虚踊の事

 虚踊は、ある種の人間  普段はのんびりしているがハンドルを握る段になるとからだが強張ってしまう類の  が、例えば林檎を剥いている最中に、三角コーナーにおいて発生する現象、とされる(怪異、というには足りない。取り違えられた証拠がここには欠けている)。虚踊に分類される現象は、三角コーナー以外にも、背中、顔(ただし鏡の介入は虚踊を禁じる)、初めて愛する人を打擲した時の「わたし」、就寝中における裁縫箱、非-非ユークリッド幾何学における平行線などにおいて見られる、とされる。「とされる」とは、わたしたちが虚踊を積極的に輪郭づけようとする際に必須となる符号であり、これなしには何事も始まらない(無論、何一つ始めなくてもいいのだが)。バークリーもその反対者も、きっと虚踊の存在は認めまい。虚踊は認識することができず、また存在する、と言うべき価値を感じさせない。わたしたちは虚踊を必要としないが、虚踊の側はわたしたちを必要としている、とされる、のか?

 三角コーナーに落下した林檎の皮は、作業者が手許に注意を向けている間だけ、奇妙な動きをする。理由としてそのように形作られた皮が、かつてあった自らの平衡を取り戻そうとするかの如くそのとぐろをうねらせ、まるで禁園の蛇のように三角コーナーを這うのだ。作業者が再び皮を捨てようとするなり、姿勢を変えるなりして再び三角コーナーを認識しようとすると、皮はそれを察知してすぐに皮に戻る。作業者が皮を剥き切り、キッチンを抜け出た後にもなお虚踊が続くのかは研究者の意見が分かれるところだが、現在ではその時点で虚踊の幕は下りているというのが主流のようである。

 虚踊はなぜ起こるとされるのか。様々な説明がなされているが、現在のところ有力なのは、生きたからだを持たないにもかかわらず、目の前に現れる生きたからだを鏡に映った己と誤認した者が刹那、喜びのあまり踊り出すためだという説である。鏡という概念を知り得ない者だけが全てを鏡だと誤認する可能性を手にする。しかしこの説には怪しいところがある。虚踊研究者のほぼ全員が、虚踊は人間の意識、特に目とものの関係によって起こるという点では一致している。この説が正しいとするならば、猫との間にも、木菟との間にも、虚踊が発生してしかるべきではないか。しかしこの反論は哀れな人間中心主義を引き摺っている。どうして猫の虚踊研究者や、木菟の虚踊研究者がいないなどと言い切れるのだろうか。ともあれ虚踊の研究はまだ端緒についたばかりであり、確言出来ることは少ない。最近は特に、鏡が虚踊を発生させる状況はありうるかという問題を巡り活発な研究がなされているようだ。虚踊が発生する理由についても、拙速な断言は避け、研究の進展を待つのが賢明であろう。

 さしあたり、夜に美味しい林檎を引き当てるという幸運に恵まれたのなら、パジャマを着たまま外に出て、タップダンスでもしながら、神を祝福してやるがよい。私も君の影で踊ることにする。