この小説を書き始めた時、
ぼくが決めていたこと
①世界全部を入れる ②歴史全部を入れる
③愛と友情と哀しみを入れる ④読んでひたすら面白い(裏へ)
⑤なおかつ、今世紀末の日本文学を代表する(!)
⑥同時に、今世紀末の世界文学を代表する(!)
⑦そればかりか、21世紀の文学を予言する(!)
ぼくの能力は出し尽くした気がする。
いま、これ以上のものは書けない。(著者)
「すべて」がやってきた
高橋源一郎の『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み終わった時、それまで自分がほそぼそと建ててきた(つもりでいた)すべてがぶっ壊れた。文学に限ったことではない。
それまで俺は様々なことについて「どこかにもうある程度のものは建てられていて、自分はそこになにほどかのものを付け加えられるだろうか」という風に考えていたのだ。そしてそれは極めて恣意的な考え方だった。俺が勝手にそう信じ込んでいただけで、その姿勢でいいのかどうか、ちゃんと考えたことがなかったのだ。
俺は俺の中に権威主義者を発見したのだった。
権威とはなにかというと「説明をしないで済ませる力」のことだ。権威が発揮される場面というと、なにか「上」の人間や組織が「下」の存在に対して「説明しません」というパターンが目立つけれども、「自分」が「自分」に対して「説明しません」というのもあって、それは「誰か詳しい偉い人〜説明してください!」とか「説明しなくてもいいですよこうなんですよねそうすりゃいいんですよね」という形で「下」から「上」へ権威を与えるという動きを生み出す。なりたくもなかっただろうに「権威」になっちゃった人から漂ってくる悲哀というのはこのあたりに原因があると思う。権威は力であって人間ではない。力には経済があって、権威の経済は「上」と「下」という方向の概念を基盤として、権威という力を人々の営みのなかで循環させる。
権威主義者でなくなるということは、「上下」の世界から脱出すること、説明、とくに理由を説明できる精神であり続けることだ。
並大抵のことではない。一生かかっても俺にはできないかもしれない。
しかし少なくとも俺は自分のなかに権威主義者を発見できたのだった。なにも進んでいないわけではないと思った。
こうも思った。そもそもどこかで誰かが俺にとっての「すべて」を用意してくれているなんて、そんな話はないのだ。俺にとっての「すべて」は俺が自分自身で、素手で、ゼロからやっていかなければ触れることができないのだ。これはよく考えたら当たり前のことだった。恋について考えよう。すごい好きな人ができたとする。その人への「好き」が、「『好き』とは何かについて本や漫画やドラマや映画やアニメである程度知っているし先生や友人や同僚たちからも結構聞いたりしてきたから、今までに学んできた『好き』に加えてなにか独自の『好き』をプラスできたらいいなあ」みたいなものである、なんてことがありうるだろうか? だいたいこれじゃ「好き」の中に当の相手がいないじゃん。ガッときてバーン!でしょ。俺はこういうことに関して馬鹿で恥知らずなので正直にガッときてバーン!とか書いちゃうが、ともかく俺は自分で知っていたことすら知らなかったのだ。忘れていたといったほうが正しいかもしれない。人間は自分が知っていることしか知ることができない。でも自分にとっての「すべて」はみんな知っているのだ。まだ気づいていなかったり、忘れているだけなのだ。
すべての人はまったく同等と見なされます。しかしそうではありません。すべての人が同等に才能があるのではありません。才能は確かに至るところに流布しています。才能のない人はいません。才能がないなどということはありえないことです。かれらはみな才能をもっています。問題はどうすればあなた方のかけがえのなさが開花できるかということです。なぜなら自分自身のものでないものを学ぶことはできないからです。そんなことは不可能なことです。*1
こうも思った。いったん「すべて」があるとしよう。「すべて」はすべてなのだから、「いつ」や「どこ」に限定されることはない。しかし「すべて」は「ある」、「存在する」ともいえない。「すべて」は「ない」、「存在しない」をも含んでいなければすべてではないからだ。
そして「わたし」がある。
このことから何が言えるか。「わたし」はいつでもどこでもほんとうは「すべて」に触れられるはずなのだ。生まれる前でさえ、死んだ後でさえ! そのことはずっとむかしから変わらなかった(なぜなら「すべて」は「すべて」だから)。そして「すべて」へ向かい続けてきた生命たちがいて(どうして人間だけが「すべて」に触れられると言い切れるだろうか。ヤモリによる「すべて」が、ハエトリグモによる「すべて」が、ヒマワリによる「すべて」がどうしてないと言い切れるだろう)、人間は表現をすることができるので、「すべて」に触れることのできた人間はおのおのの仕方で「すべて」を表現した。
「すべて」はもののような真理、対象にとれるような真理ではない。もしかしたらそういう真理もあるのかもしれない。だがそういう物質的な真理は、質量を、重力を持ち、必然的に重い。そしてそれはおそらく「すべて」につながっていけるような真理ではないのだ。
「すべて」はたしかに真理と繋がっている(もちろん「すべて」だから)。しかしそこでいう真理は、その「すべて」であることのうちにあるのだ。だから「すべて」を表現しているものたちの見た目がお互いに全然違ったとしてもそれは大したことじゃない。みんなそれぞれのうちに「すべて」を持っているのだから。継ぎ目のないネットワーク、全体である部分しかもたない全体、そういう真理のありようが「すべて」と繋がっている。
そういう風に考えるようになってから『ゴーストバスターズ 冒険小説』を読み返してみると、この小説は「すべて」ではないような気がしたけれども、「『すべて』について書こうとしている小説」であり、また「『すべて』へと向かっていく小説」であるように思った。だから俺は最初にこの小説を読んだとき、「すべて」ということに気づけたのだ。単行本の帯の言葉を知ったのは、はじめて文庫版で小説を読んでから随分たったあとのことだった。
とてもじゃないが高橋源一郎『ゴーストバスターズ 冒険小説』のすべてについて書くことはできない。それは講談社文芸文庫版『ゴーストバスターズ 冒険小説』の「著者から読者へ」コーナーに「『ゴースト』の尻尾」というタイトルで収録された高橋源一郎の言葉を読んでみればわかる。高橋源一郎にとって小説を書くときに最も大事なことは「塊」=「小説の『魂』」の芽生えを捉えること、そしてその「塊」の秘密は「タイトル」の中に眠っているということを書いている。
というわけで、『ゴーストバスターズ』である。
ぼくは、この子に『ゴーストバスターズ』と名前をつけた。その名の通り、「ゴースト」をやっつける物語である。それ以外には、なにも決まっていなかった。ぼくは、登場人物たちに、「ゴースト」を退治に出かける旅に出るよう命じた。
「ぼくが、きみたちの旅を記録してあげるから」
そして、「ゴースト」退治の旅を記録するぼくの旅が始まった。だが、その旅が始まった時、ぼくは、その旅が、どれほど過酷なものになるのか知らなかったのだ。
『ゴーストバスターズ』は、最初の着想から完成まで、七年以上かかっている。いや、正直にいおう、ぼくが(登場人物たちが)退治しようとした「ゴースト」は、ぼくが(登場人物たちが)想像していたより遥かに巨大な怪物だった。ぼくは、その怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかったのだ。
あれから十数年。ぼくは、いまも、ひそかに「ゴースト」を追っている。なんとか、「ゴースト」の背中を捕まえつつあるような気がしている。
もしかしたら、この『ゴーストバスターズ』以降の小説もすべて、タイトルは『ゴーストバスターズ』でよかったのかもしれませんね。*2
当の作者自身においてすら、『ゴーストバスターズ』は書ききれていないのだ。じっさい『「悪」と戦う』(2010年)を読んだ時、俺は高橋源一郎が10年以上の時を経てなおまだ『ゴーストバスターズ』でありつづけていることをまざまざと見せつけられ、その根性と体力と誠実さに感動した。『ゴーストバスターズ 冒険小説』はそれほどにデカいものなのだ。*3
