかが結局のところ勝負を分けているように見える。スター性が基準であるなら天堂真矢は大場ななに負けないだろうから(ところで強い思いや真実味というのは何であり、一体どういった理由で尊重されているのだろうか?)。ここにあるのは武装した少女たちの演技というよりも、少女たちが武装した日常である(言うまでもなく、舞台少女たちに限らずA組の生徒たちにとってオーディションは「オーディション」だけではない)。

 では、「オーディション」の世界の方が素顔であり、日常世界でこそ少女たちは演技をしているのだというべきなのだろうか。それも腑に落ちない。なぜなら各「オーディション」終了後、舞台少女たちは「オーディション」で起こったことを前提にして会話をし、相互理解を深めていくからだ。私たちは普段嘘をついたり、あえて何かを言わずにおいたり、ごまかしたりすることがある。しかし日常にそういった部分があることをもって、私たちは日常世界で演技をしているとは言わない。

 私たちは舞台少女の演技を、練習風景や、9話における第99回聖翔祭公演『スタァライト』の回想を用いた愛城華恋とひかりの会話の中で確認することができるだけにとどまる。劇場版では露崎まひるがひかりに対して作中最も長い「演技」を見せるかに思われるが、これとて日常的に我々が用いる「演技」であって、舞台の上としての演技というわけではなかろう。舞台少女の構成要素である演技が、滑り抜けていく。

 少女たちだけではない。劇中最も謎めいたフレーズである「アタシ再生産」もまた、その意味を掴ませることを拒み続ける。
 
 華恋の着替えのシーンに登場する、衣裳の縫製に似合わない熔鉄。これは作品世界全体のモチーフであろう宝塚歌劇の創設者・小林一三が、日本の工業化黎明期において最も(文字通り)資本を多量に消費したであろう私営鉄道の経営者であったことを即座に思い起こさせる。「ゲーム」は熾烈な競争と巨大なリスクを舞台少女に強いているし、「アタシ再生産」という言葉はこれらの要素との繋がりの下に明らかになるのだろうという予測がつくが、事態はそう簡単にはいかない。

 愛城華恋は確かに舞台少女たちの中で、日常世界と「オーディション」での振る舞いが一番なめらかに繋がっている人物ではある。では「アタシ再生産」とは、変身してもアタシはアタシでありつづけるという強みを謳いあげるフレーズなのであろうか。そうはならない。日常世界と「オーディション」での振る舞いの差はどの舞台少女にしても微々たるものであり、別に華恋だけが特別ではない。

 極めて類型的に形成されている舞台少女たちを掘り下げる回でのドラマはほとんど予想の域を超えず(私にとって例外だったのは花柳香子で、私は香子が石動双葉の知らないところで特訓を怠っていないものだと思っていたが、正解はそうではない方だった)、煌びやかな音楽と舞台装置の力でなんとか物語は進んでいく。中盤を経て大場ななが、スターになることを諦めた者や、演劇の楽しさを教えてくれた仲間たちとの別れによって、大切な人たちが傷つくことを嫌い、最高にキラメいていた過去の公演を繰り返し「再演」していたということが明らかになる。この試みは確かに「ゲーム」へ抵抗しうる要素を含んではいるが、華恋は第9話の「オーディション」で、ななにこう言い放つ。

 舞台少女は日々進化中……!同じわたしたちも、同じ舞台もない!どんな舞台も一度きり、その一瞬で燃え尽きるから、愛おしくて、かけがえなくて、価値があるの!一瞬で燃え上がるから、舞台少女はみんな、舞台に立つ度に新しく生まれ変わるの!

