エルンスト・ユンガー『労働者』読書ノート 第3節(第2章のつづき)

前回(第3回)はこちら。

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このシリーズでは

・川合全弘訳『労働者 支配と形態』(月曜社, 2013)を使用する。この訳では底本として1932年の初版が使用されている。脚注において特に言及がない場合は本書のページ数を参照する。

 

 

・各記事につき一節分のノートとする。全80節あるため、「まえがき」を含め全81回の予定。

・無理では?

 

「第3節(第2章 市民的世界の鏡に映じた労働者アルバイター像)」ノート

 『労働者』の政治的側面に注目した読解ではないため、際立って掘り下げるべき語句、文脈を超越して広がっていくような語句というものはこの節には存在していない。「利害の仮面」といった語句が「市民という衣装」にディティールを与えているが、第1節のところで一旦通過した「国家」と「社会」の非リベラリズム的峻別をより丁寧に行うにはまだ材料が不足している。

 それでもいくつかの語句を拾うことで、この後の展開を理解するための助けとすることはできるだろう。冒頭。

 

 焦点のぼやけた視線から生じる見方は、まず労働者層と第四身分との同一視である。

 機械的な表象に馴染んだ精神にとってのみ、支配の継起という出来事は次のように映る。すなわち、あたかも時計の針が文字盤の上に次々とその影を投じていくのと同様に、ある身分に続いて別の身分が権力の舞台を通過する一方で、後ろの方ではすでに新しい階級が自己意識を持ち始める、というように。*1

 

 後年ユンガーは『砂時計の書』というエッセイを著しているが(原著1954年)、そこでは時計の形態が、単なる時間の計測を超えた意味の啓示的表出として捉えられている。ここで現れる時計は歯車時計の形態からとられていると思われる。「機械的な表象」の語句がそれを補強する。

 歯車時計以前、時計には大きく二つに分けて「宇宙的コスミシュ時計」と「地球的テルーリシュ時計」

に分類された。前者は宇宙の要素(光)、星辰の循環的歩みを写し取るものであり(日時計)、後者は地球の要素エレメント(地、水、火、風)、直線的に一方向に流れゆくものに物差しを当てることによって成り立つものである(砂時計、水時計、火時計)。前者は太陽の光を必要とするが、後者には必要ない。これら二つの時計は「宇宙旅行」の場において無力化される。無重力空間において砂時計は機能せず、太陽はそれ本来の場すなわち無重力空間において循環から開放され、殺人光線を放ち続ける永遠となり、やはり時の徴としては失陥する。「要するに、父なる天空の光と母なる大地の重力とにおいて、天空の時間と大地の時間とがわたしたちに働きかけているのである。わたしたちはこのふたつの時間をわたしたちの内部で統一しなければならない。」*2とあるように、天の循環的要素と地の直線的(重力と落下)が地球における時間の容貌を規定してきた。

 ところが歯車時計はこの二つの時間のいずれにも触れない。いうまでもなく歯車時計は太陽の光を必要としていないし、その機構は地球の根源力である重力と自然な関係を持たない。歯車時計は「知性的時計」なのであり、根源力から隔たった時計である。無論この時計は「宇宙旅行」の場においても利用可能なものである。*3

 長々と脱線したかに見えるが、このことは次の部分を読む際の補助線として活きてくる。

 

 むしろ最も我々の注意を惹くものは、市民と労働者との間に、単に年齢の差ばかりでなく、なかんずく地位の差が認められる、という事実である。すなわち労働者は、市民がその存在すら全く知らないような、根源的エレメンタールな力との関わりを有しているのである。*4

 

 ユンガーの観察した「労働者」は繰り返しになるが1932年の「ベルリン」から/への視座に限定されており、そのことは「年齢の差」という語句が現れることに明らかである。現在時においての「労働者」の追跡においては、市民-知性という連関に対し労働者-根源力という連関が対置されることを念頭に置く必要がある。知性によって把握された第一〜第四身分という観念及び権力の舞台における主役の推移というものは、市民における特殊な身分の把握であること、この身分の把握は身分それ自身の根源的なものから切り離された利害関係として規定=定義しなおされていること、これらがすべて「機械時計」の世界に属することを把握しておけば十分である。

 

 そしてもう一つ、「話し合い」という語句に注目してこの節を終わろう。

 

 それゆえ労働者層が一つの身分として解釈されるのは、市民的な視角からなのであり、このような解釈の基礎には、新しい主張を、話し合いの継続が可能となる古い枠組みの中にはめ込もうとする、無意識の策略がある。というのも、市民は、話し合うことができ、交渉することができるときに、安全だからである。*5

 

 市民においてコミュニケーションは単なる人間行動の一つにとどまらず、社会を成立させうる基盤的なものとして現れる。「労働者」はこの認識を共有していない。前節の最後を思い出すべきである。「しかし本当に新しいものは、激動の中に生じるという強調を必要とせず、それの最高の危険性は、それがただそこにあるという事実に基づく。」*6語る必要のないものは、コミュニケーションをもまた必要としていない。

 

次回

 

*1:pp19-29

*2:エルンスト・ユンガー著・今村孝訳『砂時計の書』p71, 講談社, 1990

*3:轟孝夫『ハイデガーの超-政治』(明石書店,2020)でさりげなく顔を出した、人類の宇宙進出に対するハイデガーレヴィナスの決定的対立は、この根源的な力をめぐる信仰の対立でもある。あるいは「スターチャイルド」や、部分的だが「スペースノイド」のようなSFが提示する存在の一類型は、地球に生まれつくという人間の運命に対する対照群としてもあらわれる。無重力を故郷とすることは、生まれてくることの運命の形式が、地球人とは全く異なるということを意味している。彼らにとって天空と大地はもはや根源的なものではない。荒涼とした船外にあって、ただ知性的なもの=宇宙船によってのみ生存が許されるという状態は、故郷や運命(そしてもしかしたら神もまた)というものに対する全く異なる認識をもたらすことになるだろう。

*4:p20

*5:p20

*6:p19