ホー・ツーニェン『ヴォイス・オブ・ヴォイド』の感想

だらだらと長いよ。

内容はタイトルの通りとなります

こんばんは。お久しぶりです。

先日、シンガポール出身のアーティスト、ホー・ツーニェンの展示?『ヴォイス・オブ・ヴォイド』を山口情報芸術センター(YCAM)に観に行って、ここにはその感想が書かれています。

当該URLは以下の通りです。

www.ycam.jp

 

ちなみに来場者はまばらでしたが確実にいて、若い人が多かったです。

アニメーションの話

 現代アートに全く詳しくないのでこれは完全に素人の好みなのですが、いわゆる「現代アート」を観る時は、作品(作者が反作品の立場なら表現という言葉で置き換えてもよい。反作者の立場なら同様に「作者」という語を適当な語に置き換えてもらってかまわない)が自身のコンセプトを乗り越えてしまうようなところのある作品がすきです。そこに現れているもの(表象、現前性、物質性、メディウムなどについて気になる人は各自適当な語に置き換えてもらってかまわない)がコンセプトに解消されてしまうようなものなら普通に文章を書いたり、己の主張に従って何らかの活動をすればよいのでは?という考えがよぎってしまうからです。

 

 (これは私が身体性を重視していることを仄めかしていますが、別に私は身体性を無垢に全肯定しているわけではありません。ボリス・グロイスの『英雄の身体』をひくまでもないことですが、身体(性)の称揚や反理論的立場がしばしば危険な思想を伴うことはあります。けれども原則的に、多くの表現行為はその結果としての物質およびその運動やそれをとりまく環境との関係において身体(少なくとも脳)に作用することは間違いありませんから、やはり私は一人の観客としてはそういった部分を重視することになります。例えばライブがどこで行われているのか、どういったコンテクストでおこなわれているのかは演奏自体のクオリティとはまた別個の観点で私の体験に確かな影響を与えます。)

 

 今回の展示は、例えば京都学派と戦争というコンセプトを見出すことができるでしょうが、その他にも様々な仕掛けが施されていて、なにより体験として楽しかったです。これには私が本展覧会が人生最初のVR作品体験だったということがあるのかもしれませんが、何事にも「初めて」はあるので許して頂きたいと言ったところです。

 

 真っ暗な通路を抜けるとまず巨大なスクリーンと、その前にもう一つ透過スクリーンがあり、階段状の客席が左手に見えてきます。入口の係の方に説明されましたが、この展示には計6つのアニメーションとVRの展示があり、各アニメーションは約7分、VRは40分程度でおおよそ全てを把握できます(私は特にVRの部分が、作品全体を観客に全部観てもらうことを意図していないと感じましたが、それは後で)。とりあえず、透過スクリーンのすぐ前の席に座りました。

 

 正直最初から感動していました。YCAMのスタジオAが誇る音響技術によって、観客はイヤホンをしていないにも関わらずASMRのようなウィスパーヴォイスのナレーションを聴くことになります。全てのアニメーションのループは同期されており、動画が始まる度、一斉に「この作品に声を貸して下さることに感謝します。」の声が近くから、遠くから聴こえてくることになります。その後もしばしばナレーションは同期するのですが、当然各アニメーションの内容は異なるために音声は3次元的な感覚を伴ってずれていきます。

 この「同期=同一性とずれ」というモチーフが展示の全体を駆動するエンジンのような役割を果たしているように感じました。透過スクリーンには京都学派四天王(西谷啓治高坂正顕高山岩男鈴木成高)の3DCGモデルが食事を囲んで座っているのですが、部屋は描き込まれておらず、後ろのスクリーンで上映されている西田幾多郎が好んで使っていた料亭(名前を忘れてしまった……)が透過する結果彼ら4人がその料亭にいるかのように見えます。この2つのコーナーは後のVRで「茶室」として再登場します。
 

