差別と友情あるいは恋愛はどう違うのか、あるいは違うのか

 差別が、関係を恣意的に分割することにあるのだとしたら、友情や恋愛  このふたつの包含関係はいまは問わない  あるいは家族愛といったもの、ようするに大概の愛は差別であるということになる。しかしそうなのか。友情や恋愛や家族愛といったものを差別から差別することはできないのだろうか  なぜそのようなことをしようと思うことができるのかについてもいまは問わない。

 おそらくそれは差別される悲しみと、失恋や友情の裏切りによる悲しみの場面を比較することによって可能になる。差別を差別しない立場からすれば、これらは暴力的に悲しみを与えるという点で等しく悪である。だが、ここで起きていることには微妙だが差別しうるものがあるように思う。

 裏切りや失恋の悲しさは、それをもたらすものがほかならぬあなたであることから来ている。それは代替不可能な関係であり、その終わりを宣告されることは耐え難い悲しみである。しかし耐え難いのはそれがほかならないあなたとの関係の喪失だからであり、現実的にはどうあれ、潜在的にはそこに和解への道がある。耐え難いことは耐えうることの証である。

 しかし差別による悲しみの場面を考えてみると、ことは微妙に違う気がする。あなたはほかならないわたしを差別するのではなく、わたしに偶然あるいは必然的にまとわりついてしまったひとつの、あるいは複数の属性を通じて暴力を加えるのであり、またこの暴力もほかならぬあなたが加える必然性をもたないものである。

 差別という力は一般的な、正規的(normal)な力、あるいは典型的(typical)な、類型(type)を刻印する力であり、それが振るわれる場面では、ひとはほかならないもの、個別的で分割不可能(in-dividual)なものであることを失う。しかしもちろんそれは普遍的な、宇宙的(universal)なものになるのではない。宇宙的なものから加えられる暴力は恩寵である。差別のあらわれる場はあくまで多数的、量的な、一時しのぎの、統計的な、堕落した、偽物の普遍性であるところの一般性である。

 差別はわたしを「ほかならないものではないもの」にすると同時に、あなたをも「ほかならないものではないもの」にする。一見この関係はわたしとあなたである必然性から解放されているという意味で、失恋や裏切りほど耐え難いものではないように思えるかもしれない。しかしこれは耐え難いものではないというより耐え難さが欠如しているという事態であり、そこには潜在的にも和解の可能性が閉ざされているという意味でより耐え難い。和解はほかならぬものどうしによってしか結びえない。耐え難くないことは耐え難いことの証である。

 差別の悲しみは、ただわたしが不合理な暴力にさらされることからのみくるのではない。常に具体的で個別的な存在が差別するのであり、わたしがあなたに差別されるまさにそのとき、わたしはあなたによってあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うと同時に、あなたによってあなたがあなたにとっての「ほかならぬもの」でなくなる瞬間に出会うことになる。分割不可能であるはずのあなたが分割不可能な存在でありながら同時に一般的な存在に分裂するとき、分割不可能性は定義上喪失する。裏切りや失恋によって失われるのは、ほかならぬあなたとわたしが築き上げてきた具体的な関係だが、差別によってうしなわれるのは、その関係の可能性それ自体である。

 こう書きながら、なにかごまかしというか、無駄なあがきをしているような気もする。友情や恋愛は本当にほかならぬもの、分割不可能なものの場、あるいは宇宙的なものの場に属しているのか。やはりそれらもまた一般的な場に属しているのではないのか。

 それはそれとして具現化した一般性こそが社会である。したがって社会の言葉はすべて差別する。社会の言葉はわたしに自らを一般性として聞くように要請するからである。

 希望があるとするなら、言葉そのものが一般性に属しているのか普遍性に属しているのかをわたしたちが知りえないということである。受肉という出来事は、宇宙的な言葉が分割不可能な、ほかならぬあなたの言葉につながっていることを教える出来事だったのではないか。そして、宇宙的な言葉がほかならぬあなたとしてのあなたのもとへ降りてくるという事態を可能にした暴力=恩寵こそが、ほかならぬ愛だったのではないか、と思ったりする。