エドワード・ヤン「カップルズ」4Kリストア版を観た

 めちゃくちゃよかった。

 ずっと夢を見てる感じがした。映画を観てる俺だけじゃなくて、この映画の中に出てくる人たちみんながこの夢を観てる気がした。

 

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 繰り返される。2回。少し形を変えて。だから「カップルズ」=2つ組なんだろうか。

 

 冒頭、父親の借金のカタとして追われるレッドフィッシュたちを載せていた軽トラは、インチキ占いで儲けるための仕掛けづくりとして美容院を経営するチェン? のピンクの車に激突する。のちにレッドフィッシュは自分の父親から金をむしりとったチウへ復讐するために、チウの愛人アンジェラの車へ同じ手を仕掛ける。ところがぶつけ役のルンルンが運転しようとする車が動かない。ルンルンは大型トラックの前に飛び出し、目論見通り、慌てた運転手はハンドルを切りそこねてアンジェラのベンツに衝突する。

 ハードロックカフェでホンコンは、破産してロンドンにいられなくなったデザイナーのマーカスといっしょにいたアリソンに狙いを定める。寝る。レッドフィッシュたちのアジト。トゥースペイスト=リトルブッダに言い寄られる。当然嫌がるアリソン。レッドフィッシュは、俺達は友達で、ひとりのものはみんなのものだ、という。ホンコンも否定しない。アリソンは少年ギャングたちの手に落ちる。その後、レッドフィッシュの復讐計画の一環としてアンジェラを手籠めにするホンコン。ある夜、ホンコンがうんざりしつつもアンジェラ宅で彼女の帰りを待っていると、シルヴィ?とかいう知らない女がやってくる。三人の女たちはいう、私達は友達で、ひとりのものはみんなのものだ、と。ホンコンは強制されるようにして、テーブルに並べられた食事を口に詰め込んでいく。このシーンは本当によかった。

 他にもたくさんある。とくに「人違い」をはじめ「ニセ占い」や「最期に息子に会いたい」など、たくさんの繰り返しが詰め込まれたレッドフィッシュとチウの最後の場面は、この映画が繰り返しの話をしていることを強く印象付ける。このシーンは暗い部屋のガラスの向こうで赤と緑の光がずっと光ったり消えたりしていて、ゴダールだなあと思ったりしたけれどそんなことはどうでもよくなるくらいすごかった。

 多くの繰り返しは、たぶんそれぞれがそれとして自覚している。マーカスに、ホンコンに愛を裏切られるアリソン。ロンドンでも、台北でもマーカスといっしょにいることができないマルト。レッドフィッシュがダメになってしまったあと、同じ少年ギャングをやろうとするトゥースペイスト。なにより父親を繰り返そうとするレッドフィッシュ。映画のなかの世界で繰り返される、登場人物たちがそれと認識しない繰り返しもある。うんちを踏むシーンなんかはそうだ。通行人のおっさんが踏みそうになったうんちを、頭の足りないヤクザが踏んでしまう。これだけでももうだいぶ夢みたいだ。こんなに繰り返しが繰り返される世界は夢じみている。でも映画の中の世界にとどまらず、そこから飛び出した繰り返しもあって、それもまた最初に書いた夢の感じに貢献している気がした。

 たとえばさっき書いた、ホンコンが女たちの手に落ちるシーン。ひたすら詰め込んだ食べ物を飲み込めずに床に吐き出してしまったホンコンはそのまま床に突っ伏して慟哭する。その声がずっと街を超えて、富豪の息子=レッドフィッシュと間違えられてヤクザたちに捕まったルンルンとマルト=マトラのカットまで響く。ふたりやヤクザたちにその声が聞こえている様子はなくて、その声を観客だけが聞いている。そして、お前の言う「アンジェラ」は人違いだと告げるチウをたまらず撃ち殺してしまい、自殺にも失敗して慟哭するレッドフィッシュ。暗転してもその声はまだ響いていて、聞いているのはやっぱり観客だけだった。

 あるいは最初の方、レッドフィッシュが母親に会いに行くシーン。カメラ正面に座る母親に対して話しかけるレッドフィッシュの声がボイスオーバーで聞こえる。この視点はレッドフィッシュの視点なんだろう思うとカットが変わり、レッドフィッシュは母親の背後に窓の外を向いて立っている。あのカメラはレッドフィッシュの主観視点ではなかった、と観客は思う。あとで、レッドフィッシュたちがヤクザをつれて父親の元に向かうシーン。鍵のかかったドアを銃でぶち抜くと、次のカットでやはりこちらに向けてヤクザたちの意識が集中する。どうやらカメラの位置にいる人間は死んでいるらしい。カットが切り替わると、そこにはひとりではなくて、父親と愛人の教師、ふたりの死体がある。ふたりは目を閉じていて、やはりここでもさっきのカメラは登場人物の誰かの主観視点ではなかったことになる。これらの、映画内世界を超えた繰り返しをつうじて、映画とこちらがつながってくる。それは映画の世界が現実と地続きになるというつながりかたではなくて、やっぱり夢ということ、同じ夢の中になっていくというようなつながりかただと思う。

 

 もう繰り返さないでいい。

 