 各アニメーションでは、最後のVR作品で聴くことのできる彼らの文献や講演に関する説明とそれに関係する情報が日本語のナレーションと共に得られます(字幕は日英)。内容はおのおの観て聴いて頂くとして(おい)、とくに印象に残ったところを列挙していきます。

 

 ・これは意識してそうしたのかは分からないことですが、西田幾多郎のスクリーンでは字幕が固定されたまま畳の床を回転するように撮られた部分があり(もしかしたら壁だったかもしれない)、そこで若干めまいというか酔いのようなものを感じました。

 ・3,4番目のスクリーンはそれぞれ背中合わせで区切られており、入口から左手が戸坂潤、右手が三木清のコーナーとなっています。ここは後のVRで「牢獄」として登場することになります。どちらも(一応)京都学派左派に分類される人物ですが、二人は獄死しており、両者の3DCGは同一の背景を伴い死体として観客の前に現れます。象徴的なのが、戸坂潤は観客から見て向う側を向いておりその表情を窺うことが出来ないのに対して、三木清はこちらを向いているという点です。

 極めて浅い考えですが、これには戸坂潤のナレーションでも語られた、検閲をかいくぐるためにパロディなどを駆使しようとした、一見戦争協力的色彩を見せる戸坂の文章の二重性とその気持ちの良い性格、未来への志向といったものを反映しているように思われました。一方の三木清は、しばらくのあいだは知識人にとってもある種のヒーロー的な位置づけだったようですが、この展覧会でも紹介される「支那事変の世界史的意義」が知られるようになり、昭和研究会でのイデオロギーの形成に加担したことが明らかになってからはどうやら評価を下げたようで、そのあたりが死体の顔をもろに見せられるというところに反映されているのではないかと思われます。そう考えると戸坂と三木のスクリーンの配置もなにやら示唆的に感じられるのですが、どうなんでしょうか。

 ・5,6番目のスクリーンでは(記憶が正しければ)同一のナレーションで、田辺元の紹介がなされます。このスクリーンの内容がVRでの「天」につながります。田辺元の「死生」という講演の紹介が主ですが、内容が内容であり、これが特攻を後押ししたと言われてもしょうがないやろなあといった感じだったのですが、映し出されるのはかなりザクなモビルスーツで、これがのちのち効いてきますし、ホー・ツーニェンの目配りは凄いと感じました。二つのスクリーンで主に軍用ロボットを別角度から写しだすことになるのですが、正直ここはなぜ2つスクリーンが必要なのかよくわかりませんでした。もしかしたらのちのVRへの動線として、二つのモビルスーツに挟まれる観客に対して自らもその一部であることを示唆させる仕掛けだったのかもしれません。

 ・全体を通じて(VR部分も含め)、西田幾多郎田辺元には一度も出会うことがありません。これが良かったです。京都学派四天王が集った「世界史的立場と日本」、のちに『近代の超克』にまとめられる座談会のいずれにも西田は出席していません。西田と海軍との秘密会合の話などがなされますがやはり西田はいません。弟子たちへの影響が西田不在の場にも確かに息づいていることが感じられました。田辺の不在はより恐ろしい感じがしました。ハイデガーの死への先駆的覚悟性を乗り越えようというが如き「決死」の思想(というよりもはや信仰に近くなっている)を学生たちに講ずる戦場に不在の田辺と、空にあるモビルスーツ

 ・全てのスクリーンを通じて、しばしばカメラが3DCGのモデルを突き抜けていくのですが(それもまったくそれを強調することなく、まるで何も起こっていないかのように)、VRのために必要な表情を統御するための眼球周り、口腔、舌以外はまったく作られておらず、その度に空っぽの人体内部を見せられることになります。私はVRゲーム等やっていないのですがバイオハザードVRのやつとかマジで怖いみたいな話を聞いたことがあるので、おそらくですがこのモデルのクオリティ自体はそれほど高くないです。しかしこの作品には「作画」にコストをかける意味はなく、むしろVRの技術的原理的部分を剥き出しにする意図があるように思えます。やはり人体には内臓がないと幾らリアルにモデルの表面を見せられてもそれを人間に類するものだと体感することができません。おそらく多くのゲームやある種のCGアニメを見ている時、観客は無意識的に内臓を補完しているのだと思いました。これはまあ順序が逆で、作り手が人間らしく見える部分以外を見せないことにより、それを人間らしいキャラクターと認識した観客がその内臓の空虚さ(脳さえない!)を目の当たりにした時、強烈な不気味さを感じるのでしょう。

