最近のこと

・あるツイート(現・ポスト)にブチギレてブログを書き始めた。一万字くらい書いたところで、何かがパチンと弾けてしまった。書いたとて、と一度思ってしまったら、もうおしまいだ。下書きから消した。

 

・怒りに突き動かされて書いてもなんにもいいことないし、怒り自体ももうそう長くは続かなくなってくる、もはやエネルギー源にはふさわしくない、負に負をもって立ち向かうなんてあまりにもバカバカしくてやりきれない、人類は数千年それをやってきたんだと思うと悲しくなってくる、掛け算でもする気か? ということを二年くらい前にちゃんと確認したはずなのに、性懲りもなく同じことをやろうとしてしまった。

 

・先月末に退職即月頭から求職活動ラッシュ……の結果、久々に致死量に近い社会を浴びてぶっ壊れてしまった。社会、全部まやかしのくせにしっかりモノとして形を持って目の前に現れるから困る。俺を見るその表情を勘弁して欲しい。労働と余暇。諸制度による要求と個々人の適応によるスケジューリングによって制御された表情、言葉遣い、声色。そんな表現をするためにお前らは生まれてきたのか? 俺を放っておいてくれ、と思うが、本当に放っておかれたら大変なことになることも分かっている。

 

・仕事を辞めて、少なくともこれから一ヶ月間は一日の時間すべてを自分のために使おうと思った。一週間でみるみるうちに底に落ちていった。音楽にしろ、書き物にしろ、自分のやりたいことだけをやれるはずの時間なのにだ。

 

坂口恭平『生き延びるための事務』を読んでブチ上がったのが嘘みたいに一瞬で霧の中だ。何がショックだったって、自分の中に、権威や既存の社会にすがりつきたい、すがりつかなければ俺は生きていけないんじゃないか、という観念が根強くあることに気付かされたことだ。自分の底に権威主義的なひとりの男性が見つかった。女性嫌悪より男性嫌悪のほうがそこそこ強いというのに。まあよくある話だが、あまり楽しい話ではない。

 

 

・ただ仕事をしなくなっただけで、親類や友人を失ったわけでもない(たぶん)のに、なんというか、世界との接続が切れてしまった気がする。何もかもが遠くて、俺には関係がないと感じる。

 

・無職になり不安に慄く人間の抱く感慨としてあまりにも類型的だな、と自分で笑ってしまう。俺は一年に百冊くらいは読む人生をずっと続けてきたけれども、それであまりに類型的な自分のありようが、少しでも変わったんだろうか。多分大事なことはすべて大事なことに見えることの少し手前にあって、本の手前の姿勢によっては、いくら読んでもしょうがない、ということなんだろう。

 

・極端にいえば文字列それ自体はただの模様に過ぎない。現在の状況と、自分がそこに至るまでの流れが、その模様と自分とに結ばれるであろう関係、そこから展開されていくであろう物事の方向を設定する。その意味で、読めない、読まないということからさえ何かは始まっている。

 

・かつてアダム・スミスを読んで考えたこと。①考えるということの根源では恐怖が駆動している。②世界において、名詞や動詞はモノの形(空間)・変化(時間)の形をとることで五感でとらえることができる。形容詞や副詞は人間とモノの世界との共同作業によって生まれる。そして、(いくつかの)前置詞と接続詞はまったく五感でとらえることが出来ない。おそらく人間は文法の比喩でいえば、接続詞や助詞、坂口恭平の言葉でいえば「ジョイント」、世界における「ジョイント」として、世界を構造化し、秩序を編むための役割を与えられている。③「〜すべき」(should)が倫理であり、神を見捨てるのなら(おそらくアダム・スミスは実際のところもはや神を信じていなかっただろうと思う。「労働価値説」なんてものは神を心底信じている人間が抱えられる思想ではない)、もはや肉体に存在するshould の感覚が倫理の源泉になるほかない。④器楽、敷衍して言葉のない音楽は、いったいどんな情報を導く媒体なのだろうか。

 

