前回(第2回)はこちら。
このシリーズでは
・川合全弘訳『労働者 支配と形態』(月曜社, 2013)を使用する。この訳では底本として1932年の初版が使用されている。脚注において特に言及がない場合は本書のページ数を参照する。
・各記事につき一節分のノートとする。全80節あるため、「まえがき」を含め全81回の予定。
・無理では?
「第2節(第2章 市民的世界の鏡に映じた労働者像)」ノート
第一段落で改めて登場する「労働者」の語になされた原注を見よう。
*「労働者」という語は、他の語と同様、本書では有機的な概念として用いられる。すなわち、それは考察の経過の中で、後から振り返って初めてその全体を見渡すことができるような諸々の変化を被ることになる。*1
しばしば著述に使用される「有機的」という概念は曖昧である。それはときにはネットワーク状、自生的、サイバネティックといった語に似るが、そのどれもが微妙に含意を共有していない。「無機的」と対照をなせるのか怪しい場合さえある。*2しかしここでのユンガーの定義は明白である。書物という特性上、線形性によって拘束されてはいるが、部分から全体へと向かう運動であること、運動において変化を被ること、定義から開始しないこと、以上の三点である。
概念から記述へ拡張を図ることにより、記述の全体像には二つの様式があることが見えてくる。一つが有機的な記述である。もう一つを仮に公理的な記述と呼ぼう。公理的な記述は有機的な記述と明白な対照をなす。公理的な記述の代表は証明である。公理的な記述は定義から開始される(その背景に控えているのが公理系という全体である)。記述の運動において定義されたものは変化を被らない。そして、記述は定義されたものが内に持つ様々な萌芽のうち、ある一つの方向を取り上げ一点へ向かって収束していく。いわば、全体から部分へ、というわけだ。この時期のユンガーという素材の探照灯には、ドイツ/フランスというフィルターがかかっている。極めて大まかにいって、有機的な記述をドイツ的、公理的な記述をフランス的といってもよいかもしれない。
この有機的な記述のありようは実は「まえがき」から現れていた。「リヴァイアサンの鰭を目に見えるようにすることができさえすれば、あとは読者自身がおのずと独自の発見へと突き進めよう」*3というのがそれである。この状況を文字通り考えてみよう。リヴァイアサンの鰭が目に見えるようになった状態でリヴァイアサンの全体が目に入っていないというのはどういう状態だろうか。あまりに近すぎのである。
遠く離れて全体を一望するという手がある。視界は全体性に属している。目を開けば一気に見えるのであって、実は徐々に見えるということはない。一般的にいわれる「だんだん見えてくる」という状態は、「見えにくい全体」が一瞬にして掴み取られ、そこから変化していく全体の経過を一瞬一瞬に掴めている状態のことであり、ここでも見えることの全体性は揺らいでいないのである。「見落とす」というのは「見えているのに見ていなかった」ということである。「見える」は全体性に属するが、「見る」はそうではなく、意識の集中を必要とする。
この意識の集中という観点から考えると、遠く離れるほかにもう一つの手が考えられる。それは目を使わず、手で触れていくことによって、感覚と想像のうちに全体性を構築していくやりかたである。ヘレン・ケラー的な、といったら言い過ぎだろうか。この方が有機的な記述を考えるうえでは有益である。少しずつ触れることによって全体があらわれてくるというこのありようは、部分から全体へという有機性の形式にまさに合致している。第一次世界大戦で使用された毒ガスは大量の兵士を失明させた。考えてみれば「見ることの実演」であるはずの『労働者』の第1節はドイツ史から始まったのである。歴史は目に見えない。『労働者』は最初から「見えないものを見る演習」として開始されたのであり、その意味でも、ここで要請されているのは物理的な目というより「手の目」であろうことが窺えるのである。
有機的な記述は当然ながらこの第2節でも遂行されている。「労働者」の観察は定義から始めることが出来ない。なぜならそれは始まる前からすでに始まってしまっていたからであり、しかもその始まり方は「労働者」にとって満足の行く仕方ではなかったからだ。
我々は、この運動に対して公正な態度で望むことができるよう、それの初期の様相から十分な距離を取らなければならない。ひとは自らの性格が形成される学校を選ぶことができない。というのも、学校は父によって決められるからである。*4
父の語にドイツ的性格が負荷されているにしても、大筋は普遍的に理解可能である。まっさらなところから始めうるのは定義の世界とフィクションの世界だけである。生まれるということは、すでに始まってしまっているということのただなかに生まれるということであり、成長の過程において、すでに始まってしまっていた言語が着用させられる。学校という語の含意は、生まれたことそれ自体における運命と、生の過程における運命との微妙な峻別を要求する。語ることはここでは学校すなわち後者の運命に関連している。
そして、労働者の手段が闘争の中で成立してきたこと、闘争においてはどんな立場も敵の影響に晒されることが、十分に考慮されるべきである。もし労働者に対して、彼らの現状が高純度に精錬される前の金属さながら市民的な価値観の残滓を帯び、間違いなく二十世紀に属するその言語が十九世紀の問題設定を通じて形成された多くの概念をなお含んでいる、という非難が浴びせられるとするならば、それはあまりにも安直にすぎる非難であろう。というのも、労働者は、自ら語り始めた当初、自分の言い分を相手に分からせるためにそのような概念の使用に頼らざるをえず、それゆえ労働者の主張は敵の主張によって限界づけられたからである。*5