なので、ここでは、タイトルと、扉に引用された詩、冒頭について書く。「すべて」への扉はどこにでもある。大事なのは最初、ゼロ、冒頭に出会うことだ。
タイトルのふたつの由来
『ゴーストバスターズ 冒険小説』。
この小説のタイトルを見た時、いくらかの読者は「ああ、あの映画の」と思い、多くの読者は「妙な副題だな」と思うだろう。なんでわざわざ「冒険小説」って入れるの? 読んだらそう分かるんじゃないの? ここにはふたつの元ネタがあり、ひとつは言うまでもない、1984年に公開された映画『ゴーストバスターズ』だ。もちろん単にタイトルを拝借したというのではない。重要なところをピックアップしていこう。
①映画『ゴーストバスターズ』において最初にゴーストが登場する場所はニューヨーク市立図書館、世界最大級の公共図書館だ。そしてゴーストバスターズのひとり、イゴン・スペングラーは、電話番や受付を担うゴーストバスターズ事務員のジャニーンに「読書はお好き?」と聞かれ、「活字は死んだ(Print is dead.)」と答える。ジャニーンは読書が好きで、インテリの趣味にぴったりだと思っている。「ゴーストバスターズ」の面々は大学を追放されたインテリたちだが、最後まで(少なくとも趣味としての)読書をしているような形跡はない。この映画はすでに最初から、1980年代における書物の凋落をバックグラウンドに抱えていた。すでにニューヨーク市立図書館は「遺跡」だった。これは同時に、ニューヨーク市立図書館が「遺跡」である1980年代アメリカの世界と、ゴーストの世界をつなげる役割を果たす人間は、読書が好きな事務員である、ということも意味している。
②最後のゴーストもまた「遺跡」に現れる。最後の戦いの舞台となった奇怪なマンションは、イヴォ・シャンドアというヤバい医者の手によって設計されたのだが、そのきっかけは第一次世界大戦だった。戦争による世界への絶望が彼を破滅の神への信仰に走らせたのだ。
③大学を追放されたあと「ゴーストバスターズ」を起業した面々が発信するテレビCM。ここには「We're ready to believe you(あなたを信じる用意はできています)」、字幕では「いかなる話も信じます」という台詞が出てくる。小説、近代の小説においていまだ巨大なメルクマールであり続けているセルバンデス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語を信じ込んでしまった男ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと、騎士道物語を信じ込んでいないお供のサンチョ・パンサを主人公とした、騎士道物語のパロディとして世に現れた。小説は聖典ではない。つまりそれは信じられるものではない。小説家は伝えるに値すると信じる何か、自分自身でもはっきり掴めているかどうかすら分からない何かを、不信を通じて それは単に通り過ぎる、通り抜けることができるというようなものではなくて、格闘、それも自らの影との格闘を強いられ、通り抜けられるかもわからないようなものなのだが 人々に届けようとする。それはゴーストバスターズたちの「We're ready to believe you」とは対照的な姿勢だ。どうしてゴーストバスターズたちはそうあることができるのか。
④それはラスボスのことを考えるとはっきりしてくる。ラスボスたるゴーザ神は、最初こそ人の形をしているが、途中で姿を消す。そして空と扉が光り輝く中、ゴーザ神の声だけが聞こえる。ゴーザ神はゴーストバスターズたちに「この世に破壊を持たらす者の形」を選択させる。何も考えなければ、イメージを思い浮かべなければ大丈夫だとにらんだピーターの声掛けも虚しく、レイが「マシュマロ・マン」をイメージしてしまったため、ゴーザ神は破滅をもたらす「マシュマロ・マン」を降臨させたのだった。ここに映画『ゴーストバスターズ』と高橋源一郎の小説『ゴーストバスターズ』の最大の違いがある。映画において、ゴーストは基本的に「映る」のだ。難しい言い方をすると、映画の力はゴーストを表象可能にしてしまう。表象できてしまえば対象にとれるようになる。目の前に見えているのに見えるも見えないもない。ゴーストバスターズの面々は、ニューヨーク市立図書館における「ゴースト」との初遭遇のときこそなすすべがなかったものの、すぐに「原子力エネルギー」を用いるなどして対ゴースト装備を次から次へ準備し、実際ゴースト退治に成功してしまう。納得できるような原理の説明はない。そういうものだからそうなるのだ。最初の最初から「ゴースト」とは何か、と考えようとしたときに、表象可能であることを前提にしていいのだろうか?
「ゴーストバスターズ」というタイトルが高橋源一郎の元に降りてきた。このタイトルの中に「塊」=「小説の魂」の秘密が眠っている。この映画『ゴーストバスターズ』には戦争を、小説を、文学を考え続けてきた高橋源一郎にとって無視し得ないものがたくさん含まれていた。この映画は明らかに「活字は死んだ」→「小説は死んだ」という認識の上で撮影されており、なおかつ戦争というものがまだ終わっていないことを認識している。しかし映画『ゴーストバスターズ』は本当に「ゴーストバスターズ」の秘密に触れることができたといえるのだろうか?
こうして『ゴーストバスターズ』は、『ゴーストバスターズ』でありながら『ゴーストバスターズ』でないものを書くとなったときに、これ以外にありえないタイトルとして降りてきたのだと俺は思う。
もうひとつの由来、というか副題の「冒険小説」にも由来があるのだ。それは自分の指の間から砂になった水のようにこぼれ落ちていくアメリカを見つめ続け、詩であるままに(散文詩的に書くということではなく)小説を書くという、英雄的としかいえない行為のうちに斃れたアメリカの詩人であり小説家、リチャード・ブローティガンだ。
ブローティガンは、邦題では『愛のゆくえ』となっている『中絶:歴史的なロマンス1966年』から、異なるジャンルでアメリカを描くプロジェクトを始めた。そしてその中に『ゴーストバスターズ』にうってつけの作品があるのだ。それは『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』である。翻訳者の藤本和子による解説によれば、ブローティガンはこのどこかギクシャクしたものを覚える小説の映画化を目指し、シナリオを書いていたらしい。高橋源一郎はそのことを知っていたはずだ。それ以前に自分の小説に書いているのだから。
わたしは悲しかった。
わたしは「現代名文全集」に必ず載っている「城の崎にて」の哀れな蜂の死躰のように悲しかった。
わたしが蜂だったら、絶対に志賀直哉の前では死ななかったのに。
蜂さんたち! どうせ死ぬならリチャード・ブローティガンの前で死ねば良かったのに。
〈ホークライン家の怪物・Ⅱ〉は缶のビールを蜂の上からぶっかけた。
「いつまで死んだまねをしてやがるんだよ、ばーかめ!」
死んでいた蜂はあわてて生き返ると、メガネを探した。
「ないぞ! ないぞ! 昨日、丸井のクレジットで買ったばかりの境い目のない遠近両用メガネ『バリラックスⅡ』が見つかんない!』*4(強調は原文ママ)
『ホークライン家の怪物:ゴシック・ウエスタン』はハワイから始まる。そこでは殺し屋のふたり、グリアとキャメロンが、地元である東オレゴンの服装、すなわち「カウボーイ」の服装をしてターゲットを暗殺しようとしていた。だが無理だった。ふたりには殺れなかった。そしてふたりはアメリカ本土に帰って来る。オレゴン州ポートランドで彼らは、彼らへの依頼を携えた「マジック・チャイルド」という謎の少女に導かれ、「死の山」を越えて、東オレゴンの辺境にあるホークライン家の屋敷にたどり着く。そこで依頼人のミス・ホークラインから「怪物退治」を依頼されるのだ。*5ここに『ゴーストバスターズ』のブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの影を見るなという方が難しい。
The History of Bolivia
"Butch didn't die in Bolivia. He came
home to Utah I saw him after he got back.