 金はもういらない、本当に欲しいものは金では手に入らない、という父親に対し、何が欲しいんだ、女だろう? という17歳のレッドフィッシュ。そうじゃないんだよな。冒頭に出てきた美容室経営者のチェン? はあからさまにゲイっぽく撮られた男だったし(エイズを恐れているというレッドフィッシュの発言もあるし、ホンコンとデートしたがっていた)、ホンコンが与えた女への残酷な仕打ちは、鏡合わせの仕方で女たちから与えられ直される。この映画の中で欲されている愛ということは、男が女をものにするという男性的な異性愛からはちょっとズレているということが示唆されつづけていた(「キスは不吉だ」とリトル・ブッダはいう。ホンコンもそれを繰り返す)。なによりレッドフィッシュは父親のほしいものが本当は愛だと知っていたはずだった。彼は父親を愛していた。父親の教え「人間は悪党とバカの2種類しかいない」をレッドフィッシュは最後まで信じていた。もう悪党でいられなくなった父親は教師の愛人と心中するというバカをやらかし、父を喪いもう悪党でいられなくなったレッドフィッシュは勘違いかもしれないまま父親の復讐として人殺しをするというバカをやらかす。父親は確かに繰り返さなかったが、その結果は苦いものだった。それでも繰り返すのをやめなければいけない。少なくともレッドフィッシュは父親を繰り返すべきではなかった。

 父親の心中後、おそらく警察署内の一室で、マルトを迎えに来るマーカス。それを後ろでたまらないような顔で観ているルンルン(ほんとうによかった!)。マルトはマーカスを選ぶ。この映画のほんとうの冒頭にはたしか「Bitters End」とあって、ほんとうはここのシーンか、レッドフィッシュの慟哭のシーンで終わってもよかった。でもそうじゃなかった。この映画の最後の最後のところで、俺はたまらなくなって泣いてしまった。

 

 悲劇はあまりにも現実的なものだ。現実は悲劇的ではない。悲劇は、転落する運命に対して盲目な英雄(そこまで強い要求は現代では難しいので、いったん普通の人々でもかまわないことにしよう)が、己の意志によって行動した結果その運命を成就させてしまう構造を持っているが、大事なのはその全体を、その運命に介入することができない観客が見ているということで、そのことが悲劇に現実を要求する。その意味で悲劇は現実的であり、この介入できない、自分にはどうしようもできないという感覚が現実にもありふれているからこそ、現実も悲劇的に思える余地があって、まだ現代においても悲劇がありうる。悲劇は繰り返される。

 いっぽうで、コメディーにはそれが繰り広げられている世界を非現実的にする力がある。この映画がとても素晴らしい夢に思えるのは、冒頭から登場する頭の足りないヤクザと、リトル・ブッダの存在が大きかったように思う。ふたりが、ではなくて、ふたりのどこかこの世界全体から浮いている感じが、この映画全体をなにかとてつもないところへ連れて行ってくれる気がしていた。

 

 最終盤。マルトはマーカスが運転する黒塗りの車の助手席に座っている。マトラの意味を語りつつマーカスはいう。19世紀は帝国主義の時代だった。21世紀もそうなるだろう。歴史の皮肉だが、西洋世界の続きはまさにここ、アジアにある。そんな話をしている。マーカスの会社はアリソンの父親のコネで回ってくる仕事が35%を占めているらしい。まあ一旦それはいい。問題は、マーカスがまたしてもここで繰り返そうとしていることだ。マルトはヨーロッパを飛び出しはるか台湾までマーカスに会いに来た。断ち切られ、ふたたび一つになった。

 マルトはマーカスの車からいなくなる。

 ルンルンが実家に帰って来ると、いろんな国からやってきたお客や間借り人たちと父親が麻雀をしている。フランス人の女の子がルンルンを探しにきたのだという。俺はああ、ここは出会えちゃってハッピーエンドになるのかあ、ちょっと甘くないか? と思いはじめる。

 俺が泣いたのはルンルンとマルトが再会を果たせた瞬間ではない。

 マルトを探しにルンルンが家を飛び出し市場の前にやってくるシーン。車も行き交う、人も行き交う。たぶんこれだけの人間がこれだけの広さで映るシーンだと、全員をエキストラで揃えるというのは難しいんじゃないかという気がしていた。もしかしたらそれまでのシーンでもあって、見落としていたのしれないけど、俺はそこでひとりの人間を見つける。

 ピントはルンルンに合っていて、後ろの市場はピンボケして遠くにいる人間の表情は分からない。それでもひとりだけ、白い服をきたおばさん?が、ルンルンを追跡するように後退していくカメラの向こう側で、明らかにカメラの動きに付いてきている。その人がこちらを見ているのが分かる。ルンルンを見ているのではない、カメラやその後ろにいる撮影陣全体を見ている、つまり、映画を撮っているということを見ているのが分かる。もしかしたらそれは、何度かルンルンがマルトのために食事を買っていた店のおばさんかもしれないんだけど、やっぱり顔はぼやけていてわからない。

 俺はここで泣いてしまった。

 ああ、みんなこの映画という夢を見ているんだ、と思った。

 ルンルンと、ルンルンを演じている現実の役者の境目も溶けてしまって、ルンルンはひとり現実でもあり映画のなかの景色でもあり、やっぱりその境目がぼやけてしまっている世界のなかにいる。映画を撮っているということの世界のなかで、ルンルンはマルトを探している。そしてやっぱりルンルンはマルトに会えて、キスをして、映画は終わる。ふたりがどうなっていくのかは分からない。やっぱりルンルンの元を飛び出して、マーカスのところに帰っていくこと、繰り返すこともありうる。キスは不吉だ。やっぱりこれは「Bitters End」になるのかもしれない。でもだからこそこの映画はここで終わらなければいけなくて、マルトは悲劇の繰り返しから飛び出そうとしている。