 「愛」という有史以来最も著名なバズワードを除けば、ここには労働者の自己啓発と、経済学において商品を定義するための三要素すなわち、対象の物理的特性・利用可能な場所・利用可能な時間に則って説明される舞台少女の稀少性、そしてついでに耐久消費財をいかにして経済学理論が取り扱うかという簡潔な比喩、これらが凝縮されている。    

 こうしてななは華恋に敗北し、星見純那と語らう。

「欲張り過ぎたのかな……」

 「え……」

 「あの一年がもっと楽しく、もっと仲良くなれるようにって、『再演』の度に少しずつ台詞をいじったり、演出を加えたりした……でも、ひかりちゃんがきて、華恋ちゃんが、変わって、みんなも、どんどん変わって……わたしの『再演』が、否定されていくみたいで怖かった。だけど、新しい日々は刺激的で、新しいみんなも魅力的で……どうしていいのか、分からなくなって……」

 「なあんだ、あなたもちゃんと、舞台少女なんじゃない」

 ななの欲望が持っていた「ゲーム」への抵抗という側面は、こうして私的な圏域で再解釈されることによって沈降していく。少々悪辣に華恋とななの台詞を読んでみたが、それでは「アタシ再生産」とは華恋の「ゲーム」に対する圧倒的な適合性を示すのだろうか。そうはならない。「オーディション」終了後、舞台少女たちの「罪」を一人で背負い塔に幽閉されたひかりを助けるため、華恋はひかりが口にするところの「運命」を変えるべく、ひかりが自らに与えた「伝説の舞台」に突貫する。無限に繰り返されるひかりの『スタァライト』一人芝居に介入する華恋は、一度ひかりに敗れ、ひかりは幾度となく「再演」されたであろう第99回聖翔祭公演『スタァライト』の最後を締めくくる台詞「ふたりの夢は、叶わないのよ……」を言い切るのだが、華恋は脚本を改変し、復活する。キリンは「『伝説の舞台』の、再生産……!」と感極まり、「フローラ」と「クレール」という呼びかけは、「華恋」と「ひかりちゃん」に変わる。華恋の「革命」はひかりに怖れをもたらす。「そんなことしたら……わたしの『運命の舞台』に囚われて、華恋のキラメキも奪われちゃう!」というひかりに、華恋は答える。

 

「奪っていいよ!わたしの全部!」 

 「……!」

 「奪われたって終わりじゃない!失くしたってキラメキは消えない!舞台に立つ度に、何度だって燃え上がって生まれ変わる!」

 「……東京、タワー……!」

 

 そして発されるのがあの「アタシ再生産」である。「ひかりちゃんをわたしに、全部ちょうだい!」という台詞といい、12話での華恋はもはや競争からの脱落が即絶望(「絶望」とは、ななが自身「再演」し続けていた舞台において演じていた幽閉された女神の罪である)を意味するわけではないこと、キラメキと市場価値は異なることを知っており、キラメキを含めた自分自身全体を贈与し、またひかりが自身に贈与することを求める(私自身は贈与なる概念が「資本主義」に対抗しうる位相にあるかのように語られることに疑念を持っているが)。だがその彼女はその場面においても「アタシ『再生産』」を言う。「オーディション」の主催であると同時に観客の機能を背負うキリンもまた12話の山場で「再生産」を口にしており、その意味はけして肯定的に解消され尽くすものではない。劇場版において「アタシ再生産」が華恋の口から発せられる時、それはただの復活を意味しているように観えてしまう。

 華恋は「再生産」を資本主義の文脈(私は「資本主義」も「新自由主義」も気に入らないものを全部投げ込めるゴミ箱になってしまったと感じているため出来る限り使いたくないのだが)とは違った文脈で使えるようになったということなのだろうか?そう言い切れるだけの材料はまったく不足している。

 こうして「アタシ再生産」は滑り抜けていく。

 
 東京タワーは何度も華恋とひかりの想い出の場所として現れ、二人でスタァライトするという未来は華恋からひかりに向けては「約束」として、ひかりから華恋に向けては「運命」として東京タワーに結びつけられるが、12話にてひかりの悲しい「運命」を華恋は打ち破ったのだから、東京タワーが倒れるのは理にかなっているが、それでは約束はどうなるのかというと、なんとテロップで「約束タワーブリッジ」と表示される。二人はスタァライトの頂に上り、約束は文字通り果たされ、東京タワーは滑り抜けていく。