The Sundance Kid was killed in Bolivia
and it grieved Butch to leave him there."
ボリヴィアの歴史
「ブッチはボリヴィアでは死ななかったのさ。
やつは故郷のユタに帰ってきていたんだよ。
わたしは、会ったから知ってるんだ。
サンダンス・キッドがボリヴィアで殺されたからね。
やつはとても悲しんでいたっけ。
あんなところにいつまでもいたくなかったのさ」*6
そして『ホークライン家の怪物』に漂うギクシャク感の要因のひとつであろう、唐突に思えるエピローグ。ここで主人公がオレゴン州であったことがわかるのだが、さりげなく重要なことが書かれている。殺し屋のひとりであったキャメロンは、第一次世界大戦の直前に「映画プロデューサー」になったというのだ!
小説ということをおいても年齢からしてかなり厳しそうなのだが、それでも映画『ゴーストバスターズ』を高橋源一郎に向けてプロデュースしたのは、このキャメロンではないのだろうか、と言いたくなる。
まず「ゴーストバスターズ」というタイトルが降りてきた。そしてその秘密を探っているうちに、おそらく『ホークライン家の怪物』という作品、ブローティガンの遺した小説に、意識してか知らずか行き当たったのだ。だから必然的に、この小説の書き出しの一行目は「アメリカ」という固有名詞で始まる。21世紀にもし文学があるとしたら、とくに日本文学があるとしたら、日本文学が20世紀の自らを振り返るとき、その起点は1945年の敗戦によって始まるだろう。べつに「現代」仮名遣いだけの話ではない。いや、そもそも敗戦した日本が造られたきっかけもまた、「アメリカ」の黒船だったことを思い出さなければならない。近代日本文学は、日本とアメリカとの衝突によって生まれたのだから。
しかしそんなデカい話を、このタイトルひとつから言ってもいいのだろうか。それを確かめるために、ある系譜をたどってみたい。それには『ホークライン家の怪物』から漂ってくるギクシャクのもう一つの理由である「怪物」について考える必要がある。ブローティガンをさらに遡り、「ゴーストの系譜」を追ってみよう。
ゴーストの系譜
Formal Portrait
I like to think of Frankenstein as a huge keyhole
and the laboratory as the key that turn the lock
and everything that happens afterward as just the
lock turning.
公式的な肖像
フランケンシュタインというと
わたしが連想するのは大きな鍵穴だ
なんだかそんな気がするな
すると研究室は錠を回すための鍵だろうか
誰かが鍵穴に鍵をつっこんだ
それだけのこと*7
いきなりだが、俺はゴーストの「起源」がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』にあると考えている。
サンチョ・パンサの言葉ではないが、何事にも始まりがあり、その始まりはそれに先立つものと結びついていなければならない。ヒンドゥー教徒はこの世界を一頭の象に支えてもらっているが、その像だって一匹の亀の上に立っている。創作とはしたがって、無ではなく混沌から生まれると認めざるを得ないのだ。まず第一にかたちのない素材があって、それにかたちを与えていくのであって、かたちから材料が生まれてくるわけではない。発見でも発明でもすべて同じことで、仮に創造にかかわることであっても、わたしたちは常にコロンブスの卵の話を思い出す必要がある。創作は、ある主題に込められた可能性をつかみ取る能力、その主題が紡ぎ出すアイデアをかたちにする能力があってはじめて成し遂げることができるのだ。*8(強調は引用者)
よく言われる話だが『フランケンシュタイン』に出てくる怪物の名前は「フランケンシュタイン」ではない。怪物には名前がない。フランケンシュタインはジュネーヴに生まれ、怪物はインゴルシュタットで生まれた。怪物の作り方のベースには生理学があっただろう。怪物の創造、その核心部分はフランケンシュタイン自身の考えによってこちらには明らかにされない。どうやら怪物の作成にあたり、フランケンシュタインは人間に限らず、多くの動物の死体を材料にしているようだ。心さえなければ美醜に苦しむこともなかった。これ以上ないほど醜い怪物は、創造主たるフランケンシュタインに対して、自分と同じように醜い女の怪物を作れと迫る。
北西アメリカ、すなわち東オレゴンであれば完璧だったのだが、そこまで符合を求めるのは贅沢だしやりすぎというものだろう。ヨーロッパで生まれた怪物は、ヨーロッパにいてはならない。怪物はアメリカに去らねばならないのだ。そしておそらく小説の20世紀とはアメリカの20世紀だったのだった。ジョイス、プルーストらが巨大なヨーロッパの花火を打ち上げ、カフカが『アメリカ』の途上で倒れたあと、フォークナーが、ヘミングウェイが、フィッツジェラルドがやってきて、ビートニクが、ブラッドベリやらウィリアム・ギブスンやらありとあらゆるSFが、そしてピンチョン、スティーヴ・エリクソンが……というようにして、世界はアメリカが書くということになった(ところでドス・パソスのU.S.A.三部作は新訳出ないんですか?)。*10
ブローティガンの娘は1960年に生まれる。アイアンシ(Ianthe)という名の娘はブローティガンが死んだ翌年、エリザベスという女の子を産んだ。
かれが死んで一年後に、アイアンシは女の子を産んだ。名をエリザベスとつけたが、それは彼女のミドル・ネームでもある。アイアンシという名はギリシャ語で「紫の花」を意味している。詩人のシェリーが自分の娘につけた名で、いい名だといって両親は生まれた娘にそう名づけたのだったが、「変わった名だから、こんな名はいやだ、と思うようなことになったら、きみはミドル・ネームのエリザベスを名乗ればいいんだよ」と父ブローティガンはいったという。*11(強調は引用者)
ここで「詩人のシェリー」とあるのが、『フランケンシュタイン』の初版で作者に成り代わって序文を書いた男、メアリー・シェリーの夫パーシー・シェリーにほかならない。パーシーは前妻ハリエット・ウェストブルックとの間に生まれた娘にアイアンシと名付けたのだった。
フランケンシュタインという、知への情熱と名誉に憑かれた男が怪物を作り出す。そして彼がその怪物退治を、かつての彼と同じ種類の情熱を燃やす(その対象は新しい北極方面への航路開拓や磁力の秘密の解明といったことだが)、冒頭の手紙の書き手ロバート・ウォルトンへ継承しようとする。怪物の創生と退治、その継承というテーマは、パーシーをフランケンシュタインと見立てたときさらに重層性を帯びてくる。小説中、最初に「フランケンシュタイン」という語が出てくるのは、恩師ヴァルドマン教授と会話をする場面だ。
教授が言葉を続けるに従い、わたしは自分の心が、触れることができるほど近くの敵と戦っているような気分になっていきます。わたしという存在をかたちづくっているさまざまな鍵盤の一つ一つに触れ、次々に和音が奏でられ、まもなく頭のなかが一つの考え、概念、目的によって満たされる。これだけのことが成し遂げられたのだ、わたしのなかにあるフランケンシュタインの心(the soul of Frankenstein)がそう叫び声をあげました。*12(強調は引用者、英語原文はProject Gutenberg(https://www.gutenberg.org/files/84/84-h/84-h.htm)から引いた。)