 

VRの話

 

 先にも書いたように、VR作品初体験だったのでかなり感動しました。空間は「天」、「茶室」、「座禅室(だったかな?)」、「牢獄」の4パートで構成されています。体験フィールドには八角形の畳および座布団が敷かれており、4つの空間のハブとなる「茶室」の質感を再現することに注力がなされていました。また同時に4人が体験できるようにスペースが硬いクッションのようなもので区切られていました。安心、安全です。

 座っていると、「茶室」で「世界史的立場と日本」の座談会の様子を、その記録者であった記者の大家益造の視点で窺うことになり、体験者が手を動かして目の前の紙に書く動作をすることで4人の声を聴くことができますが、手を止めると彼らの声は聴こえなくなり、戦後に大家が残したかなり直接的な戦前戦中の反省を歌った歌集(『アジアの砂』)の一部をまるで自分の声であるかのように聴くことになります。私がこの作品全ての音声を聴く必要がないことに気付いたのはここで、4人の話を最後まで聴こうとすると恐らくよほどタフな人間でないなら腕がパンパンになり終わります。何しろ無茶苦茶長い。何もない空間で筆記具を動かす様な動作を長時間続けるというのはかなり肉体に負荷がかかります。この身体的な苦痛は明らかに戦後の大家の心理的な苦痛とリンクするように設計されていて、4人が煙草を吸ったり、身振り手振りを交えて洋々と話しながら徐々に開いていく茶室の障子、そこに顔をのぞかせる美しい紅葉を観ても、やはりそのことが心から離れません。

 

 座ったままじっと動かないでいると、別位相の「座禅室(本当に?)」に飛びます。まったく和風ではない、灰色の硬質な床と幾何学的に構成された暗い部屋。そこで西田の「日本文化の問題」が低いトーンで流れ続けるわけですが、ナレーションにもあったように、「~ねばならない、~なければならない(sollen)」の連打は重苦しく、それを加速させるかのように、「座禅室」は垂直方向に押し潰れていきます。これがほんとうに息苦しい。西田の言葉が呪文のように聞こえ、わずかでも動くと「茶室」に飛ばされるため、やはりこれを通しで聴くのはかなり苦行でしょう。身体感覚とホー・ツーニェンの西田解釈であろうものがマッチしていて素晴らしかったです。

 

 寝ころぶと「茶室」の床を突き抜けて「監獄」に移ります。短い移動場面を経て牢獄の中に移るのですが、汚く狭い室内には剥き出しの便器、煤汚れた水道、ウジ虫が目につきます。左を向くと戸坂の、右を向くと三木の声が聴こえてくるのですが、仰向けになると両者の声が同レベルで聴こえ、そこにはスペクトラムがあります。現実には隔てられていた監獄で別々に死んでいった両者の声が同じ空間で聴こえる。しかし二人の目指すところは異なっており、同時に断絶を感じさせる。実際完全に右を向いたり左を向いたりすると、片方の声は全く聞こえなくなるわけで、良くできてんなーと素直に思いました。

 