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・①について。考えるということそれ自体があまりいいことではないのだろうという気がした。だが夜、火を囲んで食事をしながら空を見上げたとき、そこで働き出した思考は恐怖によって駆動しているといえるだろうか。晴れた真昼の開かれた野原、家族や仲間とともにある夜空の下の火と食卓。敵や猛獣、飢えや悪天候の恐怖(その予測)から完全に解放されているような場所で芽吹き、育まれた思考というものがあったとしたら、俺はそこを目指し、その思考に付き合っていきたい。だが、そんな場所で人間は考えたりしたんだろうか。世界の中に溶けてゆくような安心感の中で、ただぼーっとしたり、やっても鼻歌を歌うぐらいのことだったんじゃないか、という気もする。

 

・②について。今の頭でもまっすぐにこの発想を受け入れることができる。人間はつなげるために働くことができる。そして今の自分が、その働きからこぼれ落ちてしまっているような気がする。荒川修作はかつて「形容詞を考えるには五十年早い」というようなことを言ったらしいが、二〇二五年現在、人間はもう形容詞に到達しただろうか。俺は形容詞が、人間の働きかけと、モノの世界、どちらが欠けても生まれてこないものだというところまではこれたと思う。blind(〜が見えないで、〜がわからないで、〜に目がくらんで、行き当たりばったりの)。私の目の前に見えないブラインドが下りている感じがする。それはそれとして、「見えないブラインド」という日本語はなんだか好きだ。馬鹿っぽいが高い抽象度もある。

 

 

 

 

・③について。俺には他人から「法はあっても倫理はない」といわれたり「知性はあっても理性はない」といわれたりした記憶がある。俺はずっと倫理のことを気にしてきたつもりなのだが、別の井戸を掘っていたんだろうか。確かに俺のありようはアダム・スミスの『道徳感情論』に近いところで作られているだろう。ある種の「しなければならない」や「してはならない」という感覚が行動(言動含む)となって身体にあらわれる場面で、つど自分の倫理を確かめてきた気がする。しかしそれは全く法的、すくなくとも原理的ではない。場当たり的で、説明可能な一貫性に欠けている。そしてそれは自分にとって、とても恥ずべきことのような気がする。しかし、分からないから論の形ではなくて、小説の形でものごとを書いてきたのかもしれない。という地点から、全然進めていない気がする。

 

・歩みが遅い。ある種のゲームではキャラクターを移動させる際、画面上におけるキャラクターそれ自体の座標を移動させるのではなく、逆にキャラクターの座標は固定してそれ以外の要素をすべて対応するようにスライドさせていく。たまに、自分が実際にそういう風に歩いているという感覚を覚えることがある。

 

・④について。アダム・スミスは器楽にあらわれるものは「本源的な感情」だとした。荒っぽくいえば、それは諸感情の模倣ではなく外化された感情そのものだということになる。そのように捉えるならば、元来感情には名前がないのであり、それは緩やかに秩序だてられたエネルギーのうねりだ。名前は派生的・再帰的に「諸」感情をカテゴリー化していく。しかしそれだけだろうか。たとえばクセナキスの音楽は感情以上のものを媒介しているだろう。

 

・俺は文法を神だと思っているわけではない。ヒントをもらっているのだ。俺は結局のところ、言葉に対して「信じる」という向き合い方をしていない。

 

・「他人とは違う人生を送りたい」だとか、「何者かになりたい」だとか思ったことは人生で一度もない。というかそういう文字列の意味がわからない。ただただこうなってしまっただけだ。脱落した、という気持ちはない。脱落しうる何かを信じていなければ脱落したと思うことはできない、そして俺はそのようなものを信じることができない。それらは俺と何の関係もないと思う。だが、この世界とうまく付き合えていない、という感覚と、この「俺には何の関係もない」と思う感覚とはつながっている気がする。

 

・山口良忠という、闇米を食うことを拒否して餓死した裁判官に対して、昔は「食えばよくね?」と思っていたけれど、今はそう簡単に割り切れない。何か他人事じゃないものを感じる。別に自分が高潔だとかそういうことが言いたいわけではない。この話にはいわゆる倫理というよりも「俺には食えないんだ」、「できない」という感じがあって、その感じが、他人事ではないな、という感覚をもたらす。俺には、できない。