ここですでにしてヴィクターはその表現の仕方の通り、自分のうちにある「フランケンシュタインの心」を他者であるかのように見つめている。怪物の名前が「フランケンシュタイン」と誤認されることにもいわれがないわけではない。確かにヴィクター・フランケンシュタインはすでに怪物を作る前から怪物じみたものを持っていた。
『フランケンシュタイン』初版の序文は、妙な昂揚感と浮足立った自信がある。新規性を訴え、自分の成果を誇る(「これまでにないもので、その意味で評価の対象になるだろう」や「大胆な新機軸を打ち出した」)。1831年版の「まえがき」において、メアリーは初版の序文が代筆された事実を明かしている。
初めはわずか数ページ、短い話にするつもりだった。しかしシェリーが、そのアイデアを発展させて、もっと長いものにしたほうがいいと言ったのである。とはいっても、事件一つ書くのにも、あるいは一つながりの感情を描くのにも、夫の助けを借りたことはない。彼の激励がなければ、今のようなかたちでこの物語が世に出ることはなかったのも事実だが 。ただしここでも例外があることを言い添えておかなければならない。すなわち、わたしの記憶によれば、次に掲げる初版の序文は、すべて夫のシェリーが書いたのである。*13
ここにおいて「ゴーストの起源」としての『フランケンシュタイン』は最大の広がりをもつことになる。パーシー・シェリーはその激励によって「メアリー・シェリー」という小説家を創造したのだが、彼は自らがその「メアリー・シェリー」に成り代わって序文を書くところまで突進した。*14まるでフランケンシュタインがことの最初から怪物たる「フランケンシュタインの心」を持っていたかのように。そしてここで造られた「怪物」は意志を持っており、後年その手によって「私はフランケンシュタインに造られたのではない」と宣言する。しかしそれですべてがすっきりするわけではない。そのことは『フランケンシュタイン』のような作品を創作すること自体に関わっている。「現代のプロメテウス」としてのフランケンシュタイン。プロメテウスは神の領域にあるはずの創造の火を人間の手に引き渡した。その罪によってプロメテウスは罰されることになるわけだが、ここでメアリーが創作を、無からではなく混沌から生まれるものだと考えていたこと、そしてその創作には創造にかかわることさえも組み入れていたことを思い出す必要がある。フランケンシュタインが怪物を作ったことと、メアリーが『フランケンシュタイン』を書いたことと、パーシーがメアリーに対してやったことは、どれほどの違いがあるのだろうか。もし創作と創造の根本に本質的な違いがないとしたら、つまり神の手にある創造の火と人間の手にあるそれとの間に本質的な違いがないのだとしたら、あのフランケンシュタインが行った「怪物」の創造が悪であることは、創造そのものが悪であること、少なくとも創作することそのものが悪である可能性を示唆してはいないだろうか。
「ゴーストの起源」には「小説を書くことそのものの悪」というテーマが潜んでいるのだ。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に比べると、ブローティガンの『ホークライン家の怪物』には「小説を書くことそのものの悪」というテーマの影は薄いように思える。そんなことブローティガンは考えなかったのかもしれない。だがこのテーマをまっすぐ書きえなかった理由の一端は分かる。先にも書いたことだが、『フランケンシュタイン』の頃にはなかったものが、『ホークライン家の怪物』の舞台となった1901年にはすでに登場してしまっている。映画だ。もはや物語といえば文学、という図式が成立しなくなっていくだろう。東オレゴンのホークライン湖。
そこはオレゴン州でもかなり辺鄙な土地で、道路もひどく貧弱だったから、その湖が人の多く集まるレクリエーションの場として発展することは全然なかった。現在も訪れる人はすくない。*15
ホークライン湖、ひいては東オレゴンとは小説のことでもあるのだ。現在も訪れる人はすくない、そんな土地。先述の通り、殺し屋のひとりであるキャメロンは映画プロデューサーになったのだった。『フランケンシュタイン』は何度も映画化されたが、結局今になるまで『ホークライン家の怪物』は映画化されていない。こんなに映画化されなかった理由の一つには、おそらく、ブローティガンが書いた怪物が妙に複雑でイメージしにくいということがある。フランケンシュタインの怪物は生理学を基調としていたが、ホークライン家の怪物は化学、それもミス・ホークラインの父の化学実験から生まれたらしい。しかしミス・ホークラインがいうには、それは実験の途上にあるものであり、娘としては父に託された実験を完遂したい、犬が食われたりしたのは実験の途中で起きた事故のようなものだというのだ。いっときはそのものずばり〈化学物質〉と呼ばれることもある怪物だが、しかし〈化学物質〉それ自体が怪物なのではない。〈化学物質〉だってもとはといえばミス・ホークラインの父親の最後の実験をそう呼んでしまったのがはじまりだ。〈化学物質〉に電気を通した結果犬や父がいなくなるなどの変なことが起こって……ああややこしい!
だいたい怪物の見た目がよくわからない。少なくとも『フランケンシュタイン』の怪物のように掴めそうには思えない。怪物たる〈化学物質〉は光を発し、そして影を生む。〈化学物質〉には古今東西のありとあらゆる物質が混ぜ合わされている。エジプトのピラミッドからとってきたもの、古代中国、ローマ、ギリシャからのものもある(アトランティスのものさえも?)。混ぜ合わされた〈化学物質〉に電気を通すと(この点『フランケンシュタイン』を生み出したガルヴァーニ電流の発見を思い起こさせる)、おかしなことが起こった。まだわからない。怪物が怪力を持ち、吠えたてることは分かる。だがどんな見た目をしているのか、わからない。そもそも怪物は作中で姿形を自由自在に変えている。その正体らしきものが書かれている部分を引いてみよう。
しかし、怪物が〈化学物質〉中で変質した光によってつくりだされる幻であるとは、ふたりは気がつかなかった。光はその意志を作用させて人間の心と物体を左右させる力を持っていて、そのいたずら好きの心に合うように、現実の性格そのものを変えてしまうのだった。
光は胎児が臍の緒をとおしてしか夕食をとることができないのとおなじように、〈化学物質〉から滋養をとらなければならなかった。
短い時間なら、光は〈化学物質〉を離れていることができるが、生気を回復するためにも眠るためにも〈化学物質〉へ戻らなければならない。光にとって、〈化学物質〉はレストランでありホテルである。
光はいくつもの小さな可変性の形たちに変身することができて、仲間に影を連れていた。影は滑稽な変種で、全面的に光に屈従していた。じぶんの役割にはかなり不満で、〈化学物質〉の中を調和が支配していた昔のことを思い出すのが好きだった。*16