 立ち上がると、茶室の天を突き抜け、「天」に到達します。多くの人がそうでしょうが、ここがベストでした。青空の中、周りにいるのはモビルスーツの編隊。耳元では田辺元の「死生」が流れています。周りを見渡していくうちに自分の腕もまたそのモビルスーツになっている。手を動かすとちゃんと動く。こうして自分の身体とモビルスーツが同一化しますが、田辺の講演は続いています。田辺の著作を読んだことがないので正確なことは分かりませんが、まず田辺は、人間には死に対する3つの向き合い方があると始めます。そのうち2つはかなり『存在と時間』を意識したもので、死を忘れる仕方、そしていわゆる死への先駆的覚悟性の話がなされるわけですが、この「覚悟」もまだ観念的だと田辺は批判します。そして田辺は第3の道を語り出します。(おそらくヘーゲルを通じて独自の弁証法を目指した田辺の思索、なかでも『種の論理』に通じているのだと思われますが未読のためよくわかりませんが)神と人間を結び付ける国家のために実際に死ぬ「決死」、そのことにより人間は神的な領域に通じるだのなんだのという話に入る辺りで周りのモビルスーツがバラバラに分解されていくのを目にします。そして気付くと自分(のモビルスーツ)もバラバラになっていく!もう腕のトラッキングは外れていて動かせません。不可能ではあるにしてもこの「決死」から繋がっていた特攻兵士たちの死を出来るだけ体感させようとする強い意志を感じます。そして旧宗主国ガンダムに代表されるようなアニメなどのポップカルチャーで戦争をテーマに幾つもの作品を「エンターテイメント」として作っていること、その語り方はどうであったかなどを思い出そうという気持ちになっていました。

 

 ずっとやってたかったですが、次の人もいたので多分一時間くらいでHMDを外し、私の鑑賞は終わりました。

全体の感想

 ・久々のアート体験だった(東京でピーター・ドイグと北脇昇観て以来だと思われる)というのはあるかもしれませんが本当に良かったです。山口情報芸術センターは最高過ぎる。自分も高校生までに図書館ばっかり行かないでもっと使っていれば……

 ・綿密な歴史的事実の調査に裏打ちされているのが感じられました(実際私は大家益造をこの展示で初めて知りました)が、単に歴史的事実を編集して提示するのではなく、VR技術と人間、音響技術、スクリーンの使用の仕方、身体への効果的なアプローチなど、本当に多面的な要素を違和感なく結合させていて、やらしさがなかったです。

 ・高校生くらいの男子たちがVR体験で普通に「すっげー!」とか言っていたため、文章の意味は分からなくても(当然のことながらVRで聴こえる彼らの話は一般客には難しいと思われる)何か伝わるところはあるんじゃないかと予想されます。「天」で自分のモビルスーツが動かなくなり分解していく体験は、田辺の話がよく分からなくてもかなり怖い感覚をもたらすと思います(実際私は動悸がしました。よく分からない方がもしかしたら不気味かもしれません。文字面だけでもあの講演には何か恐ろしいものの影を感知することが出来ると思います)。そういう意味でも広く開かれた展示だったと思います。

 ・ただ京都学派四天王なんて日本人にはあまりにも身近でなさすぎるので(せいぜい知られているのは西田くらいでは?)最初の入口にはいるのがハードル高い。実際僕の横で子連れのお母さんが撤退しておりました。入口マジで暗いし(仕方ないしそれが良いのだが)。

 ・個人的に幕末から敗戦までの日本人が考えていたこと、考え方の質感に興味があるのでいつかはやらねばと思っていたのですがやはり京都学派だけで山がデカすぎる……

 ・展示の性質上しょうがないのですが日中戦争支那事変)以降の京都学派の動きにスポットライトが当たっているため、京都学派の一面的な理解が発生しそうではあります。興味が湧いたらちゃんとやった方がいいというのは何でもそうですが、これにも当てはまります。単に時事に合わせて(無論そうした面もあり、京都学派の節操のなさが陸軍の京都学派に対する憎悪の原因の一つでは、という視点は展示でも語られています)体制迎合/反体制的な方向に行ったわけではないので。とくに田辺や三木の部分ではそれを感じました。

 

これから観る人へ

・京都学派について何も知らなくても基本は大丈夫(説明はしてくれるので)。だが多少は知っているにこしたことはない。本気を出すことにより「日本文化の問題」

、「世界史的立場と日本」、「死生」、「唯物論研究(どの巻のどの論文だったか忘れた)」、「支那事変の歴史的意義」を読めるかもしれないが、そのまえに恐らく展覧会が終わってしまう(7/4まで!!!!!!!!)