ひとは自らの言語を学ぶ前にその内容を選別することはできない。それはまさに「高純度に精錬される前の金属」であり、雑種であり、汚染されたものであり、はじめのうちはそれを使用するほかない。「精錬」の語が、そしてこの後に出てくる「異分子」「固有の要素でない」「有害物の排出によって除去されよう」といった表現が、この後の道行きを不穏に暗示している。ともあれ源泉の言語は生得的なものではなく、獲得されるものであり、したがって血の言語はありえないということはいえよう。
この運動においてまたしても衣服の比喩が現れることには注意せねばならない。衣服は着せられうるが、皮膚や血(そして魂?)はそうではない(二つの運命の峻別)。語ることの拘束条件は「衣服」へ重ね合わされる。
このように労働者は、あたかもお仕着せの市民的な衣装が最後にはち切れるような仕方で、ゆっくりと成長してきたのであり、労働者がこのような成長の仕方の痕跡をとどめていることには何の不思議もないのである。*6
労働者の自己主張は、学校におけるお仕着せの言語の習得という限界を、この限界のうちに学ばれた言語も使用しつつ破砕することによって成り立つ。ここに労働者の純粋な言語が現れるだろう。
この労働者という歴史的存在は、それに至る歴史を持ち(フランス革命と、ドイツにおけるその反復の挫折)、その道行きは学校という個々人の経歴において通過される場所の比喩を使用して語られている。ここに「個体発生は系統発生を反復する」というヘッケルの学説との遠い相似がうかがえる、と言いたくなる。ヘッケルはドイツの生物学者であり1919年に亡くなる。まさにユンガーの同時代人であるからますますその思いは募る。しかし革命は反復ではない。清教徒革命とアメリカ革命は似ておらず、フランス革命、ドイツ革命、ロシア革命、中国革命、キューバ革命、イラン革命、どの顔も似ていない。革命はその都度すべての革命をも革命する。この節では、いうなれば「労働者は語ることができるか」ということが主題であるように思われるが、次の部分はそのような段階を超えている。
しかし、歴史的な出来事がそっくり再現されることは、その活き活きとした内容の伝達と同様、ほとんどありえない。それゆえ、ドイツで革命的な活動が行なわれようとしても、常に革命のお芝居が演じられるという結果に終わったのであり、他方また、静かな部屋の中においてであれ、戦闘の弾幕の下に隠れてであれ、本来の変革は人知れず遂行される、ということになったのである。
しかし本当に新しいものは、激動の中に生じるという強調を必要とせず、それの最高の危険性は、それがただそこにあるという事実に基づく。*7
すなわち「本当に新しいもの」、革命的なものは語ることすら必要としないからであり、「ただそこにあるという事実」だけで十分だからである。そして「ただそこにある」ことは静かだ。
前回「静けさの危機」について書いた。静けさの獲得は単に聞き取りやすい聴覚的環境というだけでは足りないこと、五感にわたる静けさが要請されることについて書いた。しかしこの部分に出てくる「静かな部屋の中で」「戦闘の弾幕の下に隠れて」というフレーズを見ていると、つまりこの静けさの条件は五感に深く関わっていながらまったく物理的なものとは関係をもたないこと、言い換えれば外部に原因を求める必要がないことがわかる。*8田舎への隠棲も「ガス室」もいらないのである。物理的刺激を必然とする五感ではない五感が働くところでは、いかなる環境においても「静けさ」との遭遇がありうる。
ただあるということの静けさは、環境に関する条件を一切課されていない。「激動の中に生じるという強調」を必要としない、すなわち演出は必要ではなく、それどころかコンテクストさえ必要ではない。新しさは新規性を必要としない。むしろここから無数のコンテクストが芽吹いていく。「最高の危険性」とは必ずしも攻撃的な相貌を持つものではない。たとえばイエス・キリストの存在そのものがこれに該当する。必ずしも奇跡の行いが重要なのではない。存在することそのものによって世界が変わってしまうことが、病気の治癒よりも奇跡的ではないかという言い方だってありうるだろう。このことはキリストや、ユンガーが書き連ねているような巨大なパースペクティブに限定されるようなことではない。各々これまでに経験してきた出会いを思い出してみるとよい。世界が(よかれ悪しかれ)変わってしまうような出会いというのはそう珍しいことではない。ここまでくると「危険な生」よりも「生という危険」のほうが前面に出てくるが、なぜ「新しさ」は「危険性」と結びつけられたのかといえば、それは「革命」が現実において省察されているというコンテクストによるものであり、そろそろ「ベルリン」に戻らねばならないのだろう。その前にもう一言だけ脱線したい。新しさの危険性が必ずしも危険な顔貌をしていないのだとしたら、こうも言えよう。静けさは必ずしも静けさの顔貌をしていない。
次回
*2: 『広辞苑第七版』から引く。「有機的」から見よう。「【有機的】(【有機】の追込項目)有機体のように、多くの部分が集まって一個の物を作り、その各部分の間に緊密な統一があって、部分と全体とが必然的関係を有しているさま。」一方「無機的」はそもそも項目がない。「無機」の項目を見ると「【無機】(生命力がない意)無機化学または無機化合物の略。」となっている。「有機」は「【有機】(生命力を有する意)有機化学または有機化合物の略。」とあるから、根本的な対比は生命力の有無に存しよう。「有機的」の語は生命の構造を観察することから発展した比喩であるように思われるが、無機は有機の否定概念に過ぎないため、「生命でないものの構造」の統合的な理解が難しく、共通理解を構築し得ていない結果、豊かな意味をもつことができないでいるのかもしれない。
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