ハイデガーとSF

 マルティン・ハイデガーという哲学者がいて、どこかで「哲学は終わった」みたいなことを言って、相手に「哲学のあと何が来ますか?」って訊かれて「サイバネティクス」って答えたという話が印象に残っていて、今でもたまに思い出すことがある。

 ハイデガーが哲学だと思っていたものは「根源」について考えるような営みで、それは「ゆるぎないはじまり」を前提にしないと成り立たないことだった。ここで「サイバネティクス」というのは、あるシステムの出力が、それを出力したシステムに対して再び入力として返ってくる回路「のような」構造をとっているということで、大事なことはこのフィードバックによって回路全体の構造さえ変わってしまう可能性を持つということだ。確かにこれがやってくるとハイデガーが哲学だと思っていることはやれなくなる。なぜってもはやどんな前提も変わってしまう可能性があるからで、そうなるとどこから入っても「根源」とは言えなくなってしまう。*1

 俺は、ハイデガーという人は、最初の頃はあまりにも他人に向かって何か言いたいという気持ちが強くて、色々あって最終的に「聞くのが大事」ってことになった人だと思っていて、ハイデガーが「聞くのが大事」ってことに気づいてよかったなぁと思う。実際『存在と時間』はうるさすぎてあんまり好きじゃない。それに比べると最晩年の「物」や「建てること、住まうこと、考えること」は静かで、話を聞くようになった感じがする(「人の」話かはちょっと怪しいのだが)。ただ聞く、というのは出力ではないので、「サイバネティクス」の後にも思考がやれることとして残る、とは言えるかもしれない。しっかり受け止めることによってフィードバックの外側の声、フィードバックを超えてある永遠の声が聞こえてくるのかは定かではないけれども。

サイバネティクス」がもたらす世界観は地球に似ている。地表で今日も誰かが何かをやり、それが地表にフィードバックされて、地球はどんどん変わっていく。*2環境問題はもはや人間の視点でのみ重要な問題ではなくて、脱-人間中心主義的に捉えられるようになる。ただ「脱-人間中心主義的思考」というのは異様な字面で、人間はいまだに人間以外の知性体に出会っていない(とされている)のだから、なにをもって人間にそんなことが言えるのかと言いたくなるが、それでもやっぱりそれは可能だとされるようになったとは言えるわけで、それをもたらしたのは「技術」ということになる。

 ハイデガーにとって「技術」それ自体は(本人の好みは措いておくとして)善でも悪でもない。だが中立的なものではない。「存在」にとって「技術」は決定的な位置を占めるようになる。これは技術決定論ではない。それは「存在の真理」が明らかになっていく過程に「技術」が必然的に介在してくるということで、言い換えれば「技術」は「もたらされる何か」ではなく「もたらされる」という受動態のなかに浸透していく。

 このようにハイデガーの、「ナチズム」の技術観を理解したとき、SFについてのある定式が得られる。現代において、すべてのフィクションはSFである。厳密に言えば、言葉のいかなる意味においてもSFでないようなフィクションは存在しえない。

 しかしこんなSFの定義は、実際にSFの話をしたい人々にとってなんの役にも立たないだろう。あんまりにも広すぎる。実際20世紀のSFはアメリカ(そしてイギリス)で隆盛する。日本のSFも「ナチズム」的な技術観に立つわけではない。SFに登場する科学技術、そしてそれが存在する世界は未来的だ。しかしそれに対してそこで展開される思想に未来的なものはないといっていい。こうなるのは当然ではあって、SFは技術を仮説として利用し、それを書くのは現代の人間であり、その思想は現代(とそれまでの歴史的思想的遺産)に制約される。

 ハイデガーの「技術」は「存在の真理」と本質的な関わりを持つのであって、「未来」と本質的な関わりを持つものではない。そしてなにより「仮説」は中立的である。仮説は採用することもしないこともできるからだ。ハイデガーにとって技術は「仮説」ではありえない。ではハイデガー的SFはどこにあるのか、というと、これは定義通り、どこにでもある。というより見出されるのであって、現代を精密に描けば描くほどに、フィクションは「SF」に近づいていく。

 中立的な技術というリベラルな技術観自体が誤っているとも思わない(むしろそれは目指すべきひとつの理念であるとすらいえるかもしれない)。だが人間-技術-未来という単線的かつ静的な思考が隆盛するとき、これは図らずも媒介として人間と未来を短絡させる準-技術決定論をとることになり、*3人間観は昔ながらの主体に逆戻りする。このような図式の成立にこそ「技術」は関わるのであり、ハイデガーの「ナチズム」的SFは決して書かれることのないまま、「人間」や「世界」が静かに変動していく痕跡を描き続けている。

 

 

 

 

*1:初期の『存在と時間』でハイデガーが現存在の存在了解の話を念頭に「循環の中に正しく入っていくことが大事」的なことを言っているときの「循環」は、まだ「サイバネティクス」のように哲学に破壊的に作用するわけではない。ここでいう「循環構造」自体は静的で固定的な構造なので、それ自体を一個の安定した前提として取り扱うことができる。「サイバネティクス」は全体が動的で可変的なので、そういうわけにはいかなくなる。

*2:バタイユ「太陽」を反例に思い出す人もあるかもしれないが、太陽からの贈与という構造は(少なくとも数万年程度は)一定であろうと予想することができる。このようにして、地球は、地表で起きている物事のすべては、やっぱり「太陽からの贈与」など太陽系的制約を所与とした、大気圏下のサイバネティクスとして捉えることができる。

*3:決定論的図式」に「仮説性」が先立つためそれは純粋な技術決定論ではないのだが、「仮説性」は技術的なものの産物であるため図式全体は技術決定論の様相を呈する。このような意味で準-技術決定論と呼ぶ。美学者、批評家でありSF評論家の難波勇輝氏によれば、「SFプロトタイピング」とは「いずれ訪れるかもしれない近い未来、あるいは遠い未来からやってきた、“手触り”があって心に訴えかけるようなプロトタイプを作る実践的な手法」であり、「未来を考えてフィクションの形にし、現実をどこまで近づけたいのかバックキャストしていく。そして、今はこれができるかなと考えていく」ことを基本としている(『「SFプロトタイピング」で描く、“手触り”のある未来の価値と事業』https://dentsu-ho.com/articles/8567, 2025年7月13日閲覧)。これは一種のアブダクションを梃子として現実に接触するところまで磨き上げられた「中立的」技術観によって可能になるものであり、「SFプロトタイピング」は「準-技術決定論」の現在地を示すひとつの標識である。