 

・何かを信じるということ。何かと関係していると感じられるということ。

 

・どの芸術に対しても(あるいはエンタメについても)、そこに救いを求めたことは一度もない。芸術はそんなにみみっちいものではないだろうと思う。救済という言葉には否応なく「自分が」という狭っ苦しい影がつきまとっていて、興味が湧かない。芸術だけではなくて、宗教もまた、ただ救済だけを絶叫するものではない。やっぱり途方もなくデカい何かがそこを通じてやってきている、と思う。そんなものにはなかなか巡り合わないけれども。

 

・だけども芸術(やエンタメ)に救いを求めていて、実際救われている(ように見える)人がいるということを前にすると、そういうことを言っていいのかな、という気持ちにはなる。「じゃあお前が代わりに救ってくれんのか?」と言われたら困ってしまう。俺は人を救いたい! とは思っていない。「人を救いたい!」ってやつは怖すぎると思う。誰なんだお前は? 平和ではなく剣をもたらしにきたのか? なら神かもしれない。今のは悪意がありました。真面目にいえば、苦しいだろうな、と思う。救われたいやつも救いたいやつも苦しいってもう大変なことだよ。

 

・敬虔なキリスト教徒の人と知り合うことがあった。日曜日は徹底して仕事を休んでいた。日本のような国でそんな姿勢をとれるということに、ただ素朴に尊敬の念を抱いた。

 

・物語を書いていると、人間には物語を作ることができるということに気がつく。世界が物語ではないがゆえに、人間が物語を作ることができるのだと思う。もし人間が生きるために物語を必然的に必要とし、世界が必要な物語として充足しているのならば、人間は物語を作りはじめなかっただろう。だから今の俺は「人間は物語なしでは生きてはいけない」という考えに同意することができない。しかし、「物語なしでは生きていけないという物語を信じている人間」がいることは間違いない。これも物語ではあるかもしれないが、物語とメタ物語では物語の質は違うだろうと思う。

 

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・ちゃんと過去の自分が書いたブログが今の自分への伏線になっていて、大岡昇平のところを読んで苦笑いしてしまう。

 

・面白い小説を読んでいるとき、それが虚構だとは思っていない。我を忘れて没入しているからだ。だがそれはそこに書かれていることを「信じている」ということでもない。我が忘れられているのに誰が「信じる」というのだろうか。

 

・だから、それが「聖書」と呼ばれている本であれ、何か書かれていることを「信じる」という生き方は、自分にはあまりにも途方もないことだと思う。ちょっと、自分がそうしているところを想像することすら難しいかもしれない。

 

・今の自分には「自分を信じる」という言葉の意味がよく分からない。

 

・「自己肯定」が「自己否定」とともにナンセンスな概念であることはわかる。肯定しようが否定しようが自己はゆるぎなくあり続けるし、そもそも自己が「肯定」や「否定」と関係するようなものではないのだ。「私とは存在だ」といってしまいたくなる(これは「私が存在している」や「私だけが存在している」とは全く違うことだ。そして「私の性質」は「私」ではない)。たぶんこれは頭の一部だけを先走りさせすぎている。

 

・しかし意識というのはすごいことだ。意識の基盤はモノだろうと思うが、意識自体はモノではない。それは色も形も重さもない。人間は飛べないのに意識は飛ぶことができる。意識には場所がない。「〇〇を意識して」というとき、意識は「どこ」と関わりを持っていないように思う。というか「意識する」という動詞そのものが凄すぎる。動詞だぞ! 世界はスピリチュアルな時代に入ったとひしひしと感じる昨今だが、一番身近なものからして相当スピリチュアルだ。

 

・それに対し、というわけではないが、意外にも心はちょっとモノの要素を持っている。それは工学的なアプローチが適用可能であるという意味においてだ。そうでなければ「心を打つ」や「心を掴む」といった表現は誰にも伝わらないままに消滅しただろう。

 