 

 この物語には、舞台少女たちの物語とは別の軸がある。それがキリンである。

 キリンは観客席で「首を長くして(実際これ以外の比喩が私には今のところ思いついていない)」舞台少女たちのキラメキを待ち望んでいるが、「オーディション」の主催者でもある。「わかります」が口癖のキリンは「完全に理解した」がる画面の向こう側の観客の性向とよく同期しており、そう明示されなくとも自身が観客であることを何度もキリン自身語っている。

 それが12話で、キリンは唐突に画面の方を向き、鑑賞者に向けて語りはじめる。

 なぜわたしが観ているだけなのか分からない?

 わかります。

 舞台とは、演じる者と観る者が揃って成り立つもの。演者が立ち、観客が望むかぎり続くのです。

 そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように。

 わたしは途切れさせたくない!舞台を愛する観客にして、「運命の舞台」の主催者!

 舞台少女たち……永遠の一瞬!迸るキラメキ!わたしはそれが観たいのです!

 そう、あなたと一緒に。

  実際のところ私が見守ってきたのは舞台少女ではなくてキリンなのだが、それは趣味の問題かもしれない。いずれにせよこの部分はアニメシリーズの中であまりにも唐突に現れるが、端的に言ってキリンによる第四の壁の越境は舞台少女たちの物語となんら繋がっていないように見える。劇場版においてキリンは、新たな舞台の開幕を宣言し、少女たちを新たなレヴューへ誘導し、「舞台」を作るための燃料としての観客という視点を提示して燃え上がりながら落下していく。キリンの存在と舞台少女たちの物語をどう劇場版で噛みあわせるのか、私は期待して映画館に向かったのだが。

 とはいえ「わたしは途切れさせたくない」と言いながらキリンが画面のこちら側を真っ正面から見据え、華恋とひかりの戦っている舞台が煙に隠されるカットは素直に興奮した。私はこのまま最後まで、時空を無視し、静止してこちらを向くキリンが画面の右端に映り続けることを願ったが、その期待は叶わず、私たちはあっけなく舞台少女たちの物語を再び曇りなく観ることができるようになる。

 (ところで「ワイルドスクリーンバロック」を謳うキリンは時々全身が野菜になったりしていたが、私の拙い知識ではアルチンボルドマニエリスム、少なくとも後期ルネサンスの画家として認知されており、バロックの画家というイメージはないのだが、どうだのだろうか。)

 キリンもまたこうして滑り抜けていった。

 

 舞台少女たちのドラマは規格的であり、演技は脇道であり、キリンは舞台に乗りきることができず、象徴は簡単に象徴であることを止め、アニメを見返す度に華恋だけではなくすべてのキャラクターが、東京タワーが、そして運命の外部へ突き進んだ華恋が再生産される。

 これは観客が「わかります」と言うことが禁じられた物語。

 

 ……本当に?

舞台少女は演技をする(?)

 全12話の中で最も印象に残ったのは4話、外出規則を破って朝帰りを敢行した華恋とひかりを「舞台少女」たちが迎え入れる場面で双葉と香子が喋るシーンだ。

「勝手に家出すんなよ、香子じゃねえんだから」

「ウチ、そんなことしまへん」

  二人の部屋のレイアウトから考えると、二人は壁に向かって喋っていることになる。外で純那、なな、まひるがひかりと華恋の前でおかえりを言い、窓ガラス越しに天堂真矢が彼女たちを見下ろしながらおかえりを言う。西條クロディーヌは画面右を向いて「Dienvenue(おかえりなさい)」と呟いているが、これらはアニメとして特に違和感のある画面ではない。だが双葉と香子は壁に向かって、しかも視線が正確にカメラ目線となっている。双葉の後ろで寝ている香子には双葉がどこを向いているかなど分かるはずもないのに。

 どうして彼女たちは視点を壁の特定の一点で共有しえたのか。

 それは、私たちの観ているものが『テレビアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』であり、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』だからだ。