『フランケンシュタイン』は創造された過程こそヴェールに包まれているが、その見た目自体ははっきりとしており、カメラに映しやすい。いっぽうで『ホークライン家の怪物』はカメラに映ることに抵抗しているように思える。というか、この怪物、すなわち光によってつくりだされる幻というのは、映画そのものではないか。映画それ自体を怪物として映画が撮ることはできない。その点ではデニス・ホッパーすら失敗してるんだぞ。『ラストムービー』大好きだけど。古今東西あらゆる物質を混ぜて造られた〈化学物質〉。それは歴史のことだ。エジソンを見ると、電気を流すと映画ができたことがわかる。1895年、アメリカの海の向こう側でやはり映画を作っていた兄弟のファミリー・ネームが「リュミエール(Lumière, 光)」であることにはいつまでも感動させられるが、光によってつくりだされる幻は、ここでは怪物と呼ばれるのだ。いったいブローティガンは、マジにこんな小説を映画界に売り込めると思っていたのだろうか? でも映画化するのか……マジで? 2020年にヨルゴス・ランティモスが映画化するってニュースがあったけどそれから続報聞いてないが……*17
『ホークライン家の怪物』が『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ 冒険小説』を橋渡ししていると強く感じられるのは、殺し屋ふたりがミス・ホークラインから怪物のことを聞こうとするシーンだ。ミス・ホークラインは怪物の話をしようとしているのに、なぜか別の話になってしまう。いつの間にかハワイの話になったりするし、怪物の潜んでいる場所をめぐる「地下室の下にある氷の洞窟」と「地下室」との混同に躓いたりする。重要なのはその後のシーンだ。また話がおかしくなりそうになるところで、その台詞は発される。
「また話が脱線してるわ」ともうひとりのミス・ホークラインがいった。「どうなっちゃってるんでしょ。説明するのは簡単なはずなのに、なんだか急に、とてもこんがらがっちゃった。話がどんどんおかしなほうへ行っちゃって、まるで変だわ」
「キビ悪いな」といったのはグリアだ。「いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか」
「なに話してたんだっけ」と、ミス・ホークライン。もうひとりのミス・ホークラインのほうを向いた。「なにを話してたか思い出せて?」
「忘れちゃった」ともうひとりのミス・ホークラインが答えた。「ハワイのことだったかしら?」
「ついさっきは、ハワイのことを話してたさ」とグリア。「でも、そのあとは、なにかべつのことを話し合っていたのだ。なんだっけか?」
「ハワイのことだったかもしれない」とキャメロンがいった。「そう、ハワイのことを話してたんだ。あのさ、ちょっと、寒いみたいじゃないか?」*18(強調は引用者)
「いおうとすることがちゃんといえないみたいな気がしないか」。ここで怪物をめぐって、言葉という問題は直接的に小説の表舞台へせり上がってくる。ふたりの殺し屋が冒頭で暗殺に失敗したハワイ。ハワイの話がここでループしている。このループは『ゴーストバスターズ 冒険小説』にも受け継がれる、あるいは受け継がれてしまうことになる。だが『ホークライン家の怪物』ではグリアとキャメロンの殺し屋ふたりは怪物を倒すことに成功する。〈化学物質〉の瓶を見つけたキャメロンは、それが怪物の正体、というより、根源をなすものだと気づく。
ホークライン家の女たちが語ったことから推して、これが〈ホークライン家の怪物〉の根源をなすものだとわかった。……そうだ、〈化学物質〉なのだ。かれは瓶からおよそ三メートルのところに立っている。そして、問題の怪物はその瓶から一・五メートルのところに"かくれて"いる。
とつぜん、キャメロンががなり立てた。「おい、そこだ! それだっ!」
グリアは、怒鳴り声をあげ指さしているキャメロンの方を向いた。なにがなんだかさっぱりわからない。なぜキャメロンは怒鳴っているんだ。全然キャメロンらしくない。だが、とりあえずかれは指さされている方角を見た。
〈ホークライン家の怪物〉も、なんだろうかと興味をそそられた。なんだっていうんだ? ここだというのに、あっちだというのはどういうことだ?*19(強調は引用者)
そして怪物は意外な方法で倒され、怪物は屋敷ごと焼け落ちてしまう。スクリーンそのものでもあった屋敷はもうない。映画は焼け落ちた映画館では上映できないのだ。闇が、影がなければ光のいたずらはできない。そのきっかけは言ってしまえば見ての通り「あっち向いてホイ」のレベルの話だが、このわずかなことばのズレによって怪物の命運は尽きたことになる。
なぜ『ホークライン家の怪物』は倒せたのか。それは、ややこしいとはいえ怪物が表象可能なものとして取り扱われていたからだ。怪物の根っこには物質があり、物質は表象可能なものである。ゴーストの系譜において、『ホークライン家の怪物』は『フランケンシュタイン』と『ゴーストバスターズ』のちょうど中間に位置している。表象可能であり、なんどもスクリーンに、ブラウン管に、ディスプレイに映されてきた『フランケンシュタイン』と、表象可能な根源=物質と、表象不可能な(なぜなら光は表象可能性/不可能性を可能にするものそのものであるから)本質の両方を併せ持つ『ホークライン家の怪物』。*2019世紀から20世紀へ、抽象化・複雑化と表象不可能性への道をじりじり進んでいく歴史。本編では叶わなかったであろう希望は叶えられ、「怪物」はヨーロッパから海を渡ってアメリカへやってきた。その「怪物」をブローティガンが蒸留し、キャメロンはそれを「ゴースト」として、映画としてプロデュースする。そうしてアメリカからやってきた『ゴーストバスターズ』にぶつかり日本で高橋源一郎が書いた『ゴーストバスターズ』においては、もはやゴーストは捉えきれない。そうやって「怪物の尻尾(?)を捕まえただけで退却せざるをえなかった」戦いが、20世紀の終わりに戦われたのだった。
詩という「すべて」との対峙
『ゴーストバスターズ 冒険小説』の冒頭にはエピグラフがある。こうある。
一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る S・T
最初にこのエピグラフが印刷されたページが目に入ったとき、俺は「S・T」のことを「T・S・エリオット」が省略されたものに空目した(中途半端にものを知っていたっていいことはないね)。そんなわけないとすぐ思い直し、イニシャルが「S・T」になる詩人のリストを頭の中で探していった。そして一個も出なかった。なんにも知らんのじゃないか俺は。インターネットにすぐ逃げる。サミュエル・テイラー・コールリッジ……なわけないな。ディラン・トマスはD・Tだし(雲行きが怪しい)……となり、すぐに観念して本文で検索すると出た。すぐに納得した。これはShuntaro Tanikawa、谷川俊太郎の詩だったのだ。その後もインターネットをゴチャゴチャした結果、どうやら当該作が『世間知ラズ』という古書価のすっごい詩集に収録されていることが分かり、祈るように図書館を調べると、ありました。とても助かりながら『世間知ラズ』を借りると、それはとても素晴らしい詩だった。全文を引用するほかない。
一篇
一篇の詩を書いてしまうと世界はそこで終わる
それはいまガタンと閉まった戸の音が
もう二度と繰り返されないのと同じくらいどうでもいいことだが
詩を書いていると信じる者たちはそこに独特な現実を見い出す
日常と紙一重の慎重に選ばれた現実
言葉だけかと言えばそうも言えない
ある人には美しくある人には訳のわからない魂の
言い難い混乱と秩序
一篇の詩は他の一篇とつながり
その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり
詩もひとつの世界をかたちづくっているが
それはたとえば観客で溢れた野球場とどう違うのだろうか
法や契約や物語の散文を一方に載せ
詩を他方に載せた天秤があるとすると
それがどちらにも傾かず時にかすかに時に激しく揺れながら
どうにか平衡を保っていることが望ましいとぼくは思うが