・小説において最も工学的なジャンルは恐怖を取り扱うホラー小説と、性欲を取り扱う官能小説だ。どちらも原始の人間において極めて重要だったであろうファクターだ。非常に大雑把にいって、おそらく恐怖から思想が、性欲から芸術が生まれた。

 

・恐怖も性もなしに、それでいて無機的ではなく、生き生きとするというありかたがイメージできる。思想も芸術も生まれたが、まだそれくらいしか生まれていないということかもしれない。名前のない海  それはまだ「感情」にさえ到達していない  に音楽が現れてから、ずいぶん長い時間がたった。

 

・without(〜なしに)もまた、(自分を含め)世界をつないでいくひとつのジョイントではある。

 

・調子の悪い頭だけで考えているから曇った思考になっている部分があることには気づいている。自分が思うほど自分は権威主義的でも男性嫌悪者でも女性嫌悪者でもなくて、ただ単純に、一人閉じこもって黙々と作業をし続ける、そういうライフスタイルに耐えられない身体なのだという方がよりありそうな話ではある。労働はありがたい。社会の中で労働している状態で「ときどきひとりになる」ことのほうが、一人閉じこもって作業しながら「ときどき人々の網のなかへ行く」ことよりも多分難易度は低い。

 

・『生き延びるための事務』を経て、早速自分でも「十年後の自分の一日のスケジュール」を書き出してみた。びっしりと読み書き音楽という感じだったが、多分大事なことはこれをカッチリ守る生活の実現ではない。多分その手前、素直に自分に向き合ったとき、自分にはやりたいこと、好きなことがあるのだという発見をすること、それがいちばん大事なことだった。

 

・またそろそろ就職活動を再開するか、と思い始めている。今度はどこで何をしようか。「どこ」を希望してもいいが、どこに行ったってこの身体、頭も心もついて回る。向き合える余裕のある時に、自分とは向き合ったほうがいいのだ。

 

・with(〜とともに)。

 

・俺はwith でありたいしin にありたいと思うし、ときどきout of でもありたいと思う。

 

・周知のように、with は商品化されている。よくあることで大したことではないが、とてつもないことだとも思う。

 

with.is

 

・大事な人を助けられる人間でありたいなと思う。そう書いて思う、俺には博愛はまだまだ遠い。

 

・博愛というものをイメージすることができないのだ。生きとし生けるもの、それどころか生きていないものを含めて森羅万象を愛することは、すべてに無差別であること、すべてから等距離にあることであり、それは宇宙をはみ出すような無限遠点に孤絶することじゃないか、それは愛することなのか? と思う。

 

・けれどもこれは間違った道を進んでいる。モノの世界では without distance(距離なしに)ということはありえない。しかし、私はモノではない。距離のない世界というのは完全にアッチの世界のようにも見えて、意外にもそこかしこに、いや、without place(場所なしに)ありうるのかもしれない。

 

・『怪獣のバラード』が「海が見たい 人を愛したい」という。俺にとってそれはほとんどすべてだ。

 


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・芸能に詳しい友人とたまに嵐の話をする。昔はどうだったかあまり思い出せないが(そんなにブレてないと思うが)、最近は大野くんと相葉くんが気になる。

 

・嵐の集合写真を見るとよく分かるが、大野くんの目だけ明らかに違う。ここではないところからこちらを見ている、五人で写っているのに一人で写っているという感じがする。大野くんは怪物くんだった。

 

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・俺は怪獣だ。

 

・海が見たい。人を愛したい。

 

・PCのキーボードの「o」がぶっ壊れてしまった。今もこうしてだましだまし使ってはいるが、ストレスがものすごい。なんで「q」とかじゃないんだ。母音はアカンやろ、母音は、と思う。

 

・今使っているこの「o」が壊れたノートパソコンは、あるフォロワーの方が厚意でくださったものだ。俺はここ数年このノートパソコンで小説やブログを書いてきた。やっぱりそれは大事なことで、たびたびそのことを思い出しては、何も返せていない自分が不甲斐なかった。今だってそうだ。

 

・俺はたくさんの人からたくさんの物事を受け取って今ここまでやってきた。

 

