まとめる。
生活
試練。壊れた。立ち直りつつある途上。
書いた
Webに掌編小説をいっぱい書いた。


同人誌にも書いた(『〇.八九六秒、ダンス』)、よかったら買ってね
ブログも書いた。
試練、底を脱した感じはするがまだ試練、負けてられっか、ガッとやる
読んだこと、聞いたこと、観たこと、あったこと
試練でも印象に残ることがあってよかった。
対話篇なのに最終的にひとりがひとりで喋り倒しても面白いということが発見だった。
文学と、医療というか医術(医学ではない)には根底的なつながりがあるなと思った。いのちの物語。自然治癒力=自己修復力を持つ(脳を含めた)身体の保守性と、自然治癒力=自己修復力を持たない、だからこそ自由自在性をもつ心の革新性の相克。声と文字も似たようなことだなと思っていたら「文字の世界がファントム界です」と超速ではるか先に行く。すっげえ。神田橋條治は今年『80歳からの養生と援助の工夫』を88歳にして出しており、人間のポテンシャルってのはホント途方もねえなと思った。
謎の元気が出てくる。
谷川俊太郎は小説やラジオドラマを書いても詩人だった。
泣いちゃうよ。
読める拷問。こんなことしていいのか?いいんです!(心の川平慈英)
超すごかった。いま小説が面白い!
おれは小説が好きだ。
今年知ったいい曲その1、ヒンデミットのルードゥス・トナリス。古くて新しいってこういうことだなって作り。音で造られた未知のDNAって感じする。
今年知ったいい曲その2、フォーレのピアノ五重奏曲第2番。途方もなく美しいものが次々と予測の外側から、滑らかに織られてやってくる。
「Endless Song of Hapiness」ばっかり聞いてた。なんで戦争なんてあるんだ、人間の奥底のどこかに戦争したいというのがあるのか、たぶんそうなんだろう、でも戦争したくないというのがあることもたぶんたしかだろう、戦争はたしかに聖なるものであり聖なるものをもたらすだろうが、それならおれは戦争しないで戦争がしたい。
素晴らしいジャケ。
あざす!!!!
ビニールのレコードは復活したけどシェラックのSPは流石に復活せず、そしてSPでしか残っていない録音があって、それらはどうなっていくんだろうと思った。残されたものすべてを遺漏なく保存することはたぶん現実的に不可能なんだろうが、残す技術が生まれるということは「残された」と同時に「かつて残されていた」ということが可能になることだというのを思い起こさせられる。
はじめてエドワード・ヤンの映画を観て、信じられないくらいすごかった。ブログも書いた(書いた時「ビターズ・エンド」が日本の配給会社であることを知らなかったのは内緒だ)。
映画は現実を聖化することができて、その聖化は「この映画は映画として撮られたものだ」ということを観客が察知してもなお続く感じがする。ありがとう最終盤のおばさん。俺の見間違いかも知れないけれど。どうも文字のメタフィクションになると現実の聖化の機能は発揮しづらい気がする。焦点が狭まる感じがするんだよね。「フィクションについての」ってことだから焦点がフィクションのほうにいっちゃうんだな、世界や宇宙ではなくて。でも映画ではそんな感じがさほどしないのが不思議。
音楽がド頭からバキバキに良くて期待が高まったところでショーン・ペン扮するロックジョーが現れて最高。とにかくショーン・ペンの喋り、動き、そのすべてが屹立していて、あらゆる要約や理解を跳ね除ける力にはちきれんばかりだった。
作家の講演って基本的に行かないのだけど、行ってよかったというか、あんなに打ち上げに観客が参加する作家の講演って想像したこともなかったのでびっくりした。書くことによって、書くことのさきに未定形のキャラバンみたいなのが生まれうるというのはものすごいことだと思う。


万博は開始前と終了後に行った。本番(本番?)に行くつもりがなかったわけではなかったのだが、気づいたら試練だったので行けなかったというわけだ。人工島というか埋立地のあの無情さ、嘘っぽさというのは俺は嫌いではなくて、たぶん連綿と続く土地の歴史の臭いみたいなものがないからだと思う。とくに風が違う。風はあんなにも厳然として独立した風であることがある。わざわざ埋立地にリアル地(何?)のような起伏を作る必要がないから基本的に埋立地は海まで平坦だが、たぶんこれが風の感触に影響している。人工島に感じるある種の心地よさ、しかし人工島に住むとなったらどうかというところ、そもそも埋め立てなんてしていいのかとか、俺がここで感じた心地よさは倫理的に正当化しうる心地よさなのかどうか怪しくて、それに気づいたときちょっとつらかった。


俺は津和野が好きだ。日本の都市に秩序の存在を感じ取ることはほとんどない。いまだに住宅建築、とくに一軒家を見るたびに、ひとつの創造として自らを総合する意識と、周囲含め世界と調和しようとする、いや調和を創造しようとする意志の欠落を感じ、そのあまりの醜さに「許しがたい!!!!!!」という気持ちになる。美観地区という概念はすごい。美観地区でなければ建築、建設において美などどうでもいいと思っていることが明らかだからだ。日本にはどうも建築するという精神自体が存在していないのではないか、自然の暴威への屈服からなしくずしに「建築」を生成しているだけなのではないかという気がしてくるのだが、津和野は例外的に人間と土地が編んだ秩序の存在を街全体から感じられて、俺にはとても心地が良い。それは谷間という地形、ある程度閉ざされた空間であることが効いている気がする。




試練となり、何もかもわからなくなって須磨の海に行って、何もかもわからないまま帰った。クソ焼けた。
2025年話してくれた、やりとりしてくれたすべての人々ありがとう。
良いお年を、というか、良さとして年へと入っていくぐらいの姿勢でいきたい。ボーっとしてたら終わっちゃうぜ!