もっと過激な考えの者もいるかもしれない
一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る
その味わいはぼくらをここから追放するのかそれとも
ぼくらをここに囲いこんでしまうのか
絶滅しかけた珍しい動物みたいに*21
引用されたエピグラフがいつでも引用してきた文章に奉仕するわけではない。もちろん引用された文章と引用してきた文章が互いを全体として解釈しあうということもある。だがここで言いたいことはそういうことではない。
思うに、対峙するエピグラフというのがあるのだ。『世間知ラズ』に収録された別の詩篇を見てみるとそのことはよりはっきりする。「北軽井沢日録」から何日分か引いてみよう。
小鳥たちは何故近づいてこないんだ
双眼鏡を片手に
もうずいぶん長い間ぼくは待ってる
やはり仲間はずれか
うたう歌が違うのか
そうなのさ
ぼくはいつの間にか
同じ歌を繰り返す退屈に我慢出来なくなった
ヒトという生きもの
結局ひとつ歌をうたっているに過ぎないのに
君たちの空から見れば
七月三十一日
太陽は光の網を張りめぐらす巨大な蜘蛛
捕えられてぼくはもがく
その快さが詩だとしたら
ヒトの手では救えぬものにぼくは執着している
八月十一日
我慢するしかないと思う
気にいらないすべてを
だってそれはそこにあるのだから
大昔から
どんなに言葉でごまかそうとしても
だからと言って唐突な喜びが消え失せてしまうわけでもないさ
ヒトはいつだってはみ出して生きてきたんだ
観念からも思想からも
たぶん神からも
八月十五日
蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない
だが世界を変えるのがそんなに大事か
どんなに頑張ったって詩は新しくはならない
詩は歴史よりも古いんだ
もし新しく見えるときがあるとすれば
それは詩が世界は変わらないということを
繰り返しぼくらに納得させてくれるとき
そのつつましくも傲慢な語り口で
八月十五日
ぼくらの土地に育った言葉は
おしゃべりを忌む
さらりと言ってのけて知らんぷりして
言葉に言葉を重ねたりせず
ほんとはいつでも無言を目指して
歴史なんてなかったかのように
いつでも白紙で今を始めて
言葉で捕まえようとすると
するりと逃げてしまうものがある
その逃げてしまうものこそ最高の獲物と信じて
この土地に育つ言葉は
この土地に
生まれたぼくらを困らせる
九月四日*22
『ゴーストバスターズ 冒険小説』と『世間知ラズ』の両方の読者なら、たとえばここで出てくる「蛙が古池に飛び込んだからといって世界は変わらない」という一節から、小説内で躍動していたBA-SHOやSO-RAのことを思い出すだろう。いったんそれはいい。俺が言いたいのは、ここで引いてみた詩を読んでいると、谷川俊太郎がすでにこの詩集において「ゴーストとは何か?」という問いには答えていないものの、「『ゴーストを追う』とは何か?」あるいは「『ゴーストを退治する』とは何か?」ということについて、詩人としての立場からすでに答えを出してしまっているように思えるということだ。
さて「一篇」へ、扉の一節へ戻ろう。
なぜ高橋源一郎はここで「谷川俊太郎」と書かずに「S・T」と書いたか?
答えのひとつは先にも述べた小説の冒頭にある。この小説は「アメリカ」からはじめなければならないということはすでに確認した。おそらく1997年当時だと、まだ日本人の姓名も英語表記では名、姓の順番に表記するのが一般的なはずだ。日本語と同じ順番で姓名を表記するハンガリー出身の有名な作曲家、ベーラ・バルトークの日本語ウィキペディアが、いつの間にか名前の表記を「バルトーク・ベーラ」に変更していたのが懐かしい。あれはいつのことだっただろうか。
ともあれ俺はもうひとつの答えのほうが重要じゃないかと思っている。
俺はこの「S・T」が、「E・T」に重ね合わされているのだと確信している。
もちろんタイトルが『ゴーストバスターズ』という、映画からの直球の引用だからというのもあるが、それだけではない。*23なんせ谷川俊太郎は、火星人のようにデビューした詩人である。
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いはネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ*24
詩人とは火星人であり、重力を逃れ自由にある。小説家は地球の地表で這いずり回る。「正義の味方」超人マンであるタカハシさんですらやはり地球の重力に縛られているのである。火星の蝶である詩人は光の網のうちに捉えられるのだが、それは光のうちにあるということであり、そこに影はない。つまりそこは闇や影、いいかえれば、ゴーストの領分ではないのだ。太陽の影というものはない。影を作り出すものがあるとしたらそれは詩人の身体だけだ。それが投影されうるのは光の網のはるか下に横たわる大地、地球の大地であり、散文の大地である。
高橋源一郎と谷川俊太郎は、これらの言葉がいつもある面では書かれただけ、言われただけであるということに敏感であり、「本心」やら「真実」やら「ほんとうのこと」と言葉の間に安定的な関係が結ばれうると心底からは信じていないという点において共通している。だがその共通点はそのまますぐに詩人と小説家との、あるいは詩と小説との和解が可能であることを意味するわけではない。「一篇」において詩と小説=散文は、天秤の両の皿にそれぞれ載せられるものとして書かれている。つまり詩と小説は天秤ということ、つまり平衡(とその破綻)という、「法」を超えた「法」によって隔てられている。
詩のなかに出てくる「野球場」の言葉でこの断絶と和解をとりまく緊張はさらに高まる。高橋源一郎は『優雅で感傷的な日本野球』という小説を書いている。どうやら詩にも小説にも野球場があるのだ。「一篇の詩は他の一篇とつながり/その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり/詩もひとつの世界をかたちづくっている」としよう。このつながりが詩を超えてひとつの小説にも繋がりうるのだとしたら、E・Tとタカハシさんとの間には繋がりができ、それは谷川俊太郎と高橋源一郎との間の繋がりへと降りてくるだろう。そしてそこには「日本文学」という野球場ができることになるだろう。だが谷川の詩を読む限りそんなことはできない。この詩篇には地名がない。それは「ここ」という言葉をぎりぎり許容するような世界において書かれる言葉である。谷川俊太郎の「野球場」は現実の地球上にはおそらく建設されたためしのない野球場なのだ。現実の野球場はどこかの土地に建てられる。それはどこかの国、領土をもった国家の土地に建てられるということだ。谷川の野球場は「『日本』文学」ではありえない。
それでも高橋源一郎はS・Tを小説が始まる前の扉に引くことを選んだ。『E.T.』の差し伸べる人差し指が地球人の人差し指と触れ合う。E・Tの人差し指は光から指差されるのだが、タカハシさんの人差し指は光を指差そうとしている。この人差し指の先という一点に賭けられたものは、「すべてを書くこと」と「すべてを書こうとすること」の間にある計り知れないほどの距離を高橋源一郎が痛いほど認識していながら、そうするより他になかったこと、つまり、小説を書くということではなかっただろうか。
ゴーストを見極めるために必要なものとはなにか。ゴーストを照らせるものがあるとしたら、それが光以外のなにであるだろうか?