ちくま学芸文庫クロード・シャノン(とワレン・ウィーバー)による『通信の数学的理論』を読んでいる。まあ数学的なところはほとんどわかんないんだけど。序文によると、原題は1948年では"A Mathematical Theory of Communication" だったのが、1949年には"The mathematical Theory of Communication" に変わったらしい(p5)。"A" から"The" へ。ある理論から一般理論へ。そしてそれは常に"Telecommunication" ではなく"Communication"で表記された。訳者の判断、内容の比率からしても正当に思われる判断に反して(p16)、俺はこれをやはり『コミュニケーションの数学的理論』と受け取りたい。

 

 

 

 

・極めてシンプルにいってしまえば、この理論の原動力として「伝わんなきゃ意味ねえよ」ということがあると思う。だがこの理論の中で意味は取り扱われない。ではこの「意味」はどういう意味で意味なのだろうか。

 

・それは、伝わるということ、つながるということそれ自体なのだと思う。多分、この「意味」はこれ以上は遡らせることができない。

 

・意味はあまりにも難しすぎる。伝達以前に、自分が表現しようとしていることを正確に表現できているか、たとえば言葉にできているかってだけでもかなり怪しい。たぶん人間は今まで勘と経験で意味をやってきたし、それなりにうまくいってきたし、うまくいかないこともあった。これからもそうだろう。

 

・社会にしたって本当は難しくもなんともなくて、ただ「バラバラになりたくない、バラバラにならないための仕組みを作ろう」ってだけなんだと思う。人間はメチャクチャ増えて、物事はどんどん複雑性を増していって(統計力学をちゃんとやったら、これをもっとふくよかになった「エントロピー」のイメージで実感できるんだろうか)、細部に  つまり意味のことだが  入れあげなければならなくなって、一番大事な部分の大事さがどんどん忘れ去られていったのかもしれない。いま「つながり」の大事さが叫ばれるとき、そこでは個々人の人生という、個別に蓄積された意味の孤絶にフォーカスが当たっているように思う。しかし本当に大事なのはそういう部分においての「つながり」なのだろうか。ただ手を握ったり、抱きしめられたり、「あなたの話を聞いているよ」というメッセージをいろんな形で発することは、ほとんど意味ではないが、「つながる」ということのほぼすべてじゃないかという気がする。

 

・個々人の人生が積み重ねてきた意味が重要ではないといいたいのではない。ただ「つながる」について考えると、伝記や履歴書、SNSでの自分語り、それら自体は身体を必要とせずに自立している(そうでなければ成立しない)。それに対して、「伝わんなきゃ意味ねえよ」というときの「意味」は、人間の身体がなければどうしようもない。スマホを使うにも身体はいる。

 

・嵐のファンというわけでもないので( 「love so sweet」に執心しているというくらいだ)、俺は相葉くんについて詳しくはない。それでも「大野くんは絵が描ける」とか「ニノといえば演技」とか「ニュースキャスター櫻井くん」とか「エンターテイナー松潤」とかいうことができる。相葉くんの何すごいかは俺にはいうことができない(失礼では???)、でも相葉くんは何すごいということは俺にも伝わってくる。シャノンのいうコミュニケーションっていうのは、そういうことじゃないだろうか。

 

・相葉くんは奇跡なんだと思う。

 

・過去に自分が書いたブログに追いつかれるということは、苦笑なしにはいられないけれども、自分がただ流されるだけではなく、自分の流れを作っていたこともあったのだという証ではある。

 

・俺は俺から何かを伝えられた、それは確かなことだ。

 

・つながりなおす、つなげなおす。もらったものをあたえなおす。

 

・俺の度し難い悪徳のひとつは勇気の欠如にある。

 

・「おまえが愛するとき/草も木もおまえの味方だ/だがおまえが愛するとき/誰もおまえを助けない」(谷川俊太郎「愛」)

 


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・これは「最近のこと」なので、無理くりハッピーエンドになることはない。箇条書きで九千字も書くなよ。

 

・愛と勇気と優しさ。

 

・過去の俺は(読み返したくないくらいにひどい文章で書いてはいたものの)、何が大事かということも少しは知っていたみたいだった。

 

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