・音声の感じとか、先述の西田幾多郎のスクリーンとか、VRとかで酔う人がいるかもしれないのでそういう体質の人は注意。

・おそらく感染対策でHMDを被る前にアイマスク?的なのを着けることになるが、大変難儀した。これはおそらく私が完全不器用生命体であることに起因しているが、これを失敗すると大変厳しいので時間かかってもちゃんとセッティングしよう。

VRの「茶室」で私が無能すぎて仕掛けを見逃した形跡があるので、手を動かすのを止めてもいいからしばらく「茶室」で滞在したほうがいいかもしれない。

VRの「牢獄」に行くために寝そべる時はHMDのセンサーに注意しよう!私は愚鈍すぎて一度リセットされたぞ!

ではまた。

虚踊の事

 虚踊は、ある種の人間  普段はのんびりしているがハンドルを握る段になるとからだが強張ってしまう類の  が、例えば林檎を剥いている最中に、三角コーナーにおいて発生する現象、とされる(怪異、というには足りない。取り違えられた証拠がここには欠けている)。虚踊に分類される現象は、三角コーナー以外にも、背中、顔(ただし鏡の介入は虚踊を禁じる)、初めて愛する人を打擲した時の「わたし」、就寝中における裁縫箱、非-非ユークリッド幾何学における平行線などにおいて見られる、とされる。「とされる」とは、わたしたちが虚踊を積極的に輪郭づけようとする際に必須となる符号であり、これなしには何事も始まらない(無論、何一つ始めなくてもいいのだが)。バークリーもその反対者も、きっと虚踊の存在は認めまい。虚踊は認識することができず、また存在する、と言うべき価値を感じさせない。わたしたちは虚踊を必要としないが、虚踊の側はわたしたちを必要としている、とされる、のか?

 三角コーナーに落下した林檎の皮は、作業者が手許に注意を向けている間だけ、奇妙な動きをする。理由としてそのように形作られた皮が、かつてあった自らの平衡を取り戻そうとするかの如くそのとぐろをうねらせ、まるで禁園の蛇のように三角コーナーを這うのだ。作業者が再び皮を捨てようとするなり、姿勢を変えるなりして再び三角コーナーを認識しようとすると、皮はそれを察知してすぐに皮に戻る。作業者が皮を剥き切り、キッチンを抜け出た後にもなお虚踊が続くのかは研究者の意見が分かれるところだが、現在ではその時点で虚踊の幕は下りているというのが主流のようである。

 虚踊はなぜ起こるとされるのか。様々な説明がなされているが、現在のところ有力なのは、生きたからだを持たないにもかかわらず、目の前に現れる生きたからだを鏡に映った己と誤認した者が刹那、喜びのあまり踊り出すためだという説である。鏡という概念を知り得ない者だけが全てを鏡だと誤認する可能性を手にする。しかしこの説には怪しいところがある。虚踊研究者のほぼ全員が、虚踊は人間の意識、特に目とものの関係によって起こるという点では一致している。この説が正しいとするならば、猫との間にも、木菟との間にも、虚踊が発生してしかるべきではないか。しかしこの反論は哀れな人間中心主義を引き摺っている。どうして猫の虚踊研究者や、木菟の虚踊研究者がいないなどと言い切れるのだろうか。ともあれ虚踊の研究はまだ端緒についたばかりであり、確言出来ることは少ない。最近は特に、鏡が虚踊を発生させる状況はありうるかという問題を巡り活発な研究がなされているようだ。虚踊が発生する理由についても、拙速な断言は避け、研究の進展を待つのが賢明であろう。

 さしあたり、夜に美味しい林檎を引き当てるという幸運に恵まれたのなら、パジャマを着たまま外に出て、タップダンスでもしながら、神を祝福してやるがよい。私も君の影で踊ることにする。