「へ」を書くひと、高橋源一郎
ここではタイトルと、扉と、冒頭それも「アメリカ」の一語の話しかしなかった。「タカハシさん」の飛行に関する素晴らしい部分について書かなかった。読んでて泣きそうになる「ペンギン村に陽は落ちて」の章について書かなかった(「死」は「ゴースト」ではない!)。映画のフィルムの両端を微妙にずらしてくっつけた、破綻するループについて書かなかった。それが20世紀の末に書かれ、ループしたフィルムの切れ端は21世紀に到達しようがないことについて書かなかった(端がないのだから、そして21世紀の予言は21世紀にあることはできないのだから)。「すべて」を書こうとするためには「すべて」を書くことに失敗することすら書くことのうちに含まれていなければならなくて、だから『ゴーストバスターズ 冒険小説』は「すべて」を書くことに失敗することによって「すべて」を書こうとすることに成功したということについて書かなかった。それは今から書くことだ。
高橋源一郎は「なにか『を』』書く小説家ではない。「なにか『へ』」を書き続けてきた小説家だ。思えばデビュー作『さようなら、ギャングたち』からしてそうだった。「言葉のない世界」あるいは「言葉を失ってしまった世界」を生きる者たちが、その先「へ」と向かおうとしていた。読んでいて苦しくなる、しかし俺の大好きな『虹の彼方に』は、あの写真の部屋の外「へ」出ようともがいていた(この小説もループしていた)。小説の中に姿勢を書き込むということは、不動の、死んだ、物質である活字という条件を受け入れながら、しかしなお動くこと、動こうとすること、生きることを書こうとすることだ。いや、俺はこういうふうに言いたいのか。丸田洋渡の歌集『これからの友情』に多賀盛剛が寄せた文章はすべてが素晴らしくて、部分を引用することが難しい、というかできない文章で(でもほんとうはすべての文章がそうなんじゃなかったか。高橋源一郎もまた「本当なら全文引用したい」ということを折に触れて詩や小説に言ってきた人で、ひとつの小説を理解するためにはもう一冊分小説を書く必要があるとまで言っていたんじゃなかったか。違う作家だったっけ?)、これは嘘にしかならないのだけれども一部を引用するしかない。全文はみんなでよんでください。*25
にんげんはその日をぜんぶ記憶することはできひんけど、五百日かけてみえてくる人生がある、ひとつの短歌がにんげんからちょっとずつこぼれおちても、五百読んではじめてにんげんが手にふれられるものがあって、この世の歌集はだいたいこれくらいっていう短歌の数があるから、にんげんの手もその範囲におさまるんやけど、でもこれからの友情はそれをつきぬけてて、せやからはじめてとどくところがあって、できれば人生のなかの何時間かを確保して、この歌集をゆっくりいちどで読んでみるのをおすすめします、映画をいちどでみるように。それぞれの短歌を、じぶんのなかで、わかった、としないままで、手におえないままで。ざんねんながら、短歌はにんげんの手にはおえない、でも短歌っていう体験はあって、歌集っていう体験はあって、その最良のものがもしかしたらこの歌集にあるのかもしれない。*26(強調は引用者)
俺はこれは短歌に限った話じゃないと思う。俺は、人間は自分の手に負えないものを書くことができるということに驚き、自分にもできるかもしれないと思ってワクワクしてくる。たしかにフランケンシュタインは自分の手に負えないものを作った。でもそれ自体が悪いことだったんだろうか。あの、怪物を作っているときのフランケンシュタインが、どう読んでも喜びに満ち満ちている感じじゃなかったことが良くなかったんじゃないか。
建築家の仕事 私はこの話で終わらねばなりません は、つぎのような空間、つぎのような研究課題を見いだすことだと思います。つまりアヴェイラビリティ それはいまだここにはないものも、すでにあるものも含みます が、あなたに語りかける空間へと成熟するためのよりよき環境を保持することができ、そしてあなたのつくる空間がやがて来る人への捧げものの所在地であることを真にあきらかにすることができる、そのような空間を見いだすことです。(中略)たんなる専門家ではなく、真の建築家であるべきです。専門家であることは、あなたを覆い隠してしまいます。あなたは居ごこちがよくなり、みんなと同じように大いに称えられるので、いつのまにか自分を忘れてしまいます。仕事の評判はよく、そして終日ゴルフへでかけても、建物はどっちみち建てられるでしょう。しかしそれが何になるのでしょうか。ジョイが覆われているところに、どんなジョイがあるというのでしょうか。ジョイこそがわれわれの仕事におけるキー・ワードだと思います。ジョイを感覚すべきです。もしあなたが行っているもののなかにジョイがなければ、真に働いているとはいえないのです。生き抜かねばならない貧しい時代はあるものです。しかしながら、きっとジョイはうち勝つでしょう。*27(強調は原文ママ)
ジョイ。読んでいて、あるいは書いていて胃潰瘍になるような小説ではなく、胃の調子が良くなるような小説が書けたら、と思う。現れる「すべて」が、よろこびから生まれてくるような「すべて」であってほしいと、俺は思う。
補足:もうひとりの「ゴーストバスターズ」
高橋源一郎が『ゴーストバスターズ 冒険小説』で追究したものを、全く別の分野で追究した人間がいる。精神科医の神田橋條治だ。次の部分を読めばそのことが分かり、と同時に、ふたりの追ったものの微妙な違いも分かって来る気がする。
文字の世界がファントム界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。*28
医学を文学に濫用するなよ、という人もいるかもしれない。だが、初っ端からこうはじまる医学書というものは俺はほかに読んだことがない。
医療の対象はヒトのいのちです。医療を根本から考える手始めに、対象となるいのちについて空想をめぐらしてみることにします。*29
タイトルがもうすでに『「現場からの治療論」という物語』だ。俺はこのタイトルを見てすぐに、この本は医療の話であると同時に文学の話でもあると思った。空想は、メアリー・シェリーが小説を書くことよりも好きだったことだ。
優れた文学的名声をもつ両親から生まれた娘だったから、わたしが幼い頃から文筆に手を染めようと考えたことに不思議はあるまい。子供のときから手すさびに文章を書き、与えられた遊び時間に熱中したのが「物語を書く」ことだった。だが当時は、もっと好きなこともあった。それは空中に城を築くこと つまり白昼夢に耽ることだ。いろいろなことを次々に考えては、それを主題に、頭のなかで一連の事件を組み立てるのである。そうした夢は、実際に書くよりも、幻想的でずっと心地よかった。*30
ここで神田橋が空想し、物語るファントム(幻)と、小説家たちによって連綿と語られ続けてきたゴースト(亡霊)の違いははっきりしている。ファントムは取り憑かない。それはわたしたちの影のようなものだ。光とわたしたちがある限りファントムもありつづけるだろう。それは取り憑くということではない。ゴーストはそうじゃない。取り憑く。ファントムがいつ、どうやって、なぜゴーストになるのか、あるいは人間がファントムをゴーストにしてしまうのか、それはまだ俺にははっきりいうことはできない。だが次のようなことは言える。ファントムはたぶんバスターできない。だが、ゴーストはバスターできる。できそうな気がしたからこそ「ゴーストバスターズ」という言葉が生まれたんだろう。言葉というゴーストに取り憑かれてしまい、そのことに気づき、取り憑いてくる言葉を祓おうとする人々。言葉の力に自覚的であり、なおかつその力と対峙することを決めた人々。たとえばそういう小説家のことを「ゴーストバスターズ」と呼ぶんじゃないだろうか。
ありがとう高橋源一郎。
空想の好きだったメアリー・シェリー。メアリー、あなたは本当に小説家になりたかった?