 前節で私は舞台少女は演技をしないと示唆したが、それは本当だろうか。舞台にはお芝居があるが、それだけではない。ひかりの言う通り、舞台には踊りも、歌もある。それにどうして彼女たちは「オーディション」に登場する際、聖翔音楽学園(すなわち日常世界)での規則もしくは伝統と同様に出席番号と名前を言うだけでなく口上を述べるのか。ここで私たちはアニメ女優という概念について考えなければならない。

 テレビや映画とアニメの違いは幾つもあるが、その一つに演技の位相がある。テレビドラマや映画では、まず演者は正しくこの世界に存在する人間として身体を持ち、その上に演技が重ね合わされることによって日常世界での存在とは別の存在へと変身を果たす(無論CGや着ぐるみの問題はあるが、それはこの基礎の延長線上にある)。だがアニメでは、画面に映る存在とそれを「演じている」存在は存在の位相からテレビや映画の演者と全く異なっている。アニメキャラクターの生成は声優による声の吹き込みと、キャラクターデザイン、作画、編集および撮影……という複数のプロセスを必要とする造形及び運動によってなされる。ラジオドラマでは声だけが、公式サイトのキャラクター紹介欄では絵だけが必要である。このように、アニメはテレビや映画の俳優と異なり、表現されるものと表現するものの一対一対応が壊れている。アニメキャラクターはそれが現れる場の要請に応じて取捨選択する事ができる複数の要素の集合体によって存在しているといえる。

 アニメキャラがアニメに現れるとき、彼ら彼女らの構成要素は総動員されるが、アニメキャラが現れる時彼女たちはすでに運命を背負っている。それが脚本である。それはアニメキャラが原理的に突破できない運命である。アニメが複合的な要素からなる集合体であり、ある要素の逸脱があったとしても、それが私たちの目の前に現れる前の段階で逸脱を許容する脚本がアニメを一つの運命としてまとめ上げる。あるいは声優のアドリブとは、脚本がそれを許容しうる範囲に存在するからこそ許されているのだという仕方で同じことが言える。アニメキャラは、表現されるものとしてしか私たちの前に現れることがない。これは私たちがあり得たかもしれないアニメキャラによる革命を見ることが不可能であることを意味しており、「ライブアニメ」が不可能である理由でもある。(ところでVtuberとはいったいどのような存在なのだろうか、あるいはなりうるのだろうか?)。

 従ってアニメキャラは演技することができない。このことから容易に「アニメ女優」は不可能であることが帰結する。

 
 ……本当に?

 あなた方の好きな(もしそうでないならお許し願いたい、私はそのようなあなたと握手がしたい)「想像力」を駆使しなければ、「舞台少女」たちの名前がアニメ女優たちの「役名」であり、私たちは彼女たちの本名あるいは女優名を知らないとは言えないのだろうか。

 口上について考えることにしよう。日常生活で私たちは挨拶する時に口上を述べたりしない(今ならヤクザさえしているのか怪しい)。前節のように、舞台少女たちが演技をしないと強弁しようとする時、歌や、踊りとしての戦闘だけでなく、口上の存在がネックになる。口上がなければレヴューへの登場はダンスルームへの入室と同一であり、日常世界と「オーディション」の世界の連続性はより強固なものとなるが、「オーディション」においてのみ口上が存在することは一体なにを意味しているのだろう?

 「オーディション」は『スタァライト』の筋書きをなぞるかのようにレヴューのタイトルが決められており、塔に幽閉された女神たちを演じた舞台少女たちは、女神たちの背負った罪をもまた背負っている(純那-激昂、香子=逃避、華恋=傲慢、双葉=呪縛、まひる=嫉妬、なな=絶望)。「オーディション」で舞台少女たちが語る言葉があまりにも日常世界のそれと連続していることは、日常世界の彼女たちがあまりにも『スタァライト』の登場人物たちに似すぎているということを意味しているが、これは偶然というには異様である。

