読むことと読み方のこと

 2025年の俺は大変だった。みんな大変じゃなかったですか?俺だけ?俺だけじゃなかった気がするんだけどな。年齢的な問題かと思ったけど世代関係なく大変な感じになっている人を複数観測していたんだが俺側の偏りなんだろうか。この大いなる大変さ(重言)の原因について、龍脈の流れが変わったのか?太陽フレアか?あまり語られていない未知の微細な気候変動か?とか色々考えていたのだが、乙一さんがツイッター(現・X)でめざましテレビの星座ランキングの変化に反応しているのを見て爆笑してしまった。

 

 

 テレビを持っていないのでめざましテレビの星座占いコーナーにまでアンテナを張れていなかった。悔しい。まだまだ俺は甘いと思いました。Tverめざましテレビを?もうガッツリめざましてるのに?とはいえまだストンと腑に落ちてないので今のところ2025年問題は謎のままです。なんか流れが変わった感じはある。これからさらに大変な世界になるんだろうな〜〜〜〜という予感。えらいこっちゃ。

 

 退職と無職を経て体調がぶっ壊れぶっ壊れつつ金銭的にも体力的にもほんとギリギリのところで初めてのオフィスワークに拾ってもらったのだがそこで完全に破滅、二ヶ月持たずに退職し別のところで再就職となり今に至るのだが、その過程でちょっと考えたことがあった。

 

 俺は最近ようやく自分が文章をまともに読めない人間であり、だからこそ文章を書きたがっているところがあるなということに気づいた。他人の文章が読めているかはわからないが、自分の書く文章は読めるからな。読めてなかったら俺が俺に怒り俺に怒られた俺は俺に怒られなくなるまで修正を繰り返せばいいのでかなり頑健なシステムがあるといえる。それがなんで「自分はまともに文章が読めない」ということになったかというと仕事してる時に指摘されたり指摘されずともひとり黙って痛感したことがあるからで、記憶の限り仕事じゃない場(ブログとか小説とか)では言われたことがない。気い使って言わないでいてくれるのかもしれんけど、俺としてはたぶん大丈夫だろうという肌感でいる。このところのズレに引っかかっていた。

 

 この前、およそ本は実用的なものしか読まない、小説とか基本的に読まない知り合いに、高橋源一郎の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』の「オツベルと象」を読んでもらった。なぜそれだったかというと手元にあって短いからです。ぜんぜん文学とかの世界の外側にいる人間(これはアヤシイ概念ではあるけれど)の感想が聞きたかった。もうしばらくそんな機会がなかったのだ。

 

 

 たしか彼は「うーん」といい、それから「どう面白がったらいいかがわからん」というようなことを言ったはずだ。「どう読んだらいいかわからん」だった気もする。

 俺は最近までおよそ文学と呼ばれるものについて人が「読み方がわからない」という感想を持つことの意味がわからなかった。読んだら読めるじゃん、そこに全部書いてあるんだから、という感じだった。むかし作家の講演会に行ったとき質問コーナーがあって、その作家が書いた小説の一部分について「このここのところは〇〇という解釈であっていますか?」という意味の質問をする人がいてやはり意味がわからなかった。そんなこと作家に聞いてどうするんだろう?作家が知っているとでも思っているんだろうか?作家が何か答えたとしてそれで何か変わると思っているんだろうか?作品は作家じゃないのに。

 しかしはじめてのオフィスワークを経て俺は理解した。俺は「読み方」という概念そのものを理解していなかったのだ。

 オフィスワーク?デスクワーク?は当然だが形式の完璧さを求められる。個人情報の取り扱いや数字一つを間違えれば下手したら大ニュース、株価暴落して破滅といったことになるのでこの姿勢は企業として正しい。したがってそこにはたくさんのマニュアルがあり、つまり「読み方」があった。問題はこの世界に俺が致命的に合っていなかったということだった。その文章から受ける印象はほんとうに「読み方」のいうところの通りになるか?これは本当にその読み方でそう解釈されるようにちゃんと書かれている文章なのか?しかしすべてを俺の理解や納得より速いスピードで流していかなければ仕事は回らないため、この作品-解釈の回路は実のところ読みというより関数の入力-出力に近いところまで圧縮されており、そこには読みはなく読み方だけがあった。それに適応できない俺は超速で壊れた。

 読むものより読み方のほうがはるかに大事なのがこの世界なのかもしれない、と俺は極めて短い期間の間に思った。「何を書くかではなくどう書くかが大事」とはよく言われることだが、本当にそうなのか、読むことにについてもやはり「何を読むかではなくどう読むかが大事」なのか、それがこんなに苦しいなら俺はいったいどこで生きていけるのだろうか、人間であるとは現状の世界だと読める動物として認識されるみたいなものだよなぁみたいなことを考え大変に辛かった。そして、こんな世界でふつうのひとは小説なんて読まないよと思った。

「文学は人間を自由にする」というのもあんまりピンときてなかったけど、今はかなりわかる。「読み方」が決まっているということ、決まった「読み方」があるという世界の「読み方」が俺には苦痛で仕方がない。そこには読みがない。文学はただ読めばいいもので、そのこと自体が自由であることにつながってしまうような社会が築かれてしまった。でもこれは文学が人を自由にする力を持つということでもない気がする。『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』を読んでもらった知り合いに「どう読んだらいいかがわからん」と言われた時、俺は結構いろいろな方向から面白さを分かってもらおうと頑張ってみたのだが、うまく解きほぐせた感覚はなかった。高橋源一郎はどちらかというと文学慣れした人に読まれる作家だろうからそもそもハードだったというのはあるんだろうし、俺の能力不足というのはもちろん前提にしても、「読み方がわからない」に対して俺は無力だった。俺は読み方で読んでないから読み方なんて教えられないし、教えられるような「読み方」を注入する教育の悲喜劇として高山宏の教え子たちが最後にはミニ高山宏になってしまう『夢十夜を十夜で』があります。

 

 

 確かに「つまらない」に触れるとブチギレが起こったりはするが、そのぶん「おもしろい」に触れるとブチアガリが起こるから嬉しい。どちらにしても読んでいなければ起こらないことだ。だがブチギレもブチアガリも疲れちゃうってことになると、読まないで読み方だけで済ますというのは選択としてはある。「つまらない」ということだけではなく「おもしろい」ということに触れる恐ろしさから逃れるためにこの社会は用意されたのかもしれない。本当は生きることはつまらないわけではなくおもしろいものでもあるということに気づいてしまうことに耐えられないというのは、すごく哀しいことじゃないだろうか。