魂をもって復刊してくれ。
*1:ルイス・カーン著、前田忠直編訳『ルイス・カーン建築論集』p13, 鹿島出版会, 2008
*2:高橋源一郎著『ゴーストバスターズ 冒険小説』pp373-374, 講談社文芸文庫, 2010
*3:よく考えると『ゴーストバスターズ 冒険小説』を書き終えた高橋源一郎がその後、タイトルモロの『あ・だ・る・と』(1999年)、田山花袋がアダルトビデオを撮り出す『日本文学盛衰史』(2001年)、「ニッポンのポルノ」と題された章のある『ゴヂラ』(2001年)、やっぱりタイトルモロの『官能小説家』(2002年)というように(文学史と)エロ方向へゴリッゴリに突っ込んでいったのは、「幽霊にはエロが効く」という、『今昔物語集』にすでに書かれているほどには伝統的な除霊の技術に則ったものといえるかもしれない。巻二十七第二十四話「人の妻、死にて後、本の形となりて旧夫に会う語」を読んでほしい(武石彰夫訳『全現代語訳 今昔物語集 本朝世俗篇下』pp85-90, 講談社学術文庫, 2016)。これは除霊しようと思ってセックスした話ではなく、セックスしたらうっかり除霊してしまったという話だが、除霊は除霊だ。ともかくゴーストとの戦いは長く、正体を掴む前に退却戦をしなければならない場面だってあるのだ。
*4:高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』p138, 新潮文庫, 1988
*5:『ホークライン家の怪物』は、村上春樹のモチーフにもつながりを感じる。とくに見分けがつかない二人の女(ミス・ホークラインとマジック・チャイルド)のヴィジョンはそのまま『1973年のピンボール』に出てくる名前のない双子を想起させる。『ホークライン家の怪物』の原作が1974年、藤本和子による邦訳が1975年、『1973年のピンボール』が1980年、そして『ゴーストバスターズ 冒険小説』1997年。よく言われることではあるが、ブローティガンが(おそらく藤本和子の翻訳を通じて)日本文学に与えた影響は巨大なものがある。それは少なくとも高橋源一郎と、高橋源一郎が最初にそのページ開いたとき「これ以上読んだらダメだ!」と思ってそれ以上読むのをやめた『風の歌を聴け』の作者である村上春樹、このふたりに共通する源流だった。
*6:高橋源一郎訳『ロンメル進軍 リチャード・ブローティガン詩集』pp62-63, 思潮社, 1991
*7:同上, pp38-39
*8:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp13-14, 光文社, 2010
*9:同上, p261
*10:フランケンシュタインは15歳の時期の回想として、家にたまたま来ていた優れた科学者からガルヴァーニ電流の話を聞いた話をしている。ガルヴァーニ電流の発見時期を考えれば、小説内の時代は1780年代から1790年代に限定される。ここでジュネーヴ生まれの同時代人としてジャン=ジャック・ルソーを思い出さないのは難しい。フランケンシュタインをルソーと重ね合わせてみたとき、(おそらく)多くの死体を材料に作り出された怪物は、それ自体怪物であると同時に平等からなる(材料である死体には男も女も人間も人間以外もない)民主主義そのものの具現化でもある。その怪物と「契約」を取り交わしたあとで、フランケンシュタインは「女の怪物」を作ることについての躊躇いを振り払うことができない。
すでにこの世に生まれた伴侶は人間のそばから姿を消すと誓い、荒野に潜んでいますが、今度の女とはまだそんな約束もしていません。思考力のある生き物として生まれて、自分の誕生以前に交わされた約束など聞き入れない可能性だって大いにあります。(メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p294, 光文社, 2010)
ここにはメアリー・シェリーの母メアリ・ウルストンクラフトをその起源のひとつとするフェミニズムだけではなく、契約に関する重要な思考がある。自分の生前に結ばれた契約などというものは「思考力のある生き物」が聞き入れない可能性があるということだ。後代にヴェーバーが提起する「アンシュタルト」論のような、契約以前の所与であるかのように強制されるものとして国家や社会といった共同体を捉える見方とは逆に(所与とは時間を超えた過去のことでもある)、社会契約は現在を要求する。作者が王であるのか神であるのか最高存在であるのかは定かではない。だが「フランケンシュタイン」という特異な存在が自身の創造主に契約を迫るということは、単に父殺しの変形を意味するにとどまるわけではないだろう。人間が主権を持った人間として生まれるということは、単に人間がこの世界に生まれ落ちてくることを意味しない。小説がすぐれて近代的な文学の形式であるとことさら言うことに何か意味があるのだとしたら、そこにはすでにフランス革命以前から、ルソー以前から、ルソー的ななにものかが小説という形式のうちに告知されていたということになるのだろう。死者の一般意志が恐ろしいものであるということなのか、それとも一般意志自体が死体であるのかについてはいまだ謎に包まれている。
*11:藤本和子著『リチャード・ブローティガン』p93, 筑摩書房, 2025
*12:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』p89, 光文社, 2010
*13:同上, p17
*14:これによく似た関係が、高橋源一郎の『官能小説家』にある樋口夏子(一葉)と半井桃水との間にも見出される。
*15:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』p233, 晶文社, 1975
*16:同上, p142
*17:『「女王陛下のお気に入り」監督&脚本家コンビ、ゴシック西部劇「ホークライン家の怪物」を映画化』
https://eiga.com/news/20200621/9/,2025年10月31日閲覧。
*18:リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳『ホークライン家の怪物』pp103-104, 晶文社, 1975
*19:同上, p217
*20:ここでアメリカの建築家、ルイス・カーンが言った「自然のなかのいっさいの物質、つまり山、川、空気、そしてわれわれ人間も燃え尽きた光からできているということです。そしてすべての物質は使い尽くされた光です」(ルイス・カーン著、前田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』p18, 鹿島出版会, 2008)というフレーズが思い出されるが、ブローティガンは物質=光源→光の幻という形を取るのに対して、ルイス・カーンのそれは「光→物質=燃え尽きた光に投げかけられる→影=光に属するもの、光とともに現れるもの=存在」という形を取っており、対照的な違いがある。それは幻と存在の対比である。世界は光のうちに現れるが、映画は闇のうちに現れる。
*21:谷川俊太郎『世間知ラズ』pp58-59, 思潮社, 1993
*22:同上, pp62-74より一部抜粋
*23:BA-SHOやSO-RAはどうしてそうなるか、ここまで読まれた方はおわかりだろう。それはC-3POであり、R2-D2なのだ。『俳句鉄道888』は1977年に連載が開始された松本零士の漫画『銀河鉄道999』であると同時に、1977年に第一作目が公開された映画『スター・ウォーズ』でもあるのだ。
光速で落下する「ヘーゲルの大論理学」の顔は宇宙戦艦ヤマトの波動砲で撃ちぬかれたダース・ヴェーダのように官能的だった。(高橋源一郎著『ジョン・レノン対火星人』p67, 新潮文庫, 1988)
*24:谷川俊太郎『二十億光年の孤独』p72, 集英社, 2008
*25:俺は、歌集『これからの友情』のことを多賀さんが書くとき、ふつう作品名の表記に使われる二重鍵括弧を一度も使わないことが、これからの友情を単にひとつの作品としてしまう、いったん終わらせてしまうあり方のなかに閉じ込めようとしていないことに、その徹底ぶりにびっくりしちゃう。感動しちゃう。多賀さんって書いちゃった。アハハ!
*26:多賀盛剛さんが読む『これからの友情』 https://note.com/nanarokusha/n/n1d33d07de31c, 2025年10月22日閲覧。
*27:ルイス・カーン著、山田忠直訳『ルイス・カーン建築論集』pp26-27, 鹿島出版会, 2008
*28:神田橋條治著『「現場からの治療論」という物語』p39, 岩崎学術出版社, 2006
*29:同上, p7
*30:メアリー・シェリー著、小林章夫訳『フランケンシュタイン』pp7-8, 光文社, 2010