 思うに、口上の存在は、4話における双葉と香子の奇妙なカメラ目線と同じ意味を持っているのだ。それは彼女たちが演技をしているという暗号である。この暗号が「オーディション」と「日常世界」の両方から発せられていること、レヴュー名・『スタァライト』の囚われの女神たち・舞台少女たちの抱える思いや状況の異様な符号は、この世界全体が作品であり、彼女たちは画面の中では演技しか見せていないということを示唆するのではないか。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が私たちに見せていたのは、文字通り、「トップスターを目指す舞台少女たちの物語」であり、彼女たちは「舞台少女」を演じるアニメ女優たちだったのではないか。

 

 私がこの節を書いている時、「歌って、踊って、奪い合いましょう」と言い、お芝居をオミットしたキリンはエレベーターホールの奥底で眠っている。

そしてスクリーンに舞台少女は現れ……

 劇場版において「舞台少女」たちは卒業を控え、それぞれのけじめをつけようとする(おそらく「みんな、喋りすぎ」とひとりごち、電車を舞台に現れた白衣のななが一枚噛んでいるであろう。「舞台少女」であるならば、喋るだけで何とかするというのは不足であり、歌って、踊って、お芝居をするべきだからだ)。ここではなな、クロディーヌ、真矢が演技としか言いようのない振る舞いを見せてくれる。特にクロディーヌ対真矢の対決は圧倒的だった。彼女たちの語る言葉には「脚本」の存在を感じられるが、しかしそれらは日常世界でのけじめをつけるための台詞にもなっていた。この段落は、「舞台少女は演技をしない」ことを否定するのだが、「舞台少女は演技をする」ことの補強にはならない。

 

 私は上映中に周囲を見渡したが、燃え尽きた後のキリンは特にどの席にも座っていなかったように見えたということもできるし、夥しい量のキリンが座っていたということもできる。

 劇場版においては華恋とひかりも第四の壁を超えたと解釈できるような台詞を口にするが、少女たちの物語を消費する観客について劇場版が示す態度は、テレビアニメ版のキリンでやろうとしていたこととは別の方向、はっきり言えば軟化していたように思えた。絢爛な背景と音楽は印象的だったが、私はテレビアニメの時点で「舞台少女」たちにはそれほど魅かれていなかったので、画面の速度が緩まる華恋とひかりの回想シーンなどは正直集中力を維持するのが辛かった。

 

 だが期待があった。「私たちはもう舞台の上」という言葉は、舞台少女たちが映っているのがスクリーンであることから彼女たちが女優であることへの可能性を残していた。彼女たちの存在しないスクリーンに「私たちはもう舞台の上」とでも現れれば、彼女たちは私の見えないどこかの舞台の上で、また別の演技をしているのではないか、と思える。もちろん彼女たちは私の拍手に応えることは出来ない。もし画面の中に、演技を終えたように見える彼女たちが現れても映画はそのシーンを含めて映画なのであり、そこは映画の外部ではない。だが……

 

 私はテレビアニメ版のキリンが「あなたと一緒に」と言ってくれたことに感謝している。キリンは簡潔な欲望を素直に口にし、舞台少女たちの見せるキラメキに感動する気持ちの良いキリンだが、このような長ったらしく、嫌味であり、妄想に満ちており、論理もあるのかないのか分からない文章を書いている私は、キリンを欲望し、「生身」のアニメキャラを欲望する気持ちの悪い人間だからだ。

 

 エンドロールを迎え、舞台少女たちは作品世界内に存在する学校や劇団へと散っていった。エンドロールが終わるとそこにはおそらく音楽学校を受験する華恋の姿があった。テロップからして彼女は今まで観客たちが観てきた「愛城華恋」ではないのかもしれない。年齢を考えるとおそらく人生最初の大舞台にいる。そこは体育館か集会場のようであり、椅子があり、長い机の向うに面接官の先生であろう人物がおり、その関係者たちが歩き回っている。確かに舞台然とはしていないが、華恋の「舞台少女」としての歩みは、舞台は、まさに今から始まろうとしていた。

 

 だから私は映画が終わった後、カーテンコールをするのをやめた。